武士の忠告を無視した素人の決断で全てが崩壊した戦い|保元の乱
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- Опубліковано 30 лис 2023
- 保元の乱について解説します。
■参考資料
源平合戦への序章「保元の乱」を源平マニアが5分でわかりやすく解説!
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「保元の乱(1156年)」武士が活躍!朝廷内の混乱が軍事衝突へ
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保元の乱
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武士
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武家政権
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武士の興り 〜もののふ第0世代、爆誕!〜【COTEN RADIO #186】
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院政
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北面武士
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平家にあらずんば人にあらず!皇位継承権をめぐる平氏と天皇家の綱渡りなカンケイ【COTEN RADIO #280】
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頼長は決して無能な人物では無かったし寧ろ辣腕寄りなのだがなまじ才覚を持っていたが故にその道に長けた人間の提案を容れられなかったのが運の尽きだったのだろうな。
自分は戦の素人なのに専門家の意見を受け入れない思い上がり器の小ささが敗因。
前九年、後三年の役に続く武士が台頭するきっかけとなった戦。
知ってるようで割と知らない。何故かあまりクローズアップされないので、詳しく知れてよかった。
清和源氏八幡太郎義家の話ですね。
源頼朝は嫡流の子孫😊
滅ぼした奥州藤原氏が"世界遺産"に認定されたのはなぜでしょうか?
"鎌倉"は国宝だけですよね。
これは後の評価だと思いますがね。
藤原道長の時代から続いた藤原摂関家による摂関政治から院政へ
そして、保元の乱や平治の乱がきっかけで平氏政権から始まる武士の世へと流れていく・・・
まさにターニングポイントですね。
保元の乱はもっと取り上げられてもいいと思う。
動画をありがとうございます。どう武士が台頭してきたかは抽象的に習った気がしますが,こういう歴史だったと知って面白かったです。😀
日本史で度々起こる、現場のプロの意見を無視して素人が介入し全てが崩壊するパターンやな。
南朝の連中は年貢の中間搾取者たる武士層の存在を根本部分で否定していたので行政での武士発言権の伸長を拒絶していた
秀吉死後の豊臣政権末期では天下の纏め事は既に家康に握られていた事を認識していたので、下手に家康の命を危険に晒す攻勢具申をしてくる田舎武士に家名存続戦略のタクトは握らせたくはなかった
江戸幕末では薩摩長州の海外勢撃滅思想など子供の興奮に過ぎないと中央は認識していたから開国の手順の段階を研究していたに過ぎず後から薩長がそれを真似した
昭和に至っては参謀本部という現場の連中が滅茶苦茶な山賊経済圏伸長政策を独断専横して数年後には深淵なる世界から袋叩きに会い国の牙まで抜かれた
現場の具申とは瞬間的刹那的な優位を作るに留まった無責任野蛮な欲望に過ぎない
現代が正にこのような時代なのかもしれない…ですね。
ヒトラー 「せやな」
ヒトラーが、国防軍のモスクワ進行に口を出し、モスクワ攻撃が遅れたことを思い出した。
