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殿様の最大の責任は「自らの命と引き換えにしても家臣と領民を守ること。」だと思う。だから家臣や領民は従ってくれる。清水宗治は立派にその責任を果たしたと思う。だから今でも毎年命日に地元で慰霊祭が営まれているのだろう。個人的には惜しいと思う人材なので、できることなら生き延びて欲しかった…ただその一方で秀吉軍に土嚢を売った農民が多数いた事は、戦国時代に生きていたの人の逞しさを感じる。
毛利の1番の難敵は実は宇喜多だったと自分は思っています。今の広島、山口、島根、鳥取は毛利が収められましたが、岡山(特に備前美作)は常に宇喜多の領土でした。宇喜多が毛利についていた頃は良かったですが、織田方についてから毛利は岡山攻めにかなり苦労しています。結局戦国末期には岡山は宇喜多、その他は毛利という領土区分になっているので、宇喜多は毛利の最大の難敵だったのだと思います。
孫子の古来より「地形に合わせて戦う」のが基本だったが・・・「地形を変えれば良いじゃん」っていう柔軟な発想
秀吉撤退後の追撃はたとえ試みても堤防を切られることで今度は城の反対側が水没して進めなくなるのでさすがにそれぐらいの備え&見抜きは双方していたと思います。
18:15 講和を守ったというより毛利軍はこれ以上戦える状態になく、当然追撃も不可能でした。その理由のひとつがこの戦いと平行して秀吉は来島村上家を凋落し制海権も握っていたことです。これにより毛利軍は兵站がなくなり、講和時点では兵糧が尽きていたようです。つまり、秀吉はこの時点で毛利をいつでも滅ぼせる状態であり、信長を迎える準備万端の状態だったのです。本能寺の変がなければ、毛利家は3ヶ月前の武田家と同じ運命をたどっていた可能性が高いと思います。
助命より忠義と名誉を取った清水宗治は武士の鑑。
蜂須賀正勝の子孫です。水攻めの立案はうちの先祖の正勝さんとのこと。先祖代々そう聞かされてます。木曽川沿いで水運に従事してた我が先祖ありきだと自負してます。
明治天皇にも、「我が家の先祖は水運業者です」と言うべきだったな。まあ、実際にくすねた時に言っても言い訳にしか聞こえないが。
血筋としての蜂須賀氏は断絶してなかったかな?と思いましたが分家は結構あるみたいですね。
@@-shinanoechi-5718 家老の家とか、半分ぐらいは殿様の分家だからな。
ええなー😢うちの先祖は美作で豊臣宇喜多連合にやられたわ😂岡山の浮田って苗字を見ると親父がいつも怒ってたわ
釈由美子さんは蜂須賀氏の子孫、つまり吉川晃司さんの先祖と戦っていた事に!
中国大返しも備前と播州の境は凄い急峻な山道なので、持っていた多くの船で相生港とかに兵を運んだのでしょうね。
以前から織田方は要所所(宿場町に)に兵糧・武器、弾薬を保管してた!それを有効活用した羽柴軍
高松城の低湿地が標高5m前後、高松城の本丸部分は標高7mあるので、高松城の低湿地よりも低い土地にある蛙が鼻の堤防は決壊しないよう標高10m程度の高さには盛られたのでは無いでしょうかね。足首が水に浸かる程度でも十分な効果があるのでしょうが、大雨により水位が堤防を超えたり決壊してしまっては元も子も無いので。
清水家は僕の親戚で、清水宗治の辞世の句「浮世をば、今こそ渡れ、武士の、名を高松の、苔に残して」はカッコよくてずっと覚えてる。あまり知ってる人いないけど💦
小舟で唯一切腹した武将でもあります!清水宗治は私のご先祖に当たります
私の先祖も高松城で宗治と籠城していました。宗治の辞世の句「浮世をば・・・」は実際には兄の清水月清の句で、宗治が残した句は、「世の中の 惜しまるる時 散りてこそ 花も花なれ 色も有りけれ」です。明治時代、天皇にこの清水宗治・月清の辞世の句を教えた際、ミスでそれぞれを反対で教えてしまいました。ですが「一度天皇に教えたことを今更訂正することは出来ない」といい、今現在まで訂正されることなく、二人の句は反対になってしまっているんです。自分も清水宗治が大好きでこの事実を知った時驚きました笑。大好きな人物だし、その人に縁がある方達なら知ってほしいと思いコメントしました。長文失礼しました🙇♂️。
@@遭難のプロ-b8sそれは知りませんでした!ネットで調べても出てこなかったのですがどこかの資料館などにあった情報ですか…?
