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都城辺りは広大な盆地で稲作に適していた場所だったようです。弥生遺跡も大変多く出土しています。神武東征はおそらく霧島火山の噴火や津波による災害が契機だったのではないでしょうか。大和盆地は都城の盆地に似ていることと出雲王国と縁戚になった饒速日の情報が伝わっていたことが目指した理由ではないでしょうか。
饒速日命の情報は大きかったと思います^^そして噴火や災害が多い地域ですよね。
筑紫平野は稲作で有名で二毛作も東南アジア的です。農業土木技術(測量、鉄器)の発達も非常に大事なので縄文時代とは歴然の差がありますね。農民にまで鉄器が行き渡り、開発が進むのは現代のパソコンのように画期的だったと思います。
たとえが素晴らしいですね!パソコンのように技術革新して浸透していったというと、ものすごく激動期だったのでしょうね。
添御県坐神社はもう少し西ですね。矢田山の北側にあたります。
すみません。間違えてましたね。方向音痴でごめんなさい^^;ご指摘ありがとうございます!
古代には奈良盆地にあった湖を中心に、当時西日本・東日本の各地から人々が集まっていたのは、各地方の土器や生活用品が出土する事で分かります。つまり古代大和は文字通り東西交易の中心地で、人々が故郷から持ち寄った物資を交換し合う巨大な取引市場(バザール)だった。同時にそこを支配する事は東西の交通・物資の流通を支配する事になります。だから大和に大王が生まれ、各地の豪族が集り大王の下で市場利権を管理する豪族連合が運営されたと考えています。だから大王自身にはせいぜい近畿以内ぐらいしか権力が無く、出雲、九州、熊野、尾張、河内、北陸など後ろ盾となる豪族によって大王の治政も変化したでしょう。しかし、白村江の戦いで当時最大の勢力だった九州が軍事力を失うと天武・持統天皇の時代に律令制を導入して中央集権化に成功し天皇中心の支配権が確立します。
出雲ロ伝では神武はイソタケの子であるムラクモです。おじいさんが二ギハヤヒ(スサノオ)ですね。
欠史八代の頃は奈良盆地内で勢力を徐々に拡大していた時期と考えると納得がいきますよね。開拓済みの現代に住んでいると当時の環境を想像しづらいですがとても分かりやすく面白かったです。東征ではなく東遷と表現されている点も個人的にはより史実に近かったのではないかと感じます。少しズレますが、神武東遷の際に単純に通る必要が無かっただけかもしれませんが、熊曾→豊→筑紫というルートで、古代九州4国の内、3国が仲良くしているのに肥が全く話に出てこないところが考察ポイントのように思っています。神武東遷が卑弥呼の時代より前だったのか後だったのか気になる今日この頃です。
お返事遅くなりました^^;嬉しいコメントありがとうございます。確かに、肥前肥後はあまり出て来ませんね。東遷のルートは東側ですかね^^神武天皇の時代がいつごろか、微妙ですが、やはり、卑弥呼の方が後だと思っています^^
三国志時代の呉は滅亡の際(280年)晋との決戦前夜に大船と2万の大軍は逃亡、行方不明(呉志孫皓伝)その大軍は九州に上陸、霧島の高千穂峰で矛を突き刺してた(天の逆矛)隼人族と共に畿内に進出、ヤマト政権の誕生。徐福(ニギハヤヒ)の末裔と合流。
有名な神社が南が山がちな所にばかりあるんで不思議に思って、考えてみたんだが、南が海だと太陽の位置がわからないので季節や時間が分かりにくいのかなと思った。大和も盆地なので分かりやすい。
神社が南向きなのは、中国の思想で、尊い人は南面す。というのが入ってきたからです。ですので、その思想が入ってくる前の古い神社は向きが色々です。葛木御歳神社は北向きで、大神神社は西向き。南を向いていないのは古さを示しているとも言えます。
@@mitoshijinja たしかに社殿の向きはバラバラですね。伊勢も鹿島も宇佐やイザナギ神宮とかわざわざ日当たりの悪そうな地域にあるんで不思議だなあと思って
タタライスズヒメは神武天皇のところへ嫁ぐのは政略結婚で代わりに大神神社を造らせたのかな?と。あと、大和の中央集権の中でも出雲がかなり大きな権力を持っていたのではないかと思います。奈良の地名に出てくる磯城、登美、石見、出雲と言うところからして。
