新政府軍を相手に連戦連勝!『酒井玄蕃』が率いた庄内藩の強さの秘密とは?
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- Опубліковано 16 вер 2024
- 新政府軍を相手に連戦連勝!『酒井玄蕃』が率いた庄内藩の強さの秘密とは?について紹介しています。
~目次~
■譜代でありながら貧乏だった庄内藩
■奥羽越列藩同盟の結成
■酒井玄蕃の活躍
■庄内藩の強さの秘密とは?
■最後まで負けなかった庄内藩
■『酒井玄蕃』のまとめ
脚本・監修:歴史の細道
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~画像~
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~音源~
DOVA-SYNDROME 様
dova-s.jp/
うちの爺ちゃんは毎年正月に酒井の殿様に正月のあいさつに行ってました。西郷南洲の写真今でも先祖代々の遺影と並んでかけてあります。父は支藩松山藩氏の家からの婿です。庄内ではまだこんな家もあります。賊軍だったかもしれませんが郷里には誇りがあります。
庄内藩、二本松藩、長岡藩、最後まで会津と共に戦った事に敬意を。😢
庄内出身者です。戊辰戦争のときに活躍した酒井玄蕃のことをこの動画を観て初めて知りました。
高校は鶴ケ丘城址公園(鶴岡城)のすぐ隣りでした。鶴岡の隣の酒田市に西郷隆盛を祭った南洲神社があるそうです。
機会があれば寄ってみたいと思います。ありがとうございました。
自分は庄内人です。
名前だけは知っていましたが、ここまで活躍した人だと思いませんでした。
貴重な話、ありがとうございました。
仕方がないです
薩長がとしては庄内藩が
自分達より優秀だったなんて知られたくないですから、歴史を封印していたのだと思います
実際に明治になって、あまりにも人材が不足して旧幕府から登用せざるを得なかったほどですから
私の先祖は庄内藩士です。この話は概略を知っていましたが、興味深く拝見しました。有難うございました。
山形出身ですが、このような方がいらっしゃったとは、知りませんでした。
ありがとうございます。
2017,2018と連続して鶴岡を訪れました。
この町、独特の文化というか匂いがしてすごくいい街だなぁと思いました。
鶴岡城、荘内神社、加藤清正墓所、加藤忠広墓所、羽黒山、、行けば行くほど飯も美味いし酒も旨い。
名所旧跡に事欠かない。藩校や明治期の建物も残っていて色々学べて素晴らしい町でした。
鶴岡城近くの資料館で西郷隆盛への崇敬を記す展示物もあり、敵味方ではなく、国家を考えての交わりに感動したことを覚えてます。
徳川信康が切腹した時、家康から嫌味を言われた徳川四天王の酒井家でしたが、一番最後まで徳川に忠義を尽くしたのも酒井だったんですよね。
藩校の致道館、往時の建物がそのまま残ってて良い雰囲気ですよね。
荻生徂徠の教えを胸に、多くの藩士の子弟が学んでいたのでしょうね。
加藤忠広の墓所のある丸岡城、水堀もキレイに残っていて感動した記憶があります。
@@明石則実
おー行かれたんですね!嬉しいなぁ、、、
加藤清正夫人の墓所、日蓮宗の御寺だったと思いますが、あそこもおすすめです。
何から何まで素晴らしい話。
争いは無い方が良いに違いないけど。
一方が争いを拒んでも、やむ終えず戦端を開くこともある。忠義と守る人と土地があるなら。
相手の戦略に乗ってしまう形だけど。
新政府と庄内藩の戦いのドラマを見たい。
幼い頃から、庄内藩の活躍は聞かされて居ましたが。
こうして、動画として編集、解説して頂き、
ありがとうございます。
薩摩長州の行為にイヤらしさを感じていました。この庄内藩の酒井玄蕃の話は、爽快感をかんじます。依りいっそう山形県が好きになりました。
北海道浜益の出身です。ここに庄内藩の番屋が置かれました。玄藩も来道しています。
今回の主役
酒井玄蕃は名前は聞いた事ありましたが、分かりやすい解説で楽しみながら拝見させて頂きました☺️
次回も楽しみに待ってます
庄内に生まれて良かったと思うよ。山も海もあるド田舎だけどね。
新政府軍の佐賀藩、東北諸藩の庄内藩がそれぞれのなかでもっとも合理的な藩であったと習いました。
一心不乱、一生懸命、正々堂々と戦い、自らの意思を貫いた立派な生涯でした。薩長中心の新政府軍に正義があったわけではないことが良くわかりました。
山形出身ではないが、これほどの人物が幕末期に跋扈していたとは目から鱗
是非とも維新160周年ではドラマ化してもらいたい
他藩は荷を担いで民衆は逃げるだけ…。
庄内は地元侠客の隊もあったと聞き、民衆も力を合わせ戦った。そういう面では国を守る戦いは民衆が1つになってという東北諸藩の中では革新的な藩だと思います。
15:34山形県鼠ケ関の近くに十三仏と言って十三体のお地蔵さんが祀られているところがあります。
ここは庄内藩と政府軍が戦って十三人の戦死者が出たところです。
名前は何かで見た事があったが、そんな素晴らしい人がいた事を初めてしりました、ありがとう。34才で亡くなったのは本当に勿体ないと思います、その後の日本にどれだけ大事な人だったか、、、、
大河ドラマ決定。
幕末ものもネタが尽きたと思ったら、未だこういう人物が残ってたか。
幕末ものといえば長岡藩の河井継之助もなかなか。戊辰戦争時は新政府軍と会津藩に挟まれる中、前代未聞の中立を唱えたことで有名。長州か薩摩に生まれていればその後の明治維新を支える一人になった事は間違いない。
賛同します。ぜひ大河ドラマにして欲しいですね。
って言うか、今までなんで取り上げられなかったのか、疑問。
ドラマと言えば
京都に新選組が・・・
江戸には庄内藩の新微組(しんちょうぐみ)があり
江戸の女性らにモテた男装の美人剣士 中沢琴さんも居た事は忘れてはならない
戦術も戦略も徹底した現実的思考であり、民間人対応もジュネーブ条約並の交戦規定と規律でした。100年先の近代戦を酒井玄藩行っていた!
