Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
【台本協力】富谷昭夫先生x.com/TomiyaAkio【参考文献・サイト】◯〈現在〉という謎時間の空間化批判www.valuebooks.jp/bp/VS0055396059◯谷村先生のサイト「一物理学者が観た哲学」やそれへの返答に対しての反応がまとまっている。www.phys.cs.i.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/philosophy/works.html◯ヘーゲル全集: ハイデルベルク・エンツュクロペディー amzn.to/44pRC2z◯物質と記憶amzn.to/49Ynw7t◯ベルグソン全集3 新装amzn.to/44iRzWl◯読書メモ:The Physicist & the Philosopher (by Jimena Canales)…アインシュタインとベルクソンは時間をめぐって何を争ったのかrmaruy.hatenablog.com/entry/2019/12/15/145555時間についての物理学哲学双方の文献を読み込んでいる良い感想サイト◯竜open.spotify.com/intl-ja/track/4jae4lCCChsoow9YEI9AnT?si=08e84e184bc64d8a【サポーターコミュニティはこちら!】yurugakuto.com/tetsu【公式Twitter】 ゆる哲学ラジオのTwitterアカウントがあるので、是非フォローしてください!⇨ twitter.com/yuru_philosophy【おたよりフォーム】 皆様からの楽しいおたよりをお待ちしています!⇨ forms.gle/n72HW8ZAaAZu5TM96
今回の動画で哲学の立ち位置が分かりやすく理解できました。ありがとうございます。私、大学の時取った哲学の授業の内容は「哲学は”学”たりえるか?」だったのですが、この動画を拝見して考えることはまさにそれです。いろんな論争はどんな分野でもありますがそれでもこれが真理だろうと理解できる考えを積み重ねてより高みを目指すのが、どんな分野であれ“学”なんだと思います。しかし積み上げでないとするとそれは本当に“学”と言えるのかとの疑問を感じました。むしろ方法論として“芸術“に近いのではないかと感じました。先人の成果は参考にするけど積み上げるよりも、そこからの新たな差異をテーマとして提案するという手法はまさに芸術の進化のそれです。そう考えるとphilosophyを”哲学”と訳したのが適切ではないのかもと思います。”認知術“というイメージかなあと思いました。
哲学だって真理を探究しようとするもので、探究する方向が内側か外側かの違いだけでしょう。哲学が探究するのは意識の中。意識の中は自分の中だから、病人が自分の身体は健康だと言い張るみたいに、自分で全て分かっていると勘違いしやすいんですよ。「学問は積み上げるものだ」というのは、陥りやすい発想ですが、実はひどく短絡的な発想で、根本的に誤っていると思います。傲慢な発想でもあると思います。つまり人が何かを積み上げられるという発想なわけですから。
ゆる哲学ラジオ始まったときから谷村ノート取り上げてほしいと思っていたのでやってくれて嬉しい。哲学側がどういうスタンスで哲学に向き合っているかが知れて良かった
物理法則も極端な条件だと成り立たなくなることがあるから、人間の言語はこのあたりで通用した局地的な方言っていうのはまーじでそう
哲学門外漢で実験系科学徒の自分からすると、本来哲学も理論科学も実験も同時並行して進めていく必要があったのに、人間的な制約と分野の複雑化の影響で文化の違いが発生しちゃったのかなぁと...ちなみに物理学界隈では近しい分野でも違う定義を利用していることが原因で話が噛み合わないなんてことは稀にあるので、使用する記号の統一だったり、最も普及している定義の検証みたいなこともしていたりします。
ちゃんと勉強したわけではないんですが、言語哲学や分析哲学の取り組み方は大好きでした。学部1、2年生に頃は全部分析哲学でやってくれたらいいのに、と思ってました。
哲学は難しいとよくいわれるけれど、このコメント欄には哲学は物理学から見て劣っている(科学的観点から?)という見方が多いように思う。ベルクソンのように哲学者は物理学を学ぶけれども、物理学を養護する者たちは哲学を完全に理解しているかのように批判しているようにも感じる。
科学万能主義という呪術化した現代に生きているから仕方ないね、もはや一つの宗教
言葉を選ばずにいえば科学が豆乳で哲学がおからじゃん
科学は実践的に人を救うけど哲学は精神的に人を救えるからどっちも大切よな
そもそも哲学自体は(はっきりとした線引きでなくとも)定義できるんですかね?素人目には、哲学は「哲学じゃない学問じゃない学問」というか、物理やら数学やらが派生していく中で取りこぼされた疑問について扱い続ける学問である、などという風にイメージしていて言語哲学あたりはそろそろ一つの学問としてまとまりつつあるのかな、とか考えていたのですが
「哲学者も量子力学とか知識をつけて」ひとが心血を注いだものをメタファで権威付けに利用したらまた批判されるな。
陰謀論界隈でよく使われてますしね
現代人からすると哲学は宗教の一種でしょ。好きに禅問答みたいなことをさせといてあげりゃえぇ。中世のキリストの神学で星の運航をバイブルの天動説に合うように観測された事実をすり合わせることに心血注いだように、哲学者が量子力学を自分の信じる哲学にすり合わせるのはアリでは。谷村先生は哲学がまだ学問(科学)足りえると「吉村ノート」をしたためたっぽいですが、個人的にはバイブルの「神による天地創造」に対してビッグバン論をかざしているような「何ネタにマジレスしてんの?」と感じます。(※哲学は学問でない(経典である)派)
@@user-mw2dx9ny2d宗教は哲学を含みますが、哲学に信仰は必要ありません。禅問答は仏教哲学を対話形式で学ぶものです。あなたが理解できないものを全て信仰の問題に落とし込もうとするのは、単にあなたの思考力の低さの問題でしょう。おそらく神学における「天地創造」も天文、物理における「ビッグバン」もご存知無いのでは?
こうして聞いてみるとウィトゲンシュタインの主張(やその解釈)がやはりそのまま回答になるような気がしますね。「哲学の仕事は、現実世界に可能か否かを判断する所まで」「不可能なものを実験するのはナンセンスだからやらなくていいし、可能なものはひたすら探っていけばいい」「判断まではこっちでやっといたから、哲学の問題は解決されたよ」だとか(疑問ではなく解決をしている)「だから、現実に認知しえない(その可能性が無い)形而上学的なものは、検証可能かとかなんとか言う前にナンセンス。無駄だと思うよ」だとか(形而上学とかやっててもしゃあない)「人はそれぞれ自分の認識の中で生きており、他者の世界には生きられない。自分の目でしかものを見れないし、自分の頭で理解するしかないので、世界を見ているその人間の思考、特に「その人自身が持っている言葉」を通して、「その人なりの世界を生きることしか出来ない」」一方で、哲学が批判でなりたってきたというのは間違いないと思いますね。なぜなぜで良いと思ってると思います。その発想や視点から「新たな世界の見方、現象の観測方法を提示できる」という所が価値だと思うので。それと個人的に、日常言語学派と純粋言語学派についても、踏まえて考えたいテーマですね。純粋言語では、どの国の言語であっても一旦、共通の意味(ニュアンスの差なども含め)を持つ言語を組み上げて行って、プログラミング言語の骨格になったり。その一方、日常言語こそが、普段私たちが普通に使っている言語だし、「普通の人」が見る世界こそある意味自然な状態で「世界を見ている」のだから。複雑だけれどより本質ともいえるそれを突き詰めていこうとするのも面白い。動画でもあるように、哲学はなんとなく……人……特に人類。みたいな枠組みではなく、「個人」を理解する上で非常に有用な気がしてます。
たしかウィトゲンシュタインは形而上的なことを無駄だとは思ってませんよ。私は本人では無いので断定はしませんが
@@ajitsukekasabuta あら、失礼しました。また読み直します
@@カナメ-p5e ウィトゲンシュタインは前期と後期で分かれてるのでなんとも言い難いです。
このチャンネルのクオリティ高すぎるよ😢
私は「世の99%の人は文系でも理系でもないただの人」だと思っているので「俺理系だからさぁ〜」という人がいると「お前は理系学部卒の会社員であって理系ではないだろ」と思うのですがそれが口から出そうになるのをよく我慢しています
西周についても知りたいのでいつか取り上げてもらえると嬉しいです!
理系文系って受験文化に根差した言葉なので(でしたよね?)、むしろ「ただの人」を分類するための区分なのでは。要は前提知識として高2~学部2年くらいの数学を身に付けているかどうか。専門的になればむしろ文理の区別は薄くなると思います。
@user-pj5yw6rz2u アジア園以外では存在しない言葉らしいしね
文系理系に限らず、「自分は女だから、男だから」「あなたは男だから、女だから」と、属してる集団で何かを語る人は嫌いですね。その人自身で語れよと思う。
数学、自然科学、工学などで感動するのが理系。哲学、小説、随筆などで感動するのが文系。と私は分類しています。
聞いてる感じでは、哲学ってのは「思索方法論と適用事例論」であるべきなのではと感じました当てはめ、類推、例えにはじまり、帰納法、三段論法からの演繹、背理法、形式化などを生み出したり適用してみたりこれらの多くは論理学や数学として分離し形式化されてますが、それとはまた違うなにかを生み出せなければ、「哲学の役割は終わった」と言われ続けそう相対論の話も、おそらくですが、ベルクソンにとっては「相対論を理解したか」は問題ではなく「アインシュタインがいかにして既存の思考を覆す思考を生み出すに至ったのか、同様の思考方法を哲学という分野にも適用してみたらどうなるか」と思ったのではないですかね
近代の科学を私達が容易に理解できるのは哲学者達が科学的世界観を分析して分かりやすい概念として提示してくれたからだと思う。統計的な見方を近代科学のように我々が理解できないのは哲学者の分析がまだ足りないのではないかと思っている。
@@寺内宏之現代量子力学を哲学者が正しく理解できるとは到底思えんがね。アレは哲学と致命的に相性が悪い。
これからの哲学は、真理を探究する学問ではなく、神学のような「ある世界観に基づいて世界を解釈し説明する」みたいな学問になっていくと思う。
いや、もともとそうだけど。
@@パーパテレーヌ 哲学が「もともとそうだ」というより、人間がもともとそういうものなのかも知れない。人間って世界を解釈し意味を創造しようとする傾向があるように思える。たとえば人生に意味はあるかとかよく語られるけれど、意味は人間が作り出すものと思う。
そもそも科学(物理学や数学も含めた意味での科学)は「ある世界観に基づいて世界を解釈し説明する」という行為そのもの。数式なのか物理式なのか言語なのか、どの方法を取るかという差でしかない。
@@hatopoppo_niki物理学周辺は違うだろ。解釈は現実で修正されるもので、現実によって世界観を構築する学問だ。
@@hatopoppo_niki数学と哲学が等しいと言うのには同意する。解釈から現実と異なる別の世界を作り上げるのがこれらだ。
ソーカル事件のとき以来薄々感じていた「現代の哲学ってお遊びなのでは?」という物理学者の仮説が実証されてしまった感。。。私も学問に身を捧げる立場なのであんまり他所の学問にケチをつけたくはないが、流石に哲学は堕落しすぎのように思う。30:05 これは明確に間違っていて、谷村さんひいては物理学者が主張しているのは「人間の心とか感情とかも観測できるでしょ?だって物理現象なんだから」ということです。決して切り捨ててはいません。ただ、それについて"物理をする"ときには哲学を参考にしないだけです。
24:20 あと、ここもちょっと噛み合わない感じがしています。いろんな哲学が勃興して、20世紀にだいぶ解決されたと言っておきながら、結論を出して今後の研究の礎とするわけでも、界隈全体に共有するわけでもない。単に内輪でワイワイやって終わり。物理学者は(というか哲学者以外は)そういうのを解決とは言いません。外から見れば「遊んでんじゃねーよ」の一言です。24:41 ここはマジで哲学には反省してほしいところです。アウトリーチが貧弱だったこと。内容が"難しい"ことを言い訳にして、理解されないことの慰めとしていたこと。というか、なんなら哲学のアイデンティティって難しさそのものになっていませんか?もしそうなら倒錯しています。ちなみに物理学は言うまでもなく難しいですが、アウトリーチはトップクラスで上手い学問です。図や応用例、身近な現象をフル活用して面白さを伝えようとします。31:30 これは、ちゃんと理解できておればよいのですが、という一点に尽きます。分かっていないのに分かったような口を利くのは最悪です。内容に致命的な間違いが含まれてしまうし、何よりリスペクトに欠けるからです。
@@朝霧人間性 哲学側の言い分を聞けば聞くほど、「おたくらのやってることって本当に学問なの?」と思えてしまう。
じゃあ意識はなぜ生まれるのか物理学で解いてください
@dextrom1888そうやって「自然科学には問題を解く能力がある」という思い込みを指摘したのがカルナップやポパーなのだが。天動説、スターリンクトウモロコシ、ロボトミー手術は科学ではなかったと?仮にそう言うのであればあまりに恣意的で議論にならないね。
@カヌー-j5gお、今すぐその光る板捨てるか?
