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東北戦争の舞台 会津若松を古地図を使って歩きましたua-cam.com/video/uZDrLzgy0ok/v-deo.html
大政奉還には、裏話があるんですよ。上杉が新政府軍に入ると言うと、上杉は駄目だ。上杉は、天皇陛下や朝廷のお気に入りだから。そこで、上杉は天皇陛下と謁見して、海外の力を借り、スパイ行為をし卑怯なクーデターを起こす薩長に錦の旗印を渡すなら、上杉は最後の1人になる迄、幕府軍として戦う。そうなれば、何の罪の無い民が沢山死にますよ。それでも構わないんですか?と進言し、天皇陛下も悟り、御理解され、慶喜公には申し訳無い事をした。ただ、薩長が力で倒幕したいと聞かないから、少しだけ戦って負けたフリをして欲しい。上杉からの要望は、慶喜公の命の保証と、新政府での重要なポスト。上杉が慶喜公に伝えようとすると、途中で、薩摩、加賀に続いて上杉までも長州に付いたか?上杉は、上杉は違う。最後の1人になる迄、幕府軍として戦う。最後の将軍慶喜公の言葉は、梅(前田)じゃ無かった杉(上杉)だった。260年間虐げて申し訳無かった。それに引き換え、百万石も与えても、狐(毛利)一匹押さえられない。情けない。狐って、稲荷ですから、稲荷の大将は荼枳尼天っていう女夜叉。上杉は毘沙門天で、元々、夜叉の王様ですからね。織田包囲網の時も、関ヶ原の時も、いつも上杉頼りが感じられます。会津をおとした、新政府軍は、俺達は強い、侍に勝ったと大はしゃぎするのを、天皇陛下が見て、清(セイ)と一喝。お前らは、海外の力を借り、スパイ行為をし卑怯なクーデターを起こしただけだ。幕府軍が本気ならお前らは皆殺しにされている。彼らを本気にさせるな。彼らは、譲ってくれたんだ。新政府軍は、皆、下向いて、黙り込んだとか。この清こそが、本当の天の声。愛知県では、徳川の分家や重臣、上杉の分家が沢山いますが、稲荷(スパイ行為)を祀る宗教の人から、海外の力に最後まで屈しなかった2本の大木、松と杉。って言われてますよ。これが事実です。
白虎隊は鶴ヶ城が落城したと勘違いし自刃したものと長らく言い伝えられてきましたが、近年、生き残りである飯沼貞吉の手記により、落城と勘違いしていたわけではなく、生きて囚われの身になるよりも、「武士の本分」を貫くため自刃したということが分かっています。
大変不謹慎かもしれませんけど、今現代の価値観からしたら何故危機が迫ってる時に武士のプライドなのかポリシーなのかわかりませんが自刃するという考えに至ったのでしょうか?
現代の価値観で考えるのも謎だし武士の美学として腹切ったことはすでにコメントで言及してるし そもそもなんで白虎隊の方々が腹切ることを決めたのかを質問主に聞くことも全て謎
@@shun-rw2ylなんでそんなに厳しいのか謎なんだけど。質問してる人に対して教えず突き放すのも謎だし、そもそもあの人はあなたに質問してないのに謎行動すぎる。投稿主に質問してるのは確かに違うと思うけど、あそこに書いとけば他にわかる人見たら代わりに教えてくれるわけだし別によくない?って思うけど。
@@shun-rw2yl 私も「落城と勘違い → 我々も自刃」なら分かるけど「まだ戦闘中と分かってる → 捕縛を案じ自刃」がピンとこなかったです。wikipediaの抜粋で恐縮ですが『城に戻り戦うか、敵の側面を付いて反撃するか等の議論の末、敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃を決意した。』と、議論の飛躍が有り、その辺りの詳しい話もご存知かと思い質問したのではないですか?
@@Jun-wu6fs世界大戦でも日本兵は捕虜になるくらいならと手榴弾で自爆してるよ。日本人こその価値観。悲しいけどその覚悟と国を思う気持ち日本人として誇らしいです。
様々な歴史動画アップされてますが学校で歴史を習うより凄くわかりやすく興味持てる動画だと思います。
会津は、何回行っても飽きない😊
鶴ヶ城がとにかく立派です。
来たんなら馬刺しも食っていけよな
私も会津に何回も行ってます 飽きません
小学生の時、会津若松に行きました。大内宿も素敵で大好きになりました。鶴ヶ城では、銃痕を見た記憶があります。そして、少し歳上のお兄さんたちの写真がありました。このくらいのときに亡くなったと聞いたけど当時はその事実を実感できなかったです。白虎隊が火事をみて亡くなられてゆくアニメをみて少し分かりました。そのあと、お墓参りした記憶があります。それから、9年後、白虎隊の方々と同じ歳のころに鶴ヶ城へ再び行きました。銃痕は探しても見当たらず。リニューアル?されていたのか前と違ったような…。そしてそこからまた7年後、この動画を見てはっとしました。仙台に数年住んだし、白川も遊びに行った、二本松には大会で行った、そして何より私は庄内人。酒井さんのお話はよくされていたけど、子供の頃は耳に入っても右から左へ。この歳(20代後半)になってようやくご先祖様や地域の皆様がいたからこその今がある、何も無駄ではないと思いました。会津若松を訪れたときに、ここが今まで遊びに行ったところで一番好きだ!と当時感動しました。それはどこかで会津の人とつながりがあったからなのかな、とは思い過ぎかな…。でもとにかく、私は、どこの土地の人でも昔の人に感謝しないとと気付かされました。
今日も分かりやすい説明をありがとうございます✨
会津に山口出身の彼女を紹介するために連れて帰ったら家族に反対されて破談になった話を聞いたことがある。時代が変わろうとも歴史の遺恨は根深く残るね。
それ逆もありますよ。新婚さんいらっしゃいでありましたが、鹿児島の女性が福島県の男性と結婚しようとして鹿児島の実家に福島の男性を連れてきたら大反対されたとか。
会津だけでは無いと思いますよ。家は、上杉の分家みたいな家ですが、やっぱり、山口?長州なんてって言いますからね。裏切り者の卑怯者扱いは、何処の武家も相手にしないでしょう?長州って稲荷じゃないですか?稲荷って、荼枳尼天っていう女夜叉が大将ですよね。だから、良く、この女狐め、と言うんですよね。侍じゃない行為をしたんですから。
東北、鹿児島、山口で今では聞き取れないクセ強な訛り言葉で罵ろあっただろうから、迫力ある現場だっただろうなー。
白虎隊の生き残り飯沼貞吉はのちに逓信省の通信技師となり、西南戦争ではその電信技術を駆使して政府軍の勝利に大きく貢献したというのも、また歴史の面白いところです。
飯盛山で死にきれず自殺しようとしたところを長州藩士に咎められたって話は感動しました。
😮
村上藩と庄内藩が鼠ヶ関を守ったおかげで鶴岡は戦闘がなく終戦した。降伏のタイミングが遅かったら北越戦争や会津戦争のようなことになってたかもしれない。新潟の幕末といえば河井継之助だけど鳥居三十郎もいつかドラマや映画になってほしいです。
戦後、庄内藩は寛大な措置(西郷隆盛の意向とも?)で済んだのとは対象的に会津藩に対する措置は厳しいものでした。会津藩は新政府側のもつ旧幕府側への恨みつらみのような負のエネルギーを一身に受け止めた感じです。
薩摩藩は庄内藩を全く恨んでおりませんでしたね。庄内藩が江戸警固番役の時に、薩摩藩は幕府を戦争に引き込む挑発して江戸の薩摩藩邸は焼き討ち惨殺されて戊辰戦争の前哨戦となりましたね! 戊辰戦争を引き起こした藩は庄内藩ですがが、挑発したのは薩摩藩です。 薩摩の人達は庄内藩大好きで、復讐などとんでもない🤪 歴史解釈を変えてください🙇
新政府側に寝返る旧幕府側も早かった。鳥羽伏見の戦いの途中で徳川慶喜が大阪城から江戸へ退却 その翌日には徳川御三家筆頭の尾張徳川が新政府に恭順 それからは 徳川御三家の尾張藩は、徳川慶勝が東海道諸藩の新政府の触頭に任命され 、佐幕色の強かった東海道譜代諸藩を勤皇側へ動かしたことで 新政府軍は、難なく東海道を進軍紀州徳川も新政府と戦う意思が無い証明として紀州藩士1500人と15万両を新政府に献上徳川親藩の越前福井藩も新政府軍として上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦 。戊辰戦争では長岡藩に対する征討作戦にも加わり、北上して村上城を陥落させた。 庄内や会津藩とも戦闘 。徳川譜代筆頭の彦根藩も戊辰戦争では新政府軍に加わり小山や本宮など各地を転戦 近藤勇の捕縛にもあたった 。
庄内藩は新政府に対して本間家が30万両という巨額献金をしたので軽い処分で済んだというだけです当初の処分案は石高を半分以下にして領地替えというものでした会津や仙台藩も献金すればなんとかなったかもしれませんが、仙台藩も石高を半分以下にされ藩士を2万人解雇するなど厳しい処分となりました’
色々教えて頂き、ありがとうございます。勉強になりました。
新政府の恨み?新政府はちゃんと交渉から入ってるんだが。てかオマエ会津が売国計画したり北越や北関東、東北、道南で蛮行しまくり領地の民からも見放されたの知らないだろ?w
結局のところ、京都守護職として治安を担当して薩長などの倒幕志士を取り締まったことが仇となってスケープゴートにされたが故の悲劇といえますね勝てば官軍とはよく言ったものですただ誤解にもとづく通説や多少の誇張もあるようなので検討の余地はあるように思えます
京都守護職の時の恨みを持つ人はいましたけど、それは原因ではないですよ。戊辰戦争が始まってからの会津藩の行動に問題があります。なぜかここを詳しく書く人って少ないです。会津藩にとって都合の悪い事だからなのかもしれませんが。
@@lon4557 詳しく教えてください。何があったのですか?
@@yamachaniso8443 慶喜は第一級、会津、桑名は2級の朝敵。慶喜と桑名(桑名藩主は逃亡して会津藩と合流)は罪を認め恭順。会津藩は罪を認めず正当防衛主張。この動画でも言われていますが、容保は一応恭順しつつも戦に備えています。軍編成をしたり武器を洋式化するなど。恭順は慶喜が恭順してる以上は自分たちも一応恭順の姿勢をとっていただけで内心はどうにか抵抗しようと考えていたのだと思います。会津藩は新政府軍に不満を持つ旧幕府の陸軍の江戸城脱走に力を貸して一緒に会津へ逃げるなど挑発するかのような不審な行動をとってます。新政府軍も本当に恭順する気はないのだと考えて会津討伐を決定。ちなみにこの脱走に手を貸したというのは会津藩の山川健次郎が著者の会津藩を視点にした本にも書かれています。で、この会津討伐命令についてですが、これは東征大総督府にいた大総督府参謀で宇和島藩士の林通顕という人物が独断で決めた可能性が高いと言われています。京都大の教授や専門家も指摘しています。岩倉具視や政府首脳の意見があっても最終的には林が決定していたのだろうと。西郷は戦に出てよく不在でした。大総督府のトップは有栖川宮熾仁親王で幹部に公家達はいましたが、お飾りなので実際は参謀である西郷と林が動かしていたのだと言われています。つまり長州藩が恨んでたからというのは間違いだということ。それに新政府軍側は会津討伐を決定しますが、仙台藩米沢藩を通じて会津藩に対して「今からでも本当に謝罪する姿勢を見せるのであれば、寛大な処分にして今の罪を軽くする用意はある」と通達。そこで宮城県にある関宿という場所で仙台藩、米沢藩、会津藩のそれぞれの代表が集まり会津藩の嘆願について会議をしています。そこで仙台藩が会津藩が今からでも謝罪して許してもらうためには藩主の首や城の明け渡しくらいしないと許してもらえないのではないか、それくらいできないのであれば、こちらも新政府側に取次するのは難しいと言って、会津藩も帰って相談しますけど正式に拒否する回答を出す。会談については、会津藩側の史料の会津戊辰戦史、仙台藩側の史料の仙臺戊辰史にも書かれています。会津藩が正式に謝罪拒否したことについては、会津藩の平石弁蔵の著者の本にも書かれています。会津藩以外の東北の藩が提出した嘆願が却下されたのは世良修三のせいだと言われてはいますが、実際は会津藩が正式に謝罪拒否したから却下されています。当の会津藩が正式に謝罪拒否している以上は新政府側も嘆願は却下しても仕方ないと思います。却下された後は会津藩は新政府軍が占領していた白河に奇襲して占領しています。つまり先に宣戦布告と言える行動をとってるのは会津藩です。そこから新政府軍側も反撃して本格的に戦が始まっています。仙台藩に軟禁された総督も救出。あと奥羽越列藩同盟って教科書とかには会津藩に同情した東北の藩の同盟のように書かれています。確かに会津藩に同情した藩もいますが、仙台藩の軍事的圧力で仕方なく加入している藩も少なくないので全員が同情してたわけではありません。実際に仙台藩は新政府軍と戦うための兵をなかなか出さない藩に多くの兵を差し出して圧力をかけています。戊辰戦争研究家の山田野理夫さんという宮城県仙台出身の方がいますが、この方が著者の東北戦争には会津嘆願書は総督府宛ての物ではなく仙台藩宛てに周旋を依頼したものであり、謝罪や恭順の文字は1つもなかったそうです。協議された藩主の首についても触れられてなかったようです。また会津藩が蝦夷地を担保にしてプロイセンと交渉して武器や軍資金を得ようとしてた証拠が2013年に見つかってますね。あと会津戦争での埋葬についても長年放置されたとさんざん言われてたのに会津戦争終結後の10日後に明治政府の命令で埋葬された証拠が見つかっています。会津若松市で郡山の歴史家の野口さんによって発見されています。埋葬についてもただ埋葬されたわけではなく、遺族にわかりやすいように発見時の服装や家紋も図で残されてたようです。人件費やらも具体的に。長くなりすみません。
@@yamachaniso8443 慶喜は第一級、会津、桑名は2級の朝敵。慶喜と桑名(桑名藩主は逃亡して会津藩と合流)は罪を認め恭順。会津藩は罪を認めず正当防衛主張。この動画でも言われていますが、容保は一応恭順しつつも戦に備えています。軍編成をしたり武器を洋式化するなど。恭順は慶喜が恭順してる以上は自分たちも一応恭順の姿勢をとっていただけで内心はどうにか抵抗しようと考えていたのだと思います。会津藩は新政府軍に不満を持つ旧幕府の陸軍の江戸城脱走に力を貸して一緒に会津へ逃げるなど挑発するかのような不審な行動をとってます。新政府軍も本当に恭順する気はないのだと考えて会津討伐を決定。ちなみにこの脱走に手を貸したというのは会津藩の山川健次郎が著者の会津藩を視点にした本にも書かれています。で、この会津討伐命令についてですが、これは東征大総督府にいた大総督府参謀で宇和島藩士の林通顕という人物が独断で決めた可能性が高いと言われています。京都大の教授や専門家も指摘しています。岩倉具視や政府首脳の意見があっても最終的には林が決定していたのだろうと。西郷は戦に出てよく不在でした。大総督府のトップは有栖川宮熾仁親王で幹部に公家達はいましたが、お飾りなので実際は参謀である西郷と林が動かしていたのだと言われています。つまり長州藩が恨んでたからというのは間違いだということ。それに新政府軍側は会津討伐を決定しますが、仙台藩米沢藩を通じて会津藩に対して「今からでも本当に謝罪する姿勢を見せるのであれば、寛大な処分にして今の罪を軽くする用意はある」と通達。そこで宮城県にある関宿という場所で仙台藩、米沢藩、会津藩のそれぞれの代表が集まり会津藩の嘆願について会議をしています。そこで仙台藩が会津藩が今からでも謝罪して許してもらうためには藩主の首や城の明け渡しくらいしないと許してもらえないのではないか、それくらいできないのであれば、こちらも新政府側に取次するのは難しいと言って、会津藩も帰って相談しますけど正式に拒否する回答を出す。会談については、会津藩側の史料の会津戊辰戦史、仙台藩側の史料の仙臺戊辰史にも書かれています。会津藩が正式に謝罪拒否したことについては、会津藩の平石弁蔵の著者の本にも書かれています。会津藩以外の東北の藩が提出した嘆願が却下されたのは世良修三のせいだと言われてはいますが、実際は会津藩が正式に謝罪拒否したから却下されています。当の会津藩が正式に謝罪拒否している以上は新政府側も嘆願は却下しても仕方ないと思います。却下された後は会津藩は新政府軍が占領していた白河に奇襲して占領しています。つまり先に宣戦布告と言える行動をとってるのは会津藩です。そこから新政府軍側も反撃して本格的に戦が始まっています。仙台藩に軟禁された総督も救出。あと奥羽越列藩同盟って教科書とかには会津藩に同情した東北の藩の同盟のように書かれています。確かに会津藩に同情した藩もいますが、仙台藩の軍事的圧力で仕方なく加入している藩も少なくないので全員が同情してたわけではありません。実際に仙台藩は新政府軍と戦うための兵をなかなか出さない藩に多くの兵を差し出して圧力をかけています。戊辰戦争研究家の山田野理夫さんという宮城県仙台出身の方がいますが、この方が著者の東北戦争には会津嘆願書は総督府宛ての物ではなく仙台藩宛てに周旋を依頼したものであり、謝罪や恭順の文字は1つもなかったそうです。協議された藩主の首についても触れられてなかったようです。また会津藩が蝦夷地を担保にしてプロイセンと交渉して武器や軍資金を得ようとしてた証拠が2013年に見つかってますね。あと会津戦争での埋葬についても長年放置されたとさんざん言われてたのに会津戦争終結後の10日後に明治政府の命令で埋葬された証拠が見つかっています。会津若松市で郡山の歴史家の野口さんによって発見されています。埋葬についてもただ埋葬されたわけではなく、遺族にわかりやすいように発見時の服装や家紋も図で残されてたようです。人件費やらも具体的に。長くなりすみません。
うわ、分かりやすっ
地図上では、東北諸藩すべてが同盟に加わっているように見えますが、違いますよ。津軽氏の弘前藩、佐竹氏の秋田藩など、新政府側に立って同盟側と戦った藩も存在します。
佐竹は源平の時は平家、関ヶ原の時は西軍に付いていますね
ドラマにも映画にも描かれた長岡征伐にも語り継ぎたい出来事があるよね河井継之助
うちは容保公に仕えた家系です会津戦争で亡くなりました容保公の写真も家にあります教科書やネットでは見たことない写真。レアなのかな?
