石川岩男:伝説のレーサー達
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- Опубліковано 31 тра 2022
- 伝説のレーサー達。今回は「石川岩男」。
1977年ジュニア350ccクラスランキング2位。1978年エキスパートクラスに昇格し、同時に350ccクラスにヤマハTZ350を駆り全8戦優勝してチャンピオンに輝く。1979年は同クラス3位。1980年からは500ccクラスにステップアップし、1981年にスズキワークス入り。1983年から本格的なロードレース世界選手権参戦を開始するが、同年3月、フランスGPの練習走行中に不慮の事故に遭い他界した。
速さに加え、ウルトラマンを模したツナギを着用するなど、明るいキャラクターで多くのファンから愛されていた。WGPに参戦する時も「ちょっと新婚旅行に行ってくるわ」と新妻を携えてのコンチネンタルサーカス参戦であったが、3月29日、第2戦フランス・ル・マン・ブガッティサーキットの第2コーナーに減速して進入した石川のマシンに、後続のイタリア人ライダーロリス・レジアーニが超高速で追突、内臓破裂により帰らぬ人となった。彼の遺体は4月4日、1月19日に結婚したばかりの夫人と長年の名コンビであったメカニック周郷弘貴と共に帰国、6日に葬儀が行われた。
この時代は、日本人がワークス体制でコンチネンタル・サーカスとも呼ばれたWGPに出場できる環境になく、プライベーターとして参戦することもヨーロッパでの実績が無い日本人としては稀であり、そうした背景の中でスズキの市販レーサーRGB500に乗ってのフランスGPからの挑戦であった。
この年は“キング”ケニー・ロバーツと“若き天才”フレディ・スペンサーがWGP史上に残る激しいチャンピオン争いを繰り広げ、片山敬済がランキング5位となった年であった。 また、日本国内においてはホンダのエースであり、NR500の唯一の勝利を挙げた木山賢悟が事故死した年でもある。
-Wikipediaより-
ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%...
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■フレディ・スペンサー自叙伝「FEEL my Story」日本語版自叙伝
の書籍の紹介はこちら
www.atpress.ne.jp/news/291651
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■片山敬済さんの書籍『1980 WGP』ノンフィクション小説
▼ご購入はこちらから
'79年にHONDAと契約、だが "NR500" は出来上がらず悩みぬいたKATAYAMA。SUZUKIのRG500を購入して、再びプライベートチーム体制でWGPに参戦。当時のGPレース裏舞台の一部始終と揺れ動くライダー心理を描く。片山敬済渾身の処女作。
forms.gle/Z4w2w2yYhi82BqFD9
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■『RIDE? ~Hop on the Motorcycle~』って?
オートバイレースの元世界チャンピオン:片山敬済さんと一緒に配信する「バイクチャンネル」。
テーマは、安全に、楽しく、かっこよくバイクライフをおくるためのノウハウやテクニック、考え方や心構えなど。
いっこうにライディングスキルが上達しない、フツー・・・?のライダーの山ちゃんが、誰よりも速く世界中のサーキットを駆け抜けた世界のカタヤマに、バイクの基本的なライディングテクニックやマナー、そして、バイクライフをより豊かに楽しむ為のヒントやヒケツを聞いていきたいと思います。
初心者や中級ライダーは勿論、ベテランライダーの皆さんにとっても、役立つ情報を配信していきたいと思います。
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■片山敬済アイテムが買えるFacebookページ「Racing Brand "SEKITOBA"」
/ sekitoba
■片山敬済さんが代表を務める民間レベルの緊急災害対策チーム「BERT」のオフィシャルサイト
bert-japan.org/
■山ちゃんインスタグラム(yamabata_hideaki)
/ yamabata_hideaki
■山ちゃんが動画制作した作品集:UA-camチャンネル
/ hideakiyamabata
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#石川岩男 #伝説のレーサー #片山敬済 #バイク #オートバイ #テクニック #バイク動画 #バイクチャンネル #ライディングテクニック #世界チャンピオン - Авто та транспорт
石川岩夫を特集して頂いて
ありがとうございます☀️🙋♂️❗
私は今でも「石川岩夫レプリカヘルメット」を自作して使用しています
80年代の日本平にも石川岩男レプリカが一人いました!今も乗ってるかなー?
