【ゆっくり解説】倭人の入れ墨から見た邪馬台国

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  • Опубліковано 18 вер 2024
  • 魏志倭人伝の謎を解く - 三国志から見る邪馬台国 (中公新書)
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КОМЕНТАРІ • 35

  • @user-kz8wk6mn3y
    @user-kz8wk6mn3y День тому

    邪馬台国初代女王卑弥呼の崩御年は紀元198年であり84歳で箸墓古墳に葬られました。
     いわゆる倭国大乱とは第8代孝元天皇の皇子の武埴夜須毘古命が紀元167年に起こした反乱を指しています。

  • @StoneWCIPA
    @StoneWCIPA 11 місяців тому +4

    入れ墨からして倭人ってアイヌとか沖縄人とか漁師(海の民)の方が近いんじゃないかと思いますね。

  • @tucker_skebevich
    @tucker_skebevich 7 місяців тому +2

    日本書紀か何かに、九州の人は黥面で大和の人と違うみたいなこと書いてなかったっけ?

  • @明日斗-r1o
    @明日斗-r1o 11 місяців тому +22

    漁業をしていたのであれば入れ墨をしていたとしても違和感はない
    水死するとぶくぶくに膨れたり衣服が流されたりして身元確認が困難を極めるので水死したときの身元確認を容易にするために海の男が入れ墨をすることは珍しくなかったそうだ

    • @user-dn3uo4bb6m
      @user-dn3uo4bb6m 6 місяців тому +1

      現代においてそれはそうかなとは思うけど古代においては宗教観や習慣の話だと思うよ
      漁業は古代日本の専売特許でもないしね。

  • @tana0tana
    @tana0tana 11 місяців тому +4

    入れ墨文化(トライバルタトゥー)って環太平洋地域の多くの場所で今でも見られますよね
    倭人の入れ墨文化となにか関係がある気がするのですが、果たしてどうなんでしょうか

  • @kooota7455
    @kooota7455 11 місяців тому +3

    個人的に一番の問題は、事実を見たり体験して書いたか、伝聞によって書いたか・・・
    これらの事が混同していることにあると思います。
    隋書には「倭人は距離を知らず日数によって記す」と書いてありますから、邪馬台国の位置は伝聞による位置だと思うわけです。

  • @脇田昭
    @脇田昭 11 місяців тому +2

    愛知県の3箇所から鯨面の
    副葬品?が出ているんですね。
    入れ墨とは関係ない気もしていたんですが日本海の越=高志の国連合国のひとつだったのか?

  • @carex-o1t
    @carex-o1t 11 місяців тому

    面白かったです。
    ツリーシミュレーターの事も知りたいです。
    どこかのタイミングで紹介して下さい。

  • @宴は終わったが
    @宴は終わったが 11 місяців тому +4

    動画ありがとうございます。
    入れ墨の習慣の可否で近畿説には無理があるとのれーしさんの見解ですね。
    邪馬台国に対するれーしさんの熱心さを感じさせます。

  • @あや-t2v9v
    @あや-t2v9v 11 місяців тому +9

    300年以上後に書かれた「隋書倭国伝」では、倭国の男女は顔に入墨の点を入れていると記載がありますよ。
    裴世清は確実に近畿地方へ訪れた事が記載されており、奈良付近を「この国の都」としているので、この時代には大和の人々も例に漏れず入墨があったのではないか、と思います。
    黥面文身に比べてもっとマイルドな入墨だったようですし、男性だけでなく男女としているところも魏志倭人伝とは異なるので、実際に見聞きしたのだなと感じる表現です。

    • @may23k68
      @may23k68 9 місяців тому

      纏向遺跡で東海系土器などが出土
      それに伴って入れ墨文化の流入が
      若干あったかもしれませんね。
      魏志倭人伝で
      詳細な事がわからない傍国がありますから断定できません。
      異なる倭種の集まりが卑弥呼連合かもしれません。

  • @寿くん-b1e
    @寿くん-b1e 11 місяців тому +1

    入れ墨と言えば何か遠山の金さんとか思い出すけど考えてみりゃ入れ墨の文化と言うか風習と言うか随分前からあるもんなんだなあ🙄

  • @マッチ-x1y
    @マッチ-x1y 11 місяців тому

    堂島の龍「顔にまで入れるとは…。」

  • @may23k68
    @may23k68 9 місяців тому

    9分16秒、九州に入れ墨描写の出土がありません。貿易地域なんで入れ墨もつ土地から移住者かな?

