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良い人過ぎる良い人の最期。
武を恃むものは武によって滅ぶ
義貞は当時最高の武士だと思うただし戦術家タイプで高師直も同じようなタイプ戦略家の正成が居たからこその義貞が活躍できたとも思うんだけどね貴族中心の王政復古に拘泥した後醍醐や貴族に振り回された一生だった
新田義貞と足利尊氏の因縁が凄い
新田義貞は討ち取られ晒された首を見て京都の人々が涙したり、何なら敵側の足利尊氏も敬意を払って遺族に首を返還したりホントカッコいい武士だと思う。
「何故なら」の間違いではないでようか。
@@MON_MOSO_MON 草
太平記における新田義貞の最期は平家物語の「木曾最期」を、そしてその「木曾最期」は史記における項羽の最期の影響を受けていますね。余談ですが福井市にある新田義貞を祀る藤島神社の宮司は新田さんといいます。
新田義貞はまずまずの武将ではあるが、人望では足利尊氏に遙かに及ばなかった。楠木正成はこの辺りの状況は良く分っていただろう。南朝は公家も問題が多く、武将の足を引っ張ることもあり、総合力では幕府にとても勝てなかっただろう。
新田義貞公の子孫は多いですよね~結構、詳しく残ってるのにビックリでした。ありがとうございます。
ガチめの子孫です
江戸幕府開祖の新田氏は天皇家・五摂家に次ぐ名門
元を辿れば、源氏と同じ祖先。要は天皇家の傍流。
この辺りの地理はあまり知らなかったので非常にわかりやすかったです。新田戦死。。南朝は厳しくなりますね…
やっぱ太平記の世界は面白い🎉
後先考えずに戦火を広げた後醍醐天皇に忠義を尽くした武士が皆戦死して、更に新田義貞に活路を作るために土壇場で虚偽の証言をして、結果足利に毒殺されてしまう息子の恒良親王・・・。そして最後京都には帰れなかったけど、最後に天命を全うした後醍醐天皇が何とも言えないw
後先考えずに戦火を広げた後醍醐天皇後醍醐天皇が倒幕指令を出して全国の武士団を大集合させて建武の新政。でもその実態は頼朝以前の状態に戻すというもの。時代錯誤。源氏の名門足利氏の元に集った有力武士たち。義貞も正成も世の行く末は見えていた。それでも逃亡することなく戦って散った。
みんな振り回されてますよねw皇子も多いし 周りのメインキャストほとんどみんな早世したのに、不死身の天皇の一人ではなかろうかと
新田義貞と木曽義仲の最後が似てると思ったら項羽のオマージュだったとは知りませんでした。
ドラマでも見たけど源氏の御曹司らしい素晴らしい最期でした義貞を演じた甚八さん改めてかっこいい俳優さんです義貞役以外の甚八さん長さんの取調室シリーズの赤坂警部は義貞にも通じるところがある身を削って娘の仇を討った姿は帝のために命をささげた義貞と重なりますよ
同感です。それだけに、不意に思い出してしまうもの...。改めて、振り返ってみること...。あの1991(平成3)年2月17日日曜日放送・吉川英治原作・池端俊策脚本・NHK大河ドラマ『太平記』第7回「悲恋」中盤過ぎから...。夜の足利家館前にて...。真田広之演じる足利高氏(のちの足利尊氏)...。ショーケンこと萩原健一演じる新田義貞...。束の間のやりとり...。一時の別れをもって...。ショーケンの当時の持病・真珠腫性中耳炎悪化の途中降板となって...。4月21日日曜日放送・第16回「隠岐配流」より...。かねてよりショーケンと親交ある根津甚八演じる新田義貞初登場...。かの一時のフェードアウトから...。かの幕府の命での東北遠征における筆舌しがたい辛苦が滲み出ているかのような変貌ぶりから、違和感ないかのように突き付けられてしまうだけに...。これからの互いの行く末を暗示しているかのような予感のまま...。6月2日日曜日放送・第22回「鎌倉炎上」...。新田義貞率いる軍勢での鎌倉攻略...。それだけに、ふと妄想させられてしまうもの...。第7回終えての途中降板を余儀なくさせられてしまったショーケンの場合は「狂信」...。根津甚八の場合は「実直」...。といったところなのかもしれないや。特に、あの稲村ケ崎における「決定的瞬間」...。どちらが演じていたとしても、忘れられない名場面に...。もちろん、10月6日日曜日放送・第40回「義貞の最期」も...。かの「鎌倉炎上」に匹敵するくらい、忘れられない名場面に...。
南無八幡大菩薩ーー!
