【ゆっくり解説】新田義貞『鎌倉幕府を滅ぼした英雄はなぜ滅亡してしまったのか』

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  • Опубліковано 5 січ 2025

КОМЕНТАРІ • 71

  • @nshizakyoshiaki
    @nshizakyoshiaki Місяць тому +19

    新田氏は清和源氏の嫡流としては足利氏より近いですが、新田が幕府から遠ざけられ、足利がその世話をするようにされたので序列がひっくり返ったのです。

    • @カンナ付きやよい-n8u
      @カンナ付きやよい-n8u Місяць тому +8

      新田氏は頼朝に煙たがるのは、「力」があったからと……………思います。隠れ新田武士は、上野と越後にいたしね。

    • @ドミニオンパワー
      @ドミニオンパワー Місяць тому +4

      頼朝時代に生きていた新田義重は源義家の孫で河内源氏の最長老で二代将軍源頼家の代に亡くなってる
      やはり、新田、足利の祖源義国嫡孫の新田は
      頼朝の鎌倉源家に一番警戒されてたかもね
      更に、足利義兼と頼朝の母親が藤原季範の娘で姉妹なんだよね?
      従って、新田氏より足利氏の方が早くから鎌倉頼朝に近侍して幕府に重んじられた差が後々まで新田氏が足利氏の後塵に埋もれたと言われてますね

  • @ヒストレイン
    @ヒストレイン Місяць тому +7

    大河ドラマ「太平記」で義貞の場面で流れた音楽🎵がすごく痺れて良かった。

    • @マヤ平
      @マヤ平 Місяць тому +4

      義貞役,一人二役でした

    • @ドミニオンパワー
      @ドミニオンパワー Місяць тому +4

      大河「太平記」の新田義貞は最初の萩原健一から途中交代で根津甚八
      イメージが変わってしまって・・・・
      どちらも良かったけれどね

    • @tetsushable
      @tetsushable 5 днів тому

      そうなんですよね。
      この年【2025(令和7)年】...。
      1月1日月曜日.元日.初詣.年賀.先勝...。
      となって...。
      奇しくも...。
      1月5日日曜日からは...。
      森下佳子脚本・NHK大河ドラマ第64作目『べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜』が放送開始...。
      1750年2月13日(寛延3年1月7日)から1797年5月31日(寛政9年5月6日)まで...。
      江戸時代中期後期活動.版元・蔦屋 重三郎(つたや じゅうざぶろう)...。
      すなわち「江戸のメディア王」はるかのちの「カルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社( Culture Convenience Club Co., Ltd. 略称:CCC )御先祖様???」の生涯...。
      ありとあらゆる立場ゆえに...。
      伝え方と印象、違ってしまうだけに...。
      思い切って、振り返ってみたくなってしまったもの...。
      (以降の大変長々とした文面で、失礼ではありますけど...。)
      さかのぼってみること...。
      あの1989年が明けて...。
      1月7日土曜日をもっての"昭和64年"すなわち「昭和時代」の終焉...。
      1月8日日曜日からの"平成元年"すなわち「平成時代」の幕開けから...。
      約2年後...。
      まだまだ、かの昭和時代の太平洋戦争当時の「皇国史観」の弊害の一端...。
      尾を引いてしまっている最中...。
      後醍醐天皇君臨の南朝を「正統」...。
      河内豪族.楠木正成を、時の帝・後醍醐天皇に捧げた「忠臣」「軍神」「英雄」...。
      主人公・室町幕府初代将軍.足利尊氏を、時の帝・後醍醐天皇に背いた「朝敵」「逆賊」「国賊」...。
      との見方の余波の下...。
      「本格的禁忌解禁第1作目」として...。
      あの1991(平成3)年1月6日から12月8日まで全49回放送...。
      吉川英治『私本太平記』原作.池端俊策チーフ脚本.佐藤幹夫チーフ演出.NHK大河ドラマ第29作目『太平記』...。
      本当にここまで...。
      いろいろな成り行きが...。
      じっくりとたどってみること...。
      2月12日日曜日放送.第7回「悲恋」中盤前後...。
      足利邸を後にするショーケンこと萩原健一演じる新田義貞と、所用から戻った主人公・足利高氏(のちの尊氏)[ 真田広之 ]...。
      束の間のやりとりと別れ...。
      となったものの...。
      当時の持病だった真珠腫性中耳炎悪化による、ショーケン途中降板...。
      その急場凌ぎとして...。
      あの1980(昭和55)年4月26日土曜日より公開。黒澤明監督. 黒澤明.井手雅人.共同脚本. 黒澤明.田中友幸.共同製作. フランシス・フォード・コッポラ. ジョージ・ルーカス. 外国版プロデューサー・東宝.20世紀フォックス.配給映画『影武者』での直接共演以来...。
      のちの映画やドラマの共演での親交を深めた根津甚八の代役抜擢...。
      1991(平成3)年4月21日日曜日放送...。
      『太平記』第16回「隠岐配流」...。
      久々の高氏との再会の義貞...。
      まさに、先の幕命での田畑売っての東北遠征ならではの筆舌しがたい辛苦あってか...。
      表情が変貌するほどの違和感ないままで...。
      こうして迎えることになった...。
      あの5月26日日曜日放送...。
      第21回「京都攻略」中盤...。
      高氏率いる軍勢の京都・六波羅探題陥落の反面...。
      軍勢集結難儀あっての不安ながら...。
      幕府使者斬り捨ての勢いのまま...。
      新田義貞...。
      上野国・生品明神での、見切り発車同然の軍勢挙兵...。
      途上にて、高氏嫡男・千寿王(のちの義詮)を"錦の御旗"としての軍勢増強...。
      この苦悩と葛藤ながらの進撃を経て...。
      続いての6月2日日曜日放送...。
      第22回「鎌倉炎上」...。
      新田義貞率いる軍勢が、鎌倉幕府第14代執権・北条高時(片岡鶴太郎)総大将の鎌倉攻めの決定打...。
      あの"決定的瞬間"に至るまで...。
      つい二人を重ね合わせるかのような不可思議な夢見心地に...。
      ショーケンが「狂信」ならば...。
      根津甚八は「実直」...。
      といったところかも...。

