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今川義元と同じで最期が呆気なさすぎると評価にもメチャクチャ影響するのかね。真田幸村なんかはそれまで何してたかも分からんのに最期が派手なお陰で全国区の英雄だし。
後世の創作物の影響がでかいんじゃないかな物語に織田信長が登場すると、大抵、今川義元は油断してやられたクソザコ扱いやもんなあ
千寿王との合流があったとは言え、新田荘から僅かな手勢で挙兵して鎌倉本拠地を打ち破ったのはすごいこと。
野蛮な塑像が何とも言えない感じですねもしかして海を渡ったのですかね九郎も生まれ変わって大王に転生したとかいう伝説がありましたからね
そうですよね…多勢が六波羅に向かったとはいえ、武家の都・鎌倉本拠地の攻撃ですからね。よくやったと思いますよ。
同感ですよ。それだけに...。時折...。思い浮かんでしまうもの...。あの1991(平成3)年1月6日から12月8日まで全49回放送...。吉川英治『私本太平記』原作.池端俊策チーフ脚本.佐藤幹夫チーフ演出.NHK大河ドラマ第29作目『太平記』を...。本当にここまで...。いろいろな成り行きがあったからこそ...。さかのぼる2月12日日曜日放送.第7回「悲恋」中盤前後...。足利邸を後にするショーケンこと萩原健一演じる新田義貞と、所用から戻った主人公・足利高氏(のちの尊氏)[ 真田広之 ]...。束の間のやりとりと別れ...。となったものの...。当時の持病だった真珠腫性中耳炎悪化による、ショーケン途中降板...。その急場凌ぎとして...。あの1980(昭和55)年4月26日土曜日より公開。黒澤明監督. 黒澤明.井手雅人.共同脚本. 黒澤明.田中友幸.共同製作. フランシス・フォード・コッポラ. ジョージ・ルーカス. 外国版プロデューサー・東宝.20世紀フォックス.配給映画『影武者』での直接共演以来...。のちの映画やドラマの共演での親交を深めた根津甚八の代役抜擢...。1991(平成3)年4月21日日曜日放送...。『太平記』第16回「隠岐配流」...。久々の高氏との再会の義貞...。まさに、先の東北遠征での筆舌しがたい辛苦あっての、違和感ないままで...。こうして迎えることになった...。あの5月26日日曜日放送...。第21回「京都攻略」中盤...。高氏率いる軍勢の京都・六波羅探題陥落の反面...。軍勢集結難儀あっての不安ながら...。幕府使者斬り捨ての勢いのまま...。新田義貞...。上野国・生品神社での、見切り発車同然の軍勢挙兵...。途上にて、高氏嫡男・千寿王(のちの義詮)を"錦の御旗"としての軍勢増強...。この苦悩と葛藤ながらの進撃を経て...。続いての6月2日日曜日放送...。第22回「鎌倉炎上」...。新田義貞率いる軍勢が、鎌倉幕府第14代執権・北条高時(片岡鶴太郎)総大将の鎌倉攻めの決定打...。あの"決定的瞬間"に至るまで...。つい二人を重ね合わせるかのような不可思議な夢見心地に...。ショーケンが「狂信」ならば...。根津甚八は「実直」...。といったところかも...。
