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そう思うと、原爆で壊滅的な被害を受けた広電が、令和の今も路面電車を走らせ続けているのは実はめちゃくちゃすごい事なんだな。
私の亡くなった祖父は広島駅で被爆しました。原爆投下当日、ちょうど呉線の列車が広島駅に到着し八丁堀へ行くために路面電車乗り場に向かってたところ被爆しました。この時刻表を見て祖父がどの時刻の列車に乗ったのか、とても興味深く拝見しました。ありがとうございました。
広島県出身です。貴重なタイムテーブル、ありがとうございます! 祖父母と父母は呉で終戦を迎えました。映画「この世界の片隅に」に登場する呉線の満員乗車の汽車は、現実もそのようだったと祖母と父から聞き及んでいます。宇品線の運行本数は軍需でかなり多かったのですね。その名残か、電化前の呉線は糸崎駅や広駅が始発で広島駅経由の宇品駅行き、という朝の運行が数本ありました。
「その日も鉄道は動いていた」…。今回のタイトルいいね。国や人がドンパチやっていながらも、役割を果たしていた。脱帽だね。
このBGMが哀愁を誘いますね
戦時下の機関士についての本を最近読みましたが、改めて使命を全うしようとした人たちの姿に感動しました
この1本1本の電車を、必死で運行しようとしている「機関士」「機関助士」「車掌」「駅員」などの 想いを考えると 熱く込み上げてくるものがある😢 ありがとう「ともやん君TV」
広島で原爆が落ちた月の広島駅ですね!確か原爆が落ちた直後は大阪方面から来た列車は三原で抑止され原爆の被害を免れたようです。因みに芸備線では被爆者を救護する為に原爆が落ちた2日後に列車が走ったようです。
広島出身なので感慨深く見させていただきました。感無量です。関西と九州の中間点であるとはいえ、この時期にも深夜発着の列車が数多くあるのですね。
8時15分が迫ってくる時は何とも言えない気持ちになりました。この時は空襲警報が発令されると止まるので定時運行はほぼ無理と言われています。8月6日の8時6分発糸崎行きは発車出来ずだったのでしょうか…11分発の宇品行きは広島駅で…7時22分発の京都行に乗られた方は時間通りに発車したとしてどこで広島の惨状を知ったのでしょうかね…
広島県出身です。見慣れた行き先から、現在は廃線になってしまった路線等、興味深いですね。呉線や宇品線の本数が多いのは、時代を感じますね、、、
呉線は輸送が逼迫して戦時中には複線化が計画されたほど。そこまでのワンポイントリリーフとして省営バスも重要な任務を果たしていました。
歌手の二葉あき子さんが乗っていたのは、7時45分発の宍道行だったのか。
確か、20分遅れて広島を 発車。列車が矢賀〜戸坂間の中山トンネルに入った瞬間に原爆が炸裂したのですよね。
その列車は私の祖母も乗っていたそうです。下のコメ主さんが言われるように遅れて出発したと言っていました。祖父母は舟入に住んでおり、祖父は海田の日本製鋼所で夜勤のため難を逃れ、祖母はたまたま三次方面に用事があり乗っていたとのこと。今の自分がとんでもない偶然で存在しているのだと思う動画でした。
炸裂した時に陸軍大臣を歴任し東條英機から首相に推薦されていた畑俊六が、ちょうど広島駅にいて被爆したが奇跡的に難を逃れてそのまま広島救援の陣頭指揮を執ったただその救援の影響で入市被爆してしまう人が続出してしまったという二次災害も発生してる
始発が4:31 最終列車は3:47戦況厳しい中 ほぼ1日広島駅は稼働していたんですね。
宇品線、覚えています。と言っても昭和40年代、廃止になる前です。0番線ホームに当時は客車でC11が牽引していました。茶色い客車で、日中はずっと0番線ホームの留め置きされていました。
当時の可部線はほぼすべてが横川始発ゆえ当動画には登場していない。可部線を利用する乗客は広電7号線(広島~横川)を使っていた。
壊滅的被害を受けたのに1日で運転再開ってすごいな...