    • @tetsushable
      @tetsushable 5 днів тому

      こうして...。
      1991(平成3)年6月9日日曜日放送...。
      第29作目『太平記』第23回「凱旋」...。
      かの1333年6月11日(元弘3年5月22日)...。
      鎌倉陥落となっての鎌倉幕府滅亡...。
      となったものの...。
      無情にも、鎌倉では...。
      千寿王の名の下の集結との足利方に与する勢力...。
      元来の無位無官(一説では、かの鎌倉幕府初代将軍・源頼朝に側女を差し出さなかったゆえの冷遇???)新田方に与する勢力...。
      微妙な軋轢の絶えないままの統治体制...。
      高氏正室・登子(沢口靖子)...。
      新田家重臣・岩松経家(赤塚真人)...。
      双方からので執り成しでの辛うじて均衡も虚しく...。
      7月28日日曜日放送...。
      第30回「悲劇の皇子」...。
      かの北条高時遺児すなわち「逃げ上手の若君」こと時行挙兵...。
      中先代の乱勃発...。
      1335年8月11日(建武2年7月22日)...。
      岩松経家、参戦早々討死...。
      完全均衡崩壊...。
      となってしまったのでしょうね。
      以上...。
      大変長々と...。
      誠に失礼いたしました。

  • @マヤ平
    @マヤ平 Місяць тому +7

    新田義貞ってあの源義仲ぐらいの立ち位置に感じる

  • @satosin2660
    @satosin2660 Місяць тому +6

    後醍醐天皇からすれば、武士は家格の低い方が扱いやすかったんでしょうね。

  • @丸山康平-l2f
    @丸山康平-l2f 8 днів тому

    やはりれーしさんは脚本が上手い
    大の尊氏党ですが
    新田義貞に思いを馳せて少し
    ほろり😢と来ますた。
    後醍醐天皇の三英傑は皆悲劇的な
    最後なのでそれだけに美しく感じます

  • @shou-sho
    @shou-sho Місяць тому +8

    れ!! 歴史に名高い新田義貞!!!

    • @かたいあたま-t1t
      @かたいあたま-t1t Місяць тому +3

      群馬県民の多くは、新田義貞のこと歴史に名高いことしか知らないとか😅

  • @ぼんくら-l7g
    @ぼんくら-l7g Місяць тому +7

    個人的に良い武将だと思うんですけどね
    最後が賛否両論ありますが…
    逃げてたら逃げてたで色々書かれてそうですし
    最後を含めて新田義貞という人なのだと思いますね

  • @正木茂雄
    @正木茂雄 Місяць тому +7

    新田家してみれば「弟の家系の足利より兄の俺の方が嫡流なのに…」って思ってたけど、頼朝に嫌われ北条氏と有力な姻戚関係も築くことができなければ、どうにもならないね。政治力が足利氏に比べものにならない。足利氏も貴族化して後年哀れな存在に成り果てたけど。

  • @毛林眉真-q6z
    @毛林眉真-q6z Місяць тому +2

    鎌倉時代の新田氏は足利本家に従属していて、その庇護化にあったらしいからね。

  • @ソフィアソフィー
    @ソフィアソフィー Місяць тому +4

    鎌倉幕府倒したのに朝廷にうまく利用されてしまった

  • @Kaito5327
    @Kaito5327 Місяць тому +2

    私の父方の先祖を遡ると、鎌倉倒幕後に京都で新田義貞と知己になり、酒杯を交わして大いに意気投合したという伝承が残っている。

  • @hikaruhimekomamiko
    @hikaruhimekomamiko Місяць тому +2

    春日部氏は、新田義貞に敗れ春日部の地を追いやられた為に春日部は粕壁と字を変えた!