  • @user-kz8wk6mn3y
    @user-kz8wk6mn3y 7 днів тому

    邪馬台国はヤマト国と発音して、現在の奈良県を指しています。
     魏志倭人伝の時代の奈良県には大和政権があり、第10代崇神天皇を中心として政治及び祭祀が行われていました。
     紀元前60年に橿原神宮で初代神武天皇が即位されて以来、奈良県には大和政権があり、その後歴代天皇がいらっしゃいました。
     そして都が京都に遷都されるまでの間歴代天皇が続きました。
     又、邪馬台国の初代女王卑弥呼は第7代孝霊天皇の皇女の倭母母曽 毘売命です。
     倭母母曽毘売命は紀元115年に生まれ198年に84歳で崩御され箸墓古墳に葬られました。
     従って、邪馬台国は奈良県にほかなりません。

  • @shimashima3430
    @shimashima3430 11 місяців тому

    三国時代に登場している人々に刺身の記述が無いのは時代的に廃れたのか?なんて考えてしまう…

  • @赤月-b8x
    @赤月-b8x 11 місяців тому +4

    黥面絵画の分布図に我が県の名が
    →ググる
    →出土した古墳が削平されて現存せず
    何でそういう事するかな😢

  • @nekono_mimikon
    @nekono_mimikon 11 місяців тому +5

    8:24の黥面文身の分布図ですが、全国でも43例しかなく、そのほとんどは岡山から大阪を回って香川の沿岸、それと愛知に集中しており、図には無いものの九州でも福岡と熊本の2例があります。
    逆に言えば倭人の象徴が瀬戸内周辺や中京に集中している為、関東と同レベルの九州に邪馬台国があったとするのは難しくなっているのではないでしょうか。

  • @trinitydisconnect
    @trinitydisconnect 11 місяців тому

    古代中国では、邪は琅邪郡を意味する事がありますね。馬は南を指しますから普通に会稽の事かも???
    今でも稀に東南と書いて海岸の意味で使うので、内陸部の人が使ってたのかな?
    陳寿の父の世代には、徐州出身が多いので倭人情報は、詳しかった???
    海に潜る人が入れ墨するので、海岸=東南が良く使われる後世に東南を海岸と気付いた場所は海岸に訂正されてるのかも???
    文献の時系列的には、後漢の前半か?前漢の話の編集の順番間違いの気がしますけどw
    筑紫の伊都縣の南に女王国なのか?港湾の南の美作か?若狭の南の伊香具・高島?長浜?なのか?女王国の候補は3か所に絞られる?美作は、孝霊・牛鬼退治。長浜・米原は古代息長氏。古代史はミステリー&ファンタジーですね。w