哲学は観測の副作用に対して頑健な観測者内部の真理に焦点を当ててるイメージがある
簡単に一つの答えや結論を下して共通のものとして広めてしまうとそれが正義になってしまい、後からとんでもない悲劇を巻き起こしかねないから慎重にならざるを得ないということを大学時代に学んだ覚えがある。
そういうのは物理学とか数学でも普通にあって、例えばニュートン力学は相対性理論によって厳密には成り立たない事が分かったけど、それでも十分に速度が小さい領域では近似的に成り立つ事が分かってるからいまだに使われてる。数学ではニュートンとライプニッツが微積分を発明してから、極限について曖昧なまま議論が進んでいて、しばらくしてからε-δ論法による厳密な定義が与えられて、これまで曖昧な議論のせいで間違った結論が導かれる事があったのが分かった。そういう、「普遍的に成り立つと思ってたらこういう条件でしか成り立ちませんでした」っていう間違いはよくあるし、それを糧にして進んできたのが科学なんだから、哲学もそうやって進めりゃいいじゃんって物理学者なら考えると思う。
@@あいうえおかきくけこ-u5p ただ、数学はちょっと特殊で厳密ではあるけど、概念が本来の意味を離れて独り歩きする事は良くあるその微分の概念だけども物理学科の人が良く使う微分小の概念を発展させたリー群方向の研究もあれば唯の微分の符号であるdy/dxを本当に分数として分離させる微分形式だったり線形性とライプニッツ側だけを残してεδを完全に捨てた微分ガロア理論って言う分野だって存在する
@@あいうえおかきくけこ-u5pただ、数学はルール変えれるから、普遍性を求めてる訳じゃないと思うんよな
「正義」の意味と、「とんでもない悲劇」とかいう自分の頭の中にしか存在しない曖昧な表現は使わない方がいいといいう事も学べれば良かったのにな。
@@あいうえおかきくけこ-u5p「哲学もそうやって進めりゃいいじゃん」ってコメントにちょっとびっくり。寧ろ哲学はそういう事ばかりやってる学問だし、なんなら元祖じゃん。釈迦に説法きわまりない。
真理を追究することは最終段階であって、言語にする行いや、物理現象を記述することは、その一つ一つの行為をとってみればおそらく各々の事象に問いに答えることよりも記述することに意味を成している気がするそして条件を絞って絞って絞ってシンプルな確からしいことを積み重ねていったとしても有機的な複雑な構造を有してるものの振る舞いを捉えきれないと考えると答えのでない問いは、絞っていく行いによって抜け落ちたものを拾ってもう一度記述しなおすことにも繋がる気がする
谷村ノートの「科学の知識を使えば、少なくともこの説とこの説はただちにつぶせる」というのを網羅的に教えてほしいなぁ
物理学は検証できることを扱っているのに対し、哲学は検証が困難な問題を扱っている。そのため物理学で行っている知識の積み重ねが哲学では曖昧なままで置かれる。哲学者は問いかけだけに興味があると言うのもある部分当たっているかもしれないが、どの学問でも問題をどのように設定するかで結果が大いに影響されるのだから、それも少し言い過ぎのように思います。おもしろいテーマだと思いました。
あらゆる関係や立場を内包できる、あるいはできてしまう(されてしまう)のが哲学なので、「物理学の立場から哲学を批判する」ということそれ自体を哲学に含めることができてしまうのですよね
まさにこれこの人は物理学の視点から哲学を批判する文脈で話しているが、この文脈そのものが哲学過程そのものでしかない。
人は自分の認識したものは完全に言語化できず、完全に言語化できないものは議論をしても完全な答えは出ない。しかし議論をしないとそもそも意思疎通はできないので言語について研究するしかない。的なものを公聴会で貰った様な気はするが中々難しい分野なのは確か。
物理学(自然科学)も哲学も元は一つだったというのはその通りなんですが、哲学から分離独立して、科学的手法(観察・実験・仮説を立てる・理論化)によって世界を解き明かし始めた現・自然科学(や一部の人文科学)と、科学が抜けた後の、狭義の哲学との間には根本的な分裂があるように感じますね。他方で、(狭義)哲学者・哲学徒の中には、分裂前の哲学の意識が強く、自分たちが科学に対して宗主国のように思ってる人もいて、これは哲学→科学の理解を妨げている感情だと思います。
多分コメ主が書いているような内容が割とよくある通念としての哲学理解なんだろうな。
宗主国って表現が上手な言語化だと思ったまさに哲学系の人から感じる感覚はそれです
「功績」をパッと示しずらい世界だよね……何か大事な事を判断しなきゃいけない時とかに4年間の思い出に頼る事はあるけど、(それはほとんどの「大学を卒業した人」にとって同じだろうし)実生活に役立つことはまあ無いです偉い教授が「お前らを哲学の無い世界に帰してやるのが俺たちの仕事」と言っていたのを思い出した
医学に生きてる人間的には物理学と平行して哲学が発展してほしいと切に願う。技術を監視する倫理はどうしても必要。
物理学者「哲学者の言語は厳格さに欠けている!」数学者「おまいう」
数学者の竹内外史先生が物理学者が使う数学に警鐘を鳴らされていましたね。
私は工学部卒で院も行って今開発職の人間(理系?)ですけど、洋書を開いて「(プログラミング言語やUMLも含めて)記号やら言語とは」「システムとは」「モデルとは」とか哲学的な記述によくぶち当たったり、問題解決のときに倫理学的な知見が問題の整理に役立つなと実感したりしています。哲学に無関心であることと逆に自然科学の歴史に敬意のないことが視野を狭めているのかな、もったいないなと時々思います。
「哲学的な記述」とはなんでしょうか?
哲学は「言語世界」にしか興味がない、のでは決してない。我々の認知する世界そのものが言語的な世界であり、我々はそのようなパーズペクティブでしか世界を構築することはできないのだ。というのが19世紀あたりからの哲学の議論。物理学者ひいては科学万能主義を掲げる人々が妄想するような「客観的な世界」などと言ったものは我々が人間である限り絶対に構築し得ない。20世紀に科学のあり方を徹底的に論理づけたポパーを参照すればすぐにわかる話。
ポパーを読んでも、サイエンスの素人の意見としか思えないなんであんなものが「科学的」至高のイロハみたいになってるのか、全く理解出来ない
学問が細分化され、かつそのレイヤーが物理-化学-生物(脳科学)-心理学-社会学・人文学と連鎖してスケールすることで世界を広く鮮明に認知できるようになってきている(ご丁寧に反証可能性まである)。なので、「世界の真理を知りたいなら哲学じゃなくてストレートに科学やれよ」はほんとその通りだと思う。逆に主要な科学が網羅していない知見や思想・宗教と、学問上の哲学はどう差別化しているんだろう。
追記です。物理学(相対論)における時間の研究は、四次元方向に物体が移動するというより、物体が「伸びる」法則を研究してるんだと思います。四次元時空の中で物体がどのような構造をとれるかという。哲学の扱う時間は、その四次元の構造物の一つである人間の脳の中を過去から未来へと駆けていく意識について語っている気がします。時間についてはこの違いだと思います。
文系のくせに理系の授業に潜り込んだり他学科に潜り込んだりしておかしな奴だと言われたおかしな人とは私のことですが、とある先生から聞いた話では哲学は全体しか見れなくて切り取ることは哲学にはできないといい、しかし歴史は全体を語ることができず一面の視点でしか語ることができないと言いました。私は史学科だったのですが納得しています。時代区分なんか哲学者はしないでしょう。時代ごとに違ったらそれは真理ではありません。
この番組で哲学の話を聴くたびに「なるほどなぁ」と思わされるけれど、同時に「それってあなたの感想ですよね」って心のひろゆきが呟いてる
「現実世界を模写した言語思考世界にのみ関心があるのではないか」って哲学批判というよりかは認識論批判っぽいですよね。
物理には突き詰めていけば答え(正解)はあるけど、人生には正解は無いじゃない。その正解のない事にアプローチするのが哲学などの文系学問だと理解してます。どっちも大事と思う。
サムネのあなた、批判してる側の顔も批判されてる側の顔もしていらっしゃる
確かに哲学者って言語世界にしか興味がないというのはそうだなって思いました。
物理学も哲学も、この世界を理解するためのアプローチの一つにすぎんよ
これからますます「偶然性」というキーワードが注目されるのではないか、と思いつつ、ブートルーを読んでいます。
この物理学者の言語に関する懐疑は、物理学者の数学に関する懐疑にそのまま返ってくると思った。
たしかに哲学ってそれまでの論証を根本から覆して新しい地表から論理を展開するので、目に見える進歩はないように見えますよね。
哲学的議論において用語の定義が甘いのはおそらく初心者でもすぐ気づきますよね。ただ、科学は人間が世界を認識する唯一の方法としての意識についてほとんど何も解明してないので、唯物論、唯識論、その他の議論からすら逃れることはできないのも確かです。
科学は検証可能なものしか取り扱えないからな。「物がどのように落ちるか」を解き明かす学問であって、「物はなぜ落ちるのか」を取り扱える学問じゃない。
「物が何故落ちるか」は思想の範疇で、それが必要だというのならそれを取り扱える学問、理論が必要だというのは話の筋が通っている。問題なのは、哲学がそれを取り扱うことができる形式なのかという事だ。
「哲学のココがダメ」っつうのも哲学や。
時間という語がたまたま同じだけでお互い違う概念について話すことになるんだからそんな議論に意義があると思えないしなぜそんな虚しいことをしようと思うのかも理解できないよ
私は数理物理をやってるのですが、つくづくこの動画の内容のようなことを思ってました。特に・哲学の方々は「実在」という言葉をおのおのが好き勝手な意味で使ってる感・つきつめるなら論理式で会話しろよ感ってとこはめっちゃ感じてました。
面白かったです。学生時代に初めて「哲学」に出会ったときのことを思い出しました。私は、大学生の頃に名古屋大学の戸田山和久先生の「哲学入門」を読んで、哲学ってめちゃくちゃ面白いなと思いました(私自身は理系でした)。それまで哲学を勉強したことがなかった私は、「哲学入門」の内容(具体的には自然主義かつ唯物論的な哲学)が哲学の王道だと思い込んでしまいました。しかし、その後いわゆる伝統的な哲学の本を読んだら、全然何を言っているのかわからなくて結局挫折してしまいました。ここで、一素人が思う哲学に対する不満を述べてみます。個人的には、哲学は言語を重視しすぎているのでは、と思っています。確かに、「感覚を通して経験し得るもの」のみを研究対象とするなら、言語は強力なツールではありますが、最近では認知心理学や脳科学の発展により、「心」についても科学的に研究できるようになっています。そのような状況においても、言語のみを使って哲学をすることの意味が私にはあまり感じられません。(もちろん、科学的知見を踏まえて哲学研究をしている方もいるとは思いますが)仮に、そのような研究が哲学的には意味があったとしても、科学者はあまり受け入れられないだろうと思ってしまいます。(私は科学者ではないので、これは憶測です)以上が私の哲学に対する不満?というかモヤモヤです。私は、どちらかというと物理や数学が好きで哲学は挫折しているので、上の批判は不勉強ゆえの思い込み・勘違いかもしれません。なので、間違いがあれば教えていただけると幸いです。また、分かりやすくて、面白い哲学の入門書があれば教えてください。以上。
全くもって横槍を入れることになるかもしれませんが、哲学は言語を重視してるが、認知心理学や脳科学分野で人の心を言語ではないもので分析・提示できるのではないか。それならば、現代においては科学者には到底受け入れられないような、言語のみで記述するというあり方は無意味なのではないか、という指摘ですね。今回の動画では、現代において、研究そのものが処理しなければならない情報量が多いという話があったかと思いますが、その定義自体を疑うというプロセスがあります。他の研究においては、式の答えは正しいのか、と思案するときになぜその式から答えを出す必要があるのか?ということを考えません。その式が構成された前提を信じている部分があるからです。ですが、哲学者は自分が納得してその前提を受け入れてからでないと、その後の行動にも納得できません。しかも、それは自分という人間の行動原理になるわけですから、他人という人間にとっても原理として普遍的にはたらくだろう、と考えるのだと思います。(それに価値を見出さず、家族などが本を出版して後世に名を残す学者はいますよね) あと、なんといっても科学は、人を考慮しないのであります。ゆえに、人間の立場や人間のあり方を他の学問は決めることが出来ないと思います。脳科学者は、なぜ脳がこの反応をするのか?という反応を調べても、私の怒りそのものを別にどうにかしてくれるわけではないです。例えば、怒りを感じたら心拍数が上がり、血流が集まるということが数字でわかり、そのような状況になっても暴力に頼る人と頼らない人がいる。頼らない方がよいのか、頼るほうがいいのか?という倫理的な問いや、怒りを感じたが、この怒りは他の誰かの怒りと同じ怒りなのか。または、怒りを感じなくなる薬を飲んだとして、それは倫理的なことか?などという実践以前の問題は、言語以外では答えられません。 このような理由から、問いを立てること=哲学のようになってきているという動画内の指摘は、言語をある程度扱えるようになってきたことから、哲学がより庶民的なものになってきているという部分に繋がるのかなと思いました。元々は信じて行動する、というのがわからないことだらけだったからそうする、という選択だったが、ある程度知ることが増えると、疑問が増えてくる。だから、哲学は疑問に対する答え方のバリエーションが増えてきた結果、別の学問へと形を変えながら存在しているのだと思います。哲学系の本で哲学的な意味を感じたければ、哲学の本を読むよりは実践哲学という関わり方もよいのではないかと思います。「哲学カフェ」の参加などしてみてはいかがでしょうか。入門書はどれも歴史的なことを言語で記してありますので、似たような解釈本が多いかと思います。
@@山本-y1w 丁寧なコメントありがとうございます。まず、誤解のないように述べておくと私は哲学という学問がいらないとは思ってはいません。むしろ最近のAIの発達によってその重要性は高まっていると思います。ただ素人の私から見ると哲学者の論理展開はアクロバティックすぎて理解できないと思うことがしばしばあります。もちろん、「それはお前が勉強不足だからだ」と言われれば全くその通りなのですが。
@@fat_monkey6104 お返事感謝致します。長文失礼いたしました。正直、普段見ていても己の主張から始まって、帳尻合わせのために弱い部分をごり押している人も多いです。コメ主さんが、どの時代の論理がアクロバティックな論理だと感じられたかによってこの辺りは変わるでしょう。正直、古典の哲学書はギリシャ以降は人間の生き方の指針という点だけでいえば、参考になりにくいものばかりです。ここからは私の個人的な意見です。(必要ではないと思いますが知っていただいて、何かお役に立てば、と思います)個人的には、その時代の代表的な叡智と呼ばれるような人の愚かさ、みたいなものに着目するようにしています。哲学は誰でもできたわけではないので、当時の選ばれた人でも神を信じていたり、今では驚くような論理展開を行っているという可笑しさ、その与えられたものの中から少しずつ自分の固定概念を壊そうともがいている姿は非常に人間クサいというか、面白いものだと思います。また、哲学という学問は学問ではありますが、知を愛するという観点で、役に立つ立たないはあまり気にしないで良いという側面もあります。日本に科学と同時期に輸入されたと動画の中でありましたが、別で輸入されたのには、やはりそこに好奇心を満たすという役に立たなくても良いという思い切りがあるのだと思います。哲学を学問としてだけ他の学部と並べてしまうことは、philosophy の知を愛するという文脈から愛を剥奪という意味で、とても罪なことのように感じます。ゆえに、なにか今後の時代で哲学が必要なことであると感じるのであれば、ソクラテスの対話をまとめたプラトンの著作であるとか、マルクスアウレリウスの自省録、マキャヴェリの君主論、ジョンスチュアートの自由論、フロムの愛するということ、ハンナアーレントの人間の条件、など、現実に即したものから入られるほうがよいかもしれません。歴史全体の中で有名どころを見ても、私もこいつのいうてること意味わからんな、みたいなことはよくあるので。
@@fat_monkey6104 上のコメントにある、おそらくは鷲田清一さんの臨床哲学のような「哲学」と、学問として学ばれることの多い「哲学史」は分けて考えるといいのかもしれません。「哲学」は基本的にあらゆる経験を含めた自身の人生に学ぶという理解のもとでおそらくは広く了解され、また多くの人がその必要性を多少なりともは認めている部分だと思います。「哲学史」の評価はかなり難しいと思います。特にガリレオ、ラヴォアジェ以降科学で「なぜ」という問いが「如何に」に変化し、哲学がいわば切り捨てられた領域のように見なされるのも、自然な流れかもしれません。ただ、哲学と科学の世界には、誤解を恐れずにいうならば捉え方の違いが存在します。少し考え方が古いかもしれませんが、哲学の立場からすると科学はいわば一種の諦めと妥協の末に生まれた学問で、哲学と同じく何も生み出していないと考えることもできます。ラッセル流に言えば、我々の世界がまるでこうあるようだというセンスデータがあるだけで、この世界に対する必然性は何からも見出すことはできません。同様に、先達の哲学者たちの理論にも何の必然性もありません。例え普遍的に見える心理があったとしても、それが錯覚でないことを保証するものは存在しません。「哲学史」を学ぶために先人の哲学書を読むのであれば、こうした視点が理解の助けとなるかもしれません。あらゆる哲学理論にはそれに対する批判が存在します。例えばデカルトの「我思う、故に我あり」に対しては、フィヒテの批判などが有名ではないでしょうか。有名な哲学者の解説本や訳本には、それを担当された先生の後書きがあって、その哲学者を批判した人の紹介などがあります。一つの理論とそれに対する批判を合わせて理解すれば、もしかしたらアクロバティックすぎる論理展開という印象も少しは和らぐかもしれません。(こじつけまがいの無茶苦茶な論理展開が存在することも認めます)これは私なりの考えですが、哲学は「無」を取得する学問です。しかしこれは価値ある「無」です。ここが見過ごされてしまうから、哲学を問いを立てるだけと見なされてしまうのかもしれませんが。ここが科学とは違う点だと思います。アクロバティックな論理展開は批判されるために存在すると言ってもいいかもしれません。長々と下手な長文をすみません。
@@山本-y1wそれは、社会のあり方を規定し前提を構築する行為は哲学者じゃなきゃ出来ないことなのか?それをするのが哲学者だと言って仕舞えば終いだろうが、それを認めるなら哲学は学問じゃない。
理系からみると、「アインシュタインvsベルクソン-時間論争」なんて、ファインマンも書いていたように、ガリレイの相対性原理の理解も怪しい奴が相対論を語るなの一言で終わり。
見に行ったけどスピが生命の波動とか言ってるアレと何が違うのか理解できなかった
哲学は知の言語化から論理の小手先に変わってる
物理にせよ哲学にせよ、現代の知性が業界のポジションを持ち、自己否定できないと言うのが問題ということなのかな・・。
物理学には観察、実験、数学という確認方法があるが、哲学は客観的な確認方法が限られている点が問題だと思う。
そりゃ哲学じゃその「客観」が保証出来ないんだもんwでもね、テクノロジーで何でも可能になる日が来たその時にブレーキをかけるのが哲学だと思うよこの大仕事が残ってるうちは哲学をないがしろにしちゃダメかな
@@shadowartemis7851そのブレーキを作るのは本当に哲学者の仕事か?