昔から釣りキチな土地柄なだけに、当時から庄内藩武士の鍛練の一環で夜中から海へ連れ立ってクロダイ釣りに勤しんでいたエピソードも面白い。
地元ではないですが、縁ある土地の英雄を取り上げていただき感謝。
年末時代劇スペシャルで放送してくれませんかねぇ~日テレさん。
つまらないバラエティー番組も良いけど、酒井玄蕃のような人物を
世に知らしめる事も重要なのでは?と思ってしまいました。
国のため、郷土のため。何やら目頭が熱くなりますなあ…
勉強になりました。ありがとうございます。
このような戦略家が存在したこと。戊辰戦争が悲劇的は事ばかりで、本当に知らなかった人物でした。感謝!
庄内藩、確かに強いな。薩長軍が連戦連敗で敗退し続けたからな。
山形出身なんでこの動画は
嬉しく思いますし、誇りです❗ありがとうございます‼️
東北の列藩はそもそも外様として追いやられた藩ですが、元々は雄藩だったと思います。目先が利いて直ぐに姿勢を変えた多くの関西の藩などより好きです。
江戸の治安維持をしてた庄内藩兵のトップ松平権十郎は、男っぷりの良さで
歌舞伎の大名跡と比較され「江戸の團十郎、庄内の権十郎」と呼ばれてました。
本間様が江戸に向かうのに、自分の土地だけ通って行けたと聞いてます。酒井家の武勲に、西郷隆盛が荘内藩に救いの手を差しのべ、その事に感銘を受けた庄内の方々は、今だに西郷さんを自宅に祀ってる家が多数あります。神社もあるはず。
武勲で許されるなら何故会津を斗南などへ島流しのような処罰をしたのか?
あまりにも西郷を良く見過ぎではないか?
幕末のエピソード(しかも旧幕府側)を取り上げていただいて有り難いです。
戊辰戦争は新政府軍が最新装備をもって連戦戦勝というイメージを持たれがちですが
局所的な戦いを見ると、新選組の土方歳三や桑名藩の立見鑑三郎(尚文)が率いていた部隊なんかは
新政府軍も苦戦してるんですよね。
立見鑑三郎は局地戦でしか勝てないくせに後退を友軍の敗戦のせいにする卑怯者だ。
桑名城を攻撃して恭順派を下して、松平定敬を迎え入れて籠城して戦い抜くのが真の" 東洋一の用兵家 "でしょう。
西郷隆盛を慕い、明治に鹿児島に留学した若き庄内藩の若者達は、そのまま外国への留学が決まっていたのに、明治10年の西南戦争に薩軍として出撃し、若い命を散らせて行きました…伴兼之20歳、榊原政治18歳です。
悲劇な事に西南戦争で伴兼行は西郷軍で実兄は政府軍に居て兄弟と戦う事になった。
西郷どんと大久保利通の罪でございます🙏
昔庄内藩の武士は 釣好きでわざわざ登山して海まで行って釣りをして 足腰を強く仕手いった。
自分の郷里庄内藩の活躍がアップされて嬉しいです
実際 朝敵となり連敗した新政府軍側には黒歴史で最近まで庄内藩は評価されていなかった
庄内藩と言えば農民等の領民による三方領地替え一揆がありますね
時は徳川家斉の時代に川越の松平氏が裕福な庄内へ転封を画策し水野忠邦の意見で庄内の酒井氏を石高が低い越後長岡へ川越の松平氏を庄内へ長岡の牧野氏を川越へ転封の予定でした
転封は藩主等のの不行跡により実施される事が多かったが庄内藩には何の落ち度もなかった故にまやかしの3藩同時転封でごまかそうとした節があり庄内藩は反発したが11代将軍家斉の意向だったために撤回は非常に困難を極めたがここで藩以上に反発したのが庄内藩の農民等の領民達である
本編でも触れてたが大飢饉で回りの藩の農民が大量に飢えで命を落とす中、庄内藩は藩主の酒井氏が即救援に乗り出し本間氏も加わって一人の餓死者も出さなかった
酒井氏は庄内に転封になってから善政を実施し領民に慕われていたがそんな中での酒井氏転封である
農民を始めとする領民は決起して幕府に死を覚悟して時の老中や水戸家に酒井氏転封の取り消しを訴えた
普通は藩主の悪政に対し一揆を起こすのが一般的であったが藩主擁護のための領民一揆は前代未聞であった
それほど酒井氏は領民に優しい善政を歴代藩主が行ってきた証であろう
各藩に預けられた領民は各藩の藩士に感激を与え死罪になる者はおらず庄内藩に引き渡され藩も死罪にはしなかった、その内家斉が死去し12代の家慶による三方領地替えは撤廃された
ちなみに鬼玄蕃の庄内軍には多数の領民も参加してたらしい
酒井氏は明治政府から別土地へ転封されたが本間氏や領民達が団結し政府に多額のお金を支払い酒井氏を庄内の地に戻させている
”酒井氏ってどれだけ庄内領民に好かれてるんだよ”
酒井玄蕃さんの34才没は早すぎる 毒殺かな。
@@阿達渉 毒殺ではなく結核です。戊辰戦争後も政府の命で中国国内でスパイ活動みたいなことしてるので毒殺は考えにくいかと。
@@GOGOBISYAMON ありがとうございました、病だったのですね
>本編でも触れてたが大飢饉で回りの藩の農民が大量に飢えで命を落とす中、庄内藩は藩主の酒井氏が即救援に乗り出し本間氏も加わって一人の餓死者も出さなかった
