祭祀女王と政務王~ヒメヒコ制から読み解く古代日本の姿

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  • Опубліковано 1 лис 2024

КОМЕНТАРІ • 20

  • @マエウシロ-t5r
    @マエウシロ-t5r 5 місяців тому +1

    動画のアップ、ありがとうございます。お忙しい時や体調の優れない時はどうぞご無理をなさらないでくださいませ。
    ヒメヒコ制について書かれた書籍を読んでみたかったので、詳しくご紹介下さってありがとうございます。さっそく図書館で借りてみます。

    • @mitoshijinja
      @mitoshijinja  5 місяців тому +1

      いつもお気遣いありがとうございます❤今日は玉置神社ツアー仕事でした。少しずつ回復してきています😊✋️長引かなくて良かったです👍
      高群逸枝さんの本、文庫本は読み易いです。今電子書籍でも読めますよ。

    • @マエウシロ-t5r
      @マエウシロ-t5r 5 місяців тому +1

      @@mitoshijinja 玉置神社ツアー良いですね。私はいまだ熊野に行ったことがないので、玉置神社に行けるのはいつになることやら…。(玉置は熊野の次に行く所だと聞きました)
      図書館で全集一巻を借りてみましたが、あまりの厚みに怯みました。電子書籍もあるんですね。教えて頂いてありがとうございます🍀

    • @mitoshijinja
      @mitoshijinja  5 місяців тому +1

      電子書籍は、文語体ではなく、口語体になっています。
      私も最初に購入したのが文語体でさすがに読めないので、買い直しました😅💦

  • @mayumi3300
    @mayumi3300 5 місяців тому +3

    大変分かりやすく
    楽しいお話をありがとうございます♪
    全くおっしゃるとおりと
    思っています。
    いわゆる欠史八代と言われる
    初期の天皇は
    ほとんど記述がないので、
    創作だろうということを言われる
    先生方もおられますが、
    いえいえ
    妃も皇子女も、宮の名も
    ちゃんと書いてあるじゃないですか…
    と、思っていたのですね。
    だって、
    【妃】って、
    凄い情報ですよね。
    天皇の母をみれば、
    その時代、
    誰が王権の中心にいたか、
    分かると思っていますから。
    一番、チカラの強い家の妃の御子が、
    皇位を継承します。
    その政権を支えているのは、
    天皇の母の家なのです。
    それを見ると、
    初期の妃たちは、
    天皇家を除けば、
    尾張か師木ばかりなのです。
    九州から来たのに、
    九州勢どこいった⁈
    兄磯城・弟磯城とか
    シキシキシキ…
    シキって誰よ⁈
    と思っていました。
    出雲の伝承を読み、
    磯城とは一体何であったか、
    その構成や成り立ちが
    スッキリ分かって、
    雲が晴れた状態です。
    妻問い婚は
    全くそうだと思いますが、
    平安時代やヤマト内で
    それができていたのは、
    実家が近かったからと
    思います。
    ヌナカワヒメは、
    大国主(実際には事代主)が
    越まで求婚しに訪れたあと、
    美保関に迎えられたと
    思います。
    伝承本に詳しい様子がありますが、
    その他にも
    その説明が納得できる理由があります。
    出雲と越では
    しょっちゅう通える距離ではないこと。
    子づくりも王家にとっては
    重要な意味があったと思います。
    平安京内や
    奈良盆地内だったら、
    通うのにも不自由ないでしょうが、
    越ではそうそう
    行ったり来たりはできないでしょう。
    美保神社のあるあの地域に、
    ヌナカワヒメの屋敷を建て、
    その地域一体が
    越の翡翠族の
    今で言う領事館のように
    なっていただろうと
    想像します。
    出雲王国内の越であり、
    越の翡翠族の出雲における
    翡翠交易の拠点となっただろうと。
    越にとっても
    出雲にとっても
    Win win の関係になるでしょう。
    そこに、大庭の宮殿から、
    事代主が通って来るわけです。
    舟で通い、
    ここに来るときは必ず、
    釣りをしていたという伝承が、
    恵比寿さまのあの格好へと
    なってゆきます。
    同じように、
    宗像から冬衣王に嫁いだ田心姫も、
    大国主に嫁いだ多岐都姫も
    出雲内に屋敷は建ててもらったと
    思います。
    多くの妃が
    実家の護衛たちと住む屋敷を
    別々に建ててもらっていただろうと。
    勿論、元々、近くで育った妃は
    実家にそのままいただろうと
    思いますが。
    三姉妹の父・アタカタスは、
    九州の宇佐家へ
    婿入りしたのではないかと
    思います。
    宗像を名乗ったのは、
    ずっと後の時代で、
    出雲の分家であり、
    宇佐の婿さんであっただろうと
    想像します。
    ヤマトでは、
    最初は葛城地方から始まった王権も、
    姫巫女である皇后の
    タタラ五十鈴姫ら
    東出雲王家・登美家の勢力は
    三輪山方面に移り、
    あちらの出雲屋敷に住みますね。
    葛城に残ったのは
    尾張勢と西出雲王家勢ですね。
    神社を見れば
    それを物語っています。
    初代大王は
    三輪山の皇后の下へ
    通っていきますが、
    御所には【吾平津媛】も
    住んでおられましたね。
    【嗛間(ホホマ)神社】が
    残っています。

