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ご紹介の中で「三輪大臣季聰」とあり「ヤストシ」とは読めないような❔「季」が気になります。私も以前CGSで勉強させていただきました。地元なので岩木山と聞いたときは驚きました。でも確かに岩木山神社の祭神は顕國魂命(大己貴命)とありますし、参道の途中に出雲神社があります。茂木先生いつも楽しいお話ありがとうございます🩷
季聰は「すえとし」と読みます。「やすとし」とは別人でした。申し訳ありません。「すえとし」はホツマツタヱを編纂したオオタタネコのお名前です。
オオタタネコ⁉️それはそれで凄い情報ですね。教えて頂きありがとうございます✨
三輪大臣がオオタタネコなのですね。太田氏であり、後半部の編纂者ですから、納得いたしました。ありがとうございます。
前半と後半とで編纂者が違うのですか?前半はどなたが?
@@swanchan. さま、ウィキによると、1アヤから28アヤまでが前編で「クシミカタマ」の編集、29アヤから40アヤは後編で「オホタタネコ」(大田田根子)の編著による。と書かれています。この前半の「天の巻」「地の巻」を編纂したのは六代目大物主クシミカタマと書かれているようです。自分は、このクシミカタマとは、6代目大物主と書かれているように、6代目だったのか6の数字は別にして、出雲の伝承によると、大物主とは、第8代目出雲王国副王少名彦であった東王家富家の八重波津身事代主が三輪山の大神神社に祀られ、その後に呼ばれた名の事なので、この第6代目大物主と表現されているのは、事代主と三島溝杭耳の姫の活玉依姫・玉櫛姫との息子の天日方奇日方王アメヒカタクシヒカタのことであったろうと思います。クシヒカタは、出雲での父王枯死による混乱により、出雲から妹の五十鈴姫姉妹と母上と共に母上の実家の三嶋(摂津)に移り、ほど近い大和に第二の出雲王国を目指して干拓を行い、賀茂氏の祖となります。この時に活玉依姫とクシヒカタと五十鈴姫を慕い、出雲から当時の半数以上の人たちが大和に移住したようです。そして、海部家五十猛と穂屋姫の息子海村雲を妹蹈鞴五十鈴姫の婿に迎え、初代ヤマト政権が生まれます。この辺りは別のトキジク日記の動画の内容と同じですね。ホツマツタヱは、おそらく賀茂氏に代々伝わる天皇家の祭祀や祈祷を行うために必要な秘伝のような奥義書の一つではないかと思うので、賀茂家と出雲王家富家とは密接に関係すると思っています。というか、直接の子孫ですし🙂。
聞いていながら寝ました。何回も聞かないと、わからないけど面白い。
とても興味深いお話ありがとうございます❤ワクワクします❤
やっぱ、茂木先生は議論できる先生ですね、自分の意見ははっきりいうけど、違う意見を攻撃しない。私の意見は色々な先代旧事本紀や九鬼の書物などから、共通したり類似点を見つけ出すことが大事だと思っています。そもそも古事記や日本書紀など時の権力者が制作したものは必ず忖度が入りますからね。1000年以上続く神社の宮司さんの口伝とか、まだまだお宝は日本中に埋まってますよ^^世界史との比較とか面白い話をありがとうございました。
👏👏👏👏👏👏良い発言 ありがとう
ホツマの写本伝承について、簡潔に整理されていてとてもわかりやすいですね。機会があれば、ぜひ茂木先生には高島を訪ねて頂きたいです。ホツマ伝承の生き証人である井保さんや野々村さんをご紹介しますので、お二人との鼎談が実現すれば素晴らしいと思います。
次回の神武東征も楽しみです♡
とらさん、ありがとうございます。高島にはいずれ、足を運ぶつもりです。
早速ご返信いたみいります。井保さん野々村さんは寡黙なタイプですが、故地案内はピカイチです♡
お話がだんだん面白くなってきました。興味津々です。去年瀬織津姫様ご生誕の地、静岡県の瀧川神社に巫女舞いを見に行った時に滝の湧水(御神水)を頂き、毎日瀬織津姫様に感謝と世界平和をお祈りしてます。
茂木さんは時系列と関係がわかりやすくて最高です✨これまで他で色々な情報をみていましたが、部分毎で、なかなかうまくまとめられなかったのですが、やっとすっきり氣持ちよく頭のなかも整理できました😊ありがとうございます💕 スピ的なものをきちんと歴史+で本物にしていく所が大好きです✨
本当にお二人で話してくださって良かった❤😂聞いてて楽しいです🍀😊
いときょう先生のお話を聞いて、ホツマは、古事記や日本書紀とはまた違った面白さがありますね。古事記や日本書紀を読むと、西から東に広がっていったと思ってしまうけど、東から西に広がっていった説は面白い。寒冷化で北から南に移住してきた人たちがいるので、ホツマの伝承はありえるって思えました。
歴史がどんどん明らかになっていくのが✨ワクワク😆します💖
最近TOLANDさんは外から日本にやってきた人たちの歴史を語っておられ、もぎ先生は元々日本にいた人たちの歴史を掘っている、そんな気がしています。色んな説があって頭がぐるぐる🌀になりますが、柔軟性を持って一番整合性の取れる流れを探って行きたいと思っています。
いよいよ、いときょう先生登場という感じですね。楽しみにしています。
CGS自分も何度も見てました。茂木さんの質問で切り口が違うのでCGSとまた違い面白いです。ありがとうございます。
茂木先生聞いてくれるからわかりやすいです。いときょう先生も、茂木先生も、日本の宝ですね!茂木先生大ファンですわ!ありがとうございます😊
CGSで、いときょうさんの動画は全て見させてもらい全てノートにまとめるほど、しっかり勉強させてもらいました😁ホツマの全文が普通にネット上にあるので時間を見つけては文字起こししたりもしています☆
古い木箱から出てきた、絡んだ糸を一本ずつ一本ずつ絡みを説き、研究する人が昔から居られたのですね、現在は、他にも居られるでしょうが、茂木先生が、とらさんに会い、いときょう先生に会い、知らなかった日本人には、驚きの連続です。話すことばがあるのだから、きっと文字はあったを、証明されるのが嬉しいです。続編ワクワクします。希望としては、何故瀬織津姫が、消されたのかまでいってほしいです。
いろいろな古史古伝を否定することなく受け入れ、咀嚼し、比較しながら、自分なりの日本古代史を創り上げたいなぁと思っています。尊敬する茂木先生の考え方が、とてもしっくりきます。鬼界カルデラ噴火の凄まじさは、西日本に人が住むことを難しくしたと思います。その頃の人口分布、北海道南部まで含めて考えています。津軽から潮の流れに乗ると北海道南部の恵山方面に辿り着きます(実際にヨットで津軽海峡を渡った経験がありますが、潮の流れは日本海から太平洋にものすごい勢いで流れています)函館には垣ノ島遺跡があり、そこから約9,000年前の世界最古の漆の副葬品が出土しています。糸魚川の翡翠も出土しているので、本州と活発な交流があったと思われます。寒冷化が起こるまでの縄文時代は、東北から北海道南部に文化の中心があったのかもしれません。中でも中心だったのは津軽の山内丸山周辺だったのなと。個人的想像です!なので、ホツマに岩木山のお話が出てきて、おぉっ!となりました😆次回配信も心待ちにしています✨
賛同『東日流外三郡誌』も参照になると思う。
@@ザンゲきょみ 同感です!
