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動画有難うございます。計呂地駅は駅舎も蒸機も客車も綺麗に保存して頂き、頭が下がります。かつて、網走で夜行の大雪5号(北見まで普通でC58が牽引してました)に乗り遅れても、その後に出る湧網線最終で中湧別まで行き、そのまま名寄線から遠軽で追い着くことができました。今はもうそういうこともできないですね。北海道の廃線跡動画、いつも懐かしく、楽しく哀しく拝見させて頂いております。これからもご自愛されてご活躍ください。
ありがとうございます👍
20分間のタイムトリップさせていただきました。素晴らしい記録です。
ありがとうございます!
ひろりんさんへ1月8日の19時台に、全編を拝見しました。冒頭に佐呂間に保存されているD51型蒸気機関車の運転室を撮られた写真に寄る(ズームイン)という動の面に航空とあなたが撮られた佐呂間から中湧別までの跡の写真を今昔を比べて見せられる静の面が絶妙に合わさり今回もメリハリが利いた構成で心から楽しませて頂きました。床丹駅の床丹はアイヌ語(トゥ・コタン→無くなった・村、ト・コタン→沼・村の意味ですが定かでないそう)に由来し跡の一帯は文字通り廃屋や廃車のバス等が目立ち宗谷本線の雄信内の様なゴーストタウンの印象を受けました。やはり、総じて考えると湧網線に11箇所有ったという仮乗降場は(冒頭にあなたが見せて下さった各駅の停車本数の一覧表からも)本数や待合室の有無等各々違っていたんだなと私は肯いた次第です。あなたが今回湧網線を扱われた際も現役時代のデータも参考として私達に見せて下さるという踏み込まれた手法も、私は褒めましょう。ひろりんさんも、感染症(今、コロナウイルスとインフルエンザが同時流行というツインデミックだそう)や健康管理にくれぐれも注意し過ごされますようお祈りします。
駅跡が保存されて市街地が残っている計呂地と、限界集落になっているような床丹との差が凄いですね。人口が流出する場所としない場所の差は色々な要因があるとは思いますが…道東の路線はほぼJR北が単独で維持は困難と表明しているので、中湧別のような状態に釧路や網走が陥らないことを祈るばかりですね 20年後はどうなっているやら
いつもありがとうございます!かつての駅前集落が消滅している床丹と、市街地が残っている芭露や計呂地の差が凄かったですね。道東の路線はどこも厳しそうですが、この先どうなるんでしょうね…
当初、3部作に分ける程だったけ?とも思いましたが、往時には気にも留めなかった零細な仮乗降場や駅も数多く、やはり長い路線だったんだなと改めて感じました…中湧別は去ることながら、計呂地はまた格別の雰囲気ですね…貴重な動画を配信頂き、ありがとうございました。
湧網線は90キロ程度の路線でしたが、仮乗降場が多かったんですよね。中湧別や計呂地のように駅跡を整備して残している所はいいですね。
確か計呂地駅は、列車交換で少々停車したので硬券入場券を買った覚えがあります。駅舎がどんな感じだったか全く覚えていませんが、この駅で動き回っていたのは、鉄道マニアだけだった気がします。列車はキハ22だったと思うので、旧型客車が静態保存されているのは多少違和感がありますが、雰囲気は良いですね。当時、全国でこういう客車に乗って貧乏旅行をしていましたので、もう一度現役に乗ってみたくなりました。
計呂地駅は交換設備があったので最後まで有人駅でしたね。この時期の廃線だと余剰になっていた旧客や車掌車が保存されている場合が多いですね。
「…」このリアクションが物悲しさを物語ってますね消えゆく鉄路と駅、寂れゆく町並みもなんとも言えないです
これが現実なんですよね…
涌網線シリーズ、ありがとうございました。かつて宮脇さんが、名寄線の涌網支線に乗られたシーン。車内から女の子に手を振り返した。あの情景も歴史の彼方でしょうか。 そして全て消えてしまい...
もう思い出の中にしか存在しませんね…
計呂地の駅員さんホタテのアクセサリー作って少しでも売り上げ努力してた映像ありましたね。それも虚しく廃線になってしまいました。でも駅が今でも現存していて良かったです。
私も子供の頃に計呂地駅の助役さんからホタテのアクセサリーをいただきました。計呂地の駅舎が残っているのは嬉しいですね。
昔釧網本線の北浜駅でやってたな〜
ホタテのアクセサリーと言えば宗谷岬近くの最北のガソリンスタンドでも貰えますねw
3部作、素晴らしい動画でした。二十数年前にこのエリアに住んでいましたが、さらに人口の減少をこの動画を通して感じました。
こういう行き止まり線でない路線は閉塞が自動ではなかったため、交換駅には駅長がおり有人駅でした。湧網線の現役時代の佐呂間駅や計呂地駅に勤務する国鉄職員の姿は、「木枯し紋次郎の役者」(政治ごっこが好きなだけの反国民政治屋のため名前は出しません)が司会の番組で今は故人の種村直樹元新聞記者さんが出演した回にも登場します。
ひろりんさんはじめまして…自分は北見市常呂町に住む住人です。ぶっちゃけ鉄道ファンではありませんが…ひろりんの番組(⁉️)のファンになり全て見させて頂きました。いよいよ湧網線が出て懐かしく見させて頂きました。一つ、お節介かもしれませんが…伝えさせて頂きたいのですが…何故佐呂間から内陸に鉄道が共立に向かっているのかと言うと…昔常呂町に鉄山と言う鉱山が有りまして、戦時中掘り起こしそれを輸送する目的で、共立に駅を持って来たらしいです。国策でルートが変更されたらしいと聞いた事が有ります。本当であれば海岸ぶちを通る計画だったらしいです。
はじめまして。常呂町にお住まいでしたか。そのような理由で内陸の共立に向かっていたんですね。情報ありがとうございます。
数年前、仁頃から常呂に抜ける道路を走っているとき「鉄山」というバス停を見かけました。アヤシイ!と思い家に帰って調べてみたところ、バス停の裏山で鉄鉱石の露天掘りをしていたとのこと。その鉄山から、当時の湧網東線の終点だった常呂駅まで「奥村鉄山専用軌道」という専用線が鉄鉱石の輸送をしていたそう。その後、湧網西線が佐呂間方面から延長されてくる際、北見共立~常呂間は、その鉄山専用鉄道の廃線跡を利用して敷設されたという事実を知り「へぇ」ボタン20回くらい押したくなりました。
北海道の廃線動画は、どれを見ても辛いですね。 今回も、ありがとうございました。
これが北海道の現実なんですよね…
湧網線跡は、解体された駅舎が、多いですが、機関車や、廃線跡が、残ってる、駅舎もあるのは、素晴らしいですね?公園に、整備された駅舎跡もあるのは、良かったです😃中湧別は、名寄本線も、廃止されたのは、オッフーです😅動画配信、お疲れ様でした!また期待してます😃
整備され保存された駅跡があるのは嬉しいですね。かつてのジャンクション中湧別駅は4方向全ての鉄路が無くなりました…
由加里 石井さんへお早うございます。1月9日の朝7時台に、あなたのコメントを噛み締める様に拝読し共感を覚えました。♪流れる季節に 君だけ足りないはぐれた心の 足跡(あしあと)を探すカバンにつめた 悲しい幸せ遠くへ行くほど 君を思い出す(中略)思い出の空に放そう さよなら(中略)何(なに)も変わらないと誓った日々が胸の奥に今もはなれない 輝いて(私も愛聴するGAOさんが作詞し歌われた名歌「サヨナラ」から引用) 私も昨夜この動画を見通して、最後に出て来た中湧別駅(の跡に跨線橋やホーム等が保存されていても)の往時がサヨナラの詞の「君」に当たる様な気がして引用した次第です。何せ中湧別駅は(東から時計回りに)湧網線・名寄本線〔遠軽方面〕・同じく〔名寄方面〕・同じく〔湧別支線〕の4つの方向に鉄路が延びていたターミナルでしたし、支線の終点の湧別は跡地に消防署が建つ等私も寂しさを覚え、況して何処でも不可避な過疎なら尚更募ります。石井さんも、感染症(コロナウイルスとインフルエンザが同時流行だそう)や健康管理に注意し過ごされますようお祈りします。
