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わいが生まれる2.3か月前の地元か😳
常磐線の各駅停車は殆どが電車になったのに、日に何本かは客車列車でした。あれに乗ると電車より所要時間が1.5倍程になり、しかも混んでいたので、閉口でした。走行するにつれ、先行する電車との間隔が長くなっていくのだから、混むのは当然ですよね。写す方はノスタルジアとかで良い気分だったかも知れないが、乗る方は辛かった。
コメントありがとうございます。客車列車の乗り心地は、一般の方は疲れたり、辛いと思うのですが、それを好んで乗るファンの方もいます。エアコンも無いですし、あばたもえくぼなのでしょうね。
柏市出身です。この頃、丁度高校生でした。万博輸送で、12系、20系、関西から関西からクハ581の583系等色々な車両が集結してましたね。しかも乗車券のみで乗れました。鉄道ファンには夢の様な時でした。私はEF80の引く20系や元急行奥久慈用のキハ58を狙って普段乗れない車両に乗りに行きました。あと、最後の活躍をしていた401系の低運転台が先頭に立ちコスモ星丸のヘッドマークを付け力走も忘れられません。 いゃあ〜良かった。名古屋に来て20年。常磐線は出身地でもありますが、今でも常磐線が一番好きです。
コメントありがとうございます。この年は、万博で鉄道車両が常磐線に一気に集まり、鉄道車両のバブル状態だった分けですね。
私も常磐線は思い出の鉄道です。私を鉄道ファンにした.唯一の路線..常磐線よ、永遠なれ。
貴重な映像、興味深く視聴させて頂きました。荒川沖~土浦間は交流電化区間ですが、EF80、EF81ともに2つのパンタを上げているのは意外でした。交流電化区間では1つのパンタしか上げないという先入観があったので・・・。片方のパンタは集電には使っていなかったと言うことでしょうか?
コメントありがとうございます。「交流区間 両パンタグラフ」で検索をしたら、ヤフー知恵袋に解答がありました。交流区間は、2つ目のパンタグラフを断路器で切り離しておくようですね。
エキスポライナーのヘッドマークを掲げた415系が懐かしいですね。多彩な編成がありました。冷房や非冷房の混結もありました。
コメントありがとうございます。お楽しみいただけたようで何よりです。
土浦で育った者です。あの頃はまだ旧式客車の各駅停車も1日3往復残っていて、東京に行くときなぜかよく乗っていました。十和田に乗って青森まで行ったこともあります。
コメントありがとうございます。乗車すれば決して快適ではない旧型客車。それでも若い頃に乗った思い出なのでしょうか。未だに人気がありますよね。
私は当時20代でした。旧式客車では走行中にやんちゃな高校生がドアを開けたりして(もちろん手動)。今では考えられませんよね。さすがに首都圏を走るのは無理で、国鉄民営化のあたりで消えたかと思います。
コメントありがとうございます。4日前に茨城出身九州在住さんがこんなコメントをくださいました。「動き始めた汽車に一人飛び乗った♪(喝采)旧型客車の時代は飛び乗リは出来たけど電車では無理ですね。w」ちあきなおみさんの名曲ですが、当時は歌詞になるくらいですから。普通? のことだったのかもしれませんね。
十和田は首都圏ではいち早く普通車は12系化されてましたよ。多分昭和51年頃。
もちろん十和田は12系でした。
この時は東北・上越新幹線が上野発着になった年だ。これのおかげで東北・上越新幹線が東京で見られるようになったのです。
EF80、最後の晴れ姿。59.2改正で引退したかと思い込んでいましたが、常磐線にはEF80がよく映えます。
夏休み筑波万博に行きましたが上野駅で地元中央線ではなかなか見られない貴重な列車が勢揃いでとても興奮したのを今でも忘れられません
コメントありがとうございます。北の玄関口の上野駅が終着駅だった頃は、色々な列車が発着しており、良い雰囲気がありましたよね。
貴重な映像ありがとうございます。この時期は、科学万博による車両不足でEF81牽引の普通客車列車も走っていましたね。ホームで415系(403かな?)を待っている時に客車列車が来て、付近のおばちゃんに「この電車、普通の切符で乗っても怒られませんか??」って聞いた記憶があります。(客車列車に乗る習慣が無かったので。。)編成が11両(4+7)も懐かしいですね。15両編成(4+4+7)になる時は各駅でホーム延伸工事していましたね。よい思い出です。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。楽しんでいただけたようで何よりです。
プリマハムの工場の近くですね牛久から土浦の高校に通ってたので毎日見てた馴染みの景色でした。この年は高3だったかな。万博中央駅が臨時開業、401系がエンジ色から白地に青帯に色替え、一時間の本数が3から4本くらいに激増して便利だったなぁ
コメントありがとうございます。国鉄時代の良い時期に利用されていたようですね。
クハ401−51は鋼製車の中で最も長寿でした。
EF81の301号機と302号機がローズピンクに塗られて門司から常磐線のEF80の置き換え時に活躍していました。
変態連結は鋼製車の末期にも見られました。
科学万博のエキスポライナー懐かしいですね。臨時の万博中央駅が2面2線の駅だったのでお隣牛久駅の今はなき3番線ホームが特急退避や時間調整に重用されてました。今の土浦花火臨と同様に土浦ー取手・我孫子間のエキスポライナーも結構ありました。
コメントありがとうございます。つくば科学万博は、184日間の開催で1日平均の入場者数約10万人、期間中は2033万4727人に達したようですね。電車利用はどのくらいあるか分かりませんが、もの凄い人数ですね。
