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隠居されてからの柳沢公の暮らしぶりは、現代のサラリーマンの退職後の心がけにも通じるものがありますね。なんもしないでぼーっと過ごすよりも(次の仕事や役目も含めて)生きがいがあるほうがいいのでしょうね。
お陰様で江戸時代の見識を広げる事が出来て有難いです。
大変な仕事の後に美しいものを愛でたり自分で好きなものを作ったりするのはとても共感できるし親しみがわきます
裕福ではなくとも、長屋で家族3人、時には、落語を楽しみ、ファストフードを楽しみ、長屋の人や銭湯、床屋で、知人とお話しをして、平和で、穏やかな生活が出来ていたのかも😄
素晴らしい動画でした隠居してからの生活が おとぎ話みたいな感じがして羨ましい限りですここのチャンネルを見るときは自分が職人長屋の畳職人になった気持ちで見てましたがこういう生活もいいですね
以前に板橋区の加賀に住んでいたことがありますが、加賀名前の通り、加賀藩の下屋敷があった場所です。この話に出てきた六義園を超えるような広大な庭園があったそうです。今は見る影もなく開発されていますが、唯一、庭園の築山の跡だけが今でも残っていて、桜の季節になると多くの人がこの周辺に集います。
ここ何年か流行り物の転生物で江戸時代に転生するとしたら将軍様やら大大名より、江戸や大阪の豪商(子供に甘々な主人)のボンクラ三男坊としてこどおじニートしてるのが、一番気楽かつそれなりに贅沢な暮らしも出来る勝ち組なのかも。
SuperThanksありがとうございます!おっしゃる通り、豪商(子供に甘々な主人)の次男・三男あたりは勝ち組かもしれませんね。今後とも当チャンネルをよろしくお願いいたします!
簡潔にして要を得た内容。勉強になります。
上杉鷹山は江戸で過ごす時期がきても「腰痛が酷いので湯治が必要」と言って行かず、隠居後も江戸には住まなかった藩主。ちなみに鷹山は大病になっても寝込んだことが無いほど頑強江戸に住んでたら藩の財政再建を進められないというのが理由で、幕府も理由を知っていたので嘘を黙認していた
まぁ財政破綻された方が幕府にとっても一番困るもんねぇあと逆に本当に体調面でヤバいのにその忠誠心故か無理してまで江戸に来て将軍様の方から寧ろ気を遣って藩邸にお見舞い行くなんて事までした伊達政宗の例もあるよねぇしかもそこまで無理してまで来てくれた事を想ってか、亡骸を地元に持ち帰る時には護衛の為に本来なら許されないはずの銃を下賜して携行まで許したんだっけね
幼い頃より江戸で過ごし、ある程度の年齢になったら自らの領地に赴く。幕府としては幼君を江戸に止め置くは人質としての役目が第一だが元服して領地に戻っても本領の家臣達とは、ぎこちない関係になりそうではあるし「いざ!江戸に攻め入ろうぞ!」となったとしても当主としては幼き頃を過ごした思い出の地、そんな江戸を劫火に包み灰燼とする事が出来るのかというのがあるよね。そこまで考えての江戸暮らしだとしたら凄いな!とは思う。
大名の暮らし良くわかりました。浅野公の記録は良く分かりやすいです。大奥と同じく寝所に見張りがいるのは…。ちょっと…。すること出来ない…。
このような隠居生活を送れる人は、本当に一握りの人だとは思いますが、多趣味でお芝居まで催したというのは非常に充実した余生をおくられたことでしょう。どんなに歳をとっても探求することをわすれない人生をおくりたいものです。
ちなみに大名登城日の儀式で間違いとかがあると、吟味役が咳払いをして暗に間違いだと諭すとかがあった模様家の家名に関わるから、常に緊張してたのが想像できますね
隠居してからの生活費は番から貰うと思いますが相当かかりそうですな。でも羨ましい。。。。。。。本当に羨ましいわ。。。。。。