  • @yukomatsuda
    @yukomatsuda 5 місяців тому +3

    首を長〜くして待っておりました。
    今回も興味深い配信をありがとうございます。
    私が結婚する際、実母から「嫁に行っても家紋は母親のを受け継ぐんだよ」と言われ、今回のお話から母系出自を伝えている事がよくわかりました。ありがとうございます!😊

    • @mitoshijinja
      @mitoshijinja  5 місяців тому

      ありがとうございます😊
      確かに〜‼️家紋も母系出自を伝えている‼️これは、次回から使わせて頂きますね❤️❤️❤️

    • @異端ネロ
      @異端ネロ 5 місяців тому +1

      はじめて知りました。欧米諸国では名字が変わり、東アジアでは変わらない。昔の日本も変わらない。今はまた時代が変わりましたが、世界史上覇王に女性が居ない(神功皇后はあくまで中継ぎ)ので、祈り担当が女性という。
      祈り担当の法王と覇王の中間の天皇に係る皇室典範改正論議に学びになりました。

  • @異端ネロ
    @異端ネロ 5 місяців тому +1

    現代も「通い婚」なら嫁姑戦争も無く、御婆さんと母親と可愛い孫と血縁3代で暮らせるし、男は仕事に集中して養育費だけ支払って週に2回くらい子供に会うとかすれば出生率も上がるのになぁと思いました🤣夫婦熱烈時期なんて4年程度だし、夫も妻も互いに綺麗なところだけ見れば良いし。イクメンも要らないし。
    それと、天皇家はABCDE家の各女性と子供を作る。どの家が競争で勝ち上がるかわからない。結果として、勝った家(葛城、曽我、藤原など)の嫁との息子を天皇にする方式。
    時代の趨勢、人物の優劣、運などで絶対にこの家だけが栄えるということはあり得ないので、未来保険です。
    女系優位は結果論で、結果的に勝ち上がった家が天皇家と関係を保てるし、廃れたら忘れ去られて滅びるというシステムかなと思いましたよ。なので、女系天皇はダメで、男系男子万世一系ということでシステム構築するという考え方は変わりませんでした。

    • @mitoshijinja
      @mitoshijinja  5 місяців тому +2

      そうなんです❗️通い婚、実に素晴らしいと思っています。おっしゃる通り、妻の実家で子育てする方が何かとうまく行く気がします。
      また、今回そこまで話しませんでしたが、だからこその男系天皇が必須だったんです。天皇家の血統と、そこに寄り添う女系の血統があって、天皇家は、広く女系の血を入れることで、豊かな幅が持てるわけです。
      そして、より豊かな氏族が支えることで、天皇は守られてきたといえると思います。
      藤原氏はずっと天皇家を支えてきたけれど、藤原氏は天皇家にはなり得ないわけです。もし、女系天皇が生まれて、藤原氏の男子が婿入りしたら、天皇家の皇統が乱されるわけです。
      そのあたりのこと、竹田恒泰さんとかに喋ってもらいたいですよね〜笑

  • @malkotoisu9730
    @malkotoisu9730 5 місяців тому +1

    斎王だけは逆という事は、斎王は後代とおなじような人質ということだったんだろうか?

    • @mitoshijinja
      @mitoshijinja  5 місяців тому

      斎王は女性ですよね?逆というのは?

    • @malkotoisu9730
      @malkotoisu9730 5 місяців тому

      @@mitoshijinja 女性が親元を離れて遠くの伊勢に行くという点が婿入りとは逆かなと

    • @mitoshijinja
      @mitoshijinja  5 місяців тому

      伊勢で結婚したわけではないので、婿入り婚とか、ヒメヒコ制とは関係ないと思います。
      女性祭主として伊勢に行かれたのかと。

  • @ともさん-j9d
    @ともさん-j9d 5 місяців тому

    モモソヒメは、なぜ讃岐にいたのですか?

    • @mitoshijinja
      @mitoshijinja  5 місяців тому +1

      何故だと思われますか?ぜひご自身の説をお聞かせください^^
      もう一つの質問ですが、
      ヒメヒコのペアが一生涯唯一変わらない組み合わせではなかったと思われます。崇神天皇とモモソヒメは年齢差がかなりありますし^^

    • @ともさん-j9d
      @ともさん-j9d 5 місяців тому +1

      @@mitoshijinja 四国が邪馬台国だったのかな?

  • @賤機かわら
    @賤機かわら 5 місяців тому +1

    沖縄の母系社会と同じでしょうか❓婿さんが家督を継ぐ。

    • @mitoshijinja
      @mitoshijinja  5 місяців тому

      沖縄は古い形を残している気がしています。