つくば万博終了前にどうしても583系のエキスポライナー乗車したくて高校の授業終わって速攻で家に帰り(土曜日)、友達と急いで新川崎から万博中央まで普通電車に乗って、万博中央からエキスポライナー583系に乗って終点の大宮まで乗車しました。万博中央駅発車は夕方だったので、すごくホームがお客さんで混んでいて座席に座れるかヒヤヒヤしましたが、無事に席を確保出来ました。途中の停車駅は我孫子駅だけでした。でも座席に座ったのはほんの僅か、我孫子停車前から大宮までデッキに立ちながら📻持って583系の走行音をテープに録音してました。武蔵野線を583系が走るのが新鮮で乗車しに行って良かったと思いました。
コメントありがとうございます。高校生時代だからできたガッツある行動が文面から感じ取れました。こういう思い出は、決して忘れませんよね。
583系ゆうづるの12両編成は圧巻です。
さらに数年前はサシ組み込みの13両でしたよ。
@@トメオサガ 確かに13両編成でしたね。食堂車を忘れていました。
403系と415系は編成内で冷房と非冷房が混結して変態連結も見られました。
貴重な映像ありがとうございます!特に客車の、しかも交流区間の「ゆうづる」は早朝過ぎて、なかなか動画ではお目にかかれませんので
1985年夏休みにつくば万博行くために前日の夜に上野20時00分発のひたち号(ボンネット車両)で土浦駅にいきました。土浦で22時頃に発車の列車ホテルエキスポドリーム号(20系)で土浦駅そばの留置線で7時頃まで停車。(冷房があまり効いておらず寝苦しかったのが記憶にあります)そして、土浦駅で扉が開いてホームに降車可能。1時間程停車したのちに万博中央駅に向けて発車。本気で走行するのは約10分程度でしたが乗車して良かったと思います。東北・上越新幹線大宮開業前なら特急みちのく号(583系)、上野開業前なら夜行急行十和田号も走っていましたね。
コメントありがとうございます。列車三昧の夏休みのいい思い出をお持ちのようですね。
@@ZIPANG1067 本当にこの夏は乗り鉄してました。つくば万博行った後は、数日後に別の友人と川崎から伊豆急下田まで乗り鉄(行きは下田まで普通電車を乗り継いで)しました。そして帰りは下田から横浜まで臨時特急サロンエクスプレス踊り子号に乗車しました。そして、8月4日(日)に妹と二人で青森の祖父母の家に帰省するため上野から盛岡までやまびこ号、盛岡から三戸まで583系はつかり号に乗車しました。その5日後に1人で三戸から青森まで寝台特急ゆうづる号(客車ヒルネ利用)、青森駅でたざわ号や日本海号、特急むつ号を撮影して、青森市内見学などはせず2時間半後には583系はつかり号で野辺地まで乗車し、後続の485系はつかり号で三戸まで乗車しました。特急や急行などの乗り鉄はこの電車、列車が最後で30年以上、(高校卒業後に就職した年に新横浜から浜松までこだま号で往復したことはあります) その後は新幹線も含め乗車したことがありません。普通電車はちょくちょく乗りましたが。はやて号はもちろん、はやぶさ号、のぞみ号、ひかり号さえ乗ったことがありません。
コメントありがとうございます。私は毎週のように撮影に行っていたのですが、いつの間にかパッタリと行かなくなってしまいました。決して興味が失せたわけではないのですが、仕事が一つの要因かもしれませんね。
水戸以南は取手付近で直線電化されているので、パンタグラフが二つ上がってます。水戸駅で上り列車がパンタグラフを上げる時に、バチツと火花散るシーン楽しめました。
コメントありがとうございます。交直両用車両の常磐線におけるひとコマは、鉄道ファンの一つの楽しみですね。
1:40 クルマにも目が行きました 映ってるのはホンダCR-Xかな?
コメントありがとうございます。初期型バラードCR-X1.5iで、当時の愛車でした。
う~ん素晴らしい映像です!懐かしさが湧き上がってきます。EF80牽引の「ゆうづる」は極めて貴重な映像です。東北線が「はくつる」で、「ゆうづる」は常磐線経由です。鶴と鶴が走っていためでたい時代です。この時代に常磐線にまつわる多くの激変がありました。昭和60年の運輸政策審議会答申では「常磐新線の新設」という項目が設けられ、この後「つくばエクスプレス」の建設が始まります。開業は2005年です。東京23区乗り入れの定期気動車列車としては最後になったおもにキハ28急行「ときわ」「奥久慈」併結列車も昭和60年3月で姿を消しました(毎年夏季恒例の海水浴臨時列車であったキハ28急行「あじがうら」「おおあらい」併結気動車列車はこの年の8月まで、「あじがうら」「おおあらい」夏季臨時「快速」気動車列車としてはS62年の8月まで。大きい丸いヘッドマークがついていました。)以降、東京23区内乗り入れの定期の気動車列車や毎年夏季恒例の海水浴臨時気動車列車は0になりました。名古屋、大阪も含めて他の地域では、今も気動車列車はその市街地に乗り入れてきていますが、東京23区には気動車列車は一切乗り入れてきていません(単なるイベント臨時列車などやDLは除く。)。これが東京23区から気動車列車が消えた瞬間です。そしてこの2年後には筑波鉄道が廃止になりました。上野からの直通列車の快速「筑波」に乗って廃止前の筑波鉄道に乗りに行きました。12系客車でした(6連)。14系客車の時もあったみたいですが、古くは旧型客車の時代もあったようです。上野⇔土浦間はEF80の牽引でした。土浦⇔筑波間はDD501(225ps×2, 35t)の牽引でした。かつてはDD502(500ps×1, 33.7t)の時もありました。走行はもう限界といった感じののろさでした(40km/hくらいが限界みたいな。)。鹿島鉄道(石岡⇔鉾田)のDD901(500ps×2, 51.6t)とともに、ロッド駆動式で車体に丸みのある、味のある機関車でした。この頃の最大のイベントは『つくば万博』でした。「エキスポライナー」を余っている車両を総動員させて走らせていました。電車、気動車、客車。この動画にも415系の「エキスポライナー」が映っています。「エキスポライナー」には実は夜行列車もありました(「エキスポドリーム」)。この近辺では宿泊施設の数が不十分であったため、寝台車両の宿泊設備を利用して、宿泊してもらおうというものでした。一泊3000円でした。ところが宿泊業法等の関係から、単なるホテルとしては営業できなかったことから、万博会場駅と土浦駅の留置線を往復する夜行列車とすることでホテルの代用としたのでした。