1991(平成3)年6月9日日曜日放送...。第29作目『太平記』第23回「凱旋」...。さる1333年6月11日(元弘3年5月22日)...。鎌倉陥落となっての鎌倉幕府滅亡...。となったものの...。無情にも、鎌倉では...。千寿王の名の下の集結との足利方に与する勢力...。元来の無位無官(一説では、かの鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に側女を差し出さなかったゆえの冷遇???)新田方に与する勢力...。微妙な軋轢の絶えないままの統治体制...。高氏正室・登子(沢口靖子)...。新田家重臣・岩松経家(赤塚真人)...。双方からので執り成しでの辛うじて均衡も虚しく...。7月28日日曜日放送...。第30回「悲劇の皇子」...。かの北条高時遺児・時行挙兵...。中先代の乱勃発...。1335年8月11日(建武2年7月22日)...。岩松経家、参戦早々討死...。完全均衡崩壊...。となってしまったのでしょうね。
新田の友達です
楠木正成ほどの戦の才はなかったけど負けても負けても安易に玉砕さず何度でも戦い続けるのはすごい好感持てる。これだけの大軍を何度も率いて戦えたのはそれなりに人望もあったんだろうし。楠木、足利、北畠が異常に強すぎるから霞むのは残念😢
それに加えて上にいるのが後醍醐天皇と言うのは、とてもやりにくかったでしょうね。ただ、「忠臣とは無能な上司がいるほど輝くものだ」という老荘思想によれば、新田義貞はまごう事無き忠臣と言えるでしょう。
最後は流れ矢に眉間を撃ち抜かれて死亡は平将門、木曾義仲と一緒なんだよなぁ、有名な武将の最後があまりにも被りすぎてて当時の確かな資料が残ってないのだろうね。
誤解されそうなのが一点あるので一言。福山って出てくるけど、備中福山で今の倉敷の北、総社の南にある。備後の福山は江戸時代初期に水野勝成がやって来て、蝙蝠山と呼ばれていたのを改名したから、尊氏の時代には存在しない。
後醍醐天皇が義貞に秘密で尊氏と和睦しようとしたとき、新田は一族132名、郎従8000人が死んでるってwikiにあって、あまりにも可哀想すぎた
そもそも尊氏も後醍醐と戦う気が殆どなかったというただ新田にとっては挙兵から今に至るまで多くの一族郎党が死んでいるのと今更足利と和睦はプライドが許さなかったのでしょうね
国政に無知な後醍醐天皇や公家達の政略に利用され、踊らされた武将。尊氏も含め、洗練された都や朝廷の雅に憧れて進路を見誤った感がある。
尊氏は北条高時の命令で討幕軍を討つために京都へ出立する時に、既に心の中では北条へ反旗を翻す決心をしてたので、鎌倉に残した千寿王(義詮)を守るために信頼できる部下をある程度鎌倉に残していたと考えられ、彼らが千寿王を連れて義貞軍に合流してから義貞の鎌倉攻めを補佐していたと考えられるんですよね。義貞の鎌倉攻めがすんなり成功したのはそういう要因もあったと思われます。
分倍河原の駅前に銅像があるよ(1980年代にできたものだけど)新田義貞の鎌倉討伐は義貞の功だけど千寿王がいたために世間の評価?が足利氏の手柄にされたのが可哀そう(当時の評価はわからないけど)稲村ヶ崎突破など見せるべきところはある。義貞の評価が低いのは、播磨攻めの際に勾当内侍との恋愛により追撃が遅れた事や正成が義貞をきって尊氏と結ぶべきという進言等であるが、いずれも太平記や梅松論での記載で本当のところは分からない。播磨城攻めの失敗は関東で野戦ばかり経験してきた義貞には厳しかったんだと思う。考えてみれば九州の御家人以外は承久の乱以外戦から遠ざかっており楠木正成以外は皆戦下手だと思う。義貞は政治能力はなく尊氏の対抗として持ち上げられたのはいい迷惑だったかもでも新田一族の南朝への忠義心は評価されるべき
その他の軍記物だったら尊氏と並ぶ名将って書かれてたりしてるみたいですし、忠義心だけ見れば一貫したものはありますよね!
