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0:28 自己紹介で寝たwwwwww5:11 ウィットワース規格ですね、たまに妙なので出てくる事ありますw6:46 トヨタって織機の頃からリバースエンジニアリングで鍛えて且つ自分の技術にしていってますから、佐吉さんの先見の明が現場まで生きてるんでしょうねw7:49 材料技術はトヨタも技研作る前の本田宗一郎さんも材料の組成に関してかなり苦労されてる話がありますよね。9:07 トヨタが自動車試作の時代だと同時期はバイクエンジンや三菱重工もフィアットベースに試作してたりDAT号なりいすゞと日野の源流がトラック作ったり日本の自動車工業の萌芽期ですね。10:03 明治期でしたか、山葉号だったかな、トラックがありましたね、ダンロップやミシュランが空気入りタイヤ作ってましたが日本じゃまだ後年でしょうしねえ。13:35 立飛はIHI源流でプリンスの祖先になったり、航空機解禁で戦後国産1号機を作ってるそうです。15:46 ウチの会社で日産合併後のスカイライン1500来まして中身見ましたが、よく出来てましたよ、コラムの5速でしたw19:22 ある意味プリンスの最後の置き土産ですから、作ってた方々も相当大変でしたでしょうね、国産車のエアコンってプリンスロイヤルが初採用らしいですよw19:54 たぶん上皇陛下、ポケットマネーでアレ買ってますね、インテグラMTなんすよ、ちなみに皇太子時代にプリンスへ特注品オーダーされたくらいマニアだそうですw23:43 なるほど顔w24:31 たぶんラインの生産性が入ってそうですね、吸排気同方向で作り易くしてたのか、当時日産労組はやたら強かったそうで変更効かなかったのか。。。。。26:50 当時のFIAグループ2ツーリングカーで市販する都合燃料も有鉛とは言えオクタン価高いガソリン出てたんでしょうかって気にはなりました。30:00 カラーネームは知りませんwww32:52 若かりし頃ヨタハチを買おうと現車に乗って身体入りませんでしたw34:49 いずもりシャチョーもマニアックなトコ出してきますね、ザブングル、マイトガインなどクルマの操作系がロボットって多いすよねwww37:09 スズキのスズライトだとお手本は西ドイツのロイト400だそうです、当時の参考車ってタクシー以外だと研究用に輸入されてる車種が中古で流れてくるとかあった様ですね。38:22 NJ号とかニッケイタローですね、萌芽期の軽もキットカー的な感がありますねw41:57 T2000だと会社の近所のキノコ屋さんがたまに動かしてる様です、実家の近所の椎茸屋さんもダイハツのCM型持って使ってましたねw
車の歴史の授業だ。毎回、興味深い話をありがとうございます😊
日本の自動車史を振り返るシリーズ、めちゃくちゃ面白いです🤣生きるデータベースのトミタク氏
トクサン号は徳島じゃなく、高知自工の製造のようですね。自分は徳島人だけど地元で三輪作った話聞いたこと無かったので調べたら分かりました。大排気量の特殊三輪車からトクサンと呼ばれたようです。ダイハツ、マツダが三輪製造辞めた後まで作ったようですが、道路整備が進んだり輸入材に押され、自動車や重機の整備に移行したようですね。親父がバーハンのミゼット、マツダK360と乗り継いでたので楽しく話を聞かせていただきました。
S20は世界初の市販4バルブDOHC。ルノーと提携した時、ルノーの幹部が座間記念庫を訪れて最初に見に行ったのがPGC10で、ボンネットを開けて一緒に行ったルノー 社員にいろいろ説明したそうです。
日野ルノーは子どもの時こち亀で大原部長の愛車として知りましたが、田舎なのでドイツ車以外の外車を見たことがなく、当時はてっきり車種の名前だと思っていました。ルノーの名前が会社名と知ったのはそれからかなり経ってカルロス・ゴーンが日産と資本提携したときになります。