太平記では、新田義貞は、過小評価されているとか。気の毒です。犬死とか言われたらしい。
名前を間違えられていた人(新田貞義)
戦いの時のbgmの名前教えてください
まんが日本史では新田義貞は戦死したということになっているが、本当の死因は自害だったのか。
親王ポンポン殺す足利やべーよな
なんか時代に振り回された名称だったと思う。
名将
時代というか無能な後醍醐天皇に
勾当内侍は太平記以外には出てこないから創作説あるみたいですね…確かに内侍は公職なのに、一条家の姫君とはいわれているものの、どなたの姫か具体的によくわからないみたいですしね。。
ですよね…そもそも役職しかわからないでは、どうしようもないですよね。後醍醐の側近くに侍っていたのだから、それなりの家柄なのは間違い無いのでしょうが。
@@多羅尾伴内-g1c 京都の四条通に、蟷螂山町というのがありまして、そこは四条家の屋敷跡でした。四条隆資は高貴な公卿ながら、勇敢に御醍醐のために長く戦いましたが、足利と戦い、最後戦死します。この四条家の姫君が、御醍醐の内侍になり、戦乱の混乱で行方不明になりました。結果、四条家は全滅し、御所車だけが邸に残りました。この悲劇を悼み、町内ではそれを祇園祭で今でも祀っています。蟷螂山とよばれ、強敵に怯まぬ隆資の勇敢さをたとえたカマキリを乗せて巡行します。(同じ藤原氏系でも、一条・二条・九条家は明治まで関白や皇后を出し続けましたが、四条家は中世で絶えました。)どうやら、御醍醐の内侍としては、この女性の方が出身が確かなようです。
@@夕月夜-w1q 情報ありがとうございます。かなりお詳しい方なんですね。🤔そう考えるとなかなか感慨深いものがありますね。
@@多羅尾伴内-g1c とんでもない💦地元です。京都の祇園祭、ぜひお越しください^^
@@夕月夜-w1q 丁寧にありがとうございます。歴史好きの私にとって京都は憧れの場所なので機会を作りお邪魔したいと思います。今回は勉強になりました。
福井の新田塚と藤島神社に参拝しました
足羽(あすわ)→福井市
お薬の時間ですよー!は草
新田義貞すごいといいたけど、後醍醐帝から大将軍の栄誉を受けてそれを鼻にかけ、楠木正成・楠木正季を、お公家様侍と一緒になって責め立て、戦死を強要した事実は消えない足利尊氏は常に戦場の中心に弟直義を置いていたそれに対して新田義貞は弟脇屋義助を前線に投入する気もなく、楠木正成・正季兄弟に、自分たちが逃げるために死を強要したやはり天狗になっていたんだろうし、こういう大将からは、兵の気持ちは離れるに決まってる楠木正成・正季兄弟の千に満たない(700人と言われる)兵力での死を覚悟した、万余の足利直義軍(4万と言われる)に対する突撃とその最後は、後世の大阪夏の陣、寡兵で徳川家康本陣に突撃をかけた真田幸村を彷彿とさせる
湊川みたいな迎撃に適さない地で水陸両面の大軍を迎えたことが最大の敗因
大阪を包囲していた豊臣に大恩ある連中はどう思っていたんでしょ
Great UA-cam⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑『UA-cam高校』〈主催〉丸竹夷 様、貴重な講義を視聴させて頂き、誠にありがとうございました。映像も音質も素晴らしい内容でした💐以下のような〈参照図書〉も用意しました。A.佐藤進一『中公文庫 日本の歴史9』中央公論新社(平成17年)B.日本歴史学会〈編〉『日本史研究者辞典』吉川弘文館(平成11年)
正直申して狂気の後醍醐帝の野望のため南北朝の優秀な人材が山のように失くなっていく様は悲しく情けない思いばかりです..💢💢私の実家は清和源氏の家に村上源氏の武家化した久我家庶流が養子に入った家なので北畠、千種、足利、新田諸氏は私と血がつながっております☺️日本の中世から室町時代にそうした人々は後醍醐帝の一人のわがままや野望のために散っていったのです💢私は天皇家で南朝系は嫌いです💢💢顕家卿が討死する前にしたためた後醍醐帝宛の七か条に及ぶ談判書は顕家卿が勇気をふりしぼり書き記した心のこもったものであり。これが南北朝のいや南朝がいかにおかしい存在であったかを如実に示すものです💢
後醍醐帝とはなんと勝手な人何でしょ。。。自分の子供達が次々と亡くなっていくのに諦めて足利とじっくり話し合う方向にすれば楠木正成も新田義貞も惨めな亡くなり方もしなかったし、新しい政治を興す事も出来たのに。新田義貞が気の毒でなりません。浮き世離れした帝に振り回されて。。。
楠正成もそうですね…失礼ですが、田舎の純朴な武将を騙して…いや、なんでもないです。
徳川家康公のご先祖にあたるお方✨😳だそうですが😅
家康が自称してるだけで嘘っぽいですよ
そもそも家康が自称しているのは義貞ではなく先祖の新田義重‼
詐称将軍やで
足利尊氏がいなかったら義貞が武家の頭領担ってたかもしれないです彼と尊氏履いたハサミになっていたから不運でした
尊氏がいなかったらたぶん足利一門の棟梁は宗家の次の家格の斯波じゃないのかな。現に斯波に殺されてるしな
教科書には戦死したとしか書いてない人
172話のところだ
新田と楠木公は大好きだけど、後醍醐天皇はあまり好きになれない
ツネヨシ?
