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楠木正成は戦術家としても優秀であるが、戦略家としての面が本当に凄い軍事政権である幕府に負けない戦いをすることにより、幕府の権威を失墜させ足利、新田らの反逆を誘発させる建武の新政の限界を見抜き足利と和睦すべきとの進言単なる戦術家の枠に収まらない戦略眼を持っている
そのキレッキレの戦略眼が災いして 後醍醐天皇に警戒されてしまう皮肉だよね「足利と組め 使者には自分が行く」と言ったと 梅松論にあるけど、足利にどんな提案をするのか? 使者ならある程度の政治的権限が必要だし その権限も欲しいと言ったはずだけど、政治は自分が決めたい後醍醐天皇は怒っただろうね独裁者は時に キレ者の部下を嫌うんだよ
足利尊氏将軍・楠木正成副将軍をみてみたかった。お互いに敬意を評し合い、理想的な関係が築けたかもしれない。
最近は正成、正行父子より正儀の方が好きになってきた
正儀は現実主義で北朝になった時期もあるそうですね。
@@二見裕司-r6t それを含めて彼の良さですよぬ
@@二見裕司-r6t正儀の行動こそ楠木氏本来の立ち位置ではないのか?と最近思うようになった!正成は後醍醐に義貞を排除して尊氏を召し出すように進言しているが、従来の皇国史観ならこんな事言わないだろ?
楠木氏の地元では正成を大河にするよう運動されているがむしろ正儀を主人公にした方が面白い😂
@@西尾誠司さま同感!正成は 足利との交渉で戦を避けて 後醍醐朝廷が生き延びる道を提案したんだと思う自分が使者になる、と言ったそうだけど、そこがミソで、使者なら ある程度の政治的権限が必要だし、交渉していくうちに 朝廷の政治方針の決定に関与する事になる正成は 挙兵の時から それ(中央政権進出)を狙ってたんだろうねでも、政治は自分がしたい後醍醐帝は 武士なんかに口出しさせたくないし またも両統迭立を言い出されたくないから、正成の案を蹴ったんだと思う正行の頃は ゴリゴリの南朝&公家ファーストの北畠親房がいて、武士はやっぱり 下僕扱いだった正成と正行・正時の3人が氏んで 南朝も弱体化して行く中で、残った正儀の時にやっと 交渉権(政治的権限)が与えられた…そんな流れだったと思うんだよね
尊氏「君は良い侍であったが、君の主君がいけないのだよ」
でもないな後醍醐もイメージ先行で嘗められている気がする英明でないなら隠岐から脱出はしない太平記にある通りだ安穏と暮らしたいだけなら配流先から抜ける必要はないな
えー元ネタわかってる人は多いのかなwその上で楠木正成とガルマはまるで違うと思うが
静岡市清水区には楠という地名があって、楠一族はそこの出だという話もありますね
燃えよ剣で近藤勇が楠木正成に心酔してたのが印象的でした。憧れるのも分かるような魅力的な人物ですね。
楠木正成の一生って「讒言もしてくれる有能な部下が居ても、トップがダメなら負ける」と言う話・訓戒でもあるんだよねそれを単純な忠臣話にしてしまったのが戦前日本
総力戦研究所が日本必敗と結論出したのにね…
おばかな上司 敵よりこわいって言うやつだよね
諫言じゃない?讒言に従ったら中国の悪い皇帝だよ
他の動画のコメントに尊氏「君は良き侍だが仕えた主君がいけないのだよ」と言うのがあった!
だから大河ドラマされていない!
仕事で神戸へ行った際、湊川神社へ一度参拝しましたが、菊水の紋が飾られており境内の一角には自害した場所もありました。
”散所の長者”って説もありますね。どちらにしても正規の武士でもないのにゲリラ戦や普通の合戦も当時の武家では圧倒的な戦略・戦術家負けるとわかってて桜井の別れで正行に勤王の意思を伝え、湊川に出陣した気持ちはどうだったんだろう。戦前には余りにも祭り上げられたのは泉下でどう思ったのだろうか?
