【第5回:臨済録に学ぶ】 花園大学総長 横田南嶺 | 禅・仏教講座「禅とこころ」 2023年11月14日(火)

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  • Опубліковано 16 гру 2024
  • 「建学の精神」である禅仏教による人格の陶冶をテーマに、「禅・仏教講座」として開設しています。
    禅の世界をあらゆる角度から捉え感得するため総長、学長、仏教学科教員を中心に授業を展開し、その他、いす坐禅・読経など実践を行います。
    「知識としての禅」から「感じとる禅」への転換をテーマとし、「自分だけにしかないいのちを生きる」ことを目標とした講義です。
    なお、学生向けに配信している総長講義のみ、順次公開させていただきます。
    禅とこころ 『臨済録』に学ぶ5 令和五年十一月十四日
    「随処に主と作れば、立処皆真なり」       花園大学総長 横田南嶺
    『馬祖の語録』(禅文化研究所)より
    馬祖は示衆して言った「諸君、それぞれ自らの心が仏であり、この心そのままが仏であることを信じなさい。達磨大師は南天竺国からこの中国にやって来て、上乗一心の法を伝えて諸君を悟らせた。」
    「そもそも、法を求める者は求めるものがあってはならない。心の外に別の仏は無く、仏の外に別の心は無い。」
    「一切の衆生は永遠の昔よりこのかた、法性三昧より出ることなく、常に法性三昧の中にあって服を着たり、飯を食ったり、おしゃべりしたりしている。
    (即ち衆生の) 六根の運用きやあらゆる行為が全て法性である。しかるに、その本源に返ることができず、(悟りを求めて)名や形を追いかけまわせば、本源を見失った情がむやみに生起して、いろいろな業因を造ることになる。もし一念でも自分を照らし返すなら、自己全体が聖心である。君たち諸君、それぞれ自己の心に目覚めよ 。私の言葉をメモるな。」
    「あらゆる法は全て仏法であり、様々な法そのものが解脱である。 解脱は即ち真如に他ならず、様々な法は真如の外に出るものではない。日常の挙措動作は、どれもこれも思慮を絶した働きであって、特定の時期に枠づけられてのものではない。経に言っている、『ありとあらゆる処に仏は遍満している』 と。」
    「道は修習する必要はない。ただ、汚れに染まってはならないだけだ。何を汚れに染まるというのか。もし生死の思いがあって、ことさらな行ないをしたり、目的意識をもったりすれば、それを汚れに染まるというのだ。
    もし、ずばりとその道に出合いたいと思うなら、あたり前の心が道なのだ。
    何をあたり前の心というのか。ことさらな行ない無く、価値判断せず、より好みせず、断見常見をもたず、凡見聖見をもたないことだ。経に言っている、『凡夫の行でもなく、聖人賢者の行でもない、それが菩薩行である』と。今こうして歩いたり止まったり坐ったり寝たりして、情況に応じての対しかた、それら全てが道なのだ。」
    「本来有るものが今も有るのだから、修道や坐禅は必要がない。修道もせず、坐禅もしない、 これが如来清浄禅に他ならない」。
    『臨済録』(岩波文庫)より
    「諸君、仏法は造作の加えようはない。ただ平常のままでありさえすればよいのだ。糞を垂れたり小便をしたり、着物を着たり飯を食ったり、疲れたならば横になるだけ。愚人は笑うであろうが、智者ならそこが分かる。古人も、『自己の外に造作を施すのは、みんな愚か者である』と言っている。君たちは、その場その場で主人公となれば、おのれの在り場所はみな真実の場となり、いかなる外的条件も、その場を取り替えることは できぬ。たとえ、過去の煩悩の名残や、五逆の大悪業があろうとも、そちらの方から解脱の大海となってしまうのだ。」
    「諸君、もし君たちがちゃんとした修行者でありたいなら、ますらおの気概がなくてはならぬ。人の言いなりなぐずでは駄目だ。ひびの入った陶器には醍醐を貯えておけないのと同じだ。大器の人であれば、何よりも他人に惑わされまいとするものだ。どこででも自ら主人公となれば、その場その場が真実だ。」
    「君たちの世間では、仏道は修習して悟るものだと言うが、勘ちがいしてはならぬ。もし修習して得たものがあったら、それこそ生死流転の業である。また君たちは、六度万行をすべて実修するなどと言うが、わしから見れば、みんな業作りだ。仏を求め法を求めるのも、地獄へ落ちる業作り。菩薩になろうとするのも業作り、経典を読むのもやはり業作りだ。仏や祖師は、なにごともしない人なのだ。だから、迷いの営みも悟りの安らぎも、ともに〈清浄〉の業作りに他ならない。
    世間には盲坊主の連中がいて、たらふく食ってから、さて坐禅にとりかかり、雑念を押さえこんで起こらぬようにし、喧騒を嫌い静けさを求めるが、こんなのは外道のやり方だ。 祖師は言われた、『お前がもし心を住めて寂静を求めたり、心を振い起こして外面を照らしたり、心を収束して内面に澄ませたり、心を凝らして禅定に入ったりするならば、そういうやりくちはすべて無用な作為だ』と。」

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