石川岩男さんが 世界GPに行く時 確かNHKが ドキュメントTVを放送されてました。家業の ダンボール工場を手伝い、スポンサー回り(挨拶)などされてました。 当時は、バイク雑誌しか情報が無い時代で 石川さんの 350㏄連戦・連勝・・世界GP挑戦は、『第2の片山敬済や!!』と、心躍らされました。 本当に残念でした。 今回もありがとうございました。
見てました!
初めてバイクに乗ったのは1986年!ちょうどのその頃映画プライドワンが公開され、それで石川岩男さんを知りました。
石川さんの話、ありがとうございます😢
リクエストした者です。お話ありがとうございました。生きていれば片山さんのアドバイスを聞いてGPで活躍できたことでしょう。本当に残念でなりません。
有り難うございます 亡きシリーズになっても 心温まるお話を有り難うございます
今回も有り難う御座います。
何度かリクエストしている
高井幾次郎さんの話も聞かせて下さい
石川岩男選手を語ってくださって、ありがとうございます。1982年の全日本第6戦鈴鹿、パドックのレストランで遠目ではありましたが、
石川選手が当時スズキワークス三羽烏だった水谷選手・河崎選手と談笑しているのを見かけました。屈託なく笑う姿に、ああ、この人は
本当に評判通りの良い人なんだなあと思えました。あの時の笑顔は今も目に焼き付いています。
世界GP 挑戦も応援する気満々でしたから、訃報を聞いた時は本当にショックでした。
高校時代の私のヒーローで、大好きなライダーでした。今でも本も持ってます。
懐かしい人ですね。
フランクな良い人でした。
1980年あたりの東京モーターサイクルショーでサインを頂きました(泣)
大好きなライダーのお一人でした。さあこれから!という時に事故で亡くなられましたね。ユーモアがあって、ガッツがあって。思い出して涙が出てきました。
なつかしい!! 大好きでした。竜洋テストコースでの試乗会で著書にサインもらいました。ヘルメット自作レプリカにしてかぶってました。当時TVでレースのダイジェスト番組みたいなの(うろ覚え)で水谷勝選手とのやり取りが漫才のようで面白かった記憶があります。
片山さん、石川岩男の巻?ありがとうございます。来春で、亡くなって40年になっちゃうんだ。でも、多くの人々の心の中で生きているんだね。
片山敬済様ありがとうございます筑波サーキットで一緒にコース場に居たのが思い出します確か350ccの時ですかね楽しいかったです😃荒々しかったライダーでした大好きライダーの1人でした。やまちゃん伝説の1人選んでありがとう。髙井幾次郎様もお願いしますやまちゃん。
速いのは勿論、バイク雑誌でのユーモアある表情やコメントで読者に大人気でしたね。
亡くなったニュースを見たとき、こんな皆を明るくする人がと無情を感じました。
ライダーではないですが、名チューナーの柳沢雄造さんの話も聞きたいですね。
片山さんがNRで日本凱旋の時、鈴鹿で片山さんと岩男さん、小沼佳代子さんの3名でのサイン会でサインを頂いた記憶があります。
その後、私もレースを始めたのですが、その時5年落ちで手に入れた中古のTZ250はフレームの形状が少し違う? フレームNoを調べたところTZ350のフレームに250エンジンを積んだ中古販売された 所謂ニコイチ車で、しかも改造されたのは「トガシエンジニアリング!」そのマシンに乗っていたのが岩男さんだと知ったのは、新しいTZを購入した時でした
R/C誌がスポンサードして特集を組んでましたね。TOGASHI-ENG-Prj
ありがとうございます。
iwaoの特集、本当にありがとうございました。彼の葬式の時に悲し過ぎて寺で暴れていた時にアライヘルメットの社長に止められ、レースを悪者にするな!と言われ、立ち上げたのがアライレーシングスクールでした。ルマンに行く度にお祈りしとります。
テレ東の深夜番組モータースポーツダイジェストとの筑波で石川さんがマイクを持って水谷さんにインタビューした漫才みたいな掛け合いが忘れられません、バイク雑誌で石川さんの事故を知った時はショックでした。木山さんの名前が出ましたが、阿部さんも含めお話しが聞けたら嬉しいです。