大変勉強になる
東北諸藩の中には仙台藩も含まれていました。仙台藩の別家だった雄藩の宇和島藩が華族制度で爵位が逆転する現象が起きました。
松平容保がずっと持っていたという宸翰から孤立した孝明天皇への忠誠がわかります。明治天皇即位から討幕優勢になったのかな。
参考にさせて下さいましたよ
2025年フィリピン沖に隕石が衝突し大津波が押し寄せる噂あります。それが真実なら大丈夫と言える街は高山か長野、甲信越くらいなもので前橋や宇都宮は内陸なのに海抜は高くなくて、それより北に安泰な街がないか検索している最中に会津若松が当たりました。すると、
二本松少年隊「三春狐に騙された!」未だに二本松では小学生が劇で演じているそうな…。
会津の悲劇が後の西南戦争で積年の怨みを晴らす会津の人々。
会津若松出身の士族達は、警視庁の抜刀隊に加入して、西郷隆盛の反乱軍を、やっつけました。
この動画にはで出てませんでしたが、長岡藩の家老、河井継之助がガトリング砲で新政府軍と戦いを繰り広げたと言われています。白河口の戦いで新政府軍を勝利に導いた伊地知正治は片目が盲目、片足が不随であり700の兵で2500の兵を破った事から『薩摩の山本勘助』と言われました。
ガトリング砲よりも河合継之助の将才がかなり優れていたからこその善戦だったと思う。
伊地知正治はもっと取り上げられていい人だと思う。
@@えおあいう-d6u 隠れた名将のようですね。歴史の流れが異なって、軍事ドクトリンの作成に関わっていたら、もっと活躍できたのではないでしょうか?彼の火力絶対主義と速戦主義は後の世界大戦の趨勢を左右した電撃戦に通じるものがあります。
ガトリングガンってるろ剣に出てきたよね!「武田観柳with回転式機関砲(ガトリングガン)and弟子阿爛」「ガドガドガドガドガドガドガドガド」ってやつ。
河井継之助はアホとしか思えませんあの段階で武力中立はありえません。最もよい選択支は、その武力で旧幕勢力との戦いに加わり新政府内で影響力を確保し、河井氏の理想を少しでも実現することだったでしょう。
会津人として誇りに思う‼️
東北戦争で唯一敗北しないまま終戦を迎えた庄内藩についてもいつか取り上げていただきたいです。鬼玄蕃酒井 了恒だいすきです
椿台の大会戦で敗北はしていますよ。無敗ということはないです。それまで火縄銃だった秋田藩に新式銃が支給され始めたため、勝てなくなりました
「海老すくい、海老すくい。死んでたまるか海老すくい!」の末裔ですね。
会津藩の悲劇は京都守護職を拝命した時から
京都守護職は実は関係ありませんよ。旧幕府に味方した藩はみんな恭順の意思を示すものの、会津藩だけは恭順の意思を示しませんでしたし、抵抗派の旧幕府軍を連れて会津藩に逃げるなど怪しい動きばかりしていましたから。新政府軍も今からでも謝罪すれば寛大な処置にするといったけど会津藩は何日も返事を放置した後にNOと返事をしています。実際に会津藩側の資料にも証拠としてあります。他の藩に懇願運動を頼むものの、自分たちは裏では庄内藩と軍事同盟を結んでいましたからね。
私の居酒屋がある日新町は激戦地で生首が転がってたぞって年寄が脅かして来ますが、、まぁまぁ不思議な事がおきます(笑)霊体験は多かったかも
世良修三が就任時には既に司令部から会津討伐命令が出て会津攻撃は決まっていたからね。世良が就任する前に何人か辞めてる。だから強行しようとする世良を責めるのは違うと思うんですよね。それに会津藩側も不審な行動をとったりと本当に恭順するがあるとはいえないような怪しい動きをしてるのは新政府軍側も察知してる。実際に会津藩、庄内藩による蝦夷地売却をして軍資金を得ようとしていた証拠も見つかってるから本当は降伏する気はなかった可能性が高い。好き勝手行動すると味方の藩から「こいつにはついていけない」と思われて離れていく。会津藩も内心は降伏する気はなく戦争を続けようと考えていたけど、建前としての理由は必要になる。「新政府軍はむかつくから降伏なんか誰がするか!」なんて言えないわけで、建前上は一応恭順はします、でも新政府軍がもし会津の地に足を踏み込んだら、こちらは攻撃するのでよろしく。と武備恭順の選択している。だから武装も解除しなかった。
人をやたら不審者扱いする人ほど信用できないですよ。現代でも言えますが。
福島県民や東北の職人さんと仕事したことあるけど、山口県民とは未だに相入れたくないと話してたなぁ。どんだけ憎まれるんだよ長州藩と思ってしまった
山口県民の安倍さんが会津若松市に選挙応援に来た時に挨拶で会津人に対して謝っていたが見事に推薦した人は落選しています友好姉妹都市を出されていますが3回断れています 友好的な若松市長は次の選挙で落選しています もうあれから150年仲良くしてくださいと言われるともうではない まだ150年と言われたそうです
西南戦争で、薩摩藩に復讐できたから長州藩に対してよく思わない人もいるみたいですね。というかまずはそういう東北の人や福島県の人が正しい歴史認識をしなきゃ何もはじまりません。未だに会津藩は薩長を主軸とした新政府軍から無理やり攻撃されたと勘違いしてる人が多いです。実際の歴史では会津藩は旧幕府の蝦夷地を勝手に売却しようとしてたり、世良修三の手紙を捏造して仙台藩に斬らせていますから。これもあまり知られてないけど、会津戦争の始まりって実は会津藩と旧幕府軍が新政府軍の占領地を攻めた事が始まりです。歴史ってどっちつかずで中立的な立場で見ないとみえてこない。今まで埋葬を半年間程禁止されたと言われていましたけど、後に福島県の郡山出身の歴史家が福島県で埋葬された証拠を見つけて嘘だったと暴いて本も出版されています。
やれ、埋葬が許されなかっただの嘘ばっか並べ立ててアンチ長州続けてますからね😅1番コイツらおかしいなと思ったのは飯沼貞吉の墓が、自刃した隊士達と離れて造られている事でした。1人だけ生き残ったからってその仕打ち‼️故郷の為に戦った事に違いはなく、あの場で自刃した事も間違いない事実なのに!
やつらが戦争中、会津にやった事、その後に何をしたかもお調べになってみてはいかがでしょうか?
ちなみに、当時の会津の庶民は藩の圧政に苦しんでいたので、新政府軍を歓迎していた。今の会津民のどれくらいが会津武士の子孫かって話だよ。大抵の会津民が会津武士とはゆかりもないくせにいつまでも恨み持ってるとか本当にくだらないな。
・幕末に詳しい者だけど世良が強硬派だったのは間違いなし。だけどその前後にもっと情報を付け加えると世良や会津藩のイメージも少し変わる。世良が参謀下、九条が総督に就任する前に、実は新政府軍は25日に会津藩に対して「会津藩は今まで謝罪もなく無礼な態度ばかりとってきたけど、会津藩が本当に謝罪しようという態度を見せるのであれば、寛大な処置にしてもいい」という通達を出している。この通達がきて仙台藩や米沢藩が会津藩のために会談をする。仙台藩の但木土佐は「会津藩が許してもらうには、城を明け渡し、首謀者の首級を渡すくらいするべきではないか?」とか言って会津藩の梶原は否定的な態度は取るものの、結果的に仙台藩の但木は「会津藩が誠心誠意を込めた態度を示せば、嘆願は聞き届けられるはずだ私が責任持つ」と。会津藩の梶原もそれを聞いて「帰って容保に事情を話して誠意の態度を示すよ」という。だが会津藩この新政府軍の通達を20日以上も無視した後に返事を出してきて「徳川幕府の家名がどうなるかわからないうちは謝罪しない」という返事をしている。会津藩の梶原も最初は新政府軍に誠意の態度を示して戦いを避けたいと思っていたのだろうけど、主戦派と同じ考えに変わったのだろうね。梶原は会津藩主に降伏を勧めていた会津藩の家老の西郷頼母の追放や暗殺を命じているくらいだから。新政府軍の「本気で謝罪しようという態度を見せるのであれば、寛大な処置にしてもいい」という通達は徳川家の慶喜が寛大な処分を受けていたことを前提として通達されたものであることは明らかで会津側もそれを知っているはずなのに、このような宣戦布告ともいえるような挑戦的な返事をしている。つまり会津藩は仙台藩や米沢藩に懇願運動を依頼しておきながら、今までの仙台藩や米沢藩の懇願運動を無駄にするかのような挑戦的な返事をしているってこと。これは会津藩視点の歴史においても史料としてちゃんと残っている。しかも驚きなのが、仙台藩や米沢藩が懇願運動をしてる中、会津藩はこっそり庄内藩と軍事同盟を結んでいる。さっきも言ったが仙台藩や米沢藩に会津藩が懇願運動を依頼しておきながら、自分はこっそりこれから戦う準備をするかのように庄内藩と軍事同盟を結んでいるって事が大きなポイント。ここを見ても会津藩は降伏する気なんてないかのような行動をとっている。この返事を受けて本部は「会津死謝」を決定。会津討伐命令を下す。本部には公家などがいるが実際働いているのは林通顕や西郷隆盛だけど西郷はいなかったから会津討伐命令は林の独断の可能性が高い。会津討伐決定後に九条が総督に、世良が参謀下に就任している。ここまでをみると世良が会津藩に対して強硬したくなるのもわからないでもないと思いませんか?会津藩があのような無礼な返事をしてきたのに会津藩の周りの藩が「会津藩を許してあげて」といっても信用できるわけない。それに世良が参謀下に就く前に何人か辞めてるし、会津藩の赦命を受け取ってどうするか返事を聞くにしても今みたいに新幹線や飛行機がある時代ではないから京都まですぐには帰れるわけではない。帰ってる間に何か問題が起こる可能性もある、そうなれば責任を問われる事にもなるかもしれない。しかし当時の新政府軍は会津討伐のために多くの軍を割く余裕なんてなかった。だから東北の諸藩の軍を最初から当てにしていた。でも東北の藩がなかなか動いてくれないなら世良もお手上げ状態。東北にきた世良や九条など含めても兵は200もいかない程度の僅かな兵。こんな数で当然会津討伐なんてできるわけない、東北の藩も動いてくれないから世良も仕方なくと思ったんだろう、考えが変わり京都に帰って返事を仰ぐことに決めようとする。だけど、この時に仙台藩が動いて世良を暗殺してしまった。戊辰戦争の研究者の山田さんは「会津藩の会津嘆願書の文中に「降伏・謝罪」の言葉が一切なかった」と言っている。会津戦争は会津藩がいかにも被害者的な目線で語られて伝わってはいるものの、実際のところは会津藩は主戦派が多く占めていて降伏も謝罪する気もなかったという事。長い文章になってしまってすみません。
そもそも京都守護職を断り続けていたのに無理やり幕府側からの強い要請で受ける事が始まりである 何故 徳川御三家細おいて 江戸から遠く離れている小さな藩を指名したのか 謎は深まるばかりです会津藩の財政は苦しく(将軍家の血筋という事で幕府えの出費がどんどん増えその時の借金が57万両)会津藩の家老からは大反対されたそうです 特に筆頭家老の西郷頼母は薪能を背負って火の中に入るようなものだと強く反対したそうです そうしたら 家老職を解き謹慎させました 容保は家訓(徳川家の為に忠誠を尽くせ)を出されて養子でも在り先代なら引き受けたと弱みを突き 渋々承諾させた経緯が有った戊辰戦争が始まり伏見の戦いで負けると慶喜は嫌がる容保を連れ出して大阪に戻ってしまった 幕府軍を置いて逃げ戻ってしまう そういう事で藩兵は怒りその時の秀才だった軍事奉行だった神保修理はその後会津に戻った時部下から責任を追及され自ら切腹している藩主に言われて仕方なく行動したのに 神保の親も戦争中に切腹している大阪から江戸に慶喜が謹慎する時に容保のは江戸へは来ることは禁じ会津え帰れと言った 容保は会津にて 謹慎していたが 新政府軍は納得せず会津藩討伐へ走り出す後に仙台藩中心に会津藩を討伐せよと命令を出した 仙台藩とその他の藩は会津藩の討伐だけはと懇願して当初受理の方向へ向こうとしていたが新政府軍方への密書の内容に激怒した仙台藩士により世良修蔵が暗殺された その死によって受理されそうに成っていた 会津藩の助命嘆願が撤回されてしまった その後 奥羽列藩同盟が出来て会津戦争が始まったが会津以外が次々と降参して 会津だけになり やがて開城したが 戦争の責任を取らせられて菅野権兵衛1人が切腹した 当初は3人出せと言われていたがすでに 2人の家老が戦争中に切腹していたので 菅野権兵衛1人が責任取らされた
@@利用夕方 新政府軍は何もいきなり会津討伐に乗り出したわけではないですよ。会津藩は鳥羽伏見の戦の開戦責任について正当防衛を主張してます。しかも孝明天皇の書簡の写しを添えて。また会津藩は恭順の姿勢は示していますけど、容保は戦に備えて戦争の準備をしています。他にも会津藩の山川健次郎の調べによると、会津藩は江戸の抗戦派の旧幕府軍の脱走に手を貸して一緒に会津へ逃げたりなど挑発的な行動をとってます。そんな会津藩の行動を見て新政府側も会津討伐を決めます。新政府軍側が討伐を決めますけど、仙台藩などを通じて本気で恭順する気があるなら罪を軽くしてもいいと伝えてます。新政府軍は戦力は多いと思われがちですが、戦力に余裕はないし、寝返った藩もいつ裏切るかわからないし東北の藩全てを敵に回すのはできるだけ避けたいわけです。だから東北に派遣された兵も世良などを含めてかなり少なかった。仙台戊辰史や会津戊辰史にも新政府軍側の恭順要求について話し合いがあった事は明記されていますよ。会津藩はそれについて正式拒否しています。仙台出身の戊辰戦争研究家さんによると、世良を悪者にするために密書に手が加えられた可能性があると言ってますね。何度か送って総督府に意見が届いてるようですよ。でも仙台藩側の意見に総督府側が呆れてたようです。当の会津藩が正式拒否している以上は嘆願は受け入れられなくて当然です、会津藩の会津嘆願書もこれは総督府宛てではなく、仙台藩宛てで一切恭順や謝罪はなかったそうです。最後まで戦ったのは庄内藩ですね。会津藩が降伏したことで庄内藩も降伏しています。2013年に会津藩と庄内藩が蝦夷地を担保にドイツと武器や資金を交渉してた証拠も見つかってます。会津藩側に降伏する意志はなかったのだろうと辻褄が合いますよ。そもそもっていいますけど、会津戦争になった事と京都守護職は関係ないですよ。
尊皇攘夷と西軍が掲げたのは外国人を日本国に入れるな!じゃなくて幕府を倒す為の詭弁だったのが最近の調査で分かったそうです。
あのー尊王攘夷の意味を理解していますか? 尊王攘夷とは言葉でもわかるように天皇を尊い外国を追い出す意味です。ですのでこれは「幕府は不要だ、天皇中心の政治にして外国を追い出せ」というものですよ。
@@machimachioだからそれが詭弁なのでしょう。何の調査かわからないが。
その後も会津藩の人たちは差別されたそうですが、それについても説明していただけますか?