見事に戦ったご先祖様を誇りに思います。私も末裔の一人です。
伝説の域を出ない話ですが、自分も"原澤道長"の子孫の1人なので、間接的に新田義貞の末裔の1人です。
仮冒ですね。
南北時代って、戦 囯時代ですか?
後醍醐天皇はやる気満々、エネルギッシュなスポーツマンだった。おおぜいの愛人と王子たち。鎌倉幕府倒すため諸国の武士に集合令かけた。足利、新田、楠木、その他多数の武士団。
母方の家系図に、新田義貞の家臣、岡田貨幣義貞と記載されていたと、子どもの頃から聞かされていましたが…蔵に、弓や刀などなどがあったと言うので作り話しとも思えないのですが、歴史に興味がなかったので、詳細は、調べていません。騎乗にての、戦闘シーンは、見ているとめまいを起こすので、大嫌いです‼️今でも、中東では無意味な闘いが続いていますが…大義名分の元でも、人殺しです。戦などしないで、平和的解決は、出来なかったのでしょうか?墓にも這入れずに、無念な思いで、亡くなった兵士達は、成仏出来ているのでしょうか?
なんか死に様が無様過ぎる
良い人過ぎる良い人の最期。
武を恃むものは武によって滅ぶ
義貞は当時最高の武士だと思う
ただし戦術家タイプで高師直も同じようなタイプ
戦略家の正成が居たからこその義貞が活躍できたとも思うんだけどね
貴族中心の王政復古に拘泥した後醍醐や貴族に振り回された一生だった
新田義貞と足利尊氏の因縁が凄い
新田義貞は討ち取られ晒された首を見て京都の人々が涙したり、何なら敵側の足利尊氏も
敬意を払って遺族に首を返還したりホントカッコいい武士だと思う。
「何故なら」の間違いではないでようか。
@@MON_MOSO_MON 草
太平記における新田義貞の最期は平家物語の「木曾最期」を、そしてその「木曾最期」は史記における項羽の最期の影響を受けていますね。
余談ですが福井市にある新田義貞を祀る藤島神社の宮司は新田さんといいます。
新田義貞はまずまずの武将ではあるが、人望では足利尊氏に遙かに及ばなかった。楠木正成はこの辺りの状況は良く分っていただろう。南朝は公家も問題が多く、武将の足を引っ張ることもあり、総合力では幕府にとても勝てなかっただろう。
新田義貞公の子孫は
多いですよね~
結構、詳しく残ってるのにビックリでした。
ありがとうございます。
ガチめの子孫です
江戸幕府開祖の新田氏は天皇家・五摂家に次ぐ名門
元を辿れば、源氏と同じ祖先。要は天皇家の傍流。
この辺りの地理はあまり知らなかったので非常にわかりやすかったです。
新田戦死。。
南朝は厳しくなりますね…
やっぱ太平記の世界は面白い🎉
後先考えずに戦火を広げた後醍醐天皇に忠義を尽くした武士が皆戦死して、更に新田義貞に活路を作るために
土壇場で虚偽の証言をして、結果足利に毒殺されてしまう息子の恒良親王・・・。
そして最後京都には帰れなかったけど、最後に天命を全うした後醍醐天皇が何とも言えないw
後先考えずに戦火を広げた後醍醐天皇
後醍醐天皇が倒幕指令を出して全国の武士団を大集合させて建武の新政。
でもその実態は頼朝以前の状態に戻すというもの。
時代錯誤。
源氏の名門足利氏の元に集った有力武士たち。
義貞も正成も世の行く末は見えていた。
それでも逃亡することなく戦って散った。
みんな振り回されてますよねw皇子も多いし 周りのメインキャストほとんどみんな早世したのに、不死身の天皇の一人ではなかろうかと
新田義貞と木曽義仲の最後が似てると思ったら項羽のオマージュだったとは知りませんでした。
ドラマでも見たけど
源氏の御曹司らしい
素晴らしい最期でした
義貞を演じた甚八さん
改めてかっこいい俳優さんです
義貞役以外の甚八さん
長さんの取調室シリーズの
赤坂警部は義貞にも
通じるところがある
身を削って娘の仇を討った姿は
帝のために命をささげた義貞と