13:39 夫婦の閨でも老女が控えているのは、枕元の睦言での女性からのおねだりや讒言を防止するためだったはず。15:51 六義園の畑の話を聞くと、マリー・アントワネットがプチトリアノンに作った疑似田園の話を思い出しますね。古代ローマのディオクレティアヌス帝も引退後はキャベツ栽培して過ごしたようですし、古今東西身分が高い人が庶民の行動を真似るのは普遍的な行動ですね。
裕福な商人あたりが1番いいかもしれない
大店の大店主とかも激務&激務+色々とお上に付け届やらナンやらで精神的にも大変だったそうよ一番良いとすればやっぱそういう店主の三男とかかな・・・
よく羽振りのいい暮らしを「大名暮らし」なんて言われますが、実際にはお金が無くとも庶民の暮らしのほうが気楽だったようですね。
ずっと監視されてると読書中も寝転がって読むとか出来なかったんだろうな〜…隠居した後はお昼寝も気楽に出来たかな(あれだけ外出したら疲れて爆睡しそう😅)現役時代に頑張って働いたからこその自由気ままなお出掛けや娯楽は格別楽しかったでしょうね。そして食材が出て来ると全部美味しそうで…夜なのに飯テロな動画をありがとうございました(笑)栗🌰は栗きんとんも良いし、白餡と混ぜて求肥で包んでも美味しそう(๑´ڡ`๑)
正月は寧ろ一番将軍様が可愛そうって言う折角の正月なのに何日も年始の挨拶やらナンやらの為にずーっと公務しっぱなしで忙しい事この上無いからねぇ・・・
室町時代に主要な守護大名が中央にべったりで領地を離れっぱなしで支配力を弱めて守護代や国衆に代わられてしまった反省なのかな
後楽園の帰り六義園を見て帰りました。
奥さんと離れたくないのでずっと江戸に居たいで候。国許の政務は家老とリモートで執り行うで候。
なるほど、大名の回顧録があるとは知りませんでした。
非常に面白かったです。機会あったら伺候席についてもお願いします。
浅野長訓の日記には他にも家臣の失態についても言及が有ります。家臣、特に大名の身の回りの世話をする小姓は大名相手に粗相するとすぐ切腹となるので、家臣の失態を見て見ぬふりをしなくてはなりませんでした一度、食事の配膳にネズミの糞が混じって居ました。それを指摘すると切腹間違いなしなのでその晩は具合が悪いと食事を諦めたとか。他に風呂番は特に地位が低い家臣が行うので江戸の身分制だと殿様が声を掛けてはならぬもの(声を掛けるとお目見えになり、身分を上げなければならない)。そのため風呂の熱い冷たいは独り言として言わねばならず調整が難しく熱くなりすぎたり逆になったりと大変だった明治維新以後になりますが競馬の有馬記念にも名前を遺した旧久留米藩主有馬伯爵は鰈が大好物でしたがいつも半身しか食べられませんでした。と言うのも当主の食べ残しは使用人(ほぼ旧藩士や旧領民その家族)への施しだったので半分は残すのがマナーだった。節約の為、豪華な食事を無くすと使用人から不満が出て催促されたり辞めるものも多かった。そのため定期的にパーティーをせざるを得なかった敗戦後、華族制が無くなり体裁の為の使用人を解雇しやっと好物の鰈を総て食べられたと喜んだらしいです
昭和天皇も、献上品として出された下関のフグを、危険だからと食べさせてもらえなかった実例もありますからね。偉い人、権力者、人々から尊敬を集める人は、食べるものすら、自由が制限されているので大変です。
幕藩体制下の大名の暮らし、とても勉強になりました🤔現役大名は、毎年参勤交代で江戸と国元を行ったり来たり😩そして以前の将軍の暮らしと同じで、毎日堅苦しい決まったスケジュールの中登城したり政務をしたりと😥、町人の暮らしと比べたら嫌になりそうな暮らしをしていたんだと思うと、切なくなって来ますね😵(その経費も全部自前ですからね🤯)それでも、隠居すればかなり自由に活動出来たのは救いですね☺️そのうち黒船来航や開国後の江戸等幕末の事情なども観てみたいなと思います🤗
