Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
「社会契約」が事実として存在しないとするならば、「基本的自由」も「最も不遇な立場」というのも、同様ですよね。やはり仮想にすぎません。
ノブレスオブリージュ、騎士道や武士道は必要なもので、案外、自由や平等より大切なものかもしれないですね。ただ、やはりAIが社会を運営するような世界にいきそうな印象がしてくるお話でした。
おっしゃる通り、私もAIだと思いました。
前回のカントもそうだったけど今回のロールズのの考え方も個人的にはぴったり当てはまります。「弱者の利益が優先される」という考え方もその通りだと。なぜなら強者は既に利益を得ているからです。努力をしているかしていないかなんて他者には判定なんてできないでしょうから無意味だと考えます。
そもそもあなたの言い分はおかしい。ロールズは道徳的恣意性という概念で、才能の分布は道徳適当根拠はないと主張するし、資源平等主義を批判したコーエンやアーネソン言わせればそのような強者として生まれることすら環境要因、すなわち自然の運なんですよ。つまり強者として生まれることすら真に選択したこととは言えないわけ。そうであればそこにおいて個人の責任は問えないし、それにたいして課税することは不正義ではないか?
強者は生まれた時点で強者
どんなに崇高な“理想”も、それが権力をもって行使された時点で、自由は制限されるのかも知れませんね。しかし、社会秩序を維持するためには、その行為を否定することは難しい。
私に一枚の紙と道具と時間と先生が与えられて絵を描いたとします。世界中の人々はその絵は何の価値もないと思っていましたが、ある数名の人がその絵には100億円の価値があると決めたとします。すると世界中の人々が争いあってその絵を奪い合うようになりました。ものの価値というものは誰が決めるものなのでしょうか。何人で決めるものなのでしょうか。小さな紙にコピーしたものが大量に世界中に出回るようになりました。それは紙幣と言われるようになりました。このまま、この世界を続けてもいいのでしょうか?
追記:独立行政法人国立印刷局(ナショナルプリンティングビューロー)は、今年でちょうど創設150年です。国産第1号紙幣の製造は明治10年です。
本当の価値は家族や友人と過ごした時間だよ
ある会議で、1人だけが主張を持っていました。ですがそれは通りません。弱者の発言の方が、解りやすいからです。
市場への国家の介入を許せば、いずれ個人の自由も奪われる
自由も公平も平等もこの世にはないんだろうな。あるにしても幻想にすぎない
いな、ロールズは理想理論を志向してたので。別に現実に即する理論を提示しようとしていたわけではありません
無知のヴェールを被せて意見を聞いたうえに無知のヴェールを被せるとすべて無になる無知のヴェールは質問者側が定めた定義に基づいたものだと思うんだよね
ロールズ君、RPGでパーティーの一番弱いやつに一番良い装備持たせる派なのねwアリストテレス君はそれが魔王討伐に正しいやり方なのかを気にしていているのかなサンデル君はゲームタイトルやナンバリングでパーティー編成は違うだろうと主張しそう
またまた哲学者さんに抜けてるな~と思う事なのですがw、理論や願望がどうであれ、社会というのは様々な人々との共存でしか成り立たない。って事が抜けていると思う。そこにはリバタリアンもいればリベラルもいて保守もいる。様々な思想や思惑の人々から社会は成り立たっている。一面だけの主義思想や思惑だけで国家を運営しようとすれば、行き着くところは思想等が違う人々を排除するしかなくなる。それは排除された人々が集まり、対立を生み出す。何故声の大きい人間はバランスを取らないのか不思議だ。僕には保守もリベラルもリバタリアンも全体主義に見える。リバタリアンさえもリバタリアン思想な人々が集まったリバタリアンだけに都合のイイ全体主義だ。国家運営に関する面では中道こそがもっともバランスがイイと僕は断言する。それが妥協でバランス取るのか、様々な思想を全て採用してバランスを取るのかで変わるのだろうけど……
すばらしいですね!政治家ですか?
