【ゆっくり解説】卑弥呼と神功皇后の同一人物説

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  • Опубліковано 18 вер 2024
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КОМЕНТАРІ • 45

  • @sentarou6969
    @sentarou6969 Рік тому +10

    キャラも全然違うし、司馬懿が楽浪郡、帯方郡を征服したから魏に朝貢した卑弥呼が、国境を接する三韓征伐などするとは思えない。

  • @user-gb9iw6ih5y
    @user-gb9iw6ih5y 4 місяці тому

    卑弥呼に夫はいない≒子供もいない。(記述がない)
    神功皇后には夫はいたが亡くなっている=子供はいる(応神天皇)
    この時点で他を考える前に別人としかならない。
    この記述を無視してまで同一人物と考える人がいる事自体不思議です。
    まさに日本書紀編纂者の思惑にまんまとハマった人々ということか!!?

  • @mochi_mazui
    @mochi_mazui Рік тому +7

    日本書紀の編纂時には魏志倭人伝についての知識があったらしいですからね
    日本書紀は矛盾がないように同一人物説をとってるようですね

  • @Kappa-Lub
    @Kappa-Lub 4 місяці тому

    神功皇后の軍船帆柱を修理したのはくまわに族
    北九州市界隈調べるとわかるかもよ

  • @とりさん-c7h
    @とりさん-c7h 9 місяців тому +1

    卑弥呼の時代に新羅なんて無いし朝鮮半島まで攻め込んだと言う記録も無い。妄想しか無い。

  • @nnkk8888
    @nnkk8888 11 місяців тому +2

    神功皇后と卑弥呼が同一人物かについては、卑弥呼が三韓征伐は不可能ですで終わると思います。三韓の中の百済ができたのが4世紀で卑弥呼が亡くなったのは3世紀ですし。

  • @ニコラテスラ-w3q
    @ニコラテスラ-w3q Рік тому +5

    帝紀や本辞が残っていればもう少し分かったかもしれませんね
    年齢問題は古事記の崩年干支の方が正当かもしれません
    全てが2倍歴でもなさそうですが周辺諸国との整合性がついてけばある程度の時代感は出そう。
    あとは経済的なのとだと鉄器の分布なども見て行きたいです

  • @user-pg4gb8qg7w
    @user-pg4gb8qg7w Рік тому +6

    一生独身で弟しか会わないって設定なんだからまぁ別人じゃないですかね⁉️( ̄▽ ̄;)ノ

  • @aaaaaa-sq3se
    @aaaaaa-sq3se 4 місяці тому

    どこの国においても暦は権力の証だからそう簡単に教えられるものでもないし逆に変えられるものでもない。
    故に記述と実際の暦、現在のグレゴリオや当時の中国、百済で採用されていた暦にブレが生じるのは何もおかしくない。
    そもそも3世紀日本に春秋歴はおろか1年の概念すらあったかどうかすら疑わしい。

  • @木村信行-c3h
    @木村信行-c3h Місяць тому

    卑弥呼は口偏のつかない卑弥乎というのが新羅本紀の173=阿達羅尼師今20年に「倭の女王卑弥乎が使者を遣わして礼物を交際を求めて来た」という話在り。これも考慮してください。これは卑弥呼とは別人ですかね。

  • @kappanouen
    @kappanouen Рік тому +8

    解説のお話にそうと
    "卑弥呼(ヒミコ)"というのは(漢人がそう思っていたように)個人名ではなく
    公的に高位にあった女性神職の称号、もしくは職名で
    魏に朝貢したいわゆる『卑弥呼』と神功皇后は人間としては別人ながら
    同様の地位(地位としての"ヒミコ"。もっともヒミコと本邦で呼ばれていたかはまた別の考察が必要)を継承した存在とも考えられますね🙃