おお、ちょうど見たいと思ってた時間と場所有難うございます!ご足労ですが、長崎のほうもお願いできればと思います
広島駅に発着する列車本数が想像以上に多かった...ただこの時期まともにダイヤが守られていたのだろうか...
太平洋側では大半の都市が空襲の被害に遭い、さらには機銃掃射の警報などで時間通りには動かなかったものとは思いますが、国鉄のネットワークを守るために一致団結して動かしていました。この場所ではありませんが、原爆投下の前日に被災した中央線の湯の花トンネルの機銃掃射のときは八王子空襲から3日ぶりに復旧、さらには前の列車も運休した上当該列車が1時間遅れていたそうです。
あの日も多くの人が運行に関わっていたり、乗客だったりと思うと涙が出ますね😢
ありがとうございます!!
これは貴重な動画です。この頃は米国軍の本土攻撃が激しくなり、走行中の列車に敵戦闘機が機銃掃射を加えて、乗務員や乗客が犠牲になったとか。これで、運命の日8月6日を迎えた。
原爆が落とされた直後から鉄道の復旧に尽力されたのはすごいことだと思います放射能に被ばくされながら真夏の暑さでの復旧工事は大変だったと思います それだけ鉄道輸送が重要だったと思います 復旧の迅速さもすごいと思います UPお疲れさまでした
終戦から79年。この資料は大変貴重ですね。もっと再生数が上がってもいいように感じます。
リクエストありがとうございます国鉄線は思いつきませんでした
呉線や宇品線が多かったのは海軍関係の輸送によるものと考えます。この時代ともなると連合艦隊も壊滅、空襲にさらされても本土決戦に向けて軍需物資の準備を進めていたのでしょう。広島の原爆から2日後には福山で空襲、3日後には長崎にも原爆が。それから79年、各都市の発展ぶりには目を見張るものがありますが、それと共に平和の尊さを改めて考える必要があると思います。
姫新線経由の姫路行きなんて設定されていたんですね。あと所要時間がいまと比べて1.5倍以上は時間が掛かってる感じ。ディーゼル気動車とSLでもそれだけ違いがあるんですね。
SLでも、石炭の質が落ちてたり(炭鉱労働者の男子もかなり兵役に取られてた、輸入したい良質の石炭も制海権をアメリカに奪われてた)機関車もなかなか整備修繕ができてない、またはいわゆる戦時型があって満足に動かせない、とか事情が重なり能力を発揮できませんでした
姫路まで11時間で行けるのは、山間部を走ることを考えると相当速いな。三次までも2時間ちょっととは驚いた。現在は1時間40分程度なので、JRさん、頑張らんと。
戦中、終戦直後の鉄道、宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」にも描かれているように、玉音放送が流れて社会そのものが止まったような時でも列車は動いていたし、大空襲後もすぐに列車が動き出している…広島も原爆が落ちて街は壊滅状態、まだ死体があちこちに転がり、煙があちこちに燻る焼け野原が広がる中、汽車や路面電車が走り始める…こうした混迷混乱を極める中でも列車を動かそうとする当時の鉄道員の使命感に矜持、偉大であり頭が下がる思いがします。
その本は何度も読んだなぁ。
呉線の本数がそこそこあるのは、やはり軍港の呉があるので、当時は重要路線であった事が窺える。
昭和20年6月に戦前戦中最後の時刻表が出たがその頃既に北海道の状況は内地(北海道から見て本州)からでは把握できず(時刻表に掲載がない)、急行列車もついに東京下関に一往復が残るのみになった。なおこの急行列車はなんとかつての三等特急(昭和9年改正で二等三等特急)櫻をルーツにしており、昭和17年11月改正で特急・急行が第一種急行・第二種急行に分けられた際、櫻は第二種急行に分類され事実上の急行格下げになりましたが運転区間がなんと鹿児島本線経由鹿児島行きになり更に一等寝台車まで連結されるという格下げなのかアップデートなのかわからない再編を受け、その後鴎・燕・富士の廃止を横目に見て運転区間も短縮されながら最後までその命脈を保ちました。なお寝台車はないと言われていますが、用務客のためにマロネロが連結されていたようですが、果たして用務客で利用した人はいたのでしょうかね。