食物を大切に仕るべく候に付、雑穀専一に候間、麦、粟、稗、菜、大根、 そのほか何にても雑穀を作り、米を多く喰いつぶし候はぬ様に仕るべく候」
大公儀の命令を江戸中期から百姓が破り、米を喰う様に成り、大飢饉で餓死は愚かな百姓の自業自得に過ぎない。
三方領地替えが実現して居れば、秋田戦争は起きなかった。
全ては愚かな荘内土人のせいである。
庄内藩は武士と農民が一体となっていたので手強い
本間家も酒井侯も農民を大切にしていた
会津は武士が威張り散らして農民の協力が得られなく狭い若松城に籠城するしかなかった
西郷ドンもこれを見て庄内藩は穏便に扱うしかなかった
本間が30万両を新政府に寄付したのも効いた
明治時代、庄内藩士は庶民に重税をかけまくり虐めてたんですよ。その背後に西郷隆盛がいたため明治政府は手出しができませんでした。そんな庄内藩士に対する庶民の抗議行動をワッパ騒動といいます。
本間一族が協力したのがでかいね
良くやったと思う。あの世の家祖酒井忠次公もさぞやご満足であろう
酒井忠次推奨の『海老掬い踊り』が武士の足腰鍛えるに代々伝えられたことが、庄内藩の強さを物語ると聞いたことが有ります‼️👊
庄内は領民が殿様の転封に反対したことで有名ですね
また本間氏も領民から尊敬されていました
実現して居たら、河井 繼之助ファンにとっては怖ろしい『三方領地替え』
我自身に尋ねたところ、
長岡の牧野氏が川越に領地替えされて居たら、
河井 繼之助は殆ど無名の人で、終わって居たそうです。
新潟港は無い、吉田の今井家は無い、會津と桑名の援軍は来ない。
川越の河井 繼之助では、薩長を相手に三カ月に近い戦争を行うのは、無理です。
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%84%E5%86%85%E8%97%A9
荘内の酒井家と河井 繼之助の家紋は同じ、「丸に片喰」
三方領地替えが実行されて居れば、戊辰戦争は小規模な戦争で終わり、戦死者が随分と少なく成って居た筈である。
釣りバカ日誌の映画で時代劇変では浪人のハマちゃんが庄内藩に仕官しましたが庄内藩では釣りを武芸の一環として藩士に釣りを奨励し藩士は野山を回り地形掌握や体力が鍛えられて戊辰戦争ではゲリラ戦をしたので庄内藩内での戦闘では官軍相手に痛手を与えた。
酒井様。
玄蕃様の理想の、人の在り方。
皆に伝わっております。
安らかに御眠り下さいませ。
玄蕃様の御名前。ご尊顔。
わたくし、ボケない内は決して忘れません。
自分たちの権益を守るがために戦った藩と違って、最初から最後まで一貫性のもとに戦った庄内藩は素晴らしいと思います。
新政府側の挑発さえなかったと思うともっと平和な解決手段があったと思えて少し悲しいです。
明治の世で新政府が果たした役割は大きいとは思いますが、この幕末においては他の手段もあったようぬ思えます
庄内藩、めちゃくちゃかっこいいな!
酒田出身のひとは、今でも、本間の殿様と呼んで敬服しております。
仙台藩の腰砕けに劣等感を抱いておりました。酒田藩は強かったのですね。
仙台藩と米澤藩は新政府から、會津討伐の大隊旗を下賜されました。
會津藩に戦争では勝てないと分かった仙台藩は、奥羽列藩同盟を結成して、
會津の領地削減と鳥羽伏見の戦いでの戦争責任者の首級で、新政府に矛を下ろさせ様としましたが、
世良修蔵が認めなかったので、世良修蔵を捕縛して斬首しました。
仙台藩が奥羽列藩同盟を攻守の軍事同盟に豹変させました。
白石城に詰めて居た、奥羽の大名家の家老を1名ずつ人質に仙台藩が取りました。
奥羽越列藩同盟は存在しなかった。
越は越後の他に越中と越前も含みます。
馬鹿や詐欺師まがいの大学教授までが、奥羽越列藩同盟と呼称して居るのです。
越後諸藩の大名家の家老は誰一人、白石城に詰めて居らず、人質に取られませんでした。
仙台は奥羽越列藩同盟と言う、歴史の改竄まで行ったので、
薩長よりも、愚かで悪質です。
酒田藩?
本間光丘は米沢の財政建て直しにも係わってるし、光丘神社とかあって奉られてる位やしな
本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様にって言われた位の人だし
酒井玄蕃。寄せ手の官軍は怖かったでしょうね。
戦えば雷撃の如し
人を労り、愛し、許す姿は観音の如し。
脆弱な兵士には正に「鬼神」となって火炎を吹いて襲いかかる。
こんな人とは戦いたくない!
糞尿を撒き散らし、恐怖に怯える
「西軍諸藩」の様相が手に取るようです。
正に破軍の星
向かうところ敵なし。
すごい人ですね😃
酒井玄蕃と言う人は知りませんでした。北越戦争の長岡藩、河井継之助。ガトリング砲の存在は司馬遼太郎の小説で知っていました。
酒井玄蕃を取り上げていただきありがとうございました。玉蟲左太夫、楢山佐渡、河井継之助・・・もっと有名になっていい人物だと思いますが、やはり賊軍として扱われているので黒歴史なんですかね?