やはり、出雲〜鴨氏の血は大切にされたんだと思います。ヒメヒコ制からも読み解けるのかと思っています✨
天孫降臨神話を史実として捉えて、その後の神武東征を実際に起きた事実として捉えるのであれば、記紀神話に書かれているもともと天照大御神が降臨する前に水稲稲作をされていた高天原が、いったいどこであったかが、今後問われる事だろうと思います。高天原が長江流域であったり、年代は同じか分かりませんが九州からの東征があった事を否定するものではありません。また、お話の様に、大和では比較的戦のあとは少なく、平和であったが、日本海側の北九州と出雲では、大陸との距離が近いため、遺跡から戦の跡と思われる弓矢やつぶて石による戦の跡が残る遺骨や遺構が発見されている。というお話で、その理由は、弥生時代に国内で大陸との直接交戦が起きた。ことがあったかもしれませんが、恐らく日本国内の権力争いによる戦であった可能性もあるようです。島根県松江市にある弥生時代の国の史跡に指定されている「田和山・神後田遺跡」から出土した弥生時代前期末~中期後半の三重の環濠の底には約3000個のつぶて石や石鏃が発見されたことから、弥生時代の戦争を物語る山城ではないか。とされる遺跡がありますが、出雲東王家の口伝によると、これは大陸との交戦の跡ではなく、第二次物部東征の時の戦の跡であったようです。 出雲の親戚であった吉備との戦であった第1次出雲戦争の後、東出雲王国は、宮殿が目立たないようにするため、出雲王国の霊畤(祭の庭)を宮殿の王庭のある島根県松江市の大庭町から田和山に移した。 3世紀前半に起きた第11代イクメ大君垂仁天皇による物部・宇佐豊国連合軍による第二次物部東征の際に、宗教王国の出雲を滅ぼすには田和山神殿を壊すのが有効と考えたヒボコの子孫であるタジマモリは船で日本海を進み、田和山へ向かった。田和山神殿は、小高い丘にあり、防禦のために三重の堀がめぐらされており、出雲軍はつぶて石で防御したが、多勢に無勢で敗戦した。その後、大和への第二次東征が行われ、『記紀』では、出雲の国譲りとして神話が作られましたが、出雲は自発的な国譲りではなく、物部・豊国連合軍の猛攻撃により滅ぼされたようです。また、大和には『記紀』の神話にあるように、饒速日伝説が多く存在しますが、奈良時代に『記紀』が編纂された以降、記紀神話に沿った内容で大和には饒速日という神武天皇と同じ天孫の血を引く古い豪族が居た。という伝説が大和に東征した饒速日を先祖とする物部氏により作られたようです。あくまでも出雲の口伝を基にした一説です。現在沸いてきている出雲の伝承は、一時的なブームであるかもしれませんが、何となく納得できる説ではあると思います。
出雲口伝は納得するところも多いですが、強引な感じもあるので、じっくり読み解きたいと思っています。出雲で戦いが多発したのは、やはり、渡来人が次々に流れ込んで摩擦が起きたのかと。その証拠として、特異、異質な四隅突出墓を例にしました。私は饒速日命が神武天皇を呼び寄せたのかもしれない~とも感じています。
@@mitoshijinja 宮司様、返信をありがとうございます。動画のテーマは、ヤマトを目指した地理的要件について、でしたね。宮司様のお話が説得力があるため引き込まれてしまい、ついつい出雲についてコメントをしてしまいました、大変失礼しました。宮司様のお話のように、その理由は、ヤマトの地形が湿地帯で人が少なかった事と、水稲稲作に適していたこと。とても大きな理由だと思います。加えて、地理的に日本のほぼ中心部の位置で何処の国との交易や交流にも、水路で簡単に行き来する事が出来てしまう交通の要害であり、中心の都とするハブに相応しい新たな未開の場所だったことがあるのだろうと思います。それにしても、天孫邇邇芸命さんは、天照大神の命で稲作を広めるために天から降臨されたのに、何で最初からわざわざ稲作に適さない日向高千穂に降りて来られたのか?