コスモスポーツ前に見せて頂き撮影させて頂きましたがカッコ良かったです😃スズキは元は足踏織機を制作されてたと思います。
戦前の軍需関連産業は受注主が「陸軍」か「海軍」に分けて考えると、系統が分かりやすくなるかもしれませんね。三菱は海軍系で「零式艦上戦闘機」中島飛行機は陸軍系で「隼」が有名でしょう。ただ、生産が追いつかなくて垣根を超えた生産実績が有るようですが。
戦前戦中の航空産業と戦後の自動車産業は直結してますからね、その中でも三菱・富士重・川崎・新明和はいまだ現役であります自動車デザインに関して、システム上どうしても似てる車が出て来るのはどうしようもないです(予想ではありますが)デザインスタジオがイラストほ発表→メーカーが市販化権利を買う→社内デザイナーがいじる、この流れは間違いないとおもいます(例えば、ホンダのシャトル(前期)とwvのトゥーランはバンパー左右下部の特徴的なラインが全く同じく配置されインパネもほぼ同じ)デザインを専売契約する場合、莫大な金額になるので億単位の車にならないとペイできないでしょうその中でコストカットの手法としてリバイバルがあるのだと思います、リバイバルなら過去に自社デザインしていたり、すでに契約金が支払い済みでありデザイン費用が浮きます
外国車をノックダウン生産した会社は技術提携を結ぶ際、5年以内に完全国産化を達成すること、という条件を通産省に付けられて、どのメーカーもこれをクリアしていたりします。プリンスの経営が上手くいかなかった理由はいくつかありますが、あまり知られていないのは、組合が共〇主義者の巣窟で経営の足を引っ張ったということですね。日産の組合も中身はプリンスと一緒だったので、プリンスと合併したあとは二つの組合が結託して会社を食い潰していきました。それと余談ですが、プリンスが最初に合併の話を持って行ったのはトヨタでした。トヨタに断られたので日産に話を持って行って吸収合併となった次第です。初代スズライトは、ドイツのロイトLP400をリバースエンジニアリングしたものだったと思います。日産のA型は、設計者によると「僕が入社した1960年にG型が登場していたこともあり、オースチン派生のC型やE型は旧態化したと言われていました。だからA型とオースチンのエンジンとの関連はありません。」とのことです。日産A型は一次試作まではシリンダーブロックがアルミでした。
スバルの人です。中島飛行機は群馬を中心に埼玉~東京まで多くの土地工場を抱えていましたが、戦後GHQによって10社以上に分社化されました。その中で、東京工場が独立してプリンスとなり、その他6社が集まって富士重工、のちのスバルとなりました。スバルの六連星は、当時6社が再び集まったことが由来です。マニア好みではないかもしれませんが、SUBARU360は航空機設計の安全思想・軽量化思想がなければ作れないものだったようです。箱根の山を登るための軽量化はもちろん、当時からダミーを乗せた衝突試験も行って衝突安全開発をしていました。また水平対向エンジンは飛行機では一般的に使用されており、それを車に活用するのは富士重工では自然な発想でした。このチャンネルではスバルはマイナーですが、たまには取り上げてくださいね!
プリンスロワイヤルは立川の昭和天皇記念館に展示されてます。外観を観ただけでも相当重そうな車でした。
ターンフローが主流だったのは、エンジン始動直後にエキマニでキャブを温めて燃料の気化性を良くして燃焼を安定させたいからでは、と思います。LYはレース向けでピットで暖機運転を入念にしてもらえる前提なので、クロスフローで吸排気効率を重視した設計ができますね。
エンディングの曲が何気にトミマツさんのやつw
マニアックな話し大好き。何処でトミマツさん痩せました?