    • @poissonblanc3106
      @poissonblanc3106 Рік тому +2

      卑弥呼って、蔑称だよな
      それが、称号?
      そもそも、大陸では、他国を蔑称で語るのが普通だし、魏志倭人伝の類は、個人のブログレベルだろ

    • @sunsun2181
      @sunsun2181 10 місяців тому +2

      その説、インチキなんです。だったら、血縁の台与が台与なんて個人名残らないでしょ。卑弥呼2世とか呼ばれるはず。

    • @kappanouen
      @kappanouen 10 місяців тому

      @@sunsun2181 Sun Sun21さんのおっしゃられる話もわからないでもないですが
      それは中国側が”意図して「ヒミコ」”という呼称を倭の女性神職の官名と知って(認識して)呼んでいた場合のお話ですよね?(おそらくそういう説もあると思いますし、その場合はご指摘も合点がいくところです)
      上記したよう私はこれを中国側の『”ヒミコ”を個人名と(卑弥呼の時には)勘違いしていたのでは?』と思った次第ですので(別に中国側はいわゆる”ヒミコ”以外の人間(例えば神功皇后)が日本国内で何と呼ばれていようと関知しないところなわけで)
      この場合
      中國側の認識が238年に魏に朝貢した時においての日本側の代表者のことをその時は”ヒミコ”という個人名だと誤認したという以上でも以下でもありません
      その後何者が日本からやってこようと『同様の勘違い(日本から来た女性神職の個人名は必ず”ヒミコ”であるという誤認)をしなければいけない』という事にはならないわけです
      もちろん日本側の通訳・説明が稚拙だった場合同様の誤認を繰り返し生じさせる可能性が無かったわけでもないですが、それは結果そうならなかった事(同様の誤認が繰り返されなかった事)がおかしいという話にはなりません

  • @besuhof9360
    @besuhof9360 9 місяців тому

    Himi-ko family is from Korean Himi-koku.
    Kyushu was already using Chinese character before AD 240's.
    Osaka began to import Chinese character after AD 280's, from Korea.
    Osaka belong to ancient Japanese history.
    Kyushu and some region belong to ancient Korean history.
    To say, the former half-lives of the queen's family belong to Korean history, and the latter half-lives belong to Japanese history.

  • @ななしのよっすん
    @ななしのよっすん Рік тому +2

    神功皇后はいたと思いますが卑弥呼と同一人物は年代的にも辻褄が合わない感じがしますね…

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon Рік тому +2

    鬼道という言葉から来るイメージは人によると思いますが、三国志で鬼道と言う単語は五斗米道(道教)の師君である張魯やその母(若くて美人)が使う術としても登場しており、また張魯も百姓を惑わせたとあるので、卑弥呼のよく衆を惑わすという表現もこれに因んだものなのかも知れません。
    神仙思想的には一旦死んだ卑弥呼が仙人として蘇った娘々な姿が台与なのでしょうか(人前に出ないのは、垂簾聴政なのか、始皇帝など高貴な人物は姿を見せないというマナーを受け継いだのか、鬼道により若くて美人のままなのでお見せ出来ないだけなのか)。
    神功皇后の起こす奇跡は卑弥呼の鬼道であるという見方も出来そうですし、同一人物であるように匂わせておいて特に言及しない、後世の人の判断にお任せします状態の日本書紀の演出は中々に心憎いですね。

  • @YO-high
    @YO-high Рік тому +4

    神功皇后が「卑弥呼」ならば、後継者の「台与」は誰になるんだろう。
    日本書記の作者たちは、他国の資料も見てたはずだ。
    そこに魏志倭人伝とか書いてあったとするならば、整合性も考えずに「神功皇后」にしておこうとしたのではないかなぁ。
    三国史記に関しては、古事記日本書紀を参考にしてた部分はあると思います。(三国史記が日本書紀に寄せたってこと。)
    いずれにせよ、整合性の無い中で無理やりに「こじつけていく」しかないのかなぁと思います。

    • @zennin375
      @zennin375 Рік тому +1

      日本書紀の記述だと宋に朝貢した台与も神功皇后ということになるね。
      神功皇后の摂政期間は68年ということになっているけど事績を西暦の年表に当てはめると200年~388年の188年もの間摂政を行っていたことになる。
      続く応神天皇は解釈によって188歳で即位して111歳で崩御とかいろいろ面白いことになる。

  • @寿くん-b1e
    @寿くん-b1e Рік тому +4

    同一人物かどうかはともかく正直日本書紀や古事記の信憑性すらどこまで正しいのかも怪しいもんなあ🙄
    当時の日本人の平均年齢どれくらいか知らんけど天皇の100歳超えとか武内宿禰の200歳超えとかどう考えてもありえんだろうし💦

    • @hiron114
      @hiron114 2 місяці тому +1

      そりゃ、文字が無い時代の物事に関する、正確な記録を残すなんて無理でしょ。
      メモ書きすら出来ない時代なんですから

  • @遼子規耕作
    @遼子規耕作 5 місяців тому

    勉強になります。2人は年代が違いすぎるよね。神功皇后はお札になったりしたんだおろうね。工学博士芸人 遼子規キンジロウ

  • @user-rn7zc3xy3r
    @user-rn7zc3xy3r Рік тому +1

    『どの国でも、自国の有利になる様に歴史を解釈し、それを政治的に利用する傾向にある』時の権力者に関する不都合な事実は、描写される事はない。日本書記が成立した時の最高権力者は、藤原不比等。それ故、藤原氏及び前身の中臣氏に関わる記述には、不審な点が多い。
    そもそも、日本書記が編纂された目的は、日本が中国の戦乱を逃れて流れついた帰化人によって作られた国家である事を否定し、中国の属国ではないという事を主張するもの。古事記・日本書記は、中国の神話・史書を参考に創作されている。
    邪馬台国に擬えている神功皇后の記述も、いわば新羅征討を正当化する為のこじつけ。自大の百済情報を鵜呑みにし、新羅を侮って征陸権なく海路の進撃を続け、白村江で盛大にやらかした斉明天皇・中大兄皇子・中臣鎌足の戦犯指導部の不明を曖昧なものにしている。