足利千寿王がいたから他の御家人の参加が増えたのでは?新田単独で鎌倉を落とす程の御家人が集まったとは思えないんだけどただ名将だったのは間違いない鎌倉攻めの時点では名声と知名度が足りなかっただけです
@@ハネ虎 世間的にはそう言われていたけど。当時4歳?だった義詮に恩賞の評価なんかできないだろうし、所謂、勝馬に乗り恩賞に預かりたい関東の武将が加勢したのでしょう。また、鎌倉を落としたのはいいけど、各武将が勝手にしてたので上京が遅れたっても言われてるし。
@@仁志飯野当時では新田は足利の郎党扱いだったので新田単独では本当に兵が集まらずに鎌倉からの派遣軍にやられた可能性はあるでしょう
♪七里ガ浜の 磯づたい稲村ヶ崎 名将の剣投ぜし 古戦場
グンマー人なら誰もが名前だけは知ってる人ですね(上毛カルタの「れ」担当)
ナポレオンの義弟のミュラや呂布のように指揮官下の部隊長としては優秀なイメージがある。良くも悪くも勇猛
どうも、味方にも少し報われて無い扱い受けている印象の人です。気の毒です。
新田義貞は軍記物(物語)である太平記では潮が引いた稲村ヶ崎から鎌倉に攻め入ったことになってますが、実際は極楽寺付近の丘陵地を越えて鎌倉に攻め入ったことが分かってます。新田氏は初代義重が源頼朝に冷遇されたのに加え、2代義兼が幕府の許可無く勝手に出家して所領を減らされ、さらに勢力を落としています。ただし初代義重は長生きだったこともあり、御門葉からは外されたとはいえ、源氏の重鎮として見られていた様です。
長崎円喜「(新田の軍勢が)数万?あの貧乏御家人の新田が?皆、頭がどうかしておるのではないか?」
太平記の名場面ですね
千寿王(のちの足利義詮)も一緒にいた
多くても千、二千じゃろと思いっきりバカにされてましたねまあ本当に単独なら多くてもそれくらいだったでしょう
@@sugisinfkkそもそも当時は鎌倉に人質同然だったので鎌倉から逃げ出してたのを知らなかった可能性も
その場面は最高に面白かった。
名前を間違えられた書類があるんだっけか(新田貞義)
名前どころか出自さえ足利一門だと思われてた記述があるくらいですからね。それだけ何者かよくわからない存在だったのでしょうね。
実力以上に〜と言われると実力が無いような表現になってしまうけど、個の力では最強クラスの武将では。新田側にも高師直みたいなヤベー奴が何人か居たら勝てたかも。
・・・楠木正成以外の武将の最後って、知らないことが多すぎ
新田義貞や北畠顕家はまだいい方で名和長年や千種忠顕なんかはいつの間にか戦死しましたの扱い
名将なのは確かだけど、後醍醐天皇に付いた時点で死亡フラグ
良くも悪くも真面目な優等生って感じ。真っ向勝負の戦は勝つし、源平合戦の時代なら名将だったろうが南北朝を生き残るにはダーティさが全く足りない印象。
今でこそ評価の低い義貞ですが戦前は忠臣として認められていて私の家系は新田に縁があり太田在なんでよそにいっても優遇され逆に足利の人はいやがられたそうです。なにせ尊氏は日本三悪人といわれてましたからねぇ。
改めて思うけど、尊氏が守った側の天皇家が、現在の皇室なのに、そっちが逆賊って、実に奇妙。自分達の先祖の方を「偽物」だったとし、「あんな偽物を崇めてんじゃねぇよ逆賊!」って言っている訳だから。
太田市旧新田町の在でした。戦前の新田氏厚遇は徳川光圀(水戸黄門)が始めた『大日本史』編纂が幕末に尊王思想の水戸学に結実し、倒幕・明治政府の流れとなっていたから。同書は朱子学の大義名分論で歴代天皇と后・臣下を列伝式に論じたので南朝正統・楠忠臣・尊氏悪人となった。義貞は南朝一筋で鎌倉の攻略者、血筋は清和源氏で徳川氏の祖です。薄くしようがないです。ただし、私が解せないのは東京都府中市の義貞の騎馬像。なぜ1980年代に作製したの? 分倍河原の合戦地跡とはいえ2回戦い、初戦は新田が敗れて敗走時に武蔵国分寺に火をかけたとか。2戦目は北条方が敗れて鎌倉攻防戦となる。新田の領地でなければ日本史上の大合戦場でもない。バブルに向かう好景気の時代、競馬場の利益を銅像に充てたのか!? 義貞が挙兵した新田町の生品神社は国指定史跡で、その義貞像の大きさは幼稚園児ほどの体高でした。両像ともネットで見られます。
❓️の人!❓️の人じゃないか!!