勉強になりました。ありがとうございます。これは、早く隠居したくなりますね。浅野さんというお大名は、お役に就いてらっしゃったのか わかりませんが、ご登城があった日は、どんな一日でいらしたのでしょうか、江戸城付近はかなり混雑、行列組んで一斉登城って、想像に出来ませんが、さぞや参勤交代同様カーストもおありでしたろうし、上屋敷の生活も窮屈でらっしゃったでしょうが、その日のそれはさぞかしだったのでしょうね。絵がそれと合致しているか わかりませんが、玄関らしきところで立っている武士らしき様々な衣装の人たち、ご家臣なのでしょうか、この人たちのご苦労もどんなものだったのか。隠居の羨望はさぞかし現代以上だったことでしょう、またの動画、こころ待ちにしています。
大名は隠居後は国元でのんびりしていると思っていたのだが
江戸時代の侍は、トップの将軍は窮屈だが、下へ行くほど、割合と気楽だったんじゃないかな。
経済的にも下の身分の方が家格維持とかに掛かる費用がほぼ無くて楽だったなんて話もあるからねぇ
母方の祖母の祖母が前田侯爵家と繫がりがあったそうです。祖母が明治生まれなので、たぶん幕末の頃からの繫がりらしいですが、初めて牛肉を食べた時の話を聞いたことを思い出しました。
拝謁される側の将軍も大変やったやろな・・・
花屋敷なら入ったことあります
こんにちは😮😊
節句で登城が義務付けられていて、それがわかっていたから桜田門外の変があったのかな。
参勤交代は住んでる国本距離によって行く回数が決められてて、薩摩藩なら4年か5年に1回で良かった。
徳川将軍家の直臣である武家は大名と旗本です将軍家から領知判物・領知朱印状を交付され領知目録に記された土地・民を支配する事を許可されます大名・旗本の土地ではなく徳川将軍家の土地を代わりに管理する代官です地頭は当分の儀、百姓は末代の儀と言われ大名は鉢植え式に替わるものという認識でした将軍家から預かった土地・民の管理が悪いと転封され地頭が交代させられるというのが本来ですですから大名は領内の土地・民を自由に出来なかったのです大名上屋敷は江戸城警備の為に参覲交代してきた大名率いる戦闘部隊が陣を張る場所であり戦陣ですその為の補給基地が下屋敷、大名本人が休息するのが江戸中期以降に現れる中屋敷ですですから上屋敷は江戸城警備の為に江戸城近く、下屋敷は国元からの補給の為に上屋敷と領国を結ぶ江戸郊外にありました江戸城下にある上屋敷の場所が徳川将軍家からの信頼により別れます徳川将軍家が最も信頼する大名に上屋敷(戦陣を張らせる)は西の丸下と大手町、次に丸の内、次に日比谷霞ヶ関、そして信用されていない大名は江戸市外の芝、下谷、本郷、本所などですですから島津、前田、伊達などは信用されていなかった事が分かります五代綱吉に絶対的な信頼を得ていた大和郡山柳沢家は綱吉存命中は神田橋門内という一等地でしたが綱吉が亡くなるとすぐに日比谷門外の内幸町に左遷させられたのは非常に分かりやすいですね江戸時代の大名上屋敷は明治新政府により役所に変えられて戦後は民間企業へ払い下げられたケースが多い為現在もほぼ全てがオフィスビル、公園、公共施設になっています江戸郊外にあった一部の上屋敷の中には住宅地となった場所もあります私は慶長年間から神田橋に住み今も江戸時代の屋敷から数十メートルの場所に住んでいます江戸時代と同じ場所に住む武家の子孫は本当に数家しかありません
実は中世大名と同じように近世大名も隠居したら剃髪する例は多い。頭が薄くなるのも理由の一つかもしれない
0:06 一文字三ツ星は毛利家?毛槍投げ渡してるw
明治時代の錦絵で長州藩毛利敬親の大名行列とのこと
隠居は何歳くらいから 隠居暮らし何だろうか
年齢は事情により様々ですね。たしか20代もレアですがありました(まあ、家臣や大名の親戚による強制隠居ですが)。40代くらいが多かったような。家に複雑な事情がある場合、早めに隠居し御家騒動にならないようにすることもありました。幕府に隠居願いを出し認められたら隠居となります。また、自身が長寿で後継ぎが早くに亡くなったりして後継ぎの後継ぎが育ってない場合、現役に復帰し後見人として再び政務をとる場合もあったようです(堀尾吉晴や真田信之など)。
一人で江戸の町をぶらつくなんてできなかったんだね。暴れん坊将軍は自由だったのに!!