会津藩関係者は差別されたという話は小説とかではセオリーですが、実際のところはどうも違うっぽいですよねぇ。会津藩の出身でも出世した人物なら、山川健次郎・山川浩・池上四郎 ・柴五郎・東海散士・林権助・その他にも色々と結構名前が出ますし、逆に賊軍地域でもないのに名前が上がらないようなところもあります。敗北してるんで苦労したのは間違いないですけど、能力のある人物は上に行ってますし、逆に要領の悪い人物はうだつが上がらなかった、とそれだけのことじゃないですか。それは現代でも同じですし。
@@ぷるぷる山脈 教えありがとうございます。 会津藩の人物について勉強してみます
賊藩には原発です
福島は国道4号13号49号があります、ひどいと思いますね長州は
@@ぷるぷる山脈山川大蔵のことがあるのでは?陸軍にいた山川大蔵が西南戦争後に昇進することになったのですが、山縣有朋の「山川は会津ではないか」の一言で手柄に見合った昇進にはならなかったとか。
村上藩も 城が燃やされ跡地しかないですm(__)m
個人的に世羅修造が凡愚故に、東北戦争で悲劇的な白虎隊や二本松少年隊など、生きていたら日本を引っ張っていくことになっていた宝を失う羽目になったと思うんですよね…
地元の長州藩には、評判いいらしいですよ。
長岡戦争における土佐藩士・岩村精一郎も同様。
@@りつでん 様敵対では不評でも、地元では評判が良いとされるのは薩長サイドでは多い感じなのでしょうか?長岡の河井継之助だと地元だと評価二分(やや酷評が目立つような)ですが、同じ旧幕府でも福島方面からは評価されたり、薩長サイドの一部も後の新政府への登用を検討していたらしく、一定の評価を得ているようにも思います。
@@user-up1ou2nd8v 様岩村は若気の至りでしょうか、のちに河井への対応に関しては反省を口にしたような感じですが、薩長の西郷隆盛ないし黒田清隆が会談相手だったら、また違った感じになっていたのでは?という話が出たりするくらいですね。
特に凡愚ではないでしょう世良は鳥羽伏見では活躍したし、真面目に会津藩を攻撃しない仙台藩がアホなのです鳥羽伏見で幕府に味方した藩は、会津も含めて一律朝敵となりましたが、高松藩や姫路藩には周囲の藩に朝敵討伐の命令が出て討伐軍が組織されて進発し、高松藩、姫路藩とも無血開城しました。高松藩や姫路藩のように簡単に片が付くと思いきや、なれ合いの戦争でごまかした上に、会津には無血開城する気はサラサラありません。頭が悪いとしか思えません。普通に仙台など諸藩が会津に侵攻し、会津が無血開城していたら’、高松藩や姫路藩のように軽い処分が会津には下されたでしょう。
八重のさくらで戊辰戦争の特に会津攻めが一番興味が沸いた
私の故郷は京都で、会津に何の縁もゆかりもないけれど、会津の人には深く同情する。徳川慶喜この💩ボスが逃げたせいで、何の罪もない会津の白虎隊の子供が何故自決しないといけないのか。考えただけでも辛く無念に思う。旧幕府を信じてただけなのに。大政奉還の話になった時ここまで話を伝えてくれる人が少ないのは、徳川慶喜が叩かれない為。徳川慶喜を絶対許せない。子供が自決する時や失敗した時の文章を読んで心恨みます。女子供老人は集団自決しましたってさらっと説明して良いわけない。敵が乗り込んだ時シンと静まり返った母屋では沢山の女子供が集団自決。しにぞこなった子供が敵に向かって敵か?味方か?って聞いて止めを刺してもらった文章などさらっと流して良いわけない。
その白虎隊達を出動させたのは会津藩ですし、降伏の道を選ばなかったのも会津藩ですよ。慶喜も鳥羽の戦の後に家臣を許してくれと言っていますが、会津藩だけは謝罪はなかったですから。幕府を信じてるなら会津藩も降伏の道を選びます。なぜかこの動画では語られていませんが、新政府軍は会津藩に対して今から恭順すれば寛大な処置にすると仙台藩を通じて知らせています。しかし、会津藩は返事を何日も放置してNO。実際に会津藩側の資料で会津藩がNOと言った証拠が実在しています。そして仙台藩が「会津藩の工作によって世良修三の手紙が捏造されていたから世良を斬ってしまったが、新政府軍に盾突くつもりはなかった」と弁明しています。
当時の価値観で言うなら元服前の子供に自刃させる会津藩がクソなんだわ
そんなんだから今の薩長政府に目の敵にされて東北の復興が進まないんよ😂
会津の人たちの山口への恨みは今でも強い
松平は要らんな
負け犬の遠吠えはらしくないのでないでしょう。
藩主が容保などというアホでなかったら戊辰戦争はありませんでした。篭城は援軍が期待できる時にだけ取り得る戦法です。
会津人がサイコパスなだけです🤣
家は上杉の分家みたいな者ですが、恨みではなく、裏切り者とは付き合いたく無いだけかと。島津は、病床で薩長同盟を聞き、長州と土佐?他には居ないのか?日本人の大名は島津だけじゃないか。大義ある徳川に申し訳無いと言っていたとか。
世良は悪いイメージありますけど、世良が下参謀就任前から、上級司令部の宇和島藩士の林によって会津死謝という会津討伐は決定してたんですけどね。(注)この動画ではかなり重要な部分が抜けています。新政府軍は会津討伐が決定したものの会津藩にチャンスとして「今からでも本気で恭順する姿勢を見せるなら会津藩の罪を軽くする」と通達してるんです。仙台藩、米沢藩も一応会津藩を説得してますが、会津藩は正式に拒否してます。仙台藩が交渉したことは仙台戊辰史にもありますし、会津藩の平石弁蔵が著者の会津戊辰戦争にも「会津藩が新政府軍に対して謝罪を正式に拒否した」と書かれています。問題である会津藩が謝罪する気がないのに他の東北の藩は会津藩を許してあげてくれーと言ってるんですよね。新政府軍側としても問題となっている会津藩が謝罪する気がないのに許してあげてくれと言われたところで「無理な話でしょ」ってなります。それで世良や総督府は受け入れ拒否してるんです。また世良は密書に仙台藩からの圧力に不安になり応援を要請しています。歴史ドラマでは横柄で態度のデカい世良ですが実際は舐められて下に見られてたのは世良側のほうなんですよね。派遣された新政府軍の兵もかなり少数でしたからね。
どうしてそんな怪しいチャンスを、持ちかけたんだ?
高校時代の社会の先生が言ってたのですがもしも旧幕府が勝っていたら、会津若松市に新幹線が走っていただろうと言っていました。
これはほぼ間違いないと思います。旧幕府が勝っていれば東北の中心は会津若松ですから、今の新白河から会津若松、そして米沢、庄内に抜けていくルートになったでしょう。そしていまの郡山を開拓したのは大久保主導ですからね。
この時、会津の民衆が速攻で新政府軍についたのを見たことから、自由民権運動を始めるに至る板垣退助さん。
会津キタ――(゚∀゚)――!!
ぶっちゃけ会津でも北部(喜多方周辺)の人達は長州憎いとか薩摩憎いとか聞いた事ないですね会津若松の方は知らんけど
ならぬものはならぬか❤
二本松少年隊のことかな。
伊地知と板垣は優秀な軍略家
悪く言うつもりはないが、開明的な公用方の神保朱里を惜しげもなく切腹の処置を下した会津藩には、残念の一言に尽きる。
この頃の恨みというのは昭和になっても根強かったらしく、地元である新発田市にいた頃、日本史の先生が会津の友達のうちに泊まりに行ったら「新発田者には背中を向けて寝られん、帰ってくれ」と突き返されたと語って居られました。その先生は3年前の当初御年60歳手前という方だったのでここ半世紀以内の事であろうと思われます。実際問題、長岡市なんかともどうも不仲だそうですしやっぱ恨みは深いんですかねぇ...
かみです
いろんな〜しがらみが〜有りますね~
庄内藩は徹底抗戦して領内への侵入を許さなかったでしょう。藩主酒井忠成の元プロシアから最新式のスピンドル銃を輸入し維新軍とも装備で負けたいなかったそうです。
庄内藩は会津藩と比べて小さい藩でしたが会津藩より財政が豊富でしたその為 新しい銃器等の装備が充実していました庄内藩は薩摩藩江戸屋敷を放火して燃やしたりもしていますが戦争終わった後おとがめは少なかったそうです 庄内藩は17万石から12万石 対して 会津藩は23万石から3万石しかも下北半島の斗南藩へ移住させられています その差は何だったんでしょうか 各藩の処遇を決める会議で西郷隆盛の一言で決定されたそうです 何故江戸屋敷を焼失されたりしたのに 庄内藩を潰すなら おいどんを殺してくれの一言で罪が軽くなったそうです
長い…人に読んでもらいたいならもっと簡潔にしないと 自己満な文字の大量羅列はスクロールの邪魔だよ
庄内藩の事も 官軍に 負けなかった事❗️
東北戦争の実態は知れば知るほど目を覆いたくなります。特に長州、奇兵隊の会津の人達に対する乱行は酷いものだったと聞きますからね。過去に会津若松市が萩市との友好都市提携を拒否したのも分かる気がします。
其れは作話で御座います。 長州藩は会津若松城攻めに参加しておりません。
そもそもが薩摩と土佐が主体なのに、奇兵隊長州が乱行をやったって一次史料があるのか知りたい。
戊辰戦争は江戸封建制度を維持するか、それとも本人の努力次第で誰しも宰相になり得る社会を創成するかの戦いでした。 其れの是非は別にして。 既得権益が失われることには抵抗を伴うことは必然ですね。薩長藩は自ら解体して、矛盾が西南戦争です。 西郷どんと大久保利通は薩摩鹿児島を壊滅させておりました😡 奥羽越諸藩の封建制度の維持で列強諸国に対峙して日本の独立を護れたのでしょうか! 東北地方の人達は歴史小説史観に拘泥されておりませんか?
確かに長州藩は直接の戦闘には参加していませんが、戦後の処理も含めて全てを命令したのは長州藩と薩摩藩なので恨みを買っているのですよ。
まだ会津プロパガンダ洗脳者っているんだな。会津が売国計画してたとか各地で蛮行三昧だったの知らないだろ?w
白虎隊、、私と同じくらいだ、、
やっぱ京都の会津小鉄会ってその流れでて来たんだよね
二本松少年隊は白虎隊に並ぶ位認知されてほしい。
むしろ悲劇商法の会津よりもよっぽど悲劇的
@@丞相-p4gこの動画を作ったのは会津民ではないですよね
いわゆる逆賊と言われたような人達が居て負け戦覚悟で戦ってくれたからこそ明治政府が成り立って行ったのかなと思う。
自分が小学生くらいの時だから、40年くらい前のテレビで、会津藩の地域の人達は薩摩、長州の人は嫌いってテレビで言ってたのをおぼえている。だから戦争デズニー負けた、韓国とかは、ずーっと恨むんだと思う。確かに謝罪だけじゃ許される訳じゃないが、戦争をすると絶対にどこかで恨みが出てくると思う。
会津が攻撃されたのは京都守護職時代に長州藩を中心とする尊王攘夷派を痛めつけてその恨みからというのを聞いてたから私もそう思ってましたが、よくよく調べると有栖川宮熾仁親王や公家と西郷隆盛と林通顕の大総督府が会津攻撃を決めたのであって長州藩関係ないっぽいですよね。しかも東北と対立して戦争が始まった直後に長州藩の司令官は会津ではなく仙台藩を叩くべきだと提案したけど薩摩藩と土佐の司令官に反対されたようです。
同感です。それに会津で起きたといわれる有名なレ○プ事件も長州のせいにする人が多いけど、あの事件は大垣藩士がやった事。なのに会津では長州が目の敵にされている。
@@ズズズクラブレイプ事件の話が最初に話題になったのはいつ頃でしょうか?
東北方面で鍋島藩以上に近代化が進んでいたら会津藩も嫌でも近代化を進めざるをえなくなって、戊辰戦争の結果もとんでもないほどに変わっていただろうに。
会津は海が遠いから外国との交流とか海上輸送が難しかったのも近代化に進めなかった原因としてあるかもですね、。
@@どこぞの軍曹 そこは幕府がサポートするしかないと思う。せめて吉宗から田沼時代にかけて、隠密を拡充して国外に諜報網を構築し、外交奉行を設け、その直轄地として”江戸出島”を作り、そこにはアジア侵略の前科を持たない西洋国家(プロイセン、スウェーデン、オスマン・トルコ)を招いて、譜代や親藩大名家の英才たちに西洋の学問を学ぶ機会を与えると同時に、当時の西洋学問分野のほぼすべてを制覇していた超天才・スウェーデンボルグの全著作とその知識を導入していくだけで日本の科学史さえ変わっていくと思う。異端とされた科学者や技術者を亡命させて彼らから知識を学ぶ体制も整えていくべきだろう。
高校生の頃、社会の先生が言ってたんですが、「もし、戊辰戦争で会津が勝ってたら、会津は、新幹線が通ってただろう。」と
@@りつでん それどころか、東北の開発と近代化が明治中期から本格化して、戦前の時点で日本の国力は史実に倍近い水準になったと思います。それは日本の軍事戦略に巨視的な姿勢を取らせるくらいの余裕を与え、満州の開拓に大恐慌からの脱出を焦るアメリカ資本の大幅参入を実現させたかもしれませんね。そうなれば当然、後のアメリカの対日政策も大幅に変わってしまいます。下手をすれば、ドイツの同盟国である中国とアメリカとの戦争と言う形で東洋方面の世界大戦が行われ、原爆の大量投下などで地獄と化した中国や、過度の軍事支出で疲弊したアメリカをしり目に、日本は米英にかろうじて追いつく程度の工業化と自主的な核武装を達成したかもしれません。
@@りつでん それはないでしょう旧幕府側が勝利したら、幕藩体制が維持され、明治維新で廃藩置県、廃刀令、秩禄処分は無く、岩倉、木戸、大久保らの政府首脳が米欧回覧し国家モデルを探すなどの前代未聞の壮挙もなかったわけで、後進国のままだったでしょう
会津が謝罪を拒否したからという意見があり、それは事実だとは思うのですが、謝罪は到底無理だったという点も重要だと思います。【どのような謝罪が求められていたのか】東征大総督府下参謀・林通顕「会津は実々死謝を以ての外に之れなく」つまり、容保の首を持ってくれば許すということです。会津藩士や列藩同盟が「容保公、というわけです。死んでくれれば丸く収まります」などと言えるはずもない。これは新政府側も「どうせ拒否するに決まってる、結局潰す」という魂胆だったと思います。会津側も、それは分かっていたと思います。だから武備は必要でした。歴史学者北岡伸一の説では、新政府首脳陣は大急ぎで予算、軍事、法律などを整備しなければならない段階にあり、消化試合のような東北戦争はあまり眼中になかった。手柄を立てそこなっていた人たちが躍起になっていた面もあると思う、と言っていました。私怨では?全部がそうではないですが、それもあったと思います。それを肯定も否定もせずちょっとセリフで入れたのは慧眼だと思います。
それな
そこにいたものは誰だったのだろう そこが知りたい
飯沼さんが死んでたら自分はいなかったって考えたら怖い
すみません!しっかりと拝聴しておりません。写真でみる会津城の感じは陥落ではなく、ヴィンテージでした。
東北諸藩は会津に同情して同盟を結成したと言われていますが、実際は仙台藩が九条提督の身柄の人質と世良の暗殺を機に軍事的圧力を盾にして無理やり同盟に入れたようなものです。当然仙台藩という大きな藩の軍事圧力には逆らえないという藩は多かった。あと世良修三についてですが、世良はあくまで司令部の決定事項に従って動いてただけですからね。世良が就任する前から会津討伐は既に決定していましたし、世良が就任する前に2人の下参謀がいましたが、なかなか思うように事が運ばず下参謀という仕事もキツかったので自ら辞めたいと言ってその2人とも下参謀を辞めています。世良としては下参謀としてあまり時間をかけたくなかったのだと思います。上にどうするか指示を仰ぐにしても5日は時間がかかると九条も言っています。それに会津藩の行動を見てると会津藩を信用できなかったのもあるのかも。会津藩はこれまでに全く謝罪してませんし、天皇に対しては恭順の意志を示しているものの、新政府軍は認めてなかった。
薩長はひでーことすんな、会津は戦争する気はなかった、念のため軍備を整えるのは当たり前。
ではお聞きしますけど、戦争する気がなかったなら、会津藩はなぜ旧幕府から譲り受けた蝦夷地をドイツに売ろうとしてたんでしょうか? 会津戦争のはじまりってじつは新政府軍の占領地に会津藩と旧幕府軍が攻めてきたのがきっかけですが、なぜせめてきたのでしょうか?