それを天照大神様は苦難を自ら乗り越え成長させる為に敢えて何も言われなかったのか、それとも、ご存知なかったのか、そこがとても不思議ですね^^出雲の口伝では、最終的に大和でたいして大きな戦にならず平和裏に大和入り出来たのは、イクメ王物部軍(象徴体としての神武天皇)を大和に導いた(招き入れた)塩椎爺さんサルタヒコの役割を、饒速日命ではなく、出雲の分家であったオオタタネコさんが果した。と書かれています。もしそうだとすると八咫烏と呼ばれる存在の役割はどうであったのか、この辺りも気になるところですね。出雲と渡来人との争いという事では、コメントの様に渡来人の大ボスである饒速日こと徐福子孫の物部氏により滅ぼされた。とありますので、その通りだと思いますが、不幸な事も沢山あったのですが、それにより、出雲は縄文人、渡来人とも融合し、時代の変化点で進化出来た事も古代の歴史の大きな出来事だったようです。温かい返信をありがとうございました。😁
いえいえ。お褒め頂き嬉しいです^^天孫降臨が日向であったのは、やはり引っ掛かりますよね。そこから読み解けるのは、やはり、天孫降臨したときの天孫族の勢力がそれほど大規模ではなく強くなかったからかな~と思います。なので、より良い土地を求めて、新天地をめざしたのではないかと^^
であった葛城を攻め取り出雲を征服した。 これが矛盾しない筋書きのように思います。 神武東遷はこの徐福一族の和歌山新宮への移動を意味すると思っております。
古墳時代人のゲノムが古墳時代に6割を超えるとは何を意味するのだろう?確か魏志倭人伝に倭国に馬はいないと書かれていた気がするが古墳には大量の馬具が副葬され馬の埴輪もある。かつ鎧兜や鉄剣も大量に出土することは何を意味するか?騎馬で戦う人々が大量に日本に渡来したとしか考えられない。突然現れた巨大前方後円墳とそれの全国的広がり。それは同時に大和王権成立過程でもある。これは何を意味するのだろうか?
ですよね~!そろそろ語っても良い気がしていますが~笑
室生龍穴に行って来ました。🎉
素敵な神社ですよね〜❣️
お話によると神武東征前に日本列島の各地域には人が住んでいたということですね。そして、近畿地方に同族のクニがあったということでよろしいでしょうか? ということは、日本の国の起源は神武天皇以前にすでにあったということですね。それと言及されていませんが、同族の民族がヤマトにクニを築いた過程は述べられていませんね。 宮崎は「降臨」ですが、現実的には、中国大陸から鹿児島湾に上陸したかもしれない予想がたちます。近畿地方はどうですか?どのルートをだどって来たのでしょう?それが、第一の疑問です。つぎに、同族なら同じような文化習慣技術を持っていたつまり、稲作も蚕も知っていたのではないかという仮説です。 第三の疑問点。奈良盆地が広大で水田に適した土地だったでしょうか?他にも平野部はたくさんありますし、戦乱の少ない落ち着いた場所も他にあります。同族が一緒に暮らすのを拒否したのなら、戦わず、あきらめて、他の場所を探す方法があったのでは? よって、結論的に言いますと、神武東征は平和に暮らしていただろう土地を通過、食糧の調達、婚姻による懐柔、海賊退治。悪く言えば略奪と侵略をして、新しいクニを作ったということになりませんか? これは、西洋諸国が新しい技術の提供(鉄砲など)や世界の情勢知識語学を提供をしながら、植民地にしていく姿と似通っていますね。 悪く言うつもりはありませんが、古事記も日本書紀も書かれていることを踏襲するなら、ある民族の日本列島征服の歴史の始まりであり、日本列島に以前から住んでいた人たちや神武東征以前のそれぞれのクニの成り立ちは語られていません。 お話ではヤマト=奈良盆地とされ、他は侵略の意図がなかったから、協力的だったとおっしゃいましたが。つまり、ヤマト=奈良盆地近辺だけを戦いによって征服したことになりますが、それだと、日本の最初の国とは認められないのでは?ヤマトで政権を営んだ神武政権の国の始まりは宮崎であり、この地を一番大切にしないといけないのではないですか?伊勢神宮ではなく霧島神宮に参拝なさるべき筋と思いますがどうでしょう。 ところが、古代より宮崎地方は征伐の場所としてヤマトタケルなどが活躍しています。隼人族についてどう思われますか?