直参組長みたいな
屋敷って国からの借り物なの?
今で言えば国会議員や大臣と地方知事兼任してるようなもんでしょ…?無理ぃ…
屋敷建設は藩持ちなの何気に大変ですよねダサい屋敷建てたら陰で笑われるだろうし
大名のイメージってバカ殿から来てる気がする
今でも妬みひがみで皇族批判する輩いるけど、そんなに楽しい世界でないから歴代妃方が病んだり髭の殿下みたいに離脱を試みた人もいたことから察しろよいつも他人と接して見られてる私生活なんて常人には耐えられないだろが
外様大名苗木藩主の遠山友禄は、若年寄になってますよ。 きちんと調べましょう。
例外は何にでもありますから、そう突っ込まんでも…松前もそうだけど。
大名は、定府大名もいた為全員が参勤交代はしていません。老中も参勤交代はしません。私は、大名家の子孫です。
有名な定府大名が、水戸徳川。
男なら大名になりたいものよの
隠居されてからの柳沢公の暮らしぶりは、現代のサラリーマンの退職後の心がけにも通じるものがありますね。なんもしないでぼーっと過ごすよりも(次の仕事や役目も含めて)生きがいがあるほうがいいのでしょうね。
お陰様で江戸時代の見識を広げる事が出来て有難いです。
大変な仕事の後に美しいものを愛でたり自分で好きなものを作ったりするのはとても共感できるし親しみがわきます
裕福ではなくとも、長屋で家族3人、時には、落語を楽しみ、ファストフードを楽しみ、長屋の人や銭湯、床屋で、知人とお話しをして、
平和で、穏やかな生活が出来ていたのかも😄
素晴らしい動画でした
隠居してからの生活が おとぎ話みたいな感じがして羨ましい限りです
ここのチャンネルを見るときは自分が職人長屋の畳職人になった気持ちで見てましたが
こういう生活もいいですね
以前に板橋区の加賀に住んでいたことがありますが、加賀名前の通り、加賀藩の下屋敷があった場所です。この話に出てきた六義園を超えるような広大な庭園があったそうです。今は見る影もなく開発されていますが、唯一、庭園の築山の跡だけが今でも残っていて、桜の季節になると多くの人がこの周辺に集います。
ここ何年か流行り物の転生物で江戸時代に転生するとしたら将軍様やら大大名より、江戸や大阪の豪商(子供に甘々な主人)のボンクラ三男坊としてこどおじニートしてるのが、一番気楽かつそれなりに贅沢な暮らしも出来る勝ち組なのかも。
SuperThanksありがとうございます!
おっしゃる通り、豪商(子供に甘々な主人)の次男・三男あたりは勝ち組かもしれませんね。
今後とも当チャンネルをよろしくお願いいたします!