ジャンボーグナイン、懐かしー!大好きでしたw
トミマツさんの年表では、ミゼットは近代なんだ🤣𐤔
1:52中島飛行機は現・SUBARU、旧・富士重工です。飛行機マニアから突っ込まれますよ。
プリンスロイヤルの、ラジエーターグリル、一桁台の車に、ダイキャストの金型作れないので、縦横に板金を、障子の桟のように組み立てて、作成。リーフスプリングは、同時期に作ったチェリー1000の2倍サイズ、従って、重量は2の3乗。どちらも、千野甫さんの担当。
スバル1000も、スズキフロンテ800も同じ作り方。
少し前に天皇陛下の車はセンチュリーベースの車に変わってませんでしたっけ?プリンスロイヤルは修理部品が無くなって維持が困難になったみたいなニュースをみた覚えが有ります。
納入からかなり経過してますからねえ、日産が当時声が掛かった時マイバッハどうですかって逸話があった様でトヨタに声が掛かったとかw
ここから5万人突破記念ライブにつながるわけですね!
動画と直接関係ないけど立川市の立川中央病院は、元々は立川飛行機㈱の付属診療所でした。戦時中は看護学校まで持ってたようで祖母が看護学生で通ってました。
3輪トラック子供の頃に近くの材木屋さんにあったよなるほど材木屋御用達だったのかw
三輪トラックは、たしか中国電力が電柱を運ぶのに結構遅くまで使っていた気がする、その前は馬車があったような
グロリアベースにプリンスロイヤルをデザインしたとの話もあるとか。
設計したのは当時のトラック部門だそうで、乗用車部門が日本グランプリの開発で忙しい最中でお鉢が回ってきたそうですねw
いつの時代も技術と経営の両立は難しいものですね😥
LYの燃焼室はG型エンジンと似ている様に思いました。プリンススポーツは知り合いが持ってます。素晴らしいお話ありがとうございます(*^^*)✌️
立川航空機は岡山に工場を作る予定があって町名にその名残がありますね
大刀洗の飛行場が近かったからでしょうか?
トクサン号はボロボロになった個体が広島県福山市の自動車時計博物館の敷地内にありました。見たのは5年前ですが、まだあるかもしれません。
中島飛行機から戦後、富士なんちゃらで、そこからプリンス、スバルじゃなかったかな?
中島飛行機の発動機部門が富士精密工業として分割されて、たま電気自動車と合併してプリンス自動車ですねちなみにたま電気自動車は立川飛行機の元従業員が立ち上げた会社です
コスモスポーツは初代のウルトラマンも出てますよ!よろしくメカドック! Amazonプライムで見ました〜(^-^)
トクサン号の名前が出るとは笑魔改造系3輪車でいうと「デルピス号」も外せませんね
コスモスポーツは朝方児島湾大橋を渡ってますよ!
トミタクさんがトヨタ2000GTのことを「トヨタにせん」と言ってしまうのがイイです♪😆💐🎉♪
話し聞いてて楽しかったです!
僕の中で「この人は将来人間国宝になるかもしれない人1位」です。
僕は52才ですが家の近くに国鉄の駅(現JR西日本)があって、小学ニ、三年まで日紡今のユニチカの工場に引き込み線があったので貨物も来てましたそのかんけいで駅横に日通の営業所があってオート三輪がありましたよ
明治43年の初めてのバイクもメーカー名でなく、作った人の個人名が載ってました、キャブもプラグもコイルは絹糸線で自作って載ってました。
15:43スカイラインスポーツは「ウルトラQ」にコンバーチブルが主人公の愛車として出てますね35:58カプチーノもマーコス・マンチューラを軽に落とし込んだ感じですね37:33スズキは元々トヨタと同じ織機メーカーがルーツですねただ軍用トラックへ行ったトヨタに対し、バイクに行きました
スクーター時代やパタパタバイクの時代は、車メーカー以上に乱立しましたね。
子供の頃に近所の日通の営業所に大きな(多分マツダ製⁉️)オート三輪トラックがあったのを思い出しますネ❗
トミタクさんあまりにも車変態!
凄い知識、全然ついていけない。生き字引か。プリンスの話の時UA-camの広告で日産プリンス兵庫のCMが流れました。偶然それとも内容に合わせてる?