大阪出身です。マジでヤバい方です。絶対に地上波では流せない。
河内の英雄
親戚から、ウチの父方の婆ちゃんが楠木正孝の系列だったって後から聞いて驚いた。だから婆ちゃんの家紋が菊水だったって親父から後から聞いた。
ご視聴ありがとうございます!!そうだったんですか!!まさかのΣ(・ω・ノ)ノ
「悪党」の語源と言われていたり、皇居外苑に石像が建てられていたり、かなり魅力的な偉人。
悪党とは体制に反抗して騒乱を起こした人もしくはその集合体という意味と私は解釈しているが、湊川神社の神職は悪人、悪漢、ならず者と思い込んでいてNHKの歴史番組で楠木一党を悪党と呼んだ事にお怒りだったらしいが勉強が足りないね😂
正成が暴れまわるずっと前から悪党は幕府の文書に出てくるんだが。
楠木正成の活躍で足利尊氏が4んだら日本の歴史はどうなったんだろう?後醍醐帝は武士の支持を失ったから騒乱になったし不満武士達も統率する人がいないし収拾のつかない終わりの無い時代が続いてしまう危険はなかったのかな?
大楠公として戦前に尊敬されてましたね
当の正成が知れば困惑する事間違いなし
天皇は神様であるぞ、という戦前の価値観にとって都合のいい人なんで徹底的に利用されている感がある残されている御本人の行動を見る限り、神様に祀られたりするのは名誉に思うより迷惑に思ってそうな・・・
神戸市民です。JR神戸駅の北側に「湊川神社」が有ります。そこに楠正成公が祀られて居ます。神社境内に水戸光國公が揮毫した「嗚呼 忠臣 楠氏 之 墓」の碑文が有ります。私達神戸市民はこの神社を「楠公さん」と呼んで居ます。この近くに瓦煎餅の 菊水本舗が有ります。名物土産の瓦煎餅には楠正成と子の正行の 「櫻井の別れ」の絵図の焼印が押されて居ます。楠正成は天皇陛下の為に尽くした忠臣として、戦前の軍国主義教育でプロバガンダ利用されて居ます。特攻隊の部隊にも菊水の紋の部隊が有ったと聴いて居ます。
是非一度行ってみたい(*´꒳`*)
平氏の霊とかきちんと弔ってますか?怨霊や悪霊がうようよしてるから不吉な事件が多発するんじゃないですか?
@@川端治雄 私の家の直ぐ近くが平 頼盛 さんの 山荘跡の御寺 宝地院さんです。この御寺では安徳天皇の菩提を弔っています。お越しになるには神戸市営地下鉄湊川公園から徒歩10分ほどです。私達 神戸市民は決して源氏にだけ 依怙贔屓していません。平 清盛 公は神戸の港湾開発を奨められた偉大な人です。
@@武田亥三男 怒りと恐怖で酷い事を申して済みません。須磨区のサカキバラや小学校の教師いじめ事件がトラウマに成ってまして。
その最期のインパクトがでかすぎて誤解されがちなのですが、楠木正成は本来現実的な戦略眼の持ち主でした。戦前の皇国史観ではその一面はほぼほぼ無視されていますけどね。まあ、そこを評価すると必然的に朝廷や後醍醐が無能だった事が明らかになるので出来なかったんでしょうな。
好きな偉人。楠木正成、真田幸村、土方歳三。皆、敗者だけど勝者以上に輝いている。
平禅門の乱で敗れた少弐景資もお忘れなく。
あと源義経も追加しておこう日本人は滅びの美学みたいの大好きだし、敗者に同情しやすいこれらの人の共通点として、軍記物などの創作物で盛られやすい