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勉強になります。
上杉鷹山は江戸で過ごす時期がきても「腰痛が酷いので湯治が必要」と言って行かず、隠居後も江戸には住まなかった藩主。ちなみに鷹山は大病になっても寝込んだことが無いほど頑強
江戸に住んでたら藩の財政再建を進められないというのが理由で、幕府も理由を知っていたので嘘を黙認していた
まぁ財政破綻された方が幕府にとっても一番困るもんねぇ
あと逆に本当に体調面でヤバいのにその忠誠心故か無理してまで江戸に来て将軍様の方から寧ろ気を遣って藩邸にお見舞い行くなんて事までした伊達政宗の例もあるよねぇ
しかもそこまで無理してまで来てくれた事を想ってか、亡骸を地元に持ち帰る時には護衛の為に本来なら許されないはずの銃を下賜して携行まで許したんだっけね
幼い頃より江戸で過ごし、ある程度の年齢になったら自らの領地に赴く。
幕府としては幼君を江戸に止め置くは人質としての役目が第一だが元服して領地に戻っても本領の家臣達とは、ぎこちない関係になりそうではあるし「いざ!江戸に攻め入ろうぞ!」となったとしても当主としては幼き頃を過ごした思い出の地、そんな江戸を劫火に包み灰燼とする事が出来るのかというのがあるよね。そこまで考えての江戸暮らしだとしたら凄いな!とは思う。
大名の暮らし良くわかりました。
浅野公の記録は良く分かりやすいです。大奥と同じく寝所に見張りがいるのは…。ちょっと…。すること出来ない…。
このような隠居生活を送れる人は、本当に一握りの人だとは思いますが、多趣味でお芝居まで催したというのは非常に充実した余生をおくられたことでしょう。どんなに歳をとっても探求することをわすれない人生をおくりたいものです。
ちなみに大名登城日の儀式で間違いとかがあると、吟味役が咳払いをして暗に間違いだと諭すとかがあった模様
家の家名に関わるから、常に緊張してたのが想像できますね
隠居してからの生活費は番から貰うと思いますが相当かかりそうですな。でも羨ましい。。。。。。。本当に羨ましいわ。。。。。。
13:39 夫婦の閨でも老女が控えているのは、枕元の睦言での女性からのおねだりや讒言を防止するためだったはず。
15:51 六義園の畑の話を聞くと、マリー・アントワネットがプチトリアノンに作った疑似田園の話を思い出しますね。古代ローマのディオクレティアヌス帝も引退後はキャベツ栽培して過ごしたようですし、古今東西身分が高い人が庶民の行動を真似るのは普遍的な行動ですね。
裕福な商人あたりが1番いいかもしれない
大店の大店主とかも激務&激務+色々とお上に付け届やらナンやらで精神的にも大変だったそうよ
一番良いとすればやっぱそういう店主の三男とかかな・・・
よく羽振りのいい暮らしを「大名暮らし」なんて言われますが、実際にはお金が無くとも庶民の暮らしのほうが気楽だったようですね。
ずっと監視されてると読書中も寝転がって読むとか出来なかったんだろうな〜…隠居した後はお昼寝も気楽に出来たかな(あれだけ外出したら疲れて爆睡しそう😅)
現役時代に頑張って働いたからこその自由気ままなお出掛けや娯楽は格別楽しかったでしょうね。
そして食材が出て来ると全部美味しそうで…夜なのに飯テロな動画をありがとうございました(笑)
栗🌰は栗きんとんも良いし、白餡と混ぜて求肥で包んでも美味しそう(๑´ڡ`๑)
正月は寧ろ一番将軍様が可愛そうって言う
折角の正月なのに何日も年始の挨拶やらナンやらの為にずーっと公務しっぱなしで忙しい事この上無いからねぇ・・・
室町時代に主要な守護大名が中央にべったりで領地を離れっぱなしで支配力を弱めて守護代や国衆に代わられてしまった反省なのかな
後楽園の帰り六義園を見て帰りました。