ホツマは焚書の目に遭ってます。何故焚書しなければならなかったか、GHQが焚書した本はどんなものだったかを知れば想像できますね。茂木先生のような柔軟な方がこの研究に踏み込んで下さると日本の古代はもっと凄いと知れ渡ると思います。アマテルが男性神だと自分の足で行き着いた茂木先生なので。ホツマの話を聞けば聞くほど答え合わせになってる茂木先生が微笑ましいです(^ω^)
3年かけて一の宮巡りしていたら、記紀ではなくホツマツタヱでした。やっと、真の御祭神さまに会えた気がします。縄文文化を見直しして美しい国日本を取り戻したいですね。やはり、若狭彦神社と神宮寺で確信しました……。
@@t.i6104 ホツマを焚書しなければならなかったのは、現代ではいう左翼的イデオロギーだったと思います。アマテル様が女性でならなけれぼならない理由、藤原氏の腹黒さ😅など、当時も治世に不都合な事は隠されました。私も歴史の学び直しをしようと縄文から紐解きましたが、縄文がそもそも偉大なる時代でそこかろ一向に進まず三年くらい経ってます😅
茂木先生、いときよう先生。ありがとうございます。ホツマツタエのシリーズを楽しみにしてます!茂木先生がいときよう先生のホツマツタエに辿りつかれた事は感謝・感激です。ワクワクがとまりません。皆さんのコメントも深い考察で楽しみにくまなく拝読させて頂いてます。
配信ワクワクして拝聴させて頂きました。ありがとうございます。本日の講座を念頭に入れて、ホツマ伝えを読んでみます。茂木先生ありがとうございます。楽しみにしておりますのでよろしくお願いします。
いときょう先生をゲストに呼んでいただきありがとうございます。CGS からぜひ古神道の表博あき先生もゲストに呼んで欲しいです。古代についてとても興味深いお話をされてました。もぎせか先生知ってみえると思いますけど。
秀真は読ませてもらいました。古事記とは何箇所か違う点があり、歴史的な真実と伝説は分けて理解した方が良いと思いましたが、叙事詩として素晴らしいもので感動しました。
いろんなお話が出て来てわくわくします。😅😅😅
いときょう 判りづらい 茂木先生の補助がないとね~ 茂木先生 お疲れ様です
精進します。いときょう
和歌の枕詞の由来などの謎が解けるだけでも文献として重要だと思う。
JR千葉駅の二つ南に、蘇我駅があり、駅の南に蘇我比口羊(ひめ)神社があります。弟橘姫に従って海に身を投げた蘇我の大臣の娘が流れ着いて村の者の介抱を受けて助かったとのこと。🌊小さな神社ですが、境内には讃岐忌部氏の足跡もあるそうです。😂ついでがありましたら、お立ち寄り下さい。🙇🙇🙇
いときょうです。万葉集で語る方がいます。万葉仮名は、朝鮮半島の方が渡来して和歌を覚えるときに、万葉仮名を用いたという説があります。藤井氏の説によりますと「記紀万葉」を書いたのは白村江敗戦による亡命百済人だったと書かれています。詳しくは「白村江の敗戦と上代特殊仮名遣い」藤井游惟著、東京図書出版会をお読みください。また万葉集巻1の48「東野炎立所見而反見為者月西渡」この歌の解釈および読みが分かれますように、万葉集を持って説明することは難しいように思えます。これについては「真実のホツマツタヱを求めて」いときょう著ホツマ出版16頁をお読みください。
前回からの『いときょう』先生。もぎせかチャンネル初登場。(ホツマツタエとカタカムナで語り尽くす の書籍を手元に持ちながら)…そして今回のいときょう先生と茂木サンとの対談。何より茂木サンの表情が柔和でありながらも興味津々のいときょう先生を優しく望み込む仕草が非常に嬉しく思います。。あっという間の30分弱。次回も楽しみにしています。有難う御座います。
神回ですね!賄賂(+搾取?)政治?どこかで聞いたような話ですね。正さねばなりません。
ホツマを読むとありとあらゆる神社の由来が出てくるのが面白い。
これこそ「真説日本史」なんでしょうね‼️ぜひ茂木先生が分かりやすく解説本を書いてください‼️期待しています。
古代史に「真説」はないと思います。たくさんある解釈の一つ、程度にお考えください。
@@maomao96363 先生、素晴らしいお考えだと思います。こういう集約は、こんなこと考えていた・・・っていう程度かなあと思います。
何だか、段々と田中英道先生の説に寄って行く気がしますねぇ、興味津々です。んで、更にここに海外からの移住組も乗っかって来て複雑になるのか? でも関東にもユダヤの痕跡は色濃くあるものなぁ🙄🤨🤔🧐
「ユダヤ人埴輪」は古墳時代以降ですね。
面白いですね。私は「全ての起源は日本」的な話にどうも興味を持てないのですが、何か証拠が出てくれば変わって来ますよね。でも、そうでなくても、日本は十分に愛するに値する国です。私は日本が全ての起源じゃなくていいです。本当の事を知りたいです。
いときょう先生、イケメン❤
八王子、宇都宮、富士宮阿波いづもと出雲謎は深まるばかり。ホツマツタエと阿波を結ぶ点と線。縄文から倭へ。
CGSの時から見てますが、ホツマは各神社の言い伝えとも合致してて信ぴょう性があるなと思います。まだまだいときょう先生のお話を聞いてみたいです!
初めて聞くことばかりでとても勉強になります。
いつもありがとうございます。ハタレの乱、はじめて聞きました。日本海側(豊岡)の方言⇒「ハータレ」があります。「このハータレが…」と、伯母が息子を叱りつけていました。
「ハータレ」その言葉が残っていることは凄い事だと思います。
神代の歴史を興味津々脳に叩き込む為何度も繰り返し拝見させて頂きました❗何時も配信‼有り難く、今後とも楽しみに致して折ります。イボさんに付いてもいつか次回お願いします
1986年発行の『謎の秀真伝(ホツマツタヱ)』を読み返してますがやはり難しいです。youtubeで見ると見やすいのもありますし勉強になりますね。
岩木山麓の嶽(だけ)地区は、古くから「アソベ」の森と呼ばれ、岩木山神社には出雲大社の末社である奥富士出雲神社(昭和初期に出雲神社大社より末社として任じられた)があります。
ホツマツタエに出会ってから、高島、安曇川を歩きました。まさに降りられてますね。与呂木神社もありました!
ホツマは、神社を始めとする考古学的遺物の裏付けがある歴史書なんですね。
三内丸山の発掘で、ホツマ的縄文世界にリアリティーが出てきました。
いつもありがとうございますっ!!白山は菊理姫様で、イザナギ様のお姉さんにあたる方なので・・。福井の日本海と深く関係があると思いました。🙇
鬼のいるところに鉄あり。出雲は縄文が強いと言われますが、弥生も混ざっていますね。当然ですが、交流が見られます。宗像三女神が大国主に嫁ぐ話もそうですし、出土品も遺骨もそうです。下照姫(意富伽耶の賀夜奈留美、比売語曽社)にも宇佐の血(意富氏,元祖 秦氏)が入ってると思います。縄文優勢だったでしょうが、ピュアな縄文の集まりと考えると解釈に影響が出そうです。
彼らはディアスポラ以降ずっと同じだと思います。君主的立場をとらず、不特定の君主の裏方として祭祀や金銭的援助を行うというスタイルを続けているように感じます。日本においても出雲vs九州勢のどちらに付くでもなく、彼ら独自の論理で動いているように思われます。
茂木先生、もし、高島に訪れたら管裏にある須賀神社をお勧めします。行政区は長浜市になりますが、文化圏は高島寄りと思います。
火山の噴火で人々が移動して文明が生まれる。狩猟→農耕寒冷化=鬼界カルデラで日光が遮られるから寒冷化する=歴史が動くキッカケ出雲人は縄文系が強い=蝦夷なんか面白くなってきました。
いつも楽しい配信ありがとうございます。出雲の事は頭の整理が出来無い。東から西へ?津軽から入って出雲へ辿りついてまた東へ逃げたのかしら???あと先生、めっちゃ話は遡りますが鬼界カルデラ噴火よりももっと前の段階で日本人というか日本周辺に住んでいた方々がシュメールだけではなく世界各地へ散った可能性は無いですか?あの九州のペトログリフを作った方々(それも世代をまたいで)こそ日本に帰って来た方々だと思えばスッキリするんですよ。武内先生の受け売りです。いときょう先生とホツマの本を書いた長堀先生も同じような考え方なさってました。総合して自分なりに感じてみると日本がヤバいって思えて来るのですよね~選民意識ではなく。
「膠着語を話す古モンゴロイド」が北東アジアから拡散したとしか言いようがないですね。日本列島に残った、あるいは戻ってきたのが「日本人」になります。
膠着語…勉強し直して参ります。