沖に流された後醍醐天皇が帰ってきて、流されてもいない足利尊氏が帰ってこないとか、マジ、ハンパねー楠木正成は実際えらいとは思うんだけど、後醍醐天皇なんかによくついていったなあ
尊氏は勝手に流れて後醍醐天皇方と戦うために帰ってきましたね!笑
ついて行く気がなくなったから 自害しちゃったんだよ正行くんに 朝廷の家臣の身分と 領地を確実に繋ぐ為に 命令に従ったんだと思うよ逆らってクビになったら 全部パーになっちゃうからね
源義経よりも有能そうな軍人である。
彼が健在だった頃はぞんざいに扱っていた癖に、かなり後世とはいえ、彼の死後は「大楠公」と祀り上げる朝臣共の掌返し全開のクソっぷりは実に素晴らしい!🤣
楠氏の本姓は橘氏戦国時代に子孫が織田信長に追われて、南会津に逃げて、橘に戻した。
南朝の金塊ってやつですかね〜
後醍醐天皇の夢の件、うっすらと楠木正成の事を耳にしていたから夢の意図を特定出来たのだと思いますよ。幕府が一枚岩でなかった点は相手が楠木正成だからこそメッキが剥がれたのだと思います。後醍醐天皇のみの戦いでは幕府の内情は白日の本に晒されていなかったはずです。
大楠公、楠氏の忠義河内千早の城
七生報国は弟の正季の言葉です。
蚊帳の中から、片足出して、楠木正成これにあり❗ ❔足、蚊が攻めるじゃないかい‼️
座布団一枚でいいのかな?😅
楠木正成はやはり戦術家であって優れた戦略家ではなかったと思う。後醍醐天皇個人を崇拝する一領主に過ぎなかったため取りうる戦略に自ずと限界があった。その限界を知りながらあくまで筋を通した正成は忠義者であれど優れた戦略化として評価されるべきではない。
戦略というのは 最終的に目的を達成する為に構築していくものなので、「討幕」が成功したんだから 彼は 戦略家と言えると思うけどね湊川の時も ちゃんと立案して 献策もしているけどおばかな上司 敵よりこわい、ってやつで 却下おじゃ したのは 執行部だよ
ーコメ楠木正成
なごえじゃないの?
楠木正成は戦術家としても優秀であるが、戦略家としての面が本当に凄い
軍事政権である幕府に負けない戦いをすることにより、幕府の権威を失墜させ足利、新田らの反逆を誘発させる
建武の新政の限界を見抜き足利と和睦すべきとの進言
単なる戦術家の枠に収まらない戦略眼を持っている
そのキレッキレの戦略眼が災いして 後醍醐天皇に警戒されてしまう
皮肉だよね
「足利と組め 使者には自分が行く」と言ったと 梅松論にあるけど、足利にどんな提案をするのか? 使者ならある程度の政治的権限が必要だし その権限も欲しいと言ったはずだけど、政治は自分が決めたい後醍醐天皇は怒っただろうね
独裁者は時に キレ者の部下を嫌うんだよ
足利尊氏将軍・楠木正成副将軍を
みてみたかった。
お互いに敬意を評し合い、
理想的な関係が築けたかもしれない。
最近は正成、正行父子より正儀の方が好きになってきた
正儀は現実主義で北朝になった時期もあるそうですね。
@@二見裕司-r6t それを含めて彼の良さですよぬ
@@二見裕司-r6t正儀の行動こそ楠木氏本来の立ち位置ではないのか?と最近思うようになった!正成は後醍醐に義貞を排除して尊氏を召し出すように進言しているが、従来の皇国史観ならこんな事言わないだろ?
楠木氏の地元では正成を大河にするよう運動されているがむしろ正儀を主人公にした方が面白い😂
@@西尾誠司さま
同感!