ただ門外漢の素人が口を出すって事は、その問題に対して自ら対処しようという意思。
つまり貴族でありながら武士と同じフィールドに降りている訳で。
一方で後白河側は戦に関しては完全に武士に丸投げしていた。
ある意味これは『血生臭い事は武士にやらせればいい』『自分が手を汚す事は無い』
という差別意識の表れでもある。
実際後白河がそういうスタンスだったから戦には勝てたが、問題はその後。
義朝に父の為義を処刑せよと命じたのは後白河。
いくら敵対し、敗れた側とはいえ、子に父を殺せなどと非情な事を命じたのは
武士など虫ケラ同然としか見ていなかったという何よりの証拠だろう。
大河ドラマ、平清盛で観ましたけどこれで武士の力が強まった戦いでもありますけど、平氏も源氏も親族同士で戦う姿があまりにも残酷でしたね。
鳥羽にとって子供であるはずの崇徳は祖父の白河の子…
だから叔父子か…凄まじいな
現代でも崇徳上皇を題材にした小説は多い。
御霊神社に祀られるだけのことはある凄まじい怨霊。
あ、やっぱり話に出てきた崇徳天皇って怨霊の崇徳上皇だったのね
学生時代は複雑すぎて諦めたところでした。対立構造が分かりやすかったです。平治の乱もお待ちしてます
藤原氏、権力を失っても藤原氏が滅んで無いから氏族として優秀。
司馬遼太郎の小説「義経」の一条長成の持論を思い起こすね
「武によって一時の権勢を誇るものはやがては武によって滅びる」
「人生は平凡なるがよい」
この時代に藤原が全国各地で政治や行政に山ほどいたため、区別するために「佐藤(左衛門尉の藤原)」などの苗字ができたらしいですね。
藤原氏そのものが、特に北家は栄え人数も増え過ぎて、同じ藤原氏ですら身分格差が広がり過ぎていて、多くが地方豪族化していたのが実態。
武家としても、源氏、平氏の影に隠れ、鎌倉時代以降は、藤原道長の頃の全盛期の面影は無くなりますね。
優秀な人はやはり出ましたが、藤原氏だからではなく、本人の実力。
4:42 他の方も指摘していますが、崇徳と後白河の母親は共に藤原璋子です。崇徳が白河院の息子だったとしても後白河とは少なくとも血を分けた兄弟なのです。
崇徳は白河との子だけど、その弟の後白河は間違いなく鳥羽との間に生まれたからね。
その頃には鳥羽の寵愛は近衛の母の方に移ってはいたけど、近衛は子を為す前に早逝、
それで鳥羽はやむなく、妻はアレだけど自分の血を引いた息子の後白河を選んだと。
「保元の乱」というと、その戦後処理で、源氏側は平氏側より多くの人間を処罰したため、その後の源氏と平氏の力関係に変化が生じ、平治の乱を経て平氏一強の時代になった上、さらに後の源氏直系断絶につながったという話を何かで見た事があります。
考えてみれば後年の関ヶ原の戦いと同じく、どちらが勝っても「家」が残るように分かれたとも言えるかも。
真田家のこと?
実際には現実的に家を構えていたか
どうかで判断されますね
例えば沼田真田家と上田真田家
この二つには数日徒歩でかかる距離があり全くの別家です。もし一家を簡単に割れるなら関ヶ原で滅びる家は無かった筈です。
平家の側にはそういう打算のようなものもあったかもだけど、源氏はどうかね…?
源氏は為義始めその子達は総じて崇徳に付き、後白河側に付いたのは義朝一人だけ。
もしお家の命脈を保つためならここまで極端に偏った分裂はしないだろう。
そもそも源氏が分裂したのは為義が義朝と不和だった事が最大の要因だったし。
平治の乱に比べると人間関係が複雑だがほんの些細なことから藤原摂関政治が崩壊したことが解かります。
弱肉強食合従連衡
後白河天皇は崇徳上皇の同母弟だった記憶がある。
正解です
崇徳上皇側が勝利していた場合歴史はどうなっていたのかが以前から気になる。
いわゆる「歴史のif」でもあまり考察されていないので。
史実では一度も実権を握ったことが無い崇徳上皇の為政者としての手腕はどのくらいだったのか。