バカ殿やめろ
それな😂
新田姓唯一の有名人よな
最後はいきなりって言ってるけど、年齢を考えたら諦める気もしなくないよね。
南朝の戦上手枠…なんだけどねー
伯父さんマジで重要人物やったんやな
尊氏が部下集めが異常に上手いだけで義貞は寡兵ながら良く戦って居る先ず兵力が同等以上なら負けてないのが証拠
新田一門は総領の義貞自体が足利一門と違い無位無冠ですからね…同族の山名・岩松らが足利一門に組み込まれたがった気持ちはわかるな。貧乏御家人と揶揄された新田一門…それを考えれば鎌倉陥落は十分すぎるほどの戦績だったと思う。
先祖が勝手に出家したり、大事な戦で親族だけ送ったりとやらかしまくったからね分家である山名里見の方が有力御家人になってるという悲しさ無位無冠すぎて足利の保護下になってる始末、義貞の義だって尊氏の兄貴の高義から貰ってるやつだし
勾当内侍が出て来なかったのはちょっと拍子抜けしたかな?まあそれだけ、恋愛関係どころか実在すら疑わしい人物なわけですね。
尊氏視点でも鎌倉幕府視点でも必ず悪役扱いになる人というか、創作とはでは必ず悪役の気がする
金ヶ崎城で親王を見殺しにした説あるけど、義貞の性格からしてそれは無いでしょう。城外で戦ってて知らなかった説に一票
それはそれで相当な無能になるけどな
この解説聞いてると割と逃げ上手の新田君な気もする
小生が読んだゲームの本には「楠木正成の不幸は新田義貞という無能な武将をパートナーに持った事である」という身も蓋も無い表現で書かれていました(笑)。
シミュレーション
@@幸田博明 ごめんなさい
新田一門の金谷家の子孫です。先祖は、伊予国に落ち延び、四万十川の上流に隠れ住んできました。先祖がこんなに何とも言えない無念な感じだったとは。。大変だったんだなー。
愛媛に住んでいる末裔です
河内源氏の名門ですね。
尊氏が意味不明な強さの男だからな、普通の人にはきつかっただろう。
なんか巨人軍の長嶋茂雄さんが足利尊氏っぽい気がする。
福井に新田塚ってあるけど義貞自体はそこまで有名じゃないかも
稲村ヶ崎にある義貞像と記念撮影してきたよ❤
そもそも新田氏は鎌倉末期には足利一門だし、新田氏が鎌倉を陥落させたんじゃなくて、千寿王の軍隊を一門の義貞が指揮していただけ。
義貞が陥落させたのは変わらんやんけ
それな
弟さんの子孫が会社員で居るが普通の人とは違うよ
まぁ私名字新田でぇーす
歴史上、前政権を倒したものが政権をとるのだが、後醍醐天皇にいいように使われて、挙げ句、晒し首になってしまうのが無情。
今川義元と同じで最期が呆気なさすぎると評価にもメチャクチャ影響するのかね。
真田幸村なんかはそれまで何してたかも分からんのに最期が派手なお陰で全国区の英雄だし。
後世の創作物の影響がでかいんじゃないかな
物語に織田信長が登場すると、大抵、今川義元は油断してやられたクソザコ扱いやもんなあ
千寿王との合流があったとは言え、新田荘から僅かな手勢で挙兵して鎌倉本拠地を打ち破ったのはすごいこと。
野蛮な塑像が何とも言えない感じですね
もしかして海を渡ったのですかね
九郎も生まれ変わって大王に転生したとかいう伝説がありましたからね
そうですよね…多勢が六波羅に向かったとはいえ、武家の都・鎌倉本拠地の攻撃ですからね。
よくやったと思いますよ。
同感ですよ。
それだけに...。
時折...。
思い浮かんでしまうもの...。
あの1991(平成3)年1月6日から12月8日まで全49回放送...。
吉川英治『私本太平記』原作.池端俊策チーフ脚本.佐藤幹夫チーフ演出.NHK大河ドラマ第29作目『太平記』を...。
本当にここまで...。
いろいろな成り行きがあったからこそ...。
さかのぼる2月12日日曜日放送.第7回「悲恋」中盤前後...。
足利邸を後にするショーケンこと萩原健一演じる新田義貞と、所用から戻った主人公・足利高氏(のちの尊氏)[ 真田広之 ]...。
束の間のやりとりと別れ...。
となったものの...。
当時の持病だった真珠腫性中耳炎悪化による、ショーケン途中降板...。
その急場凌ぎとして...。
あの1980(昭和55)年4月26日土曜日より公開。黒澤明監督. 黒澤明.井手雅人.共同脚本. 黒澤明.田中友幸.共同製作. フランシス・フォード・コッポラ. ジョージ・ルーカス. 外国版プロデューサー・東宝.20世紀フォックス.配給映画『影武者』での直接共演以来...。
のちの映画やドラマの共演での親交を深めた根津甚八の代役抜擢...。
1991(平成3)年4月21日日曜日放送...。
『太平記』第16回「隠岐配流」...。
久々の高氏との再会の義貞...。
まさに、先の東北遠征での筆舌しがたい辛苦あっての、違和感ないままで...。
こうして迎えることになった...。
あの5月26日日曜日放送...。
第21回「京都攻略」中盤...。