山陽本線の旅客列車は上下とも本当に少なかったんですね~…
宇品線は国鉄の経営戦略と広電との競合によって敗戦になった。
山陽本線上り(岡山方面)の列車より、呉線方面の列車が多いと感ずるのは、やはり軍港、呉があった影響かいずれにしても、悲しい時代ですよね
普通 東京行きを乗り通すのは相当な覚悟がいるな…
今宇品線があったらどんだけ便利だったか
親族が被爆しております。鉄道職員も大きな被害を受けたはずなのに、わずかな期間で復旧させた実績は凄すぎます。
祖父が山陽本線上り列車で通勤したところ広島駅で8:15を迎えたと聞いているのですが、到着時間が解る資料はありませんでしょうか?本線からの支線乗り入れとか?到着が早かったらたぶん県庁で被曝してた
返信が遅くなりお待たせしました。調べたところ、3本の列車が候補にあがりました。岩国5:28発の広行きが、広島6:36着柳井5:04発の広島行きが、広島7:10着岩国6:46発の呉線経由糸崎行きが、広島7:56着当時は遅延や運休もしていたと思いますので、7:56着の列車かもしれませんね。
今では、想像がつかない汽車の時間帯から見るからに、現在では電化されて早く着けるなっているけど,まだ電化されていなかったとはいえ、朝の5時台時間と現在5時台時間には,比べ者には、なってないはず。終戦の終わりに近いはずの汽車の時間帯が多い事が分かります。
@@透藤木 さま需要の多い京阪神を有効時間帯に納めようとすると中国地方は深夜に通ることになってしまうのでしょうね。戦後の夜行列車でもその傾向は目立ちます。
軍の主要地域である江田島、呉を通るこの線は当時は主要幹線だったことがよくわかりますね。
1945.8.6の朝7時台の列車で広島から離れていた人達は助かったのだろうか。
1945年8月14日岩国駅は空襲で焼失するんですよね
俺の故郷(熊谷市)もでしたが、アメリカは、大日本帝国政府がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏するにしても、軍の一部があくまでも抗戦したがってるのは把握してたんで、それを挫くために、15日未明まであちこちの小さい都市だろうが空襲を続けてました(怒)
@@篠山善郎 さま広島に近いところではこの2日後に福山で空襲。8月15日には神奈川県の小田原も空襲の被害に遭いました。
@@篠山善郎さん日本の戦争犯罪について書いてある作品が多いがこういった米英などの戦争犯罪についても取り上げて貰いたいものですね。私の生まれ故郷である大阪にあります、JR環状線の「玉造駅」の鉄骨のところには米軍の飛行機が機関銃で撃ったとみられる弾痕がありました。
次回は、いつかな?あと、リクエストは、2024年3月版JR東海道本線東京駅かな?ほかは、2024年3月版 時刻表の旅 特急ひたち号 品川→仙台でお願いします!
宇品線の運行頻度から見て廃線は勿体無い感じです。
7時41分から宇品線の終着時刻が消えているのは、「到着までの時間は同じだから紙の節約のため書きません」てことなのだろうか?
7時41分広島発からです
紙の配給枚数が制限されていましたからね。国電区間と同様、紙面の都合で広島駅の出発時刻だけ記載されていたのでしょう。
終着時刻から軍用列車との離合時間が割れてしまうからではないでしょうか?重要機密ですから17時44分から終着時刻表記が復活するようですね
日本人の底力を感じるな
2:22行先が海田市で呉線っていうのはどういうこと?