源為義に清盛ほどの政治力が在ったとは思えないから、すぐに武家社会には移行できなかったかもですが、武士の力によって事態を収束した事実に変わりはないので、遅かれ早かれ武士がどんどん力を持っていったんじゃないでしょうか。
ただ、清盛が行った朝廷から高い官位を受け取って、朝廷の実権を握る武家政権なら他の武士でもある程度は出来たかもですが、頼朝のように朝廷と武士を完全に分離させての幕府という政治体制を作るに到れる人物が他に出てきたかと言われると、難しい課題だったかもですが・・・
IFを考える上で重要なのは、嵯峨天皇の御代からこの保元の乱まで300年ほど死刑制度がなかったことです。
死罪は後白河方の信西入道がこの乱を以て復活させました。つまり帝方が負けても、清盛、義朝はまるまる生き残る可能性があったということです。
『台記』にあるように、悪左府頼長は国益を第一に考える人間だったため、敗者方である清盛、義朝が生き残る可能性は十分にあると考えられます。
その後は重仁親王vs二条天皇ですが、順当に重仁親王が帝になり、崇徳院が院政を敷きます。
もう一つ重要なのは、後白河と比べるとどんな院、帝でも名君になってしまうことです。
「文にも非ず武にもなし、芸もなく能もなし(byパパ)」「和漢の間比類なき闇主(by近臣信西)」「日本一の大天狗(by頼朝)」
安元―寿永の後白河院の動向を見てるとアホ・クズとしかいいようがありません。
尤も、封建体制が古代から中世へのパラダイムシフトだとするのであれば、後白河は紛れもなく時代を加速させた御仁です。
少なくとも文、芸、能にあって、故事にも明るい崇徳院が治天の君となっていればいわゆる平安時代が延長され、封建制への移行は100年以上先になっていたと思います。
昨今の一部の研究で封建制度への移行のターニングポイントとなっていたのでは?といわれることもある平治の乱ですが、
これは保元の乱が崇徳院方の勝利で終われば絶対に起きなかった戦です。
よって平安末期のグダグダな院政期が続き、東国国家論、権門体制論論争などが起こる余地はありません。
次の本朝史のターニングポイントは元寇です。
院政期が続けば、北条時宗の様な若き武門の宰相は現れず、日本は高麗の様にシナ大陸にあった王朝の餌食になっていたことでしょう。
元寇は、刀伊の入寇の様に地方の一武人でなんとかなるものではありません。
結論
保元の乱で崇徳院側が勝っていれば、日本が消滅している可能性がある。
長文大変失礼しました。
崇徳上皇と鳥羽法皇との関係は小学生の歴ヲタにはなんでこんなに嫌うのか理解に苦しんだが
大人になって親子じゃないと言うことで全て上手く納得出来た
清盛後白河法皇を含めた3人は白河法皇のご落胤説を当てはめれば全て納得出来るのよね
御落胤説も平家物語などにもあるので、信憑性は仕方ないにしても、嫌でも有名ですからね。
日本の場合、トップをお飾りにしてしまう
天皇をお飾りに
太政大臣をおがざりにし
公家をお飾りにし
将軍をお飾りにし
執権をお飾りにし
そうして 責任者が誰なのか分からなくなる
最後はトカゲの尻尾切り😅
のち湊川の戦いでも繰り返す
公家なんて、いつの時代も基本そんなもんかと。
無駄にプライドだけ高く相手を見下すけど、結局その見下している相手の力頼り。
考える事が一緒の場合、決断する上の判断が勝敗を分ける。
藤原氏の衰えもあるのでしょうね。
源義朝と為義の経緯が非常に興味があります。ぜひ動画を作ってほしいです。
馬謖「兵書通り高い山から攻め下るのが上策」
王平「何言ってんだコイツ。山が囲まれたら終わりなのに」
諸葛亮「俺の大業がああああああ」
大河ドラマの清盛なんかだと、清盛が主人公というのも影響してるでしょうけど、保元・平治の乱では特に公家たちの無能ぶりがかなり印象付けられてますね。藤原摂関家などの公家の没落は、武士の力が増した以上に、当人たちの無能ゆえの凋落に見えますね。
昔の天皇は、タネを撒き放題だけど近代はそうは行かないなくて
後継者確保は、難儀、
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