西郷が嫌いな理由は、浮浪人を使って、江戸を恐怖に陥れたこと。これは全く評価できない。
私自身は分家の人間ですが、宗家は代々庄内。もしかしたら、ご先祖様が鬼玄蕃の下で薩長と戦ったのかもしれません。
幕末の人物紹介もいいですね
インターネットで調べているうちにここに行きつきました。ありがとうございます。
わたしの曾祖母梅乃の父が酒井玄蕃なのですが、梅乃がどこで生まれたのか、分からないのです。
ご存知の方、お教えください。
酒井玄蕃が長崎から投函した梅乃宛のはがきが数枚あるので、酒井玄蕃の没年1876年頃には、はがきを読むことができる年齢になっていたのでしょう。梅乃は1952年に帯広で亡くなりました。
最近、桂太郎に関する新書が出たが、戊辰戦争での記述がホントすくない。桂太郎は緒戦の金山の戦い(金山町)で圧勝した後は、酒井玄蕃に押されてずっと撤退し続けたのが史実なのに、その記述がない。なんだこりゃw
桂太郎65年の生涯を新書という少ないページで描くなら数ページレベルになるのは当然というば当然。戊辰戦争の頃は桂太郎は20歳ですので。
陸軍官僚として軍政改革、陸軍第三師団長として日清戦争、台湾総督、総理大臣として日英同盟・日露戦争遂行・日韓併合、大正政変などなど、桂太郎に関してもっと他に重要なことはたくさんありますからね。
@@subuya428 その新書には、戊辰戦争の時のエピソードも書かれているんですよ。でも、良い感じのエピドードしか載っていないわけですね。
で、桂太郎が日露戦争で活躍できたのも、この負け戦を経験していたからだと考えることもできるのでは?あそこで、あれ以上戦線を無駄に拡大したら、ロシア軍の誘いに乗って負けていたかも(大陸のロシア軍は家芸のナポレオンも引っかかった撤退戦略を仕掛けていた)。あそこで、終戦できたのも桂太郎の経験があったからかも?
@@TIshida360 桂は軍人というより軍政家で、軍政家よりも政治家って感じですからね。
本人も首相退任後に生涯現役軍人である元帥の位を与えられるという話しがありましたがそれを断って政治家として生きるということを示していて、政党を組織したバリバリの政治家でしたからね。
私も新書レベルなら戊辰戦争というより明治以前は書かなくても良いんじゃないかなと思います。
幕末の頃の桂は若かったので志士活動もまったくしてない経歴0でしたが、正直身分が良かったから抜擢されたようなものですからね。
軍人としての桂を描く書物であればそういうエピソードは有って良いと思いますけどね。
動画にチェスセット入れて下さってありがとうございます。
(元、日本チェス協会スタッフ)
なんか銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーを彷彿とさせますね、作者は幕末の庄内藩のこと知ってたのかな?
会津藩の惨状はよくコンテンツ化されてきましたが、会戦としては最後まで明治政府軍に負けなかった庄内藩のことは、今まであまり人口に膾炙してなかったのは不思議な気がします。
この方の大河ドラマを見たいです。
あぁ〜さおりさんじゃなかったw
酒井玄蕃と言う偉人だけに残念ですw
素晴らしい藩政で改革して酒井玄蕃を支えたのは本間家!
東北諸藩が酒井玄蕃を習って一丸となり戦っていれば……。
素晴らしい動画をありがとうございました。
でもそしたら、外国と交流なくて今頃北朝鮮みたくなってたかもね😯
酒井玄蕃の名前は聞いたことあるかな?程度
東北には、埋もれた英雄がまだまだいるのかな?
會津軍の總督で唯一戦死した真の猛将 會津の虎 一ノ瀬 要人
會津の政治力はある意味では、新政府を凌駕して居た。
長岡の獨立特行を越後口總督の一ノ瀬 要人が認めて、長岡の總督の河井 繼之助を味方に付けた。
長岡の獨立特行を認めなかった新政府は、長岡軍に三ヵ月近く苦戦した挙句に總督の高倉 永祜を長岡軍決死隊に討たれた。
慶應四年八月二十七日に漸く明治天皇は即位した。
長岡の獨立特行を認めてくれた會津の為にも戦った河井 繼之助
我に尋ねたところ、
このままでは、あの世に居る河井 繼之助に合わせる顔が無いので、
一ノ瀬 要人は自ら陣頭に立って、エンフィールド銃を撃ち被弾する迄、戦い続けたそうです。
河井 繼之助のファンならば、一ノ瀬 要人を愛するのは必然である。
この人初めて知ったの歴史秘話ヒストリアで初めてしりました
庄内を襲った大飢饉で、餓死者を出さずに済んだのは、俺の先祖が武士の身分でありながら農民一揆を主導して代官所を焼き討ちして、庄内藩に異例の大減税を認めさせたことなんですよ。当然、反逆罪なんで水牢刑に処されました。
陽明学ですか?(大和田爆笑)
これ映画に出来ないかな?