茂木先生がホツマツタエを取り入れてくださり、面白く見させていただいています。以前にもかじったことがあったのですが、ホツマツタエは登場する神様や場所と現在でも残る神社のご祭神が合っているところが面白いです。岩木山付近に鬼神社、高照神社ありますが鬼神社のご祭神は高照姫(大国主の娘と言われています)です。この周辺に出雲文化圏があったと思っていたら、古代出雲は津軽にあった、といっていた方がいました。宮城の多賀城にある古代の碑に壺という文字があり、壺というのは古代の朝廷のようなもので日本に3か所しか無いらしく、アマテル様が幼少期を過ごされたタカミムスビ様(トヨケ大神)の日高見の国が多賀城にあったのではないかと想像するとワクワクします。
国譲り後の大国主命(オオナムチ)が、青森県の岩木山神社のある場所を拠点とされたとすると、主祭神が合致しているのと、弘前市である平野を開拓し発展させたことが想像できます。
縄文時代をリアルにイメージして、ホツマや記紀を読み解くという挑戦もありだと思いますね。その縄文人は海を非常によく活用していたようです。温暖化するとマンモスのような大型動物が絶滅して、食料の調達が難しくなっていたので、海まで進出せざるえなかったのでしょう。縄文時代にも交易のようなものがあったなら、朝鮮半島にも倭人の住む村があったはずで、弥生渡来人はすでに混血であったという説もあります。新羅の建国神話には倭人がでてきますし、スサノオが朝鮮半島からやってきたというのもそのような背景があったと想像します。しかしこれを裏付ける朝鮮半島南部の発掘はまだまだこれからのようです。
スサノオの娘を后とした大国主は、縄文系でしょう。渡来系の妻は稲作と機織りをおこない、縄文系の夫は交易や狩猟または戦争をするというのが、弥生的な新しい暮らしであったとイメージします。ヤマタノオロチはいうまでもなく、猿田彦や大物主のような神の正体は、蛇であるといった記述もあって、そこに縄文から続く蛇信仰が重なってきます。その大物主をまつっていた三輪氏の流れをくむ和珥古氏?だからこそ、伝承をホツマのような書として残そうとしたとすれば、一応は筋が通ってきます。さらに蛇行剣がこの縄文の蛇信仰につながるとすれば、大和政権は縄文の性質を残した王権であったのではないでしょうか。おそらく渡来系氏族の影響が強くなったは、応神朝の古墳中期以降でしょう。
武内一忠さんの説も非常に面白いです。ハーバード大学のバリー•フィル教授の説を元に【Ancient One World】古代の一つの世界からなっている的な意味だそうです。これを元に研究された方で非常に面白いのでオススメです。
日本思想史マトリックス読みました。先生の本は思想系が特に面白いので(思想家たちの格闘、リベラルの正体)今回も二度読みしてます。ただ少し気になったのは、「マトリックス」であるメリットはそんな無かったかなと。普通に読み物として読むなら良いですが、マトリックスになると少し分かりづらく無理やり感がありました。あと、訂正としては、330Pあたりの「法治主義」は「法の支配」の間違いです。国民の権利を制限するのが法治主義で、権力者自身が法律より上の伝統的な(「人」の意志を介しない秩序、道徳)「法」に従わなければいけないのが法の支配なので、ここは確実に法の支配が合ってます。モーガン先生との対談本とジオヒストリアも大変楽しみにしております。15万人前なので久しぶりにライブも希望します。お体に気を付けてください
ご教示ありがとうございます。「法の支配」、増刷時に訂正いたします。無理矢理感は、編集部の意向なのです😅
世界最古で最長の縄文文明🇯🇵🌞💕日本国ばんざーい🇯🇵🙌🙌🙌💗✨
めっちゃ面白いです!感謝です(*´∀`*)
茂木先生がホツマツタエに、どのようにアプローチするのが楽しみです。😂😂😂
もてぎさんの言う鉄が採れるという話で思い出したんですが、日光の戦場ケ原では鉄が採取できます戦場ケ原は大蛇伝説も残っているので、何かあるのではないかと思っています男体山だったか忘れてしまいましたが、山頂に鉄塊が出土していますそれと、地元の研究家が書いた本に今市市の瀧尾神社と伊勢物語とを絡めたものが記されていましたちなみに瀧尾神社は、日光二荒山神社の別宮で女峰山の女神・田心姫命(たごりひめのみこと)をお祀する神社です。
「もぎまこと」と申します。はじめまして。
縄文晩期の寒冷期:BC1400〜BC600年、人口10万人まで減少。太平洋側を南下してきた氏族、日本海側を南下してきた氏族、半島を南下してきた氏族。大陸では夏から殷へ、西方ではアーリア人が南下。
質問形式なのがいい。ホツマツタエは内容からして琵琶湖周辺に住んでいた一族が書き記したものであろうと思う。琵琶湖には100こぐらいの遺跡が沈んでいるとか、、
CGSの神谷さんといときょうさんのたくさんの動画から[山彦海彦]をとりあえず拝見しました。(後で他も視聴したいです)釣り針は、この時代鉄製なのですね。貝や鹿の角を削ったものではなく、刀を融かすなど金属製だということが読み取れました。😂😂😂
戦後に宮内庁から神田の古書店へ流れた経緯が気になる。
茂木先生の動画いつも楽しみにしています。広い世界視点で謎を解き明かしてくれそうです。ホツマツタヱの内容にはとても納得する点が多いです。ただ、地名の解釈・比定地だけは疑問です。そんなに長距離の移動を繰り返すのか?海洋民族だからといって、少人数で移動するならともかく、大人数移動するには距離があり過ぎないか?
当時の日本は馬での移動ができました。
@@itokyo-hotsuma さん 日本では馬は5世紀です。もう大型古墳がある時代なので、「古代」でも新しい時代ですよ。馬具の発掘記録を調べるといいです。
おっしゃる通りです。名前だけいわれてもなあ・・・って思います。だって、大きい木があったら、「木下」とかいう地名にするし、太陽が出てくるほうだと「日向」とかつけるし・・・。奈良と四国には同じ吉野川ってのがありますし、そんなのいっぱいあります。そもそも、古代人の平均寿命は30-35歳くらいです。ものすごく栄養状態がよい、過重労働をしないような王様と一族くらいが、60歳70歳まで生きられるっていう程度です。私は、古墳や生産地遺跡などを調べていますが、「もの」がなにか出てこない限りは、「はいはい、ただの言い伝え」とわりきっています。科学的だからです。ただ、言い伝えにはなにか「元ネタ」があることが多く、それはちょっと遠くの別のクニの話だったりしますので、言い伝え分布をつなげていけば、一番おおもとにたどり着くかもしれないと思っています。オオクニヌシの行動範囲が広いのは、おそらく200年4-6代分くらいの子孫の行動履歴も話にしてあるからだと思います。いやー、新潟にいったり、山陰地方(本拠地?)にいったりと大変ですwwwなお、縄文人は海洋民族なので、海沿いの土地に関してはそこそこ遠くにいけるようです。海流にのるとさらに遠くにいけます。だって、環太平洋のはしっこの海の島に、渡ったアジア人とかいますもん。100日くらい手漕ぎの船で漕げばいきつけるのかもしれないです。すごいですね。
葦原 水穂國者 神在随 事挙爲國 (萬葉集第3253)あしはらの みづほのくには かむながら ことあげせぬくに弟姫比賣の事挙げに違和感を覚えました。
万葉集巻1の48「東野炎立所見而反見為者月西渡」この歌の解釈および読みが分かれますように、万葉集を持って説明することは難しいように思えます。これについては「真実のホツマツタヱを求めて」いときょう著ホツマ出版16頁をお読みください。
天照大御神が八代目、男の神である事に感動しました。ありがとうございます。朝食時にちょっと嫁に知ったかぶり。
19:20 熊野市の産田神社日本書紀ベースの考察だとカグツチが産まれた所 (故にイザナミが亡くなった所) と考察されているがホツマツタヱだとスサノヲが産まれた所とされている凄い所なので実際に行ってみた事がありますが観光地化されていない為か 割りと小さく地味な神社でした
茂木先生いつもありがとうございます。大経連のイベントお疲れ様でした。ホツマツタエと阿波の邪馬台国伝承の関係性がどうしても繋がらないのですが、ホツマツタエは邪馬台国の事を伝えていないのでしょうか。
いときょう先生から伝言です。「邪馬台国はホツマ編纂(AD126年)後の話のため、邪馬台国については、ホツマには記されていません。以下、諸説の中から参考として述べさせていただきますと、イキナガタワケは、ホツマツタヱではヤマトタケのオトタチバナ姫の第5子となっています。『旧事』ではイキナガタワケは息長田別命(おきながのたわけのみこと)。阿波君らの祖、と言われています。神功皇后は、オキナガタラシ姫と言われ、イキナガタワケの娘であった可能性もあるかと推測します。神功皇后を卑弥呼とする説があります。」
茂木先生、お忙しい中返信有難うございました。ホツマツタエには邪馬台国の事は記載されていないとの事て残念ですが、茂木先生のご考察を参考に勉強してみます。卑弥呼、神功皇后、応神天皇の時代は何か皇統にとって不都合な事がありそうですが、神功皇后=卑弥呼であっても、卑弥呼の宗女である台与の存在がよくわからないですね。大陸との関係もあり、謎が深くて興味深い時代です。