👍👍👍☺️
でもホンダはS2000の前までエンジンの回転方向が逆回転でした。
0:28 自己紹介で寝たwwwwww
5:11 ウィットワース規格ですね、たまに妙なので出てくる事ありますw
6:46 トヨタって織機の頃からリバースエンジニアリングで鍛えて且つ自分の技術にしていってますから、佐吉さんの先見の明が現場まで生きてるんでしょうねw
7:49 材料技術はトヨタも技研作る前の本田宗一郎さんも材料の組成に関してかなり苦労されてる話がありますよね。
9:07 トヨタが自動車試作の時代だと同時期はバイクエンジンや三菱重工もフィアットベースに試作してたりDAT号なりいすゞと日野の源流がトラック作ったり日本の自動車工業の萌芽期ですね。
10:03 明治期でしたか、山葉号だったかな、トラックがありましたね、ダンロップやミシュランが空気入りタイヤ作ってましたが日本じゃまだ後年でしょうしねえ。
13:35 立飛はIHI源流でプリンスの祖先になったり、航空機解禁で戦後国産1号機を作ってるそうです。
15:46 ウチの会社で日産合併後のスカイライン1500来まして中身見ましたが、よく出来てましたよ、コラムの5速でしたw
19:22 ある意味プリンスの最後の置き土産ですから、作ってた方々も相当大変でしたでしょうね、国産車のエアコンってプリンスロイヤルが初採用らしいですよw
19:54 たぶん上皇陛下、ポケットマネーでアレ買ってますね、インテグラMTなんすよ、ちなみに皇太子時代にプリンスへ特注品オーダーされたくらいマニアだそうですw
23:43 なるほど顔w
24:31 たぶんラインの生産性が入ってそうですね、吸排気同方向で作り易くしてたのか、当時日産労組はやたら強かったそうで変更効かなかったのか。。。。。
26:50 当時のFIAグループ2ツーリングカーで市販する都合燃料も有鉛とは言えオクタン価高いガソリン出てたんでしょうかって気にはなりました。
30:00 カラーネームは知りませんwww
32:52 若かりし頃ヨタハチを買おうと現車に乗って身体入りませんでしたw
34:49 いずもりシャチョーもマニアックなトコ出してきますね、ザブングル、マイトガインなどクルマの操作系がロボットって多いすよねwww
37:09 スズキのスズライトだとお手本は西ドイツのロイト400だそうです、当時の参考車ってタクシー以外だと研究用に輸入されてる車種が中古で流れてくるとかあった様ですね。
38:22 NJ号とかニッケイタローですね、萌芽期の軽もキットカー的な感がありますねw
41:57 T2000だと会社の近所のキノコ屋さんがたまに動かしてる様です、実家の近所の椎茸屋さんもダイハツのCM型持って使ってましたねw
車の歴史の授業だ。毎回、興味深い話をありがとうございます😊
日本の自動車史を振り返るシリーズ、めちゃくちゃ面白いです🤣
生きるデータベースのトミタク氏
トクサン号は徳島じゃなく、高知自工の製造のようですね。自分は徳島人だけど地元で三輪作った話聞いたこと無かったので調べたら分かりました。大排気量の特殊三輪車からトクサンと呼ばれたようです。ダイハツ、マツダが三輪製造辞めた後まで作ったようですが、道路整備が進んだり輸入材に押され、自動車や重機の整備に移行したようですね。親父がバーハンのミゼット、マツダK360と乗り継いでたので楽しく話を聞かせていただきました。
S20は世界初の市販4バルブDOHC。ルノーと提携した時、ルノーの幹部が座間記念庫を訪れて最初に見に行ったのがPGC10で、ボンネットを開けて一緒に行ったルノー 社員にいろいろ説明したそうです。
日野ルノーは子どもの時こち亀で大原部長の愛車として知りましたが、田舎なのでドイツ車以外の外車を見たことがなく、当時はてっきり車種の名前だと思っていました。ルノーの名前が会社名と知ったのはそれからかなり経ってカルロス・ゴーンが日産と資本提携したときになります。