会津の長州(山口)嫌いは今現在も続いてるという。
会津がではなくて、武家の出身なら皆嫌ってますよ。島津も病床で、薩長同盟を聞き、長州と薩摩と土佐?日本人の大名は薩摩だけじゃないか?大義ある徳川に申し訳無い、恥ずかしい。と言っています。長州は、武家としての血が負けた藩ですから、
5:42 中立国佐渡ヶ島爆誕!
トップが無能だと、下が不幸になるんですね。
wakariyasui
何か忘れてますよ 日本海側の村上ファン 鶴岡 鶴岡 西郷隆盛と戦う 負けませんでした 鶴岡さんは 最後には降伏しましたが 村上ファンの100人以上死にました 俺の先祖も 村上で戦いました
会津に西軍が攻め入って喧嘩になった時、迷惑したのは会津庶民で喧嘩なら無人島でやってくれとウンザリしたそうです。そこで鶴ヶ城を西軍が攻めあぐねていたので地元の寺の坊さんがあの小田山から大砲を撃てばすぐ城は墜ちるよと西軍に教えてあげたら城は簡単に堕ちたそうです。これが会津藩が負けた原因だったそうです。
会津民は重税かけまくったり文字通り領民を盾にした恨みで会津戦争に便乗して会津藩に一揆しかけてるけどな恨み言のように連呼する斗南送りだって距離的に近い猪苗代じゃさらに一揆を食らうからと自分達で選択したんだよなぁ
第二次世界大戦の末期と同じで幼年男児婦まで巻き添えにするとは哀れである。武士の意地は武士が果たせ。静止した家老も居たそうな。ならぬものはならぬと言えば死すしかないか。
この戦争は会津藩主が早い段階で切腹していれば防ぐ事ができた。「ならぬことはならぬ」「武士の誇り」等と云うのであれば、藩主自らが実践していれば、この悲劇は起きなかった。とNHKの番組「敗北から学ぶ~」で歴史家のコメンテーターが解説してましたね。さらに云えば、会津藩の上意下達の考え方が飯盛山の自刃の原因になったとも説明していました。そして、唯一の生き残りとなった飯沼貞吉は、生き残ったために会津では暮らしていけないだろうと長州藩士が長門国に連れ帰って世話をし、後に逓信省に勤務したそうです。ちなみに、その事実はその後隠蔽されたようです。
まあ、長州は、高杉晋作が立ち上がらなかったら、藩士は、おろか下手したら保守派が(幕府派)が殿様親子もどうなった事かか⁉️土佐も恩ある容堂を無視して、板垣退助は、自分の指揮かに部隊をそのまま引き連れて西郷の指揮かに入り(事実上西郷の手下に)薩摩も第2次長州征伐以降、薩摩本国以外の大阪、京、江戸の薩摩藩士は、全て大久保、西郷の家来にそれに比べたら会津は、誰一人藩主容保の首を届けて降参しようという人は最後までいなかった⁉️
@@呉志 実は会津藩は鳥羽伏見の戦の後の2月の時期に鳥羽伏見の戦の責任について、「先に新政府軍側が攻撃してきたからこちらは応戦したまで。だから正当防衛だ。こちらに罪はない」と言って罪を認めていないんですよね。慶喜と桑名藩は罪を認めて恭順しています。京には軽装で上京する事、そして帰国を命じられていたのに会津藩は開戦論を唱えて武装して京へ進軍してきてるわけです。そして罪を認めずに正当防衛主張です。会津藩は一応恭順の意を示してはいるものの、この恭順は武備恭順です。恭順はするけど、もし攻めてきたら攻撃しますよというもの。それに恭順は新政府軍に対してではなく、天皇に対して恭順しますよというもの。容保は恭順しつつも新政府軍に攻撃されることを考えて軍編成をして訓練、戦の準備をしていました。また江戸城解放後は抵抗派の旧幕府の陸軍の脱走に手を貸して、一緒に会津へ逃げています。その後に新政府軍から今からでも罪を認めて恭順しなさい、そうしたら処分を緩めるよと提案するも、会津藩は返事を何日も保留した後に謝罪を拒否する回答を出しています。(平石弁蔵(父が元会津藩士) 著の会津藩を視点とした『会津戊辰戦争』にも書かれています)
以前、島津軍はイカれたバーサーカー軍団ってのを観ました。なんでも、斬りかかった薩摩兵の攻撃を防ぐために会津兵が銃剣で防ごうとしたら、銃剣は真っ二つにされて、兜ごと頭をかち割られたって話があるとか。どうしても、忠義と悲劇がクローズアップされがちな会津戦争ですが、実際に戦っていた皆様は本当に怖かったのだと思います。文面やまとめ動画でしか知ることはできないですが、しっかりと学びたいと感じました。
世良修蔵は暗殺されて当然の輩黒田清隆の代わりに九条が来たため世羅のやりたい放題になってしまったんでしょうねそれにしても松平容保の優柔不断が会津の悲劇を招いたと思いますがどうなんでしょう?
やりたい放題してたわけじゃないと思います。そもそも上級司令部によって会津討伐は既に決定していてその後に世良は下参謀に就任しましたから。その仕事をしていただけだと思います。他の藩は会津藩のために懇願運動はするものの会津藩だけは謝罪をしませんでしたし、裏では庄内藩と軍事同盟を結んでいます。旧幕府軍に味方した藩は朝敵として認定されましたが、会津藩を除いた殆どの藩はみんな恭順してるわけです。しかし会津藩だけは無血開城後に抵抗派の旧幕府の残党と一緒に会津へ逃げたり不審な行動をとっています。また会津藩は新政府軍からの今からでも謝罪すれば寛大な処置にする用意はあるよと通達するも1カ月近く無視して「徳川家のなりきを見届けるまでは謝罪しないよというNOという返事をしています。(会津藩側も認めている資料として今でも残っています)既に徳川家が寛大な処分で済んでいるのは皆知っているのにこういう返事を出すのは当時では挑戦的な返事なわけです。 世良もこれらをみたら会津藩に恭順する意思はないと考えて当然だと思います。それにその世良は会津藩の工作によって仙台藩に斬られていますからね。(仙台藩が認めている)なぜか会津戦争って会津藩側にとっての都合の良い歴史で広まってしまっている。福島県に住む歴史家も言っていますよ「誤った歴史認識は正すべきだ」と。
世良を立てた維新軍の政治的策略に乗っかった印象ですね。
世良の最後は当然
世良は密書に緊張状態で不安である事を書いてて応援をよこしてほしいと書いてます。だから実際は仙台藩などの東北側の圧力的なものがあったんでしょう。派遣された時は世良含めて50人もいなかったので。
会津は京都守護職をたとえ受けても禁門の変位で引き上げるべきでした。…。本家慶喜を早々に見切るべきでした…。
8.18のクーデターで、長州藩を御所から追い出したのは薩摩と会津なのに、禁門の変で早々見切って引き上げるって道理に合ってない。本家慶喜とは言うけど、当時の将軍ではなく総指揮官だから見切ると言うのもよく分からない…。
そうそう慶喜はさっさと見限るべきだった。あれ、こいつ前と言ってることが違うなってことが多いわけだし。鳥羽伏見の段階だと見捨てれないから、長州征伐が終わった後ぐらいに。
もとは会津と同盟したのに途中から長州に鞍替えした薩摩の節操の無さ。
まちかぶ日記様🤪 其のような見解は歴史小説史観と見做せますね。 会津と薩摩の同盟等はありえませんでした。 幕府守護職と薩摩? 8.18の政変は孝明天皇が島津久光に朝廷の長州派公卿を排除する様に要請し、薩摩は薩英戦争で動きが取れず、京の薩摩藩邸の傑物高崎佐太郎が一人で会津守護を説得して為された無血革命でした。 強かな薩摩藩が守護職の武力を利用しておりましたね。 薩摩は腹黒いです。 故に幕府を倒しましたね。
郡山って九州から来た金録が廃止されて無職の士族どもに与えられた開拓の仕事で出来上がった町だから戊辰戦争後間もない頃は会津の人達と九州からの移民の間でイザコザが起きてたりしてそう
会津は本当に気の毒
慶喜「朝敵にになるのを恐れて一人で命乞いした自分が何かかっこ悪いじゃないか」
ならぬものは、ならぬ。現在の政治に、もっとも必要な言葉ではないでしょうか。以前、年末にあってたドラマ 白虎隊や田原坂を見て育ってきたのですが 新政府軍が正しかったのかなと思ってたけど 何故こんなご時世になってしまったのかと。明治政府を悪く言うのではありません。世界諸国に負けまいと、日本を変化するんだと思っての事でしょう。しかし、会津藩 東北列藩同盟は日本を考えてだったのではと。ならぬものは、ならぬ。この一言に、現代の姿を感じさせられます。
その会津藩は旧幕府から譲り受けた蝦夷地(今の北海道)をドイツに売ろうとしていたのですが。それは日本のためだったのでしょうか?戊辰戦争の特に会津戦争について調べればよくわかりますよ。世良修三の手紙を捏造して世良を暗殺されるきっかけになったのも会津藩だと仙台藩は認めています。
会津藩はまぎれもなく官軍だった・・・
世良修蔵仁、付いて詳しく、知りた意です何故必要性も、無い野に責め立てたのかが、解りませんが、村田蔵六の、気し様と等、違う斗、想います❢なにか狙い我、或る行動丿、様に、想えマス!
戦争に略奪や陵辱は付きものです。
白虎隊がかわいそう
NO ENTIENDO PERO LINDO VIDEO :)
何故京都守護職が長州藩を弾圧?したのか?官軍と賊軍の立場の逆転は何故起こったのか?世良(長州)は何故強硬に及んだのか?どちら側の目線で見るかで表現は変わるよね。白虎隊は集団自決とでも?死亡の隊士の半数以上は戦死という話もあるけどね。
ちょっと待って、幕府に反抗する人々を弾圧って? なんでそもそも京都守護職が設置されたんでしたっけ? 修蔵の横暴さも、かなりのものだったようで。官軍は、勝ってから官軍になったわけで、そもそも賊軍でした。😊
その修蔵も会津藩の捏造工作によって仙台藩に斬られていますけどね。そもそも修蔵が下参謀に就任する前から大総督府の命令で会津討伐は決定していてそれに従っていただけにすぎない。ここらへん詳しく知れば世良の気持ちもよくわかります。無知だと勝手に世良=悪というイメージしかありませんが。私も最初は世良は殺されても当然だと思っていました。
だから九州と東北は、分かりあえないわけだ
大丈夫です。幕末会津の悲劇といっても、江戸時代は徳川一門として栄華を誇っていたんですから。
孝明天皇の第一の忠臣は、松平容保公を於いて他に無し。これは歴史的事実。その会津藩が賊軍として追討を受けた事、ここに悲劇があった。二本松藩の家老一族の末裔ですが、薄汚く立ち回った【長州許すまじ】の思いは強いです
長州藩関係ないですよ。会津討伐は長州藩の独断で決定したと思ってるならそれはあまりにも歴史を知らなさすぎる。
長州が東北福島でやらかした無慈悲極まる残虐な愚行、比較的寛容だった薩摩。東北、取り分け福島、会津の人間は忘れる事は無いでしょう(父も自分も東京生まれですがw)
@@安斎徹-w1e 安徹さん、その長州藩がやったという根拠はなんでしょうか?身内などにそういわれたからでしょうか?それとも何かの本に書かれていたのでしょうか?
@@安斎徹-w1e 作家兼歴史ジャーナリストさんが会津若松市にいってあちこち調べたり、資料館の人に聞いたりして調べたものの、それらに関連する資料などは一切見つからなかったそうです。その無慈悲極まる、残虐な愚行とやらの証拠は当然ありますよね。
そもそも会津が朝敵になったのは、朝廷の入京禁止命令を無視して、京都に殴りこんだからでしょう。会津(と桑名)の行動には親藩の福井・尾張ですら庇いきれずに非難轟々です。
ここまで全てのコメントを読ませていただきましたが、戊辰戦争の根本的な責任者について誰も触れていないことに驚きました。戊辰戦争を引き起こした根本的な責任者は【強引に開国と不平等条約の締結を迫ってきた欧米列強】です。薩長側と幕府側、それぞれに言い分はあるのでしょうが、大局を見れば、日本人同士が争っている場合ではなかったのです。歴史を単なる物語としてではなく教訓として捉えれば、今の日本人がするべきことが見えてきます。つまり、自身が属する家族、会社、地域といった小さな集団の利益のことだけを考えるのではなく、さらに国という大きな集団の利益も考えて団結する必要があるということです。さらにいえば、地球の自然環境と人類の調和というもっと大きな規模の集団の利益を考え、国を超えた協力関係を構築すべきです。それを考えずに自国の利益のみを追求するような人々とは、闘わないまでも距離を置きたいですね。庄内藩士の末裔より
列強が悪いとか暴論すぎてわろた。世界がその流れの中で、開国を渋って外国と戦っていかないといけない中、国内でアホな戦いに没頭している日本が悪いに決まってる。なあに列強のせいにしてるのよ。誰も言わない?当たり前です。列強の動きは世界の潮流からして当然ですから。
这群自尽的孩子太可惜了,一片忠诚可嘉,不过确认了事实再殉国不迟啊!即便殉国,死在战场上,拉几个敌人垫背也行啊……
アメリカ南北戦争より犠牲者は少ない
タラレバですけどすべては、関ヶ原のせい!そんなこと言ったら、きりがないですけど。
ならず者の藩の長州藩がいたからね
柔軟な思考が欠けると…。
6代前の先祖が仙台藩方として旗巻峠の戦いで戦死しました。世良修蔵が許せません。
自害するとかほんまアカンよ😢自己犠牲を美学とする日本の悪しき習慣は今だにあるからなぁ。ブラックな働き方とか。
東北戦争の舞台 会津若松を古地図を使って歩きました
ua-cam.com/video/uZDrLzgy0ok/v-deo.html
大政奉還には、裏話があるんですよ。上杉が新政府軍に入ると言うと、上杉は駄目だ。上杉は、天皇陛下や朝廷のお気に入りだから。そこで、上杉は天皇陛下と謁見して、海外の力を借り、スパイ行為をし卑怯なクーデターを起こす薩長に錦の旗印を渡すなら、上杉は最後の1人になる迄、幕府軍として戦う。そうなれば、何の罪の無い民が沢山死にますよ。それでも構わないんですか?と進言し、天皇陛下も悟り、御理解され、慶喜公には申し訳無い事をした。ただ、薩長が力で倒幕したいと聞かないから、少しだけ戦って負けたフリをして欲しい。上杉からの要望は、慶喜公の命の保証と、新政府での重要なポスト。上杉が慶喜公に伝えようとすると、途中で、薩摩、加賀に続いて上杉までも長州に付いたか?上杉は、上杉は違う。最後の1人になる迄、幕府軍として戦う。最後の将軍慶喜公の言葉は、梅(前田)じゃ無かった杉(上杉)だった。260年間虐げて申し訳無かった。それに引き換え、百万石も与えても、狐(毛利)一匹押さえられない。情けない。狐って、稲荷ですから、稲荷の大将は荼枳尼天っていう女夜叉。上杉は毘沙門天で、元々、夜叉の王様ですからね。織田包囲網の時も、関ヶ原の時も、いつも上杉頼りが感じられます。会津をおとした、新政府軍は、俺達は強い、侍に勝ったと大はしゃぎするのを、天皇陛下が見て、清(セイ)と一喝。お前らは、海外の力を借り、スパイ行為をし卑怯なクーデターを起こしただけだ。幕府軍が本気ならお前らは皆殺しにされている。彼らを本気にさせるな。彼らは、譲ってくれたんだ。新政府軍は、皆、下向いて、黙り込んだとか。この清こそが、本当の天の声。愛知県では、徳川の分家や重臣、上杉の分家が沢山いますが、稲荷(スパイ行為)を祀る宗教の人から、海外の力に最後まで屈しなかった2本の大木、松と杉。って言われてますよ。これが事実です。
白虎隊は鶴ヶ城が落城したと勘違いし自刃したものと長らく言い伝えられてきましたが、近年、生き残りである飯沼貞吉の手記により、落城と勘違いしていたわけではなく、生きて囚われの身になるよりも、「武士の本分」を貫くため自刃したということが分かっています。
大変不謹慎かもしれませんけど、今現代の価値観からしたら何故危機が迫ってる時に武士のプライドなのかポリシーなのかわかりませんが自刃するという考えに至ったのでしょうか?