長いので、またそのあたりは、UA-camで今後しゃべりますね。
天照大神は神様だから、天界で稲や蚕は育てないでしょう、もし事実なら関東の何処か(高天原)でしょう.
古事記日本書紀をお読みください。高天原で育てていますよ❤
出雲口伝と比較したら?
出雲口伝の強引さには辟易です^^;
天孫降臨に何故触れないのですか?天、高天原とはどこですか、朝鮮半島のことではないのですか?つまり天皇家は渡来人だと思われるのではありませんか?
天孫降臨については、別の動画で詳しく話しています。私の動画の「二つの天孫降臨」をご覧くださいませ。
高天原が朝鮮半島だと思うのは、地図帳の日本の上に大陸の朝鮮半島があるからというあなたの錯覚では?wあと、朝鮮半島南部には倭人が住んでいたよ
あれ?朝鮮半島が高天原なんて思っていませんし言ってませんよ~^^;また、朝鮮経由で人々が入ってきたとしても、それが朝鮮人だとは思っていません。そして朝鮮半島の任那はほぼ日本勢力の土地であったと認識しています^^
都城辺りは広大な盆地で稲作に適していた場所だったようです。弥生遺跡も大変多く出土しています。神武東征はおそらく霧島火山の噴火や津波による災害が契機だったのではないでしょうか。大和盆地は都城の盆地に似ていることと出雲王国と縁戚になった饒速日の情報が伝わっていたことが目指した理由ではないでしょうか。
饒速日命の情報は大きかったと思います^^そして噴火や災害が多い地域ですよね。
筑紫平野は稲作で有名で二毛作も東南アジア的です。
農業土木技術(測量、鉄器)の発達も非常に大事なので縄文時代とは歴然の差がありますね。
農民にまで鉄器が行き渡り、開発が進むのは現代のパソコンのように画期的だったと思います。
たとえが素晴らしいですね!パソコンのように技術革新して浸透していったというと、ものすごく激動期だったのでしょうね。
添御県坐神社はもう少し西ですね。矢田山の北側にあたります。
すみません。間違えてましたね。方向音痴でごめんなさい^^;ご指摘ありがとうございます!