  • @二郎岩田
    @二郎岩田 11 місяців тому +5

    非常に勉強になる動画でした。邪馬台国がどこにあるかについて、最近阿波説に惹かれています。阿波説の良い点は、魏志倭人伝に余り解釈を入れなくて済む点が良い点です。コペルニクスの地動説ではありませんが、ある事柄について複数の合理的説明が可能である場合に、最も単純な説明が真理であることが多いと思うからです。また阿波が丹の当時日本の唯一の産出地と言う点も極めて説得的です。ただ阿波説は、邪馬台国が大和朝廷になったと考えているようですが、この動画にあるように、初期大和朝廷の勢力圏の関西に顔の入れ墨の記録がないことがどうしても気になります。それは文化的にかなり違う文化であり、周囲がみな入れ墨を入れているのに、囲まれたその地域だけがそうしなくなったというのは不自然です。
    先日ある動画を見て衝撃を受けました(登録していなかったので動画のタイトルは分かりません)。その動画は、現代日本人のDNAを県別に調べ、それを縄文人のDNAと比較して、各県の縄文人度を濃淡で3~4段階で表した日本地図でした。それによると、予想通り、九州の最南部から沖縄と東北が縄文人度が最も高いことが示されていました。その次に縄文人度が高かったのが、関東と新潟、それと九州(最南部を除く)でした。九州が縄文人度が高いのは意外でした。ただし興味深いことは、唯一大分が縄文人度が周囲より低いことが示されていました。これは次に述べる四国が縄文人度が低いことを考えると、四国からそのような集団が渡ってきて、混血したことを窺わせます。私が衝撃を受けたのは、関西と四国の縄文人度が最も低かったことです。それは見事なまで、若狭湾(福井)から一直線に真南に京都・大阪・奈良・三重・和歌山と長方形をなす形で縄文人度が低いのです。さらにそれは直角に曲がって四国全土に縄文人度が最も低い地域が続くのです。そして、この周辺地域、すなわち東は北陸(新潟を除く)、中部・東海地域、西は中国地域が2番目に縄文人度が低い地域として示されていました。これは関西地域の縄文人度の低い人々が拡散していって、縄文人度の高い人々と混血したことを窺わせます。興味深いことに、中国地方で、島根だけが縄文人度が東北や九州最南部の同様の縄文人度の高さを示していることです。これは進出してきた縄文人度の低い人々に出雲の人々が抵抗し、混血しなかったことを示しているようにも思われます。隣の九州より縄文人度が高いのは興味深いです。
    以上から、私は古代において次のようなシナリオが進行したのではないかとの妄想を抱きました。弥生時代、大陸から半島などを通じて弥生人が九州経由で入ってきて、長い時間をかけて東北地方にまで広がり、各地で縄文人と混血した。こうして生まれた人々には入れ墨文化があった。長時間かけた混血の結果、日本中でその度合いはかなり一様なものとなった。弥生時代の終わりごろになると、各地に小国が成立し、そんな中、四国の阿波の邪馬台国が最も有力な国となり、大陸の魏と国交を持った。ところが、3世紀の後半から4世紀の初めにかけて、騎馬の習慣を持った相当規模の集団(入れ墨の風習がない集団)が中国東北部から半島の東側を経由し若狭湾から侵入し(それは8代か9代の天皇のときかと思われる)、関西地方を南下して制圧し、弥生人をこの地域から駆逐した。さらに四国に渡り、それまでの日本の王である阿波の邪馬台国を滅ぼし、新たな大王として即位したのが崇神天皇だった(邪馬台国の女王を妻とした可能性もあるかもしれない)。この勢力はさらに、四国全土から弥生人を駆逐し、さらにその一部はや大分に亡命した邪馬台国の後裔を追って大分にも進出した。さらにその子孫たちは、西は中国から九州、東は北陸、中部・東海・関東・東北まで征服した。日本国王として大陸と国交を持っていた邪馬台国が滅亡したことにより、日本と大陸は没交渉となり、空白の150年を生じた。
    つまり、本日の動画の中で、日向と大和で古墳が作られたことに関し、「日向から大和に古墳の技術者が行って、技術を学んでから帰郷し古墳を作ったか、あるいは大和から日向に技術者が行って古墳を作っかのどちらかだね」とのコメントがありますが、上記のシナリオが起きたとすれば、征服は、大和から四国経由進み、大分に渡り、日向まで進んだのかもしれません。もしそうなら、歴史的事実は、征服は西に向かって行われたのであって、神武東征は無かったことになります。建国神話がまとめられる過程で、何らかの事情で、高天原が、大陸から日向に置き換わり、神武東征の話になったのかもしれません。以上は、鯨面の話から思いついた全くの妄想です。