コスモスポーツ前に見せて頂き撮影させて頂きましたがカッコ良かったです😃
スズキは元は足踏織機を制作されてたと思います。
戦前の軍需関連産業は受注主が「陸軍」か「海軍」に分けて考えると、系統が分かりやすくなるかもしれませんね。三菱は海軍系で「零式艦上戦闘機」中島飛行機は陸軍系で「隼」が有名でしょう。ただ、生産が追いつかなくて垣根を超えた生産実績が有るようですが。
戦前戦中の航空産業と戦後の自動車産業は直結してますからね、その中でも三菱・富士重・川崎・新明和はいまだ現役であります
自動車デザインに関して、システム上どうしても似てる車が出て来るのはどうしようもないです(予想ではありますが)
デザインスタジオがイラストほ発表→メーカーが市販化権利を買う→社内デザイナーがいじる、この流れは間違いないとおもいます
(例えば、ホンダのシャトル(前期)とwvのトゥーランはバンパー左右下部の特徴的なラインが全く同じく配置されインパネもほぼ同じ)
デザインを専売契約する場合、莫大な金額になるので億単位の車にならないとペイできないでしょう
その中でコストカットの手法としてリバイバルがあるのだと思います、リバイバルなら過去に自社デザインしていたり、すでに契約金が支払い済みでありデザイン費用が浮きます
外国車をノックダウン生産した会社は技術提携を結ぶ際、5年以内に完全国産化を達成すること、という条件を通産省に付けられて、どのメーカーもこれをクリアしていたりします。
プリンスの経営が上手くいかなかった理由はいくつかありますが、あまり知られていないのは、組合が共〇主義者の巣窟で経営の足を引っ張ったということですね。日産の組合も中身はプリンスと一緒だったので、プリンスと合併したあとは二つの組合が結託して会社を食い潰していきました。それと余談ですが、プリンスが最初に合併の話を持って行ったのはトヨタでした。トヨタに断られたので日産に話を持って行って吸収合併となった次第です。
初代スズライトは、ドイツのロイトLP400をリバースエンジニアリングしたものだったと思います。
日産のA型は、設計者によると「僕が入社した1960年にG型が登場していたこともあり、オースチン派生のC型やE型は旧態化したと言われていました。だからA型とオースチンのエンジンとの関連はありません。」とのことです。日産A型は一次試作まではシリンダーブロックがアルミでした。
スバルの人です。中島飛行機は群馬を中心に埼玉~東京まで多くの土地工場を抱えていましたが、戦後GHQによって10社以上に分社化されました。その中で、東京工場が独立してプリンスとなり、その他6社が集まって富士重工、のちのスバルとなりました。
スバルの六連星は、当時6社が再び集まったことが由来です。マニア好みではないかもしれませんが、SUBARU360は航空機設計の安全思想・軽量化思想がなければ作れないものだったようです。箱根の山を登るための軽量化はもちろん、当時からダミーを乗せた衝突試験も行って衝突安全開発をしていました。
また水平対向エンジンは飛行機では一般的に使用されており、それを車に活用するのは富士重工では自然な発想でした。このチャンネルではスバルはマイナーですが、たまには取り上げてくださいね!
プリンスロワイヤルは立川の昭和天皇記念館に展示されてます。外観を観ただけでも相当重そうな車でした。
ターンフローが主流だったのは、エンジン始動直後にエキマニでキャブを温めて
燃料の気化性を良くして燃焼を安定させたいからでは、と思います。
LYはレース向けでピットで暖機運転を入念にしてもらえる前提なので、
クロスフローで吸排気効率を重視した設計ができますね。
エンディングの曲が何気にトミマツさんのやつw
マニアックな話し大好き。何処でトミマツさん痩せました?