中湧別はこの地域の交通の要衝でしたね。それとともに、「ああ、中湧別の先の湧別支線って、湧網線じゃなくて名寄本線の支線だったな」と思い出しました。ただ、列車ダイヤは湧網線側へ向けての通し運用だったはずで、当時の時刻表でも湧網線と一緒に掲載されていた記憶があります。
湧別支線は湧網線と一体運用でしたね。
湧別支線は朝は高校生を中心に利用客が多かったのですが、夕方は中湧別に着いて湧別行きが出るまで1時間くらい時間が空いていたので、みんなバスに乗り換えていましたね。バス会社も中湧別から湧別までの片道専用の定期券を売っていたそうです。湧網線が廃止になって名寄線が廃止になるまでは短い期間でしたが湧別から出た列車が遠軽行きに連結されたので乗り換えなしで行けると好評だったそうです。
途中のサロマ湖沿いは本当にきれいですね。そして最後の中湧別駅の昔は四方向に鉄路があったのに今は0というのが悲しすぎますね。
中湧別の4方向にあった鉄路が、今は0と言うのは寂しすぎますね…
30数年前、廃線になる湧網線に乗車できず、悔しい思いをしながら中湧別から計呂地まで廃線跡を歩いた記憶がよみがえりました。
そうでしたか…
計呂地は客車だけではなく駅舎の方も「駅長の家」と称したライダーハウスとなっています。まぁ客車より若干利用料が高いですが…行くと管理人が「駅長の家」の方を勧めて来るのは有名です。利用料の利潤で管理人がペンキ等を購入して自らの手で施設の補修しているそうです。
計呂地には駅長の家もありましたね~
昔読んだ本の中に、「人生に疲れたら、一度北海道に鉄道で訪れると良い」と書いてあったのをふと思い出しました。その本の著者は現在の花咲線を例に挙げて書かれていましたが、この湧網線もそんな雰囲気満載の路線だったと思います。車窓に拡がるオホーツク海、サロマ湖。訪れたこともないのに、そんな風景を眺めながら列車に揺られている感覚がリアルに思い浮かぶのは私の気のせいでしょうか?計呂地駅跡での保存客車の車内の映像を見たせいなのかな……とにもかくにも、長期間·長距離の取材誠にお疲れ様でした。これからもどうかお気をつけて、精力的に取材をお続け下さいませm(_ _)m
私も乗ったことはありませんが、車窓からの景色が頭を過りました。
何らかの型で駅跡を再利用してるのはいいですね。
そうですね~
懐かしい光景、中湧別は2005年くらいに工事で出張に行ったけどその時から変わらない。
私も初訪問は2005年ですが、中湧別は変わっていないですね。
中湧別駅は、かなり駅の面影がありますね。湯別支線は1日2往復だったので、旅程を組むのが大変でした。確か湧網線は午後の列車では無く別の時間帯の列車に乗る予定でしたが、いろいろあって網走から中湧別に乗りました。当時は現役の鉄道マニアだったので、時刻表を読み漁り、その場で旅程を組み替えて旅をしていましたね。もう北海道の国鉄廃止線は殆ど紹介したのでは無いですか?
北海道の国鉄廃止路線でまだ紹介していないのは、胆振線くらいでしょうか。
ひろりんさんの動画を見つけてから、古地図、昔の地図帳を眺めることが多くなりました。ちなみに、地元の名古屋鉄道も路線が少しずつ減っています、名鉄は廃線した駅がレールパークとして残ったり、廃駅がカフェに生まれ変わったり、廃駅前の広場がバスの転回ポイントになったりしています。鉄道維持は採算取れてナンボ、それでも廃線は寂しいものですよね、だって廃線になったら二度と復活することはないのだから。
私は岐阜県在住なので、たまに名鉄の廃線跡に行ったりしています。
4方向に延びていたターミナル駅だった中湧別駅もろとも全て消滅するとか地方交通における鉄道の役割の終わりを象徴してるようでなんとも寂しいですね 当時は名寄本線を実際に廃線にできるわけないじゃないかってみんな思ってたんですけどね ほんとに廃線になって自然に還ってしまいました
名寄本線が廃止になるとは、私も思っていませんでした…
遅めの正月休みをやっとゲットできたのでようやく落ち着いて鑑賞。見たくて見たくてウズウズしていたんだけど仕事で連日立て込んでいる間はひろりんの動画は見ると力が抜けるから休日になるまで見るのを我慢すると相変わらず決めているwいやぁ、「うわぁ・・・」って感じだねえ。。。
北海道の廃線跡は…こうなりますね。
網走ー常呂ー佐呂間ー中湧別と三部作ありがとうございます。ほとんどの駅跡は集落が消滅、もしくは限界集落ですね。網走はともかく常呂、佐呂間、湧別以外は無医地区でしょうから、人がいなくなるのは仕方がないのかも…石北本線(運用上釧網線も)あと何年存続できるやら…
芭露あたりは昭和の頃まではまだ病院があったはずですが…。
とこたん、けろち、愛嬌のある駅名が並びますね。ひろりんさんが見つけられないような仮乗降場や計呂地、中湧別のような今でも整備されて車輌まで保存されている場所との格差、何とも言えない気分になります。現地に行かずとも画像と構成で雰囲気の伝わるいつもの動画構成、3部構成の大作ありがとうございました。今年もまた楽しみにしています♪リスク回避しつつ頑張って下さいね。
自然あふれる湧網線、現役時代に乗りたかったです。 10歳より
私も湧網線は乗ってみたかったですね…
こんにちは。何時も詳しい比較と現地レポートありがとうございます。無くなって久しいですが、残してる所は残してるんですね。でも特に困ってない状況を見ると複雑な思いがします。レポート&配信ありがとうございます。
既に代替バスも無くなっている区間もありますからね…
計呂地と中湧別は公園として整備され、車両も保存されているのは嬉しいですね。実際に訪ねてみたくなります。一方、床丹は77年の時点でも仮乗降場並みに周辺が寂しかったのですね。今は跡形もなく…。
床丹は集落が消滅してしまいました…
こんばんは〜夏はドライブにはサロマ湖や小高い山など今も変わらない風景広がって素晴らしいとこです
こんばんは~この辺りはドライブしていても気持ちいいですね~
いつも思うのですが西崎さんめちゃめちゃ沢山持ってますね1日五往復… 今存廃協議中の津軽線蟹田ー三厩と同じですね。津軽線、サヨナラ…
西崎さんは昔の画像をたくさん持っていますね。三厩駅は中1の時に行きましたね…
@@hiroring0323 これらの写真のために、一部屋確保してるのかなとさえ思っちゃいます。自分は先月半ばに奥津軽いまべつ駅のそばの津軽二股駅に行きましたね。不通かつドカ雪で真っ白でした…あと奥津軽いまべつ駅に4時間はちょっと辛いですね(笑)
去年は床丹駅跡に現地調査に行ったのですが、集落がほとんど消滅していたので寂しい気持ちになりました。宗谷本線の雄信内に似た雰囲気でしたね。
そうなんですよね。床丹は集落が消滅していて、空き地には倒壊した建物…雄信内も似たような雰囲気でしたね。
計呂地駅や床丹駅はそれぞれ列車や自動車で通りがかったことがありましたが、計呂地駅は駅長さん?が一人で切り盛りしていました。一方の床丹駅は無人化されて長いせいかガランとしていました(浜床丹仮乗降場の方がまだ利用者が多かった?😅)。でも昔NHK‐FMで放送されていた「夜の停車駅」のイメージは床丹駅なんですよね。
駅がなくなり、学校がなくなり、集落がなくなり寂しいですね。中編の浜佐呂間は私の父方の祖父が住んでおりましたのでよく覚えております。
寂しいですね…浜佐呂間に所縁がありましたか。
計呂地周辺は,湧網線車内からサロマ湖が望めるところでした。冬は凍結したサロマ湖が,キレイだったなぁと記憶しています。沿線は,廃線後数回車で走りましたが,厳しいですよね。でも,景色を売りに残せていたら…とも思える路線であることは,何回か現役時代に乗った者(の郷愁)としては思います。そして湧網線が廃止されてしばらくしてから,遊園地「Family 愛 Land YOU」に行き,観覧車からサロマ湖を眺め,いいなぁと思ったものでした。(そして観覧車ですが,「一周なんて言わないから,降りたくなるまでずーっと乗っていていいよ!」と言われ,30分位乗っていたのが,忘れられません)サロマ湖,大きいですよね!