    • @sonnawakana
      @sonnawakana 11 місяців тому +1

      遺伝子が違うのが気がかりです。その説ですと、大陸半島とかなり血が混じって均一でないといけませんが、現実には別の遺伝子系統です。逆に当時は均一だったが、大陸半島側がモンゴルに支配された時に入れ替わったのかもしれません。

  • @上原隆則-l9k
    @上原隆則-l9k 11 місяців тому +1

    ほー😮

  • @akiyoshi5907
    @akiyoshi5907 11 місяців тому +2

    形も位置も其々なら文化というより個々のファッション?ま海民に限らず命に係るような生業なら男女を問わず大抵は刺青入れていたと思いますがね。纒向建設や巨大古墳造営のような大土木工事に従事させられっぱなしなら、刺青やる暇も必要性もなかったでしょ😏

  • @YAMAUCHID
    @YAMAUCHID 11 місяців тому +1

    動画楽しく拝見させて頂いています。
    ここでの最重要な問題は、四国剣山の山本坑道発掘の1952年10月に、ミイラがでたかどうか?ここが最大の問題です。2007年12月「ムー」四国剣山「ソロモンの秘宝」伝説(飛鳥昭雄+3神たける)にP33掲載のミイラの写真です。これがフェイク写真なのか?真実、剣山から発掘されたミイラの写真であるか?これが大問題なのです。この写真が真実であれば、日本古代史/古代入れ墨史を根底から揺るがす「大発見」になる可能性があるのです。 弥生人の入れ墨は、魏志倭人伝記載の内容さらには縄文時代および古墳時代の土偶顔面に施された入れ墨と思われる痕跡から、「まず間違いなく弥生人もしていただろう」と推測されています。しかし、これは確定ではなく、弥生人ミイラが出て始めて確定できるものです。日本の気候環境下では、よほどの条件がそろわない限り、ミイラが残ることはありません。縄文・弥生・古墳時代のミイラは現在まで、一体もありません。 しかし、剣山の洞窟のような寒冷・高所・乾燥維持が可能な環境下では、その可能性があります。 今回の写真は、驚くべきことに、顔面目じりに瘢痕装飾(長時間かけて行う入れ墨の一種)が施されており、さらに、目の周囲、額と顎の表面には平面的な▲の入れ墨(瘢痕装飾でない)がされているようです。右側頸部には、切創痕跡あり?でしょうか(おそらく生贄)? 「生贄を行う」という発想は、魏志倭人伝に記載される「持衰」および「100人奴婢の殉葬」に通じるものがあり、このミイラ写真が真実ならば、剣山周辺に「邪馬台国があり、剣山に生贄をささげる習慣があった」ということになるのです。 写真が真実なら、邪馬台国論争を終了させる、後世に残る大発見となる可能性があります。 そこで、この写真の真偽が問題となるのです。

  • @masamasaict7312
    @masamasaict7312 10 місяців тому

    入れ墨なら日高見国やろ。日高見国なら常陸の国説。神宮とか調べてみて。面白いから。

  • @shou-sho
    @shou-sho 11 місяців тому

    日向から黥面見つからないのはそもそも人がほとんど住んでなかったからですよ(笑) 
    昭和まで宮崎に弥生時代はないのでは? とか言われてたくらいです。
    (日向に人が増え始めるのは古墳時代中頃から)

  • @yuasa5042
    @yuasa5042 11 місяців тому

    倭人伝に「邪馬台国」に刺青の風習があったとは一言も書いてないわ
    隋書には「居於邪摩堆、則魏志所謂邪馬臺者也」とあるから
    仮に、邪馬台が九州に在ったとして、後世に
    九州から畿内へと邪馬台の為政者が移ったんやろな
    神武軍も鯨面みたいやしw