お疲れさまです。私の実家は東本願寺ですが、私は神道支持です、。昨年93歳で父が他界しまして、13年間アルツハイマーで寝たきりでした、釈迦に説法で、「死んだ後天上界に登るのは分かりますが、何歳の父親でしょうか?「赤ちゃんや年少者は、何歳で旅立つのでしょうか?」と尋ねてしまいました、お盆は何歳で帰ってくる?。。。縄文時代なら自然崇拝だから墓は作りません、現在ならば、更地にして、マンションや、ゴルフ場作るのに違法性はありません、仏教、寺、墓、お坊さんは非経済的な宗教のような気がします。
山内丸山の縄文人は、村の近くに墓地をつくりました。本来、墓を作らなかったのは輪廻転生を説くインドの仏教の方でしたが、中国・日本へと伝わる過程で、それぞれの祖先崇拝と結びついたようです。
ここまで、研究されてるのに偽書のわけがないですね。。あわの歌とか「淡路島」「阿波」ともどこか繋がっていそうです。。
出雲・北陸・東北は同じ文化圏です。出雲口伝によりますと、【長髄彦】とは、【四道将軍の大彦】のことであり、大彦勢は集落を作りながら北陸道を、息子の建沼河別勢は東海道を通り、物部軍に追われながら、最終的にどちらも東北に逃れ、【阿部王国(アラハバキ王国)】を作ります。いわゆる欠史八代と呼ばれる王朝は、出雲の分家筋にあたります。登美長髄彦と正史に記される人は、その王朝の皇太子でありました。孝霊天皇の時代の人です。後に大彦の子孫たちは、北陸や関東でも多くの国造家となり、東北は鎌倉時代まで独立国でありました。出雲王国がなくなってからも、出雲族との交易は十三湊(トサミナト=富の港)を拠点に大きく繰り広げられ、沢山の出雲人が行き来していたと思われます。ホツマツタヱで大国主が東北に飛ばされるのは、そのような史実を示唆しているのではと想像します。一説です。♪
ありがとうございます😊茂木先生のお話のようにアカホヤ噴火の気候変動により、日本から海外に渡り、その人たちだったのかは置いといても、それから三角地帯に大規模な農耕文明が始まったのは間違いなさそうですね。
@@nihontaro9さまありがとうございます♪人口推移の表を見ていたら目が冴えて来てしまいました。😆鬼界カルデラの噴火が、約73000年前です。縄文早期〜前期ぐらい。その後、東日本の人口が爆発的に増えます。縄文海進のピークが約6500年前〜6000年前。まだまだ、暖かいんですよ。三内丸山遺跡が5900年前から4200年前この時期に八ヶ岳文化も華開きます。縄文中期です。縄文海進のピークは、おそらく、気温のピークでもあるでしょうから、それ以降、徐々に気温が下がっていったと思います。ですが、三内丸山や八ヶ岳の集落では、人口が爆発的に増えており、素晴らしい土器が沢山作られたことを考えると、まだまだ住みやすい気候であったと考えられます。寒冷化が際立つのは3300年前ごろから。縄文後期。この辺りでどんどん西日本へ流入しています。アカホヤ噴火から4000年後です。ですので、噴火してすぐには、極端に寒冷化していなかっただろうと人口推移や、出土品の様子から想像できます。ですが、気温は徐々に徐々に確実に下がっており、縄文後期になると、茂木先生がおっしゃるように、必要に迫られて農耕が始まったと考えられます。華頂先生のおっしゃる地球天気予報ですね。🌍
こんにちは😻出雲口伝だとナガスネヒコは東北へ逃げたのですよね~でもその割にはナガスネヒコの痕跡が関西にも多いのが頭が混乱するポイントなんですよ~富雄円山とか…何なのかしらね~✨
出雲族は京都の先住一族でもあり、日本海側から丹波経由でやってきたようです。洛中で最も古い神社である二つの御霊神社のうち下御霊神社の神職は代々「出雲路」氏で現代に繋がってます。
@@高見章代 さまコメントありがとうございます♪富雄丸山古墳は4世紀後半の製造とされていますよね。第一次物部東征は2世紀中頃と言われていますから、時代が離れすぎです。大彦族は東北に逃れますが、大彦自身は、その道中、信濃で亡くなったと言われています。越後を通って信濃に入っていますから、弥彦神社は大彦族が建てたかも知れないですね。弥彦神社は海部家・尾張家のご祭神がズラッと並びますが、海香語山は大彦の先祖ですから。関西にある長髄彦の痕跡とは具体的にどれを指しておられますか?!【トミ】とつくものは、奈良を中心に山程ありますが、長髄彦のことではなくて、登美家、つまり、皇后の家系のことを指し、ヤマト政権の中心家系です。ヤマト政権の祭祀を請け負っていた家系であり、後に【賀茂氏】と呼ばれる一族や、【神(みわ)氏】も、その一族です。ホツマツタヱを書いた人たちです。富雄丸山古墳もおそらく、この一族のどなたかのものと思っています。
ほつまつたえのヲシテ文字を使わず、漢字しか作ってはいけないとは、ここで政権が入れ替わっている可能性があるのでは?欠史八代前後と、壬申の乱あたりがあやしい。入れ替わるまでも、色々な人の交りをかんじます。
ほつまつたえ たのしみです。筑波山が出てくるので、、、
宇和島!?
(訂正) 弟橘比賣
上皇后は、イエズス会、カトリシズムに親和性のある方で、平田篤胤の古神道(旧約聖書神道)と共鳴なされる素地がある方ではないでしょうか。鈴屋の縄文国学とは、二律背反の可能性が有ります。平田篤胤のロシアとの国防の軋轢の心的外傷を感じます。
なるほど。
@@maomao96363 さまご理解いただき幸いです。この後、日本は平田学神道、水戸学により、明治維新革命の成功、国体イデオロギーは、国家神道(キリスト教神道)化し廃仏毀釈、幸徳秋水派アナキズム弾圧、北一輝の一君万民国家社会主義(皇道派)弾圧、統制派、革新官僚による社会主義化、計画経済と国体は変質し、昭和12年以後の民主制度の変質、陸軍による一君フランコ、ソ連型計画経済国家の建設、海軍のコミンテルンスパイによる謀略で日米開戦、終戦、進駐、占領、植民地化へとなりこれが現在の状況です。また、これと同時に、平田篤胤神道(旧約聖書神道)から分かれた、大本教も徹底的に、内務官僚の革新官僚(マルクス主義秘密研究会分子)によって、迫害、弾圧されています。大本の予言は、オカルト的ですが、当たっていると言われ続けています。
宇和島は伊達家では?
宇和島藩の旧家、小笠原家。
もしかしたら明治天皇がご覧になってらっしゃる可能性もあるのですね。出雲系の記述が多いのでしたら、国津神の視点というか、国津神系にも天照様が別にいたのかにゃー('_'?)と思いました。
三輪 大神神社 みむろ杉
〜という説もあるとか、〜という事なんですねという部分を普通にスルーしてるけど、一つ一つその証拠は?と問いたくなる。それがいくつもある時点で仮説に仮説を重ねた想像でしかないと思うんです。状況を元に作ったストーリーとしか思えない。
おっしゃる意味は良く分かります。是非ご自身でホツマツタヱを研究して、答えを見つけ出していただけると嬉しいです。いときょう
『古事記』でさえ後世の人が伝聞で書いたもの。確かなものが何もない状態を想像力で楽しめる人は、古代史にハマります。
それは小笠原家の事ですか?
四国宇和島の小笠原家です。
同じ伊予の二名国であった阿波一宮(神山)の宮司家であった小笠原家と関係しているのでは? 推測です。アワミヤは四国金毘羅宮という説だそうですし。
@@阿波の古代史探索 様ありがとうございます。少し調べてみます。
言葉の始まりが、叫びであり祈りであったろうと想像されることから、文字にも、魂、霊、神、といった概念が含まれるのは致し方ない。が、日本神話の神が実在の人物であったろうと考えるなら、あまりスピリチュアルな方向に走りすぎるのは学問としては疑問を感じる。
神話を史実の反映と考えるのは、スピリチュアルとは逆方向だと私は思います。
イザナギではなくてイザナキと発音して頂きたい。
ホツマツタヱでは、イサナキ、イサナギ、イザナギの記述があります。
ホツマはワシが書いた。
わりこさんが書いた
なんか怪しいなー
ご紹介の中で「三輪大臣季聰」とあり「ヤストシ」とは読めないような❔「季」が気になります。
私も以前CGSで勉強させていただきました。地元なので岩木山と聞いたときは驚きました。でも確かに岩木山神社の祭神は顕國魂命(大己貴命)とありますし、参道の途中に出雲神社があります。
茂木先生いつも楽しいお話ありがとうございます🩷
季聰は「すえとし」と読みます。「やすとし」とは別人でした。申し訳ありません。「すえとし」はホツマツタヱを編纂したオオタタネコのお名前です。
オオタタネコ⁉️それはそれで凄い情報ですね。教えて頂きありがとうございます✨
三輪大臣がオオタタネコなのですね。太田氏であり、後半部の編纂者ですから、納得いたしました。ありがとうございます。
前半と後半とで編纂者が違うのですか?前半はどなたが?