石川さんのお話、ありがとうございました(涙)大好きなライダーでしたもので。
同じく 事故で亡くなってしまわれた ミッシェルルージュリーやパトリックポンスも語って頂ければ幸いです。
後に追突したライダーのバイクをテストした際に複雑な心境だった…
7:32「スズキの市販レーサーRGB500に乗ってのフランスGP〜。」
石川選手がスズキワークスを飛び出した経緯は感情のもつれもあり、決して円満退社では無かったそうですが、
「それでもせっかくWGP500に挑戦するのなら、少しでも良い状態で走らせてやりたかった。」
との親心から、当時のスズキの責任者の横内悦夫氏は最終的に石川選手にワークスマシンのRGΓ500一台分以上に相当するパーツを無償で供与したそうです。
もしも83年のシーズンを無事戦い抜いて良い成績を残せたらと思うと、無念でなりません。
幾次郎さんのお話もお聞かせ頂ければ。
82年当時高校生だった自分にとって石川岩男さんがライダースクラブに寄稿した世界GP参戦記は、心の底からワクワクさせる内容で自分もこんな存在になりたい、いつか会ってみたいと心躍らせたものです。翌春突然の訃報を聞いた時はあまりの喪失感にクラスメート達から心配されるほど塞ぎ込みました。その後彼のデザインを模したヘルメットを被り峠やサーキットに走りに行き、今もバイクに乗り続けています。片山さんが語っておられたように記録以上に心に残るライダー、それが彼なのだと思います。
石川岩男さんは、確か1982年2&4の後の新幹線ホームで独りでいるのをお見かけして、私自身ファンだったのでお声がけしたかったのですが、その姿があまりにお辛そうだった為に遠くから眺めるに留めました。その年は確かシルバーストーンを走られたのかな?翌年のご活躍を期待していたのですが…本当に惜しい方を亡くしてしまいましたね…。
今から40年前に発売された初期型GSX400FSインパルスのカタログの裏表紙に「IWAO」の文字が書かれたサインボードが写っています
開発ライダーの木山さんとNRの事もお願いします
石川岩男さんについては、門田和之氏の「グランプリは彼方〜レーシングライダー石川岩男の軌跡〜」をおすすめします。
石川さんの訃報が掲載されたR/C誌1983年5月号?には片山さんの追悼文が寄せられていました。
ロリス・レジアーニといえば、若井伸之さんがへレスで事故死したきっかけも、
彼が招待した人物でした
しかも若井さんがその時に乗ってたのは、スズキのマシン
山ちゃんたじたじでしたね☺️
しかし、改めて思ったのは
ここに居るのは、あの、片山高済さんなんだなぁ、と。
レーサーの資質は現役を引退したからといって、決して失せる事はない❗しみじみと噛み締めて観させて頂きました。
山ちゃんいつもありがとうございます🙏
今日も頑張れそうです‼️😎
開発ライダーとしてシャケさんと同じ位評価が高い、阿部孝夫さんとのお話があればお聞きしたいのですが……
当時お葬式に参列させてもらいました。
(会社関連で)その時に頂いた白黒の写真は今でも大切に保管してあります。
若井さんの死亡事故の原因もレッジアーニの関係者だった、レッジアーニ自身は誠実で良い男だが、日本人との相性が悪いと思う。
懐かしいです。
私はSUGOでの全日本で 1位高井幾次郎 2位木下恵司 3位石川岩男 のレースを拝見し、表彰台後に3方に握手までして頂きました。
大切な思い出です。
周郷メカは片山さんの引退後はチーム竹島で高田孝慈さんのメカも務められてました
石川岩男さんは月刊オートバイの企画なんかにも参加されてた記憶があります
RIDERS CLUBのA LETTER FROM ISHIKAWA IWAOの連載を楽しみにしていたんですが
とても残念でした
11分頃からの左の写真、トップで1コーナーに入る石川選手と右後方にNR500で走る片山選手が写っていますね。
81年の鈴鹿の開幕戦(2&4?)でしょうか?
