カントの道徳論【正義と善#5】

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  • Опубліковано 18 вер 2024
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    動画の書き起こし版です。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    こんにちは。哲学チャンネルです。
    臓器売買、売春、自殺幇助。
    これらの行為は『道徳的に』正しくない印象を感じさせます。
    しかし、個人の自由という観点から捉えると
    それが双方の合意の上での行為だった場合
    その行動の自由を制限することは正しくないような気もします。
    サンデルはこの『道徳的』という概念を
    カントを用いて説明しました。
    カントに関しては過去にいくつか動画を作りました。
    専門的な用語などに関してはそちらで触れていますので
    今回は専門的な用語をなるべく使わずに
    カントの道徳観を取り上げたいと思います。
    功利主義の祖であるベンサムが【道徳と立法の諸原理序説】を出版した5年後
    イマヌエル・カントは【道徳形而上学原論】を世に発表しました。
    カントは本書において功利主義を明確に批判しています。
    『道徳とは、幸福やその他の目的を最大化するためのものではなく
    人格そのものを究極目的として尊重することだ』
    平たくいえば、道徳をツールにしてはいけない。
    カントのこの主張はその後の普遍的人権や道徳倫理に大きな影響を与えました。
    ある時点での利害や必要性、欲望や選好といった経験的理由を道徳の規準にすべきではない。
    それは変化しやすく、偶然に左右されるので普遍的な基準にはなり得ない。
    同時に功利主義的思想は個人の自由を尊重していない。
    カントはこのように考えました。
    この点ではリバタリアニズムと同じ意見なのですが
    カントが規定する『自由』はリバタリアニズムにおけるそれと比べてかなり厳格なものです。
    カントは前提として、人類には共通の理性の能力があるといいます。
    これをアプリオリ(先験的)な理性と表現したりします。
    その理性を『自律的に道徳を実践するため』に利用できると考えました。
    カントにおける自由はこの【自律】に表現されています。
    自律的とは『目的そのものを目的そのもののために選択すること』です。
    一方で対義語である【他律】は『自分以外のものが下した決定に従って行動すること』
    または『目的のための手段を選択すること』と表現されます。
    カント哲学においては【義務】や【定言命法】などの言葉が現れますが
    広義ではどちらも【自律的】と同じ意味を持っています。
    関係性をまとめるとこのようになります。
    「そうすることが正しいから」という信念以外の動機は
    全て仮言命法であり、傾向性の動機であり、他律的です。
    Aを行うとBが達成される、それがさらにCという結果を導く。
    このプロセスにおいてBやCを期待して行う行為を
    カントは道徳的だと認めません。
    Aをすることが正しいからAをした。
    自律的な行為とはこれ以外にはあり得ないとします。
    これについてよく『抜け目のない店主』が例として挙げられます。
    ある小売店に不慣れな客、例えば子供が訪れたとします。
    店主は子供に対して商品の値段をふっかけることも可能です。
    このときに『値段をふっかけると店の評判が悪くなるかもしれないから適正な値段を提示する』のはカントでいう仮言命法です。
    動機と目的が一致していないので、道徳的ではない。
    一方で『適正な値段で商品を販売するのは正しいことだからそうする』のは定言命法です。
    動機と目的が一致しているため、道徳的です。
    このように、動機と目的が一致していること
    もっと言えば「そうすることが正しい」という動機にしか道徳は存在しないとカントは考えるのです。
    この主張は、功利主義の帰結的考え。
    行動の結果を材料に『正義』を判断する方針と真っ向から対立します。
    カントは「自然の中に存在するものはみな法則に従っている」と述べました。
    人間を含めた全存在は何かしらの法則(物理や因果)によって束縛されています。
    だとすると、決まった法則に則って運動が繰り返されるだけの世界に
    道徳的価値を見いだすことは難しくなります。
    しかしカントは「人間には自由の能力がある」といいます。
    それが『理性』です。
    理性があるからこそ、自然の法則や傾向性にとらわれない
    【自由な】行動を選択することが出来ます。
    つまりカントにおける自由とは理性を前提にした意志であり、
    その理性は自身の道徳法則(正しいこと)を下敷きに
    自分自身を積極的に律します。
    その結果生まれるのが【自律的な行為】なのです。
    カント的な自由とは、束縛が一切ないことではなく、
    理性によって自身を律することなのです。
    それは自然界の法則からの自由であり、
    道徳的な行為そのものでもあります。
    功利主義的な結論も、リバタリアニズムにおける自由も
    カントにとっては人間が先験的に持っている道徳を無視したものに見えるのでしょう。
    カントは理性的存在が従うべき道徳原理を
    『道徳形而上学原論』にて追求しました。
    そこで彼は
    『汝の意志の格律が、常に同時に普遍的法則になるように行為せよ』と述べました。
    これは万人にあてはめても矛盾が生じないような先験的な原則に従って行為せよ。
    とも言い換えられます。
    確かに直感的には正しいような気もしますが、
    一方で、そのような先験的な原則を様々な理性的存在の間で
    共有することは可能なのでしょうか?
    そしてそれを例えば法律などでテキストに起こすことはできるのでしょうか?
    カントの提言から200年後
    政治哲学者のジョン・ロールズがこの問いに答えようと試みます。
    次回はロールズの正義論について触れたいと思います。
    以上です。
    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
    #正義と善
    #カント
    #哲学チャンネル