@@shadowartemis7851個々人が空中に瓦礫を積むが如き学問の何が役に立つのか。そりゃあ思想の哲学は役に立つだろうさ。だがそれを使うのは社会学者であり政治家であり経営者であり民衆だ。
@@shadowartemis7851 哲学とは突き詰めれば思想に他ならん。どこまで学んでも見ず知らずの他人の思想、それが難解な言い回しと名前で何か立派なもののようなお墨付きを得ているだけだ。社会を回すべきなのはそれを構成する一人一人の心の中にある哲学であって、決して学問の皮を被ったナニカではない。
@@goc-2611 肯定的に捉えると分からなくもない。しかしながら少し物事を側面からだけで見ているように感じる。例えば医学がより発達し、問題のある性格を脳に直接外科的手術を持って改善可能できるようになったとする。例えば解析された遺伝子からタンパク質を合成し全く同じ個人を0から完全に生み出せるようになったとする。技術的に可能であれば際限なく行使するのがテクノロジーであるならば、それにガイドラインと言うブレーキをかけるのが哲学の仕事の一端ではないかと問いかけた。
物理学もちゃんと全ての概念を定義した上で議論を進めているかと言ったらちょっと怪しいところあるからな。厳密に定義されている言葉や数式だけで議論を進めると、議論の幅が極端に狭くなってしまうので、物理も「あんまり厳密じゃないけど、突き詰めればなんらかの方法で厳密に定義できそう」って段階で見切り発車して、ある程度煮詰まった段階で厳密な定義を与えているよね
30:41 このエピソードがどこ情報なのか教えて欲しいです
物理学は神が造り、人に与えた学問であり、宇宙の事象を表すことが出来る。哲学は人が作った学問であり、あらゆる学問の中で一番神を殺せる可能性をもった学問。
数学や物理では網羅できないことは確かにあるので、哲学そのものは必要だと思う。しかし一部の哲学は、数学や物理学がカバーしている範囲内のことを、数学や物理学の言語を使わずに(または非常に稚拙な使い方をして)拙い論理だけで論じている印象。それなら素直に数学と物理を勉強すりゃいいじゃんってなる。
個人的な見解として、哲学における「時間」は「時間意識」の話だから、そこから物理学にとやかく言うことは基本的にはできないし、言うことができても、物理学が証明した事象・理論の正しさを認めた上で「でも主観的なことや存在論的なことは歯抜けとしてあるよね」と言うぐらいしかないと思う
ただ主観的な"時間"と言う物にしてもこのまま心理学や脳科学なんかがもっと進歩して行けばいずれそっちのルートから何かしらの答えが見つかっちゃいそうじゃない?
@@厨弐 でもそれらも科学としてやっている以上、結局主観的とされている領域を外から観測してやっているわけだから、たとえば現象学が求めてるような、厳密な意味での主観的な意識の領域やそこに生じる時間の問題についてその二つが研究することは、方法論的にまず難しいんじゃないかなぁと思ってる(とはいえ、認知科学や脳科学がメチャメチャ近いところをやってるのは事実そうだし、相互に影響を与え合うこともあるから、詳しいところに関しては曖昧でーす)
@@厨弐それは唯物論的な機能主義の立場であって、もうすでにアカデミズムでは乗り越えられている。
@@hatopoppo_niki クオリアの事ですか?それにしてもどの道長い時間をかけて研究を進めて行けば限りなく正解に近い研究成果がいつか得られるんじゃないですかね?私は近代西洋科学の進歩に期待します形而上学的な意識への考察に関してはもう釈迦が完成させちゃってると思うので西洋哲学にはあまり期待してません
@@厨弐 クオリア理論も関係しますが、特には「意識のハード・プロブレム」ですね。脳科学で意識を解明できるという考えは「中国脳」という思考実験でほとんど反駁されてます。「中国脳」について見てみてください。それと形而上学的な意識への考察は釈迦が完成させているというのはどう言った意味、具体的にどういうことでしょうか。浅薄な小生にぜひご教示ください。
哲学が言葉と論理を道具として用いる学問ならば物理学より数学のほうが比較対象としては優秀な気がする。19:46 物理学者が普段使うのが数学という論理と言葉が道具の学門だからこそ哲学の論理が拙く感じるのだと思うんだよね
「我々は言葉で考えている」もミスリードだしなぁ…まず自分が何に対して何を感じて何を考えているか、これがすでに言語化できていませんよね。できてるつもりになってはいますが。また同じようにそうした自らについて認知できていない思考・処理についての理解もできていない。(例として、ある問題についての解決の道筋が急に浮かぶ閃きなどが想像できます。これを「無意識による思考と処理の積み重ねからの応答」とするならば、ですが)とすると、結局哲学は学問分野として始まってもいないのではないか?とすら思いました。言い過ぎかもしれませんが。(とりあえず界隈にしか通じないジャーゴンを使うのはやめてほしいなぁ…わかりやすくしてはいけない呪いでもあるんだろうか)ともあれめちゃくちゃ面白かったです。
よくよく考えると「哲学は学問なのか?」と呼ばれると、その側面はあるかもしれませんが、厳密には違う気がしますね。哲学は行為だと思います。人や世界について考える行為全般を指して「哲学」とされたのではありませんでしたか?「真理を理解しようとするなら、ストレートに科学をやった方が良い」というのも、これこそ哲学的な発言だなと思いました。なにより、これも「言語」によって伝えているし、表現している。そして、「どうすれば伝わるか」「表現できるか」は思考なので、このノートもそれら過程を得た最終成果物として作られたものだと思います。なにより、「そのアプローチ違うよ、欠陥があるよ」っていうのは非常に有益な視点ですし……哲学者同士でも「こいつの言ってる事おかしいよ」ってやりとりは散々なされてきたわけですから、(反対に、他分野から哲学に入った方もいらっしゃいますし。他分野が哲学を進めてきた歴史もありますし)厳密に言えば「哲学への批判」というより「哲学者への批判」がテーマだったのかなとも思いました。どうしようめっちゃおもろい……(笑)
ファインマンだっけか、「数学と物理の関係は自慰と性交に似ている」といった人がいるけど、「数学」を哲学に置き換えても成り立ちそうだ。
哲学好き物理好きな非哲学系、非物理系ヲタです。おもしろく拝見させていただきました。面白さの理由の一つは突っ込みどころ満載なところでしょうか。最後の方で哲学さんが「界隈」という言葉を使用されましたが、全体に「界隈」で割り切れる議論であったように思いました。半世紀ほど前、コンピュータ科学のミンスキーは[フレーム]理論を提唱し、ものごとの認識に「フレーム(枠組み)」を背景に置くことで、認識とそれに続く操作の合理化が図れることを示しました。細部の異同を切り捨れば、「哲学界隈」や「物理学界隈」とは、それぞれ「哲学フレーム」であり「物理学フレーム」と言ってよいでしょう。フレームの中では、そのフレーム文脈で自明なことは特に言葉の概念(定義)を顧みることはないし、逆に新たな文脈を提示することで、言葉の外延に止まらず、内包的概念の拡張を読む者に迫るような用語法もあり、いってみれば言葉はフレーム中の「暗黙知」を構成し、哲学フレームそのものも暗黙知の一つであったとも言えるでしょう。昔から「言葉」の使用に敏感だった哲学者たちがそういう「暗黙知」としての言葉やフレーム(界隈)を認識しなかったはずはなく、でなければ、アリストテレスがあれほど「ロゴス」に拘ることもなかったでしょう。もっともそういう「暗黙知」はタレス以下のイオニア自然学派が気付いていたとは考えにくいですが、それに続いたソフィストたちがそれを意識し、暗黙知のレベルに潜む言葉の意味を明るみに引き出すことで、弁論術を磨いたことは周知のことです。もっとも、そのことが彼らをして自ら知者(ソフィスト)と名乗らしめたことで、暗黙知をより深く見極めたソクラテスにより、他ならぬソフィスト自らが磨き上げた弁論術により打ち負かされることになるのは、歴史にはアルアルな皮肉でしょうね。 ベルクソンが特殊相対性理論に対して異議を唱えたのは、自ら発見した意識に対する所与としての「時間」を、特殊相対性理論は考慮の埒外に措いたからに他ならないと思うのです。「持続と同時性」を読めばただちにそれが特殊相対性理論の優れた解説書となっていることがわかり、すなわちベルクソンが特殊相対性理論の時間論を完全に理解していたことがわかるのですが、結局のちにベルクソン自らこの書を絶版指示したのは、特殊相対性理論の帰属するフレームとベルクソンが拘った時間意識を問題にするフレームとの交わることのない排他性に、そもそもこの議論が噛みあうことはないということに、ベルクソン自身が気付いたからに他ならないのではないかと、私は思うのです。
教育では(大学受験までの)数学、物理を扱ってますが、研究分野は宗教学、日本思想史の領域です。卒論は日蓮論、修論は新宗教研究でした。アインシュタインとタゴールのやり取りも面白いですね。
「哲学側の努力不足もある」ヤな上司「努力しなくていいよ、結果出してくれれば」
哲学も物理学も素人なのですが、個人的な見解を①全ての学問は演繹によって結論を引き出すが、演繹は自明な原理から始める②数学も、論理学も、限定されたその規則を最低限自明とみなす(1=1が前提であったり、p,p→qならqであったり)③しかし、ここでいう自明とは、実のところ主観的である、なぜなら1=1は無根拠だから、信仰によって成り立つもし信仰を放棄したいなら、放棄出来る。例えば「AならばAでないことはない」を放棄して、代償に一言もしゃべらない選択が出来る④しかし、全ての言語(数学含む)を成り立たせているのは論理なので、喋りたいなら論理を信仰しなければならないしかし、まだ他の体系、即ち、「論理」そのものから演繹できる原理以外は受け入れない選択が出来る⑤ここからは信仰の問題であるつまり、論理そのものからは導出できない原理は本来主観的である。しかし、それを自明と受け入れて信仰することによって、それを前提に演繹を行い、「前提が正しいならば」正しい結論を出すことが出来る哲学と物理学、どちらがより多くの無根拠な前提を取り入れているかは私は知らないので、みなさんで判断してくださいしかし、例えば1=0を受け入れられないのは、単に観察に対する解釈の問題です「勝手に定義して演繹する」のが許されるなら、どのような定義から初めても良い訳ですよね
インターステラーでのアメリアのセリフ「愛は時空を越えられる」を思い出しました
哲学が宇宙とは何か/人とは何か/自己とは何かという問いに対しての真理を追求する学問だと言うと哲学外の人にとっては「ちょっと待って、あなたが何を思って言ってもいいけどそれは真理ではなくあなたの個人的な感想であり結論です。」という反応になるけど哲学とは思索方法、或いは過去の哲学的文献を読み解く等、思索について研究する学問だと言ってくれれば界隈は平和になる気がする
私は谷村先生のノート読んで哲学とはかかわらんとこって思った物理学徒でした。
谷村ノートだけ読むのアンフェア何でしょうが、物理を覆す”非物理的意識状態”を主張したり、明らかに破綻した論理を指摘されたり、しかも招待した側がこんな横柄なコミュニケーションをしているというので、心底失望した。当時、知の欺瞞(ソーカル事件)を読んで、やはり失望した。”文系”の人間が嫌いだったが、同じ言葉を繰るが”話が通じない人”が存在するんだなぁと、嫌いな人間に対する解像度が上がった出来事でもあった。
すくなくとも、哲学というのは文学研究のようなものだという認識があっても良いように思う。
真面目に議論しようとしたら、哲学書の宣伝に使われるの最悪すぎる。
言語生成AIから言語哲学や分析哲学に興味がわき、そこから出発して関連する入門書をいろいろ読んでいたら、ニンゲンの思考に関するアルゴリズムや人間の作り方が書いてあるようかのように思えてきた。情報工学/AIの観点から読むと非常に興味深い. 情報量には物理学でいうところの保存則はないし、情報処理では数学のような厳密性は必須ではなく、近似で技術者の経験が入ることもある. そもそも工学は人間が使う道具を研究対象にする学問なので物理学や数学に比べると哲学に近い位置にある。言語生成AIを使いこなすには論理的思考が必要となり、言語で語る哲学が「陽」に役立つ時が来たと言える.
哲学の存在が科学とは別の角度で人間社会をより良いものにしているのなら、今後も哲学が展開され存続する意味があると思う。谷村さんは宇宙を理解するのに人類の言語や常識だけでは不足だと言っていたけど、逆に人間が感覚や言語の中で作り上げた社会を理解するためには寧ろ、数学的な記述だけでは不十分であるように思う。今一度現代に置ける哲学の意義を考え直すことが出来て良い動画でした!
プラグマティズム的立場ですね。役に立つならば価値があり意味がある。
20世紀以降の言語哲学・分析哲学・科学哲学でどのように解決されたのか聞いてみたいです。お話聞いてると哲学って芸術なのかなって思いました。ドガとピカソの絵の世界観を研究するようなちがうか。
哲学すると 何に対しても確信もてなくなってくる 突き詰めて考えると 考えれば考えるほど わからなくなってくるので 哲学は建設的には なれない 自己の考えたことを 述べるにとどまるわけなんですけど ただ哲学する利点 まあ利点た言えるかどうかはなんとも言えませんが 他のものに対する 寛容性が生じるのは 確かではないかと 我々一般人は 考えておりますよ
この世界は物質と心(定義は「認識する機能」)の二元である。と、ある初期仏教の学者はこう言ってます。私の浅い知識では、「物質の動態」の研究が物理学であり、「認識したもの(≠心)」を研究するのが哲学である。と考えました。両社が片面に特化して研究しているように思いました。物質(心も可)を心が認識して現象が生まれると考えてますので。この動画で現象学という学問を初めて聞きましたが、物理学と哲学のハイブリッド学問の予感がして、現象学に興味が湧きました。ありがとうございました。
認識や心の時間は脳科学、心理学の分野でもあると思う。このふたつの分野でもctや脳波、MRI等、なんらかの装置で測定、観測するのだから、無茶苦茶広い意味で物理ともいえるか?(星の観測とかとは違うけど。)
物理の定義だって突き詰めれば無定義用語にぶち当たるのにそこに哲学との差はないでしょ
無定義用語なんかあったっけ?
無定義の意味がわからんな。物理学とは観測から世界観を構築する学問だが、哲学は在るべき状態から世界観を作り上げようとする学問だ。F=maは観測事実だ。力は質量と加速度の積である。自由の相互承認は観測事実ではない。人民の最大幸福という在るべき状態のために作り出された概念で在る。扱えるもの全てに定義は存在する。物理学の定義は現実に則し、哲学の定義は思想に則す。定義無きものを扱うのは不可能だ。
しかし、これは為されていない。動画内に出てきたように、「形而上的」という言葉は定義されていない。質量とは我々の観測事実によって存在が保証され、運動方程式によって定義される概念である。「形而上」は違う。記号論的にも集合論的にも未定義で、それを定義できる有用な理論は存在しない。自然言語では厳密な定義を行う事は困難である。
@@goc-2611君いろんなコメ欄で暴れまわってるけど、何が言いたいかをまず最初に書いてから論理を展開してくれよ。
@@まるまる-p7c 「お前の言っている事ははなから間違っている。物理用語は無定義などではないし、正しい哲学用語も無定義などではない」言わな分からんか?