現代の価値観で考えるのも謎だし武士の美学として腹切ったことはすでにコメントで言及してるし そもそもなんで白虎隊の方々が腹切ることを決めたのかを質問主に聞くことも全て謎
@@shun-rw2yl
なんでそんなに厳しいのか謎なんだけど。
質問してる人に対して教えず突き放すのも謎だし、そもそもあの人はあなたに質問してないのに謎行動すぎる。投稿主に質問してるのは確かに違うと思うけど、あそこに書いとけば他にわかる人見たら代わりに教えてくれるわけだし別によくない?
って思うけど
。
@@shun-rw2yl 私も「落城と勘違い → 我々も自刃」なら分かるけど「まだ戦闘中と分かってる → 捕縛を案じ自刃」がピンとこなかったです。
wikipediaの抜粋で恐縮ですが『城に戻り戦うか、敵の側面を付いて反撃するか等の議論の末、敵に生け捕られることを避けるべく一同は自刃を決意した。』と、議論の飛躍が有り、その辺りの詳しい話もご存知かと思い質問したのではないですか?
@@Jun-wu6fs世界大戦でも日本兵は
捕虜になるくらいならと手榴弾で
自爆してるよ。日本人こその価値観。
悲しいけどその覚悟と国を思う気持ち
日本人として誇らしいです。
様々な歴史動画アップされてますが学校で歴史を習うより凄くわかりやすく興味持てる動画だと思います。
会津は、何回行っても飽きない😊
鶴ヶ城がとにかく立派です。
来たんなら馬刺しも食っていけよな
私も会津に何回も行ってます 飽きません
小学生の時、会津若松に行きました。大内宿も素敵で大好きになりました。鶴ヶ城では、銃痕を見た記憶があります。そして、少し歳上のお兄さんたちの写真がありました。このくらいのときに亡くなったと聞いたけど当時はその事実を実感できなかったです。白虎隊が火事をみて亡くなられてゆくアニメをみて少し分かりました。そのあと、お墓参りした記憶があります。
それから、9年後、白虎隊の方々と同じ歳のころに鶴ヶ城へ再び行きました。銃痕は探しても見当たらず。リニューアル?されていたのか前と違ったような…。
そしてそこからまた7年後、この動画を見てはっとしました。仙台に数年住んだし、白川も遊びに行った、二本松には大会で行った、そして何より私は庄内人。酒井さんのお話はよくされていたけど、子供の頃は耳に入っても右から左へ。この歳(20代後半)になってようやくご先祖様や地域の皆様がいたからこその今がある、何も無駄ではないと思いました。
会津若松を訪れたときに、ここが今まで遊びに行ったところで一番好きだ!と当時感動しました。それはどこかで会津の人とつながりがあったからなのかな、とは思い過ぎかな…。
でもとにかく、私は、どこの土地の人でも昔の人に感謝しないとと気付かされました。
今日も分かりやすい説明をありがとうございます✨
会津に山口出身の彼女を紹介するために連れて帰ったら家族に反対されて破談になった話を聞いたことがある。時代が変わろうとも歴史の遺恨は根深く残るね。
それ逆もありますよ。新婚さんいらっしゃいでありましたが、鹿児島の女性が福島県の男性と結婚しようとして鹿児島の実家に
福島の男性を連れてきたら大反対されたとか。
会津だけでは無いと思いますよ。家は、上杉の分家みたいな家ですが、やっぱり、山口?長州なんてって言いますからね。裏切り者の卑怯者扱いは、何処の武家も相手にしないでしょう?長州って稲荷じゃないですか?稲荷って、荼枳尼天っていう女夜叉が大将ですよね。だから、良く、この女狐め、と言うんですよね。侍じゃない行為をしたんですから。
東北、鹿児島、山口で今では聞き取れないクセ強な訛り言葉で罵ろあっただろうから、迫力ある現場だっただろうなー。
白虎隊の生き残り飯沼貞吉はのちに逓信省の通信技師となり、西南戦争ではその電信技術を駆使して政府軍の勝利に大きく貢献したというのも、また歴史の面白いところです。
飯盛山で死にきれず自殺しようとしたところを長州藩士に咎められたって話は感動しました。
😮
村上藩と庄内藩が鼠ヶ関を守ったおかげで鶴岡は戦闘がなく終戦した。
降伏のタイミングが遅かったら北越戦争や会津戦争のようなことになってたかもしれない。
新潟の幕末といえば河井継之助だけど鳥居三十郎もいつかドラマや映画になってほしいです。
戦後、庄内藩は寛大な措置(西郷隆盛の意向とも?)で済んだのとは対象的に会津藩に対する措置は厳しいものでした。会津藩は新政府側のもつ旧幕府側への恨みつらみのような負のエネルギーを一身に受け止めた感じです。
薩摩藩は庄内藩を全く恨んでおりませんでしたね。庄内藩が江戸警固番役の時に、薩摩藩は幕府を戦争に引き込む挑発して江戸の薩摩藩邸は焼き討ち惨殺されて戊辰戦争の前哨戦となりましたね! 戊辰戦争を引き起こした藩は庄内藩ですがが、挑発したのは薩摩藩です。 薩摩の人達は庄内藩大好きで、復讐などとんでもない🤪 歴史解釈を変えてください🙇
新政府側に寝返る旧幕府側も早かった。
鳥羽伏見の戦いの途中で徳川慶喜が大阪城から江戸へ退却
その翌日には徳川御三家筆頭の尾張徳川が新政府に恭順
それからは
徳川御三家の尾張藩は、徳川慶勝が東海道諸藩の新政府の触頭に任命され 、佐幕色の強かった東海道譜代諸藩を勤皇側へ動かしたことで 新政府軍は、難なく東海道を進軍
紀州徳川も新政府と戦う意思が無い証明として紀州藩士1500人と15万両を新政府に献上
徳川親藩の越前福井藩も新政府軍として上野の寛永寺一帯に立てこもった彰義隊の討伐に参戦 。戊辰戦争では長岡藩に対する征討作戦にも加わり、北上して村上城を陥落させた。
庄内や会津藩とも戦闘 。
徳川譜代筆頭の彦根藩も戊辰戦争では新政府軍に加わり小山や本宮など各地を転戦
近藤勇の捕縛にもあたった 。
庄内藩は新政府に対して本間家が30万両という巨額献金をしたので軽い処分で済んだというだけです
当初の処分案は石高を半分以下にして領地替えというものでした
会津や仙台藩も献金すればなんとかなったかもしれませんが、仙台藩も石高を半分以下にされ藩士を2万人解雇するなど厳しい処分となりました’
色々教えて頂き、ありがとうございます。
勉強になりました。
新政府の恨み?
新政府はちゃんと交渉から入ってるんだが。
てかオマエ会津が売国計画したり
北越や北関東、東北、道南で蛮行しまくり
領地の民からも見放されたの知らないだろ?w
結局のところ、京都守護職として治安を担当して薩長などの倒幕志士を取り締まったことが仇となってスケープゴートにされたが故の悲劇といえますね
勝てば官軍とはよく言ったものです
ただ誤解にもとづく通説や多少の誇張もあるようなので検討の余地はあるように思えます
京都守護職の時の恨みを持つ人はいましたけど、それは原因ではないですよ。戊辰戦争が始まってからの会津藩の行動に問題があります。なぜかここを詳しく書く人って少ないです。会津藩にとって都合の悪い事だからなのかもしれませんが。
@@lon4557 詳しく教えてください。何があったのですか?
@@yamachaniso8443
慶喜は第一級、会津、桑名は2級の朝敵。慶喜と桑名(桑名藩主は逃亡して会津藩と合流)は罪を認め恭順。会津藩は罪を認めず正当防衛主張。この動画でも言われていますが、容保は一応恭順しつつも戦に備えています。軍編成をしたり武器を洋式化するなど。
恭順は慶喜が恭順してる以上は自分たちも一応恭順の姿勢をとっていただけで内心はどうにか抵抗しようと考えていたのだと思います。
会津藩は新政府軍に不満を持つ旧幕府の陸軍の江戸城脱走に力を貸して一緒に会津へ逃げるなど挑発するかのような不審な行動をとってます。新政府軍も本当に恭順する気はないのだと考えて会津討伐を決定。
ちなみにこの脱走に手を貸したというのは会津藩の山川健次郎が著者の会津藩を視点にした本にも書かれています。
で、この会津討伐命令についてですが、これは東征大総督府にいた大総督府参謀で宇和島藩士の林通顕という人物が独断で決めた可能性が高いと言われています。京都大の教授や専門家も指摘しています。
岩倉具視や政府首脳の意見があっても最終的には林が決定していたのだろうと。西郷は戦に出てよく不在でした。
大総督府のトップは有栖川宮熾仁親王で幹部に公家達はいましたが、お飾りなので実際は参謀である西郷と林が動かしていたのだと言われています。つまり長州藩が恨んでたからというのは間違いだということ。
それに新政府軍側は会津討伐を決定しますが、仙台藩米沢藩を通じて会津藩に対して
「今からでも本当に謝罪する姿勢を見せるのであれば、寛大な処分にして今の罪を軽くする用意はある」と通達。
そこで宮城県にある関宿という場所で仙台藩、米沢藩、会津藩のそれぞれの代表が集まり会津藩の嘆願について会議をしています。そこで仙台藩が会津藩が今からでも謝罪して許してもらうためには藩主の首や城の明け渡しくらいしないと許してもらえないのではないか、それくらいできないのであれば、こちらも新政府側に取次するのは難しいと言って、会津藩も帰って相談しますけど正式に拒否する回答を出す。
会談については、会津藩側の史料の会津戊辰戦史、仙台藩側の史料の仙臺戊辰史にも書かれています。会津藩が正式に謝罪拒否したことについては、会津藩の平石弁蔵の著者の本にも書かれています。
会津藩以外の東北の藩が提出した嘆願が却下されたのは世良修三のせいだと言われてはいますが、実際は会津藩が正式に謝罪拒否したから却下されています。当の会津藩が正式に謝罪拒否している以上は新政府側も嘆願は却下しても仕方ないと思います。
却下された後は会津藩は新政府軍が占領していた白河に奇襲して占領しています。つまり先に宣戦布告と言える行動をとってるのは会津藩です。そこから新政府軍側も反撃して本格的に戦が始まっています。仙台藩に軟禁された総督も救出。
あと奥羽越列藩同盟って教科書とかには会津藩に同情した東北の藩の同盟のように書かれています。確かに会津藩に同情した藩もいますが、仙台藩の軍事的圧力で仕方なく加入している藩も少なくないので全員が同情してたわけではありません。実際に仙台藩は新政府軍と戦うための兵をなかなか出さない藩に多くの兵を差し出して圧力をかけています。
戊辰戦争研究家の山田野理夫さんという宮城県仙台出身の方がいますが、この方が著者の東北戦争には会津嘆願書は総督府宛ての物ではなく仙台藩宛てに周旋を依頼したものであり、謝罪や恭順の文字は1つもなかったそうです。協議された藩主の首についても触れられてなかったようです。
また会津藩が蝦夷地を担保にしてプロイセンと交渉して武器や軍資金を得ようとしてた証拠が2013年に見つかってますね。
あと会津戦争での埋葬についても長年放置されたとさんざん言われてたのに会津戦争終結後の10日後に明治政府の命令で埋葬された証拠が見つかっています。会津若松市で郡山の歴史家の野口さんによって発見されています。埋葬についてもただ埋葬されたわけではなく、遺族にわかりやすいように発見時の服装や家紋も図で残されてたようです。人件費やらも具体的に。
長くなりすみません。
@@yamachaniso8443
慶喜は第一級、会津、桑名は2級の朝敵。慶喜と桑名(桑名藩主は逃亡して会津藩と合流)は罪を認め恭順。会津藩は罪を認めず正当防衛主張。この動画でも言われていますが、容保は一応恭順しつつも戦に備えています。軍編成をしたり武器を洋式化するなど。
恭順は慶喜が恭順してる以上は自分たちも一応恭順の姿勢をとっていただけで内心はどうにか抵抗しようと考えていたのだと思います。
会津藩は新政府軍に不満を持つ旧幕府の陸軍の江戸城脱走に力を貸して一緒に会津へ逃げるなど挑発するかのような不審な行動をとってます。新政府軍も本当に恭順する気はないのだと考えて会津討伐を決定。
ちなみにこの脱走に手を貸したというのは会津藩の山川健次郎が著者の会津藩を視点にした本にも書かれています。
で、この会津討伐命令についてですが、これは東征大総督府にいた大総督府参謀で宇和島藩士の林通顕という人物が独断で決めた可能性が高いと言われています。京都大の教授や専門家も指摘しています。
岩倉具視や政府首脳の意見があっても最終的には林が決定していたのだろうと。西郷は戦に出てよく不在でした。
大総督府のトップは有栖川宮熾仁親王で幹部に公家達はいましたが、お飾りなので実際は参謀である西郷と林が動かしていたのだと言われています。つまり長州藩が恨んでたからというのは間違いだということ。
それに新政府軍側は会津討伐を決定しますが、仙台藩米沢藩を通じて会津藩に対して
「今からでも本当に謝罪する姿勢を見せるのであれば、寛大な処分にして今の罪を軽くする用意はある」と通達。
そこで宮城県にある関宿という場所で仙台藩、米沢藩、会津藩のそれぞれの代表が集まり会津藩の嘆願について会議をしています。そこで仙台藩が会津藩が今からでも謝罪して許してもらうためには藩主の首や城の明け渡しくらいしないと許してもらえないのではないか、それくらいできないのであれば、こちらも新政府側に取次するのは難しいと言って、会津藩も帰って相談しますけど正式に拒否する回答を出す。
会談については、会津藩側の史料の会津戊辰戦史、仙台藩側の史料の仙臺戊辰史にも書かれています。会津藩が正式に謝罪拒否したことについては、会津藩の平石弁蔵の著者の本にも書かれています。
会津藩以外の東北の藩が提出した嘆願が却下されたのは世良修三のせいだと言われてはいますが、実際は会津藩が正式に謝罪拒否したから却下されています。当の会津藩が正式に謝罪拒否している以上は新政府側も嘆願は却下しても仕方ないと思います。
却下された後は会津藩は新政府軍が占領していた白河に奇襲して占領しています。つまり先に宣戦布告と言える行動をとってるのは会津藩です。そこから新政府軍側も反撃して本格的に戦が始まっています。仙台藩に軟禁された総督も救出。
あと奥羽越列藩同盟って教科書とかには会津藩に同情した東北の藩の同盟のように書かれています。確かに会津藩に同情した藩もいますが、仙台藩の軍事的圧力で仕方なく加入している藩も少なくないので全員が同情してたわけではありません。実際に仙台藩は新政府軍と戦うための兵をなかなか出さない藩に多くの兵を差し出して圧力をかけています。
戊辰戦争研究家の山田野理夫さんという宮城県仙台出身の方がいますが、この方が著者の東北戦争には会津嘆願書は総督府宛ての物ではなく仙台藩宛てに周旋を依頼したものであり、謝罪や恭順の文字は1つもなかったそうです。協議された藩主の首についても触れられてなかったようです。
また会津藩が蝦夷地を担保にしてプロイセンと交渉して武器や軍資金を得ようとしてた証拠が2013年に見つかってますね。
あと会津戦争での埋葬についても長年放置されたとさんざん言われてたのに会津戦争終結後の10日後に明治政府の命令で埋葬された証拠が見つかっています。会津若松市で郡山の歴史家の野口さんによって発見されています。埋葬についてもただ埋葬されたわけではなく、遺族にわかりやすいように発見時の服装や家紋も図で残されてたようです。人件費やらも具体的に。
長くなりすみません。
うわ、分かりやすっ
地図上では、東北諸藩すべてが同盟に加わっているように見えますが、違いますよ。津軽氏の弘前藩、佐竹氏の秋田藩など、新政府側に立って同盟側と戦った藩も存在します。
佐竹は源平の時は平家、関ヶ原の時は西軍に付いていますね
ドラマにも
映画にも描かれた
長岡征伐にも
語り継ぎたい出来事が
あるよね
河井継之助
うちは容保公に仕えた家系です
会津戦争で亡くなりました
容保公の写真も家にあります
教科書やネットでは見たことない写真。レアなのかな?