КОМЕНТАРІ • 25

  • @yabanjin-soulchannel2436
    @yabanjin-soulchannel2436 2 роки тому +6

    この5回までを見てきて個人的にはカントの考え方が一番しっくりきます。法律として実現化するのは大変でしょうが。

  • @aruru4600
    @aruru4600 3 роки тому +4

    「自分を律せよ」と良く言われましたが、カントの道徳論がベースにあったんですね。とても参考になりました。

  • @ri_1067
    @ri_1067 3 роки тому +9

    カントの道徳論を学べば学ぶほどカントの人間に自由を信じる気持ちが伝わって来ますよね。
    カントの道徳論を教科にして全世界の学校で学べば世界平和に近づくと思ったことすらあるほどです。でもそんなこと可能なのか…、ある種人を手段として扱ってしまうのもまた人間の側面でありだからこそ面白い出来事や文学に価値ができたりするとも思って葛藤が起こります…笑

    • @哲学チャンネル
      @哲学チャンネル  3 роки тому +9

      確かに、仮に全人類が道徳に溢れた世界を想像すると、そこには物語が生まれにくくなる気がしますね笑

  • @bajitaichi
    @bajitaichi Рік тому +2

    短いのにものすごく濃い内容でリピートして視聴しています。
    動画内に出てきた、「功利主義の帰結的考え、行動の結果を材料に『正義』を判断する方針」について参照するべき動画があれば教えていただきたいです。

  • @弘太伊藤
    @弘太伊藤 3 роки тому +2

    いつも楽しく拝見しております!
    場所違いで申し訳ありません。
    もしよければ、ピエールブルデューについて解説して頂きたいです!!

  • @浅野早苗-t8c
    @浅野早苗-t8c 2 роки тому +1

    真の道徳は善徳を積む道。
    決して悪徳を積む為の道では無く倦までも善行を精進して前進する事は最も『善徳』を積む事にも成りますからね。後、仏教の教えと通ずる物が有りますよね。✨😀✨
           byミルフィーユ

  • @田舎の百姓-f3c
    @田舎の百姓-f3c 3 роки тому +8

    道徳、社会性、理性は、人間にとって、全てリンクしているのかも知れませんね。
    また、それそのものを論ずると、宗教的になってしまうかも知れません。

    • @0.shusei
      @0.shusei 3 роки тому +3

      故に人間と宗教は切っても切り離せないのでしょう。

  • @岩佐宏樹-o8y
    @岩佐宏樹-o8y 3 роки тому +11

    高校教師が
    「自主、自由、自律」を謳う生徒がおり、自由を強調しているが、私が思うに順序は「自律、自主、自由」であるはずだ。
    みたいなことを言っていたなぁ