ジャンボーグナイン、懐かしー!大好きでしたw
トミマツさんの年表では、
ミゼットは近代なんだ🤣𐤔
1:52中島飛行機は現・SUBARU、旧・富士重工です。飛行機マニアから突っ込まれますよ。
プリンスロイヤルの、ラジエーターグリル、
一桁台の車に、ダイキャストの金型作れないので、
縦横に板金を、障子の桟のように組み立てて、作成。
リーフスプリングは、同時期に作ったチェリー1000の2倍サイズ、
従って、重量は2の3乗。どちらも、千野甫さんの担当。
スバル1000も、スズキフロンテ800も同じ作り方。
少し前に天皇陛下の車はセンチュリーベースの車に変わってませんでしたっけ?プリンスロイヤルは修理部品が無くなって維持が困難になったみたいなニュースをみた覚えが有ります。
納入からかなり経過してますからねえ、日産が当時声が掛かった時マイバッハどうですかって逸話があった様でトヨタに声が掛かったとかw
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動画と直接関係ないけど立川市の立川中央病院は、元々は立川飛行機㈱の付属診療所でした。
戦時中は看護学校まで持ってたようで祖母が看護学生で通ってました。
3輪トラック子供の頃に近くの材木屋さんにあったよ
なるほど材木屋御用達だったのかw
三輪トラックは、たしか中国電力が電柱を運ぶのに結構遅くまで使っていた気がする、その前は馬車があったような
グロリアベースにプリンスロイヤルをデザインしたとの話もあるとか。
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LYの燃焼室はG型エンジンと似ている様に思いました。プリンススポーツは知り合いが持ってます。素晴らしいお話ありがとうございます(*^^*)✌️
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大刀洗の飛行場が近かったからでしょうか?
トクサン号はボロボロになった個体が広島県福山市の自動車時計博物館の敷地内にありました。見たのは5年前ですが、まだあるかもしれません。
中島飛行機から戦後、富士なんちゃらで、そこからプリンス、スバルじゃなかったかな?
中島飛行機の発動機部門が富士精密工業として分割されて、たま電気自動車と合併してプリンス自動車ですね
ちなみにたま電気自動車は立川飛行機の元従業員が立ち上げた会社です
コスモスポーツは初代のウルトラマンも出てますよ!よろしくメカドック! Amazonプライムで見ました〜(^-^)
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魔改造系3輪車でいうと「デルピス号」も外せませんね
コスモスポーツは朝方児島湾大橋を渡ってますよ!
トミタクさんがトヨタ2000GTのことを「トヨタにせん」と言ってしまうのがイイです♪😆💐🎉♪
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僕の中で「この人は将来人間国宝になるかもしれない人1位」です。
僕は52才ですが家の近くに国鉄の駅(現JR西日本)があって、小学ニ、三年まで日紡今のユニチカの工場に引き込み線があったので貨物も来てましたそのかんけいで駅横に日通の営業所があってオート三輪がありましたよ
明治43年の初めてのバイクもメーカー名でなく、作った人の個人名が載ってました、キャブもプラグもコイルは絹糸線で自作って載ってました。
15:43
スカイラインスポーツは「ウルトラQ」にコンバーチブルが主人公の愛車として出てますね
35:58
カプチーノもマーコス・マンチューラを軽に落とし込んだ感じですね
37:33
スズキは元々トヨタと同じ織機メーカーがルーツですね
ただ軍用トラックへ行ったトヨタに対し、バイクに行きました
スクーター時代やパタパタバイクの時代は、車メーカー以上に乱立しましたね。
子供の頃に近所の日通の営業所に大きな(多分マツダ製⁉️)オート三輪トラックがあったのを思い出しますネ❗
トミタクさんあまりにも車変態!
凄い知識、全然ついていけない。生き字引か。
プリンスの話の時UA-camの広告で日産プリンス兵庫のCMが流れました。
偶然それとも内容に合わせてる?
👍👍👍☺️
でもホンダはS2000の前までエンジンの回転方向が逆回転でした。