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それが出来たら苦労しないよって言う人もいると思いますが、フロムは「これさえ出来れば後は苦労しないよ」って言ってる気がします
私は資本主義者ではなく、西郷隆盛らが提唱した道義主義、日本主義者だからなるほどとは思えど、自分を社会の歯車と考えたこともないし、ただただ無私として生きるだけ。私心があるとあいつのほうが上だ下だなどと苦しみが生まれる。とはいえ私心がないから個性がないとはならない。
集団はリーダーによる秩序まとまったものである。そこにおける宗教とは過去の苦い経験・失敗など教訓とすべき事項を物語として伝承したもんであった、少なくとも登用における伝承の類はそれであったのではないか。西洋において集団の秩序という認識を国と国の契約・条約によって結びつくようになって、秩序という概念は宗教という概念に次第に偏重していった。
手回は契約・条約でつながるべきではない、共通の認識・秩序によってつながるべきだ・
自己愛は生得的な自己嫌悪(私ダメな子)が起点となり、それを埋めるために比較物を求め攻撃する、それも自己嫌悪だというようなことを、安冨先生がおっしゃっていましたのを思い出しましたいっつも思ってますが人間の存在の惨めさ無意味さ(相対的に地球にとって?)を、いつも本当に美しく、潔く、且つとても分かりやすく、動画になさっており、感謝しています結局、それでも人間は悲壮を以たず生きるべきなのでしょうねいつもありがとうございます
もう一度人間>資本 へ システムの奴隷からシステムの主人へ ポストモダン
こういう話を思い出しました。人間は社会の歯車であるが、その歯車はひとつ、ふたつなくても社会は動く。つまり個人という存在は交換可能な均質なパーツでしかないのだ。
世の成功者が全くできないただ一つの考え。堀江もDaiGoも話聞いてると「ワクワクする」「不安になる」のどちらか。薬でしかない。
学生時代からの愛読書”人生論ノート 著 三木清”に幸福についての章があり、他人の幸福について考えなければならないのは正しい。しかし我々は我々が愛する者に対して幸福である以上に自分が幸福である以上の善い事を成しえるであろうか?と言う考察があります。相手が不幸で自分が幸福、又は自分が不幸で相手が幸福とはあり得ないでしょう。幸福を利益に置き換えれば話は別ですね。
最高
世界がより広くなり、全てを把握することができなくなったから、『なぜ世界は存在しないのか』という哲学にはアクチュアリティーがあると思う
人間も動物だから個体(個人)の内的充足と外側の世界との調和が一致した行動規範があったはずですね。それが壊れたのでそれぞれ分離し二者択一を迫られるヒトになったんじゃないでしょうか?
難しすぎてあんまりわからなかった
1番好きなチャンネルです。応援してます。無料で視聴させていただけるのが申し訳くらいなので、メンバーシップなどで投稿主様にお気持ち程度投げ銭させていただきたいと考えているのですが、どうでしょうかね?
もちろんいただけたら嬉しいです!本を買います!
この方の思想って、『西洋中世へのノスタルジー』を感じますね。私などは、中世と言えば、魔女狩り、宗教裁判、他宗派へのジェノサイド、ペストといった、ほとんど暗黒の印象を持っているのですが。
言い得て妙です。特に『自由からの逃走』においては中世の第一次的な絆をクローズアップして取り上げますから、ご指摘のマイナス面は隠されがちになっているのは否めないと思います。とはいえ、フロムも「だからと言って中世に戻るのはあかん」と考えていますので、まさに思い出補正の要素があるノスタルジーです。こと日本に限っても核家族化などに代表する共同体の分離をテーマにすると、確かに過去の共同体の方がいろいろな面で精神的に安定していたと考えることができます。しかし、じゃあその環境に戻るのが是かというと、それはそれで様々な問題があり難しい。フロムだけではなく、彼が属したフランクフルト学派の思想は多くの場合において『ノスタルジー』だと言えるかもしれません!