それ確かに気になりました
この時代は、呉線が重要だったんですね
軍港がありましたからね
政治家たちにこの映像をぜひ見てもらいたい。
@@ShimaJiro2205 さま特にこの地域を選挙区としている今の我が国のトップの方には是非見てほしいですね。
そして先人たちが守ってくれた神国日本国をこれからも守っていってほしいですね
神風なんか吹かなかった。
そう思うと、原爆で壊滅的な被害を受けた広電が、令和の今も路面電車を走らせ続けているのは実はめちゃくちゃすごい事なんだな。
私の亡くなった祖父は広島駅で被爆しました。原爆投下当日、ちょうど呉線の列車が広島駅に到着し八丁堀へ行くために路面電車乗り場に向かってたところ被爆しました。この時刻表を見て祖父がどの時刻の列車に乗ったのか、とても興味深く拝見しました。ありがとうございました。
広島県出身です。
貴重なタイムテーブル、ありがとうございます!
祖父母と父母は呉で終戦を迎えました。
映画「この世界の片隅に」に登場する呉線の満員乗車の汽車は、現実もそのようだったと祖母と父から聞き及んでいます。
宇品線の運行本数は軍需でかなり多かったのですね。
その名残か、電化前の呉線は糸崎駅や広駅が始発で広島駅経由の宇品駅行き、という朝の運行が数本ありました。
「その日も鉄道は動いていた」…。
今回のタイトルいいね。
国や人がドンパチやっていながらも、役割を果たしていた。
脱帽だね。
このBGMが哀愁を誘いますね
戦時下の機関士についての本を最近読みましたが、改めて使命を全うしようとした人たちの姿に感動しました
この1本1本の電車を、必死で運行しようとしている「機関士」「機関助士」「車掌」「駅員」などの 想いを考えると 熱く込み上げてくるものがある😢 ありがとう「ともやん君TV」
広島で原爆が落ちた月の広島駅ですね!確か原爆が落ちた直後は大阪方面から来た列車は三原で抑止され原爆の被害を免れたようです。因みに芸備線では被爆者を救護する為に原爆が落ちた2日後に列車が走ったようです。
広島出身なので感慨深く見させていただきました。感無量です。関西と九州の中間点であるとはいえ、この時期にも深夜発着の列車が数多くあるのですね。
8時15分が迫ってくる時は何とも言えない気持ちになりました。
この時は空襲警報が発令されると止まるので定時運行はほぼ無理と言われています。
8月6日の8時6分発糸崎行きは発車出来ずだったのでしょうか…11分発の宇品行きは広島駅で…
7時22分発の京都行に乗られた方は時間通りに発車したとしてどこで広島の惨状を知ったのでしょうかね…
広島県出身です。
見慣れた行き先から、現在は廃線になってしまった路線等、興味深いですね。
呉線や宇品線の本数が多いのは、時代を感じますね、、、
呉線は輸送が逼迫して戦時中には複線化が計画されたほど。そこまでのワンポイントリリーフとして省営バスも重要な任務を果たしていました。
歌手の二葉あき子さんが乗っていたのは、7時45分発の宍道行だったのか。
確か、20分遅れて広島を 発車。列車が矢賀〜戸坂間の中山トンネルに入った瞬間に原爆が炸裂したのですよね。
その列車は私の祖母も乗っていたそうです。下のコメ主さんが言われるように遅れて出発したと言っていました。
祖父母は舟入に住んでおり、祖父は海田の日本製鋼所で夜勤のため難を逃れ、祖母はたまたま三次方面に用事があり乗っていたとのこと。
今の自分がとんでもない偶然で存在しているのだと思う動画でした。
炸裂した時に陸軍大臣を歴任し東條英機から首相に推薦されていた畑俊六が、
ちょうど広島駅にいて被爆したが奇跡的に難を逃れてそのまま広島救援の陣頭指揮を執った
ただその救援の影響で入市被爆してしまう人が続出してしまったという二次災害も発生してる
始発が4:31
最終列車は3:47
戦況厳しい中 ほぼ1日広島駅は稼働していたんですね。
宇品線、覚えています。と言っても昭和40年代、廃止になる前です。0番線ホームに当時は客車でC11が牽引していました。茶色い客車で、日中はずっと0番線ホームの留め置きされていました。
当時の可部線はほぼすべてが横川始発ゆえ当動画には登場していない。
可部線を利用する乗客は広電7号線(広島~横川)を使っていた。
壊滅的被害を受けたのに1日で運転再開ってすごいな...