@@swanchan. さま、
ウィキによると、1アヤから28アヤまでが前編で「クシミカタマ」の編集、29アヤから40アヤは後編で「オホタタネコ」(大田田根子)の編著による。と書かれています。
この前半の「天の巻」「地の巻」を編纂したのは六代目大物主クシミカタマと書かれているようです。
自分は、このクシミカタマとは、6代目大物主と書かれているように、6代目だったのか6の数字は別にして、出雲の伝承によると、大物主とは、第8代目出雲王国副王少名彦であった東王家富家の八重波津身事代主が三輪山の大神神社に祀られ、その後に呼ばれた名の事なので、この第6代目大物主と表現されているのは、事代主と三島溝杭耳の姫の活玉依姫・玉櫛姫との息子の天日方奇日方王アメヒカタクシヒカタのことであったろうと思います。
クシヒカタは、出雲での父王枯死による混乱により、出雲から妹の五十鈴姫姉妹と母上と共に母上の実家の三嶋(摂津)に移り、ほど近い大和に第二の出雲王国を目指して干拓を行い、賀茂氏の祖となります。
この時に活玉依姫とクシヒカタと五十鈴姫を慕い、出雲から当時の半数以上の人たちが大和に移住したようです。そして、海部家五十猛と穂屋姫の息子海村雲を妹蹈鞴五十鈴姫の婿に迎え、初代ヤマト政権が生まれます。
この辺りは別のトキジク日記の動画の内容と同じですね。
ホツマツタヱは、おそらく賀茂氏に代々伝わる天皇家の祭祀や祈祷を行うために必要な秘伝のような奥義書の一つではないかと思うので、賀茂家と出雲王家富家とは密接に関係すると思っています。というか、直接の子孫ですし🙂。
聞いていながら寝ました。何回も聞かないと、わからないけど面白い。
とても興味深いお話ありがとうございます❤ワクワクします❤
やっぱ、茂木先生は議論できる先生ですね、
自分の意見ははっきりいうけど、違う意見を攻撃しない。
私の意見は色々な先代旧事本紀や九鬼の書物などから、共通したり類似点を見つけ出すことが大事だと思っています。
そもそも古事記や日本書紀など時の権力者が制作したものは必ず忖度が入りますからね。
1000年以上続く神社の宮司さんの口伝とか、まだまだお宝は日本中に埋まってますよ^^
世界史との比較とか面白い話をありがとうございました。
👏👏👏👏👏👏良い発言 ありがとう
ホツマの写本伝承について、簡潔に整理されていてとてもわかりやすいですね。
機会があれば、ぜひ茂木先生には高島を訪ねて頂きたいです。
ホツマ伝承の生き証人である井保さんや野々村さんをご紹介しますので、
お二人との鼎談が実現すれば素晴らしいと思います。
次回の神武東征も楽しみです♡
とらさん、ありがとうございます。高島にはいずれ、足を運ぶつもりです。
早速ご返信いたみいります。井保さん野々村さんは寡黙なタイプですが、故地案内はピカイチです♡
お話がだんだん面白くなってきました。
興味津々です。
去年瀬織津姫様ご生誕の地、静岡県の瀧川神社に巫女舞いを見に行った時に滝の湧水(御神水)を頂き、毎日瀬織津姫様に感謝と世界平和をお祈りしてます。
茂木さんは時系列と関係がわかりやすくて最高です✨これまで他で色々な情報をみていましたが、部分毎で、なかなかうまくまとめられなかったのですが、やっとすっきり氣持ちよく頭のなかも整理できました😊ありがとうございます💕 スピ的なものをきちんと歴史+で本物にしていく所が大好きです✨
本当にお二人で話してくださって良かった❤😂聞いてて楽しいです🍀😊
いときょう先生のお話を聞いて、ホツマは、古事記や日本書紀とはまた違った面白さがありますね。
古事記や日本書紀を読むと、西から東に広がっていったと思ってしまうけど、東から西に広がっていった説は面白い。
寒冷化で北から南に移住してきた人たちがいるので、ホツマの伝承はありえるって思えました。
歴史がどんどん明らかになっていくのが✨ワクワク😆します💖
最近TOLANDさんは外から日本にやってきた人たちの歴史を語っておられ、もぎ先生は元々日本にいた人たちの歴史を掘っている、そんな気がしています。
色んな説があって頭がぐるぐる🌀になりますが、柔軟性を持って一番整合性の取れる流れを探って行きたいと思っています。
いよいよ、いときょう先生登場という感じですね。楽しみにしています。
CGS自分も何度も見てました。茂木さんの質問で切り口が違うのでCGSとまた違い面白いです。ありがとうございます。
茂木先生聞いてくれるからわかりやすいです。いときょう先生も、茂木先生も、日本の宝ですね!茂木先生大ファンですわ!ありがとうございます😊
CGSで、いときょうさんの動画は全て見させてもらい全てノートにまとめるほど、しっかり勉強させてもらいました😁ホツマの全文が普通にネット上にあるので時間を見つけては文字起こししたりもしています☆
古い木箱から出てきた、絡んだ糸を一本ずつ一本ずつ絡みを説き、研究する人が昔から居られたのですね、現在は、他にも居られるでしょうが、茂木先生が、とらさんに会い、いときょう先生に会い、知らなかった日本人には、驚きの連続です。話すことばがあるのだから、きっと文字はあったを、証明されるのが嬉しいです。続編ワクワクします。希望としては、何故瀬織津姫が、消されたのかまでいってほしいです。
いろいろな古史古伝を否定することなく受け入れ、咀嚼し、比較しながら、自分なりの日本古代史を創り上げたいなぁと思っています。尊敬する茂木先生の考え方が、とてもしっくりきます。
鬼界カルデラ噴火の凄まじさは、西日本に人が住むことを難しくしたと思います。その頃の人口分布、北海道南部まで含めて考えています。津軽から潮の流れに乗ると北海道南部の恵山方面に辿り着きます(実際にヨットで津軽海峡を渡った経験がありますが、潮の流れは日本海から太平洋にものすごい勢いで流れています)函館には垣ノ島遺跡があり、そこから約9,000年前の世界最古の漆の副葬品が出土しています。糸魚川の翡翠も出土しているので、本州と活発な交流があったと思われます。寒冷化が起こるまでの縄文時代は、東北から北海道南部に文化の中心があったのかもしれません。中でも中心だったのは津軽の山内丸山周辺だったのなと。個人的想像です!
なので、ホツマに岩木山のお話が出てきて、おぉっ!となりました😆
次回配信も心待ちにしています✨
賛同
『東日流外三郡誌』も参照になると思う。
@@ザンゲきょみ 同感です!