高氏率いる軍勢の京都・六波羅探題陥落の反面...。
軍勢集結難儀あっての不安ながら...。
幕府使者斬り捨ての勢いのまま...。
新田義貞...。
上野国・生品神社での、見切り発車同然の軍勢挙兵...。
途上にて、高氏嫡男・千寿王(のちの義詮)を"錦の御旗"としての軍勢増強...。
この苦悩と葛藤ながらの進撃を経て...。
続いての6月2日日曜日放送...。
第22回「鎌倉炎上」...。
新田義貞率いる軍勢が、鎌倉幕府第14代執権・北条高時(片岡鶴太郎)総大将の鎌倉攻めの決定打...。
あの"決定的瞬間"に至るまで...。
つい二人を重ね合わせるかのような不可思議な夢見心地に...。
ショーケンが「狂信」ならば...。
根津甚八は「実直」...。
といったところかも...。
1991(平成3)年6月9日日曜日放送...。
第29作目『太平記』第23回「凱旋」...。
さる1333年6月11日(元弘3年5月22日)...。
鎌倉陥落となっての鎌倉幕府滅亡...。
となったものの...。
無情にも、鎌倉では...。
千寿王の名の下の集結との足利方に与する勢力...。
元来の無位無官(一説では、かの鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に側女を差し出さなかったゆえの冷遇???)新田方に与する勢力...。
微妙な軋轢の絶えないままの統治体制...。
高氏正室・登子(沢口靖子)...。
新田家重臣・岩松経家(赤塚真人)...。
双方からので執り成しでの辛うじて均衡も虚しく...。
7月28日日曜日放送...。
第30回「悲劇の皇子」...。
かの北条高時遺児・時行挙兵...。
中先代の乱勃発...。
1335年8月11日(建武2年7月22日)...。
岩松経家、参戦早々討死...。
完全均衡崩壊...。
となってしまったのでしょうね。
新田の友達です
楠木正成ほどの戦の才はなかったけど負けても負けても安易に玉砕さず何度でも戦い続けるのはすごい好感持てる。これだけの大軍を何度も率いて戦えたのはそれなりに人望もあったんだろうし。楠木、足利、北畠が異常に強すぎるから霞むのは残念😢
それに加えて上にいるのが後醍醐天皇と言うのは、とてもやりにくかったでしょうね。
ただ、「忠臣とは無能な上司がいるほど輝くものだ」という老荘思想によれば、新田義貞はまごう事無き忠臣と言えるでしょう。
最後は流れ矢に眉間を撃ち抜かれて死亡は平将門、木曾義仲と一緒なんだよなぁ、有名な武将の最後があまりにも被りすぎてて当時の確かな資料が残ってないのだろうね。
誤解されそうなのが一点あるので一言。福山って出てくるけど、備中福山で今の倉敷の北、総社の南にある。備後の福山は江戸時代初期に水野勝成がやって来て、蝙蝠山と呼ばれていたのを改名したから、尊氏の時代には存在しない。
後醍醐天皇が義貞に秘密で尊氏と和睦しようとしたとき、新田は一族132名、郎従8000人が死んでるってwikiにあって、あまりにも可哀想すぎた
そもそも尊氏も後醍醐と戦う気が殆どなかったという
ただ新田にとっては挙兵から今に至るまで多くの一族郎党が死んでいるのと
今更足利と和睦はプライドが許さなかったのでしょうね
国政に無知な後醍醐天皇や公家達の政略に利用され、踊らされた武将。尊氏も含め、洗練された都や朝廷の雅に憧れて進路を見誤った感がある。
尊氏は北条高時の命令で討幕軍を討つために京都へ出立する時に、既に心の中では北条へ反旗を翻す決心をしてたので、
鎌倉に残した千寿王(義詮)を守るために信頼できる部下をある程度鎌倉に残していたと考えられ、彼らが千寿王を連れて
義貞軍に合流してから義貞の鎌倉攻めを補佐していたと考えられるんですよね。
義貞の鎌倉攻めがすんなり成功したのはそういう要因もあったと思われます。
分倍河原の駅前に銅像があるよ(1980年代にできたものだけど)
新田義貞の鎌倉討伐は義貞の功だけど千寿王がいたために世間の評価?が
足利氏の手柄にされたのが可哀そう(当時の評価はわからないけど)
稲村ヶ崎突破など見せるべきところはある。
義貞の評価が低いのは、播磨攻めの際に勾当内侍との恋愛により追撃が遅れた事や
正成が義貞をきって尊氏と結ぶべきという進言等であるが、いずれも太平記や
梅松論での記載で本当のところは分からない。播磨城攻めの失敗は関東で野戦
ばかり経験してきた義貞には厳しかったんだと思う。
考えてみれば九州の御家人以外は承久の乱以外戦から遠ざかっており楠木正成以外
は皆戦下手だと思う。
義貞は政治能力はなく尊氏の対抗として持ち上げられたのはいい迷惑だったかも
でも新田一族の南朝への忠義心は評価されるべき
その他の軍記物だったら尊氏と並ぶ名将って書かれてたりしてるみたいですし、忠義心だけ見れば一貫したものはありますよね!