コメントありがとうございます。色々な経験と知識をお持ちのようで、感服しております。詳細な解説を賜り、ありがとうございました。
@@ZIPANG1067 さんまた、貴重で楽しい動画をアップしていただきたいと思います。期待しております。
コメントありがとうございます。ご期待に添えるか分かりませんが、これからもよろしくお願いいたします。
エキスポドリーム号20系を乗車しました。夏休みに友人とつくば万博に行くために列車ホテル利用させてもらいました。確かエキスポドリーム号は20系と583系が隔日で運用についてました。友達と話し合い、どちらも20系が未体験だったので20系運転日の日につくば万博に行きましたよ。値段もその位でした。583系使用のエキスポライナー号も万博中央駅から大宮まで乗車しました。武蔵野線内はワクワクしましたね。
2:10 EF80がこの時代までゆうづるの先頭で走っていた事を思い出しました 寝台電車は食堂車抜きになって短い編成でしたが それでも長い
コメントありがとうございます。この辺りからEF80は、徐々にEF81に置き換えられていったようですね。
貴重な映像ですね! 夏の帰省に利用していた客車「ゆうづる」は当時の映像が殆ど残っていませんからね。初期型のEF80が牽引する「ゆうづる」の映像はおそらくこの映像だけではないでしょうか。もしかしたら小学生だった私が乗っていたかもしれませんね😄EF81 300番台牽引の貨物列車も超貴重映像です。エキスポライナー懐かしいなぁ。私にとって貴重な鉄道資料です。👍🍀
ステンレス車体の1500番台登場前で鋼製車ばかりの時代でした。
コメントありがとうございます。国鉄時代の車両は、面白かったですよね。
2:00 懐かしい 「ゆうづる」長編成なのに三河島の急カーブをよく曲がれましたね。
コメントありがとうございます。三河島~日暮里駅辺りは、相当スピードを落として行ったのでしょうね。
3:53 実はこれも寝台列車なんですよ。鉄道業界では 「月光型」と言われていました。晩年は北陸本線や長崎本線の普通列車で活躍していました。
コメントありがとうございます。説明欄に「月光型」を反映させていただきます。ありがとうございました。
急カーブといっても半径300m級ですよこのカーブは田端発着だった常磐線を上野発着に変えた明治38年に生まれたものなので、蒸気機関車すら普通に通過していました東北本線初の特急は「はつかり」ですが、これは日暮里~岩沼が最初は常磐線経由であり、C62牽引で件の曲線を通過していたと考えられます
@@asakazefuji 東武浅草の手前のカーブもエグいけど三河島と武蔵小杉のカーブもエグいね。
科学万博で賑わっていた頃の常磐線と我が故郷の茨城。
コメントありがとうございます。茨城県には親戚はないのですが、居住地以外で一番訪れた県かもしれません。
茨城~茨城~我らの茨城~常磐線我らの誇り。
@@やまひこくんそれは茨城県民の歌ですね。茨城を離れて34年。空には筑波 白い雲野には 緑を映す水…♪
夜行列車華やかなりし頃の常磐線は 今以上に『特急街道』でしたね。『ゆうづる』の先頭に立つEF81のモーターの唸りも懐かしい。当時はEF80もまだ走っていて 客車『エキスポライナー』の先頭に立つ事もあり 他にも急行『奥久慈』運用が無くなったキハ58系もライナー運用に用いられました。「つくば博」を機に15連化された普通電車も新鋭415系700番台が増備されましたが 非冷房・グロベンの401・403系も活躍していましたね。最後に貨物の先頭に立っていたEF81 302は 今は関門に帰っちゃったけど この頃はステンレス車体を交直ピンクに塗って 常磐線へ出向していました。『つくば博』終了後にロングシートの415系500番台の一部が南福岡へ転属し 逆にその南福岡から『有明』『にちりん』で活躍していた485系ボンネット車がこちらにやって来て 大増発された『ひたち』として走り出したのは 不思議な巡り合わせでした。
コメントありがとうございます。詳細な解説ありがとうございました。動画説明欄に記載されたような情報が書けるといいのですが、にわかファンの当方ではとてもとても……。
@@ZIPANG1067 さん貴重な映像資料を提供して下さるだけでも十分に有り難いですよ☺️
@@toriri-service それがですね…別府~宮崎空港の「にちりん」を利用した時、車内で 「日本国有鉄道 長野工場」というプレートを見ました。多分ですけど乗車した車両は信越本線で活躍していた 「特急あさま」に使われていた485系電車がJR九州に移籍したことと思います。日豊本線には 「宗太郎越え」という鉄道ファンに有名な 「難所」があり、急勾配対策と思いますね。
@@藤原鎌足の子孫多分それ元「とき」で使用されてたクハ181かクハ180の改造車ですよ。
@@トメオサガ あの 「上越越え」で活躍していた車両ですか?