幕府のために戦わなければならない理由を徹底的にやった上で、討ち死に覚悟の戦闘をやって欲しいですね
なんか秋田では当時の戦争を映画化しようと頑張ってるみたいです。佐竹藩サイドからですが。
本間様の富豪ぶりは新潟にも伝わっていますね。
間違ってなければ良いのですが、確か酒田の本間一族は元々佐渡の方がこちらに移ってこられたと何かで読んだ気がします。
酒井了恒が明治政府の密命で清国を偵察し、帰国後「直隷経略論」を著し黒田清隆に提出しました。
その内容の正確さ、また、先見性も素晴らしいものがあります。
もしその報告通り、明治政府が中国大陸での戦争を回避していたら現代の歴史そのものも変わっていたかもしれません。
早すぎる死が惜しまれます。
機会があれば、そのあたりも動画にしていただければ嬉しいです。
とても勉強になりました!
大河ドラマ決定❣
我が故郷の英雄ですね💪
庄内藩ではないですけども上杉鷹山という方もおられましたよね
庄内藩、米沢藩、ともに天明の大飢饉で餓死者を出さなかった。一方今の山形県の中心地である村山地方は領地もバラバラで藩主たちもコロコロ替わっていた。で、明治になるとここに陸軍の大駐屯地が置かれ、県庁も置かれ、米沢や酒田より人口少なかった山形が人口増えて県の中心に。明治政府は庄内や置賜に力持たせたくなかったんだろうね。
丸の内に万の字。上杉家家臣甘糟備後介影継の旗印らしいものが庄内余目の祖父の実家の家紋です。誇らしげに先祖代々の墓に刻まれた家紋は余目の万世と言う地名にされたらしい。酒井玄蕃が居なければ先祖が死に僕も存在しなかったのかにあ?
彼のことを採用していたら、もしかしたら中国大陸での敗戦はなかったといわれている。清国に視察に行ったときに、風土、言語、食事、歴史、様々な観点から問題を指摘している。それがのちに的中することになる。
酒井玄蕃一族のDNAが日本全国に欲しかった。
僕は鹿児島県の血筋だが庄内藩は立派に戦ったと思う。ちなみに庄内に今も有る南洲神社(西郷隆盛を神として祀る神社)は全国で最初に創建された南洲神社です。
ただ、譜代の小倉藩も領地没収を恐れて官軍に加わった時点で旧幕府軍は天運が尽きたと悟るべきで、抗戦は無駄な流血だったと言えそう。
尚、旧庄内藩士に養蚕技術を伝えたのは西郷隆盛の命令。
enokama.exblog.jp/30771828/
seuru.pupu.jp/syounaibosinsensou.htm
blog.goo.ne.jp/sieg1945/e/9ef5cfdecf5a624d911a2d8b193b1cc1
『南洲翁遺訓』に同等な物は西南戦争まで鹿児島で刊行されて居ない。
荘内と違い鹿児島では西郷吉之助が偉人化されて居なかった事に成ります。
荘内侍「東国に人物が居ませんでしたね」西郷吉之助「いやいや、河井 繼之助は中々の得難い人物であった」
我に尋ねたところ、
荘内侍が捏造した話を『南洲翁遺訓』で書いたそうです。
日米和親条約と日米修好通商条約を同時に締結して居れば、
勅許は不要で尊王攘夷派の出番は無しでした。
井伊直弼が暗殺された後に彦根藩に 10万石を減封した大公儀はクルクルパーで自滅
川越藩は開港をめぐる世情に最も通じていた藩の一つであり、100年にわたり川越藩領の上野国前橋(群馬県前橋市)の主力産品であった生糸は川越藩士速水堅曹、深沢雄象らによって品質向上と増産が図られ、藩の専売品として横浜の港から川越藩御用商人の吉田幸兵衛らによって輸出され、莫大な利益を生んだ。
『三方領地替え』を荘内土人が猛烈に反対して一揆を起こした。
『三方領地替え』が実行されて居れば、
川越の河井 繼之助は殆ど無名の人で終わり、
荘内の松平氏なら、秋田戦争は起きなかった。
長岡の酒井氏なら、荘内の酒井氏の戦力の三分の一だろう。
戊辰戦争の戦死者が少ない人数で済んで居た。
小諸藩ヲタが、このブログ記事を読んでくれるかな?(大和田爆笑)
カテゴリ:カテゴリ未分類
#こもろクイズ 正解発表! 正解は「河井継之助」です片メガネをかけた顔 1863年、藩主牧野康哉が亡くなり、康哉の長男(康済)と二男(康保)を支持する一派が対立しましたが、長岡藩より小諸に遣わされた河井は「康済を藩主とし、康保は岡崎藩主(本多家)へ養子入りする」方向で内紛を解決しました。 午後1:07 · 2020年7月8日·Twitter Web App
倒産した新人物往来社の河井 繼之助 関連本に拠ると、
小諸騒動は後年に再発した。
河井 繼之助は小諸騒動を表向きに解決しただけだ。
長男(康済)の奥さんは、何故か二男(康保)を支持して居た。
長男(康済)の支持派が河井 繼之助に感謝しただけ。
我に尋ねたところ、
二男(康保)を小諸藩主にするべきだったそうです。
小諸藩は岩村精一郎に三萬五千両を献金して、従軍を免除された。
小諸藩主を康保にして居れば、
小諸藩は新政府軍を迎撃して、長岡軍の援軍を待つ筈だったそうです。
史実では岡崎藩は新政府に恭順したじゃねえか。 と言う突っ込みは無効
小諸藩主に成りたかった二男(康保)を河井 繼之助が小諸藩主にして遣れば、
康保は河井 繼之助から受けた恩を戊辰戦争で返す漢
河井 繼之助は人を見る目が無かった事に成ります。
小諸藩ヲタが、このブログ記事を読んでくれるかな?(大和田爆笑)
IF 戊辰小諸戦争
カテゴリ:カテゴリ未分類
小諸藩ヲタが、このブログ記事を読んでくれるかな?(大和田爆笑)
小諸藩主に成りたかった二男(康保)を河井 繼之助が小諸藩主にして遣った。
牧野康保は河井 繼之助から受けた恩を戊辰戦争で返す漢
牧野康保は藩政改革と軍事改革を行った。
南北戦争で南軍が使った中古のエンフィールド銃、四斤山砲、大量の弾薬を横濱で購入した。
慶應四年、新政府軍に恭順しなかった小諸藩は新政府軍を迎撃した。
我に尋ねたところ、
小諸藩は単独で、新政府軍を相手に二ヶ月間も防衛戦が出来たそうです。
「信じられない」と思うでしょ?