かっこいいですねちなみに僕は豊臣秀吉の子孫です
@@たけのこ-o7qまじで?💧
羽柴方はこの土手を作る時に農民から土を買い上げていました、軍師官兵衛の助言により、この時は宇喜多は羽柴方についており、毛利は迂闊に動けなかった。清水宗春が切腹後は毛利両川家は次第に綻び始めた。吉川と小早川の対立する
戦国大名や戦国武将を取り扱った作品は多々あり、作者によって良い扱いにも悪い扱いにもされてる。農民から天下人となった日本最大の成り上がりと描写される一方、主家に牙をむき秀次や駒姫を理不尽な死に追いやる畜生にも描写されてる秀吉が良い例である。だが、清水宗治だけはどの作品も見事な扱いに描写されてるな。
幼少期、近くに住んでたことあるけど干拓済みの今と違って、海や足守川以外にも船が出せるようなそこそこ大きな川が割とすぐ近くまであったらしい岡山市の庭瀬の瀬とか、倉敷市の地名で島とか海関連の名がつく場所が多いのはその名残で中国大返しも海ルートなら今の地形より遥かに現実的と習った
秀吉の中国攻めは兵糧攻めに水攻めというエグい作戦のオンパレード。
兵糧攻めも水攻めも敵味方の被害を最小限に抑える戦術なのにエグいってw
秀吉軍の兵からすりゃ死ななくていい平和な作戦だがね。それに相手が降伏すれば民衆も死なずに済むわけで。相手が粘る程に民衆が苦しむのでさっさと降伏してくれって民衆は結構いたと思うよ。
其れは敵側の考え味方を傷つけない戦い。
水没させた実際の水位は15~20cm位だったと聞いています。ただこれで座ることも寝ることも出来ないので水責めとしては充分効果的だったそうですね。
一階部分が水没すれば十分だからな。
一階が水没すれば当然井戸も水没するわけで、水がないと人間は生きていけない。雨水を集めて使う以外になく、これはきつい。
秀吉の中国攻めは包囲して兵糧攻めしたり、大規模な堤防を築いて水攻めしたりで兵は減らないけどめちゃくちゃ金の掛かる戦い方なんだよなぁ~(^_^;しかも秀吉だけじゃなくて他の方面に万単位の軍団派遣出来る織田家の財力よ!
しかもその分、農民からの年貢が高かったかというと逆に安かった。取れ高のわずか1/3。これは恐らく当時、日本で最も安かった部類だろう。農民以外、どこから金を調達したかというと、関所廃止、楽市楽座により、経済が発展してそこからの税収が増えたこと、堺などの商業都市に要求した矢銭などによるものだろう。すなわち、既得権益があった寺社などから既得権益を奪い、その分の金が信長や大衆に流れたと言うことかな。
軍師官兵衛で清水宗治を演じた宇梶さんがめちゃカッコよかった!