奥さんと離れたくないのでずっと江戸に居たいで候。国許の政務は家老とリモートで執り行うで候。
なるほど、大名の回顧録があるとは知りませんでした。
非常に面白かったです。機会あったら伺候席についてもお願いします。
浅野長訓の日記には他にも家臣の失態についても言及が有ります。家臣、特に大名の身の回りの世話をする小姓は大名相手に粗相するとすぐ切腹となるので、家臣の失態を見て見ぬふりをしなくてはなりませんでした
一度、食事の配膳にネズミの糞が混じって居ました。それを指摘すると切腹間違いなしなのでその晩は具合が悪いと食事を諦めたとか。他に風呂番は特に地位が低い家臣が行うので江戸の身分制だと殿様が声を掛けてはならぬもの(声を掛けるとお目見えになり、身分を上げなければならない)。そのため風呂の熱い冷たいは独り言として言わねばならず調整が難しく熱くなりすぎたり逆になったりと大変だった
明治維新以後になりますが競馬の有馬記念にも名前を遺した旧久留米藩主有馬伯爵は鰈が大好物でしたがいつも半身しか食べられませんでした。と言うのも当主の食べ残しは使用人(ほぼ旧藩士や旧領民その家族)への施しだったので半分は残すのがマナーだった。節約の為、豪華な食事を無くすと使用人から不満が出て催促されたり辞めるものも多かった。そのため定期的にパーティーをせざるを得なかった
敗戦後、華族制が無くなり体裁の為の使用人を解雇しやっと好物の鰈を総て食べられたと喜んだらしいです
昭和天皇も、献上品として出された下関のフグを、危険だからと食べさせてもらえなかった実例もありますからね。
偉い人、権力者、人々から尊敬を集める人は、食べるものすら、自由が制限されているので大変です。
幕藩体制下の大名の暮らし、とても勉強になりました🤔
現役大名は、毎年参勤交代で江戸と国元を行ったり来たり😩そして以前の将軍の暮らしと同じで、毎日堅苦しい決まったスケジュールの中登城したり政務をしたりと😥、町人の暮らしと比べたら嫌になりそうな暮らしをしていたんだと思うと、切なくなって来ますね😵(その経費も全部自前ですからね🤯)
それでも、隠居すればかなり自由に活動出来たのは救いですね☺️
そのうち黒船来航や開国後の江戸等幕末の事情なども観てみたいなと思います🤗
勉強になりました。ありがとうございます。これは、早く隠居したくなりますね。浅野さんというお大名は、お役に就いてらっしゃったのか わかりませんが、ご登城があった日は、どんな一日でいらしたのでしょうか、江戸城付近はかなり混雑、行列組んで一斉登城って、想像に出来ませんが、さぞや参勤交代同様カーストもおありでしたろうし、上屋敷の生活も窮屈でらっしゃったでしょうが、その日のそれはさぞかしだったのでしょうね。絵がそれと合致しているか わかりませんが、玄関らしきところで立っている武士らしき様々な衣装の人たち、ご家臣なのでしょうか、この人たちのご苦労もどんなものだったのか。隠居の羨望はさぞかし現代以上だったことでしょう、またの動画、こころ待ちにしています。
大名は隠居後は国元でのんびりしていると思っていたのだが
江戸時代の侍は、トップの将軍は窮屈だが、下へ行くほど、割合と気楽だったんじゃないかな。
経済的にも下の身分の方が家格維持とかに掛かる費用がほぼ無くて楽だったなんて話もあるからねぇ
母方の祖母の祖母が前田侯爵家と繫がりがあったそうです。祖母が明治生まれなので、たぶん幕末の頃からの繫がりらしいですが、初めて牛肉を食べた時の話を聞いたことを思い出しました。
拝謁される側の将軍も大変やったやろな・・・
花屋敷なら入ったことあります
こんにちは😮😊
節句で登城が義務付けられていて、それがわかっていたから桜田門外の変があったのかな。