量子力学を視野に入れた哲学が展開されればおもしろいかも、、と終盤にいわれてましたが、ホワイトヘッドはいかがでしょうか?プリコジンなど科学者からも言及されることのあるまれな哲学者だとおもいますし。
前回から見始めたけど、素晴らしい。
まあ今の産業資本に侵蝕されて官僚化してしまい倫理的役割果たせていない今の大学のこと思えば 各分野で やり合うのは いいことだと一般人は 思っていますよ そういうのは もっと公共のメディアとか公の場で やり合ってもらいたいと一般人は思っていますよ やり合わないと浄化できないでしょう
化学を研究していくと物理学になって、物理学を研究していくと数学になって、数学を研究していくと哲学になる、みたいな小話ありますが、数学と哲学の間には大きな溝があるように思う。数学では定義からスタートするし、小学生レベルからの積み重ねもあり、どんどん問題が高難易度になっても方向性が定まっている。また数学的対象は母国語も関係ないし、時々、現実に様々な分野で役にも立つ。でも数学とは違って哲学が役にたったり、何かの社会問題を哲学者が解いたり、SNSで論破王が有名になる時代ですら哲学者が幅を利かすこともない。哲学者の議論も複雑ではあるか難しいかも怪しいし、ただどうでもいいことを捏ね繰り回したり、固執しているだけかもしれない。スポーツならルールも明確で勝敗が誰でもわかるし、この距離をこの速度で移動するなんて凄いって思えるかもだけど、哲学が扱うテーマはそういう基準すらない。数学なら何百年解かれていない難問やある程度解くべき問題が共有され、課題が明確だったりするけど、哲学上の結論を哲学者同士が共有する必要がないってもう既に学問として必要のないものなのかもしれない。
今の数学って定義と言うより公理から始まってる感じはする
あなたが数学も哲学もよく知らないのは分かった
まぁ哲学って言葉遊び感あるしね
@@3r743その理由を説明できなければ「哲学の悪口いうな!バーカバーカ!」って言ってるのと変わりませんよ
@@3r743群論よくわかんねえから解説してくれ
時間と空間を一体に考えるモデルなら、ここから彼方までが生まれたとき、その時から未来の彼方までも生まれたと考えていいはずで、ある時刻が自動的に現在になるようなモデルではなく、任意の時刻を原点にしてシミュレーションできる便利な道具でしかないという批判は成り立つ。
いわゆる”理系”vs”文系”的な対話は興味深いですよね。例えばアインシュタインとベルクソンアインシュタインとフロイト岡潔と小林秀雄ソーカルとポスト構造主義者逆に哲学的な物理学者も沢山いましたね。例えばモーペルチュイ、ニュートン、マッハ、アインシュタイン、ボーア、ゲルマン、ダイソン、ウィーラー、ペンローズ、ワインバーグ、などなど
学生時代、物理の教授に宇宙の向う側について脱線した話になった時、教授が、それは哲学だねと言ったが、私は即、哲学もなにも現在とこの地球につながってるではないですか?と言った。更には生理学の教授にも、先生の講話は脳死は人の死だと決めつけているように話されてますが、難病も宇宙万物の理論も治せないわからない、そんな人間が人の死を決めつけるのは、勘違いではないですかね、と言ってしまい、後で呼び出され怒られると覚悟しましたが、先生から君の考え方は間違ってはいない、と言われました。いい先生にめぐりあいました。哲学は科学のずっーと先にある、それを科学をつかって人類は解明していってるそれが学問だよと言われました。
「Aの解釈がaだった時、BはCである」を論理式使って纏めとけばそんな100年も前の学者の本を原書で読む必要も無いんでは…?
哲学と諸科学とは時代的にも理論的にもカント辺りで分裂したものだろう。カントの批判は現象の超越論的観念性と経験的実在性の二重性の指摘、そしてその峻別に尽きる。つまり観測によって捉えられる対象についてしか実在性realityを認めることはできず、そうでないものは観念的idealなものでしかないと言明することで、経験的実在性の世界を諸科学(社会科学や認知科学なども含む)に譲り渡し、形而上の世界から解放するものとして、カントの批判は再確認されるべきだと思う。(ここから意地の悪い見方をすれば、ヘーゲルの絶対知は観測を経て成功した科学的認識、いわばあみだくじの当たりからスタートに溯行して最初からわかっていましたみたいな顔をしている理論と言える。)さて支配領域を全て譲り渡した諸学の母たる哲学が今さら諸科学の領域に首を突っ込んでも「おっかさんそういう時代じゃないんだよ」とうざがられるだけだが、哲学には唯一倫理という形而上の領域だけは残されている。その領分においてそれこそ物理学などの出る幕はなく、仮に何か口を出してきたらそのときはボコってやればいいと思う。
うーんどうでしょう倫理といっても反証可能性がないのですからそれこそ「それってあなたの考えですよねw」で終わってしまうんじゃないですか?
@@msyksnhr形而上学的命題に対してそれは通用しない。普遍的なもの、イデア的なもの、カントで言うところの叡智界は実在するとしないと、そもそも理性的認識が成り立たないということは『純粋理性批判』で述べられている。
哲学とは納得感だと、なんとなくそう思います
昔、アインシュタインさんが宗教と科学はそれぞれ片方だけではダメで、宗教と科学は一体でないとダメみたいな事を言いましたよね。同様に、科学と哲学も片方だけ勉強したけどもう片方は知らないというのではダメで、そんなに専門的に深くなくてもいいから両方勉強して両方のおおよそのことは知っていないとダメだと思います。哲学は意味がないと言う人は、そもそもあまり哲学を勉強していないのかもしれません。別の話になりますが最近、私はマトモな人間形成のためには科学の知識だけでなく、哲学の知識も大切だとつくづく思います。
物理は観測できないものは存在しない扱いだから、論理的に考えれば限りなく高い確率で存在するであろうものでも、まだ観測できてないから物理学においては存在してない扱いになってるものとか結構あるもんね
どんなものですか?
同じくどんなものか気になる。ダークマターは存在してない扱いっていうのはかなり微妙だし(分からないという態度を取っているように思える)、タキオンやホワイトホールは数式上で出てくるだけで別に高い確率で存在するとは言えない。マルチバースも物理学者が信じてるとかを言い出してる所を見ると存在しない扱いではないと思う。高い確率で存在するとされるのなら普通にあると仮定した結果の論文とかありそうだし、やっぱり存在しない扱いはしないと思う。別に反証可能性を重視しないと思ってるわけではないけど。
既存の確固たる物理に基づいて演繹された帰結であれば、それが実証可能である限り一つの説として物理の議論の対象となります*。物理(科学)で扱わない、則ちその事柄の法則についての原理的に区別し得ない複数の説があって、かつその区別をつけることに何らかの意味があるような、非自明な(例えば、人類史というスケールの問題に科学的方法論が必ずしも通じると思わない。こういう自明なケースでない)例が思いつかない。*そのエネルギースケールは実験で実現し得ないだろ、みたいな理論はあるだろうし、それが"科学"か、という疑念も当然ある。『数学に魅せられて、科学を見失う』
ゲージも波動関数も観測できないけど存在してることになってない?
23:33 「言語を通して作り出してる現象世界が研究対象」に関しては、個人的には経済学で似たような感覚を覚えますね。経済学が定義した変数"のみ"存在しているバーチャルな地球や地域の経済に興味があるだけで、極端な表現で言えば実体経済と経済学の理論に乖離があったとしても、「短期的には実体経済が経済学と乖離する事を経済学は許容している。長期的(最終的と言い換えても良い?)には経済学の言う通りになるのだ」とする意見は少なくないように思えますね。いつかのアメリカ大統領が言うように、長期的にを悠長に待っていたら、我々は皆、寿命を迎えてしまいます...
哲学者の言葉遣いと物理学者の言葉遣いの違いをこれまで考えたことがなかったのでとても面白かったです。哲学者は詩人と親しく物理学者は法律家に近い気がします。裁判で証言として詩が朗読されることはおそらくないので二者の溝は埋まらないと思います。詩には正解を求める言語使用はありませんし推理小説は答え合わせで進んでいきますから同じ言語を使用していても噛み合わなくて当然なのだとわたくしは思っています。ただ二者が対話する場面を見ることは意味があるように思われます。わたくしが知っているエピソードを紹介します。稲垣足穂は1930年の「文芸レビュー」六月号に「アインスタインの空間とベルグソンの時間に就て」という一文を寄せています。アインスタインはアインシュタインにベルグソンはベルクソンに現代では表記が変わっていることも時代を現していますね。引用します。《ベルグソンは自分から、あなたはこういう事を云おうとするのだろうと云って、そこへ数学をもち出して、こうだからこう、だからこうだと云うのでしょうとアインスタインの云おうとしたことや質問に供えようとしていたところまであます余地なく云ってしまった》と稲垣足穂さん。《このユーモーラスな話は、けれどもさすがアインスタイン博士も水晶のような議論をするベルグソンにはかなわなかったろうと思わせる他は、どちらが勝った負けたなどいうことはない》と稲垣足穂さん。《この話を私にもたらした人は一度スペインの大学でベルグソンの講演をきいたそうであるが、素朴な自分の書斎にいるような態度で語り出す論理が音楽のようによどみなくつづいて、しかもその速記を見ると一点なおす必要のない名文であった》と稲垣足穂さんは記しています。
人の心の中の作用を解析するのが哲学だと思う。物理でそれを理解するなら、真空内に球体の人間が必要。
物理学って普段はめちゃ謙虚(何もわからんって姿勢)だよね、、、
哲学も自然科学もどちらを使用しても真理を解くことは叶わない。ということを念頭に議論などがあれば両者ともに有意義な時間になるのではないかと常々思う。
この通り自然科学、もちろん哲学にもだが、真理については漸近的にしか近づき得ないと言うことを理解してない一般人が多い。もちろんアカデミズムでは圧倒的に少数だが。
19:57 消極的(〜でない)な形で人間が認識できる範囲外に定義されてるもんだと思ってた。ダークマターみたいに。
哲学者や哲学史やそれぞれの主張や解釈に詳しいことが哲学者なの?って疑問があってそんな事よりそれぞれの人が生きてきた中で人生ってこういうもんだよねとか人ってこういう風に思うよねとかの方がよっぽど哲学的じゃね?って思うそうすると全ての個人にそれぞれの哲学がある訳で現象の話と同じように個人個人で違うものをそれぞれが好き勝手に発表しあってなるほどそういう考え方もあるのかーと更に自分の考え方もまたそこで変わり変化し続ける個人個人で違い更に常に変化するものの真実を追うって自分の尻尾を追いかけて回る犬みたいな感じすらしてしまう
でも、変化しながら段々と洗練されていくので、それで良いんじゃないかなあ
それがいいのでは?
@@user-ps4kq8rf8r もちろん個人個人はそれで良いと思いますそれこそが人間の、人類の成長ですしヘーゲルの哲学とかもそんな感じですよねただ哲学という学問は進歩してるのかと例えばそれこそヘーゲルが今の哲学を聞いて「自分の思想より進歩している!」と納得するのかなと仮に物理ならアインシュタインを必ず納得させられますしね積み上げや進歩ではなく新しい解釈や新しい思想が生み出されていくという意味ではそれは学問ではなく文芸や芸術の方が近いですよね
@@karaage1597 自分であれやこれや考えるにあたって、必死に考えてようやく得た結論を数世紀前の人がすでに回答しているということがままあるので、哲学者に分類される人は予備知識として哲学史を勉強するってことを、大学の哲学講師に聞きましたね。過去の哲学者や主張・解釈に詳しい人は広い意味での歴史好きに分類されるんではないでしょうか。後、すみません。個人的に気になったので、質問させてください。私の言葉の使い方では進歩という大分類の中に、新しい解釈・思想が生まれるという小分類があるという認識です。そこをあえて「進歩ではなく~」切り分けているのにはどんな意味があるのでしょうか?※否定・批判したいわけではなく、自分と異なる言語センスに対する好奇心ゆえの質問です。
@@時空間迷子 自分の中で進歩は「前に」進むイメージです方向性をもって目的地へ向かうのが進歩かなとそれに対して無秩序に泡のように新しいものが生まれてくるのは(進歩と分けるならば)進化とでも言いましょうか生物の突然変異と同じ様に新しい種が生まれそこには当然退化も含まれているし右にも左にも枝分かれし逸れていくし講師の先生のおっしゃる通りぐるぐると同じところを回り続けるかもしれないそして哲学は後者のパターンなのではないかなという感じです
phD(Doctor of Philosophy)を名乗る博士号を持つ自然科学者にはこれくらいの哲学分かって当然ろという反論いかがですか?
門外漢なので、この質問が適切かどうかわかりませんが、唯物論(すべての根源は物質にあるという考え方?)を前提としない自然科学って、現在、存在するのでしょうか?そういう自然科学が仮にあったなら、哲学と物理学は話し合いになるかもしれないなーと思いました。一方、物理学が唯物論の枠から一歩も出ないつもりなら、両者の話し合いは成り立たないのでは?と思いました。ところで、これまでに、唯物論自体を疑って行なった物理学の実験とかってあるんですか?もしあったらワクワクするな~。
人間である限り、哲学からは逃れられませんよ。
というより人間のみならず形而上的現象の影響を多分に受けてしまう😊
哲学も物理学もほぼ素人ですが、哲学は理想論に近しいと思っていました。ざっくり言うと、「この社会が、人類が良くなるために」という前提のもと、「我々はどう生きるべきか。どう在るべきか。」という問いへの答えを出していく学問。しかし細かいところをこねくり回すような不毛な議論も含まれている?と考えると少し悲しいです。一種のスピリチュアルにも近い、未来的な社会のあり方を哲学で説き、その実現のために解明していく科学という認識でしたが、実際はそのような立ち位置ではないということでしょうか?身の回りにある、「ちょっとこれってどうよ?」という不満や疑問、社会や人間の未熟さを題材にした哲学が広く普及すれば良いなぁとも思います。
哲学が理想論を語る学問なら間違っても科学と密接な関係にはならないですよ理論的、法則的な科学は哲学的な考え方が根底にありますもっとも、これを知らずそのような認識で哲学を学ぶと却って落胆してしまう恐れは十分にありますが。
極端かもしれませんが、哲学は音楽のようなものだと考えます。古典音楽と現代音楽とを比較したときに、現代音楽は必ずしも古典音楽に勝るとは言い切れません。また、音楽はバリエーションが増えていくものであって、科学のように過去の理論を振るいにかけて積み上げていくものではありません。どのような音楽を愛好するかは個々人に委ねられ、必ずしも検証を必要とはしません。理論が磨かれることはなく、その種類を増やしていく行為が学問に該当するかは意見が分かれると思われます。
観測してデータを取ってモデルを作って実際の現象とおおむね合ってて使えるんならそれで大成功って世界の勉強をしてたから、最初は哲学なんてくだらないと思ってたんだよね。哲学とか、データをしっかりとってないし合ってるのかどうか検証もできないしノーベル賞に哲学ないじゃんって単純に馬鹿にしてたんだけど、ある日哲学者と物理学者の対談の本を読んですごく面白くて、哲学をちょっと勉強してみようって思ったんだよね。哲学者ってあいつら何考えてんの?何やってんのいったい?って感じで。だから今回のお話はすごく面白かった。本の紹介もありがたい。哲学は面白い。
「別に主張があったわけではないが理性的に論理展開したらこういう結論になった」を主張している風でもなく、行きつく主張(法則)は、バラバラ。が、哲学と、もし、するならば、「話として面白ければ、良いか ^^; 」扱いになる/扱いにせざるを得ないかもしれない。まぁ、その、世の中の流行りものと似ているというか…
人間が、あらゆる謎を解き明かし「これはこうだ!」と言ったとき、眼をきらきらさせた6歳児が現れて、「それはなぜ?」と問いかけます。解き明かした謎のそのまた先も謎なのです。「神のみ技は計り知れない」で逃げることは許されません。もしかしたら「シジフォスの岩を押し上げる」のは、人類の苦行であり喜びであるのかも。
その全部論理記号で書くって言う試み自体も、それはそれで分からない事が多くて楽しいんよな実は論理って俺達が思ってるほど客観的なものではなく、色々主観で弄れる普通の論理は矛盾を毛嫌いするが矛盾もある程度許容する矛盾許容論理って論理も実はあるんだよなあ
【台本協力】
富谷昭夫先生
x.com/TomiyaAkio
【参考文献・サイト】
◯〈現在〉という謎時間の空間化批判
www.valuebooks.jp/bp/VS0055396059
◯谷村先生のサイト
「一物理学者が観た哲学」やそれへの返答に対しての反応がまとまっている。
www.phys.cs.i.nagoya-u.ac.jp/~tanimura/philosophy/works.html
◯ヘーゲル全集: ハイデルベルク・エンツュクロペディー
amzn.to/44pRC2z
◯物質と記憶
amzn.to/49Ynw7t
◯ベルグソン全集3 新装
amzn.to/44iRzWl
◯読書メモ:The Physicist & the Philosopher (by Jimena Canales)…アインシュタインとベルクソンは時間をめぐって何を争ったのか
rmaruy.hatenablog.com/entry/2019/12/15/145555
時間についての物理学哲学双方の文献を読み込んでいる良い感想サイト
◯竜
open.spotify.com/intl-ja/track/4jae4lCCChsoow9YEI9AnT?si=08e84e184bc64d8a
【サポーターコミュニティはこちら!】
yurugakuto.com/tetsu
【公式Twitter】
ゆる哲学ラジオのTwitterアカウントがあるので、是非フォローしてください!