大変勉強になる
東北諸藩の中には仙台藩も含まれていました。
仙台藩の別家だった雄藩の宇和島藩が華族制度で爵位が逆転する現象が起きました。
松平容保がずっと持っていたという宸翰から
孤立した孝明天皇への忠誠がわかります。
明治天皇即位から討幕優勢になったのかな。
参考にさせて下さいましたよ
2025年フィリピン沖に隕石が衝突し大津波が押し寄せる噂あります。それが真実なら大丈夫と言える街は高山か長野、甲信越くらいなもので前橋や宇都宮は内陸なのに海抜は高くなくて、それより北に安泰な街がないか検索している最中に会津若松が当たりました。すると、
二本松少年隊「三春狐に騙された!」
未だに二本松では小学生が劇で演じているそうな…。
会津の悲劇が後の西南戦争で積年の怨みを晴らす会津の人々。
会津若松出身の士族達は、警視庁の抜刀隊に加入して、西郷隆盛の反乱軍を、やっつけました。
この動画にはで出てませんでしたが、長岡藩の家老、河井継之助がガトリング砲で新政府軍と戦いを繰り広げたと言われています。
白河口の戦いで新政府軍を勝利に導いた伊地知正治は片目が盲目、片足が不随であり700の兵で2500の兵を破った事から『薩摩の山本勘助』と言われました。
ガトリング砲よりも河合継之助の将才がかなり優れていたからこその善戦だったと思う。
伊地知正治はもっと取り上げられていい人だと思う。
@@えおあいう-d6u 隠れた名将のようですね。
歴史の流れが異なって、軍事ドクトリンの作成に関わっていたら、もっと活躍できたのではないでしょうか?
彼の火力絶対主義と速戦主義は後の世界大戦の趨勢を左右した電撃戦に通じるものがあります。
ガトリングガンってるろ剣に出てきたよね!「武田観柳with回転式機関砲(ガトリングガン)and弟子阿爛」「ガドガドガドガドガドガドガドガド」ってやつ。
河井継之助はアホとしか思えません
あの段階で武力中立はありえません。最もよい選択支は、その武力で旧幕勢力との戦いに加わり新政府内で影響力を確保し、河井氏の理想を少しでも実現することだったでしょう。
会津人として誇りに思う‼️
東北戦争で唯一敗北しないまま終戦を迎えた庄内藩についてもいつか取り上げていただきたいです。鬼玄蕃酒井 了恒だいすきです
椿台の大会戦で敗北はしていますよ。無敗ということはないです。
それまで火縄銃だった秋田藩に新式銃が支給され始めたため、勝てなくなりました
「海老すくい、海老すくい。死んでたまるか海老すくい!」の末裔ですね。
会津藩の悲劇は京都守護職を拝命した時から
京都守護職は実は関係ありませんよ。旧幕府に味方した藩はみんな恭順の意思を示すものの、会津藩だけは恭順の意思を示しませんでしたし、抵抗派の旧幕府軍を連れて会津藩に逃げるなど怪しい動きばかりしていましたから。
新政府軍も今からでも謝罪すれば寛大な処置にするといったけど会津藩は何日も返事を放置した後に
NOと返事をしています。実際に会津藩側の資料にも証拠としてあります。
他の藩に懇願運動を頼むものの、自分たちは裏では庄内藩と軍事同盟を結んでいましたからね。
私の居酒屋がある日新町は激戦地で生首が転がってたぞって年寄が脅かして来ますが、、まぁまぁ不思議な事がおきます(笑)霊体験は多かったかも
世良修三が就任時には既に司令部から会津討伐命令が出て会津攻撃は決まっていたからね。世良が就任する前に何人か辞めてる。
だから強行しようとする世良を責めるのは違うと思うんですよね。
それに会津藩側も不審な行動をとったりと本当に恭順するがあるとはいえないような怪しい動きをしてるのは
新政府軍側も察知してる。実際に会津藩、庄内藩による蝦夷地売却をして軍資金を得ようとしていた証拠も見つかってるから
本当は降伏する気はなかった可能性が高い。好き勝手行動すると味方の藩から「こいつにはついていけない」と思われて
離れていく。会津藩も内心は降伏する気はなく戦争を続けようと考えていたけど、建前としての理由は必要になる。
「新政府軍はむかつくから降伏なんか誰がするか!」なんて言えないわけで、建前上は一応恭順はします、でも新政府軍が
もし会津の地に足を踏み込んだら、こちらは攻撃するのでよろしく。と武備恭順の選択している。だから武装も解除しなかった。
人をやたら不審者扱いする人ほど信用できないですよ。現代でも言えますが。
福島県民や東北の職人さんと仕事したことあるけど、山口県民とは未だに相入れたくないと話してたなぁ。
どんだけ憎まれるんだよ長州藩と思ってしまった
山口県民の安倍さんが会津若松市に選挙応援に来た時に挨拶で会津人に対して謝っていたが見事に推薦した人は落選しています
友好姉妹都市を出されていますが3回断れています 友好的な若松市長は次の選挙で落選しています もうあれから150年仲良くしてくださいと言われるともうではない まだ150年と言われたそうです
西南戦争で、薩摩藩に復讐できたから長州藩に対してよく思わない人もいるみたいですね。
というかまずはそういう東北の人や福島県の人が正しい歴史認識をしなきゃ何もはじまりません。
未だに会津藩は薩長を主軸とした新政府軍から無理やり攻撃されたと勘違いしてる人が多いです。
実際の歴史では会津藩は旧幕府の蝦夷地を勝手に売却しようとしてたり、世良修三の
手紙を捏造して仙台藩に斬らせていますから。これもあまり知られてないけど、
会津戦争の始まりって実は会津藩と旧幕府軍が新政府軍の占領地を攻めた事が始まりです。
歴史ってどっちつかずで中立的な立場で見ないとみえてこない。
今まで埋葬を半年間程禁止されたと言われていましたけど、
後に福島県の郡山出身の歴史家が福島県で埋葬された証拠を見つけて嘘だったと暴いて本も出版されています。
やれ、埋葬が許されなかっただの嘘ばっか並べ立ててアンチ長州続けてますからね😅
1番コイツらおかしいなと思ったのは飯沼貞吉の墓が、自刃した隊士達と離れて造られている事でした。1人だけ生き残ったからってその仕打ち‼️
故郷の為に戦った事に違いはなく、あの場で自刃した事も間違いない事実なのに!
やつらが戦争中、会津にやった事、その後に何をしたかもお調べになってみてはいかがでしょうか?
ちなみに、当時の会津の庶民は藩の圧政に苦しんでいたので、新政府軍を歓迎していた。今の会津民のどれくらいが会津武士の子孫かって話だよ。大抵の会津民が会津武士とはゆかりもないくせにいつまでも恨み持ってるとか本当にくだらないな。
・幕末に詳しい者だけど世良が強硬派だったのは間違いなし。
だけどその前後にもっと情報を付け加えると世良や会津藩のイメージも少し変わる。
世良が参謀下、九条が総督に就任する前に、実は新政府軍は25日に会津藩に対して
「会津藩は今まで謝罪もなく無礼な態度ばかりとってきたけど、会津藩が
本当に謝罪しようという態度を見せるのであれば、寛大な処置にしてもいい」という
通達を出している。
この通達がきて仙台藩や米沢藩が会津藩のために会談をする。
仙台藩の但木土佐は「会津藩が許してもらうには、城を明け渡し、首謀者の首級を渡すくらいするべきではないか?」とか
言って会津藩の梶原は否定的な態度は取るものの、結果的に仙台藩の但木は
「会津藩が誠心誠意を込めた態度を示せば、嘆願は聞き届けられるはずだ
私が責任持つ」と。会津藩の梶原もそれを聞いて「帰って容保に事情を話して誠意の態度を示すよ」という。
だが会津藩この新政府軍の通達を20日以上も無視した後に返事を出してきて
「徳川幕府の家名がどうなるかわからないうちは謝罪しない」という返事をしている。
会津藩の梶原も最初は新政府軍に誠意の態度を示して戦いを避けたいと思っていたのだろうけど、
主戦派と同じ考えに変わったのだろうね。梶原は会津藩主に降伏を勧めていた
会津藩の家老の西郷頼母の追放や暗殺を命じているくらいだから。
新政府軍の「本気で謝罪しようという態度を見せるのであれば、寛大な処置にしてもいい」という通達は
徳川家の慶喜が寛大な処分を受けていたことを前提として通達されたものであることは明らかで
会津側もそれを知っているはずなのに、このような宣戦布告ともいえるような挑戦的な返事をしている。
つまり会津藩は仙台藩や米沢藩に懇願運動を依頼しておきながら、今までの仙台藩や米沢藩の懇願運動を無駄にするかのような
挑戦的な返事をしているってこと。これは会津藩視点の歴史においても史料としてちゃんと残っている。
しかも驚きなのが、仙台藩や米沢藩が懇願運動をしてる中、会津藩はこっそり庄内藩と軍事同盟を結んでいる。
さっきも言ったが仙台藩や米沢藩に会津藩が懇願運動を依頼しておきながら、自分はこっそり
これから戦う準備をするかのように庄内藩と軍事同盟を結んでいるって事が大きなポイント。
ここを見ても会津藩は降伏する気なんてないかのような行動をとっている。
この返事を受けて本部は「会津死謝」を決定。会津討伐命令を下す。本部には公家などがいるが実際働いているのは林通顕や西郷隆盛だけど西郷はいなかったから会津討伐命令は林の独断の可能性が高い。会津討伐決定後に九条が総督に、世良が参謀下に就任している。
ここまでをみると世良が会津藩に対して強硬したくなるのもわからないでもないと思いませんか?
会津藩があのような無礼な返事をしてきたのに会津藩の周りの藩が「会津藩を許してあげて」といっても
信用できるわけない。それに世良が参謀下に就く前に何人か辞めてるし、会津藩の赦命を受け取ってどうするか返事を聞くにしても今みたいに新幹線や飛行機がある時代ではないから京都まですぐには帰れるわけではない。
帰ってる間に何か問題が起こる可能性もある、そうなれば責任を問われる事にもなるかもしれない。
しかし当時の新政府軍は会津討伐のために多くの軍を割く余裕なんてなかった。だから東北の諸藩の軍を最初から当てにしていた。
でも東北の藩がなかなか動いてくれないなら世良もお手上げ状態。東北にきた世良や九条など含めても兵は200もいかない程度の僅かな兵。
こんな数で当然会津討伐なんてできるわけない、東北の藩も動いてくれないから世良も仕方なくと思ったんだろう、考えが変わり
京都に帰って返事を仰ぐことに決めようとする。だけど、この時に仙台藩が動いて世良を暗殺してしまった。
戊辰戦争の研究者の山田さんは
「会津藩の会津嘆願書の文中に「降伏・謝罪」の言葉が一切なかった」と言っている。
会津戦争は会津藩がいかにも被害者的な目線で語られて伝わってはいるものの、実際のところは会津藩は主戦派が多く占めていて
降伏も謝罪する気もなかったという事。長い文章になってしまってすみません。
そもそも京都守護職を断り続けていたのに無理やり幕府側からの強い要請で受ける事が始まりである 何故 徳川御三家細おいて 江戸から遠く離れている小さな藩を指名したのか 謎は深まるばかりです
会津藩の財政は苦しく(将軍家の血筋という事で幕府えの出費がどんどん増えその時の借金が57万両)会津藩の家老からは大反対されたそうです 特に筆頭家老の西郷頼母は薪能を背負って火の中に入るようなものだと強く反対したそうです そうしたら 家老職を解き謹慎させました 容保は家訓(徳川家の為に忠誠を尽くせ)を出されて養子でも在り先代なら引き受けたと弱みを突き 渋々承諾させた経緯が有った
戊辰戦争が始まり伏見の戦いで負けると慶喜は嫌がる容保を連れ出して大阪に戻ってしまった 幕府軍を置いて逃げ戻ってしまう そういう事で藩兵は怒りその時の秀才だった軍事奉行だった神保修理はその後会津に戻った時部下から責任を追及され自ら切腹している藩主に言われて仕方なく行動したのに 神保の親も戦争中に切腹している
大阪から江戸に慶喜が謹慎する時に容保のは江戸へは来ることは禁じ会津え帰れと言った 容保は会津にて 謹慎していたが 新政府軍は納得せず会津藩討伐へ走り出す
後に仙台藩中心に会津藩を討伐せよと命令を出した 仙台藩とその他の藩は会津藩の討伐だけはと懇願して当初受理の方向へ向こうとしていたが新政府軍方への密書の内容に激怒した仙台藩士により世良修蔵が暗殺された その死によって受理されそうに成っていた 会津藩の助命嘆願が撤回されてしまった その後 奥羽列藩同盟が出来て会津戦争が始まったが会津以外が次々と降参して 会津だけになり やがて開城したが 戦争の責任を取らせられて菅野権兵衛1人が切腹した 当初は3人出せと言われていたが
すでに 2人の家老が戦争中に切腹していたので 菅野権兵衛1人が責任取らされた
@@利用夕方
新政府軍は何もいきなり会津討伐に乗り出したわけではないですよ。会津藩は鳥羽伏見の戦の開戦責任について正当防衛を主張
してます。しかも孝明天皇の書簡の写しを添えて。また会津藩は恭順の姿勢は示していますけど、容保は戦に備えて戦争の準備をしています。他にも会津藩の山川健次郎の調べによると、会津藩は江戸の抗戦派の旧幕府軍の脱走に手を貸して一緒に会津へ逃げたりなど挑発的な行動をとってます。そんな会津藩の行動を見て新政府側も会津討伐を決めます。
新政府軍側が討伐を決めますけど、仙台藩などを通じて本気で恭順する気があるなら罪を軽くしてもいいと
伝えてます。新政府軍は戦力は多いと思われがちですが、戦力に余裕はないし、寝返った藩もいつ裏切るか
わからないし東北の藩全てを敵に回すのはできるだけ避けたいわけです。
だから東北に派遣された兵も世良などを含めてかなり少なかった。
仙台戊辰史や会津戊辰史にも新政府軍側の恭順要求について話し合いがあった事は明記されていますよ。
会津藩はそれについて正式拒否しています。
仙台出身の戊辰戦争研究家さんによると、世良を悪者にするために密書に手が加えられた可能性があると
言ってますね。何度か送って総督府に意見が届いてるようですよ。でも仙台藩側の意見に
総督府側が呆れてたようです。
当の会津藩が正式拒否している以上は嘆願は受け入れられなくて当然です、
会津藩の会津嘆願書もこれは総督府宛てではなく、仙台藩宛てで一切恭順や謝罪は
なかったそうです。
最後まで戦ったのは庄内藩ですね。会津藩が降伏したことで庄内藩も降伏しています。
2013年に会津藩と庄内藩が蝦夷地を担保にドイツと武器や資金を交渉してた証拠も見つかってます。
会津藩側に降伏する意志はなかったのだろうと辻褄が合いますよ。
そもそもっていいますけど、会津戦争になった事と京都守護職は関係ないですよ。
尊皇攘夷と西軍が掲げたのは外国人を日本国に入れるな!じゃなくて幕府を倒す為の詭弁だったのが最近の調査で分かったそうです。
あのー尊王攘夷の意味を理解していますか? 尊王攘夷とは言葉でもわかるように天皇を尊い外国を追い出す意味です。
ですのでこれは「幕府は不要だ、天皇中心の政治にして外国を追い出せ」というものですよ。
@@machimachioだからそれが詭弁なのでしょう。何の調査かわからないが。
その後も会津藩の人たちは差別されたそうですが、それについても説明していただけますか?