正成は 足利との交渉で戦を避けて 後醍醐朝廷が生き延びる道を提案したんだと思う
自分が使者になる、と言ったそうだけど、そこがミソで、使者なら ある程度の政治的権限が必要だし、交渉していくうちに 朝廷の政治方針の決定に関与する事になる
正成は 挙兵の時から それ(中央政権進出)を狙ってたんだろうね
でも、政治は自分がしたい後醍醐帝は 武士なんかに口出しさせたくないし またも両統迭立を言い出されたくないから、正成の案を蹴ったんだと思う
正行の頃は ゴリゴリの南朝&公家ファーストの北畠親房がいて、武士はやっぱり 下僕扱いだった
正成と正行・正時の3人が氏んで 南朝も弱体化して行く中で、残った正儀の時にやっと 交渉権(政治的権限)が与えられた…
そんな流れだったと思うんだよね
尊氏「君は良い侍であったが、君の主君がいけないのだよ」
でもないな
後醍醐もイメージ先行で嘗められている気がする
英明でないなら隠岐から脱出はしない
太平記にある通りだ
安穏と暮らしたいだけなら
配流先から抜ける必要はないな
えー元ネタわかってる人は多いのかなw
その上で楠木正成とガルマはまるで違うと思うが
静岡市清水区には楠という地名があって、楠一族はそこの出だという話もありますね
燃えよ剣で近藤勇が楠木正成に心酔してたのが印象的でした。憧れるのも分かるような魅力的な人物ですね。
楠木正成の一生って「讒言もしてくれる有能な部下が居ても、トップがダメなら負ける」と言う話・訓戒でもあるんだよね
それを単純な忠臣話にしてしまったのが戦前日本
総力戦研究所が日本必敗と結論出したのにね…
おばかな上司 敵よりこわい
って言うやつだよね
諫言じゃない?讒言に従ったら中国の悪い皇帝だよ
他の動画のコメントに尊氏「君は良き侍だが仕えた主君がいけないのだよ」と言うのがあった!
だから大河ドラマされていない!
仕事で神戸へ行った際、湊川神社へ一度参拝しましたが、菊水の紋が飾られており境内の一角には自害した場所もありました。
”散所の長者”って説もありますね。どちらにしても正規の武士でもないのに
ゲリラ戦や普通の合戦も当時の武家では圧倒的な戦略・戦術家
負けるとわかってて桜井の別れで正行に勤王の意思を伝え、湊川に出陣
した気持ちはどうだったんだろう。
戦前には余りにも祭り上げられたのは泉下でどう思ったのだろうか?
大阪出身です。
マジでヤバい方です。
絶対に地上波では流せない。
河内の英雄
親戚から、ウチの父方の婆ちゃんが楠木正孝の系列だったって後から聞いて驚いた。
だから婆ちゃんの家紋が菊水だったって親父から後から聞いた。
ご視聴ありがとうございます!!
そうだったんですか!!
まさかのΣ(・ω・ノ)ノ
「悪党」の語源と言われていたり、皇居外苑に石像が建てられていたり、かなり魅力的な偉人。
悪党とは体制に反抗して騒乱を起こした人もしくはその集合体という意味と私は解釈しているが、湊川神社の神職は悪人、悪漢、ならず者と思い込んでいてNHKの歴史番組で楠木一党を悪党と呼んだ事にお怒りだったらしいが勉強が足りないね😂
正成が暴れまわるずっと前から悪党は幕府の文書に出てくるんだが。
楠木正成の活躍で足利尊氏が4んだら日本の歴史はどうなったんだろう?
後醍醐帝は武士の支持を失ったから騒乱になったし不満武士達も統率する人がいないし収拾のつかない終わりの無い時代が続いてしまう危険はなかったのかな?
大楠公として戦前に尊敬されてましたね
当の正成が知れば困惑する事間違いなし
天皇は神様であるぞ、という戦前の価値観にとって都合のいい人なんで徹底的に利用されている感がある
残されている御本人の行動を見る限り、神様に祀られたりするのは名誉に思うより迷惑に思ってそうな・・・
神戸市民です。JR神戸駅の北側に「湊川神社」が有ります。そこに楠正成公が祀られて居ます。神社境内に水戸光國公が揮毫した「嗚呼 忠臣 楠氏 之 墓」の碑文が有ります。私達神戸市民はこの神社を「楠公さん」と呼んで居ます。この近くに瓦煎餅の 菊水本舗が有ります。名物土産の瓦煎餅には楠正成と子の正行の 「櫻井の別れ」の絵図の焼印が押されて居ます。楠正成は
天皇陛下の為に尽くした忠臣として、戦前の軍国主義教育でプロバガンダ利用されて居ます。特攻隊の部隊にも菊水の紋の部隊が有ったと聴いて居ます。
是非一度行ってみたい(*´꒳`*)
平氏の霊とかきちんと弔ってますか?怨霊や悪霊がうようよしてるから不吉な事件が多発するんじゃないですか?