サロマ湖の景色は素晴らしいですよね。車窓から眺めて見たかったです…
ここは、やっぱり計呂地駅の車両がいいですね。中湧別駅もいいです。
計呂地と中湧別はいいですね~
@@hiroring0323 そうなんです。
昨晩書き込んだつもりが、記載が無く、つべに毛されたかwトコタンは常滑ボートのキャラクターでもありますニャン🐱中湧別駅跡は、廃線跡道路走るといきなり目の前に現れて、しかも駅舎ではなく、コチラが鉄路を走るかの様に🎵今も遠軽でスイッチバックするのは、これらの遺構すもんね。鉄道で網走行くのはちょっと面倒かな。ハイデッカーグリーン車は好きやけど🌿取り敢えず3編に渡る長大編成お疲れ様した☆
トコタン🐱
計呂地駅、読めませんでした。ホームのSLが綺麗にされているのがいいですね。中湧別駅,キレに整備されてますが3路線接続していた駅とは思えません。
中湧別の駅跡には20年ほど前に行ったことがありますが、立派な跨線橋が現存しているのは、嬉しいですね。
主要駅らしい重厚な跨線橋が残されているのは嬉しいですよね。
三路線全てが無くなることなんてあるんだ、やっぱ北海道は色んな面で厳しいんですね。
道東、道北は特に厳しいですね…
動画の仮乗降場停車数中湧別~網走5往復、停車駅からして1985年かと思われます(1978年は6往復)佐呂間⇒中湧別(湧別)は1往復ではなく、上りのみですね年代に依って、停車本数が変わるので、地域の盛衰が判ります参考に1969-10一般駅である北見富丘、北見平和、二見ケ岡に定期の通過があります網走⇒中湧別7本(遠軽2、湧別1)佐呂間⇒中湧別1本(湧別)中湧別⇒網走7本(遠軽発、北見行1、遠軽発遠軽行1、湧別発1)平日のみ、卯原内⇒網走1本停車数(中湧別起点)中湧別 下り7 上り8(仮)五箇山 下り4 上り6(仮)福島 下り5 上り6芭露 下り7 上り8(仮)志撫子 下り5 上り8(全列車)計呂地 下り7 上り8(仮)浜床丹 下り5 上り8(全列車)床丹 下り7 上り8(仮)若里 下り4 上り8(全列車)佐呂間 下り7 上り8(仮)境橋 下り4 上り5(仮)興生沢 下り6 上り5知来 下り7 上り7(仮)紅葉橋 下り5 上り5仁倉 下り7 上り7浜佐呂間 下り7 上り7北見富丘 下り5 上り7(仮)東富岡 下り4 上り6北見共立 下り7 上り7(仮)土佐 下り4 上り6常呂 下り7 上り7(仮)常呂港 下り1 上り2能取 下り7 上り7(仮)中能取 下り3 上り5北見平和 下り5 上り7卯原内 下り8(うち休日運休1) 上り7(仮)二見中央 下り6(うち休日運休1) 上り5二見ケ岡 下り7(うち休日運休1)上り7(仮)大曲 下り5 上り7(全列車)網走 下り8(うち休日運休1)上り7
鉄道懐かし板国鉄湧網線スレ861に画像があります
1985年のものから転記しました。区間列車は0.5往復でしたね。ご指摘ありがとうございます。
コメント欄に書いてみましたが、結構大変な作業ですね動画ともなると尚更かと計呂地の機関車は10月からカバーが掛かるので冬場に撮影出来ないのは残念ですが、保存のため仕方がないですね跨線橋、コロナ前迄は中で飲食が出来たんですよ客車の中はライダーハウスでも飲食禁止(虫が沸くため)優等列車を走らせれば、釧網本線の様に存続していたかも知れません
五鹿山や福島のように朝夕上下合わせて3本しかなかった(大曲に至っては朝夕上下合わせて2本)仮乗降場も昔はこんなに停車本数が多かったのですね。湧別支線も昭和30年代ころまでは6往復あったそうですし。
三部作、お疲れさまでした。計呂地駅と中湧別は歴史の生き証人という感じでよい雰囲気です。中湧別の3連のヨ(車掌車)はJNRのマークが入っているので、1987年とはいえJR移管を待たずしての廃線だったのでしょうか...なお、共に仮乗降場でしたので切符としては成立しなかったでしょうが、福島(大阪府または福島県)→福島(湧網線)、志布志(鹿児島県)→志撫子(湧網線)なんて旅路が当時はできたのですね!