関西直流育ちです。直流でも交流でも交直流でも、同じ音が聞けるのは良いですね。私の住むところでは、まだ113系が爆走する国鉄音が聞けます!幸せの音です。
コメントありがとうございます。昭和、平成、令和と走り抜けてきた113系近郊型電車ですか。車歴は優に40年を越え、殆ど毎日の運行。それが現役とは凄いですね。
ほんとに貴重な映像です。かつてこの付近に東信号場というものがあったそうです。Wikiで常磐線について現在の2022年9月からちょうど100年前の1922年(大正11年)9月荒川沖-東信号場間複線化、同11月東信号場-土浦間複線化という記述があります。撮影場所よりはもっと土浦よりにいまも保線用線路や線路に沿って鉄道敷地が上り線側にも下り線側にもあり、また終戦直後の米軍撮影航空写真やその後の国土地理院撮影航空写真などでも建物や構造物が認められその名残だろうと想像しています。鉄道開業150年、荒川沖-土浦間複線化100年、またつくば万博開催年の撮影、感慨深いものがありコメントさせていただきました。
コメントありがとうございます。気の利いたコメントを返すことができずに恐縮ですが、楽しんでいただけたようで何よりです。
この頃だともう旧客普通は無かったですね
コメントありがとうございます。@chiba_goroさんのコメントを参照していただければと思います。
常磐線は昭和57年の改正で旧客鈍行は廃止になりました。(上野発着)上下6本の旧客鈍行が走ってました。
貨物の牽引って塗装された姿だけどステンレス81でしたね!
コメントありがとうございます。そのようです。友人からもその指摘がありました。
1:28 傍らに出演?するバラードスポーツCRーXも時代の演出になってますね 5:09 特徴ある方側コルゲート無しのEF81 302もある
コメントありがとうございます。クルマ好きの方には、凡その年代がピンとくるかもしれしれませんね。
また寝台列車が常磐線を走る日は来るのだろうか?
カシオペアなら、走るかもな。
@@series7872 ただし、ツアー列車でしょうね。今もたまにツアー列車として設定されていますが。
私もゆうづるの、リバイバルを願ってやまない、今日この頃です。
仕方ないとはいえ、夜の移動は失われてしまった。鉄道目線では。だいたいはそのスジに貨物列車が数多く走っている。
エキスポライナーが写っとる!
EF80のパンタ2つ上がってるな
パーイチの大スターたる81号機や95号機は富山新製配置やったけどハチマルの置換えに常磐線にコンバートされたメンツやったそやけど常磐線はハチマルの縄張りやといまだに思うわゆうづるのヘッドマーク復活の時、P型が先に全廃されてたのがホンマに皮肉やな
コメントありがとうございます。段々と愛称が分かってきました。パックに加え、今回パーイチ、ハチマルが追加されました。
つくば万博と御巣鷹の墜落事故、あと国電ゲリラ事件ですな1985年といえば交通界でも重大航空事故があった傍ら、国鉄の民営化問題も佳境を迎えいろいろ騒がしかったと思われます
コメントありがとうございます。1980年代の中でも色々な出来事が多く起こった年のようですね。
5:38 貨物列車の最後尾に緩急車が連結されていないので、1985年3月14日ダイヤ改正以降の撮影かと思われます
コメントありがとうございます。大まかな記録を見ると、同年の7月初めの頃のようです。緩急車がないと、鉄道ファンとしては物足らない感じですね。
当時は403系も401系も現役でした。グロベン冷房車は403系です。7両固定や4+3の編成もありました。異彩を放っていたのが低運デカライトのクハ401-14でした。低運デカライトスタイルを維持して赤電から白電に塗り替えられて先頭に立つ姿は誇らしげでした。
コメントありがとうございます。クハ401-14を検索してみました。随分と個性的なスタイルだったんですね。
たった1両の生き残りです。4両編成を組んでいたクハ401-13とモハ401-7が老朽廃車になって昭和54年の踏切事故で生き残ったクハ401-51とモハ403-1改めモハ401-26と暫定的な編成を組んでいました。
後にモハ401-26も廃車になってクハ401-51も編成を組む相手を失いましたが奇跡が起こります。方向転換と冷房化と更新工事を受けて415系の一員になってクハ411-701の相方になり鋼製車最後の2007年まで活躍しました。
コメントありがとうございます。流石に動画で抑えられていないようですね。
常磐線って地味(失礼)401系も冴えないローズピンク一色だし(怒られそう)本線じゃないし(だから何?)東北本線のバイパス路?(引っ叩かれそう)でも……………EF80は常磐線だけの勇!全ての「列車」の先頭に立ち君臨する。正しく常磐線の「華」でした!