おお、ちょうど見たいと思ってた時間と場所
有難うございます!
ご足労ですが、長崎のほうもお願いできればと思います
広島駅に発着する列車本数が想像以上に多かった...
ただこの時期まともにダイヤが守られていたのだろうか...
太平洋側では大半の都市が空襲の被害に遭い、さらには機銃掃射の警報などで時間通りには動かなかったものとは思いますが、国鉄のネットワークを守るために一致団結して動かしていました。
この場所ではありませんが、原爆投下の前日に被災した中央線の湯の花トンネルの機銃掃射のときは八王子空襲から3日ぶりに復旧、さらには前の列車も運休した上当該列車が1時間遅れていたそうです。
あの日も多くの人が運行に関わっていたり、乗客だったりと思うと涙が出ますね😢
ありがとうございます!!
これは貴重な動画です。
この頃は米国軍の本土攻撃が激しくなり、走行中の列車に敵戦闘機が機銃掃射を加えて、乗務員や乗客が犠牲になったとか。
これで、運命の日8月6日を迎えた。
原爆が落とされた直後から鉄道の復旧に尽力されたのはすごいことだと思います放射能に被ばくされながら真夏の暑さでの復旧工事は大変だったと思います それだけ鉄道輸送が重要だったと思います 復旧の迅速さもすごいと思います UPお疲れさまでした
終戦から79年。この資料は大変貴重ですね。
もっと再生数が上がってもいいように感じます。
リクエストありがとうございます
国鉄線は思いつきませんでした
呉線や宇品線が多かったのは海軍関係の輸送によるものと考えます。
この時代ともなると連合艦隊も壊滅、空襲にさらされても本土決戦に向けて軍需物資の準備を進めていたのでしょう。
広島の原爆から2日後には福山で空襲、3日後には長崎にも原爆が。
それから79年、各都市の発展ぶりには目を見張るものがありますが、それと共に平和の尊さを改めて考える必要があると思います。
姫新線経由の姫路行きなんて設定されていたんですね。あと所要時間がいまと比べて1.5倍以上は時間が掛かってる感じ。ディーゼル気動車とSLでもそれだけ違いがあるんですね。
SLでも、石炭の質が落ちてたり(炭鉱労働者の男子もかなり兵役に取られてた、輸入したい良質の石炭も制海権をアメリカに奪われてた)機関車もなかなか整備修繕ができてない、またはいわゆる戦時型があって満足に動かせない、とか事情が重なり能力を発揮できませんでした
姫路まで11時間で行けるのは、山間部を走ることを考えると相当速いな。
三次までも2時間ちょっととは驚いた。現在は1時間40分程度なので、JRさん、頑張らんと。
戦中、終戦直後の鉄道、宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」にも描かれているように、玉音放送が流れて社会そのものが止まったような時でも列車は動いていたし、大空襲後もすぐに列車が動き出している…広島も原爆が落ちて街は壊滅状態、まだ死体があちこちに転がり、煙があちこちに燻る焼け野原が広がる中、汽車や路面電車が走り始める…こうした混迷混乱を極める中でも列車を動かそうとする当時の鉄道員の使命感に矜持、偉大であり頭が下がる思いがします。
その本は何度も読んだなぁ。
呉線の本数がそこそこあるのは、やはり軍港の呉があるので、当時は重要路線であった事が窺える。
昭和20年6月に戦前戦中最後の時刻表が出たがその頃既に北海道の状況は内地(北海道から見て本州)からでは把握できず(時刻表に掲載がない)、急行列車もついに東京下関に一往復が残るのみになった。なおこの急行列車はなんとかつての三等特急(昭和9年改正で二等三等特急)櫻をルーツにしており、昭和17年11月改正で特急・急行が第一種急行・第二種急行に分けられた際、櫻は第二種急行に分類され事実上の急行格下げになりましたが運転区間がなんと鹿児島本線経由鹿児島行きになり更に一等寝台車まで連結されるという格下げなのかアップデートなのかわからない再編を受け、その後鴎・燕・富士の廃止を横目に見て運転区間も短縮されながら最後までその命脈を保ちました。なお寝台車はないと言われていますが、用務客のためにマロネロが連結されていたようですが、果たして用務客で利用した人はいたのでしょうかね。
山陽本線の旅客列車は上下とも本当に少なかったんですね~…
宇品線は国鉄の経営戦略と広電との競合によって敗戦になった。
山陽本線上り(岡山方面)の列車より、呉線方面の列車が多いと感ずるのは、やはり軍港、呉があった影響か
いずれにしても、悲しい時代ですよね
普通 東京行きを乗り通すのは相当な覚悟がいるな…
今宇品線があったらどんだけ便利だったか
親族が被爆しております。
鉄道職員も大きな被害を受けたはずなのに、わずかな期間で復旧させた実績は凄すぎます。
祖父が山陽本線上り列車で通勤したところ広島駅で8:15を迎えたと聞いているのですが
、到着時間が解る資料はありませんでしょうか?本線からの支線乗り入れとか?