中湧別駅は名寄本線の廃止が1989年なので民営化の後ですね。(湧網線は1987年廃止で民営化の前)車掌車は当時大量に余っていたんでしょうね…
あの位置にJNRマークを付けた貨車は写真すら見た事がないので誰かさんの創作ではないかと思います。私が91年に行った時は駅舎はまだ有って構内には車両はなかったので後になってから何処かから調達したのでしょう…
赤のJNRマークは明らかに「創作品」ですね。ついでに「旭」の字体も創作っぽい気がします。19:11 のかすれてほとんど見えない駅名標の「次の駅」の部分ですが、左側は空白。右側は「ばろう・BARO・ゆうべつ・YUBETSU」と縦4段にペイントされていました。木の支え棒が文字をさえぎる形で不自然に思われますが、もともとはジャマにならないよう、両端から上にのびる形で吊るされていましたが、移設したのか劣化なのかわかりませんが、冬場の強風にも耐えられるようにあの形になったのでは?と推察します。
@@北斗一裂拳 私もその頃、チューリップを見に車で周ったことあります。確か道の駅は別のところにショボイのがあって、その時の名称は「道の駅かみゆうべつ温泉」ではなく「道の駅中湧別」だったかと記憶しています。この辺りはもともと温泉不毛の地で、その3年後に訪れたとき、立派な温泉と道の駅ができていて度肝を抜かれました。
ありがとうございます。貨物運行の縮小でヨが大量に余っていたのでしょうね。
北海道をこのまま朽ち果てさせるのは忍びない
ですよね…
OKはんさんへお早うございます。1月9日の朝5時台に、初めてあなたのコメントを噛み締める様に拝読しました。私も、OKはんさんのこの切実なお気持ちが堪(こた)えましたね。昨夜自身もこの動画を見通し、北海道の人口(大まかに言うと、全数は東京都の約半分ながらも「道庁の在る札幌市近郊に偏り」それ以外が減っていきそうとか)から国内外で過疎は不可避かと考えさせられました。隣の大韓民国🇰🇷も首都のソウル近郊に全人口が偏在する傾向と、ネットで知りました。ひろりんさんがここで触れられた湧網線の跡も、過疎が否めないオホーツク振興局に属しますし再度国に地方創生(沿う政策)をと陳情したい位ですよ……。あなたも、感染症や健康管理に注意し過ごされますようお祈りします。
ほとんど消滅ですねぇ。残している部分もありますが、仮乗降場は残らないですよね。。。
仮乗降場は残らないですね…
大学三年 1978年友人とオホーツクを稚内から網走まで走ったが、興浜南線 北線 名寄本線 湧網線は 3:46 まだあった 北見から旭川は石北線になった。寂しい限りだが北海道は過疎が凄まじい
道東、道北の過疎化は凄まじいですね…
計呂地駅と中湧別駅を訪問したことがあります。駅舎、ホーム、線路、車両などが綺麗に保存されていると、今にも列車が走ってきそうな雰囲気がしますね。
雰囲気いいですよね~
余談ですが・・・芭露駅と福島仮乗降場間に事故が多く亡くなられた方もいるいわくつきの踏切がありましたね一部では「でる」とか「引っ張られる」とか言われてたようですが・・・
そんな踏切があったんですね…
確か最初の事故から1年くらい経って再び事故が起きたのですよね。最初か2度目かはわかりませんが大穴が空いた気動車の写真を見たことがあります。怪奇現象としては「踏切を車で通りがかるとバックミラーにその時間には走っているいるはずのない、しかも無人の気動車が写っていた」という噂を聞いたことがあります。2度目の事故の犠牲者のご遺族が現場近くにお地蔵様を建てられて、以後は事故も怪奇現象も起きていないと聞きます。お地蔵様は何度か位置が変わった?ようですが、今はバス停の少し奥まった所に落ち着かれているようです。
半年前にバイクで計呂地に行きました。なかなか趣のある感じでした。コロナ渦が落ち着きつつある感じでしたがライダーハウスは営業しておらず残念でした。。。
コロナ以降は泊れないライダーハウスも多くなりましたね…
道路があってもほぼ未改良で鉄道しか交通手段が信頼出来なかった時代には中湧別駅から4方向に伸びる各路線ともに必要性があったんでしょうけどねぇ。(合掌)
戦前から戦後の開業なので、当時は必要な路線だったんでしょうね。道路が整備された今となっては…
計露地駅跡いいね ただあの跨線橋はいらない感じがする 少しやりすぎ後半はほとんど仮乗降場だらけ これじゃお客さんは乗らないし たとえJR になったとしても名寄本線が廃止になっているから 廃止されるのが目に見えている状況 国鉄時代に廃止して正解だった気がします
あの跨線橋は…
中湧別駅、4方向へのジャンクションが全ての方向消え寂しいですね。一方向だけ残る志布志駅もどうなるか。
4方向に延びていた鉄路が、全て消えてしまったのは寂しいですね…
湧網線もそうですが、北海道の鉄道敷設はその殆どが鉱山開発とセットなんですよね💀また、北海道を鉄道で移動する時は、ひろりんさんの動画はとても役立ちます。湧網線3部作……👍
👍
廃線になった路線が沿線が経済都市だったらと思ったらな…新幹線が通るかもしれないな…
遂に、後編きました…覚悟はしていましたが、ほとんど駅舎も線路跡も消滅していましたぁ…救いは、けろち駅跡に、車両と一部線路が保存されていてよかったです。(他の駅跡にもありましたが)線路が途切れていても、かつてその先に、線路が続いていた事を想像するとワクワクしてきます(笑)これはの駅跡、廃線跡も人々の記憶から消えてしまうと思うと、悲しくてたまりません…
いや~リアル木造駅舎はたまらない。北海道でも全部立ち寄った訳ではないが雄信内駅はサイコーの駅舎だよ。あそこもいつまで残存するかな。
木造駅舎はいいですね~
堅実なイメージの農村より天候に左右されて不安定なイメージのある漁村の方が残っていることが多いですよね。まとまった現金収入が得られるからでしょうか?
初めまして、私は、Shin nazo cinema'sと申します。よろしくお願いします。
はじめまして!宜しくお願いいたします。
@@hiroring0323 おはようございます。昨日の投稿ありがとうございます。こちらこそ!
ひろりんさんお疲れ様です!駅舎は残して欲しい。と、いつも思いますねー。がしかし、石碑どころか看板一つあるだけでも嬉しいと思う時もありますが(^_^;)今回もありがとうございました。
何も残っていない路線だと、石碑や看板だけでも嬉しくなりますね。
ここまで駅…というか地域ごとに保存と整地の格差が大きい元路線も、ちょっと珍しいような😯要不要を議論するなら不要だったのでしょうが、本当にいいのかい?と中湧別駅跡は語りかけているように思いました😞
そうですね…これでも結構残っている方かも知れません…
北海道はあまりにも需要の無い所に、鉄道を伸ばしすぎて発展をより遅らせてしまったように感じるんですが、どうなんでしょうか?
この路線は戦前から戦後の開業なので、道路がまともに整備されていない時代には、開拓に必要な路線であったかと思います。
まぁ仮乗降場で済むくらいの利用者というかそもそもの人口を表してる🤔漁村の人くらいしか利用しなかったのですかね…しかしいつ見ても何度見ても中湧別駅跡が立派すぎる
ですね…
自分が産まれた街…中湧別
中湧別のご出身でしたか。
12:59ローカル線廃止反対
昔はよく見かけましたね…
北都交通のバスが虚しいですね
寂しすぎひろりん最高
コレも資料とさせて貰うっス。.....おっふ。
オッフ…👍️
無責任な鉄道切り捨てが国土の荒廃を招く例です。
計呂地駅跡が現役当時に近い形で残っているのですね。中湧別駅跡は駅舎を残してくれていれば個人的には文句なしですね。芭露駅跡が跡形も無くなってしまったのは残念ですね・・・
湧網線では芭露駅跡が一番当時の雰囲気を残していて好きな駅跡だったんですが、解体されてしまいました…計呂地駅跡は駅舎が残っているのがいいですね~
@@hiroring0323芭露駅は老朽化が激しかったのと、管理する手間や費用などの関係で複数の駅舎を保存するのが難しかったのでしょうね。余談ですが芭露郵便局のすぐ隣に戦前に建てられた同局の古い建物(「局」の字が弓に口という略字体?だったのが印象的)が残っていたのですがこちらもいつの間にか無くなっていましたね。
動画有難うございます。計呂地駅は駅舎も蒸機も客車も綺麗に保存して頂き、頭が下がります。
かつて、網走で夜行の大雪5号(北見まで普通でC58が牽引してました)に乗り遅れても、その後に出る湧網線最終で中湧別まで行き、そのまま名寄線から遠軽で追い着くことができました。今はもうそういうこともできないですね。
北海道の廃線跡動画、いつも懐かしく、楽しく哀しく拝見させて頂いております。これからもご自愛されてご活躍ください。
ありがとうございます👍
20分間のタイムトリップさせていただきました。素晴らしい記録です。
ありがとうございます!