秀吉軍の土木能力と機動力を最大限に発揮されるところですね
投稿者さんは定説あるいは一次資料に基づくか二次資料であれば注釈をいれた上で話してくださっているので、コメント欄で三次資料や口伝、新説をさも事実かのように『勘違いしている。』と断ずるより、『こういう考え方もありますよ、最近はこういった説が主流になりつつあります。』と伝えたほうが建設的だと思います。
夏に行った岡山城に備中高松城の布陣図があったけどエグかった毛利軍は救援のために堤下流を急いで切る必要があったけど、それはつまり包囲網の真ん中に入って武器鎧を外して土木工事しなきゃならない
秀吉軍にいい場所を取られて堤防を作られた時点で、毛利は負け確なんだよな。
6:40この好条件が逆に宗治さんに疑念を抱かせたという話を聞いたことあります('ω')「降伏すれば2国を与えるだと?そんなうまい話しがあるか!」な感じで('ω')
水攻めのメリットは、敵の援軍が来て戦うときに、城の兵が出てくる恐れがないことだな。
布陣を見ても見事と言う他ない、鳥取からの戦略をここに結実させた秀吉はやっぱりとんでもない将器だと思う
同年の二月に毛利と宇喜多が戦った八浜合戦で宇喜多春家、基家が戦死して大敗後詰めで秀吉が宇喜多の救援に来たのがきっかけと言う話は殆ど語られる事が無い
何が悲惨かって秀吉が軍を返さないといかん立場になったのにそれを知らずに軍門に降った事だよなあ
毛利家は元就の代は付いていくべきだと思うけど、輝元の代は決断力がないから厳しいね。
この城攻めには、秀吉の水攻めに対し、城主清水宗治の名将ぶりも強く語られるのが常。あと、中国大返しは実行に際し、毛利方に信長討たれるの報が入った際、小早川は追撃しないという決断、おそらく秀吉のスピードはそれに叶わなかったという説もあり、また安国寺も秀吉に対し好意的だった。
でも結局毛利も秀吉にしたがってるから清水宗治気の毒やろ
長い堤防じゃ無くても、最低限度の数ヶ所に堤防築くだけで、水責め出来たはず。少しの労力でOK。
元々川より低い位置に城があるなら、大した堤防なんて要らないからな。
毛利家は元就が凄すぎるんよな
それに比べて輝元は(名前がかっこいいだけ)
@@remonremonremon輝元も最近は内政面で評価されてるから…祖父や父世代が凄いから霞んでるけど
@@どんど-u8m あ、そうなんだ
やーっと毛利とまともに相対できた戦いでもあり、もたつきすぎたし別所との付き合い等失策もあったから秀吉も一歩間違えたら佐久間信盛になりかけたから必死で、兵糧攻めとか水攻めとかまだるっこしい攻め方&信長から「あいつは信用できないから調略するな」と禁じられてた宇喜多直家の調略をやったりもうなりふり構ってない焦りという見方もできなくはない…?
光秀なんか丹波を征服するだけで3年ぐらい掛かってるが。
@@戸田賢司あんなど田舎の山岳地帯の山城に籠城されると、力攻めも厳しいし、兵糧攻めしよにも攻める側の兵站も厳しいかと。あと本願寺や松永の戦の救援にもしていた。
言うて毛利はこの時点で日本に残ってる数少ない大大名だからまだ正面決戦する時期では無いですね
本願寺と和睦するまでは予備兵力がなかったし、三木城なんてトゲもあるし。信長が秀吉軍だけで毛利と全面戦争出来ると思ってる無能ならとっくに死んでるんだよ。
本当かどうかは分からないが、秀吉の中国大返しの時に毛利方は秀吉に毛利の軍旗を送ったという話を聞いたことがある
ありそうでなかった堤防を破壊する好機
清水宗治が織田家にくだってたら本能寺の変が無かった可能性もあるのか
北野武さんの「首」という映画を観た直後だったのでとても勉強になりました
中国攻め本部基地姫路城とは知らんかった。
中国大返し実行の際、ドラマや伝承では、「姫路城の兵糧持ち出せ。兵士たちに分け与えよ。」(秀吉)。「殿、それではこの姫路城での籠城戦は出来ませぬぞ。」(官兵衛)。「誰が籠城戦と言った?この戦、一刻も早く京に上り、逆賊(光秀)を討つのじゃ!」と姫路城の記載のあるものが多いです。
水攻めの重要ポイントが解説されてないんじゃないか?水攻めは単に城を孤立させるだけじゃない。城の一階部分を水没させることに重要な意味がある。当たり前なことだが当時はガスコンロなんてないから竈は一階に作るしかないに決まってる。二階以上に竈がある城なんてない。つまり、竈がある一階を水没させてしまえば煮炊きができなくなるからいくら兵糧が十分にあったとしても竈が水没しては生で食べる他なくなる。消化が悪くなる上に加熱殺菌できなくなるから疫病の蔓延リスクが高まる。これでは戦争継続は不可能。
内容よりお嬢様感あふれるゆっくり魔理沙の違和感がヤヴァい
こんにちは
清水宗治の死にざまは涙物だが何故毛利家は秀吉の堤防建築をボケ―っと見ていたのか?