コメントありがとうございます。やはり、電気機関車には「華」がありますよね。撮影時も妙に力が入っていました。
昔の常磐線は良かった❗ゆうづるが何往復か設定されていましたね。何と言ってもハチマル君が大好きでした❗
コメントありがとうございます。「ゆうづる」は、客車列車と電車にも設定されていたんですね。
最盛期には一日7往復運行していましたね。とうじ国鉄の寝台特急では最も運行本数の多い列でした。
1985年春には ゆうづるいないはずだが
コメントありがとうございます。詳しくないので心配になり、「ゆうづる」で検索してみると、1987年5月にEF81牽引の「ゆうづる」を撮影された方がいらっしゃいました。
客車列車「ゆうづる」の廃止は88年3月の「北斗星」設定時です85年3月改正時点ではまだ583系1往復と24系2往復の3往復体制かと電車便の廃止は94年12月改正
1:40電車よりバラスポに目行ったわw
わいが生まれる2.3か月前の地元か😳
常磐線の各駅停車は殆どが電車になったのに、日に何本かは客車列車でした。あれに乗ると電車より所要時間が1.5倍程になり、しかも混んでいたので、閉口でした。走行するにつれ、先行する電車との間隔が長くなっていくのだから、混むのは当然ですよね。写す方はノスタルジアとかで良い気分だったかも知れないが、乗る方は辛かった。
コメントありがとうございます。
客車列車の乗り心地は、一般の方は疲れたり、辛いと思うのですが、それを好んで乗るファンの方もいます。エアコンも無いですし、あばたもえくぼなのでしょうね。
柏市出身です。
この頃、丁度高校生でした。
万博輸送で、12系、20系、関西から関西からクハ581の583系等色々な車両が集結してましたね。しかも乗車券のみで乗れました。鉄道ファンには夢の様な時でした。
私はEF80の引く20系や元急行奥久慈用のキハ58を狙って普段乗れない車両に乗りに行きました。
あと、最後の活躍をしていた401系の低運転台が先頭に立ちコスモ星丸のヘッドマークを付け力走も忘れられません。
いゃあ〜良かった。
名古屋に来て20年。常磐線は出身地でもありますが、今でも常磐線が一番好きです。
コメントありがとうございます。
この年は、万博で鉄道車両が常磐線に一気に集まり、鉄道車両のバブル状態だった分けですね。
私も常磐線は思い出の鉄道です。私を鉄道ファンにした.唯一の路線..常磐線よ、永遠なれ。
貴重な映像、興味深く視聴させて頂きました。
荒川沖~土浦間は交流電化区間ですが、
EF80、EF81ともに2つのパンタを上げているのは意外でした。
交流電化区間では1つのパンタしか上げないという先入観があったので・・・。
片方のパンタは集電には使っていなかったと言うことでしょうか?
コメントありがとうございます。
「交流区間 両パンタグラフ」で検索をしたら、ヤフー知恵袋に解答がありました。
交流区間は、2つ目のパンタグラフを断路器で切り離しておくようですね。
エキスポライナーのヘッドマークを掲げた415系が懐かしいですね。多彩な編成がありました。冷房や非冷房の混結もありました。
コメントありがとうございます。
お楽しみいただけたようで何よりです。
土浦で育った者です。
あの頃はまだ旧式客車の各駅停車も1日3往復残っていて、東京に行くときなぜかよく乗っていました。
十和田に乗って青森まで行ったこともあります。
コメントありがとうございます。
乗車すれば決して快適ではない旧型客車。
それでも若い頃に乗った思い出なのでしょうか。
未だに人気がありますよね。
私は当時20代でした。
旧式客車では走行中にやんちゃな高校生がドアを開けたりして(もちろん手動)。今では考えられませんよね。
さすがに首都圏を走るのは無理で、国鉄民営化のあたりで消えたかと思います。
コメントありがとうございます。
4日前に茨城出身九州在住さんがこんなコメントをくださいました。
「動き始めた汽車に一人飛び乗った♪(喝采)
旧型客車の時代は飛び乗リは出来たけど電車では無理ですね。w」
ちあきなおみさんの名曲ですが、当時は歌詞になるくらいですから。普通? のことだったのかもしれませんね。
十和田は首都圏ではいち早く普通車は12系化されてましたよ。
多分昭和51年頃。
もちろん十和田は12系でした。
この時は東北・上越新幹線が上野発着になった年だ。これのおかげで東北・上越新幹線が東京で見られるようになったのです。
EF80、最後の晴れ姿。
59.2改正で引退したかと思い込んでいましたが、常磐線にはEF80がよく映えます。
夏休み筑波万博に行きましたが上野駅で地元中央線ではなかなか見られない貴重な列車が勢揃いでとても興奮したのを今でも忘れられません
コメントありがとうございます。
北の玄関口の上野駅が終着駅だった頃は、色々な列車が発着しており、良い雰囲気がありましたよね。
貴重な映像ありがとうございます。
この時期は、科学万博による車両不足でEF81牽引の普通客車列車も走っていましたね。
ホームで415系(403かな?)を待っている時に客車列車が来て、
付近のおばちゃんに「この電車、普通の切符で乗っても怒られませんか??」って聞いた記憶があります。
(客車列車に乗る習慣が無かったので。。)
編成が11両(4+7)も懐かしいですね。15両編成(4+4+7)になる時は各駅でホーム延伸工事していましたね。
よい思い出です。ありがとうございます。
コメントありがとうございます。
楽しんでいただけたようで何よりです。
プリマハムの工場の近くですね
牛久から土浦の高校に通ってたので毎日見てた馴染みの景色でした。この年は高3だったかな。
万博中央駅が臨時開業、401系がエンジ色から白地に青帯に色替え、一時間の本数が3から4本くらいに激増して便利だったなぁ
コメントありがとうございます。
国鉄時代の良い時期に利用されていたようですね。
クハ401−51は鋼製車の中で最も長寿でした。
EF81の301号機と302号機がローズピンクに塗られて門司から常磐線のEF80の置き換え時に活躍していました。
変態連結は鋼製車の末期にも見られました。
科学万博のエキスポライナー懐かしいですね。臨時の万博中央駅が2面2線の駅だったのでお隣牛久駅の今はなき3番線ホームが特急退避や時間調整に重用されてました。今の土浦花火臨と同様に土浦ー取手・我孫子間のエキスポライナーも結構ありました。
コメントありがとうございます。
つくば科学万博は、184日間の開催で1日平均の入場者数約10万人、期間中は2033万4727人に達したようですね。
電車利用はどのくらいあるか分かりませんが、もの凄い人数ですね。
つくば万博終了前にどうしても583系のエキスポライナー乗車したくて高校の授業終わって速攻で家に帰り(土曜日)、友達と急いで新川崎から万博中央まで普通電車に乗って、万博中央からエキスポライナー583系に乗って終点の大宮まで乗車しました。万博中央駅発車は夕方だったので、すごくホームがお客さんで混んでいて座席に座れるかヒヤヒヤしましたが、無事に席を確保出来ました。途中の停車駅は我孫子駅だけでした。でも座席に座ったのはほんの僅か、我孫子停車前から大宮までデッキに立ちながら📻持って583系の走行音をテープに録音してました。武蔵野線を583系が走るのが新鮮で乗車しに行って良かったと思いました。
コメントありがとうございます。
高校生時代だからできたガッツある行動が文面から感じ取れました。
こういう思い出は、決して忘れませんよね。
583系ゆうづるの12両編成は圧巻です。
さらに数年前はサシ組み込みの13両でしたよ。
@@トメオサガ 確かに13両編成でしたね。食堂車を忘れていました。
403系と415系は編成内で冷房と非冷房が混結して変態連結も見られました。
貴重な映像ありがとうございます!