ひろりんさんへ
1月8日の19時台に、全編を拝見しました。冒頭に佐呂間に保存されているD51型蒸気機関車の運転室を撮られた写真に寄る(ズームイン)という動の面に航空とあなたが撮られた佐呂間から中湧別までの跡の写真を今昔を比べて見せられる静の面が絶妙に合わさり今回もメリハリが利いた構成で心から楽しませて頂きました。床丹駅の床丹はアイヌ語(トゥ・コタン→無くなった・村、ト・コタン→沼・村の意味ですが定かでないそう)に由来し跡の一帯は文字通り廃屋や廃車のバス等が目立ち宗谷本線の雄信内の様なゴーストタウンの印象を受けました。やはり、総じて考えると湧網線に11箇所有ったという仮乗降場は(冒頭にあなたが見せて下さった各駅の停車本数の一覧表からも)本数や待合室の有無等各々違っていたんだなと私は肯いた次第です。あなたが今回湧網線を扱われた際も現役時代のデータも参考として私達に見せて下さるという踏み込まれた手法も、私は褒めましょう。ひろりんさんも、感染症(今、コロナウイルスとインフルエンザが同時流行というツインデミックだそう)や健康管理にくれぐれも注意し過ごされますようお祈りします。
駅跡が保存されて市街地が残っている計呂地と、限界集落になっているような床丹との
差が凄いですね。人口が流出する場所としない場所の差は色々な要因があるとは思います
が…道東の路線はほぼJR北が単独で維持は困難と表明しているので、中湧別のような状態
に釧路や網走が陥らないことを祈るばかりですね 20年後はどうなっているやら
いつもありがとうございます!
かつての駅前集落が消滅している床丹と、市街地が残っている芭露や計呂地の差が凄かったですね。
道東の路線はどこも厳しそうですが、この先どうなるんでしょうね…
当初、3部作に分ける程だったけ?とも思いましたが、往時には気にも留めなかった零細な仮乗降場や駅も数多く、やはり長い路線だったんだなと改めて感じました…
中湧別は去ることながら、計呂地はまた格別の雰囲気ですね…
貴重な動画を配信頂き、ありがとうございました。
湧網線は90キロ程度の路線でしたが、仮乗降場が多かったんですよね。中湧別や計呂地のように駅跡を整備して残している所はいいですね。
確か計呂地駅は、列車交換で少々停車したので硬券入場券を買った覚えがあります。
駅舎がどんな感じだったか全く覚えていませんが、この駅で動き回っていたのは、鉄道マニアだけだった気がします。
列車はキハ22だったと思うので、旧型客車が静態保存されているのは多少違和感がありますが、雰囲気は良いですね。
当時、全国でこういう客車に乗って貧乏旅行をしていましたので、もう一度現役に乗ってみたくなりました。
計呂地駅は交換設備があったので最後まで有人駅でしたね。
この時期の廃線だと余剰になっていた旧客や車掌車が保存されている場合が多いですね。
「…」
このリアクションが物悲しさを物語ってますね
消えゆく鉄路と駅、寂れゆく町並みもなんとも言えないです
これが現実なんですよね…
涌網線シリーズ、ありがとうございました。
かつて宮脇さんが、名寄線の涌網支線に乗られたシーン。
車内から女の子に手を振り返した。あの情景も歴史の彼方でしょうか。
そして全て消えてしまい...
もう思い出の中にしか存在しませんね…
計呂地の駅員さんホタテのアクセサリー作って少しでも売り上げ努力してた映像ありましたね。それも虚しく廃線になってしまいました。でも駅が今でも現存していて良かったです。
私も子供の頃に計呂地駅の助役さんからホタテのアクセサリーをいただきました。計呂地の駅舎が残っているのは嬉しいですね。
昔釧網本線の北浜駅でやってたな〜
ホタテのアクセサリーと言えば宗谷岬近くの最北のガソリンスタンドでも貰えますねw
3部作、素晴らしい動画でした。二十数年前にこのエリアに住んでいましたが、さらに人口の減少をこの動画を通して感じました。
ありがとうございます!
こういう行き止まり線でない路線は閉塞が自動ではなかったため、交換駅には駅長がおり有人駅でした。湧網線の現役時代の佐呂間駅や計呂地駅に勤務する国鉄職員の姿は、「木枯し紋次郎の役者」(政治ごっこが好きなだけの反国民政治屋のため名前は出しません)が司会の番組で今は故人の種村直樹元新聞記者さんが出演した回にも登場します。
ひろりんさんはじめまして…
自分は北見市常呂町に住む住人です。
ぶっちゃけ鉄道ファンではありませんが…ひろりんの番組(⁉️)のファンになり全て見させて頂きました。
いよいよ湧網線が出て懐かしく見させて頂きました。
一つ、お節介かもしれませんが…
伝えさせて頂きたいのですが…
何故佐呂間から内陸に鉄道が共立に向かっているのかと言うと…昔常呂町に鉄山と言う鉱山が有りまして、戦時中掘り起こしそれを輸送する目的で、共立に駅を持って来たらしいです。
国策でルートが変更されたらしいと聞いた事が有ります。
本当であれば海岸ぶちを通る計画だったらしいです。
はじめまして。常呂町にお住まいでしたか。
そのような理由で内陸の共立に向かっていたんですね。
情報ありがとうございます。
数年前、仁頃から常呂に抜ける道路を走っているとき「鉄山」というバス停を見かけました。アヤシイ!と思い家に帰って調べてみたところ、バス停の裏山で鉄鉱石の露天掘りをしていたとのこと。
その鉄山から、当時の湧網東線の終点だった常呂駅まで「奥村鉄山専用軌道」という専用線が鉄鉱石の輸送をしていたそう。その後、湧網西線が佐呂間方面から延長されてくる際、北見共立~常呂間は、その鉄山専用鉄道の廃線跡を利用して敷設されたという事実を知り「へぇ」ボタン20回くらい押したくなりました。
北海道の廃線動画は、どれを見ても辛いですね。 今回も、ありがとうございました。
これが北海道の現実なんですよね…
湧網線跡は、解体された駅舎が、多いですが、機関車や、廃線跡が、残ってる、駅舎もあるのは、素晴らしいですね?公園に、整備された駅舎跡もあるのは、良かったです😃中湧別は、名寄本線も、廃止されたのは、オッフーです😅動画配信、お疲れ様でした!また期待してます😃
整備され保存された駅跡があるのは嬉しいですね。
かつてのジャンクション中湧別駅は4方向全ての鉄路が無くなりました…
由加里 石井さんへ