⇨ twitter.com/yuru_philosophy
【おたよりフォーム】 皆様からの楽しいおたよりをお待ちしています!
⇨ forms.gle/n72HW8ZAaAZu5TM96
今回の動画で哲学の立ち位置が分かりやすく理解できました。ありがとうございます。
私、大学の時取った哲学の授業の内容は「哲学は”学”たりえるか?」だったのですが、この動画を拝見して考えることはまさにそれです。いろんな論争はどんな分野でもありますがそれでもこれが真理だろうと理解できる考えを積み重ねてより高みを目指すのが、どんな分野であれ“学”なんだと思います。しかし積み上げでないとするとそれは本当に“学”と言えるのかとの疑問を感じました。
むしろ方法論として“芸術“に近いのではないかと感じました。先人の成果は参考にするけど積み上げるよりも、そこからの新たな差異をテーマとして提案するという手法はまさに芸術の進化のそれです。
そう考えるとphilosophyを”哲学”と訳したのが適切ではないのかもと思います。”認知術“というイメージかなあと思いました。
哲学だって真理を探究しようとするもので、探究する方向が内側か外側かの違いだけでしょう。哲学が探究するのは意識の中。意識の中は自分の中だから、病人が自分の身体は健康だと言い張るみたいに、自分で全て分かっていると勘違いしやすいんですよ。「学問は積み上げるものだ」というのは、陥りやすい発想ですが、実はひどく短絡的な発想で、根本的に誤っていると思います。傲慢な発想でもあると思います。つまり人が何かを積み上げられるという発想なわけですから。
ゆる哲学ラジオ始まったときから谷村ノート取り上げてほしいと思っていたのでやってくれて嬉しい。哲学側がどういうスタンスで哲学に向き合っているかが知れて良かった
物理法則も極端な条件だと成り立たなくなることがあるから、人間の言語はこのあたりで通用した局地的な方言っていうのはまーじでそう
哲学門外漢で実験系科学徒の自分からすると、本来哲学も理論科学も実験も同時並行して進めていく必要があったのに、人間的な制約と分野の複雑化の影響で文化の違いが発生しちゃったのかなぁと...
ちなみに物理学界隈では近しい分野でも違う定義を利用していることが原因で話が噛み合わないなんてことは稀にあるので、使用する記号の統一だったり、最も普及している定義の検証みたいなこともしていたりします。
ちゃんと勉強したわけではないんですが、言語哲学や分析哲学の取り組み方は大好きでした。学部1、2年生に頃は全部分析哲学でやってくれたらいいのに、と思ってました。
哲学は難しいとよくいわれるけれど、このコメント欄には哲学は物理学から見て劣っている(科学的観点から?)という見方が多いように思う。ベルクソンのように哲学者は物理学を学ぶけれども、物理学を養護する者たちは哲学を完全に理解しているかのように批判しているようにも感じる。
科学万能主義という呪術化した現代に生きているから仕方ないね、もはや一つの宗教
言葉を選ばずにいえば
科学が豆乳で哲学がおからじゃん
科学は実践的に人を救うけど
哲学は精神的に人を救えるから
どっちも大切よな
そもそも哲学自体は(はっきりとした線引きでなくとも)定義できるんですかね?
素人目には、哲学は「哲学じゃない学問じゃない学問」というか、物理やら数学やらが派生していく中で取りこぼされた疑問について扱い続ける学問である、などという風にイメージしていて
言語哲学あたりはそろそろ一つの学問としてまとまりつつあるのかな、とか考えていたのですが
「哲学者も量子力学とか知識をつけて」
ひとが心血を注いだものをメタファで権威付けに利用したらまた批判されるな。
陰謀論界隈でよく使われてますしね
現代人からすると哲学は宗教の一種でしょ。好きに禅問答みたいなことをさせといてあげりゃえぇ。
中世のキリストの神学で星の運航をバイブルの天動説に合うように観測された事実をすり合わせることに心血注いだように、哲学者が量子力学を自分の信じる哲学にすり合わせるのはアリでは。
谷村先生は哲学がまだ学問(科学)足りえると「吉村ノート」をしたためたっぽいですが、個人的にはバイブルの「神による天地創造」に対してビッグバン論をかざしているような「何ネタにマジレスしてんの?」と感じます。(※哲学は学問でない(経典である)派)
@@user-mw2dx9ny2d宗教は哲学を含みますが、哲学に信仰は必要ありません。
禅問答は仏教哲学を対話形式で学ぶものです。
あなたが理解できないものを全て信仰の問題に落とし込もうとするのは、単にあなたの思考力の低さの問題でしょう。
おそらく神学における「天地創造」も天文、物理における「ビッグバン」もご存知無いのでは?
こうして聞いてみるとウィトゲンシュタインの主張(やその解釈)がやはりそのまま回答になるような気がしますね。
「哲学の仕事は、現実世界に可能か否かを判断する所まで」
「不可能なものを実験するのはナンセンスだからやらなくていいし、可能なものはひたすら探っていけばいい」
「判断まではこっちでやっといたから、哲学の問題は解決されたよ」だとか
(疑問ではなく解決をしている)
「だから、現実に認知しえない(その可能性が無い)形而上学的なものは、検証可能かとかなんとか言う前にナンセンス。無駄だと思うよ」だとか
(形而上学とかやっててもしゃあない)
「人はそれぞれ自分の認識の中で生きており、他者の世界には生きられない。自分の目でしかものを見れないし、自分の頭で理解するしかないので、世界を見ているその人間の思考、特に「その人自身が持っている言葉」を通して、「その人なりの世界を生きることしか出来ない」」
一方で、哲学が批判でなりたってきたというのは間違いないと思いますね。
なぜなぜで良いと思ってると思います。
その発想や視点から「新たな世界の見方、現象の観測方法を提示できる」という所が価値だと思うので。
それと個人的に、日常言語学派と純粋言語学派についても、踏まえて考えたいテーマですね。
純粋言語では、どの国の言語であっても一旦、共通の意味(ニュアンスの差なども含め)を持つ言語を組み上げて行って、プログラミング言語の骨格になったり。
その一方、日常言語こそが、普段私たちが普通に使っている言語だし、「普通の人」が見る世界こそある意味自然な状態で「世界を見ている」のだから。複雑だけれどより本質ともいえるそれを突き詰めていこうとするのも面白い。
動画でもあるように、哲学はなんとなく……人……特に人類。みたいな枠組みではなく、「個人」を理解する上で非常に有用な気がしてます。
たしかウィトゲンシュタインは形而上的なことを無駄だとは思ってませんよ。私は本人では無いので断定はしませんが
@@ajitsukekasabuta
あら、失礼しました。
また読み直します
@@カナメ-p5e ウィトゲンシュタインは前期と後期で分かれてるのでなんとも言い難いです。
このチャンネルのクオリティ高すぎるよ😢
私は「世の99%の人は文系でも理系でもないただの人」だと思っているので「俺理系だからさぁ〜」という人がいると「お前は理系学部卒の会社員であって理系ではないだろ」と思うのですがそれが口から出そうになるのをよく我慢しています
西周についても知りたいのでいつか取り上げてもらえると嬉しいです!
理系文系って受験文化に根差した言葉なので(でしたよね?)、むしろ「ただの人」を分類するための区分なのでは。要は前提知識として高2~学部2年くらいの数学を身に付けているかどうか。専門的になればむしろ文理の区別は薄くなると思います。
@user-pj5yw6rz2u
アジア園以外では存在しない言葉らしいしね
文系理系に限らず、「自分は女だから、男だから」「あなたは男だから、女だから」と、属してる集団で何かを語る人は嫌いですね。その人自身で語れよと思う。
数学、自然科学、工学などで感動するのが理系。
哲学、小説、随筆などで感動するのが文系。
と私は分類しています。
聞いてる感じでは、哲学ってのは「思索方法論と適用事例論」であるべきなのではと感じました
当てはめ、類推、例えにはじまり、帰納法、三段論法からの演繹、背理法、形式化などを生み出したり適用してみたり
これらの多くは論理学や数学として分離し形式化されてますが、それとはまた違うなにかを生み出せなければ、「哲学の役割は終わった」と言われ続けそう
相対論の話も、おそらくですが、ベルクソンにとっては「相対論を理解したか」は問題ではなく「アインシュタインがいかにして既存の思考を覆す思考を生み出すに至ったのか、同様の思考方法を哲学という分野にも適用してみたらどうなるか」と思ったのではないですかね
近代の科学を私達が容易に理解できるのは哲学者達が科学的世界観を分析して分かりやすい概念として提示してくれたからだと思う。統計的な見方を近代科学のように我々が理解できないのは哲学者の分析がまだ足りないのではないかと思っている。
@@寺内宏之現代量子力学を哲学者が正しく理解できるとは到底思えんがね。アレは哲学と致命的に相性が悪い。
これからの哲学は、真理を探究する学問ではなく、神学のような「ある世界観に基づいて世界を解釈し説明する」みたいな学問になっていくと思う。
いや、もともとそうだけど。
@@パーパテレーヌ 哲学が「もともとそうだ」というより、人間がもともとそういうものなのかも知れない。人間って世界を解釈し意味を創造しようとする傾向があるように思える。たとえば人生に意味はあるかとかよく語られるけれど、意味は人間が作り出すものと思う。
そもそも科学(物理学や数学も含めた意味での科学)は「ある世界観に基づいて世界を解釈し説明する」という行為そのもの。数式なのか物理式なのか言語なのか、どの方法を取るかという差でしかない。
@@hatopoppo_niki物理学周辺は違うだろ。解釈は現実で修正されるもので、現実によって世界観を構築する学問だ。
@@hatopoppo_niki数学と哲学が等しいと言うのには同意する。解釈から現実と異なる別の世界を作り上げるのがこれらだ。
ソーカル事件のとき以来薄々感じていた「現代の哲学ってお遊びなのでは?」という物理学者の仮説が実証されてしまった感。。。
私も学問に身を捧げる立場なのであんまり他所の学問にケチをつけたくはないが、流石に哲学は堕落しすぎのように思う。
30:05 これは明確に間違っていて、谷村さんひいては物理学者が主張しているのは「人間の心とか感情とかも観測できるでしょ?だって物理現象なんだから」ということです。決して切り捨ててはいません。ただ、それについて"物理をする"ときには哲学を参考にしないだけです。
24:20 あと、ここもちょっと噛み合わない感じがしています。いろんな哲学が勃興して、20世紀にだいぶ解決されたと言っておきながら、結論を出して今後の研究の礎とするわけでも、界隈全体に共有するわけでもない。単に内輪でワイワイやって終わり。物理学者は(というか哲学者以外は)そういうのを解決とは言いません。外から見れば「遊んでんじゃねーよ」の一言です。
24:41 ここはマジで哲学には反省してほしいところです。アウトリーチが貧弱だったこと。内容が"難しい"ことを言い訳にして、理解されないことの慰めとしていたこと。というか、なんなら哲学のアイデンティティって難しさそのものになっていませんか?もしそうなら倒錯しています。
ちなみに物理学は言うまでもなく難しいですが、アウトリーチはトップクラスで上手い学問です。図や応用例、身近な現象をフル活用して面白さを伝えようとします。
31:30 これは、ちゃんと理解できておればよいのですが、という一点に尽きます。分かっていないのに分かったような口を利くのは最悪です。内容に致命的な間違いが含まれてしまうし、何よりリスペクトに欠けるからです。
@@朝霧人間性 哲学側の言い分を聞けば聞くほど、「おたくらのやってることって本当に学問なの?」と思えてしまう。
じゃあ意識はなぜ生まれるのか物理学で解いてください
@dextrom1888そうやって「自然科学には問題を解く能力がある」という思い込みを指摘したのがカルナップやポパーなのだが。
天動説、スターリンクトウモロコシ、ロボトミー手術は科学ではなかったと?
仮にそう言うのであればあまりに恣意的で議論にならないね。
@カヌー-j5gお、今すぐその光る板捨てるか?