我に俺が「貴方は光の存在ですか?」と3回尋ねましたが、3回とも「はい」と答えました(大和田爆笑)
開戦から二週間後に長岡軍が援軍に来て、新政府軍を後方から攻撃した。
其の二日後に會津軍、桑名軍、高田軍、衝鋒隊が到着して、長岡軍と共闘した。
會津軍、桑名軍、高田軍、衝鋒隊が到着して、三週間後に戊辰小諸戦争から拡大した、
戊辰信州戦争は小諸軍、長岡軍、會津軍、桑名軍、高田軍、衝鋒隊の勝利で終結した。
IF 戊辰大垣戦争
カテゴリ:カテゴリ未分類
yukioodaii.blog.enjoy.jp/blog/2018/07/24-64e8.html
大垣の歴史のif
歴史上の仮定として、もし家老小原鉄心の決断がなければ、大垣藩は、会津藩のように明治政府の格好の見せしめ、生贄の藩として、焼け野原にされていたであろう。我々は、当時の大垣市長というべき家老小原鉄心を、もっと評価して感謝せねばならぬ。家老小原鉄心がいなければ、今の大垣の人で、命を授けられなかった人も多かろう。
この人、凡人の限界ですね。
史実を無視して、読んでください(大和田爆笑)
大垣藩は藩主の命令で、新政府軍を迎撃した。
我に尋ねたところ、
大垣藩は単独で、新政府軍を相手に六ヶ月間も防衛戦が出来たそうです。
「信じられない」と思うでしょ?
我に俺が「貴方は光の存在ですか?」と3回尋ねましたが、3回とも「はい」と答えました(大和田爆笑)
史実では大垣藩は強かったですよ。
開戦から一ヶ月後に長岡軍と高田軍が援軍に来て、新政府軍を後方から攻撃した。
長岡軍と高田軍が到着して、郡上八幡藩が新政府軍を裏切り、長岡軍、高田軍と共闘した。
三ヶ月後に戊辰大垣戦争から拡大した、
戊辰美濃戦争は大垣軍、長岡軍、高田軍、郡上八幡軍の勝利で終結した。
確か、薩摩藩と庄内藩の交流は戊辰戦争後に始まったらしいっすね~
会津の山川浩と桑名の立見尚文もお願いします
>八月二十二日、城下の形勢が悪化、西軍東部に迫るの報に接
し、藩主の命により急きょ呼び戻され日光口田島方面より退陣したが、浩が急いで
引揚げてみると城はすでに西軍の重囲下にあり、城内に入ることはできなかった。
そこで浩は一計を案じ、小松集落の獅子団に頼んでこれを先頭に立て、"通り囃子
(はやし)"を奏させながら西軍のあっけにとられているなかを堂々と行進し、一
兵も損ずることなく入城を果たした。
籠城中の将士たちは、浩のこの入城によって士気を盛り返し、藩主容保もまた大
変喜び浩の機智をおおいに賞賛したという。
創造主と共に歩む5次元の存在に尋ねたところ、
西軍は其処まで馬鹿ではないので、山川浩が創作した話だそうです。
山川浩は、こっそりと深夜に部隊を率いて入城したそうです。
長岡の山本帯刀もお願いします
@@user-hk6ng6dk2f 戸籍では連合艦隊司令長官山本五十六の養父に成る人
親王を擁立しての戦いだから、
賊軍でも、朝敵でも無い。
奥州列藩同盟。
南北朝時代の南朝状態
白紙戦術で奇襲とは
敵の思わぬ時期に思わぬ方向から思わぬ手段で攻撃を言いますから、まさか渡河して来るとはと思っていなかった攻撃は戦術に適ってます
コマンダーとしても有能だったのがわかりますね
戊辰戦争で親戚(ひいばあさんの伯父?)が戦死している。(久保田
藩)
42歳だったそうで、そんなおっさんまで前線に出すほど危機的状況だったんだな。
破軍星旗に官軍は怯えたという。幕末最強の藩が庄内藩!