ホツマは焚書の目に遭ってます。何故焚書しなければならなかったか、GHQが焚書した本はどんなものだったかを知れば想像できますね。茂木先生のような柔軟な方がこの研究に踏み込んで下さると日本の古代はもっと凄いと知れ渡ると思います。アマテルが男性神だと自分の足で行き着いた茂木先生なので。ホツマの話を聞けば聞くほど答え合わせになってる茂木先生が微笑ましいです(^ω^)
3年かけて一の宮巡りしていたら、記紀ではなくホツマツタヱでした。
やっと、真の御祭神さまに会えた気がします。
縄文文化を見直しして美しい国日本を取り戻したいですね。
やはり、若狭彦神社と神宮寺で確信しました……。
@@t.i6104 ホツマを焚書しなければならなかったのは、現代ではいう左翼的イデオロギーだったと思います。アマテル様が女性でならなけれぼならない理由、藤原氏の腹黒さ😅など、当時も治世に不都合な事は隠されました。私も歴史の学び直しをしようと縄文から紐解きましたが、縄文がそもそも偉大なる時代でそこかろ一向に進まず三年くらい経ってます😅
茂木先生、いときよう先生。ありがとうございます。ホツマツタエのシリーズを楽しみにしてます!茂木先生がいときよう先生のホツマツタエに辿りつかれた事は感謝・感激です。ワクワクがとまりません。
皆さんのコメントも深い考察で楽しみにくまなく拝読させて頂いてます。
配信ワクワクして拝聴させて頂きました。ありがとうございます。本日の講座を念頭に入れて、ホツマ伝えを読んでみます。茂木先生ありがとうございます。楽しみにしておりますのでよろしくお願いします。
いときょう先生をゲストに呼んでいただきありがとうございます。CGS からぜひ古神道の表博あき先生もゲストに呼んで欲しいです。古代についてとても興味深いお話をされてました。もぎせか先生知ってみえると思いますけど。
秀真は読ませてもらいました。古事記とは何箇所か違う点があり、歴史的な真実と伝説は分けて理解した方が良いと思いましたが、叙事詩として素晴らしいもので感動しました。
いろんなお話が出て来てわくわくします。😅😅😅
いときょう 判りづらい 茂木先生の補助がないとね~ 茂木先生 お疲れ様です
精進します。いときょう
和歌の枕詞の由来などの謎が解けるだけでも文献として重要だと思う。
JR千葉駅の二つ南に、蘇我駅があり、駅の南に蘇我比口羊(ひめ)神社があります。
弟橘姫に従って海に身を投げた蘇我の大臣の娘が流れ着いて村の者の介抱を受けて助かったとのこと。🌊
小さな神社ですが、境内には讃岐忌部氏の足跡もあるそうです。😂
ついでがありましたら、お立ち寄り下さい。🙇🙇🙇
いときょうです。万葉集で語る方がいます。
万葉仮名は、朝鮮半島の方が渡来して和歌を覚えるときに、万葉仮名を用いたという説があります。藤井氏の説によりますと「記紀万葉」を書いたのは白村江敗戦による亡命百済人だったと書かれています。詳しくは「白村江の敗戦と上代特殊仮名遣い」藤井游惟著、東京図書出版会をお読みください。また万葉集巻1の48「東野炎立所見而反見為者月西渡」この歌の解釈および読みが分かれますように、万葉集を持って説明することは難しいように思えます。これについては「真実のホツマツタヱを求めて」いときょう著ホツマ出版16頁をお読みください。
前回からの『いときょう』先生。もぎせかチャンネル初登場。(ホツマツタエとカタカムナで語り尽くす の書籍を手元に持ちながら)…そして今回のいときょう先生と茂木サンとの対談。何より茂木サンの表情が柔和でありながらも興味津々のいときょう先生を優しく望み込む仕草が非常に嬉しく思います。。あっという間の30分弱。
次回も楽しみにしています。有難う御座います。
神回ですね!
賄賂(+搾取?)政治?どこかで聞いたような話ですね。正さねばなりません。
ホツマを読むとありとあらゆる神社の由来が出てくるのが面白い。
これこそ「真説日本史」なんでしょうね‼️ぜひ茂木先生が分かりやすく解説本を書いてください‼️期待しています。
古代史に「真説」はないと思います。たくさんある解釈の一つ、程度にお考えください。
@@maomao96363 先生、素晴らしいお考えだと思います。こういう集約は、こんなこと考えていた・・・っていう程度かなあと思います。
何だか、段々と田中英道先生の説に寄って行く気がしますねぇ、興味津々です。
んで、更にここに海外からの移住組も乗っかって来て複雑になるのか? でも関東にもユダヤの痕跡は色濃くあるものなぁ🙄🤨🤔🧐
「ユダヤ人埴輪」は古墳時代以降ですね。
面白いですね。
私は「全ての起源は日本」的な話にどうも興味を持てないのですが、何か証拠が出てくれば変わって来ますよね。
でも、そうでなくても、日本は十分に愛するに値する国です。
私は日本が全ての起源じゃなくていいです。
本当の事を知りたいです。
いときょう先生、イケメン❤
八王子、宇都宮、富士宮
阿波いづもと出雲
謎は深まるばかり。
ホツマツタエと阿波を結ぶ点と線。縄文から倭へ。
CGSの時から見てますが、ホツマは各神社の言い伝えとも合致してて信ぴょう性があるなと思います。
まだまだいときょう先生のお話を聞いてみたいです!
初めて聞くことばかりでとても勉強になります。
いつもありがとうございます。
ハタレの乱、はじめて聞きました。日本海側(豊岡)の方言⇒「ハータレ」があります。「このハータレが…」と、伯母が息子を叱りつけていました。
「ハータレ」その言葉が残っていることは凄い事だと思います。
神代の歴史を興味津々脳に叩き込む為何度も繰り返し拝見させて頂きました❗何時も配信‼有り難く、今後とも楽しみに致して折ります。イボさんに付いてもいつか次回お願いします
1986年発行の『謎の秀真伝(ホツマツタヱ)』を読み返してますがやはり難しいです。youtubeで見ると見やすいのもありますし勉強になりますね。
岩木山麓の嶽(だけ)地区は、古くから「アソベ」の森と呼ばれ、岩木山神社には出雲大社の末社である奥富士出雲神社(昭和初期に出雲神社大社より末社として任じられた)があります。
ホツマツタエに出会ってから、高島、安曇川を歩きました。まさに降りられてますね。与呂木神社もありました!
ホツマは、神社を始めとする考古学的遺物の裏付けがある歴史書なんですね。
三内丸山の発掘で、ホツマ的縄文世界にリアリティーが出てきました。
いつもありがとうございますっ!!
白山は菊理姫様で、イザナギ様のお姉さんにあたる方なので・・。福井の日本海と深く関係があると思いました。🙇
鬼のいるところに鉄あり。
出雲は縄文が強いと言われますが、弥生も混ざっていますね。当然ですが、交流が見られます。宗像三女神が大国主に嫁ぐ話もそうですし、出土品も遺骨もそうです。下照姫(意富伽耶の賀夜奈留美、比売語曽社)にも宇佐の血(意富氏,元祖 秦氏)が入ってると思います。縄文優勢だったでしょうが、ピュアな縄文の集まりと考えると解釈に影響が出そうです。
彼らはディアスポラ以降ずっと同じだと思います。君主的立場をとらず、不特定の君主の裏方として祭祀や金銭的援助を行うというスタイルを続けているように感じます。日本においても出雲vs九州勢のどちらに付くでもなく、彼ら独自の論理で動いているように思われます。
茂木先生、もし、高島に訪れたら管裏にある須賀神社をお勧めします。行政区は長浜市になりますが、文化圏は高島寄りと思います。
火山の噴火で人々が移動して文明が生まれる。
狩猟→農耕
寒冷化=鬼界カルデラで日光が遮られるから寒冷化する=歴史が動くキッカケ
出雲人は縄文系が強い=蝦夷
なんか面白くなってきました。
いつも楽しい配信ありがとうございます。出雲の事は頭の整理が出来無い。東から西へ?津軽から入って出雲へ辿りついてまた東へ逃げたのかしら???あと先生、めっちゃ話は遡りますが鬼界カルデラ噴火よりももっと前の段階で日本人というか日本周辺に住んでいた方々がシュメールだけではなく世界各地へ散った可能性は無いですか?あの九州のペトログリフを作った方々(それも世代をまたいで)こそ日本に帰って来た方々だと思えばスッキリするんですよ。武内先生の受け売りです。いときょう先生とホツマの本を書いた長堀先生も同じような考え方なさってました。総合して自分なりに感じてみると日本がヤバいって思えて来るのですよね~選民意識ではなく。
「膠着語を話す古モンゴロイド」が北東アジアから拡散したとしか言いようがないですね。日本列島に残った、あるいは戻ってきたのが「日本人」になります。
膠着語…勉強し直して参ります。
茂木先生がホツマツタエを取り入れてくださり、面白く見させていただいています。以前にもかじったことがあったのですが、ホツマツタエは登場する神様や場所と現在でも残る神社のご祭神が合っているところが面白いです。岩木山付近に鬼神社、高照神社ありますが鬼神社のご祭神は高照姫(大国主の娘と言われています)です。この周辺に出雲文化圏があったと思っていたら、古代出雲は津軽にあった、といっていた方がいました。宮城の多賀城にある古代の碑に壺という文字があり、壺というのは古代の朝廷のようなもので日本に3か所しか無いらしく、アマテル様が幼少期を過ごされたタカミムスビ様(トヨケ大神)の日高見の国が多賀城にあったのではないかと想像するとワクワクします。