魔女狩り、宗教裁判なんかは中世ではなく近代に入ってからです。ペストにより中世的封建社会は崩壊しましたので中世悪玉論に立つとペスト流行は中世を終わらせた良い出来事になります。
凄〜く面白い考え^ - ^
自由の弁証法的性格のネーミングに疑問弁証法ってaとbの異なる意見の対立を昇華してcを産むってことだと思ってたむしろトレードオフの方がしっくりくるかな自由を得ることでロストすると考えれば
フロムのいう「自愛」は少しわかりづらいですね。特別な宗教観のようにも思えてきます。情けは人のためならずという近江商人的功利主義でもなさそうですし。「自愛」を「幸福感」と言い換えるとどうか。真の幸福を知らないから利己主義に走るとか。 単に「ご自愛ください」の自愛に近いような気もしてきました。
フロムは一部においてプロテスタントを批判しますが、その思想にはプロテスタント的な『人間は根本的に満たされていない』という前提が含まれているように感じます。また『愛するということ』で彼が提示する自愛の獲得に向けた努力は、仏教の教えと重なる部分が数多くあります。そういう意味でも宗教的な要素は否定できませんね。彼の属する思想形態はフロイトを弁証法的に解釈するベクトルを持っていますので、自愛の解釈に関してもその影響もあるのかもしれません。
社会は、自由と言っても没個性化を暗に強要してしまう。情報は広がりはしたものの、視野は狭く近視眼的になる。飼い慣らされ、柵の中の草を喰む自由しか与えられていない。
白しか知らない人 ほかの色は知らないので色を考えるときに白のことしか考えつきません 7色しか知らなければ私たち 可視光外の色は言えない 可聴域以外の音は聞こえない でもガラス職人がプリズムを見つけました分光機 色のないところが温かく 色のないところで紫に光るものを見つけました 自我は狭められた世界にいるので均一化しやすい ただ環境が狭いだけで自我の変化は千差万別だと思います。宇宙で珍しい自律型思考行動変異幅無限脳を持つのが私たちなのは自覚があるはずです。そして先人の検証した事実を土台にして新しいレベルへ歩んでいく
心当たりがありすぎる話でした。こういうことを考えないで済む世の中が幸せだと思う反面、こういうことを考えて本当の幸せについて考える事ができるのが真の幸福かもと思えます。まぁ、世の中は成り行きにまかせるしかないので、もう後者の立場で考えるしかないのでしょうけどね。
それが出来たら苦労しないよって言う人もいると思いますが、フロムは
「これさえ出来れば後は苦労しないよ」
って言ってる気がします
私は資本主義者ではなく、西郷隆盛らが提唱した道義主義、日本主義者だからなるほどとは思えど、自分を社会の歯車と考えたこともないし、ただただ無私として生きるだけ。私心があるとあいつのほうが上だ下だなどと苦しみが生まれる。とはいえ私心がないから個性がないとはならない。
集団はリーダーによる秩序まとまったものである。
そこにおける宗教とは過去の苦い経験・失敗など教訓とすべき事項を物語として伝承したもんであった、
少なくとも登用における伝承の類はそれであったのではないか。
西洋において集団の秩序という認識を国と国の契約・条約によって結びつくようになって、秩序という概念は宗教という概念に次第に偏重していった。
手回は契約・条約でつながるべきではない、共通の認識・秩序によってつながるべきだ・
自己愛は生得的な自己嫌悪(私ダメな子)が起点となり、それを埋めるために比較物を求め攻撃する、それも自己嫌悪だというようなことを、安冨先生がおっしゃっていましたのを思い出しました
いっつも思ってますが人間の存在の惨めさ無意味さ(相対的に地球にとって?)を、いつも本当に美しく、潔く、且つとても分かりやすく、動画になさっており、感謝しています
結局、それでも人間は悲壮を以たず生きるべきなのでしょうね
いつもありがとうございます
もう一度人間>資本 へ システムの奴隷からシステムの主人へ ポストモダン
こういう話を思い出しました。
人間は社会の歯車であるが、その歯車はひとつ、ふたつなくても社会は動く。つまり個人という存在は交換可能な均質なパーツでしかないのだ。
世の成功者が全くできないただ一つの考え。
堀江もDaiGoも話聞いてると「ワクワクする」「不安になる」のどちらか。
薬でしかない。
学生時代からの愛読書”人生論ノート 著 三木清”に幸福についての章があり、
他人の幸福について考えなければならないのは正しい。
しかし我々は我々が愛する者に対して幸福である以上に
自分が幸福である以上の善い事を成しえるであろうか?と言う考察があります。
相手が不幸で自分が幸福、又は自分が不幸で相手が幸福とはあり得ないでしょう。
幸福を利益に置き換えれば話は別ですね。
最高
世界がより広くなり、全てを把握することができなくなったから、『なぜ世界は存在しないのか』という哲学にはアクチュアリティーがあると思う
人間も動物だから個体(個人)の内的充足と外側の世界との調和が一致した行動規範があったはずですね。
それが壊れたのでそれぞれ分離し二者択一を迫られるヒトになったんじゃないでしょうか?