毛利輝元、関ヶ原でもボケーとしてたし、そう言う殿様なんじゃない?
風見鶏
ボケーと見てた訳じゃなく布陣が完璧で無理に攻めたら各個撃破される状態だったんだよもし無理強いして攻めるなら吉川元春率いる1万の兵が消滅するの確実だったくらい、攻めたら袋叩きされる状態だった助けたくも助けることが不能だったしかも毛利は総力戦だったが、織田は1方面軍で、後詰めもやってくる予定だったし
ボケッと弁当食ってる間に関ヶ原で負けた家ですよ。
@@戸田賢司 それな
松島の地名が気になって調べたけど、うちの大学って松島城の跡地に建ってるんだ🥲お化けでそう
水攻めって一から堤防作って水は天気頼みだったのね…歴史全然興味なかったから知らんかった
まあ、梅雨に雨が降らないなんて事は、たまにしかないので。
大きくて重い船が浮かべられるくらい高松城が水没しているのなら、私なら大筒を搭載した船を浮かべて高松城を砲撃したいですね。
実際に地図で説明されると本当にこんな堤防作ったのか疑問に感じてしまう。例えば土砂はどこから運んだのか?とか、そもそも川は堤防の西側にあるのだから、毛利が西側を占領して堤防を破壊すれば終わる話では?とかちょっと現実味が無い気がする。
地形・気象・統計などなどから察するに。。。可能かもしれんけど、相当な博打のような戦術のよーにも見える。個人的には「やってみて、成功すれば、儲けもの。ダメなら、他の手を考えよか」そんな程度のような気がする。
今年も日本中あちこちで町が豪雨で浸水しました。高松城も自然災害でしょう。堤防を築いたうんぬんは毛利方にプレッシャーをかけるパフォーマンスだったのでは。
自然に水没する場所に城を作っていた毛利側はアホだと言いたいわけですね分かります。
(´・ω・`)もっと小規模なやつを紹介してほしかった。この話はいくらなんでも無理があるからなあ
殿様の最大の責任は「自らの命と引き換えにしても家臣と領民を守ること。」だと思う。だから家臣や領民は従ってくれる。
清水宗治は立派にその責任を果たしたと思う。だから今でも毎年命日に地元で慰霊祭が営まれているのだろう。
個人的には惜しいと思う人材なので、できることなら生き延びて欲しかった…
ただその一方で秀吉軍に土嚢を売った農民が多数いた事は、戦国時代に生きていたの人の逞しさを感じる。
毛利の1番の難敵は実は宇喜多だったと自分は思っています。
今の広島、山口、島根、鳥取は毛利が収められましたが、
岡山(特に備前美作)は常に宇喜多の領土でした。
宇喜多が毛利についていた頃は良かったですが、織田方についてから毛利は岡山攻めにかなり苦労しています。
結局戦国末期には岡山は宇喜多、その他は毛利という領土区分になっているので、宇喜多は毛利の最大の難敵だったのだと思います。
孫子の古来より「地形に合わせて戦う」のが基本だったが・・・
「地形を変えれば良いじゃん」っていう柔軟な発想
秀吉撤退後の追撃はたとえ試みても
堤防を切られることで今度は城の
反対側が水没して進めなくなるので
さすがにそれぐらいの備え&見抜きは
双方していたと思います。
18:15 講和を守ったというより毛利軍はこれ以上戦える状態になく、当然追撃も不可能でした。その理由のひとつがこの戦いと平行して秀吉は来島村上家を凋落し制海権も握っていたことです。これにより毛利軍は兵站がなくなり、講和時点では兵糧が尽きていたようです。つまり、秀吉はこの時点で毛利をいつでも滅ぼせる状態であり、信長を迎える準備万端の状態だったのです。本能寺の変がなければ、毛利家は3ヶ月前の武田家と同じ運命をたどっていた可能性が高いと思います。
助命より忠義と名誉を取った清水宗治は武士の鑑。
蜂須賀正勝の子孫です。
水攻めの立案はうちの先祖の正勝さんとのこと。先祖代々そう聞かされてます。木曽川沿いで水運に従事してた我が先祖ありきだと自負してます。
明治天皇にも、「我が家の先祖は水運業者です」と言うべきだったな。まあ、実際にくすねた時に言っても言い訳にしか聞こえないが。
血筋としての蜂須賀氏は断絶してなかったかな?と思いましたが
分家は結構あるみたいですね。
@@-shinanoechi-5718
家老の家とか、半分ぐらいは殿様の分家だからな。
ええなー😢
うちの先祖は美作で豊臣宇喜多連合にやられたわ😂岡山の浮田って苗字を見ると親父がいつも怒ってたわ
釈由美子さんは蜂須賀氏の子孫、つまり吉川晃司さんの先祖と戦っていた事に!