お早うございます。1月9日の朝7時台に、あなたのコメントを噛み締める様に拝読し共感を覚えました。
♪流れる季節に 君だけ足りない
はぐれた心の 足跡(あしあと)を探す
カバンにつめた 悲しい幸せ
遠くへ行くほど 君を思い出す
(中略)
思い出の空に放そう さよなら
(中略)
何(なに)も変わらないと
誓った日々が
胸の奥に今もはなれない 輝いて
(私も愛聴するGAOさんが作詞し歌われた名歌「サヨナラ」から引用)
私も昨夜この動画を見通して、最後に出て来た中湧別駅(の跡に跨線橋やホーム等が保存されていても)の往時がサヨナラの詞の「君」に当たる様な気がして引用した次第です。何せ中湧別駅は(東から時計回りに)湧網線・名寄本線〔遠軽方面〕・同じく〔名寄方面〕・同じく〔湧別支線〕の4つの方向に鉄路が延びていたターミナルでしたし、支線の終点の湧別は跡地に消防署が建つ等私も寂しさを覚え、況して何処でも不可避な過疎なら尚更募ります。
石井さんも、感染症(コロナウイルスとインフルエンザが同時流行だそう)や健康管理に注意し過ごされますようお祈りします。
中湧別はこの地域の交通の要衝でしたね。それとともに、「ああ、中湧別の先の湧別支線って、湧網線じゃなくて名寄本線の支線だったな」と思い出しました。ただ、列車ダイヤは湧網線側へ向けての通し運用だったはずで、当時の時刻表でも湧網線と一緒に掲載されていた記憶があります。
湧別支線は湧網線と一体運用でしたね。
湧別支線は朝は高校生を中心に利用客が多かったのですが、夕方は中湧別に着いて湧別行きが出るまで1時間くらい時間が空いていたので、みんなバスに乗り換えていましたね。バス会社も中湧別から湧別までの片道専用の定期券を売っていたそうです。湧網線が廃止になって名寄線が廃止になるまでは短い期間でしたが湧別から出た列車が遠軽行きに連結されたので乗り換えなしで行けると好評だったそうです。
途中のサロマ湖沿いは本当にきれいですね。
そして最後の中湧別駅の昔は四方向に鉄路があったのに今は0というのが悲しすぎますね。
中湧別の4方向にあった鉄路が、今は0と言うのは寂しすぎますね…
30数年前、廃線になる湧網線に乗車できず、悔しい思いをしながら中湧別から計呂地まで廃線跡を歩いた記憶がよみがえりました。
そうでしたか…
計呂地は客車だけではなく駅舎の方も「駅長の家」と称したライダーハウスとなっています。まぁ客車より若干利用料が高いですが…
行くと管理人が「駅長の家」の方を勧めて来るのは有名です。利用料の利潤で管理人がペンキ等を購入して自らの手で施設の補修しているそうです。
計呂地には駅長の家もありましたね~
昔読んだ本の中に、「人生に疲れたら、一度北海道に鉄道で訪れると良い」と書いてあったのをふと思い出しました。
その本の著者は現在の花咲線を例に挙げて書かれていましたが、この湧網線もそんな雰囲気満載の路線だったと思います。
車窓に拡がるオホーツク海、サロマ湖。
訪れたこともないのに、そんな風景を眺めながら列車に揺られている感覚がリアルに思い浮かぶのは私の気のせいでしょうか?
計呂地駅跡での保存客車の車内の映像を見たせいなのかな……
とにもかくにも、長期間·長距離の取材誠にお疲れ様でした。これからもどうかお気をつけて、精力的に取材をお続け下さいませm(_ _)m
私も乗ったことはありませんが、車窓からの景色が頭を過りました。
何らかの型で駅跡を再利用してるのはいいですね。
そうですね~
懐かしい光景、中湧別は2005年くらいに工事で出張に行ったけどその時から変わらない。
私も初訪問は2005年ですが、中湧別は変わっていないですね。
中湧別駅は、かなり駅の面影がありますね。湯別支線は1日2往復だったので、旅程を組むのが大変でした。
確か湧網線は午後の列車では無く別の時間帯の列車に乗る予定でしたが、いろいろあって網走から中湧別に乗りました。
当時は現役の鉄道マニアだったので、時刻表を読み漁り、その場で旅程を組み替えて旅をしていましたね。もう北海道の
国鉄廃止線は殆ど紹介したのでは無いですか?
北海道の国鉄廃止路線でまだ紹介していないのは、胆振線くらいでしょうか。
ひろりんさんの動画を見つけてから、古地図、昔の地図帳を眺めることが多くなりました。
ちなみに、地元の名古屋鉄道も路線が少しずつ減っています、名鉄は廃線した駅がレールパークとして残ったり、廃駅がカフェに生まれ変わったり、廃駅前の広場がバスの転回ポイントになったりしています。
鉄道維持は採算取れてナンボ、それでも廃線は寂しいものですよね、だって廃線になったら二度と復活することはないのだから。
私は岐阜県在住なので、たまに名鉄の廃線跡に行ったりしています。
4方向に延びていたターミナル駅だった中湧別駅もろとも全て消滅するとか地方交通における鉄道の役割の終わりを象徴してるようでなんとも寂しいですね 当時は名寄本線を実際に廃線にできるわけないじゃないかってみんな思ってたんですけどね ほんとに廃線になって自然に還ってしまいました
名寄本線が廃止になるとは、私も思っていませんでした…
遅めの正月休みをやっとゲットできたのでようやく落ち着いて鑑賞。
見たくて見たくてウズウズしていたんだけど仕事で連日立て込んでいる間はひろりんの動画は見ると力が抜けるから休日になるまで見るのを我慢すると相変わらず決めているw
いやぁ、「うわぁ・・・」って感じだねえ。。。
北海道の廃線跡は…
こうなりますね。
網走ー常呂ー佐呂間ー中湧別と三部作ありがとうございます。
ほとんどの駅跡は集落が消滅、もしくは限界集落ですね。網走はともかく常呂、佐呂間、湧別以外は無医地区でしょうから、人がいなくなるのは仕方がないのかも…
石北本線(運用上釧網線も)あと何年存続できるやら…
芭露あたりは昭和の頃まではまだ病院があったはずですが…。
とこたん、けろち、愛嬌のある駅名が並びますね。
ひろりんさんが見つけられないような仮乗降場や計呂地、中湧別のような今でも整備されて車輌まで保存されている場所との格差、何とも言えない気分になります。
現地に行かずとも画像と構成で雰囲気の伝わるいつもの動画構成、3部構成の大作ありがとうございました。
今年もまた楽しみにしています♪
リスク回避しつつ頑張って下さいね。
ありがとうございます!