佐賀藩と同じく、命中精度が良く無くて射程距離が長く無い、スペンサー銃で部隊の一部を武装したので、
酒井玄蕃はセンスが悪くて、頭が悪い。
佐賀藩のアームストロング砲で荘内軍を弱体化されて、
荘内軍を相手に火縄銃で戦って負けて居た久保田藩が、
スナイドル銃と弾薬を購入して武装したら、
荘内軍を撃退する様に成った。
久保田を落城させる事は無理だと悟った酒井玄蕃は、
荘内領に撤退した。
明治の日本陸軍が制式採用したのは、
四斤山砲とスナイドル銃です。
イギリスではアームストロング砲の製造禁止
反射炉ではアームストロング砲を製造できません。
佐賀藩製のアームストロング砲は、与太話です。
総合的な性能と価格の安さで、スナイドル銃を制式採用した。
荘内軍の一部ですが、命中精度が良く無くて、射程距離が長く無い、スペンサー銃で武装したのですから、
センスが悪くて、頭が悪くて、弱兵なのです。
アームストロング砲は別として、スペンサー銃で武装した佐賀藩兵はセンスが悪くて、頭が悪くて、弱兵なのです。
荘内軍を相手に火縄銃で戦って負けて居た久保田藩兵がスナイドル銃と弾薬を購入して武装したら、
荘内軍を撃退する様に成りました。
荘内軍首脳はクルクルパーです。
白河に援軍させて、途中で引き返させ、最終的には久保田藩攻め。
久保田藩と佐賀藩に勝てないのを悟っての撤退
一番大隊・二番大隊を北越戦争に参戦させて、荘内本領を三番大隊・四番大隊で固守すれば、良かったのだ。
我自身に尋ねたところ、
西郷吉之助は大坂の徳川慶喜ら旧幕府軍を江戸に向かわせる為に江戸薩摩屋敷から不逞浪士を放ち、
江戸と江戸の周辺で殺人・レイプ・強盗・放火を繰り返させたそうです。
しかし、徳川慶喜は江戸に向かわずに主力の軍を御所に進軍させたそうです。
日本を裏から操る藤原北家の子孫の工作員だった徳川慶喜は旧幕府軍を態と負ける様に仕向けたそうです。
山本覚馬は戦を止めに行ったのでは無くて、
山本覚馬は二名の書生と共に江戸に逃げ様として、薩摩兵に捕まったそうです。
ime.nu/ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89%E9%8A%83
ime.nu/ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB%E9%8A%83
ime.nu/ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B9%E3%83%9D%E3%83%BC%E9%8A%83
湿度の高い日本では、シャスポー銃は殆ど役に立ちませんでした。
伝習隊はシャスポー銃を装備して居たので弱かったのです。
薩長と互角に戦うには、スナイドル銃・エンフィールド銃を装備して戦うしか無かったのです。
玉津橋を警護して居た長岡兵は六十余名ですよ。
我自身に尋ねたところ、
徳川慶喜が長岡兵を玉津橋の警護に命じた訳は、
河井繼之助が指揮する六十三名のエンフィールド銃部隊を最前線に出撃させると、
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が勝利する可能性が有るからだそうです。
會津の林権助が率いる砲兵隊・槍隊と河井繼之助が指揮する六十三名のエンフィールド銃部隊が共闘すれば、
戦術如何では鳥羽・伏見の戦いで勝利する可能性が有りますね。
日本を裏から操って居る藤原北家の子孫の意向で動く工作員の徳川慶喜が、
旧幕府軍を態と負ける様に仕向けたのです。
>佐賀藩はあれだけ優秀な兵器を揃えながら、上野戦争以外の戦場での活躍は聞いた事がありません。(僕が知らないだけかもしれませんが)
秋田戦争で佐賀藩武雄兵のアームストロング砲で荘内軍は弱体化され、射程距離まで詰めて、スペンサー銃七連発に制圧された。
荘内軍を相手に火縄銃で戦って負けて居た久保田藩兵がスナイドル銃と弾薬を購入して武装したら、
荘内軍を撃退する様に成りました。
幕末まで生き残った、あの佐竹氏が荘内軍如きに敗れる筈が無いのです。
ちなみに我は荘内軍のファンです(大和田爆笑)
>破軍星旗に官軍は怯えたという。
破軍星旗にアームストロング砲を撃ち込まれて、破軍星旗は木っ端微塵です。
@@諸橋嘉久 長文ありがとうございます。博識には感服しました。日本を裏で操る件、非常に興味が湧きました。動画にupしたら、是非とも閲覧したいです。
山形県出身と言えば南雲中将が思い出されるが、南雲さんは古武士、たまたま運悪くミッドウェー海戦に遭遇してしまっただけだと思う。
戦闘の最中に英軍将兵を救った駆逐艦『雷』艦長の工藤俊作中佐も、山形(高畠町)出身ですね。そして奇才・石原莞爾中将も山形。しかも庄内(余目)出身です。
会津はやはり可哀想だね
松平容保
「歴史の細道」と「歴史じっくり紀行」はメイン・サブチャンネルの関係なのでしょうか?