中国大返しも備前と播州の境は凄い急峻な山道なので、持っていた多くの船で相生港とかに兵を運んだのでしょうね。
以前から織田方は要所所(宿場町に)に兵糧・武器、弾薬を保管してた!それを有効活用した羽柴軍
高松城の低湿地が標高5m前後、高松城の本丸部分は標高7mあるので、高松城の低湿地よりも低い土地にある蛙が鼻の堤防は決壊しないよう標高10m程度の高さには盛られたのでは無いでしょうかね。
足首が水に浸かる程度でも十分な効果があるのでしょうが、大雨により水位が堤防を超えたり決壊してしまっては元も子も無いので。
清水家は僕の親戚で、清水宗治の辞世の句「浮世をば、今こそ渡れ、武士の、名を高松の、苔に残して」はカッコよくてずっと覚えてる。あまり知ってる人いないけど💦
小舟で唯一切腹した武将でもあります!
清水宗治は私のご先祖に当たります
私の先祖も高松城で宗治と籠城していました。
宗治の辞世の句「浮世をば・・・」は実際には兄の清水月清の句で、宗治が残した句は、
「世の中の 惜しまるる時 散りてこそ 花も花なれ 色も有りけれ」
です。
明治時代、天皇にこの清水宗治・月清の辞世の句を教えた際、ミスでそれぞれを反対で教えてしまいました。
ですが「一度天皇に教えたことを今更訂正することは出来ない」といい、今現在まで訂正されることなく、二人の句は反対になってしまっているんです。
自分も清水宗治が大好きでこの事実を知った時驚きました笑。大好きな人物だし、その人に縁がある方達なら知ってほしいと思いコメントしました。
長文失礼しました🙇♂️。
@@遭難のプロ-b8s
それは知りませんでした!
ネットで調べても出てこなかったのですがどこかの資料館などにあった情報ですか…?
かっこいいですね
ちなみに僕は豊臣秀吉の子孫です
@@たけのこ-o7qまじで?💧
羽柴方はこの土手を作る時に農民から土を買い上げていました、軍師官兵衛の助言により、この時は宇喜多は羽柴方についており、毛利は迂闊に動けなかった。清水宗春が切腹後は毛利両川家は次第に綻び始めた。吉川と小早川の対立する
戦国大名や戦国武将を取り扱った作品は多々あり、作者によって良い扱いにも悪い扱いにもされてる。
農民から天下人となった日本最大の成り上がりと描写される一方、主家に牙をむき秀次や駒姫を理不尽な死に追いやる畜生にも描写されてる秀吉が良い例である。
だが、清水宗治だけはどの作品も見事な扱いに描写されてるな。
幼少期、近くに住んでたことあるけど
干拓済みの今と違って、海や足守川以外にも船が出せるようなそこそこ大きな川が割とすぐ近くまであったらしい
岡山市の庭瀬の瀬とか、倉敷市の地名で島とか海関連の名がつく場所が多いのはその名残で
中国大返しも海ルートなら今の地形より遥かに現実的と習った
秀吉の中国攻めは兵糧攻めに水攻めというエグい作戦のオンパレード。
兵糧攻めも水攻めも敵味方の被害を最小限に抑える戦術なのにエグいってw
秀吉軍の兵からすりゃ死ななくていい平和な作戦だがね。
それに相手が降伏すれば民衆も死なずに済むわけで。
相手が粘る程に民衆が苦しむのでさっさと降伏してくれって民衆は結構いたと思うよ。
其れは敵側の考え味方を傷つけない戦い。
水没させた実際の水位は15~20cm位だったと聞いています。ただこれで座ることも寝ることも出来ないので水責めとしては充分効果的だったそうですね。
一階部分が水没すれば十分だからな。
一階が水没すれば当然井戸も水没するわけで、水がないと人間は生きていけない。雨水を集めて使う以外になく、これはきつい。
秀吉の中国攻めは包囲して兵糧攻めしたり、大規模な堤防を築いて水攻めしたりで兵は減らないけどめちゃくちゃ金の掛かる戦い方なんだよなぁ~(^_^;
しかも秀吉だけじゃなくて他の方面に万単位の軍団派遣出来る織田家の財力よ!