  • @zennin375
    @zennin375 Рік тому

    日本書紀と三国史記の記述が一致する部分は後年の写本時に日本書紀に追記されたものだと思う。
    当初は神功皇后を卑弥呼に見立てた3世紀の人物として摂政を68年行ったという現実性はともかく矛盾のない単純な記述だったと思う。
    そのとき七支刀を泰始四年(268年)の神功皇后晩年の事績として編纂されたが、後年になって七支刀の事績はもっと後の時代(369年or372年)の出来事らしいことが判明。
    神功皇后の事績を消すわけにもいかず、それに合わせて三国史記の事績を追記していった結果、神功皇后の摂政期間は188年にまで延長されることになったというところではないかな?

  • @solar_space_satellite
    @solar_space_satellite Рік тому

    一夫一妻という前提が間違っている可能性

  • @user-vc6iq9pm8k
    @user-vc6iq9pm8k Рік тому +4

    先入観を排除して動画を観てみました。
    事実関係は別にして、日本書紀編纂に関わってきた人々は魏志倭人伝の存在を知っていた上で動画内『「日本書紀 神功皇后39年より」・・・倭の女王は大夫難斗米らを派遣・・・』との記述したのなら表現したいことは、『神功皇后の国と倭は別の国で、神功皇后と倭の女王は別人』と素直に読めるのですが。そして倭の女王=卑弥呼、倭=邪馬台国も定かではないと。
    原文を読み込む知識に乏しいので、予断を入れず動画内の解説を現代文のまま読んで解釈しています。

  • @宴は終わったが
    @宴は終わったが Рік тому +6

    動画ありがとうございます。
    私は神功皇后の存在は実在しないという考えですが、卑弥呼の邪馬台国についても、現在の天皇家とは違う系統だったのではないかと考える意味でも、皇族の女性ないし皇后、女帝でもなかったと考えています。

  • @弘年村椿
    @弘年村椿 Рік тому +7

    卑弥呼は1900年くらい前の人。ヤマトトトモモソヒメと言われています。神功皇后は14代仲哀天皇の皇后。ヤマトトトモモソヒメは大神神社の神の巫女で大神神社の神から言葉をいただく役職でした。また当時は1月~6月で1年、7月~12月で1年と数えられていたようです。6月と12月に神社で茅の輪くぐりがあり払いの行事が現在も残っています。古代日本には現世王(天皇)と神の言葉をいただく祭祀王のが存在して祭祀王の方がくらいが高かったそうです。

    • @intelljp
      @intelljp Рік тому

      日本書紀の年代が改竄されてると見るのが妥当ですね。
      崇神天皇は、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)とも称され、この代で内戦が収まったとも考えられます。
      「台与」は、娘の初代斎宮の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)で話が合います。

  • @trinitydisconnect
    @trinitydisconnect Рік тому +1

    文献だけでは、難しい話。敦賀が大和王権色強くなるのは、応神朝から350年頃神功皇后が敦賀に鎮座した頃らしいし。神社に祀られてる神パターンは、最終鎮座地点がありますね。
    記紀には、4つの年代と4つ名前が隠されてるのかも?
    日本書紀にも、女性リーダーは多く、机上の陳寿が正しく理解しているか?後世の解釈が正しいのか?現代の文字解釈が正しいのか?倭人伝は、中国語。日本語で翻訳して正しいのか?
    佐治を補佐をして?
    国を造り治めるの意味では?
    男弟が筑紫を造り治めた状態の大倭なら、ちょっと238年や239年の女王登場には、異議ありますけどね。もう少し前?袁氏滅亡あたりに本当は、登場して馬韓の卑彌国も引越して南下するのでは?倭国大乱を見失ったと理解したり、と220-266年の時間軸的な時間経過と変化を考慮したほうが良いのかも?(笑)

  • @777hydyy6
    @777hydyy6 Рік тому

    当時の日本のことは分かりませんが、現在の日本に四季はありませんよね(笑)9月でもまだ暑い、旧暦じゃないから?(笑)

  • @伝説の麻婆豆腐
    @伝説の麻婆豆腐 Рік тому

    魏志倭人伝で卑弥呼と呼ばれていただけと言うオチは無いのかな
    天皇は神道の最高神官である訳だし

  • @大豆イソフラボン-u2b
    @大豆イソフラボン-u2b Рік тому +1

    いちこめ

  • @上原隆則-l9k
    @上原隆則-l9k Рік тому

    流石 日本 都合の いいことばかり