難しすぎてあんまりわからなかった
1番好きなチャンネルです。
応援してます。
無料で視聴させていただけるのが申し訳くらいなので、メンバーシップなどで投稿主様にお気持ち程度投げ銭させていただきたいと考えているのですが、どうでしょうかね?
もちろんいただけたら嬉しいです!
本を買います!
この方の思想って、『西洋中世へのノスタルジー』を感じますね。私などは、中世と言えば、魔女狩り、宗教裁判、他宗派へのジェノサイド、ペストといった、ほとんど暗黒の印象を持っているのですが。
言い得て妙です。
特に『自由からの逃走』においては中世の第一次的な絆をクローズアップして取り上げますから、ご指摘のマイナス面は隠されがちになっているのは否めないと思います。
とはいえ、フロムも「だからと言って中世に戻るのはあかん」と考えていますので、まさに思い出補正の要素があるノスタルジーです。
こと日本に限っても核家族化などに代表する共同体の分離をテーマにすると、確かに過去の共同体の方がいろいろな面で精神的に安定していたと考えることができます。しかし、じゃあその環境に戻るのが是かというと、それはそれで様々な問題があり難しい。
フロムだけではなく、彼が属したフランクフルト学派の思想は多くの場合において『ノスタルジー』だと言えるかもしれません!
魔女狩り、宗教裁判なんかは中世ではなく近代に入ってからです。ペストにより中世的封建社会は崩壊しましたので中世悪玉論に立つとペスト流行は中世を終わらせた良い出来事になります。
凄〜く面白い考え^ - ^
自由の弁証法的性格のネーミングに疑問
弁証法ってaとbの異なる意見の対立を昇華してcを産むってことだと思ってた
むしろトレードオフの方がしっくりくるかな
自由を得ることでロストすると考えれば
フロムのいう「自愛」は少しわかりづらいですね。特別な宗教観のようにも思えてきます。
情けは人のためならずという近江商人的功利主義でもなさそうですし。
「自愛」を「幸福感」と言い換えるとどうか。真の幸福を知らないから利己主義に走るとか。
単に「ご自愛ください」の自愛に近いような気もしてきました。
フロムは一部においてプロテスタントを批判しますが、その思想にはプロテスタント的な『人間は根本的に満たされていない』という前提が含まれているように感じます。
また『愛するということ』で彼が提示する自愛の獲得に向けた努力は、仏教の教えと重なる部分が数多くあります。
そういう意味でも宗教的な要素は否定できませんね。
彼の属する思想形態はフロイトを弁証法的に解釈するベクトルを持っていますので、自愛の解釈に関してもその影響もあるのかもしれません。
社会は、自由と言っても没個性化を暗に強要してしまう。情報は広がりはしたものの、視野は狭く近視眼的になる。飼い慣らされ、柵の中の草を喰む自由しか与えられていない。
白しか知らない人 ほかの色は知らないので色を考えるときに白のことしか考えつきません 7色しか知らなければ私たち 可視光外の色は言えない 可聴域以外の音は聞こえない でもガラス職人がプリズムを見つけました分光機 色のないところが温かく 色のないところで紫に光るものを見つけました 自我は狭められた世界にいるので均一化しやすい ただ環境が狭いだけで自我の変化は千差万別だと思います。宇宙で珍しい自律型思考行動変異幅無限脳を持つのが私たちなのは自覚があるはずです。そして先人の検証した事実を土台にして新しいレベルへ歩んでいく
心当たりがありすぎる話でした。
こういうことを考えないで済む世の中が幸せだと思う反面、こういうことを考えて本当の幸せについて考える事ができるのが真の幸福かもと思えます。
まぁ、世の中は成り行きにまかせるしかないので、もう後者の立場で考えるしかないのでしょうけどね。