@@川端治雄
私の家の直ぐ近くが
平 頼盛 さんの 山荘跡
の御寺 宝地院さんです。
この御寺では安徳天皇の菩提を弔っています。お越しになるには神戸市営地下鉄
湊川公園から徒歩10分ほどです。私達 神戸市民は
決して源氏にだけ 依怙贔屓していません。平 清盛 公
は神戸の港湾開発を奨められた偉大な人です。
@@武田亥三男 怒りと恐怖で酷い事を申して済みません。須磨区のサカキバラや小学校の教師いじめ事件がトラウマに成ってまして。
その最期のインパクトがでかすぎて誤解されがちなのですが、楠木正成は本来現実的な戦略眼の持ち主でした。
戦前の皇国史観ではその一面はほぼほぼ無視されていますけどね。
まあ、そこを評価すると必然的に朝廷や後醍醐が無能だった事が明らかになるので出来なかったんでしょうな。
好きな偉人。楠木正成、真田幸村、土方歳三。
皆、敗者だけど勝者以上に輝いている。
平禅門の乱で敗れた少弐景資もお忘れなく。
あと源義経も追加しておこう
日本人は滅びの美学みたいの大好きだし、敗者に同情しやすい
これらの人の共通点として、軍記物などの創作物で盛られやすい
沖に流された後醍醐天皇が帰ってきて、流されてもいない足利尊氏が帰ってこないとか、マジ、ハンパねー
楠木正成は実際えらいとは思うんだけど、後醍醐天皇なんかによくついていったなあ
尊氏は勝手に流れて後醍醐天皇方と戦うために帰ってきましたね!笑
ついて行く気がなくなったから 自害しちゃったんだよ
正行くんに 朝廷の家臣の身分と 領地を確実に繋ぐ為に 命令に従ったんだと思うよ
逆らってクビになったら 全部パーになっちゃうからね
源義経よりも有能そうな軍人である。
彼が健在だった頃はぞんざいに扱っていた癖に、かなり後世とはいえ、彼の死後は「大楠公」と祀り上げる朝臣共の掌返し全開のクソっぷりは実に素晴らしい!🤣
楠氏の本姓は橘氏
戦国時代に子孫が織田信長に追われて、南会津に逃げて、橘に戻した。
南朝の金塊ってやつですかね〜
後醍醐天皇の夢の件、うっすらと楠木正成の事を耳にしていたから夢の意図を特定出来たのだと思いますよ。
幕府が一枚岩でなかった点は相手が楠木正成だからこそメッキが剥がれたのだと思います。後醍醐天皇のみの戦いでは幕府の内情は白日の本に晒されていなかったはずです。
大楠公、楠氏の忠義
河内千早の城
七生報国は弟の正季の言葉です。
蚊帳の中から、片足出して、
楠木正成これにあり❗
❔
足、蚊が攻める
じゃないかい‼️
座布団一枚でいいのかな?😅
楠木正成はやはり戦術家であって優れた戦略家ではなかったと思う。後醍醐天皇個人を崇拝する一領主に過ぎなかったため取りうる戦略に自ずと限界があった。その限界を知りながらあくまで筋を通した正成は忠義者であれど優れた戦略化として評価されるべきではない。
戦略というのは 最終的に目的を達成する為に構築していくものなので、「討幕」が成功したんだから 彼は 戦略家と言えると思うけどね
湊川の時も ちゃんと立案して 献策もしているけど
おばかな上司 敵よりこわい、ってやつで 却下おじゃ したのは 執行部だよ
ーコメ楠木正成
なごえじゃないの?