  • @鈴江宣子
    @鈴江宣子 3 роки тому +4

    私は、自己満足を視点として、自由にいきつけば、それが最高だと思いますが、その最高が人それぞれ。そこには!時代に理想があります。

  • @MARIA.6
    @MARIA.6 3 роки тому +7

    人種が違っても、国が違っても、言語が違っても、宗教が違っても、人間には、人間に共通する道徳があると思います。そろそろそれを世界中のみんなで考える時がやって来たのでしょうか。

  • @pomme6360
    @pomme6360 Рік тому +1

    物凄く面白いことを話していそうなのは分かるけど、自分の理解が追いつかない…😢大卒でも、こういうことをパッと理解できなくて私は何を学んできたんだろう…と思ってしまう

    • @miliongod8907
      @miliongod8907 11 місяців тому

      地頭の問題です!
      学歴の問題ではないですよ
      本質が大事
      大卒でもfランなら誰でも入れますよ😅

  • @yamadaminako
    @yamadaminako 5 місяців тому +3

    カント哲学の最大の欠点は「汝の意志の格律が、常に同時に普遍的法則になるように行為せよ」の話で、
    普遍的法則など、存在しないという事です。
    カントは「純粋理性」を、経験に基づかない、生まれながらにしてもつ感情として
    この感情からくる理性を「純粋理性」とし、この感情が「本来の人間が正しいと考える」事としています。
    2000年前の仏教は、すでに解決しています。
    仏教では人間の意志の状態は「三世間」によって変化すると説いています。
    三世間とは、「国」「地方」「民族」と解釈でき、民族ごとに遺伝子が異なるため、また、国によっても変化し
    国の中の地方によっても変化すると説いています。遺伝子という言葉は2000年前には存在しなかったのですが
    仏教は、そう説いています。
    つまり、人間の意志の状態には、「普遍的法則」など存在しないのです。
    また、仏教では、「無」「有」を、状態の変化として捉えています。
    例をしめすと、カントの宇宙の始まりの話の二律背反で、
    もし宇宙に始まりがあるのなら、始まりの前は「無」であった事になり、
    「無」から「有」が発生したことになるため、これは成立しない。とカントは考えました。
    しかし、仏教では「無」は状態として在り、「有」になるとしています。
    現在量子力学では、真空の宇宙は「無」でなく、紫外線を当てると「粒子が飛び跳ね、ぶつかる」事が確認されています。
    これにより、一定の条件下で、真空から「物質」はできるとしています。宇宙はこのようにして出来たとしています。
    仏教では、この事を「色即是空」「空即是色」と説いています。色とは物質の事で
    物質は即、空であり、空は即物質と説いています。
    そして、この宇宙の法則を「法」と言ってます。
    アインシュタインは「自然科学は仏教と密接に関係している」と言っています。
    カント哲学の優秀なところは、「時間と空間に存在する物質は、瞬間、瞬間に変化しており
    物質の本当の姿をとらえる事は不可能」だとしているところです。
    しかし、すでに、2000年前の仏教でも同じ事が説かれているのです。

  • @SY-zq7ns
    @SY-zq7ns 3 роки тому +3

    絶対者と規定し得る存在が人間に定めた律が、自分の道徳的意志に反する場合、他律にあたるので、絶対者には従うべきではないということになりますか?カント的に

    • @哲学チャンネル
      @哲学チャンネル  3 роки тому +3

      もしそんな関係が成り立つのであれば、そうなのかもしれません。
      とはいえ、カントが想定したのは『先験的な』道徳法則なので、『絶対者と規定し得る存在が人間に定めた律』が先験的なそれと矛盾すること自体、彼は想定していなかったのではないでしょうか。

    • @SY-zq7ns
      @SY-zq7ns 3 роки тому +1

      返信ありがとうございます。キリスト教世界を想定して質問していました。

  • @user-SubeteMitaro
    @user-SubeteMitaro 3 роки тому +2

    こんな内面的な基準では、外部から、すなわち、社会的には、評価することができず、結局、すべてを見透せる機械仕掛けの神の登場、ということにしかならないですよね。理性的なようで最も理性的ではないカントです。