特に客車の、しかも交流区間の「ゆうづる」は早朝過ぎて、なかなか動画ではお目にかかれませんので
コメントありがとうございます。
楽しんでいただけたようで何よりです。
1985年夏休みにつくば万博行くために前日の夜に上野20時00分発のひたち号(ボンネット車両)で土浦駅にいきました。土浦で22時頃に発車の列車ホテルエキスポドリーム号(20系)で土浦駅そばの留置線で7時頃まで停車。(冷房があまり効いておらず寝苦しかったのが記憶にあります)そして、土浦駅で扉が開いてホームに降車可能。1時間程停車したのちに万博中央駅に向けて発車。本気で走行するのは約10分程度でしたが乗車して良かったと思います。東北・上越新幹線大宮開業前なら特急みちのく号(583系)、上野開業前なら夜行急行十和田号も走っていましたね。
コメントありがとうございます。
列車三昧の夏休みのいい思い出をお持ちのようですね。
@@ZIPANG1067
本当にこの夏は乗り鉄してました。つくば万博行った後は、数日後に別の友人と川崎から伊豆急下田まで乗り鉄(行きは下田まで普通電車を乗り継いで)しました。そして帰りは下田から横浜まで臨時特急サロンエクスプレス踊り子号に乗車しました。そして、8月4日(日)に妹と二人で青森の祖父母の家に帰省するため上野から盛岡までやまびこ号、盛岡から三戸まで583系はつかり号に乗車しました。その5日後に1人で三戸から青森まで寝台特急ゆうづる号(客車ヒルネ利用)、青森駅でたざわ号や日本海号、特急むつ号を撮影して、青森市内見学などはせず2時間半後には583系はつかり号で野辺地まで乗車し、後続の485系はつかり号で三戸まで乗車しました。特急や急行などの乗り鉄はこの電車、列車が最後で30年以上、(高校卒業後に就職した年に新横浜から浜松までこだま号で往復したことはあります) その後は新幹線も含め乗車したことがありません。普通電車はちょくちょく乗りましたが。はやて号はもちろん、はやぶさ号、のぞみ号、ひかり号さえ乗ったことがありません。
コメントありがとうございます。
私は毎週のように撮影に行っていたのですが、いつの間にかパッタリと行かなくなってしまいました。
決して興味が失せたわけではないのですが、仕事が一つの要因かもしれませんね。
水戸以南は取手付近で直線電化されているので、パンタグラフが二つ上がってます。水戸駅で上り列車がパンタグラフを上げる時に、バチツと火花散るシーン楽しめました。
コメントありがとうございます。
交直両用車両の常磐線におけるひとコマは、鉄道ファンの一つの楽しみですね。
1:40 クルマにも目が行きました 映ってるのはホンダCR-Xかな?
コメントありがとうございます。
初期型バラードCR-X1.5iで、当時の愛車でした。
う~ん素晴らしい映像です!懐かしさが湧き上がってきます。EF80牽引の「ゆうづる」は極めて貴重な映像です。
東北線が「はくつる」で、「ゆうづる」は常磐線経由です。鶴と鶴が走っていためでたい時代です。
この時代に常磐線にまつわる多くの激変がありました。
昭和60年の運輸政策審議会答申では「常磐新線の新設」という項目が設けられ、この後「つくばエクスプレス」の建設が始まります。開業は2005年です。
東京23区乗り入れの定期気動車列車としては最後になったおもにキハ28急行「ときわ」「奥久慈」併結列車も昭和60年3月で姿を消しました(毎年夏季恒例の海水浴臨時列車であったキハ28急行「あじがうら」「おおあらい」併結気動車列車はこの年の8月まで、「あじがうら」「おおあらい」夏季臨時「快速」気動車列車としてはS62年の8月まで。大きい丸いヘッドマークがついていました。)以降、東京23区内乗り入れの定期の気動車列車や毎年夏季恒例の海水浴臨時気動車列車は0になりました。名古屋、大阪も含めて他の地域では、今も気動車列車はその市街地に乗り入れてきていますが、東京23区には気動車列車は一切乗り入れてきていません(単なるイベント臨時列車などやDLは除く。)。これが東京23区から気動車列車が消えた瞬間です。
そしてこの2年後には筑波鉄道が廃止になりました。上野からの直通列車の快速「筑波」に乗って廃止前の筑波鉄道に乗りに行きました。12系客車でした(6連)。14系客車の時もあったみたいですが、古くは旧型客車の時代もあったようです。上野⇔土浦間はEF80の牽引でした。土浦⇔筑波間はDD501(225ps×2, 35t)の牽引でした。かつてはDD502(500ps×1, 33.7t)の時もありました。走行はもう限界といった感じののろさでした(40km/hくらいが限界みたいな。)。鹿島鉄道(石岡⇔鉾田)のDD901(500ps×2, 51.6t)とともに、ロッド駆動式で車体に丸みのある、味のある機関車でした。
この頃の最大のイベントは『つくば万博』でした。「エキスポライナー」を余っている車両を総動員させて走らせていました。電車、気動車、客車。この動画にも415系の「エキスポライナー」が映っています。「エキスポライナー」には実は夜行列車もありました(「エキスポドリーム」)。この近辺では宿泊施設の数が不十分であったため、寝台車両の宿泊設備を利用して、宿泊してもらおうというものでした。一泊3000円でした。ところが宿泊業法等の関係から、単なるホテルとしては営業できなかったことから、万博会場駅と土浦駅の留置線を往復する夜行列車とすることでホテルの代用としたのでした。