古代には奈良盆地にあった湖を中心に、当時西日本・東日本の各地から人々が集まっていたのは、各地方の土器や生活用品が出土する事で分かります。
つまり古代大和は文字通り東西交易の中心地で、人々が故郷から持ち寄った物資を交換し合う巨大な取引市場(バザール)だった。同時にそこを支配する事は
東西の交通・物資の流通を支配する事になります。だから大和に大王が生まれ、各地の豪族が集り大王の下で市場利権を管理する豪族連合が運営されたと考えています。
だから大王自身にはせいぜい近畿以内ぐらいしか権力が無く、出雲、九州、熊野、尾張、河内、北陸など後ろ盾となる豪族によって大王の治政も変化したでしょう。
しかし、白村江の戦いで当時最大の勢力だった九州が軍事力を失うと天武・持統天皇の時代に律令制を導入して中央集権化に成功し天皇中心の支配権が確立します。
出雲ロ伝では神武はイソタケの子であるムラクモです。おじいさんが二ギハヤヒ(スサノオ)ですね。
欠史八代の頃は奈良盆地内で勢力を徐々に拡大していた時期と考えると納得がいきますよね。
開拓済みの現代に住んでいると当時の環境を想像しづらいですがとても分かりやすく面白かったです。
東征ではなく東遷と表現されている点も個人的にはより史実に近かったのではないかと感じます。
少しズレますが、神武東遷の際に単純に通る必要が無かっただけかもしれませんが、
熊曾→豊→筑紫というルートで、古代九州4国の内、3国が仲良くしているのに肥が全く話に出てこないところが考察ポイントのように思っています。神武東遷が卑弥呼の時代より前だったのか後だったのか気になる今日この頃です。
お返事遅くなりました^^;
嬉しいコメントありがとうございます。
確かに、肥前肥後はあまり出て来ませんね。東遷のルートは東側ですかね^^
神武天皇の時代がいつごろか、微妙ですが、やはり、卑弥呼の方が後だと思っています^^
三国志時代の呉は滅亡の際(280年)晋との決戦前夜に大船と2万の大軍は逃亡、行方不明(呉志孫皓伝)その大軍は九州に上陸、霧島の高千穂峰で矛を突き刺してた(天の逆矛)
隼人族と共に畿内に進出、ヤマト政権の誕生。徐福(ニギハヤヒ)の末裔と合流。
有名な神社が南が山がちな所にばかりあるんで不思議に思って、考えてみたんだが、南が海だと太陽の位置がわからないので季節や時間が分かりにくいのかなと思った。大和も盆地なので分かりやすい。
神社が南向きなのは、中国の思想で、尊い人は南面す。というのが入ってきたからです。ですので、その思想が入ってくる前の古い神社は向きが色々です。葛木御歳神社は北向きで、大神神社は西向き。南を向いていないのは古さを示しているとも言えます。
@@mitoshijinja たしかに社殿の向きはバラバラですね。伊勢も鹿島も宇佐やイザナギ神宮とかわざわざ日当たりの悪そうな地域にあるんで不思議だなあと思って
タタライスズヒメは神武天皇のところへ嫁ぐのは政略結婚で代わりに大神神社を造らせたのかな?と。あと、大和の中央集権の中でも出雲がかなり大きな権力を持っていたのではないかと思います。奈良の地名に出てくる磯城、登美、石見、出雲と言うところからして。
やはり、出雲〜鴨氏の血は大切にされたんだと思います。ヒメヒコ制からも読み解けるのかと思っています✨
天孫降臨神話を史実として捉えて、その後の神武東征を実際に起きた事実として捉えるのであれば、記紀神話に書かれているもともと天照大御神が降臨する前に水稲稲作をされていた高天原が、いったいどこであったかが、今後問われる事だろうと思います。高天原が長江流域であったり、年代は同じか分かりませんが九州からの東征があった事を否定するものではありません。
また、お話の様に、大和では比較的戦のあとは少なく、平和であったが、日本海側の北九州と出雲では、大陸との距離が近いため、遺跡から戦の跡と思われる弓矢やつぶて石による戦の跡が残る遺骨や遺構が発見されている。というお話で、その理由は、弥生時代に国内で大陸との直接交戦が起きた。ことがあったかもしれませんが、恐らく日本国内の権力争いによる戦であった可能性もあるようです。
島根県松江市にある弥生時代の国の史跡に指定されている「田和山・神後田遺跡」から出土した弥生時代前期末~中期後半の三重の環濠の底には約3000個のつぶて石や石鏃が発見されたことから、弥生時代の戦争を物語る山城ではないか。とされる遺跡がありますが、出雲東王家の口伝によると、これは大陸との交戦の跡ではなく、第二次物部東征の時の戦の跡であったようです。