足利千寿王がいたから他の御家人の参加が増えたのでは?
新田単独で鎌倉を落とす程の御家人が集まったとは思えないんだけど
ただ名将だったのは間違いない
鎌倉攻めの時点では名声と知名度が足りなかっただけです
@@ハネ虎 世間的にはそう言われていたけど。
当時4歳?だった義詮に恩賞の評価なんかできないだろうし、
所謂、勝馬に乗り恩賞に預かりたい関東の武将が加勢したのでしょう。
また、鎌倉を落としたのはいいけど、各武将が勝手にしてたので
上京が遅れたっても言われてるし。
@@仁志飯野
当時では新田は足利の郎党扱いだったので新田単独では本当に兵が集まらずに鎌倉からの派遣軍に
やられた可能性はあるでしょう
♪七里ガ浜の 磯づたい
稲村ヶ崎 名将の
剣投ぜし 古戦場
グンマー人なら誰もが名前だけは知ってる人ですね(上毛カルタの「れ」担当)
ナポレオンの義弟のミュラや呂布のように指揮官下の部隊長としては優秀なイメージがある。良くも悪くも勇猛
どうも、味方にも少し報われて無い扱い受けている印象の人です。気の毒です。
新田義貞は軍記物(物語)である太平記では潮が引いた稲村ヶ崎から鎌倉に攻め入ったことになってますが、実際は極楽寺付近の丘陵地を越えて鎌倉に攻め入ったことが分かってます。
新田氏は初代義重が源頼朝に冷遇されたのに加え、2代義兼が幕府の許可無く勝手に出家して所領を減らされ、さらに勢力を落としています。ただし初代義重は長生きだったこともあり、御門葉からは外されたとはいえ、源氏の重鎮として見られていた様です。
長崎円喜「(新田の軍勢が)数万?あの貧乏御家人の新田が?皆、頭がどうかしておるのではないか?」
太平記の名場面ですね
千寿王(のちの足利義詮)も一緒にいた
多くても千、二千じゃろと思いっきりバカにされてましたね
まあ本当に単独なら多くてもそれくらいだったでしょう
@@sugisinfkk
そもそも当時は鎌倉に人質同然だったので鎌倉から逃げ出してたのを知らなかった可能性も
その場面は最高に面白かった。
名前を間違えられた書類があるんだっけか
(新田貞義)
名前どころか出自さえ足利一門だと思われてた記述があるくらいですからね。
それだけ何者かよくわからない存在だったのでしょうね。
実力以上に〜と言われると実力が無いような表現になってしまうけど、個の力では最強クラスの武将では。
新田側にも高師直みたいなヤベー奴が何人か居たら勝てたかも。
・・・楠木正成以外の武将の最後って、知らないことが多すぎ
新田義貞や北畠顕家はまだいい方で名和長年や千種忠顕なんかはいつの間にか戦死しましたの扱い
名将なのは確かだけど、後醍醐天皇に付いた時点で死亡フラグ
良くも悪くも真面目な優等生って感じ。
真っ向勝負の戦は勝つし、源平合戦の時代なら名将だったろうが南北朝を生き残るにはダーティさが全く足りない印象。
今でこそ評価の低い義貞ですが戦前は忠臣として認められていて私の家系は新田に縁があり太田在なんでよそにいっても優遇され逆に足利の人はいやがられたそうです。なにせ尊氏は日本三悪人といわれてましたからねぇ。
改めて思うけど、
尊氏が守った側の天皇家が、現在の皇室なのに、
そっちが逆賊って、実に奇妙。
自分達の先祖の方を「偽物」だったとし、
「あんな偽物を崇めてんじゃねぇよ逆賊!」って言っている訳だから。
