【第4回:臨済録に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2023年10月10日(火)

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  • Опубліковано 16 гру 2024
  • 「建学の精神」である禅仏教による人格の陶冶をテーマに、「禅・仏教講座」として開設しています。
    禅の世界をあらゆる角度から捉え感得するため総長、学長、仏教学科教員を中心に授業を展開し、その他、いす坐禅・読経など実践を行います。
    「知識としての禅」から「感じとる禅」への転換をテーマとし、「自分だけにしかないいのちを生きる」ことを目標とした講義です。
    なお、学生向けに配信している総長講義のみ、順次公開させていただきます。
    ■講座動画の補足情報
    禅とこころ 臨済録に学ぶ 第四回 令和五年十月十日 
    臨済禅師の説法―示衆―            花園大学総長 横田南嶺
    真正の見解
    病は不自信の処に在り
    無事の人
    八正道
    一、正見(正しい見解)
    二、正思(正しい思惟)
    三、正語(正しい言葉)
    四、正業(正しい行い)
    五、正命(正しい生活)
    六、正精進(正しい努力)
    七、正念(正しい思念)
    八、正定(正しい精神統一)
    岩波文庫『臨済録』34~35ページ
    そこで師は言った、「今日、仏法を修行する者は、なによりも先ず正しい見地をつかむことが肝要である。
    もし正しい見地をつかんだならば、生死につけこまれることもなく、死ぬも生きるも自在である。至高の境地を得ようとしなくても、それは向こうからやって来る。諸君、いにしえの祖師たちはみな、超え出させる導き方を心得ていた。今わしが君たちに言い含めたいことは、ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。自力でやろうと思ったら、すぐやることだ。決してためらうな。
    このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるか。
    病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。
    もし君たちが外に向って求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。
    君たち、その祖仏に会いたいと思うか。今わしの面前でこの説法を聴いている君こそがそれだ。君たちはこれを信じきれないために、外に向って求める。しかし何かを求め得たとしても、それはどれも言葉の上の響きのよさだけで、生きた祖仏の心は絶対つかめぬ。
    取り違えてはならぬぞ、皆の衆。 今ここで仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻し、好ましい条件の引き廻すままになって、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。君たち、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない。現在のこのさまざまなはたらきに何の欠けているものがあろう。この六根から働き出る輝きは、かつてとぎれたことはないのだ。もし、このように見て取ることができれば、これこそ一生大安楽の人である。
    諸君、心というものは形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。
    わしがこのように説く目的はどこにあると思うか。君たちがあれこれ求めまわる心を止めることができずに、古人のつまらぬ仕掛けに取り付いているからだ。(41ページ)
    法とは心である。心は形なくして十方世界を貫き、目の前に生き生きとはたらいている。ところが人びとはこのことを信じ切れぬため、〔菩提だの涅槃だのとい
    う]文句を目当てにして、言葉の中に仏法を推し量ろうとする。天と地の取りちがえだ。(48ページ)
    諸君、偉丈夫たる者は、今こそ自らが本来無事の人であると知るはずだ。
    残念ながら君たちはそれを信じきれないために、外に向ってせかせかと求めまわり、頭を見失って更に頭を探すという愚をやめることができない。 (58ページ)

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