  • @ハルサミコス
    @ハルサミコス Місяць тому +5

    新田義貞の最後って太平記の平家物語の木曾義仲の最後オマージュなのかな?

  • @天笠-l5p
    @天笠-l5p Місяць тому +2

    それでも足利氏と争った時点で凄いと思う!
    傍流だとしても

  • @umakara55
    @umakara55 Місяць тому +21

    新田の家格云々よりも、足利の家格が突き抜けて高いんよ。家祖足利義兼は頼朝の挙兵直後から付き従っている御門葉の9家のなかのひとつだし、清和源氏で国司という確かな身分。しかも北条政子の妹を娶っている。その後もたびたび北条家と通婚し、家格の高くない北条家の「家格引き上げ役」として機能してる。まあ江戸時代の鷹司家みたいなもんだな。なので北条から排除されずに幕府滅亡まで残った。

    • @CHAOS-qs5py
      @CHAOS-qs5py Місяць тому

      いうなれば、足利家が本流中の本流でその他はカスみたいなもの。ならば、そのカスのさらに支流から名をもらってでっち上げた徳川家はカスが干からびてできた塵芥みたいなもんだな。それが260年以上続くんだから実に面白い。

  • @kumosukeponsuke
    @kumosukeponsuke Місяць тому +14

    都内多摩地区や埼玉の旧鎌倉街道沿いの寺社には新田・脇屋一族の伝承を持つ寺社や史跡が多いです。偶然見つけると思わずオースゲエと思ってしまいますw 血統的には色々ありますが、徳川が新田を尊重したことで、新田氏は今も語り継がれてるのかなと思います。分倍河原古戦場の石碑は子孫の男爵新田氏の筆によるものだそうです。

    • @カンナ付きやよい-n8u
      @カンナ付きやよい-n8u Місяць тому +3

      埼玉は、史跡へ行脚行きたいね。群馬には山名八幡へいきましたね。

    • @kumosukeponsuke
      @kumosukeponsuke Місяць тому +3

      @@カンナ付きやよい-n8u 思った以上にいいところ多いんですよ。いいですよね!

    • @torapeziumintheorion
      @torapeziumintheorion Місяць тому +5

      徳川氏は新田一族の「得川」の系統で有る。と名乗っていましたからね。
      本当かどうか判らないけれどw

    • @kumosukeponsuke
      @kumosukeponsuke Місяць тому +4

      @@torapeziumintheorion 歴史はどこか胡散臭さがあるのがまた歴史っぽいと思ってしまいますw

    • @torapeziumintheorion
      @torapeziumintheorion Місяць тому +2

      @@kumosukeponsuke
      「本当のところは誰にも判らない」って常套句ですねw
      それを議論するのもまた歴史の楽しさです。😋

  • @0721-b9f
    @0721-b9f Місяць тому +2

    新田義貞は源平合戦の都での粗野な印象を消した木曽義仲ポジの印象があります。当時の上司への不信感は共通していると思います。

  • @万能の変態
    @万能の変態 Місяць тому +2

    愛媛県に新田氏の一族が落ち延びたと聞いたら信じますか?

  • @shige9186
    @shige9186 Місяць тому +5

    太平記のコメディリリーフかな

  • @千里中央-p8z
    @千里中央-p8z Місяць тому +2

    23:11後醍醐天皇!お盛んですな!皇子が8人!