コメントありがとうございます。
色々な経験と知識をお持ちのようで、感服しております。
詳細な解説を賜り、ありがとうございました。
@@ZIPANG1067 さん
また、貴重で楽しい動画をアップしていただきたいと思います。期待しております。
コメントありがとうございます。
ご期待に添えるか分かりませんが、これからもよろしくお願いいたします。
エキスポドリーム号20系を乗車しました。夏休みに友人とつくば万博に行くために列車ホテル利用させてもらいました。確かエキスポドリーム号は20系と583系が隔日で運用についてました。友達と話し合い、どちらも20系が未体験だったので20系運転日の日につくば万博に行きましたよ。値段もその位でした。583系使用のエキスポライナー号も万博中央駅から大宮まで乗車しました。武蔵野線内はワクワクしましたね。
2:10 EF80がこの時代までゆうづるの先頭で走っていた事を思い出しました 寝台電車は食堂車抜きになって短い編成でしたが それでも長い
コメントありがとうございます。
この辺りからEF80は、徐々にEF81に置き換えられていったようですね。
貴重な映像ですね! 夏の帰省に利用していた客車「ゆうづる」は当時の映像が殆ど残っていませんからね。
初期型のEF80が牽引する「ゆうづる」の映像はおそらくこの映像だけではないでしょうか。
もしかしたら小学生だった私が乗っていたかもしれませんね😄
EF81 300番台牽引の貨物列車も超貴重映像です。
エキスポライナー懐かしいなぁ。
私にとって貴重な鉄道資料です。👍🍀
コメントありがとうございます。
楽しんでいただけたようで何よりです。
ステンレス車体の1500番台登場前で鋼製車ばかりの時代でした。
コメントありがとうございます。
国鉄時代の車両は、面白かったですよね。
2:00 懐かしい 「ゆうづる」
長編成なのに三河島の急カーブをよく曲がれましたね。
コメントありがとうございます。
三河島~日暮里駅辺りは、相当スピードを落として行ったのでしょうね。
3:53 実はこれも寝台列車なんですよ。鉄道業界では 「月光型」と言われていました。晩年は北陸本線や長崎本線の普通列車で活躍していました。
コメントありがとうございます。
説明欄に「月光型」を反映させていただきます。ありがとうございました。
急カーブといっても半径300m級ですよ
このカーブは田端発着だった常磐線を上野発着に変えた明治38年に生まれたものなので、蒸気機関車すら普通に通過していました
東北本線初の特急は「はつかり」ですが、これは日暮里~岩沼が最初は常磐線経由であり、C62牽引で件の曲線を通過していたと考えられます
@@asakazefuji
東武浅草の手前のカーブもエグいけど三河島と武蔵小杉のカーブもエグいね。
科学万博で賑わっていた頃の常磐線と我が故郷の茨城。
コメントありがとうございます。
茨城県には親戚はないのですが、居住地以外で一番訪れた県かもしれません。
茨城~茨城~我らの茨城~常磐線我らの誇り。
@@やまひこくん
それは茨城県民の歌ですね。
茨城を離れて34年。
空には筑波 白い雲
野には 緑を映す水…♪
夜行列車華やかなりし頃の常磐線は 今以上に『特急街道』でしたね。
『ゆうづる』の先頭に立つEF81のモーターの唸りも懐かしい。
当時はEF80もまだ走っていて 客車『エキスポライナー』の先頭に立つ事もあり 他にも急行『奥久慈』運用が無くなったキハ58系もライナー運用に用いられました。
「つくば博」を機に15連化された普通電車も新鋭415系700番台が増備されましたが 非冷房・グロベンの401・403系も活躍していましたね。
最後に貨物の先頭に立っていたEF81 302は 今は関門に帰っちゃったけど この頃はステンレス車体を交直ピンクに塗って 常磐線へ出向していました。
『つくば博』終了後にロングシートの415系500番台の一部が南福岡へ転属し 逆にその南福岡から『有明』『にちりん』で活躍していた485系ボンネット車がこちらにやって来て 大増発された『ひたち』として走り出したのは 不思議な巡り合わせでした。
コメントありがとうございます。
詳細な解説ありがとうございました。
動画説明欄に記載されたような情報が書けるといいのですが、にわかファンの当方ではとてもとても……。
@@ZIPANG1067 さん
貴重な映像資料を提供して下さるだけでも十分に有り難いですよ☺️
@@toriri-service
それがですね…別府~宮崎空港の
「にちりん」を利用した時、車内で 「日本国有鉄道 長野工場」というプレートを見ました。
多分ですけど乗車した車両は信越本線で活躍していた 「特急あさま」に使われていた485系電車がJR九州に移籍したことと思います。日豊本線には 「宗太郎越え」という鉄道ファンに有名な 「難所」があり、急勾配対策と思いますね。
@@藤原鎌足の子孫
多分それ元「とき」で使用されてたクハ181かクハ180の改造車ですよ。
@@トメオサガ
あの 「上越越え」で活躍していた車両ですか?