いやいや、後期ロールズは『政治的リベラリズム』において包括的教義が複数共存する理に適った多元主義(適理的多元主義)のもとでどのようにすれば社会が安定しうるのかを考察してるんですが、、、それによれば公正としの正義は公共的理性に支持される重なる合意と合致するのもなんですが、、、正義論だけを捉えてロールズは普遍主義的だと捉えるのはおかしいのでは?正義論と政治的リベラリズムには強い関係性がありますよ
味噌論とクソ論が対立した時、味噌とクソを最適中道に混ぜて食卓に出すのですね、素晴らしい。
「社会契約」が事実として存在しないとするならば、「基本的自由」も「最も不遇な立場」というのも、同様ですよね。やはり仮想にすぎません。
ノブレスオブリージュ、騎士道や武士道は必要なもので、案外、自由や平等より大切なものかもしれないですね。
ただ、やはりAIが社会を運営するような世界にいきそうな印象がしてくるお話でした。
おっしゃる通り、私もAIだと思いました。
前回のカントもそうだったけど今回のロールズのの考え方も個人的にはぴったり当てはまります。「弱者の利益が優先される」という考え方もその通りだと。なぜなら強者は既に利益を得ているからです。努力をしているかしていないかなんて他者には判定なんてできないでしょうから無意味だと考えます。
そもそもあなたの言い分はおかしい。ロールズは道徳的恣意性という概念で、才能の分布は道徳適当根拠はないと主張するし、資源平等主義を批判したコーエンやアーネソン言わせればそのような強者として生まれることすら環境要因、すなわち自然の運なんですよ。つまり強者として生まれることすら真に選択したこととは言えないわけ。そうであればそこにおいて個人の責任は問えないし、それにたいして課税することは不正義ではないか?
強者は生まれた時点で強者
どんなに崇高な“理想”も、それが権力をもって行使された時点で、自由は制限されるのかも知れませんね。
しかし、社会秩序を維持するためには、その行為を否定することは難しい。
私に一枚の紙と道具と時間と先生が与えられて絵を描いたとします。世界中の人々はその絵は何の価値もないと思っていましたが、ある数名の人がその絵には100億円の価値があると決めたとします。すると世界中の人々が争いあってその絵を奪い合うようになりました。ものの価値というものは誰が決めるものなのでしょうか。何人で決めるものなのでしょうか。
小さな紙にコピーしたものが大量に世界中に出回るようになりました。それは紙幣と言われるようになりました。このまま、この世界を続けてもいいのでしょうか?
追記:独立行政法人国立印刷局
(ナショナルプリンティングビューロー)は、今年でちょうど創設150年です。
国産第1号紙幣の製造は明治10年です。
本当の価値は家族や友人と過ごした時間だよ
ある会議で、1人だけが主張を持っていました。ですがそれは通りません。弱者の発言の方が、解りやすいからです。
市場への国家の介入を許せば、いずれ個人の自由も奪われる
自由も公平も平等もこの世にはないんだろうな。あるにしても幻想にすぎない
いな、ロールズは理想理論を志向してたので。別に現実に即する理論を提示しようとしていたわけではありません
無知のヴェールを被せて意見を聞いたうえに無知のヴェールを被せるとすべて無になる
無知のヴェールは質問者側が定めた定義に基づいたものだと思うんだよね
ロールズ君、RPGでパーティーの一番弱いやつに一番良い装備持たせる派なのねw
アリストテレス君はそれが魔王討伐に正しいやり方なのかを気にしていているのかな
サンデル君はゲームタイトルやナンバリングでパーティー編成は違うだろうと主張しそう
またまた哲学者さんに抜けてるな~と思う事なのですがw、理論や願望がどうであれ、社会というのは様々な人々との共存でしか成り立たない。って事が抜けていると思う。そこにはリバタリアンもいればリベラルもいて保守もいる。様々な思想や思惑の人々から社会は成り立たっている。一面だけの主義思想や思惑だけで国家を運営しようとすれば、行き着くところは思想等が違う人々を排除するしかなくなる。それは排除された人々が集まり、対立を生み出す。何故声の大きい人間はバランスを取らないのか不思議だ。僕には保守もリベラルもリバタリアンも全体主義に見える。リバタリアンさえもリバタリアン思想な人々が集まったリバタリアンだけに都合のイイ全体主義だ。国家運営に関する面では中道こそがもっともバランスがイイと僕は断言する。それが妥協でバランス取るのか、様々な思想を全て採用してバランスを取るのかで変わるのだろうけど……
すばらしいですね!政治家ですか?
いやいや、後期ロールズは『政治的リベラリズム』において包括的教義が複数共存する理に適った多元主義(適理的多元主義)のもとでどのようにすれば社会が安定しうるのかを考察してるんですが、、、それによれば公正としの正義は公共的理性に支持される重なる合意と合致するのもなんですが、、、
正義論だけを捉えてロールズは普遍主義的だと捉えるのはおかしいのでは?正義論と政治的リベラリズムには強い関係性がありますよ
味噌論とクソ論が対立した時、味噌とクソを最適中道に混ぜて食卓に出すのですね、素晴らしい。