哲学は観測の副作用に対して頑健な観測者内部の真理に焦点を当ててるイメージがある
簡単に一つの答えや結論を下して共通のものとして広めてしまうとそれが正義になってしまい、後からとんでもない悲劇を巻き起こしかねないから慎重にならざるを得ないということを大学時代に学んだ覚えがある。
そういうのは物理学とか数学でも普通にあって、例えばニュートン力学は相対性理論によって厳密には成り立たない事が分かったけど、それでも十分に速度が小さい領域では近似的に成り立つ事が分かってるからいまだに使われてる。数学ではニュートンとライプニッツが微積分を発明してから、極限について曖昧なまま議論が進んでいて、しばらくしてからε-δ論法による厳密な定義が与えられて、これまで曖昧な議論のせいで間違った結論が導かれる事があったのが分かった。
そういう、「普遍的に成り立つと思ってたらこういう条件でしか成り立ちませんでした」っていう間違いはよくあるし、それを糧にして進んできたのが科学なんだから、哲学もそうやって進めりゃいいじゃんって物理学者なら考えると思う。
@@あいうえおかきくけこ-u5p
ただ、数学はちょっと特殊で厳密ではあるけど、概念が本来の意味を離れて独り歩きする事は良くある
その微分の概念だけども
物理学科の人が良く使う微分小の概念を発展させたリー群方向の研究もあれば
唯の微分の符号であるdy/dxを本当に分数として分離させる微分形式だったり
線形性とライプニッツ側だけを残してεδを完全に捨てた微分ガロア理論って言う分野だって存在する
@@あいうえおかきくけこ-u5p
ただ、数学はルール変えれるから、普遍性を求めてる訳じゃないと思うんよな
「正義」の意味と、「とんでもない悲劇」とかいう自分の頭の中にしか存在しない曖昧な表現は使わない方がいいといいう事も学べれば良かったのにな。
@@あいうえおかきくけこ-u5p「哲学もそうやって進めりゃいいじゃん」ってコメントにちょっとびっくり。
寧ろ哲学はそういう事ばかりやってる学問だし、なんなら元祖じゃん。
釈迦に説法きわまりない。
真理を追究することは最終段階であって、言語にする行いや、物理現象を記述することは、その一つ一つの行為をとってみれば
おそらく各々の事象に問いに答えることよりも記述することに意味を成している気がする
そして条件を絞って絞って絞ってシンプルな確からしいことを積み重ねていったとしても
有機的な複雑な構造を有してるものの振る舞いを捉えきれない
と考えると
答えのでない問いは、絞っていく行いによって抜け落ちたものを拾ってもう一度記述しなおすことにも繋がる気がする
谷村ノートの「科学の知識を使えば、少なくともこの説とこの説はただちにつぶせる」というのを網羅的に教えてほしいなぁ
物理学は検証できることを扱っているのに対し、哲学は検証が困難な問題を扱っている。そのため物理学で行っている知識の積み重ねが哲学では曖昧なままで置かれる。哲学者は問いかけだけに興味があると言うのもある部分当たっているかもしれないが、どの学問でも問題をどのように設定するかで結果が大いに影響されるのだから、それも少し言い過ぎのように思います。おもしろいテーマだと思いました。
あらゆる関係や立場を内包できる、あるいはできてしまう(されてしまう)のが哲学なので、「物理学の立場から哲学を批判する」ということそれ自体を哲学に含めることができてしまうのですよね
まさにこれ
この人は物理学の視点から哲学を批判する文脈で話しているが、この文脈そのものが哲学過程そのものでしかない。
人は自分の認識したものは完全に言語化できず、完全に言語化できないものは議論をしても完全な答えは出ない。しかし議論をしないとそもそも意思疎通はできないので言語について研究するしかない。的なものを公聴会で貰った様な気はするが中々難しい分野なのは確か。
物理学(自然科学)も哲学も元は一つだったというのはその通りなんですが、
哲学から分離独立して、科学的手法(観察・実験・仮説を立てる・理論化)によって世界を解き明かし始めた現・自然科学(や一部の人文科学)と、
科学が抜けた後の、狭義の哲学との間には根本的な分裂があるように感じますね。
他方で、(狭義)哲学者・哲学徒の中には、分裂前の哲学の意識が強く、自分たちが科学に対して宗主国のように思ってる人もいて、
これは哲学→科学の理解を妨げている感情だと思います。
多分コメ主が書いているような内容が割とよくある通念としての哲学理解なんだろうな。
宗主国って表現が上手な言語化だと思った
まさに哲学系の人から感じる感覚はそれです
「功績」をパッと示しずらい世界だよね……
何か大事な事を判断しなきゃいけない時とかに4年間の思い出に頼る事はあるけど、(それはほとんどの「大学を卒業した人」にとって同じだろうし)実生活に役立つことはまあ無いです
偉い教授が「お前らを哲学の無い世界に帰してやるのが俺たちの仕事」と言っていたのを思い出した
医学に生きてる人間的には物理学と平行して哲学が発展してほしいと切に願う。技術を監視する倫理はどうしても必要。
物理学者「哲学者の言語は厳格さに欠けている!」
数学者「おまいう」
数学者の竹内外史先生が物理学者が使う数学に警鐘を鳴らされていましたね。
私は工学部卒で院も行って今開発職の人間(理系?)ですけど、洋書を開いて「(プログラミング言語やUMLも含めて)記号やら言語とは」「システムとは」「モデルとは」とか哲学的な記述によくぶち当たったり、問題解決のときに倫理学的な知見が問題の整理に役立つなと実感したりしています。哲学に無関心であることと逆に自然科学の歴史に敬意のないことが視野を狭めているのかな、もったいないなと時々思います。
「哲学的な記述」とはなんでしょうか?
哲学は「言語世界」にしか興味がない、のでは決してない。我々の認知する世界そのものが言語的な世界であり、我々はそのようなパーズペクティブでしか世界を構築することはできないのだ。というのが19世紀あたりからの哲学の議論。
物理学者ひいては科学万能主義を掲げる人々が妄想するような「客観的な世界」などと言ったものは我々が人間である限り絶対に構築し得ない。
20世紀に科学のあり方を徹底的に論理づけたポパーを参照すればすぐにわかる話。
ポパーを読んでも、サイエンスの素人の意見としか思えない
なんであんなものが「科学的」至高のイロハみたいになってるのか、全く理解出来ない
学問が細分化され、かつそのレイヤーが物理-化学-生物(脳科学)-心理学-社会学・人文学と連鎖してスケールすることで世界を広く鮮明に認知できるようになってきている(ご丁寧に反証可能性まである)。
なので、「世界の真理を知りたいなら哲学じゃなくてストレートに科学やれよ」はほんとその通りだと思う。
逆に主要な科学が網羅していない知見や思想・宗教と、学問上の哲学はどう差別化しているんだろう。
追記です。
物理学(相対論)における時間の研究は、四次元方向に物体が移動するというより、物体が「伸びる」法則を研究してるんだと思います。四次元時空の中で物体がどのような構造をとれるかという。
哲学の扱う時間は、その四次元の構造物の一つである人間の脳の中を過去から未来へと駆けていく意識について語っている気がします。
時間についてはこの違いだと思います。
文系のくせに理系の授業に潜り込んだり他学科に潜り込んだりしておかしな奴だと言われたおかしな人とは私のことですが、とある先生から聞いた話では哲学は全体しか見れなくて切り取ることは哲学にはできないといい、しかし歴史は全体を語ることができず一面の視点でしか語ることができないと言いました。私は史学科だったのですが納得しています。時代区分なんか哲学者はしないでしょう。時代ごとに違ったらそれは真理ではありません。
この番組で哲学の話を聴くたびに「なるほどなぁ」と思わされるけれど、同時に「それってあなたの感想ですよね」って心のひろゆきが呟いてる
「現実世界を模写した言語思考世界にのみ関心があるのではないか」って哲学批判というよりかは認識論批判っぽいですよね。
物理には突き詰めていけば答え(正解)はあるけど、人生には正解は無いじゃない。その正解のない事にアプローチするのが哲学などの文系学問だと理解してます。
どっちも大事と思う。
サムネのあなた、批判してる側の顔も批判されてる側の顔もしていらっしゃる
確かに哲学者って言語世界にしか興味がないというのはそうだなって思いました。
物理学も哲学も、この世界を理解するためのアプローチの一つにすぎんよ
これからますます「偶然性」というキーワードが注目されるのではないか、と思いつつ、ブートルーを読んでいます。
この物理学者の言語に関する懐疑は、物理学者の数学に関する懐疑にそのまま返ってくると思った。
たしかに哲学ってそれまでの論証を根本から覆して新しい地表から論理を展開するので、目に見える進歩はないように見えますよね。
哲学的議論において用語の定義が甘いのはおそらく初心者でもすぐ気づきますよね。ただ、科学は人間が世界を認識する唯一の方法としての意識についてほとんど何も解明してないので、唯物論、唯識論、その他の議論からすら逃れることはできないのも確かです。
科学は検証可能なものしか取り扱えないからな。「物がどのように落ちるか」を解き明かす学問であって、「物はなぜ落ちるのか」を取り扱える学問じゃない。
「物が何故落ちるか」は思想の範疇で、それが必要だというのならそれを取り扱える学問、理論が必要だというのは話の筋が通っている。
問題なのは、哲学がそれを取り扱うことができる形式なのかという事だ。
「哲学のココがダメ」っつうのも哲学や。
時間という語がたまたま同じだけでお互い違う概念について話すことになるんだからそんな議論に意義があると思えないし
なぜそんな虚しいことをしようと思うのかも理解できないよ
私は数理物理をやってるのですが、つくづくこの動画の内容のようなことを思ってました。特に
・哲学の方々は「実在」という言葉をおのおのが好き勝手な意味で使ってる感
・つきつめるなら論理式で会話しろよ感
ってとこはめっちゃ感じてました。
面白かったです。学生時代に初めて「哲学」に出会ったときのことを思い出しました。
私は、大学生の頃に名古屋大学の戸田山和久先生の「哲学入門」を読んで、哲学ってめちゃくちゃ面白いなと思いました(私自身は理系でした)。
それまで哲学を勉強したことがなかった私は、「哲学入門」の内容(具体的には自然主義かつ唯物論的な哲学)が哲学の王道だと思い込んでしまいました。
しかし、その後いわゆる伝統的な哲学の本を読んだら、全然何を言っているのかわからなくて結局挫折してしまいました。
ここで、一素人が思う哲学に対する不満を述べてみます。
個人的には、哲学は言語を重視しすぎているのでは、と思っています。
確かに、「感覚を通して経験し得るもの」のみを研究対象とするなら、言語は強力なツールではありますが、最近では認知心理学や脳科学の発展により、「心」についても科学的に研究できるようになっています。
そのような状況においても、言語のみを使って哲学をすることの意味が私にはあまり感じられません。(もちろん、科学的知見を踏まえて哲学研究をしている方もいるとは思いますが)
仮に、そのような研究が哲学的には意味があったとしても、科学者はあまり受け入れられないだろうと思ってしまいます。(私は科学者ではないので、これは憶測です)
以上が私の哲学に対する不満?というかモヤモヤです。
私は、どちらかというと物理や数学が好きで哲学は挫折しているので、上の批判は不勉強ゆえの思い込み・勘違いかもしれません。
なので、間違いがあれば教えていただけると幸いです。
また、分かりやすくて、面白い哲学の入門書があれば教えてください。
以上。
全くもって横槍を入れることになるかもしれませんが、哲学は言語を重視してるが、認知心理学や脳科学分野で人の心を言語ではないもので分析・提示できるのではないか。それならば、現代においては科学者には到底受け入れられないような、言語のみで記述するというあり方は無意味なのではないか、という指摘ですね。
今回の動画では、現代において、研究そのものが処理しなければならない情報量が多いという話があったかと思いますが、その定義自体を疑うというプロセスがあります。他の研究においては、式の答えは正しいのか、と思案するときになぜその式から答えを出す必要があるのか?ということを考えません。その式が構成された前提を信じている部分があるからです。
ですが、哲学者は自分が納得してその前提を受け入れてからでないと、その後の行動にも納得できません。しかも、それは自分という人間の行動原理になるわけですから、他人という人間にとっても原理として普遍的にはたらくだろう、と考えるのだと思います。(それに価値を見出さず、家族などが本を出版して後世に名を残す学者はいますよね)
あと、なんといっても科学は、人を考慮しないのであります。ゆえに、人間の立場や人間のあり方を他の学問は決めることが出来ないと思います。脳科学者は、なぜ脳がこの反応をするのか?という反応を調べても、私の怒りそのものを別にどうにかしてくれるわけではないです。例えば、怒りを感じたら心拍数が上がり、血流が集まるということが数字でわかり、そのような状況になっても暴力に頼る人と頼らない人がいる。頼らない方がよいのか、頼るほうがいいのか?という倫理的な問いや、怒りを感じたが、この怒りは他の誰かの怒りと同じ怒りなのか。または、怒りを感じなくなる薬を飲んだとして、それは倫理的なことか?などという実践以前の問題は、言語以外では答えられません。
このような理由から、問いを立てること=哲学のようになってきているという動画内の指摘は、言語をある程度扱えるようになってきたことから、哲学がより庶民的なものになってきているという部分に繋がるのかなと思いました。元々は信じて行動する、というのがわからないことだらけだったからそうする、という選択だったが、ある程度知ることが増えると、疑問が増えてくる。だから、哲学は疑問に対する答え方のバリエーションが増えてきた結果、別の学問へと形を変えながら存在しているのだと思います。
哲学系の本で哲学的な意味を感じたければ、哲学の本を読むよりは実践哲学という関わり方もよいのではないかと思います。「哲学カフェ」の参加などしてみてはいかがでしょうか。入門書はどれも歴史的なことを言語で記してありますので、似たような解釈本が多いかと思います。
@@山本-y1w
丁寧なコメントありがとうございます。
まず、誤解のないように述べておくと私は哲学という学問がいらないとは思ってはいません。むしろ最近のAIの発達によってその重要性は高まっていると思います。ただ素人の私から見ると哲学者の論理展開はアクロバティックすぎて理解できないと思うことがしばしばあります。もちろん、「それはお前が勉強不足だからだ」と言われれば全くその通りなのですが。
@@fat_monkey6104 お返事感謝致します。長文失礼いたしました。
正直、普段見ていても己の主張から始まって、帳尻合わせのために弱い部分をごり押している人も多いです。コメ主さんが、どの時代の論理がアクロバティックな論理だと感じられたかによってこの辺りは変わるでしょう。正直、古典の哲学書はギリシャ以降は人間の生き方の指針という点だけでいえば、参考になりにくいものばかりです。
ここからは私の個人的な意見です。(必要ではないと思いますが知っていただいて、何かお役に立てば、と思います)個人的には、その時代の代表的な叡智と呼ばれるような人の愚かさ、みたいなものに着目するようにしています。哲学は誰でもできたわけではないので、当時の選ばれた人でも神を信じていたり、今では驚くような論理展開を行っているという可笑しさ、その与えられたものの中から少しずつ自分の固定概念を壊そうともがいている姿は非常に人間クサいというか、面白いものだと思います。
また、哲学という学問は学問ではありますが、知を愛するという観点で、役に立つ立たないはあまり気にしないで良いという側面もあります。日本に科学と同時期に輸入されたと動画の中でありましたが、別で輸入されたのには、やはりそこに好奇心を満たすという役に立たなくても良いという思い切りがあるのだと思います。哲学を学問としてだけ他の学部と並べてしまうことは、philosophy の知を愛するという文脈から愛を剥奪という意味で、とても罪なことのように感じます。
ゆえに、なにか今後の時代で哲学が必要なことであると感じるのであれば、ソクラテスの対話をまとめたプラトンの著作であるとか、マルクスアウレリウスの自省録、マキャヴェリの君主論、ジョンスチュアートの自由論、フロムの愛するということ、ハンナアーレントの人間の条件、など、現実に即したものから入られるほうがよいかもしれません。歴史全体の中で有名どころを見ても、私もこいつのいうてること意味わからんな、みたいなことはよくあるので。
@@fat_monkey6104 上のコメントにある、おそらくは鷲田清一さんの臨床哲学のような「哲学」と、学問として学ばれることの多い「哲学史」は分けて考えるといいのかもしれません。
「哲学」は基本的にあらゆる経験を含めた自身の人生に学ぶという理解のもとでおそらくは広く了解され、また多くの人がその必要性を多少なりともは認めている部分だと思います。
「哲学史」の評価はかなり難しいと思います。特にガリレオ、ラヴォアジェ以降科学で「なぜ」という問いが「如何に」に変化し、哲学がいわば切り捨てられた領域のように見なされるのも、自然な流れかもしれません。
ただ、哲学と科学の世界には、誤解を恐れずにいうならば捉え方の違いが存在します。
少し考え方が古いかもしれませんが、哲学の立場からすると科学はいわば一種の諦めと妥協の末に生まれた学問で、哲学と同じく何も生み出していないと考えることもできます。
ラッセル流に言えば、我々の世界がまるでこうあるようだというセンスデータがあるだけで、この世界に対する必然性は何からも見出すことはできません。
同様に、先達の哲学者たちの理論にも何の必然性もありません。例え普遍的に見える心理があったとしても、それが錯覚でないことを保証するものは存在しません。
「哲学史」を学ぶために先人の哲学書を読むのであれば、こうした視点が理解の助けとなるかもしれません。あらゆる哲学理論にはそれに対する批判が存在します。
例えばデカルトの「我思う、故に我あり」に対しては、フィヒテの批判などが有名ではないでしょうか。
有名な哲学者の解説本や訳本には、それを担当された先生の後書きがあって、その哲学者を批判した人の紹介などがあります。一つの理論とそれに対する批判を合わせて理解すれば、もしかしたらアクロバティックすぎる論理展開という印象も少しは和らぐかもしれません。(こじつけまがいの無茶苦茶な論理展開が存在することも認めます)
これは私なりの考えですが、哲学は「無」を取得する学問です。しかしこれは価値ある「無」です。ここが見過ごされてしまうから、哲学を問いを立てるだけと見なされてしまうのかもしれませんが。
ここが科学とは違う点だと思います。アクロバティックな論理展開は批判されるために存在すると言ってもいいかもしれません。
長々と下手な長文をすみません。
@@山本-y1wそれは、社会のあり方を規定し前提を構築する行為は哲学者じゃなきゃ出来ないことなのか?