うーん、崇徳・頼長陣営に勝ち目があったかなぁ。
為朝らの進言を受け入れていたとしても勝ち目は無かったんじゃないか。
同感です。共に夜襲を提案し合っていたわけですから、夜襲を仕掛ける道中で遭遇して戦闘開始・・・しかし、最終的には数に勝る後白河陣営の勝利となっていたのではないでしょうか。為朝が強かったのは間違いないと思うのですが、さすがに保元物語の記載は誇張し過ぎでしょうし。
頼長は政治力は高かったが戦においては世間知らずだったな
卑怯な作戦を嫌って正々堂々と勝負しようとした、と言えば立派ではあったんでしょうけれど、これから野蛮人が台頭してゆく時代にはそぐわなかったわけですね……。
一生懸命武士の時代自力救済しかない
立派というか、劣勢な立場&プロの意見という、採用するしか道がなさそうなのに選ばない辺り、ただ単に現実が見えてなかっただけかと・・・
@@user-ep5qg8og3xそうですね。プロの意見を採用して一般人の多く住む街にアメリカ大統領が原爆投下を指示したのは素晴らしい判断で、アメリカ人がその判断を賛美する理由もわかります😂😂😂😂😂😂😂😂
ようするに現代に続く正義も何も存在しない末法の世が始まったのです
自分は世界史選択だけど英傑大戦のおかげで人物像は分かりやすく、理解しやすかった。
為朝は流石武力10なだけあるなぁ。
ちょっと本筋から離れるのですが、後白河法皇の後ろ楯だった美福門院が玉藻前のモデルになってる原因はどうしてなのでしょう?
中臣鎌足の息子藤原不比等の次男である房前(北家)が摂関家の祖。平安時代が最盛期ではあるが、第二次世界大戦時の首相近衛文麿は、五摂家筆頭の当主だった😮
今では、摂関家は単なる名家で表には全く姿を見せなくなったな。
東条英機は、戦犯として責任を取らされたけど、そもそも太平洋戦争に突入する羽目になったのは近衛文麿の外交政策の失敗が原因だから、あまりいい印象は無いな。本人は責任を取る事なく死んでしまうし。
@@satootto 地方自治体の首長をやってる佐竹や井伊のほうが今も実権がありますね。五摂家の人たちは名誉職ではあるがずいぶん格の高い上級国民をやってるから江戸時代と役割分担が同じで面白いw
ウィキペディアみたら誰でもわかることをいちいち書くなよ
でも、戊辰戦争の長州軍の指揮官は医者だからね。素人がやった時が上手く行く事もある。まあレアなケースだけどね。
大村益次郎は「医者なのに指揮官もできた」じゃなくて「医学も軍学も修めていたエリートなので医者も指揮官もできる」のほうなので……。
長州軍の指揮官ではなく、明治政府軍の指揮官。幕府彰義隊を1日で壊滅させたのは大村益次郎の才覚。最新兵器で数式に立て替えた戦術を使い精神論は無用。長州人にとって憎し薩摩兵を激戦が予想される黒門前に配置した。幕府彰義隊と当然大激戦になり多数の薩摩兵が戦死。西郷隆盛に薩摩兵を皆殺しにするつもりかと問われた大村。その通りですと回答したのは有名。
むしろ当時の武士は医学で例えれば
Γ医者の子供、末裔で
生物学を形式上学んで
顕微鏡が魂」
みたいな人たちで
臨床なんか任せられない
※すべて悪左府の責任です
7:24 日本史このパターン多すぎて草
足利義政、、
続きますよね?(強要
今の状況とよく似てますね。
為義はん気の毒やな。わしは勘弁やで(1333年 新田義貞)
味わい深い面白さ。乙
崇徳上皇は讃岐で没したのか🤔
まあ、戦力的には後白河側が圧倒してるから別に・・。
Big Mon IN に空耳するたびに 笑ってしまう
鳥羽上皇、ワザと調停してない説
実は、崇徳院は鳥羽院の御子ではなく白河院の御子
よろづにその道を知れる者はやんごとなきものなり (兼好法師)
瀬をはやみ 岩にせかるる滝川の
われても末に 逢わむとぞ思ふ
その道のプロの意見を無視して、お偉いさんが素人なのに無茶苦茶な指示を出して失敗する
震災の時の原発とか今の日本にも当てはまりすぎて、歴史から学ぶのはやっぱり大事だなと思ったり
菅直人かな?