関西直流育ちです。直流でも交流でも交直流でも、同じ音が聞けるのは良いですね。私の住むところでは、まだ113系が爆走する国鉄音が聞けます!幸せの音です。
コメントありがとうございます。
昭和、平成、令和と走り抜けてきた113系近郊型電車ですか。
車歴は優に40年を越え、殆ど毎日の運行。それが現役とは凄いですね。
ほんとに貴重な映像です。かつてこの付近に東信号場というものがあったそうです。Wikiで常磐線について
現在の2022年9月からちょうど100年前の1922年(大正11年)9月荒川沖-東信号場間複線化、同11月東信号場-土浦間複線化
という記述があります。撮影場所よりはもっと土浦よりにいまも保線用線路や線路に沿って鉄道敷地が上り線側にも下り線側にもあり、また終戦直後の米軍撮影航空写真やその後の国土地理院撮影航空写真などでも建物や構造物が認められ
その名残だろうと想像しています。
鉄道開業150年、荒川沖-土浦間複線化100年、またつくば万博開催年の撮影、感慨深いものがありコメントさせていただきました。
コメントありがとうございます。
気の利いたコメントを返すことができずに恐縮ですが、楽しんでいただけたようで何よりです。
この頃だともう旧客普通は無かったですね
コメントありがとうございます。
@chiba_goroさんのコメントを参照していただければと思います。
常磐線は昭和57年の改正で旧客鈍行は廃止になりました。(上野発着)
上下6本の旧客鈍行が走ってました。
貨物の牽引って塗装された姿だけどステンレス81でしたね!
コメントありがとうございます。
そのようです。友人からもその指摘がありました。
1:28 傍らに出演?するバラードスポーツCRーXも時代の演出になってますね 5:09 特徴ある方側コルゲート無しのEF81 302もある
コメントありがとうございます。
クルマ好きの方には、凡その年代がピンとくるかもしれしれませんね。
また寝台列車が常磐線を走る日は来るのだろうか?
カシオペアなら、走るかもな。
@@series7872 ただし、ツアー列車でしょうね。今もたまにツアー列車として設定されていますが。
私もゆうづるの、リバイバルを願ってやまない、今日この頃です。
仕方ないとはいえ、夜の移動は失われてしまった。鉄道目線では。だいたいはそのスジに貨物列車が数多く走っている。
エキスポライナーが写っとる!
EF80のパンタ2つ上がってるな
パーイチの大スターたる81号機や95号機は富山新製配置やったけど
ハチマルの置換えに常磐線にコンバートされたメンツやった
そやけど常磐線はハチマルの縄張りやといまだに思うわ
ゆうづるのヘッドマーク復活の時、P型が先に全廃されてたのがホンマに皮肉やな
コメントありがとうございます。
段々と愛称が分かってきました。
パックに加え、今回パーイチ、ハチマルが追加されました。
つくば万博と御巣鷹の墜落事故、あと国電ゲリラ事件ですな1985年といえば
交通界でも重大航空事故があった傍ら、国鉄の民営化問題も佳境を迎え
いろいろ騒がしかったと思われます
コメントありがとうございます。
1980年代の中でも色々な出来事が多く起こった年のようですね。
5:38 貨物列車の最後尾に緩急車が連結されていないので、1985年3月14日ダイヤ改正以降の撮影かと思われます
コメントありがとうございます。
大まかな記録を見ると、同年の7月初めの頃のようです。
緩急車がないと、鉄道ファンとしては物足らない感じですね。
当時は403系も401系も現役でした。グロベン冷房車は403系です。7両固定や4+3の編成もありました。異彩を放っていたのが低運デカライトのクハ401-14でした。低運デカライトスタイルを維持して赤電から白電に塗り替えられて先頭に立つ姿は誇らしげでした。
コメントありがとうございます。
クハ401-14を検索してみました。
随分と個性的なスタイルだったんですね。
たった1両の生き残りです。4両編成を組んでいたクハ401-13とモハ401-7が老朽廃車になって昭和54年の踏切事故で生き残ったクハ401-51とモハ403-1改めモハ401-26と暫定的な編成を組んでいました。
後にモハ401-26も廃車になってクハ401-51も編成を組む相手を失いましたが奇跡が起こります。方向転換と冷房化と更新工事を受けて415系の一員になってクハ411-701の相方になり鋼製車最後の2007年まで活躍しました。
コメントありがとうございます。
流石に動画で抑えられていないようですね。
常磐線って地味(失礼)
401系も冴えないローズピンク一色だし(怒られそう)
本線じゃないし(だから何?)
東北本線のバイパス路?(引っ叩かれそう)
でも……………
EF80は常磐線だけの勇!
全ての「列車」の先頭に立ち君臨する。
正しく常磐線の「華」でした!
コメントありがとうございます。
やはり、電気機関車には「華」がありますよね。
撮影時も妙に力が入っていました。
昔の常磐線は良かった❗
ゆうづるが何往復か設定されていましたね。
何と言ってもハチマル君が大好きでした❗
コメントありがとうございます。
「ゆうづる」は、客車列車と電車にも設定されていたんですね。
最盛期には一日7往復運行していましたね。とうじ国鉄の寝台特急では最も運行本数の多い列でした。
1985年春には ゆうづるいないはずだが
コメントありがとうございます。
詳しくないので心配になり、「ゆうづる」で検索してみると、1987年5月にEF81牽引の「ゆうづる」を撮影された方がいらっしゃいました。
客車列車「ゆうづる」の廃止は88年3月の「北斗星」設定時です
85年3月改正時点ではまだ583系1往復と24系2往復の3往復体制かと
電車便の廃止は94年12月改正
1:40
電車よりバラスポに目行ったわw