出雲の親戚であった吉備との戦であった第1次出雲戦争の後、東出雲王国は、宮殿が目立たないようにするため、出雲王国の霊畤(祭の庭)を宮殿の王庭のある島根県松江市の大庭町から田和山に移した。
3世紀前半に起きた第11代イクメ大君垂仁天皇による物部・宇佐豊国連合軍による第二次物部東征の際に、宗教王国の出雲を滅ぼすには田和山神殿を壊すのが有効と考えたヒボコの子孫であるタジマモリは船で日本海を進み、田和山へ向かった。田和山神殿は、小高い丘にあり、防禦のために三重の堀がめぐらされており、出雲軍はつぶて石で防御したが、多勢に無勢で敗戦した。
その後、大和への第二次東征が行われ、『記紀』では、出雲の国譲りとして神話が作られましたが、出雲は自発的な国譲りではなく、物部・豊国連合軍の猛攻撃により滅ぼされたようです。また、大和には『記紀』の神話にあるように、饒速日伝説が多く存在しますが、奈良時代に『記紀』が編纂された以降、記紀神話に沿った内容で大和には饒速日という神武天皇と同じ天孫の血を引く古い豪族が居た。という伝説が大和に東征した饒速日を先祖とする物部氏により作られたようです。あくまでも出雲の口伝を基にした一説です。現在沸いてきている出雲の伝承は、一時的なブームであるかもしれませんが、何となく納得できる説ではあると思います。
出雲口伝は納得するところも多いですが、強引な感じもあるので、じっくり読み解きたいと思っています。出雲で戦いが多発したのは、やはり、渡来人が次々に流れ込んで摩擦が起きたのかと。その証拠として、特異、異質な四隅突出墓を例にしました。
私は饒速日命が神武天皇を呼び寄せたのかもしれない~とも感じています。
@@mitoshijinja 宮司様、返信をありがとうございます。
動画のテーマは、ヤマトを目指した地理的要件について、でしたね。
宮司様のお話が説得力があるため引き込まれてしまい、ついつい出雲についてコメントをしてしまいました、大変失礼しました。
宮司様のお話のように、その理由は、ヤマトの地形が湿地帯で人が少なかった事と、水稲稲作に適していたこと。とても大きな理由だと思います。
加えて、地理的に日本のほぼ中心部の位置で何処の国との交易や交流にも、水路で簡単に行き来する事が出来てしまう交通の要害であり、中心の都とする
ハブに相応しい新たな未開の場所だったことがあるのだろうと思います。
それにしても、天孫邇邇芸命さんは、天照大神の命で稲作を広めるために天から降臨されたのに、何で最初からわざわざ稲作に適さない日向高千穂に降りて来られたのか?
それを天照大神様は苦難を自ら乗り越え成長させる為に敢えて何も言われなかったのか、それとも、ご存知なかったのか、そこがとても不思議ですね^^
出雲の口伝では、最終的に大和でたいして大きな戦にならず平和裏に大和入り出来たのは、イクメ王物部軍(象徴体としての神武天皇)を大和に導いた(招き入れた)
塩椎爺さんサルタヒコの役割を、饒速日命ではなく、出雲の分家であったオオタタネコさんが果した。と書かれています。
もしそうだとすると八咫烏と呼ばれる存在の役割はどうであったのか、
この辺りも気になるところですね。
出雲と渡来人との争いという事では、コメントの様に渡来人の大ボスである饒速日こと徐福子孫の物部氏により滅ぼされた。とありますので、
その通りだと思いますが、不幸な事も沢山あったのですが、それにより、出雲は縄文人、渡来人とも融合し、時代の変化点で進化出来た事も古代の歴史の大きな出来事だったようです。
温かい返信をありがとうございました。😁
いえいえ。お褒め頂き嬉しいです^^
天孫降臨が日向であったのは、やはり引っ掛かりますよね。そこから読み解けるのは、やはり、天孫降臨したときの天孫族の勢力がそれほど大規模ではなく強くなかったからかな~と思います。なので、より良い土地を求めて、新天地をめざしたのではないかと^^
であった葛城を攻め取り出雲を征服した。 これが矛盾しない筋書きのように思います。 神武東遷はこの徐福一族の和歌山新宮への移動を意味すると思っております。
古墳時代人のゲノムが古墳時代に6割を超えるとは何を意味するのだろう?