それをするのが哲学者だと言って仕舞えば終いだろうが、それを認めるなら哲学は学問じゃない。
理系からみると、「アインシュタインvsベルクソン-時間論争」なんて、ファインマンも書いていたように、ガリレイの相対性原理の理解も怪しい奴が相対論を語るなの一言で終わり。
見に行ったけどスピが生命の波動とか言ってるアレと何が違うのか理解できなかった
哲学は知の言語化から論理の小手先に変わってる
物理にせよ哲学にせよ、現代の知性が業界のポジションを持ち、自己否定できないと言うのが問題ということなのかな・・。
物理学には観察、実験、数学という確認方法があるが、哲学は客観的な確認方法が限られている点が問題だと思う。
そりゃ哲学じゃその「客観」が保証出来ないんだもんw
でもね、テクノロジーで何でも可能になる日が来たその時に
ブレーキをかけるのが哲学だと思うよ
この大仕事が残ってるうちは哲学をないがしろにしちゃダメかな
@@shadowartemis7851そのブレーキを作るのは本当に哲学者の仕事か?
@@shadowartemis7851個々人が空中に瓦礫を積むが如き学問の何が役に立つのか。
そりゃあ思想の哲学は役に立つだろうさ。だがそれを使うのは社会学者であり政治家であり経営者であり民衆だ。
@@shadowartemis7851 哲学とは突き詰めれば思想に他ならん。どこまで学んでも見ず知らずの他人の思想、それが難解な言い回しと名前で何か立派なもののようなお墨付きを得ているだけだ。
社会を回すべきなのはそれを構成する一人一人の心の中にある哲学であって、決して学問の皮を被ったナニカではない。
@@goc-2611 肯定的に捉えると分からなくもない。
しかしながら少し物事を側面からだけで見ているように感じる。
例えば医学がより発達し、問題のある性格を脳に直接外科的手術を
持って改善可能できるようになったとする。
例えば解析された遺伝子からタンパク質を合成し全く同じ個人を
0から完全に生み出せるようになったとする。
技術的に可能であれば際限なく行使するのがテクノロジーで
あるならば、それにガイドラインと言うブレーキをかけるのが
哲学の仕事の一端ではないかと問いかけた。
物理学もちゃんと全ての概念を定義した上で議論を進めているかと言ったらちょっと怪しいところあるからな。厳密に定義されている言葉や数式だけで議論を進めると、議論の幅が極端に狭くなってしまうので、物理も「あんまり厳密じゃないけど、突き詰めればなんらかの方法で厳密に定義できそう」って段階で見切り発車して、ある程度煮詰まった段階で厳密な定義を与えているよね
30:41 このエピソードがどこ情報なのか教えて欲しいです
物理学は神が造り、人に与えた学問であり、宇宙の事象を表すことが出来る。哲学は人が作った学問であり、あらゆる学問の中で一番神を殺せる可能性をもった学問。
数学や物理では網羅できないことは確かにあるので、哲学そのものは必要だと思う。しかし一部の哲学は、数学や物理学がカバーしている範囲内のことを、数学や物理学の言語を使わずに(または非常に稚拙な使い方をして)拙い論理だけで論じている印象。それなら素直に数学と物理を勉強すりゃいいじゃんってなる。
個人的な見解として、哲学における「時間」は「時間意識」の話だから、そこから物理学にとやかく言うことは基本的にはできないし、言うことができても、物理学が証明した事象・理論の正しさを認めた上で「でも主観的なことや存在論的なことは歯抜けとしてあるよね」と言うぐらいしかないと思う
ただ主観的な"時間"と言う物にしても
このまま心理学や脳科学なんかがもっと進歩して行けばいずれそっちのルートから何かしらの答えが見つかっちゃいそうじゃない?
@@厨弐 でもそれらも科学としてやっている以上、結局主観的とされている領域を外から観測してやっているわけだから、たとえば現象学が求めてるような、厳密な意味での主観的な意識の領域やそこに生じる時間の問題についてその二つが研究することは、方法論的にまず難しいんじゃないかなぁと思ってる(とはいえ、認知科学や脳科学がメチャメチャ近いところをやってるのは事実そうだし、相互に影響を与え合うこともあるから、詳しいところに関しては曖昧でーす)
@@厨弐それは唯物論的な機能主義の立場であって、もうすでにアカデミズムでは乗り越えられている。
@@hatopoppo_niki クオリアの事ですか?
それにしてもどの道長い時間をかけて研究を進めて行けば限りなく正解に近い研究成果がいつか得られるんじゃないですかね?
私は近代西洋科学の進歩に期待します
形而上学的な意識への考察に関してはもう釈迦が完成させちゃってると思うので西洋哲学にはあまり期待してません
@@厨弐 クオリア理論も関係しますが、特には「意識のハード・プロブレム」ですね。脳科学で意識を解明できるという考えは「中国脳」という思考実験でほとんど反駁されてます。「中国脳」について見てみてください。
それと形而上学的な意識への考察は釈迦が完成させているというのはどう言った意味、具体的にどういうことでしょうか。浅薄な小生にぜひご教示ください。
哲学が言葉と論理を道具として用いる学問ならば物理学より数学のほうが比較対象としては優秀な気がする。
19:46 物理学者が普段使うのが数学という論理と言葉が道具の学門だからこそ哲学の論理が拙く感じるのだと思うんだよね
「我々は言葉で考えている」もミスリードだしなぁ…
まず自分が何に対して何を感じて何を考えているか、これがすでに言語化できていませんよね。できてるつもりになってはいますが。
また同じようにそうした自らについて認知できていない思考・処理についての理解もできていない。(例として、ある問題についての解決の道筋が急に浮かぶ閃きなどが想像できます。これを「無意識による思考と処理の積み重ねからの応答」とするならば、ですが)
とすると、結局哲学は学問分野として始まってもいないのではないか?とすら思いました。言い過ぎかもしれませんが。
(とりあえず界隈にしか通じないジャーゴンを使うのはやめてほしいなぁ…わかりやすくしてはいけない呪いでもあるんだろうか)
ともあれめちゃくちゃ面白かったです。
よくよく考えると「哲学は学問なのか?」と呼ばれると、その側面はあるかもしれませんが、厳密には違う気がしますね。
哲学は行為だと思います。
人や世界について考える行為全般を指して「哲学」とされたのではありませんでしたか?
「真理を理解しようとするなら、ストレートに科学をやった方が良い」というのも、これこそ哲学的な発言だなと思いました。なにより、これも「言語」によって伝えているし、表現している。
そして、「どうすれば伝わるか」「表現できるか」は思考なので、このノートもそれら過程を得た最終成果物として作られたものだと思います。
なにより、「そのアプローチ違うよ、欠陥があるよ」っていうのは非常に有益な視点ですし……
哲学者同士でも「こいつの言ってる事おかしいよ」ってやりとりは散々なされてきたわけですから、(反対に、他分野から哲学に入った方もいらっしゃいますし。他分野が哲学を進めてきた歴史もありますし)
厳密に言えば「哲学への批判」というより「哲学者への批判」がテーマだったのかなとも思いました。
どうしようめっちゃおもろい……(笑)
ファインマンだっけか、「数学と物理の関係は自慰と性交に似ている」といった人がいるけど、「数学」を哲学に置き換えても成り立ちそうだ。
哲学好き物理好きな非哲学系、非物理系ヲタです。おもしろく拝見させていただきました。面白さの理由の一つは突っ込みどころ満載なところでしょうか。最後の方で哲学さんが「界隈」という言葉を使用されましたが、全体に「界隈」で割り切れる議論であったように思いました。半世紀ほど前、コンピュータ科学のミンスキーは[フレーム]理論を提唱し、ものごとの認識に「フレーム(枠組み)」を背景に置くことで、認識とそれに続く操作の合理化が図れることを示しました。細部の異同を切り捨れば、「哲学界隈」や「物理学界隈」とは、それぞれ「哲学フレーム」であり「物理学フレーム」と言ってよいでしょう。フレームの中では、そのフレーム文脈で自明なことは特に言葉の概念(定義)を顧みることはないし、逆に新たな文脈を提示することで、言葉の外延に止まらず、内包的概念の拡張を読む者に迫るような用語法もあり、いってみれば言葉はフレーム中の「暗黙知」を構成し、哲学フレームそのものも暗黙知の一つであったとも言えるでしょう。昔から「言葉」の使用に敏感だった哲学者たちがそういう「暗黙知」としての言葉やフレーム(界隈)を認識しなかったはずはなく、でなければ、アリストテレスがあれほど「ロゴス」に拘ることもなかったでしょう。もっともそういう「暗黙知」はタレス以下のイオニア自然学派が気付いていたとは考えにくいですが、それに続いたソフィストたちがそれを意識し、暗黙知のレベルに潜む言葉の意味を明るみに引き出すことで、弁論術を磨いたことは周知のことです。もっとも、そのことが彼らをして自ら知者(ソフィスト)と名乗らしめたことで、暗黙知をより深く見極めたソクラテスにより、他ならぬソフィスト自らが磨き上げた弁論術により打ち負かされることになるのは、歴史にはアルアルな皮肉でしょうね。
ベルクソンが特殊相対性理論に対して異議を唱えたのは、自ら発見した意識に対する所与としての「時間」を、特殊相対性理論は考慮の埒外に措いたからに他ならないと思うのです。「持続と同時性」を読めばただちにそれが特殊相対性理論の優れた解説書となっていることがわかり、すなわちベルクソンが特殊相対性理論の時間論を完全に理解していたことがわかるのですが、結局のちにベルクソン自らこの書を絶版指示したのは、特殊相対性理論の帰属するフレームとベルクソンが拘った時間意識を問題にするフレームとの交わることのない排他性に、そもそもこの議論が噛みあうことはないということに、ベルクソン自身が気付いたからに他ならないのではないかと、私は思うのです。
教育では(大学受験までの)数学、物理を扱ってますが、研究分野は宗教学、日本思想史の領域です。卒論は日蓮論、修論は新宗教研究でした。
アインシュタインとタゴールのやり取りも面白いですね。
「哲学側の努力不足もある」
ヤな上司「努力しなくていいよ、結果出してくれれば」
哲学も物理学も素人なのですが、個人的な見解を
①全ての学問は演繹によって結論を引き出すが、演繹は自明な原理から始める
②数学も、論理学も、限定されたその規則を最低限自明とみなす(1=1が前提であったり、p,p→qならqであったり)
③しかし、ここでいう自明とは、実のところ主観的である、なぜなら1=1は無根拠だから、信仰によって成り立つ
もし信仰を放棄したいなら、放棄出来る。例えば「AならばAでないことはない」を放棄して、代償に一言もしゃべらない選択が出来る
④しかし、全ての言語(数学含む)を成り立たせているのは論理なので、喋りたいなら論理を信仰しなければならない
しかし、まだ他の体系、即ち、「論理」そのものから演繹できる原理以外は受け入れない選択が出来る
⑤ここからは信仰の問題である
つまり、論理そのものからは導出できない原理は本来主観的である。
しかし、それを自明と受け入れて信仰することによって、それを前提に演繹を行い、「前提が正しいならば」正しい結論を出すことが出来る
哲学と物理学、どちらがより多くの無根拠な前提を取り入れているかは私は知らないので、みなさんで判断してください
しかし、例えば1=0を受け入れられないのは、単に観察に対する解釈の問題です
「勝手に定義して演繹する」のが許されるなら、どのような定義から初めても良い訳ですよね
インターステラーでのアメリアのセリフ「愛は時空を越えられる」を思い出しました
哲学が宇宙とは何か/人とは何か/自己とは何かという問いに対しての真理を追求する学問だと言うと
哲学外の人にとっては「ちょっと待って、あなたが何を思って言ってもいいけどそれは真理ではなくあなたの個人的な感想であり結論です。」という反応になるけど
哲学とは思索方法、或いは過去の哲学的文献を読み解く等、思索について研究する学問だと言ってくれれば界隈は平和になる気がする
私は谷村先生のノート読んで哲学とはかかわらんとこって思った物理学徒でした。
谷村ノートだけ読むのアンフェア何でしょうが、物理を覆す”非物理的意識状態”を主張したり、明らかに破綻した論理を指摘されたり、しかも招待した側がこんな横柄なコミュニケーションをしているというので、心底失望した。当時、知の欺瞞(ソーカル事件)を読んで、やはり失望した。”文系”の人間が嫌いだったが、同じ言葉を繰るが”話が通じない人”が存在するんだなぁと、嫌いな人間に対する解像度が上がった出来事でもあった。
すくなくとも、哲学というのは文学研究のようなものだという認識があっても良いように思う。
真面目に議論しようとしたら、哲学書の宣伝に使われるの最悪すぎる。
言語生成AIから言語哲学や分析哲学に興味がわき、そこから出発して関連する入門書をいろいろ読んでいたら、ニンゲンの思考に関するアルゴリズムや人間の作り方が書いてあるようかのように思えてきた。情報工学/AIの観点から読むと非常に興味深い. 情報量には物理学でいうところの保存則はないし、情報処理では数学のような厳密性は必須ではなく、近似で技術者の経験が入ることもある. そもそも工学は人間が使う道具を研究対象にする学問なので物理学や数学に比べると哲学に近い位置にある。言語生成AIを使いこなすには論理的思考が必要となり、言語で語る哲学が「陽」に役立つ時が来たと言える.
哲学の存在が科学とは別の角度で人間社会をより良いものにしているのなら、今後も哲学が展開され存続する意味があると思う。
谷村さんは宇宙を理解するのに人類の言語や常識だけでは不足だと言っていたけど、逆に人間が感覚や言語の中で作り上げた社会を理解するためには寧ろ、数学的な記述だけでは不十分であるように思う。
今一度現代に置ける哲学の意義を考え直すことが出来て良い動画でした!