それはともかく、新政府軍、いや長州軍が会津藩を潰滅に追い込もうとしたのが『私怨』だったことがよ~く分かりますよね。
それと「詩歌」は「しいか」と読みますよ。
何で庄内藩の大河をやらないのかな
『三方領地替え』に猛烈に反対する一揆を荘内土人が起こしたから。
『三方領地替え』が実行されて居れば、
川越の河井 繼之助は殆ど無名の人で終わり、
荘内の松平氏なら、秋田戦争は起きなかった。
長岡の酒井氏なら、荘内の酒井氏の戦力の三分の一だろう。
戊辰戦争の戦死者が少ない人数で済んで居た。
センスが悪くて、頭が悪くて、基地外の荘内土人を「義民が駆ける」だとよ(大和田爆笑)
単純に知名度あんまりないからねぇ
庄内の戊辰戦争は同盟軍を裏切った天童、新庄、秋田、本荘なんかの東北諸藩が官軍で隣県の秋田県民や山形県民同士が殺しあった歴史があるから、地域間の軋轢を煽りかねないからテーマにしにくいのかも。
庄内藩、上山藩、米沢藩vs山形藩、新庄藩、天童藩とか県民同士で論争をしかねないような…。
反面、福島の戊辰戦争は九州勢&長州土佐の官軍本隊が主な敵で県内諸藩同士のガチ戦闘は少なく、会津以外にも二本松、棚倉、平、相馬が官軍にとことん歯向かって玉砕させられてるあたり、全体として同盟の意義を果たしてあげてる感が出てるように思う。
八重の桜では、官軍の道案内として活躍した三春藩、守山藩の裏切りはさらっと流され、洋装の官軍の中に旧装備の裏切り諸藩の兵が混ざってるようなシーンはなかったはず。恐らく福島県の復興支援の意味も込められていたドラマ故に、県民同士で余計な争いを生まないための配慮だったのでは。
更に明治新政府になってから戦を前提とした大陸の視察(間諜?)を行って侵攻時の問題点を報告していて、この時の懸念は後の戦争時に当たっていた事が証明されています。
👍🫡🫡憧れる人👦😍
徳川四天王をもう少し優遇して25万石位で転封なしにしておけば薩長対策できたろうに。薩長より石高低いし最初の大名配置から変わりすぎてしまった。
薩摩西郷の会津陥れはどう考えても不義。ところで酒井藩に薩摩が寛大だったのは、やはり本間家の財力狙いだったという説が有力。世界で最初に大阪堂島で先物取引始めたのも本間家と言われている。当時の日本海側の商取引は米中心に活発な流通で莫大な富があったと思われる。
結局は人なんですよね。兵器が優秀、というだけでは戦に勝てませんね。幕府自体がそうです。戊辰戦争の時点での幕府陸海軍の兵器は、おそらく薩長を上回っていたでしょう。ですが政治で負けました。佐賀藩はあれだけ優秀な兵器を揃えながら、上野戦争以外の戦場での活躍は聞いた事がありません。(僕が知らないだけかもしれませんが)
久保田藩とは秋田藩佐竹家の居城が久保田城と言われてたので言いなわされてる別名です。解説をそのまま聞き流すと別の藩と思われてしまうので訂正されたら如何ですか?
酒井玄蕃を尊敬します❣️
幕末維新の最強は玄蕃軍です。
マジレスすると間違いなく幕末最強なのは佐賀藩です。
ペリー来航以前に反射炉を作り、軍艦を自前で製造し艦隊を有し、当時世界最強と言われたイギリスのアームストロング砲を独自にアレンジして本家を上回る物を作りだすなど挙げるとキリがありません。
実際に新政府軍の援軍として当時の日本で最も優れた銃であるスペンサー銃
を装備した佐賀藩兵がやってきて、佐賀のアームストロング砲であっさりと庄内軍は総崩れとなりました。
西郷に預けた庄内の少年たちは、まさか西南戦争に巻き込まれてないだろうな?
巻き込まれたと言うよりも、西郷さんの人徳に惹かれて自ら戦争に加わったようです。ただ、最後の戦いの前に西郷さんに諭され、庄内に帰ったと伝えられています。これらの若者たちが西郷さんの言葉を綴った南州翁遺訓という冊子が伝えられています。また、庄内には西郷さんを祀った西郷神社も残されています。
破軍星旗9:24常立やぼ満
常立やぼ満???意味不明教えて😃💡✨
西郷隆盛と和睦したからな 新政府軍の侵略も無かった~ 会津藩と対象的
秋田出身者からしたら、秋田の佐竹軍が散々ボコボコにされたので(笑)めちゃくちゃ悔しいんですが、横手の戦いで討ち死にした佐竹の兵を手厚く弔ったり、やる事がいちいちカッコいいんですよ、悔しいけど(^_^;)
彼の軍は村や町を焼いてるんですがそれがカッコイイのですかね
@@user-wj2ze9jz8d それはどんな戦でもある事です。
江戸城下での騒ぎは火付け盗賊で
薩摩藩邸に焼き討ちをしたのが庄内藩お抱えの新微組と岩槻藩だったって幕末好きの教師が語ってた
今なお交流が続く薩摩と庄内
今なお遺恨が残る会津と長州
土方歳三とタッグを組んで欲しかった🎉
長岡藩の河合さんを
お願いします。
長岡藩の河合さんって誰?(大和田爆笑)
河井 繼之助
@@諸橋嘉久 河井さんですね、
すみません。
鬼玄蕃に散々打ち負かされた久保田(秋田)藩の者ですが、特に恨みはないですが、
それぞれの藩の立場があるので、裏切りと言われるのはちょっとなー、一方的だよなー
「魚拓」の発祥も庄内藩の学士(武士)が竹竿で磯釣りをやって魚拓を始めたのが始まりですね。
わからない事がある。いろいろ言われてはいるが、どうして東日本特に東北諸藩は貧乏くじをひかされたのかな。江戸周辺にも親藩や譜代藩、ましては多数の直属の旗本・御家人がおり、御三家や御三卿をはじめ東北以外にも多数いたはずで、上野戦争だけしか旗本・御家人が参戦したわけでもないだろうに、なぜ、東北だけが最後まで戦わざるをえなかったのかな。新政府を動かしていたのが西日本が多かったせいもあるんだろうけど、一説には外国の影響との話もある。特にしつこかったのが、ロシアと遅れてきたドイツ(プロイセン)という話もあるが、ロシアは北海道までを既に江戸時代から狙っており、ドイツは北海道をはじめ東北を狙っていたとの話がある。東北で使用した武器はドイツがアメリカなどの中古の武器を斡旋したとの話もある。更には英仏も日本の植民地化を狙っており、英仏が露・独の牽制を行ったという話もある。これは、日清戦争後の3国干渉の頃まで東アジアを狙う勢力として、その影響が残っていたのではないかな。で、東北諸藩が鳥羽伏見の戦いや上野戦争の結果優勢がはっきりした後に東北諸藩が食いものにされている理不尽な戦いなわけで、もっと東北諸藩うまく立ち回れなかったのかな。それが現代にいたるまでの東北がいまいち裕福になれない要因のひとつなんだろうけどね。