でも戦術や戦略の天才だったナポレオンも結局はロシア遠征をしてとんでもない失敗をして紆余曲折あって孤島に隔離されるし
その道のプロが間違えないなんて幻想なのよ
むしろ専門家の方が自分の立証が間違っていた時、無理矢理正解にしようとしてくるから厄介
むしろ専門家の方が現実性のない夢物語を書いていてそれに民衆が惑わされているのが日本だよ
そうでないなら政治も省庁の仕事も専門家にやらせたら完璧な国になる
でもそんな国は存在しない、これが現実だ
暇空にカンパしてそうな人発見
問題はそういう素人はえてして歴史から学ばないということなんよ
まあそれの一番でっかい例が先の大戦なんだけどまあそれいうと妄想右翼があばれるからなあ
為朝の言う通り夜襲やってたら😢
島津義弘「よく分かるよ」
今の時代のせっかんは「摂関」ではなく
こっちの「折檻」ならわかる
保元物語は源氏寄りに描かれているので当てにならない。当時正四位下の平清盛と従五位下源義朝が同僚のようにされているが六階級も違うのだから清盛は司令官で義朝は前線の一将に過ぎない。だからこの戦いの後の論功行賞が清盛に厚かった。
貴族は自ら貴族が中心の世を捨ててしまった
貴族は貴族、武士は武士という形で、貴族が武力を持たなかったことが武士の世を呼び寄せた
もともと「兵(つはもの)」は貴族の下級官吏で有り、武士が在地領主から発展して貴族との対立勢力になったとの説は学術的にはとっくに破綻してますが…?
貴族の武力がもののふ(武士)だったのでは?武士と貴族が並び立つなんて、某隣国の両班制じゃ無いんだから日本では成立しなかったので🎉は?
下剋上油断大敵万人による万人の戦い⚔⚔ホッブズ
@@wayamato9226「リヴァイアサン」(笑) 権威主義の限界😢
@@Fireball-qq4gw ホッブズの論旨は突っ込み所満載ですよね?なんつ〜か地動説に対する天動説みたいな?
←後世の人間は何でも言えますけどね?www
色と欲と浅知恵で。いつの時代も、どこの国も、こういうのが上にいると非道い目に遭うのは庶民だね。仲良く分け合った試しなし。
生兵法は大怪我のもと
私見だが、戦前・戦中に軍部が専横したとされるのは、保元の乱における文官・藤原頼長の失策が原因ではなかろうか。
摂政は、関白とは比べ物にならないくらい偉いよ。院政は、臣下に摂政をさせない為に創られたんだ。これにより、藤原家は関白までとなったよ。でも、藤原氏は’摂関家’というネーミングを、圧力かけられながらも捨てなかった。まぁ、1日でも摂政したなら、摂政の家柄とする気持ちは、仕方ないと思うよ。後の世では、臣下が摂政になる事は、二度とありません。
崇徳上皇と後白河天皇は同母兄弟だろう
異父兄弟
白峯
源為朝「賢しいだけの貴族が何を言う!」藤原頼長「賢くて悪いか!」崇徳上皇、源為義、後白河天皇、平清盛、「悪いわ!」
崇徳天皇が哀れな話
後白河院こそ日本史上最大の人物
大河5回分ぐらい濃い人生を歩んだ
中世の巨人。日本人には扱えないから海外の巨匠が作品化して欲しい
非常に素晴らしい天皇であり
政治家であり統治者だった。
信長の縛りがなくなって日本国中荒れ放題〜信長は法律刑法だった〜⚔⚔⚔京都にいた宣教師ルイスフロイスの記録〜本能寺の変
鳥羽上皇は実子である崇徳天皇の治世に対する無能さを見抜いていたので崇徳天皇を権力から遠ざけていたのでは?
今の爺民党と一緒