    • @memejiro7147
      @memejiro7147 Місяць тому +1

      ざーんねん! 皇子だけで48人だよw しかも
      長男は お兄さんの
      次男は お父さんの
      三男は お爺さんの嫁さんたちだよ(嫁さんたちは若いんだよ)

  • @my-eg8ge
    @my-eg8ge Місяць тому +6

    ある小説の中で正成の部下が「新田義貞という男、死ぬのを怖がっているのではありませんか?」と聞いたのに対して「いくさが下手なだけだ」と正成が答えてたのが印象的。正成は怖がならない人間は考えが浅くなるなると新田義貞を批判したわけで、実際の義貞も同じだったような気がする。

  • @カンナ付きやよい-n8u
    @カンナ付きやよい-n8u Місяць тому +5

    新田は、このあとの室町幕府崩壊のキーマンだったと思います。新田氏は足利一門で鎌倉陥落も尊氏が裏で手を回したのは、明らか日和見してた北関東勢もうごかした。ただ……………後醍醐天皇に付け込まれたのです。後白河マジックだね……………この策略……………繰り返すのね。

  • @かわら次郎
    @かわら次郎 Місяць тому +1

    新田義貞は誘き出されたんだろう。

  • @FREEDOM-vv3wu
    @FREEDOM-vv3wu Місяць тому +1

    せっかく、難攻不落の「鎌倉城」を陥落させたのに…

    • @nattousenbei
      @nattousenbei Місяць тому +1

      鎌倉はむしろ落ちたことしかないので

  • @tigerion9275
    @tigerion9275 Місяць тому +8

    楠木正成と北畠顕家が異常に過大評価されるせいで、新田義貞は割りを食いますよね。
    宮方の兵士の大半は新田義貞に従っていたのに。

  • @猫のダヤン
    @猫のダヤン Місяць тому +1

    北条を倒した後も黙って鎌倉にずっといればよかった

    • @nattousenbei
      @nattousenbei Місяць тому

      統治力0だし・・・・・・

    • @猫のダヤン
      @猫のダヤン Місяць тому +2

      @ 統治力がなかったか、
      義詮人気で。

  • @torapeziumintheorion
    @torapeziumintheorion Місяць тому +5

    足利氏の一門というのは違うと思う。
    新田氏は八幡太郎義家の子の義国の長男が開祖で有り、足利氏は次男の系統。
    丸に一引きが新田の家紋で、足利氏は二引きなので元々は新田の方が家格が上だった。
    頼朝挙兵の時の対応で入れ替わったと言われている。

    • @阿井上男-h9i
      @阿井上男-h9i Місяць тому +4

      家紋云々が何の根拠になるのかわからない

    • @国分大輔
      @国分大輔 Місяць тому +7

      最初は新田が足利を庇護する立場だったのが、新田義重がやらかしまくったから仕方ないよね。
      ただ、鎌倉時代には足利氏の一門って見られてたのは本当らしいけど。

    • @tigerion9275
      @tigerion9275 Місяць тому +3

      @@阿井上男-h9i
      家紋は出自を知る上で最重要資料ですね

    • @satosin2660
      @satosin2660 Місяць тому +5

      家の成立当初はともかく、この時代は『新田は足利の一門』という扱いだったのは間違いない。

    • @岩石紘太郎
      @岩石紘太郎 Місяць тому +3

      新田義貞の話なのに
      2・300年以上も前の新田と足利の成立期までさかのぼらないとマウントとれないのが終わってる
      新田義貞の時代の新田氏は足利の門閥だったって話だろ

  • @トッテナムサポネッツファン

    新田さん実はそこまですごくなかったと思うの俺だけですかね?もちろん後醍醐天皇の忠義は素晴らしいものがありますがイマイチっていうか…

    • @gionsyouji5831
      @gionsyouji5831 Місяць тому +2

      尊氏の配下のままでいれば全く違う人生になっただろうな

    • @tigerion9275
      @tigerion9275 Місяць тому +2

      なら楠木正成なんてもっとすごくないでしょうね

    • @カンナ付きやよい-n8u
      @カンナ付きやよい-n8u Місяць тому +1

      新田は、……………尊氏についても……………観応擾乱でポジションがきになる。

  • @nattousenbei
    @nattousenbei Місяць тому +1

    無位無官の田舎者だからなぁ・・・・・

  • @gionsyouji5831
    @gionsyouji5831 Місяць тому +2

    政治力は無いし、戦は下手で勝った試しがない。

    • @tigerion9275
      @tigerion9275 Місяць тому +3

      なぜ嘘をつくのですか?

    • @トッテナムサポネッツファン
      @トッテナムサポネッツファン Місяць тому +2

      けど南北朝時代後醍醐天皇の忠義だけであそこまで戦ったのは凄い

    • @nattousenbei
      @nattousenbei Місяць тому

      戦争に関しては尊氏にも師直にも何度も勝ってるんですが!!よりによって肝心なところで毎回負けてるのはそう

    • @satosin2660
      @satosin2660 Місяць тому

      誰の事?

    • @gionsyouji5831
      @gionsyouji5831 Місяць тому +1

      勝った試しが無いは言い過ぎだったかな。
      ほとんど勝ったことがないでいいかな?
      政治力ゼロは間違いないよね。