重なりますよ
同感です。
それだけに、不意に思い出してしまうもの...。
改めて、振り返ってみること...。
あの1991(平成3)年2月17日日曜日放送・吉川英治原作・池端俊策脚本・NHK大河ドラマ『太平記』第7回「悲恋」中盤過ぎから...。
夜の足利家館前にて...。
真田広之演じる足利高氏(のちの足利尊氏)...。
ショーケンこと萩原健一演じる新田義貞...。
束の間のやりとり...。
一時の別れをもって...。
ショーケンの当時の持病・真珠腫性中耳炎悪化の途中降板となって...。
4月21日日曜日放送・第16回「隠岐配流」より...。
かねてよりショーケンと親交ある根津甚八演じる新田義貞初登場...。
かの一時のフェードアウトから...。
かの幕府の命での東北遠征における筆舌しがたい辛苦が滲み出ているかのような変貌ぶりから、違和感ないかのように突き付けられてしまうだけに...。
これからの互いの行く末を暗示しているかのような予感のまま...。
6月2日日曜日放送・第22回「鎌倉炎上」...。
新田義貞率いる軍勢での鎌倉攻略...。
それだけに、ふと妄想させられてしまうもの...。
第7回終えての途中降板を余儀なくさせられてしまったショーケンの場合は「狂信」...。
根津甚八の場合は「実直」...。
といったところなのかもしれないや。
特に、あの稲村ケ崎における「決定的瞬間」...。
どちらが演じていたとしても、忘れられない名場面に...。
もちろん、10月6日日曜日放送・第40回「義貞の最期」も...。
かの「鎌倉炎上」に匹敵するくらい、忘れられない名場面に...。
南無八幡大菩薩ーー!
太平記では、新田義貞は、過小評価されているとか。気の毒です。犬死とか言われたらしい。
名前を間違えられていた人
(新田貞義)
戦いの時のbgmの名前教えてください
まんが日本史では新田義貞は戦死したということになっているが、本当の死因は自害だったのか。
親王ポンポン殺す足利やべーよな
なんか時代に振り回された名称だったと思う。
名将
時代というか無能な後醍醐天皇に
勾当内侍は太平記以外には出てこないから創作説あるみたいですね…確かに内侍は公職なのに、一条家の姫君とはいわれているものの、どなたの姫か具体的によくわからないみたいですしね。。
ですよね…そもそも役職しかわからないでは、どうしようもないですよね。
後醍醐の側近くに侍っていたのだから、それなりの家柄なのは間違い無いのでしょうが。
@@多羅尾伴内-g1c 京都の四条通に、蟷螂山町というのがありまして、そこは四条家の屋敷跡でした。四条隆資は高貴な公卿ながら、勇敢に御醍醐のために長く戦いましたが、足利と戦い、最後戦死します。この四条家の姫君が、御醍醐の内侍になり、戦乱の混乱で行方不明になりました。結果、四条家は全滅し、御所車だけが邸に残りました。この悲劇を悼み、町内ではそれを祇園祭で今でも祀っています。蟷螂山とよばれ、強敵に怯まぬ隆資の勇敢さをたとえたカマキリを乗せて巡行します。(同じ藤原氏系でも、一条・二条・九条家は明治まで関白や皇后を出し続けましたが、四条家は中世で絶えました。)どうやら、御醍醐の内侍としては、この女性の方が出身が確かなようです。
@@夕月夜-w1q
情報ありがとうございます。かなりお詳しい方なんですね。🤔
そう考えるとなかなか感慨深いものがありますね。
@@多羅尾伴内-g1c とんでもない💦地元です。京都の祇園祭、ぜひお越しください^^
@@夕月夜-w1q
丁寧にありがとうございます。
歴史好きの私にとって京都は憧れの場所なので機会を作りお邪魔したいと思います。
今回は勉強になりました。
福井の新田塚と藤島神社に参拝しました
足羽(あすわ)→福井市
お薬の時間ですよー!