会津藩関係者は差別されたという話は小説とかではセオリーですが、実際のところはどうも違うっぽいですよねぇ。
会津藩の出身でも出世した人物なら、山川健次郎・山川浩・池上四郎 ・柴五郎・東海散士・林権助・その他にも色々と結構名前が出ますし、逆に賊軍地域でもないのに名前が上がらないようなところもあります。
敗北してるんで苦労したのは間違いないですけど、能力のある人物は上に行ってますし、逆に要領の悪い人物はうだつが上がらなかった、とそれだけのことじゃないですか。それは現代でも同じですし。
@@ぷるぷる山脈 教えありがとうございます。 会津藩の人物について勉強してみます
賊藩には原発です
福島は国道4号13号49号があります、ひどいと思いますね長州は
@@ぷるぷる山脈
山川大蔵のことがあるのでは?
陸軍にいた山川大蔵が西南戦争後に昇進することになったのですが、山縣有朋の「山川は会津ではないか」の一言で手柄に見合った昇進にはならなかったとか。
村上藩も 城が燃やされ
跡地しかないですm(__)m
個人的に世羅修造が凡愚故に、東北戦争で悲劇的な白虎隊や二本松少年隊など、生きていたら日本を引っ張っていくことになっていた宝を失う羽目になったと思うんですよね…
地元の長州藩には、評判いいらしいですよ。
長岡戦争における土佐藩士・岩村精一郎も同様。
@@りつでん 様
敵対では不評でも、地元では評判が良いとされるのは薩長サイドでは多い感じなのでしょうか?
長岡の河井継之助だと地元だと評価二分(やや酷評が目立つような)ですが、同じ旧幕府でも福島方面からは評価されたり、薩長サイドの一部も後の新政府への登用を検討していたらしく、一定の評価を得ているようにも思います。
@@user-up1ou2nd8v 様
岩村は若気の至りでしょうか、のちに河井への対応に関しては反省を口にしたような感じですが、薩長の西郷隆盛ないし黒田清隆が会談相手だったら、また違った感じになっていたのでは?という話が出たりするくらいですね。
特に凡愚ではないでしょう
世良は鳥羽伏見では活躍したし、真面目に会津藩を攻撃しない仙台藩がアホなのです
鳥羽伏見で幕府に味方した藩は、会津も含めて一律朝敵となりましたが、高松藩や姫路藩には周囲の藩に朝敵討伐の命令が出て討伐軍が組織されて進発し、高松藩、姫路藩とも無血開城しました。
高松藩や姫路藩のように簡単に片が付くと思いきや、なれ合いの戦争でごまかした上に、会津には無血開城する気はサラサラありません。頭が悪いとしか思えません。
普通に仙台など諸藩が会津に侵攻し、会津が無血開城していたら’、高松藩や姫路藩のように軽い処分が会津には下されたでしょう。
八重のさくらで戊辰戦争の特に会津攻めが一番興味が沸いた
私の故郷は京都で、会津に何の縁もゆかりもないけれど、会津の人には深く同情する。
徳川慶喜この💩ボスが逃げたせいで、何の罪もない会津の白虎隊の子供が何故自決しないといけないのか。考えただけでも辛く無念に思う。旧幕府を信じてただけなのに。
大政奉還の話になった時ここまで話を伝えてくれる人が少ないのは、徳川慶喜が叩かれない為。
徳川慶喜を絶対許せない。
子供が自決する時や失敗した時の文章を読んで心恨みます。
女子供老人は集団自決しましたってさらっと説明して良いわけない。
敵が乗り込んだ時シンと静まり返った母屋では沢山の女子供が集団自決。しにぞこなった子供が敵に向かって敵か?味方か?って聞いて止めを刺してもらった文章などさらっと流して良いわけない。
その白虎隊達を出動させたのは会津藩ですし、降伏の道を選ばなかったのも会津藩ですよ。
慶喜も鳥羽の戦の後に家臣を許してくれと言っていますが、会津藩だけは謝罪はなかったですから。
幕府を信じてるなら会津藩も降伏の道を選びます。なぜかこの動画では語られていませんが、
新政府軍は会津藩に対して今から恭順すれば寛大な処置にすると仙台藩を通じて知らせています。
しかし、会津藩は返事を何日も放置してNO。実際に会津藩側の資料で会津藩がNOと言った
証拠が実在しています。そして仙台藩が
「会津藩の工作によって世良修三の手紙が捏造されていたから世良を斬ってしまったが、
新政府軍に盾突くつもりはなかった」と弁明しています。
当時の価値観で言うなら元服前の子供に自刃させる会津藩がクソなんだわ
そんなんだから今の薩長政府に目の敵にされて東北の復興が進まないんよ😂
会津の人たちの山口への恨みは今でも強い
松平は要らんな
負け犬の遠吠えはらしくないのでないでしょう。
藩主が容保などというアホでなかったら戊辰戦争はありませんでした。篭城は援軍が期待できる時にだけ取り得る戦法です。
会津人がサイコパスなだけです🤣
家は上杉の分家みたいな者ですが、恨みではなく、裏切り者とは付き合いたく無いだけかと。島津は、病床で薩長同盟を聞き、長州と土佐?他には居ないのか?日本人の大名は島津だけじゃないか。大義ある徳川に申し訳無いと言っていたとか。
世良は悪いイメージありますけど、世良が下参謀就任前から、上級司令部の宇和島藩士の林によって
会津死謝という会津討伐は決定してたんですけどね。
(注)この動画ではかなり重要な部分が抜けています。新政府軍は会津討伐が決定したものの会津藩にチャンスとして
「今からでも本気で恭順する姿勢を見せるなら会津藩の罪を軽くする」と通達してるんです。
仙台藩、米沢藩も一応会津藩を説得してますが、会津藩は正式に拒否してます。
仙台藩が交渉したことは仙台戊辰史にもありますし、会津藩の平石弁蔵が著者の会津戊辰戦争にも
「会津藩が新政府軍に対して謝罪を正式に拒否した」と書かれています。
問題である会津藩が謝罪する気がないのに他の東北の藩は会津藩を許してあげてくれーと
言ってるんですよね。新政府軍側としても問題となっている会津藩が謝罪する気がないのに許してあげてくれと
言われたところで「無理な話でしょ」ってなります。それで世良や総督府は受け入れ拒否してるんです。
また世良は密書に仙台藩からの圧力に不安になり応援を要請しています。歴史ドラマでは横柄で態度のデカい世良ですが
実際は舐められて下に見られてたのは世良側のほうなんですよね。派遣された新政府軍の兵もかなり少数でしたからね。
どうしてそんな怪しいチャンスを、持ちかけたんだ?
高校時代の社会の先生が言ってたのですが
もしも旧幕府が勝っていたら、会津若松市に新幹線が走っていただろうと言っていました。
これはほぼ間違いないと思います。
旧幕府が勝っていれば東北の中心は会津若松ですから、今の新白河から会津若松、そして米沢、庄内に抜けていくルートになったでしょう。そしていまの郡山を開拓したのは大久保主導ですからね。
この時、会津の民衆が速攻で新政府軍についたのを見たことから、自由民権運動を始めるに至る板垣退助さん。
会津キタ――(゚∀゚)――!!
ぶっちゃけ会津でも北部(喜多方周辺)の人達は長州憎いとか薩摩憎いとか聞いた事ないですね
会津若松の方は知らんけど
ならぬものはならぬか❤
二本松少年隊のことかな。
伊地知と板垣は優秀な軍略家
悪く言うつもりはないが、開明的な公用方の神保朱里を惜しげもなく切腹の処置を下した会津藩には、残念の一言に尽きる。
この頃の恨みというのは昭和になっても根強かったらしく、地元である新発田市にいた頃、日本史の先生が会津の友達のうちに泊まりに行ったら「新発田者には背中を向けて寝られん、帰ってくれ」と突き返されたと語って居られました。
その先生は3年前の当初御年60歳手前という方だったのでここ半世紀以内の事であろうと思われます。
実際問題、長岡市なんかともどうも不仲だそうですしやっぱ恨みは深いんですかねぇ...
かみです
いろんな〜しがらみが〜有りますね~
庄内藩は徹底抗戦して領内への侵入を許さなかったでしょう。藩主酒井忠成の元プロシアから最新式のスピンドル銃を輸入し維新軍とも装備で負けたいなかったそうです。
庄内藩は会津藩と比べて小さい藩でしたが会津藩より財政が豊富でした
その為 新しい銃器等の装備が充実していました
庄内藩は薩摩藩江戸屋敷を放火して燃やしたりもしていますが戦争終わった後おとがめは少なかったそうです 庄内藩は17万石から12万石 対して 会津藩は23万石から3万石しかも下北半島の斗南藩へ移住させられています その差は何だったんでしょうか 各藩の処遇を決める会議で西郷隆盛の一言で決定されたそうです 何故江戸屋敷を焼失されたりしたのに 庄内藩を潰すなら おいどんを殺してくれの一言で罪が軽くなったそうです
長い…人に読んでもらいたいならもっと簡潔にしないと 自己満な文字の大量羅列はスクロールの邪魔だよ
庄内藩の事も 官軍に 負けなかった事❗️
東北戦争の実態は知れば知るほど目を覆いたくなります。
特に長州、奇兵隊の会津の人達に対する乱行は酷いものだったと聞きますからね。
過去に会津若松市が萩市との友好都市提携を拒否したのも分かる気がします。
其れは作話で御座います。 長州藩は会津若松城攻めに参加しておりません。
そもそもが薩摩と土佐が主体なのに、奇兵隊長州が乱行をやったって一次史料があるのか知りたい。
戊辰戦争は江戸封建制度を維持するか、それとも本人の努力次第で誰しも宰相になり得る社会を創成するかの戦いでした。 其れの是非は別にして。 既得権益が失われることには抵抗を伴うことは必然ですね。
薩長藩は自ら解体して、矛盾が西南戦争です。 西郷どんと大久保利通は薩摩鹿児島を壊滅させておりました😡 奥羽越諸藩の封建制度の維持で列強諸国に対峙して日本の独立を護れたのでしょうか!
東北地方の人達は歴史小説史観に拘泥されておりませんか?
確かに長州藩は直接の戦闘には参加していませんが、戦後の処理も含めて全てを命令したのは長州藩と薩摩藩なので恨みを買っているのですよ。
まだ会津プロパガンダ洗脳者っているんだな。
会津が売国計画してたとか
各地で蛮行三昧だったの知らないだろ?w
白虎隊、、
私と同じくらいだ、、
やっぱ京都の会津小鉄会ってその流れでて来たんだよね
二本松少年隊は白虎隊に並ぶ位認知されてほしい。
むしろ悲劇商法の会津よりもよっぽど悲劇的
@@丞相-p4gこの動画を作ったのは会津民ではないですよね
いわゆる逆賊と言われたような人達が居て負け戦覚悟で戦ってくれたからこそ明治政府が成り立って行ったのかなと思う。
自分が小学生くらいの時だから、40年くらい前のテレビで、会津藩の地域の人達は薩摩、長州の人は嫌いってテレビで言ってたのをおぼえている。だから戦争デズニー負けた、韓国とかは、ずーっと恨むんだと思う。確かに謝罪だけじゃ許される訳じゃないが、戦争をすると絶対にどこかで恨みが出てくると思う。
会津が攻撃されたのは京都守護職時代に長州藩を中心とする尊王攘夷派を痛めつけてその恨みからというのを聞いてたから私もそう思ってましたが、よくよく調べると有栖川宮熾仁親王や公家と西郷隆盛と林通顕の大総督府が会津攻撃を決めたのであって長州藩関係ないっぽいですよね。
しかも東北と対立して戦争が始まった直後に長州藩の司令官は会津ではなく仙台藩を叩くべきだと提案したけど薩摩藩と土佐の司令官に反対されたようです。
同感です。それに会津で起きたといわれる有名なレ○プ事件も長州のせいにする人が多いけど、あの事件は大垣藩士がやった事。なのに会津では長州が目の敵にされている。
@@ズズズクラブレイプ事件の話が最初に話題になったのはいつ頃でしょうか?
東北方面で鍋島藩以上に近代化が進んでいたら会津藩も嫌でも近代化を進めざるをえなくなって、戊辰戦争の結果もとんでもないほどに変わっていただろうに。
会津は海が遠いから外国との交流とか海上輸送が難しかったのも近代化に進めなかった原因としてあるかもですね、。
@@どこぞの軍曹 そこは幕府がサポートするしかないと思う。
せめて吉宗から田沼時代にかけて、隠密を拡充して国外に諜報網を構築し、外交奉行を設け、その直轄地として”江戸出島”を作り、そこにはアジア侵略の前科を持たない西洋国家(プロイセン、スウェーデン、オスマン・トルコ)を招いて、譜代や親藩大名家の英才たちに西洋の学問を学ぶ機会を与えると同時に、当時の西洋学問分野のほぼすべてを制覇していた超天才・スウェーデンボルグの全著作とその知識を導入していくだけで日本の科学史さえ変わっていくと思う。
異端とされた科学者や技術者を亡命させて彼らから知識を学ぶ体制も整えていくべきだろう。
高校生の頃、社会の先生が言ってたんですが、「もし、戊辰戦争で会津が勝ってたら、会津は、新幹線が通ってただろう。」と
@@りつでん それどころか、東北の開発と近代化が明治中期から本格化して、戦前の時点で日本の国力は史実に倍近い水準になったと思います。
それは日本の軍事戦略に巨視的な姿勢を取らせるくらいの余裕を与え、満州の開拓に大恐慌からの脱出を焦るアメリカ資本の大幅参入を実現させたかもしれませんね。
そうなれば当然、後のアメリカの対日政策も大幅に変わってしまいます。
下手をすれば、ドイツの同盟国である中国とアメリカとの戦争と言う形で東洋方面の世界大戦が行われ、原爆の大量投下などで地獄と化した中国や、過度の軍事支出で疲弊したアメリカをしり目に、日本は米英にかろうじて追いつく程度の工業化と自主的な核武装を達成したかもしれません。
@@りつでん それはないでしょう
旧幕府側が勝利したら、幕藩体制が維持され、明治維新で廃藩置県、廃刀令、秩禄処分は無く、岩倉、木戸、大久保らの政府首脳が米欧回覧し国家モデルを探すなどの前代未聞の壮挙もなかったわけで、後進国のままだったでしょう
会津が謝罪を拒否したからという意見があり、それは事実だとは思うのですが、謝罪は到底無理だったという点も重要だと思います。
【どのような謝罪が求められていたのか】
東征大総督府下参謀・林通顕「会津は実々死謝を以ての外に之れなく」つまり、容保の首を持ってくれば許すということです。会津藩士や列藩同盟が「容保公、というわけです。死んでくれれば丸く収まります」などと言えるはずもない。
これは新政府側も「どうせ拒否するに決まってる、結局潰す」という魂胆だったと思います。会津側も、それは分かっていたと思います。だから武備は必要でした。
歴史学者北岡伸一の説では、新政府首脳陣は大急ぎで予算、軍事、法律などを整備しなければならない段階にあり、消化試合のような東北戦争はあまり眼中になかった。手柄を立てそこなっていた人たちが躍起になっていた面もあると思う、と言っていました。私怨では?全部がそうではないですが、それもあったと思います。それを肯定も否定もせずちょっとセリフで入れたのは慧眼だと思います。
それな
そこにいたものは誰だったのだろう そこが知りたい
飯沼さんが死んでたら自分はいなかったって考えたら怖い
すみません!しっかりと拝聴しておりません。写真でみる会津城の感じは陥落ではなく、ヴィンテージでした。
東北諸藩は会津に同情して同盟を結成したと言われていますが、実際は仙台藩が九条提督の身柄の人質と世良の暗殺を機に軍事的圧力を盾にして無理やり同盟に入れたようなものです。当然仙台藩という大きな藩の軍事圧力には逆らえないという藩は多かった。
あと世良修三についてですが、世良はあくまで司令部の決定事項に従って動いてただけですからね。
世良が就任する前から会津討伐は既に決定していましたし、世良が就任する前に2人の下参謀がいましたが、なかなか思うように事が運ばず下参謀という仕事もキツかったので自ら辞めたいと言ってその2人とも下参謀を辞めています。世良としては下参謀としてあまり時間をかけたくなかったのだと思います。上にどうするか指示を仰ぐにしても5日は時間がかかると九条も言っています。それに会津藩の行動を見てると会津藩を信用できなかったのもあるのかも。会津藩はこれまでに全く謝罪してませんし、天皇に対しては恭順の意志を示しているものの、
新政府軍は認めてなかった。
薩長はひでーことすんな、会津は戦争する気はなかった、念のため軍備を整えるのは当たり前。
ではお聞きしますけど、戦争する気がなかったなら、会津藩はなぜ旧幕府から譲り受けた蝦夷地をドイツに
売ろうとしてたんでしょうか? 会津戦争のはじまりってじつは新政府軍の占領地に
会津藩と旧幕府軍が攻めてきたのがきっかけですが、なぜせめてきたのでしょうか?