しかもその分、農民からの年貢が高かったかというと逆に安かった。取れ高のわずか1/3。これは恐らく当時、日本で最も安かった部類だろう。農民以外、どこから金を調達したかというと、関所廃止、楽市楽座により、経済が発展してそこからの税収が増えたこと、堺などの商業都市に要求した矢銭などによるものだろう。すなわち、既得権益があった寺社などから既得権益を奪い、その分の金が信長や大衆に流れたと言うことかな。
軍師官兵衛で清水宗治を演じた宇梶さんがめちゃカッコよかった!
秀吉軍の土木能力と機動力を最大限に発揮されるところですね
投稿者さんは定説あるいは一次資料に基づくか二次資料であれば注釈をいれた上で話してくださっているので、
コメント欄で三次資料や口伝、新説をさも事実かのように『勘違いしている。』と断ずるより、『こういう考え方もありますよ、最近はこういった説が主流になりつつあります。』と伝えたほうが建設的だと思います。
夏に行った岡山城に備中高松城の布陣図があったけどエグかった
毛利軍は救援のために堤下流を急いで切る必要があったけど、それはつまり包囲網の真ん中に入って武器鎧を外して土木工事しなきゃならない
秀吉軍にいい場所を取られて堤防を作られた時点で、毛利は負け確なんだよな。
6:40この好条件が逆に宗治さんに疑念を抱かせたという話を聞いたことあります('ω')
「降伏すれば2国を与えるだと?そんなうまい話しがあるか!」
な感じで('ω')
水攻めのメリットは、敵の援軍が来て戦うときに、城の兵が出てくる恐れがないことだな。
布陣を見ても見事と言う他ない、鳥取からの戦略をここに結実させた秀吉はやっぱりとんでもない将器だと思う
同年の二月に毛利と宇喜多が戦った八浜合戦で宇喜多春家、基家が戦死して大敗
後詰めで秀吉が宇喜多の救援に来たのがきっかけと言う話は殆ど語られる事が無い
何が悲惨かって秀吉が軍を返さないといかん立場になったのにそれを知らずに軍門に降った事だよなあ
毛利家は元就の代は付いていくべきだと思うけど、輝元の代は決断力がないから厳しいね。
この城攻めには、秀吉の水攻めに対し、城主清水宗治の名将ぶりも強く語られるのが常。あと、中国大返しは実行に際し、毛利方に信長討たれるの報が入った際、小早川は追撃しないという決断、おそらく秀吉のスピードはそれに叶わなかったという説もあり、また安国寺も秀吉に対し好意的だった。
でも結局毛利も秀吉にしたがってるから清水宗治気の毒やろ
長い堤防じゃ無くても、最低限度の数ヶ所に堤防築くだけで、水責め出来たはず。少しの労力でOK。
元々川より低い位置に城があるなら、大した堤防なんて要らないからな。
毛利家は元就が凄すぎるんよな
それに比べて輝元は(名前がかっこいいだけ)
@@remonremonremon
輝元も最近は内政面で評価されてるから…
祖父や父世代が凄いから霞んでるけど
@@どんど-u8m あ、そうなんだ
やーっと毛利とまともに相対できた戦いでもあり、もたつきすぎたし別所との付き合い等失策もあったから秀吉も一歩間違えたら佐久間信盛になりかけたから必死で、兵糧攻めとか水攻めとかまだるっこしい攻め方&信長から「あいつは信用できないから調略するな」と禁じられてた宇喜多直家の調略をやったりもうなりふり構ってない焦りという見方もできなくはない…?