国譲り後の大国主命(オオナムチ)が、青森県の岩木山神社のある場所を拠点とされたとすると、主祭神が合致しているのと、弘前市である平野を開拓し発展させたことが想像できます。
縄文時代をリアルにイメージして、ホツマや記紀を読み解くという挑戦もありだと思いますね。その縄文人は海を非常によく活用していたようです。温暖化するとマンモスのような大型動物が絶滅して、食料の調達が難しくなっていたので、海まで進出せざるえなかったのでしょう。縄文時代にも交易のようなものがあったなら、朝鮮半島にも倭人の住む村があったはずで、弥生渡来人はすでに混血であったという説もあります。新羅の建国神話には倭人がでてきますし、スサノオが朝鮮半島からやってきたというのもそのような背景があったと想像します。しかしこれを裏付ける朝鮮半島南部の発掘はまだまだこれからのようです。
スサノオの娘を后とした大国主は、縄文系でしょう。渡来系の妻は稲作と機織りをおこない、縄文系の夫は交易や狩猟または戦争をするというのが、弥生的な新しい暮らしであったとイメージします。ヤマタノオロチはいうまでもなく、猿田彦や大物主のような神の正体は、蛇であるといった記述もあって、そこに縄文から続く蛇信仰が重なってきます。その大物主をまつっていた三輪氏の流れをくむ和珥古氏?だからこそ、伝承をホツマのような書として残そうとしたとすれば、一応は筋が通ってきます。さらに蛇行剣がこの縄文の蛇信仰につながるとすれば、大和政権は縄文の性質を残した王権であったのではないでしょうか。おそらく渡来系氏族の影響が強くなったは、応神朝の古墳中期以降でしょう。
武内一忠さんの説も非常に面白いです。
ハーバード大学のバリー•フィル教授の説を元に【Ancient One World】古代の一つの世界からなっている的な意味だそうです。
これを元に研究された方で非常に面白いのでオススメです。
日本思想史マトリックス読みました。先生の本は思想系が特に面白いので(思想家たちの格闘、リベラルの正体)今回も二度読みしてます。
ただ少し気になったのは、「マトリックス」であるメリットはそんな無かったかなと。普通に読み物として読むなら良いですが、マトリックスになると少し分かりづらく無理やり感がありました。
あと、訂正としては、330Pあたりの「法治主義」は「法の支配」の間違いです。国民の権利を制限するのが法治主義で、権力者自身が法律より上の伝統的な(「人」の意志を介しない秩序、道徳)「法」に従わなければいけないのが法の支配なので、ここは確実に法の支配が合ってます。
モーガン先生との対談本とジオヒストリアも大変楽しみにしております。15万人前なので久しぶりにライブも希望します。お体に気を付けてください
ご教示ありがとうございます。「法の支配」、増刷時に訂正いたします。無理矢理感は、編集部の意向なのです😅
世界最古で最長の縄文文明🇯🇵🌞💕
日本国ばんざーい🇯🇵🙌🙌🙌💗✨
めっちゃ面白いです!
感謝です(*´∀`*)
茂木先生がホツマツタエに、どのようにアプローチするのが楽しみです。😂😂😂
もてぎさんの言う鉄が採れるという話で思い出したんですが、日光の戦場ケ原では鉄が採取できます
戦場ケ原は大蛇伝説も残っているので、何か
あるのではないかと思っています
男体山だったか忘れてしまいましたが、山頂に鉄塊
が出土しています
それと、地元の研究家が書いた本に今市市の瀧尾神社と伊勢物語とを絡めたものが記されていました
ちなみに瀧尾神社は、日光二荒山神社の別宮で女峰山の女神・田心姫命(たごりひめのみこと)をお祀する神社です。
「もぎまこと」と申します。はじめまして。
縄文晩期の寒冷期:BC1400〜BC600年、人口10万人まで減少。
太平洋側を南下してきた氏族、日本海側を南下してきた氏族、半島を南下してきた氏族。
大陸では夏から殷へ、西方ではアーリア人が南下。
質問形式なのがいい。
ホツマツタエは
内容からして琵琶湖周辺に住んでいた一族が書き記したものであろうと思う。
琵琶湖には100こぐらいの遺跡が沈んでいるとか、、
CGSの神谷さんといときょうさんのたくさんの動画から[山彦海彦]をとりあえず拝見しました。(後で他も視聴したいです)
釣り針は、この時代鉄製なのですね。貝や鹿の角を削ったものではなく、刀を融かすなど金属製だということが読み取れました。😂😂😂
戦後に宮内庁から神田の古書店へ流れた経緯が気になる。
茂木先生の動画いつも楽しみにしています。広い世界視点で謎を解き明かしてくれそうです。
ホツマツタヱの内容にはとても納得する点が多いです。
ただ、地名の解釈・比定地だけは疑問です。そんなに長距離の移動を繰り返すのか?海洋民族だからといって、少人数で移動するならともかく、大人数移動するには距離があり過ぎないか?
当時の日本は馬での移動ができました。
@@itokyo-hotsuma さん 日本では馬は5世紀です。もう大型古墳がある時代なので、「古代」でも新しい時代ですよ。馬具の発掘記録を調べるといいです。
おっしゃる通りです。名前だけいわれてもなあ・・・って思います。
だって、大きい木があったら、「木下」とかいう地名にするし、太陽が出てくるほうだと「日向」とかつけるし・・・。奈良と四国には同じ吉野川ってのがありますし、そんなのいっぱいあります。
そもそも、古代人の平均寿命は30-35歳くらいです。ものすごく栄養状態がよい、過重労働をしないような王様と一族くらいが、60歳70歳まで生きられるっていう程度です。
私は、古墳や生産地遺跡などを調べていますが、「もの」がなにか出てこない限りは、「はいはい、ただの言い伝え」とわりきっています。科学的だからです。
ただ、言い伝えにはなにか「元ネタ」があることが多く、それはちょっと遠くの別のクニの話だったりしますので、言い伝え分布をつなげていけば、一番おおもとにたどり着くかもしれないと思っています。
オオクニヌシの行動範囲が広いのは、おそらく200年4-6代分くらいの子孫の行動履歴も話にしてあるからだと思います。いやー、新潟にいったり、山陰地方(本拠地?)にいったりと大変ですwww
なお、縄文人は海洋民族なので、海沿いの土地に関してはそこそこ遠くにいけるようです。海流にのるとさらに遠くにいけます。
だって、環太平洋のはしっこの海の島に、渡ったアジア人とかいますもん。100日くらい手漕ぎの船で漕げばいきつけるのかもしれないです。すごいですね。
葦原 水穂國者 神在随 事挙爲國 (萬葉集第3253)
あしはらの みづほのくには かむながら ことあげせぬくに
弟姫比賣の事挙げに違和感を覚えました。
万葉集巻1の48「東野炎立所見而反見為者月西渡」この歌の解釈および読みが分かれますように、万葉集を持って説明することは難しいように思えます。これについては「真実のホツマツタヱを求めて」いときょう著ホツマ出版16頁をお読みください。
天照大御神が八代目、男の神である事に感動しました。ありがとうございます。朝食時にちょっと嫁に知ったかぶり。
19:20 熊野市の産田神社
日本書紀ベースの考察だとカグツチが産まれた所 (故にイザナミが亡くなった所) と考察されているが
ホツマツタヱだとスサノヲが産まれた所とされている
凄い所なので実際に行ってみた事がありますが観光地化されていない為か 割りと小さく地味な神社でした
茂木先生いつもありがとうございます。
大経連のイベントお疲れ様でした。
ホツマツタエと阿波の邪馬台国伝承の関係性がどうしても繋がらないのですが、ホツマツタエは邪馬台国の事を伝えていないのでしょうか。
いときょう先生から伝言です。
「邪馬台国はホツマ編纂(AD126年)後の話のため、邪馬台国については、ホツマには記されていません。以下、諸説の中から参考として述べさせていただきますと、イキナガタワケは、ホツマツタヱではヤマトタケのオトタチバナ姫の第5子となっています。『旧事』ではイキナガタワケは息長田別命(おきながのたわけのみこと)。阿波君らの祖、と言われています。神功皇后は、オキナガタラシ姫と言われ、イキナガタワケの娘であった可能性もあるかと推測します。神功皇后を卑弥呼とする説があります。」
茂木先生、お忙しい中返信有難うございました。
ホツマツタエには邪馬台国の事は記載されていないとの事て残念ですが、茂木先生のご考察を参考に勉強してみます。
卑弥呼、神功皇后、応神天皇の時代は何か皇統にとって不都合な事がありそうですが、神功皇后=卑弥呼であっても、卑弥呼の宗女である台与の存在がよくわからないですね。
大陸との関係もあり、謎が深くて興味深い時代です。
お疲れさまです。
私の実家は東本願寺ですが、私は神道支持です、。
昨年93歳で父が他界しまして、13年間アルツハイマーで寝たきりでした、
釈迦に説法で、「死んだ後天上界に登るのは分かりますが、何歳の父親でしょうか?