参勤交代は住んでる国本距離によって行く回数が決められてて、薩摩藩なら4年か5年に1回で良かった。
徳川将軍家の直臣である武家は大名と旗本です
将軍家から領知判物・領知朱印状を交付され領知目録に記された土地・民を支配する事を許可されます
大名・旗本の土地ではなく徳川将軍家の土地を代わりに管理する代官です
地頭は当分の儀、百姓は末代の儀と言われ大名は鉢植え式に替わるものという認識でした
将軍家から預かった土地・民の管理が悪いと転封され地頭が交代させられるというのが本来です
ですから大名は領内の土地・民を自由に出来なかったのです
大名上屋敷は江戸城警備の為に参覲交代してきた大名率いる戦闘部隊が陣を張る場所であり戦陣です
その為の補給基地が下屋敷、大名本人が休息するのが江戸中期以降に現れる中屋敷です
ですから上屋敷は江戸城警備の為に江戸城近く、下屋敷は国元からの補給の為に上屋敷と領国を結ぶ江戸郊外にありました
江戸城下にある上屋敷の場所が徳川将軍家からの信頼により別れます
徳川将軍家が最も信頼する大名に上屋敷(戦陣を張らせる)は西の丸下と大手町、次に丸の内、次に日比谷霞ヶ関、そして信用されていない大名は江戸市外の芝、下谷、本郷、本所などです
ですから島津、前田、伊達などは信用されていなかった事が分かります
五代綱吉に絶対的な信頼を得ていた大和郡山柳沢家は綱吉存命中は神田橋門内という一等地でしたが綱吉が亡くなるとすぐに日比谷門外の内幸町に左遷させられたのは非常に分かりやすいですね
江戸時代の大名上屋敷は明治新政府により役所に変えられて戦後は民間企業へ払い下げられたケースが多い為現在もほぼ全てがオフィスビル、公園、公共施設になっています
江戸郊外にあった一部の上屋敷の中には住宅地となった場所もあります
私は慶長年間から神田橋に住み今も江戸時代の屋敷から数十メートルの場所に住んでいます
江戸時代と同じ場所に住む武家の子孫は本当に数家しかありません
実は中世大名と同じように近世大名も隠居したら剃髪する例は多い。
頭が薄くなるのも理由の一つかもしれない
0:06 一文字三ツ星は毛利家?
毛槍投げ渡してるw
明治時代の錦絵で長州藩毛利敬親の大名行列とのこと
隠居は何歳くらいから 隠居暮らし何だろうか
年齢は事情により様々ですね。たしか20代もレアですがありました(まあ、家臣や大名の親戚による強制隠居ですが)。40代くらいが多かったような。家に複雑な事情がある場合、早めに隠居し御家騒動にならないようにすることもありました。
幕府に隠居願いを出し認められたら隠居となります。
また、自身が長寿で後継ぎが早くに亡くなったりして後継ぎの後継ぎが育ってない場合、現役に復帰し後見人として再び政務をとる場合もあったようです(堀尾吉晴や真田信之など)。
一人で江戸の町をぶらつくなんてできなかったんだね。
暴れん坊将軍は自由だったのに!!
直参組長みたいな
屋敷って国からの借り物なの?
今で言えば国会議員や大臣と地方知事兼任してるようなもんでしょ…?無理ぃ…
屋敷建設は藩持ちなの何気に大変ですよね
ダサい屋敷建てたら陰で笑われるだろうし
大名のイメージってバカ殿から来てる気がする
今でも妬みひがみで皇族批判する輩いるけど、そんなに楽しい世界でないから歴代妃方が病んだり髭の殿下みたいに離脱を試みた人もいたことから察しろよ
いつも他人と接して見られてる私生活なんて常人には耐えられないだろが
外様大名苗木藩主の遠山友禄は、若年寄になってますよ。 きちんと調べましょう。
例外は何にでもありますから、そう突っ込まんでも…松前もそうだけど。
大名は、定府大名もいた為全員が参勤交代はしていません。老中も参勤交代はしません。私は、大名家の子孫です。
有名な定府大名が、水戸徳川。
男なら大名になりたいものよの