確か魏志倭人伝に倭国に馬はいないと書かれていた気がするが古墳には大量の馬具が副葬され馬の埴輪もある。かつ鎧兜や鉄剣も大量に出土することは何を意味するか?
騎馬で戦う人々が大量に日本に渡来したとしか考えられない。突然現れた巨大前方後円墳とそれの全国的広がり。それは同時に大和王権成立過程でもある。これは何を意味するのだろうか?
ですよね~!そろそろ語っても良い気がしていますが~笑
室生龍穴に行って来ました。🎉
素敵な神社ですよね〜❣️
お話によると神武東征前に日本列島の各地域には人が住んでいたということですね。そして、近畿地方に同族のクニがあったということでよろしいでしょうか?
ということは、日本の国の起源は神武天皇以前にすでにあったということですね。それと言及されていませんが、同族の民族がヤマトにクニを築いた過程は述べられていませんね。
宮崎は「降臨」ですが、現実的には、中国大陸から鹿児島湾に上陸したかもしれない予想がたちます。近畿地方はどうですか?どのルートをだどって来たのでしょう?それが、第一の疑問です。
つぎに、同族なら同じような文化習慣技術を持っていたつまり、稲作も蚕も知っていたのではないかという仮説です。
第三の疑問点。奈良盆地が広大で水田に適した土地だったでしょうか?他にも平野部はたくさんありますし、戦乱の少ない落ち着いた場所も他にあります。同族が一緒に暮らすのを拒否したのなら、戦わず、あきらめて、他の場所を探す方法があったのでは?
よって、結論的に言いますと、神武東征は平和に暮らしていただろう土地を通過、食糧の調達、婚姻による懐柔、海賊退治。悪く言えば略奪と侵略をして、新しいクニを作ったということになりませんか?
これは、西洋諸国が新しい技術の提供(鉄砲など)や世界の情勢知識語学を提供をしながら、植民地にしていく姿と似通っていますね。
悪く言うつもりはありませんが、古事記も日本書紀も書かれていることを踏襲するなら、ある民族の日本列島征服の歴史の始まりであり、日本列島に以前から住んでいた人たちや神武東征以前のそれぞれのクニの成り立ちは語られていません。
お話ではヤマト=奈良盆地とされ、他は侵略の意図がなかったから、協力的だったとおっしゃいましたが。つまり、ヤマト=奈良盆地近辺だけを戦いによって征服したことになりますが、それだと、日本の最初の国とは認められないのでは?ヤマトで政権を営んだ神武政権の国の始まりは宮崎であり、この地を一番大切にしないといけないのではないですか?伊勢神宮ではなく霧島神宮に参拝なさるべき筋と思いますがどうでしょう。
ところが、古代より宮崎地方は征伐の場所としてヤマトタケルなどが活躍しています。隼人族についてどう思われますか?
長いので、またそのあたりは、UA-camで今後しゃべりますね。
天照大神は神様だから、天界で稲や蚕は育てないでしょう、もし事実なら関東の何処か(高天原)でしょう.
古事記日本書紀をお読みください。
高天原で育てていますよ❤
出雲口伝と比較したら?
出雲口伝の強引さには辟易です^^;
天孫降臨に何故触れないのですか?
天、高天原とはどこですか、朝鮮半島のことではないのですか?
つまり天皇家は渡来人だと思われるのではありませんか?
天孫降臨については、別の動画で詳しく話しています。
私の動画の「二つの天孫降臨」をご覧くださいませ。
高天原が朝鮮半島だと思うのは、地図帳の日本の上に大陸の朝鮮半島があるからというあなたの錯覚では?wあと、朝鮮半島南部には倭人が住んでいたよ
あれ?朝鮮半島が高天原なんて思っていませんし言ってませんよ~^^;また、朝鮮経由で人々が入ってきたとしても、それが朝鮮人だとは思っていません。そして朝鮮半島の任那はほぼ日本勢力の土地であったと認識しています^^