は草
新田義貞すごい
といいたけど、後醍醐帝から大将軍の栄誉を受けてそれを鼻にかけ、楠木正成・楠木正季を、お公家様侍と一緒になって責め立て、戦死を強要した事実は消えない
足利尊氏は常に戦場の中心に弟直義を置いていた
それに対して新田義貞は弟脇屋義助を前線に投入する気もなく、楠木正成・正季兄弟に、自分たちが逃げるために死を強要した
やはり天狗になっていたんだろうし、こういう大将からは、兵の気持ちは離れるに決まってる
楠木正成・正季兄弟の千に満たない(700人と言われる)兵力での死を覚悟した、万余の足利直義軍(4万と言われる)に対する突撃とその最後は、後世の大阪夏の陣、寡兵で徳川家康本陣に突撃をかけた真田幸村を彷彿とさせる
湊川みたいな迎撃に適さない地で水陸両面の大軍を迎えたことが最大の敗因
大阪を包囲していた豊臣に大恩ある連中はどう思っていたんでしょ
Great UA-cam⛑Thank you Very Much⛑Muchísimas Gracias⛑
『UA-cam高校』〈主催〉丸竹夷 様、貴重な講義を視聴させて頂き、誠にありがとうございました。映像も音質も素晴らしい内容でした💐
以下のような〈参照図書〉も用意しました。
A.佐藤進一『中公文庫 日本の歴史9』中央公論新社(平成17年)
B.日本歴史学会〈編〉『日本史研究者辞典』吉川弘文館(平成11年)
正直申して狂気の後醍醐帝の野望のため南北朝の優秀な人材が山のように失くなっていく様は悲しく情けない思いばかりです..💢💢
私の実家は清和源氏の家に村上源氏の武家化した久我家庶流が養子に入った家なので北畠、千種、足利、新田諸氏は私と血がつながっております☺️
日本の中世から室町時代にそうした人々は後醍醐帝の一人のわがままや野望のために散っていったのです💢
私は天皇家で南朝系は嫌いです💢💢
顕家卿が討死する前にしたためた後醍醐帝宛の七か条に及ぶ談判書は顕家卿が勇気をふりしぼり書き記した心のこもったものであり。これが南北朝のいや南朝がいかにおかしい存在であったかを如実に示すものです💢
後醍醐帝とはなんと勝手な人何でしょ。。。自分の子供達が次々と亡くなっていくのに諦めて足利とじっくり話し合う方向にすれば楠木正成も新田義貞も惨めな亡くなり方もしなかったし、新しい政治を興す事も出来たのに。新田義貞が気の毒でなりません。浮き世離れした帝に振り回されて。。。
楠正成もそうですね…失礼ですが、田舎の純朴な武将を騙して…いや、なんでもないです。
徳川家康公のご先祖にあたるお方✨😳だそうですが😅
家康が自称してるだけで嘘っぽいですよ
そもそも家康が自称しているのは義貞ではなく先祖の新田義重‼
詐称将軍やで
足利尊氏がいなかったら義貞が武家の頭領担ってたかもしれないです彼と尊氏履いたハサミになっていたから不運でした
尊氏がいなかったらたぶん足利一門の棟梁は宗家の次の家格の斯波じゃないのかな。現に斯波に殺されてるしな
教科書には戦死したとしか書いてない人
172話のところだ
新田と楠木公は大好きだけど、後醍醐天皇はあまり好きになれない
ツネヨシ?
見事に戦ったご先祖様を誇りに思います。
私も末裔の一人です。
伝説の域を出ない話ですが、自分も"原澤道長"の子孫の1人なので、間接的に新田義貞の末裔の1人です。
仮冒ですね。
南北時代って、戦 囯時代ですか?
後醍醐天皇はやる気満々、エネルギッシュなスポーツマンだった。
おおぜいの愛人と王子たち。
鎌倉幕府倒すため諸国の武士に集合令かけた。
足利、新田、楠木、その他多数の武士団。
母方の家系図に、新田義貞の家臣、岡田貨幣義貞と記載されていたと、子どもの頃から聞かされていましたが…
蔵に、弓や刀などなどがあったと言うので
作り話しとも思えないのですが、歴史に興味がなかったので、詳細は、調べていません。
騎乗にての、戦闘シーンは、見ているとめまいを起こすので、大嫌いです‼️
今でも、中東では無意味な闘いが続いていますが…
大義名分の元でも、人殺しです。
戦などしないで、平和的解決は、出来なかったのでしょうか?
墓にも這入れずに、無念な思いで、亡くなった兵士達は、成仏出来ているのでしょうか?
なんか死に様が無様過ぎる