光秀なんか丹波を征服するだけで3年ぐらい掛かってるが。
@@戸田賢司あんなど田舎の山岳地帯の山城に籠城されると、力攻めも厳しいし、兵糧攻めしよにも攻める側の兵站も厳しいかと。あと本願寺や松永の戦の救援にもしていた。
言うて毛利はこの時点で日本に残ってる数少ない大大名だからまだ正面決戦する時期では無いですね
本願寺と和睦するまでは予備兵力がなかったし、三木城なんてトゲもあるし。信長が秀吉軍だけで毛利と全面戦争出来ると思ってる無能ならとっくに死んでるんだよ。
本当かどうかは分からないが、秀吉の中国大返しの時に毛利方は秀吉に毛利の軍旗を送ったという話を聞いたことがある
ありそうでなかった堤防を破壊する好機
清水宗治が織田家にくだってたら本能寺の変が無かった可能性もあるのか
北野武さんの「首」という映画を観た直後だったのでとても勉強になりました
中国攻め本部基地姫路城とは知らんかった。
中国大返し実行の際、ドラマや伝承では、「姫路城の兵糧持ち出せ。兵士たちに分け与えよ。」(秀吉)。「殿、それではこの姫路城での籠城戦は出来ませぬぞ。」(官兵衛)。「誰が籠城戦と言った?この戦、一刻も早く京に上り、逆賊(光秀)を討つのじゃ!」と姫路城の記載のあるものが多いです。
水攻めの重要ポイントが解説されてないんじゃないか?
水攻めは単に城を孤立させるだけじゃない。城の一階部分を水没させることに重要な意味がある。当たり前なことだが当時はガスコンロなんてないから竈は一階に作るしかないに決まってる。二階以上に竈がある城なんてない。つまり、竈がある一階を水没させてしまえば煮炊きができなくなるからいくら兵糧が十分にあったとしても竈が水没しては生で食べる他なくなる。消化が悪くなる上に加熱殺菌できなくなるから疫病の蔓延リスクが高まる。これでは戦争継続は不可能。
内容よりお嬢様感あふれるゆっくり魔理沙の違和感がヤヴァい
こんにちは
清水宗治の死にざまは涙物だが何故毛利家は秀吉の堤防建築をボケ―っと見ていたのか?
毛利輝元、関ヶ原でもボケーとしてたし、そう言う殿様なんじゃない?
風見鶏
ボケーと見てた訳じゃなく
布陣が完璧で無理に攻めたら各個撃破される状態だったんだよ
もし無理強いして攻めるなら吉川元春率いる1万の兵が消滅するの確実だったくらい、攻めたら袋叩きされる状態だった
助けたくも助けることが不能だった
しかも毛利は総力戦だったが、織田は1方面軍で、後詰めもやってくる予定だったし
ボケッと弁当食ってる間に関ヶ原で負けた家ですよ。
@@戸田賢司 それな
松島の地名が気になって調べたけど、うちの大学って松島城の跡地に建ってるんだ🥲
お化けでそう
水攻めって一から堤防作って水は天気頼みだったのね…歴史全然興味なかったから知らんかった
まあ、梅雨に雨が降らないなんて事は、たまにしかないので。
大きくて重い船が浮かべられるくらい高松城が水没しているのなら、私なら大筒を搭載した船を浮かべて高松城を砲撃したいですね。
実際に地図で説明されると本当にこんな堤防作ったのか疑問に感じてしまう。
例えば土砂はどこから運んだのか?とか、そもそも川は堤防の西側にあるのだから、
毛利が西側を占領して堤防を破壊すれば終わる話では?とかちょっと現実味が無い気がする。
地形・気象・統計などなどから察するに。。。
可能かもしれんけど、相当な博打のような戦術のよーにも見える。
個人的には「やってみて、成功すれば、儲けもの。ダメなら、他の手を考えよか」そんな程度のような気がする。
今年も日本中あちこちで町が豪雨で浸水しました。高松城も自然災害でしょう。堤防を築いたうんぬんは毛利方にプレッシャーをかけるパフォーマンスだったのでは。
自然に水没する場所に城を作っていた毛利側はアホだと言いたいわけですね分かります。
(´・ω・`)もっと小規模なやつを紹介してほしかった。この話はいくらなんでも無理があるからなあ