自然あふれる湧網線、現役時代に乗りたかったです。 10歳より
私も湧網線は乗ってみたかったですね…
こんにちは。何時も詳しい比較と現地レポートありがとうございます。無くなって久しいですが、残してる所は残してるんですね。でも特に困ってない状況を見ると複雑な思いがします。レポート&配信ありがとうございます。
既に代替バスも無くなっている区間もありますからね…
計呂地と中湧別は公園として整備され、車両も保存されているのは嬉しいですね。実際に訪ねてみたくなります。
一方、床丹は77年の時点でも仮乗降場並みに周辺が寂しかったのですね。今は跡形もなく…。
床丹は集落が消滅してしまいました…
こんばんは〜夏はドライブにはサロマ湖や小高い山など今も変わらない風景広がって素晴らしいとこです
こんばんは~
この辺りはドライブしていても気持ちいいですね~
いつも思うのですが西崎さんめちゃめちゃ沢山持ってますね
1日五往復… 今存廃協議中の津軽線蟹田ー三厩と同じですね。
津軽線、サヨナラ…
西崎さんは昔の画像をたくさん持っていますね。
三厩駅は中1の時に行きましたね…
@@hiroring0323 これらの写真のために、一部屋確保してるのかなとさえ思っちゃいます。
自分は先月半ばに奥津軽いまべつ駅のそばの津軽二股駅に行きましたね。
不通かつドカ雪で真っ白でした…
あと奥津軽いまべつ駅に4時間はちょっと辛いですね(笑)
去年は床丹駅跡に現地調査に行ったのですが、集落がほとんど消滅していたので寂しい気持ちになりました。宗谷本線の雄信内に似た雰囲気でしたね。
そうなんですよね。
床丹は集落が消滅していて、空き地には倒壊した建物…
雄信内も似たような雰囲気でしたね。
計呂地駅や床丹駅はそれぞれ列車や自動車で通りがかったことがありましたが、計呂地駅は駅長さん?が一人で切り盛りしていました。一方の床丹駅は無人化されて長いせいかガランとしていました(浜床丹仮乗降場の方がまだ利用者が多かった?😅)。でも昔NHK‐FMで放送されていた「夜の停車駅」のイメージは床丹駅なんですよね。
駅がなくなり、学校がなくなり、集落がなくなり寂しいですね。
中編の浜佐呂間は私の父方の祖父が住んでおりましたのでよく覚えております。
寂しいですね…
浜佐呂間に所縁がありましたか。
計呂地周辺は,湧網線車内からサロマ湖が望めるところでした。冬は凍結したサロマ湖が,キレイだったなぁと記憶しています。
沿線は,廃線後数回車で走りましたが,厳しいですよね。でも,景色を売りに残せていたら…とも思える路線であることは,何回か現役時代に乗った者(の郷愁)としては思います。
そして湧網線が廃止されてしばらくしてから,遊園地「Family 愛 Land YOU」に行き,観覧車からサロマ湖を眺め,いいなぁと思ったものでした。(そして観覧車ですが,「一周なんて言わないから,降りたくなるまでずーっと乗っていていいよ!」と言われ,30分位乗っていたのが,忘れられません)
サロマ湖,大きいですよね!
サロマ湖の景色は素晴らしいですよね。
車窓から眺めて見たかったです…
ここは、やっぱり計呂地駅の車両がいいですね。中湧別駅もいいです。
計呂地と中湧別はいいですね~
@@hiroring0323 そうなんです。
昨晩書き込んだつもりが、記載が無く、つべに毛されたかw
トコタンは常滑ボートのキャラクターでもありますニャン🐱
中湧別駅跡は、廃線跡道路走るといきなり目の前に現れて、しかも駅舎ではなく、コチラが鉄路を走るかの様に🎵
今も遠軽でスイッチバックするのは、これらの遺構すもんね。
鉄道で網走行くのはちょっと面倒かな。
ハイデッカーグリーン車は好きやけど🌿
取り敢えず3編に渡る長大編成お疲れ様した☆
トコタン🐱
計呂地駅、読めませんでした。
ホームのSLが綺麗にされているのがいいですね。
中湧別駅,キレに整備されてますが3路線接続していた駅とは思えません。
中湧別の駅跡には20年ほど前に行ったことがありますが、立派な跨線橋が現存しているのは、嬉しいですね。
主要駅らしい重厚な跨線橋が残されているのは嬉しいですよね。
三路線全てが無くなることなんてあるんだ、やっぱ北海道は色んな面で厳しいんですね。
道東、道北は特に厳しいですね…
動画の仮乗降場停車数
中湧別~網走5往復、停車駅からして1985年かと思われます(1978年は6往復)
佐呂間⇒中湧別(湧別)は1往復ではなく、上りのみですね
年代に依って、停車本数が変わるので、地域の盛衰が判ります
参考に1969-10
一般駅である北見富丘、北見平和、二見ケ岡に定期の通過があります
網走⇒中湧別7本(遠軽2、湧別1)
佐呂間⇒中湧別1本(湧別)
中湧別⇒網走7本(遠軽発、北見行1、遠軽発遠軽行1、湧別発1)
平日のみ、卯原内⇒網走1本
停車数(中湧別起点)
中湧別 下り7 上り8
(仮)五箇山 下り4 上り6
(仮)福島 下り5 上り6
芭露 下り7 上り8
(仮)志撫子 下り5 上り8(全列車)
計呂地 下り7 上り8
(仮)浜床丹 下り5 上り8(全列車)
床丹 下り7 上り8
(仮)若里 下り4 上り8(全列車)
佐呂間 下り7 上り8
(仮)境橋 下り4 上り5
(仮)興生沢 下り6 上り5
知来 下り7 上り7
(仮)紅葉橋 下り5 上り5
仁倉 下り7 上り7
浜佐呂間 下り7 上り7
北見富丘 下り5 上り7
(仮)東富岡 下り4 上り6
北見共立 下り7 上り7
(仮)土佐 下り4 上り6
常呂 下り7 上り7
(仮)常呂港 下り1 上り2
能取 下り7 上り7
(仮)中能取 下り3 上り5
北見平和 下り5 上り7
卯原内 下り8(うち休日運休1) 上り7
(仮)二見中央 下り6(うち休日運休1) 上り5
二見ケ岡 下り7(うち休日運休1)上り7
(仮)大曲 下り5 上り7(全列車)
網走 下り8(うち休日運休1)上り7
鉄道懐かし板
国鉄湧網線スレ
861に画像があります
1985年のものから転記しました。
区間列車は0.5往復でしたね。
ご指摘ありがとうございます。
コメント欄に書いてみましたが、結構大変な作業ですね
動画ともなると尚更かと
計呂地の機関車は10月からカバーが掛かるので冬場に撮影出来ないのは残念ですが、保存のため仕方がないですね
跨線橋、コロナ前迄は中で飲食が出来たんですよ
客車の中はライダーハウスでも飲食禁止(虫が沸くため)
優等列車を走らせれば、釧網本線の様に存続していたかも知れません
五鹿山や福島のように朝夕上下合わせて3本しかなかった(大曲に至っては朝夕上下合わせて2本)仮乗降場も昔はこんなに停車本数が多かったのですね。湧別支線も昭和30年代ころまでは6往復あったそうですし。
三部作、お疲れさまでした。
計呂地駅と中湧別は歴史の生き証人という感じでよい雰囲気です。
中湧別の3連のヨ(車掌車)はJNRのマークが入っているので、1987年とはいえJR移管を待たずしての廃線だったのでしょうか...
なお、共に仮乗降場でしたので切符としては成立しなかったでしょうが、福島(大阪府または福島県)→福島(湧網線)、志布志(鹿児島県)→志撫子(湧網線)なんて旅路が当時はできたのですね!