すごい、指摘・・・・ 石川さん 本当に 皆に愛されてますね。。。 (涙)
早く行くぞて何ですかそりゃw
RTKの250マシンSEKITOBAに付いてもお話しいただけないでしょうか?
まだ若かったし、いずれは片山さんに続く年間チャンピオンになる日本人選手だと思ってました。
新聞の「石川岩男、ル・マンに死す」という記事を見て、呆然と立ち尽くしたのを思い出します😭
軽量級のスペシャリスト江崎正さんも機会があればやって下さい。
当時、西の片山、東の荘と言われいたことがあると思いますが、実際に同じレースを戦った記憶がないのですがどうなんでしょう。
『伝説のライダー』と言われて、真っ先に思い浮かべる日本人ライダーならば、高井幾次郎さんを思い出します。
並列4気筒では限界を感じ、ライバル(スズキ)と同様にスクエア4にするも、いよいよ本気を出してきた新たなライバル(ホンダ)に対抗するためV4のエンジン開発に切り替える。
以後、『YZR500』という名前が無くなるまで、ヤマハはV4エンジンを搭載していたが、そのV4エンジンの開発ライダーであり、その開発中にヤマハのテストコースでもある菅生サーキットで亡くなるという、ヤマハの歴史上欠くことのできない人物。
何と言っても、私のように背の低いライダーが、500ccという4輪で言えばF1を操って、『リトル・ジャイアント』と呼ばれていた事に、親近感を感じます。
亡くなった年は片山さんがWGP500ccで初優勝を挙げた頃なので、片山さんとの直接対決は無かったでしょうが、70年代の金谷秀夫さんのように渡欧して戦っている姿を見たかったです。
V4YZRの初号機は余りにも危険過ぎましたね、高井さんの命が奪われケニーとバリーも大怪我、バリーは過去の古傷もありましたので翌年スズキに戻るも引退は避けられませんでした。鈴鹿GPが台風に見舞われずに開催されてたら木下さん辺りも危なかったでしょうね。
当時、普段使いのスクーターにでも、との思いから原付免許にトライしていた身長160㎝のワタシにとって、似たような短躯で2輪GPの晴舞台に君臨する姿にどれ程元気付けられたことだったろう。夜な夜なミッション付きのお稽古に繰り出し、帰宅した5/13その朝の朝刊から受けた衝撃は今も忘れない。
石川“岩男ちゃん”もまたΓの新規開発に身を徹し、高井さん亡き後のその年のタイトルをRGBで獲得した水谷選手の陰で世界を選択した。皆んながそれぞれ己が領分で力を尽くしたサーキット、なのに
ほぼ一年の時を隔てて鬼籍に入ったのは如何なる神の悪戯だったことか?サムネの写真が胸に迫る。
高井さんとこの旧店舗に顔を出すようになってからは、ヒヨっ子の私でも妙にマスコット扱いに与り色々な機会に恵まれた。店舗の並びのお好み焼屋は今も有る。旨かったなあ!爾来40年。リッターバイクに乗ることになるとは、よもや思いもしなかった。
追記:物故者の名前さえ取り違えるインタビュアーには厳に抗議する。木山賢吾氏も木下恵司氏も区別が付かんとは思うが、バイク乗りとしてのみならず、MCとしても軽すぎらぁ。
私らなら片山敬済氏に対峙した日にゃあ直立不動の新兵さんになっちゃいそうなもんだが…
英語で読めんがや