「赤ちゃんや年少者は、何歳で旅立つのでしょうか?」と尋ねてしまいました、
お盆は何歳で帰ってくる?。。。
縄文時代なら自然崇拝だから墓は作りません、現在ならば、更地にして、マンションや、ゴルフ場作るのに違法性はありません、仏教、寺、墓、お坊さんは非経済的な宗教のような気がします。
山内丸山の縄文人は、村の近くに墓地をつくりました。本来、墓を作らなかったのは輪廻転生を説くインドの仏教の方でしたが、中国・日本へと伝わる過程で、それぞれの祖先崇拝と結びついたようです。
ここまで、研究されてるのに
偽書のわけがないですね。。
あわの歌とか「淡路島」「阿波」と
もどこか繋がっていそうです。。
出雲・北陸・東北は
同じ文化圏です。
出雲口伝によりますと、
【長髄彦】とは、
【四道将軍の大彦】のことであり、
大彦勢は集落を作りながら北陸道を、
息子の建沼河別勢は東海道を通り、
物部軍に追われながら、
最終的にどちらも東北に逃れ、
【阿部王国(アラハバキ王国)】
を作ります。
いわゆる欠史八代と呼ばれる王朝は、
出雲の分家筋にあたります。
登美長髄彦と正史に記される人は、
その王朝の皇太子でありました。
孝霊天皇の時代の人です。
後に大彦の子孫たちは、
北陸や関東でも
多くの国造家となり、
東北は鎌倉時代まで
独立国でありました。
出雲王国がなくなってからも、
出雲族との交易は
十三湊(トサミナト=富の港)
を拠点に大きく繰り広げられ、
沢山の出雲人が
行き来していたと思われます。
ホツマツタヱで
大国主が東北に飛ばされるのは、
そのような史実を
示唆しているのではと
想像します。
一説です。♪
ありがとうございます😊
茂木先生のお話のようにアカホヤ噴火の気候変動により、日本から海外に渡り、その人たちだったのかは置いといても、それから三角地帯に大規模な農耕文明が始まったのは間違いなさそうですね。
@@nihontaro9さま
ありがとうございます♪
人口推移の表を見ていたら
目が冴えて来てしまいました。😆
鬼界カルデラの噴火が、
約73000年前です。
縄文早期〜前期ぐらい。
その後、
東日本の人口が爆発的に増えます。
縄文海進のピークが
約6500年前〜6000年前。
まだまだ、暖かいんですよ。
三内丸山遺跡が
5900年前から4200年前
この時期に八ヶ岳文化も
華開きます。
縄文中期です。
縄文海進のピークは、
おそらく、
気温のピークでもあるでしょうから、
それ以降、徐々に
気温が下がっていったと思います。
ですが、
三内丸山や八ヶ岳の集落では、
人口が爆発的に増えており、
素晴らしい土器が
沢山作られたことを考えると、
まだまだ
住みやすい気候であったと
考えられます。
寒冷化が際立つのは
3300年前ごろから。
縄文後期。
この辺りでどんどん
西日本へ流入しています。
アカホヤ噴火から
4000年後です。
ですので、
噴火してすぐには、
極端に寒冷化していなかっただろうと
人口推移や、
出土品の様子から
想像できます。
ですが、
気温は徐々に徐々に
確実に下がっており、
縄文後期になると、
茂木先生がおっしゃるように、
必要に迫られて
農耕が始まったと考えられます。
華頂先生のおっしゃる
地球天気予報ですね。🌍
こんにちは😻出雲口伝だとナガスネヒコは東北へ逃げたのですよね~でもその割にはナガスネヒコの痕跡が関西にも多いのが頭が混乱するポイントなんですよ~富雄円山とか…何なのかしらね~✨
出雲族は京都の先住一族でもあり、日本海側から丹波経由でやってきたようです。洛中で最も古い神社である二つの御霊神社のうち下御霊神社の神職は代々「出雲路」氏で現代に繋がってます。
@@高見章代 さま
コメントありがとうございます♪
富雄丸山古墳は4世紀後半の製造と
されていますよね。
第一次物部東征は
2世紀中頃と言われていますから、
時代が離れすぎです。
大彦族は
東北に逃れますが、
大彦自身は、その道中、
信濃で亡くなったと言われています。
越後を通って
信濃に入っていますから、
弥彦神社は大彦族が
建てたかも知れないですね。
弥彦神社は
海部家・尾張家のご祭神が
ズラッと並びますが、
海香語山は
大彦の先祖ですから。
関西にある長髄彦の痕跡とは
具体的にどれを指しておられますか?!
【トミ】とつくものは、
奈良を中心に山程ありますが、
長髄彦のことではなくて、
登美家、つまり、
皇后の家系のことを指し、
ヤマト政権の中心家系です。
ヤマト政権の祭祀を
請け負っていた家系であり、
後に【賀茂氏】と呼ばれる一族や、
【神(みわ)氏】も、その一族です。
ホツマツタヱを書いた人たちです。
富雄丸山古墳も
おそらく、
この一族のどなたかのものと
思っています。
ほつまつたえのヲシテ文字を使わず、漢字しか作ってはいけないとは、
ここで政権が入れ替わっている可能性があるのでは?
欠史八代前後と、壬申の乱あたりがあやしい。
入れ替わるまでも、色々な人の交りをかんじます。
ほつまつたえ たのしみです。筑波山が出てくるので、、、
宇和島!?
(訂正) 弟橘比賣
上皇后は、イエズス会、カトリシズムに親和性のある方で、平田篤胤の古神道(旧約聖書神道)と共鳴なされる素地がある方ではないでしょうか。鈴屋の縄文国学とは、二律背反の可能性が有ります。
平田篤胤のロシアとの国防の軋轢の心的外傷を感じます。
なるほど。
@@maomao96363 さま
ご理解いただき幸いです。
この後、日本は平田学神道、水戸学により、明治維新革命の成功、国体イデオロギーは、国家神道(キリスト教神道)化し廃仏毀釈、幸徳秋水派アナキズム弾圧、北一輝の一君万民国家社会主義(皇道派)弾圧、統制派、革新官僚による社会主義化、計画経済と国体は変質し、昭和12年以後の民主制度の変質、陸軍による一君フランコ、ソ連型計画経済国家の建設、海軍のコミンテルンスパイによる謀略で日米開戦、終戦、進駐、占領、植民地化へとなりこれが現在の状況です。また、これと同時に、平田篤胤神道(旧約聖書神道)から分かれた、大本教も徹底的に、内務官僚の革新官僚(マルクス主義秘密研究会分子)によって、迫害、弾圧されています。大本の予言は、オカルト的ですが、当たっていると言われ続けています。
宇和島は伊達家では?
宇和島藩の旧家、小笠原家。
もしかしたら明治天皇がご覧になってらっしゃる可能性もあるのですね。出雲系の記述が多いのでしたら、国津神の視点というか、国津神系にも天照様が別にいたのかにゃー('_'?)と思いました。
三輪 大神神社 みむろ杉
〜という説もあるとか、〜という事なんですねという部分を普通にスルーしてるけど、一つ一つその証拠は?と問いたくなる。それがいくつもある時点で仮説に仮説を重ねた想像でしかないと思うんです。状況を元に作ったストーリーとしか思えない。
おっしゃる意味は良く分かります。是非ご自身でホツマツタヱを研究して、答えを見つけ出していただけると嬉しいです。いときょう
『古事記』でさえ後世の人が伝聞で書いたもの。確かなものが何もない状態を想像力で楽しめる人は、古代史にハマります。
それは小笠原家の事ですか?
四国宇和島の小笠原家です。
同じ伊予の二名国であった阿波一宮(神山)の宮司家であった小笠原家と関係しているのでは? 推測です。
アワミヤは四国金毘羅宮という説だそうですし。
@@阿波の古代史探索 様
ありがとうございます。少し調べてみます。
言葉の始まりが、叫びであり祈りであったろうと想像されることから、文字にも、魂、霊、神、といった概念が含まれるのは致し方ない。が、日本神話の神が実在の人物であったろうと考えるなら、あまりスピリチュアルな方向に走りすぎるのは学問としては疑問を感じる。
神話を史実の反映と考えるのは、スピリチュアルとは逆方向だと私は思います。
イザナギではなくてイザナキと発音して頂きたい。
ホツマツタヱでは、イサナキ、イサナギ、イザナギの記述があります。
ホツマはワシが書いた。
わりこさんが書いた
なんか怪しいなー