太田市旧新田町の在でした。戦前の新田氏厚遇は徳川光圀(水戸黄門)が始めた『大日本史』編纂が幕末に尊王思想の水戸学に結実し、倒幕・明治政府の流れとなっていたから。同書は朱子学の大義名分論で歴代天皇と后・臣下を列伝式に論じたので南朝正統・楠忠臣・尊氏悪人となった。義貞は南朝一筋で鎌倉の攻略者、血筋は清和源氏で徳川氏の祖です。薄くしようがないです。ただし、私が解せないのは東京都府中市の義貞の騎馬像。なぜ1980年代に作製したの? 分倍河原の合戦地跡とはいえ2回戦い、初戦は新田が敗れて敗走時に武蔵国分寺に火をかけたとか。2戦目は北条方が敗れて鎌倉攻防戦となる。新田の領地でなければ日本史上の大合戦場でもない。バブルに向かう好景気の時代、競馬場の利益を銅像に充てたのか!? 義貞が挙兵した新田町の生品神社は国指定史跡で、その義貞像の大きさは幼稚園児ほどの体高でした。両像ともネットで見られます。
❓️の人!❓️の人じゃないか!!
バカ殿やめろ
それな😂
新田姓唯一の有名人よな
最後はいきなりって言ってるけど、年齢を考えたら諦める気もしなくないよね。
南朝の戦上手枠…なんだけどねー
伯父さんマジで重要人物やったんやな
尊氏が部下集めが異常に上手いだけで義貞は寡兵ながら良く戦って居る
先ず兵力が同等以上なら負けてないのが証拠
新田一門は総領の義貞自体が足利一門と違い無位無冠ですからね…
同族の山名・岩松らが足利一門に組み込まれたがった気持ちはわかるな。
貧乏御家人と揶揄された新田一門…それを考えれば鎌倉陥落は十分すぎるほどの戦績だったと思う。
先祖が勝手に出家したり、大事な戦で親族だけ送ったりとやらかしまくったからね
分家である山名里見の方が有力御家人になってるという悲しさ
無位無冠すぎて足利の保護下になってる始末、義貞の義だって尊氏の兄貴の高義から
貰ってるやつだし
勾当内侍が出て来なかったのはちょっと拍子抜けしたかな?
まあそれだけ、恋愛関係どころか実在すら疑わしい人物なわけですね。
尊氏視点でも鎌倉幕府視点でも必ず悪役扱いになる人
というか、創作とはでは必ず悪役の気がする
金ヶ崎城で親王を見殺しにした説あるけど、義貞の性格からしてそれは無いでしょう。
城外で戦ってて知らなかった説に一票
それはそれで相当な無能になるけどな
この解説聞いてると割と逃げ上手の新田君な気もする
小生が読んだゲームの本には「楠木正成の不幸は新田義貞という無能な武将をパートナーに持った事である」という身も蓋も無い表現で書かれていました(笑)。
シミュレーション
@@幸田博明 ごめんなさい
新田一門の金谷家の子孫です。
先祖は、伊予国に落ち延び、四万十川の上流に隠れ住んできました。
先祖がこんなに何とも言えない無念な感じだったとは。。大変だったんだなー。
愛媛に住んでいる末裔です
河内源氏の名門ですね。
尊氏が意味不明な強さの男だからな、普通の人にはきつかっただろう。
なんか巨人軍の長嶋茂雄さんが足利尊氏っぽい気がする。
福井に新田塚ってあるけど義貞自体はそこまで有名じゃないかも
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義貞が陥落させたのは変わらんやんけ
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弟さんの子孫が会社員で居るが普通の人とは違うよ
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歴史上、前政権を倒したものが政権をとるのだが、後醍醐天皇にいいように使われて、挙げ句、晒し首になってしまうのが無情。