到着が早かったらたぶん県庁で被曝してた
返信が遅くなりお待たせしました。
調べたところ、3本の列車が候補にあがりました。
岩国5:28発の広行きが、広島6:36着
柳井5:04発の広島行きが、広島7:10着
岩国6:46発の呉線経由糸崎行きが、広島7:56着
当時は遅延や運休もしていたと思いますので、7:56着の列車かもしれませんね。
今では、想像がつかない汽車の時間帯から見るからに、現在では電化されて早く着けるなっているけど,まだ電化されていなかったとはいえ、朝の5時台時間と現在5時台時間には,比べ者には、なってないはず。終戦の終わりに近いはずの汽車の時間帯が多い事が分かります。
@@透藤木 さま
需要の多い京阪神を有効時間帯に納めようとすると中国地方は深夜に通ることになってしまうのでしょうね。
戦後の夜行列車でもその傾向は目立ちます。
軍の主要地域である江田島、呉を通るこの線は当時は主要幹線だったことがよくわかりますね。
1945.8.6の朝7時台の列車で広島から離れていた人達は助かったのだろうか。
1945年8月14日
岩国駅は空襲で焼失するんですよね
俺の故郷(熊谷市)もでしたが、アメリカは、大日本帝国政府がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏するにしても、軍の一部があくまでも抗戦したがってるのは把握してたんで、それを挫くために、15日未明まであちこちの小さい都市だろうが空襲を続けてました(怒)
@@篠山善郎 さま
広島に近いところではこの2日後に福山で空襲。
8月15日には神奈川県の小田原も空襲の被害に遭いました。
@@篠山善郎さん
日本の戦争犯罪について書いてある作品が多いがこういった米英などの戦争犯罪についても取り上げて貰いたいものですね。
私の生まれ故郷である大阪にあります、JR環状線の「玉造駅」の鉄骨のところには米軍の飛行機が機関銃で撃ったとみられる弾痕がありました。
次回は、いつかな?
あと、リクエストは、2024年3月版JR東海道本線東京駅かな?
ほかは、2024年3月版 時刻表の旅 特急ひたち号 品川→仙台
でお願いします!
宇品線の運行頻度から見て
廃線は勿体無い感じです。
7時41分から宇品線の終着時刻が消えているのは、「到着までの時間は同じだから紙の節約のため書きません」てことなのだろうか?
7時41分広島発からです
紙の配給枚数が制限されていましたからね。
国電区間と同様、紙面の都合で広島駅の出発時刻だけ記載されていたのでしょう。
終着時刻から軍用列車との離合時間が割れてしまうからではないでしょうか?
重要機密ですから
17時44分から終着時刻表記が復活するようですね
日本人の底力を感じるな
2:22
行先が海田市で呉線っていうのはどういうこと?
それ確かに気になりました
この時代は、呉線が重要だったんですね
軍港がありましたからね
政治家たちにこの映像をぜひ見てもらいたい。
@@ShimaJiro2205 さま
特にこの地域を選挙区としている今の我が国のトップの方には是非見てほしいですね。
そして先人たちが守ってくれた神国日本国をこれからも守っていってほしいですね
神風なんか吹かなかった。