会津の長州(山口)嫌いは今現在も続いてるという。
会津がではなくて、武家の出身なら皆嫌ってますよ。島津も病床で、薩長同盟を聞き、長州と薩摩と土佐?日本人の大名は薩摩だけじゃないか?大義ある徳川に申し訳無い、恥ずかしい。と言っています。長州は、武家としての血が負けた藩ですから、
5:42 中立国佐渡ヶ島爆誕!
トップが無能だと、下が不幸になるんですね。
wakariyasui
何か忘れてますよ 日本海側の村上ファン 鶴岡 鶴岡 西郷隆盛と戦う 負けませんでした 鶴岡さんは 最後には降伏しましたが 村上ファンの100人以上死にました 俺の先祖も 村上で戦いました
会津に西軍が攻め入って喧嘩になった時、迷惑したのは会津庶民で喧嘩なら無人島でやってくれとウンザリしたそうです。そこで鶴ヶ城を西軍が攻めあぐねていたので地元の寺の坊さんがあの小田山から大砲を撃てばすぐ城は墜ちるよと西軍に教えてあげたら城は簡単に堕ちたそうです。これが会津藩が負けた原因だったそうです。
会津民は重税かけまくったり文字通り領民を盾にした恨みで会津戦争に便乗して会津藩に一揆しかけてるけどな
恨み言のように連呼する斗南送りだって距離的に近い猪苗代じゃさらに一揆を食らうからと自分達で選択したんだよなぁ
第二次世界大戦の末期と同じで幼年男児婦まで巻き添えにするとは哀れである。武士の意地は武士が果たせ。静止した家老も居たそうな。ならぬものはならぬと言えば死すしかないか。
この戦争は会津藩主が早い段階で切腹していれば防ぐ事ができた。「ならぬことはならぬ」「武士の誇り」等と云うのであれば、藩主自らが実践していれば、この悲劇は起きなかった。とNHKの番組「敗北から学ぶ~」で歴史家のコメンテーターが解説してましたね。
さらに云えば、会津藩の上意下達の考え方が飯盛山の自刃の原因になったとも説明していました。
そして、唯一の生き残りとなった飯沼貞吉は、生き残ったために会津では暮らしていけないだろうと長州藩士が長門国に連れ帰って世話をし、後に逓信省に勤務したそうです。
ちなみに、その事実はその後隠蔽されたようです。
まあ、長州は、高杉晋作が立ち上がらなかったら、
藩士は、おろか下手したら保守派が(幕府派)が殿様親子もどうなった事かか⁉️
土佐も恩ある容堂を無視して、板垣退助は、自分の指揮かに部隊を
そのまま引き連れて西郷の指揮かに入り(事実上西郷の手下に)
薩摩も第2次長州征伐以降、薩摩本国以外の大阪、京、江戸の
薩摩藩士は、全て大久保、西郷の家来に
それに比べたら会津は、誰一人藩主容保の首を届けて
降参しようという人は最後までいなかった⁉️
@@呉志
実は会津藩は鳥羽伏見の戦の後の2月の時期に
鳥羽伏見の戦の責任について、「先に新政府軍側が攻撃してきたからこちらは応戦したまで。だから正当防衛だ。こちらに罪はない」と言って罪を認めていないんですよね。慶喜と桑名藩は罪を認めて恭順しています。
京には軽装で上京する事、そして帰国を命じられていたのに
会津藩は開戦論を唱えて武装して京へ進軍してきてるわけです。そして罪を認めずに正当防衛主張です。
会津藩は一応恭順の意を示してはいるものの、この恭順は武備恭順です。恭順はするけど、もし攻めてきたら
攻撃しますよというもの。
それに恭順は新政府軍に対してではなく、天皇に対して恭順しますよというもの。容保は恭順しつつも
新政府軍に攻撃されることを考えて軍編成をして訓練、戦の準備をしていました。
また江戸城解放後は抵抗派の旧幕府の陸軍の脱走に手を貸して、一緒に会津へ逃げています。
その後に新政府軍から今からでも罪を認めて恭順しなさい、そうしたら処分を緩めるよと
提案するも、会津藩は返事を何日も保留した後に謝罪を拒否する回答を出しています。
(平石弁蔵(父が元会津藩士) 著の会津藩を視点とした『会津戊辰戦争』にも書かれています)
以前、島津軍はイカれたバーサーカー軍団ってのを観ました。
なんでも、斬りかかった薩摩兵の攻撃を防ぐために会津兵が銃剣で防ごうとしたら、銃剣は真っ二つにされて、兜ごと頭をかち割られたって話があるとか。
どうしても、忠義と悲劇がクローズアップされがちな会津戦争ですが、実際に戦っていた皆様は本当に怖かったのだと思います。
文面やまとめ動画でしか知ることはできないですが、しっかりと学びたいと感じました。
世良修蔵は暗殺されて当然の輩
黒田清隆の代わりに九条が来たため世羅のやりたい放題になってしまったんでしょうね
それにしても松平容保の優柔不断が会津の悲劇を招いたと思いますがどうなんでしょう?
やりたい放題してたわけじゃないと思います。そもそも上級司令部によって会津討伐は既に
決定していてその後に世良は下参謀に就任しましたから。その仕事をしていただけだと思います。
他の藩は会津藩のために懇願運動はするものの
会津藩だけは謝罪をしませんでしたし、裏では庄内藩と軍事同盟を結んでいます。
旧幕府軍に味方した藩は朝敵として認定されましたが、会津藩を除いた殆どの藩はみんな
恭順してるわけです。しかし会津藩だけは無血開城後に抵抗派の旧幕府の残党と一緒に会津へ
逃げたり不審な行動をとっています。また会津藩は新政府軍からの今からでも謝罪すれば
寛大な処置にする用意はあるよと通達するも1カ月近く無視して「徳川家のなりきを見届けるまでは謝罪しないよというNOという返事をしています。(会津藩側も認めている資料として今でも残っています)
既に徳川家が寛大な処分で済んでいるのは皆知っているのにこういう返事を出すのは
当時では挑戦的な返事なわけです。
世良もこれらをみたら会津藩に恭順する意思はないと考えて当然だと思います。
それにその世良は会津藩の工作によって仙台藩に斬られていますからね。(仙台藩が認めている)
なぜか会津戦争って会津藩側にとっての都合の良い歴史で広まってしまっている。
福島県に住む歴史家も言っていますよ「誤った歴史認識は正すべきだ」と。
世良を立てた維新軍の政治的策略に乗っかった印象ですね。
世良の最後は当然
世良は密書に緊張状態で不安である事を書いてて応援をよこしてほしいと書いてます。
だから実際は仙台藩などの東北側の圧力的なものがあったんでしょう。
派遣された時は世良含めて50人もいなかったので。
会津は京都守護職をたとえ受けても禁門の変位で引き上げるべきでした。…。本家慶喜を早々に見切るべきでした…。
8.18のクーデターで、長州藩を御所から追い出したのは薩摩と会津なのに、禁門の変で早々見切って引き上げるって道理に合ってない。
本家慶喜とは言うけど、当時の将軍ではなく総指揮官だから見切ると言うのもよく分からない…。
そうそう慶喜はさっさと見限るべきだった。
あれ、こいつ前と言ってることが違うなってことが多いわけだし。
鳥羽伏見の段階だと見捨てれないから、長州征伐が終わった後ぐらいに。
もとは会津と同盟したのに途中から長州に鞍替えした薩摩の節操の無さ。
まちかぶ日記様🤪
其のような見解は歴史小説史観と見做せますね。 会津と薩摩の同盟等はありえませんでした。 幕府守護職と薩摩? 8.18の政変は孝明天皇が島津久光に朝廷の長州派公卿を排除する様に要請し、薩摩は薩英戦争で動きが取れず、京の薩摩藩邸の傑物高崎佐太郎が一人で会津守護を説得して為された無血革命でした。 強かな薩摩藩が守護職の武力を利用しておりましたね。 薩摩は腹黒いです。 故に幕府を倒しましたね。
郡山って九州から来た金録が廃止されて無職の士族どもに与えられた開拓の仕事で出来上がった町だから戊辰戦争後間もない頃は会津の人達と九州からの移民の間でイザコザが起きてたりしてそう
会津は本当に気の毒
慶喜「朝敵にになるのを恐れて一人で命乞いした自分が何かかっこ悪いじゃないか」
ならぬものは、ならぬ。
現在の政治に、もっとも必要な言葉ではないでしょうか。
以前、年末にあってたドラマ 白虎隊や田原坂を見て育ってきたのですが 新政府軍が正しかったのかなと思ってたけど 何故こんなご時世になってしまったのかと。
明治政府を悪く言うのではありません。
世界諸国に負けまいと、日本を変化するんだと思っての事でしょう。
しかし、会津藩 東北列藩同盟は日本を考えてだったのではと。
ならぬものは、ならぬ。
この一言に、現代の姿を感じさせられます。
その会津藩は旧幕府から譲り受けた蝦夷地(今の北海道)をドイツに売ろうとしていたのですが。
それは日本のためだったのでしょうか?戊辰戦争の特に会津戦争について調べればよくわかりますよ。
世良修三の手紙を捏造して世良を暗殺されるきっかけになったのも会津藩だと仙台藩は認めています。
会津藩はまぎれもなく官軍だった・・・
世良修蔵仁、付いて詳しく、知りた意です何故必要性も、無い野に責め立てたのかが、解りませんが、村田蔵六の、気し様と等、違う斗、想います❢なにか狙い我、或る行動丿、様に、想えマス!
戦争に略奪や陵辱は付きものです。
白虎隊がかわいそう
NO ENTIENDO PERO LINDO VIDEO :)
何故京都守護職が長州藩を弾圧?したのか?官軍と賊軍の立場の逆転は何故起こったのか?世良(長州)は何故強硬に及んだのか?
どちら側の目線で見るかで表現は変わるよね。
白虎隊は集団自決とでも?
死亡の隊士の半数以上は戦死という話もあるけどね。
ちょっと待って、幕府に反抗する人々を弾圧って? なんでそもそも京都守護職が設置されたんでしたっけ? 修蔵の横暴さも、かなりのものだったようで。官軍は、勝ってから官軍になったわけで、そもそも賊軍でした。😊
その修蔵も会津藩の捏造工作によって仙台藩に斬られていますけどね。そもそも修蔵が下参謀に就任する前から
大総督府の命令で会津討伐は決定していてそれに従っていただけにすぎない。
ここらへん詳しく知れば世良の気持ちもよくわかります。無知だと勝手に世良=悪というイメージしか
ありませんが。私も最初は世良は殺されても当然だと思っていました。
だから九州と東北は、分かりあえないわけだ
大丈夫です。
幕末会津の悲劇といっても、江戸時代は徳川一門として栄華を誇っていたんですから。
孝明天皇の第一の忠臣は、松平容保公を於いて他に無し。
これは歴史的事実。
その会津藩が賊軍として追討を受けた事、ここに悲劇があった。
二本松藩の家老一族の末裔ですが、薄汚く立ち回った【長州許すまじ】の思いは強いです
長州藩関係ないですよ。会津討伐は長州藩の独断で決定したと思ってるならそれはあまりにも歴史を知らなさすぎる。
長州が東北福島でやらかした無慈悲極まる残虐な愚行、比較的寛容だった薩摩。
東北、取り分け福島、会津の人間は忘れる事は無いでしょう(父も自分も東京生まれですがw)
@@安斎徹-w1e
安徹さん、その長州藩がやったという
根拠はなんでしょうか?
身内などにそういわれたからでしょうか?
それとも何かの本に書かれていたのでしょうか?
@@安斎徹-w1e
作家兼歴史ジャーナリストさんが会津若松市にいってあちこち調べたり、資料館の人に聞いたりして調べたものの、それらに関連する資料などは一切見つからなかったそうです。その無慈悲極まる、残虐な愚行とやらの証拠は当然ありますよね。
そもそも会津が朝敵になったのは、朝廷の入京禁止命令を無視して、京都に殴りこんだからでしょう。
会津(と桑名)の行動には親藩の福井・尾張ですら庇いきれずに非難轟々です。
ここまで全てのコメントを読ませていただきましたが、戊辰戦争の根本的な責任者について誰も触れていないことに驚きました。
戊辰戦争を引き起こした根本的な責任者は【強引に開国と不平等条約の締結を迫ってきた欧米列強】です。
薩長側と幕府側、それぞれに言い分はあるのでしょうが、大局を見れば、日本人同士が争っている場合ではなかったのです。
歴史を単なる物語としてではなく教訓として捉えれば、今の日本人がするべきことが見えてきます。
つまり、自身が属する家族、会社、地域といった小さな集団の利益のことだけを考えるのではなく、さらに国という大きな集団の利益も考えて団結する必要があるということです。
さらにいえば、地球の自然環境と人類の調和というもっと大きな規模の集団の利益を考え、国を超えた協力関係を構築すべきです。
それを考えずに自国の利益のみを追求するような人々とは、闘わないまでも距離を置きたいですね。
庄内藩士の末裔より
列強が悪いとか暴論すぎてわろた。
世界がその流れの中で、開国を渋って外国と戦っていかないといけない中、国内でアホな戦いに没頭している日本が悪いに決まってる。なあに列強のせいにしてるのよ。誰も言わない?当たり前です。列強の動きは世界の潮流からして当然ですから。
这群自尽的孩子太可惜了,一片忠诚可嘉,不过确认了事实再殉国不迟啊!即便殉国,死在战场上,拉几个敌人垫背也行啊……
アメリカ南北戦争より犠牲者は少ない
タラレバですけど
すべては、関ヶ原のせい!
そんなこと言ったら、きりがないですけど。
ならず者の藩の長州藩がいたからね
柔軟な思考が欠けると…。
6代前の先祖が仙台藩方として旗巻峠の戦いで戦死しました。世良修蔵が許せません。
自害するとかほんまアカンよ😢
自己犠牲を美学とする日本の悪しき習慣は今だにあるからなぁ。
ブラックな働き方とか。