中湧別駅は名寄本線の廃止が1989年なので民営化の後ですね。(湧網線は1987年廃止で民営化の前)車掌車は当時大量に余っていたんでしょうね…
あの位置にJNRマークを付けた貨車は写真すら見た事がないので誰かさんの創作ではないかと思います。私が91年に行った時は駅舎はまだ有って構内には車両はなかったので後になってから何処かから調達したのでしょう…
赤のJNRマークは明らかに「創作品」ですね。ついでに「旭」の字体も創作っぽい気がします。
19:11 のかすれてほとんど見えない駅名標の「次の駅」の部分ですが、左側は空白。右側は「ばろう・BARO・ゆうべつ・YUBETSU」と縦4段にペイントされていました。木の支え棒が文字をさえぎる形で不自然に思われますが、もともとはジャマにならないよう、両端から上にのびる形で吊るされていましたが、移設したのか劣化なのかわかりませんが、冬場の強風にも耐えられるようにあの形になったのでは?と推察します。
@@北斗一裂拳 私もその頃、チューリップを見に車で周ったことあります。確か道の駅は別のところにショボイのがあって、その時の名称は「道の駅かみゆうべつ温泉」ではなく「道の駅中湧別」だったかと記憶しています。この辺りはもともと温泉不毛の地で、その3年後に訪れたとき、立派な温泉と道の駅ができていて度肝を抜かれました。
ありがとうございます。貨物運行の縮小でヨが大量に余っていたのでしょうね。
北海道をこのまま朽ち果てさせるのは忍びない
ですよね…
OKはんさんへ
お早うございます。1月9日の朝5時台に、初めてあなたのコメントを噛み締める様に拝読しました。
私も、OKはんさんのこの切実なお気持ちが堪(こた)えましたね。昨夜自身もこの動画を見通し、北海道の人口(大まかに言うと、全数は東京都の約半分ながらも「道庁の在る札幌市近郊に偏り」それ以外が減っていきそうとか)から国内外で過疎は不可避かと考えさせられました。隣の大韓民国🇰🇷も首都のソウル近郊に全人口が偏在する傾向と、ネットで知りました。
ひろりんさんがここで触れられた湧網線の跡も、過疎が否めないオホーツク振興局に属しますし再度国に地方創生(沿う政策)をと陳情したい位ですよ……。あなたも、感染症や健康管理に注意し過ごされますようお祈りします。
ほとんど消滅ですねぇ。残している部分もありますが、仮乗降場は残らないですよね。。。
仮乗降場は残らないですね…
大学三年 1978年友人とオホーツクを稚内から網走まで走ったが、興浜南線 北線 名寄本線 湧網線は 3:46 まだあった 北見から旭川は石北線になった。寂しい限りだが北海道は過疎が凄まじい
道東、道北の過疎化は凄まじいですね…
計呂地駅と中湧別駅を訪問したことがあります。駅舎、ホーム、線路、車両などが綺麗に保存されていると、今にも列車が走ってきそうな雰囲気がしますね。
雰囲気いいですよね~
余談ですが・・・
芭露駅と福島仮乗降場間に
事故が多く亡くなられた方もいる
いわくつきの踏切がありましたね
一部では「でる」とか「引っ張られる」とか言われてたようですが・・・
そんな踏切があったんですね…
確か最初の事故から1年くらい経って再び事故が起きたのですよね。最初か2度目かはわかりませんが大穴が空いた気動車の写真を見たことがあります。怪奇現象としては「踏切を車で通りがかるとバックミラーにその時間には走っているいるはずのない、しかも無人の気動車が写っていた」という噂を聞いたことがあります。2度目の事故の犠牲者のご遺族が現場近くにお地蔵様を建てられて、以後は事故も怪奇現象も起きていないと聞きます。お地蔵様は何度か位置が変わった?ようですが、今はバス停の少し奥まった所に落ち着かれているようです。
半年前にバイクで計呂地に行きました。なかなか趣のある感じでした。
コロナ渦が落ち着きつつある感じでしたがライダーハウスは営業しておらず残念でした。。。
コロナ以降は泊れないライダーハウスも多くなりましたね…
道路があってもほぼ未改良で鉄道しか交通手段が信頼出来なかった時代には中湧別駅から4方向に伸びる各路線ともに必要性があったんでしょうけどねぇ。(合掌)
戦前から戦後の開業なので、当時は必要な路線だったんでしょうね。
道路が整備された今となっては…
計露地駅跡いいね ただあの跨線橋はいらない感じがする 少しやりすぎ
後半はほとんど仮乗降場だらけ これじゃお客さんは乗らないし たとえJR になったとしても
名寄本線が廃止になっているから 廃止されるのが目に見えている状況 国鉄時代に廃止して正解だった気がします
あの跨線橋は…
中湧別駅、4方向へのジャンクションが全ての方向消え寂しいですね。一方向だけ残る志布志駅もどうなるか。
4方向に延びていた鉄路が、全て消えてしまったのは寂しいですね…
湧網線もそうですが、北海道の鉄道敷設はその殆どが鉱山開発とセットなんですよね💀また、北海道を鉄道で移動する時は、ひろりんさんの動画はとても役立ちます。湧網線3部作……👍
👍
廃線になった路線が沿線が経済都市だったらと思ったらな…新幹線が通るかもしれないな…
遂に、後編きました…
覚悟はしていましたが、ほとんど駅舎も線路跡も消滅していましたぁ…
救いは、けろち駅跡に、車両と一部線路が保存されていてよかったです。
(他の駅跡にもありましたが)
線路が途切れていても、かつてその先に、線路が続いていた事を想像するとワクワクしてきます(笑)
これはの駅跡、廃線跡も人々の記憶から消えてしまうと思うと、悲しくてたまりません…
いや~リアル木造駅舎はたまらない。北海道でも全部立ち寄った訳ではないが雄信内駅はサイコーの駅舎だよ。あそこもいつまで残存するかな。
木造駅舎はいいですね~
堅実なイメージの農村より天候に左右されて不安定なイメージのある漁村の方が残っていることが多いですよね。まとまった現金収入が得られるからでしょうか?
初めまして、私は、Shin nazo cinema'sと申します。よろしくお願いします。
はじめまして!
宜しくお願いいたします。
@@hiroring0323
おはようございます。
昨日の投稿ありがとうございます。
こちらこそ!
ひろりんさんお疲れ様です!
駅舎は残して欲しい。と、いつも思いますねー。がしかし、石碑どころか看板一つあるだけでも嬉しいと思う時もありますが(^_^;)
今回もありがとうございました。
何も残っていない路線だと、石碑や看板だけでも嬉しくなりますね。
ここまで駅…というか地域ごとに保存と整地の格差が大きい元路線も、ちょっと珍しいような😯
要不要を議論するなら不要だったのでしょうが、本当にいいのかい?と中湧別駅跡は語りかけているように思いました😞
そうですね…
これでも結構残っている方かも知れません…
北海道はあまりにも需要の無い所に、鉄道を伸ばしすぎて発展をより遅らせてしまったように感じるんですが、どうなんでしょうか?
この路線は戦前から戦後の開業なので、道路がまともに整備されていない時代には、開拓に必要な路線であったかと思います。
まぁ仮乗降場で済むくらいの利用者というかそもそもの人口を表してる🤔漁村の人くらいしか利用しなかったのですかね…
しかしいつ見ても何度見ても中湧別駅跡が立派すぎる
ですね…
自分が産まれた街…中湧別
中湧別のご出身でしたか。
12:59
ローカル線廃止反対
昔はよく見かけましたね…
北都交通のバスが虚しいですね
寂しすぎ
ひろりん最高
ありがとうございます!
コレも資料とさせて貰うっス。
.....おっふ。
オッフ…👍️
無責任な鉄道切り捨てが国土の荒廃を招く例です。
計呂地駅跡が現役当時に近い形で残っているのですね。
中湧別駅跡は駅舎を残してくれていれば個人的には文句なしですね。
芭露駅跡が跡形も無くなってしまったのは残念ですね・・・
湧網線では芭露駅跡が一番当時の雰囲気を残していて好きな駅跡だったんですが、解体されてしまいました…
計呂地駅跡は駅舎が残っているのがいいですね~
@@hiroring0323芭露駅は老朽化が激しかったのと、管理する手間や費用などの関係で複数の駅舎を保存するのが難しかったのでしょうね。余談ですが芭露郵便局のすぐ隣に戦前に建てられた同局の古い建物(「局」の字が弓に口という略字体?だったのが印象的)が残っていたのですがこちらもいつの間にか無くなっていましたね。