プラグマティズム的立場ですね。役に立つならば価値があり意味がある。
20世紀以降の言語哲学・分析哲学・科学哲学でどのように解決されたのか聞いてみたいです。
お話聞いてると哲学って芸術なのかなって思いました。ドガとピカソの絵の世界観を研究するようなちがうか。
哲学すると 何に対しても確信もてなくなってくる 突き詰めて考えると 考えれば考えるほど わからなくなってくるので 哲学は建設的には なれない 自己の考えたことを 述べるにとどまるわけなんですけど ただ哲学する利点 まあ利点た言えるかどうかはなんとも言えませんが 他のものに対する 寛容性が生じるのは 確かではないかと 我々一般人は 考えておりますよ
この世界は物質と心(定義は「認識する機能」)の二元である。と、
ある初期仏教の学者はこう言ってます。
私の浅い知識では、
「物質の動態」の研究が物理学であり、
「認識したもの(≠心)」を研究するのが哲学である。
と考えました。
両社が片面に特化して研究しているように思いました。
物質(心も可)を心が認識して現象が生まれると考えてますので。
この動画で現象学という学問を初めて聞きましたが、
物理学と哲学のハイブリッド学問の予感がして、
現象学に興味が湧きました。
ありがとうございました。
認識や心の時間は脳科学、心理学の分野でもあると思う。このふたつの分野でもctや脳波、MRI等、なんらかの装置で測定、観測するのだから、無茶苦茶広い意味で物理ともいえるか?(星の観測とかとは違うけど。)
物理の定義だって突き詰めれば無定義用語にぶち当たるのに
そこに哲学との差はないでしょ
無定義用語なんかあったっけ?
無定義の意味がわからんな。
物理学とは観測から世界観を構築する学問だが、哲学は在るべき状態から世界観を作り上げようとする学問だ。
F=maは観測事実だ。力は質量と加速度の積である。
自由の相互承認は観測事実ではない。人民の最大幸福という在るべき状態のために作り出された概念で在る。
扱えるもの全てに定義は存在する。物理学の定義は現実に則し、哲学の定義は思想に則す。定義無きものを扱うのは不可能だ。
しかし、これは為されていない。動画内に出てきたように、「形而上的」という言葉は定義されていない。
質量とは我々の観測事実によって存在が保証され、運動方程式によって定義される概念である。
「形而上」は違う。記号論的にも集合論的にも未定義で、それを定義できる有用な理論は存在しない。自然言語では厳密な定義を行う事は困難である。
@@goc-2611君いろんなコメ欄で暴れまわってるけど、何が言いたいかをまず最初に書いてから論理を展開してくれよ。
@@まるまる-p7c 「お前の言っている事ははなから間違っている。物理用語は無定義などではないし、正しい哲学用語も無定義などではない」言わな分からんか?
量子力学を視野に入れた哲学が展開されればおもしろいかも、、と終盤に
いわれてましたが、ホワイトヘッドはいかがでしょうか?
プリコジンなど科学者からも言及されることのあるまれな哲学者だと
おもいますし。
前回から見始めたけど、素晴らしい。
まあ今の産業資本に侵蝕されて官僚化してしまい倫理的役割果たせていない今の大学のこと思えば 各分野で やり合うのは いいことだと一般人は 思っていますよ そういうのは もっと公共のメディアとか公の場で やり合ってもらいたいと一般人は思っていますよ やり合わないと浄化できないでしょう
化学を研究していくと物理学になって、物理学を研究していくと数学になって、数学を研究していくと哲学になる、みたいな小話ありますが、
数学と哲学の間には大きな溝があるように思う。
数学では定義からスタートするし、小学生レベルからの積み重ねもあり、どんどん問題が高難易度になっても方向性が定まっている。
また数学的対象は母国語も関係ないし、時々、現実に様々な分野で役にも立つ。でも数学とは違って哲学が役にたったり、何かの社会問題を哲学者が解いたり、SNSで論破王が有名になる時代ですら哲学者が幅を利かすこともない。哲学者の議論も複雑ではあるか難しいかも怪しいし、ただどうでもいいことを捏ね繰り回したり、固執しているだけかもしれない。スポーツならルールも明確で勝敗が誰でもわかるし、この距離をこの速度で移動するなんて凄いって思えるかもだけど、哲学が扱うテーマはそういう基準すらない。数学なら何百年解かれていない難問やある程度解くべき問題が共有され、課題が明確だったりするけど、哲学上の結論を哲学者同士が共有する必要がないってもう既に学問として必要のないものなのかもしれない。
今の数学って定義と言うより公理から始まってる感じはする
あなたが数学も哲学もよく知らないのは分かった
まぁ哲学って言葉遊び感あるしね
@@3r743その理由を説明できなければ「哲学の悪口いうな!バーカバーカ!」って言ってるのと変わりませんよ
@@3r743群論よくわかんねえから解説してくれ
時間と空間を一体に考えるモデルなら、ここから彼方までが生まれたとき、その時から未来の彼方までも生まれたと考えていいはずで、ある時刻が自動的に現在になるようなモデルではなく、任意の時刻を原点にしてシミュレーションできる便利な道具でしかないという批判は成り立つ。
いわゆる”理系”vs”文系”的な対話は興味深いですよね。
例えば
アインシュタインとベルクソン
アインシュタインとフロイト
岡潔と小林秀雄
ソーカルとポスト構造主義者
逆に哲学的な物理学者も沢山いましたね。例えば
モーペルチュイ、ニュートン、マッハ、アインシュタイン、ボーア、ゲルマン、ダイソン、ウィーラー、ペンローズ、ワインバーグ、などなど
学生時代、物理の教授に宇宙の向う側について脱線した話になった時、教授が、それは哲学だねと言ったが、私は即、哲学もなにも現在とこの地球につながってるではないですか?と言った。更には生理学の教授にも、先生の講話は脳死は人の死だと決めつけているように話されてますが、難病も宇宙万物の理論も治せないわからない、そんな人間が人の死を決めつけるのは、勘違いではないですかね、と言ってしまい、後で呼び出され怒られると覚悟しましたが、先生から君の考え方は間違ってはいない、と言われました。
いい先生にめぐりあいました。
哲学は科学のずっーと先にある、それを科学をつかって人類は解明していってるそれが学問だよと言われました。
「Aの解釈がaだった時、BはCである」を論理式使って纏めとけばそんな100年も前の学者の本を原書で読む必要も無いんでは…?
哲学と諸科学とは時代的にも理論的にもカント辺りで分裂したものだろう。
カントの批判は現象の超越論的観念性と経験的実在性の二重性の指摘、そしてその峻別に尽きる。
つまり観測によって捉えられる対象についてしか実在性realityを認めることはできず、そうでないものは観念的idealなものでしかないと言明することで、
経験的実在性の世界を諸科学(社会科学や認知科学なども含む)に譲り渡し、形而上の世界から解放するものとして、カントの批判は再確認されるべきだと思う。
(ここから意地の悪い見方をすれば、ヘーゲルの絶対知は観測を経て成功した科学的認識、いわばあみだくじの当たりからスタートに溯行して最初からわかっていましたみたいな顔をしている理論と言える。)
さて支配領域を全て譲り渡した諸学の母たる哲学が今さら諸科学の領域に首を突っ込んでも「おっかさんそういう時代じゃないんだよ」とうざがられるだけだが、
哲学には唯一倫理という形而上の領域だけは残されている。
その領分においてそれこそ物理学などの出る幕はなく、仮に何か口を出してきたらそのときはボコってやればいいと思う。
うーんどうでしょう
倫理といっても反証可能性がないのですから
それこそ「それってあなたの考えですよねw」
で終わってしまうんじゃないですか?
@@msyksnhr形而上学的命題に対してそれは通用しない。
普遍的なもの、イデア的なもの、カントで言うところの叡智界は実在するとしないと、そもそも理性的認識が成り立たないということは『純粋理性批判』で述べられている。
哲学とは納得感だと、なんとなくそう思います
昔、アインシュタインさんが宗教と科学はそれぞれ片方だけではダメで、宗教と科学は一体でないとダメみたいな事を言いましたよね。
同様に、科学と哲学も片方だけ勉強したけどもう片方は知らないというのではダメで、そんなに専門的に深くなくてもいいから両方勉強して両方のおおよそのことは知っていないとダメだと思います。
哲学は意味がないと言う人は、そもそもあまり哲学を勉強していないのかもしれません。
別の話になりますが最近、私はマトモな人間形成のためには科学の知識だけでなく、哲学の知識も大切だとつくづく思います。
物理は観測できないものは存在しない扱いだから、論理的に考えれば限りなく高い確率で存在するであろうものでも、まだ観測できてないから物理学においては存在してない扱いになってるものとか結構あるもんね
どんなものですか?
同じくどんなものか気になる。ダークマターは存在してない扱いっていうのはかなり微妙だし(分からないという態度を取っているように思える)、タキオンやホワイトホールは数式上で出てくるだけで別に高い確率で存在するとは言えない。マルチバースも物理学者が信じてるとかを言い出してる所を見ると存在しない扱いではないと思う。
高い確率で存在するとされるのなら普通にあると仮定した結果の論文とかありそうだし、やっぱり存在しない扱いはしないと思う。別に反証可能性を重視しないと思ってるわけではないけど。
既存の確固たる物理に基づいて演繹された帰結であれば、それが実証可能である限り一つの説として物理の議論の対象となります*。物理(科学)で扱わない、則ちその事柄の法則についての原理的に区別し得ない複数の説があって、かつその区別をつけることに何らかの意味があるような、非自明な(例えば、人類史というスケールの問題に科学的方法論が必ずしも通じると思わない。こういう自明なケースでない)例が思いつかない。
*そのエネルギースケールは実験で実現し得ないだろ、みたいな理論はあるだろうし、それが"科学"か、という疑念も当然ある。『数学に魅せられて、科学を見失う』
ゲージも波動関数も観測できないけど存在してることになってない?
23:33 「言語を通して作り出してる現象世界が研究対象」に関しては、個人的には経済学で似たような感覚を覚えますね。
経済学が定義した変数"のみ"存在しているバーチャルな地球や地域の経済に興味があるだけで、極端な表現で言えば実体経済と経済学の理論に乖離があったとしても、「短期的には実体経済が経済学と乖離する事を経済学は許容している。長期的(最終的と言い換えても良い?)には経済学の言う通りになるのだ」とする意見は少なくないように思えますね。
いつかのアメリカ大統領が言うように、長期的にを悠長に待っていたら、我々は皆、寿命を迎えてしまいます...
哲学者の言葉遣いと物理学者の言葉遣いの違いをこれまで考えたことがなかったのでとても面白かったです。
哲学者は詩人と親しく物理学者は法律家に近い気がします。裁判で証言として詩が朗読されることはおそらくないので二者の溝は埋まらないと思います。
詩には正解を求める言語使用はありませんし推理小説は答え合わせで進んでいきますから同じ言語を使用していても噛み合わなくて当然なのだとわたくしは思っています。
ただ二者が対話する場面を見ることは意味があるように思われます。
わたくしが知っているエピソードを紹介します。
稲垣足穂は1930年の「文芸レビュー」六月号に「アインスタインの空間とベルグソンの時間に就て」という一文を寄せています。アインスタインはアインシュタインにベルグソンはベルクソンに現代では表記が変わっていることも時代を現していますね。引用します。
《ベルグソンは自分から、あなたはこういう事を云おうとするのだろうと云って、そこへ数学をもち出して、こうだからこう、だからこうだと云うのでしょうとアインスタインの云おうとしたことや質問に供えようとしていたところまであます余地なく云ってしまった》と稲垣足穂さん。
《このユーモーラスな話は、けれどもさすがアインスタイン博士も水晶のような議論をするベルグソンにはかなわなかったろうと思わせる他は、どちらが勝った負けたなどいうことはない》と稲垣足穂さん。
《この話を私にもたらした人は一度スペインの大学でベルグソンの講演をきいたそうであるが、素朴な自分の書斎にいるような態度で語り出す論理が音楽のようによどみなくつづいて、しかもその速記を見ると一点なおす必要のない名文であった》と稲垣足穂さんは記しています。
人の心の中の作用を解析するのが哲学だと思う。物理でそれを理解するなら、真空内に球体の人間が必要。
物理学って普段はめちゃ謙虚(何もわからんって姿勢)だよね、、、
哲学も自然科学もどちらを使用しても真理を解くことは叶わない。ということを念頭に議論などがあれば両者ともに有意義な時間になるのではないかと常々思う。
この通り
自然科学、もちろん哲学にもだが、真理については漸近的にしか近づき得ないと言うことを理解してない一般人が多い。もちろんアカデミズムでは圧倒的に少数だが。
19:57
消極的(〜でない)な形で人間が認識できる範囲外に定義されてるもんだと思ってた。
ダークマターみたいに。
哲学者や哲学史やそれぞれの主張や解釈に詳しいことが哲学者なの?って疑問があって
そんな事よりそれぞれの人が生きてきた中で人生ってこういうもんだよねとか
人ってこういう風に思うよねとかの方がよっぽど哲学的じゃね?って思う
そうすると全ての個人にそれぞれの哲学がある訳で
現象の話と同じように個人個人で違うものをそれぞれが好き勝手に発表しあって
なるほどそういう考え方もあるのかーと更に自分の考え方もまたそこで変わり変化し続ける
個人個人で違い更に常に変化するものの真実を追うって自分の尻尾を追いかけて回る犬みたいな感じすらしてしまう
でも、変化しながら段々と洗練されていくので、それで良いんじゃないかなあ
それがいいのでは?
@@user-ps4kq8rf8r
もちろん個人個人はそれで良いと思います
それこそが人間の、人類の成長ですし
ヘーゲルの哲学とかもそんな感じですよね
ただ哲学という学問は進歩してるのかと
例えばそれこそヘーゲルが今の哲学を聞いて「自分の思想より進歩している!」と納得するのかなと
仮に物理ならアインシュタインを必ず納得させられますしね
積み上げや進歩ではなく新しい解釈や新しい思想が生み出されていくという意味ではそれは学問ではなく文芸や芸術の方が近いですよね
@@karaage1597 自分であれやこれや考えるにあたって、必死に考えてようやく得た結論を数世紀前の人がすでに回答しているということがままあるので、哲学者に分類される人は予備知識として哲学史を勉強するってことを、大学の哲学講師に聞きましたね。過去の哲学者や主張・解釈に詳しい人は広い意味での歴史好きに分類されるんではないでしょうか。
後、すみません。個人的に気になったので、質問させてください。
私の言葉の使い方では進歩という大分類の中に、新しい解釈・思想が生まれるという小分類があるという認識です。そこをあえて「進歩ではなく~」切り分けているのにはどんな意味があるのでしょうか?
※否定・批判したいわけではなく、自分と異なる言語センスに対する好奇心ゆえの質問です。
@@時空間迷子
自分の中で進歩は「前に」進むイメージです
方向性をもって目的地へ向かうのが進歩かなと
それに対して無秩序に泡のように新しいものが生まれてくるのは
(進歩と分けるならば)進化とでも言いましょうか
生物の突然変異と同じ様に新しい種が生まれ
そこには当然退化も含まれているし
右にも左にも枝分かれし逸れていくし
講師の先生のおっしゃる通りぐるぐると同じところを回り続けるかもしれない
そして哲学は後者のパターンなのではないかな
という感じです
phD(Doctor of Philosophy)を名乗る博士号を持つ自然科学者にはこれくらいの哲学分かって当然ろという反論いかがですか?
門外漢なので、この質問が適切かどうかわかりませんが、唯物論(すべての根源は物質にあるという考え方?)を前提としない自然科学って、現在、存在するのでしょうか?
そういう自然科学が仮にあったなら、哲学と物理学は話し合いになるかもしれないなーと思いました。
一方、物理学が唯物論の枠から一歩も出ないつもりなら、両者の話し合いは成り立たないのでは?と思いました。
ところで、これまでに、唯物論自体を疑って行なった物理学の実験とかってあるんですか?もしあったらワクワクするな~。
人間である限り、哲学からは逃れられませんよ。
というより人間のみならず形而上的現象の影響を多分に受けてしまう😊
哲学も物理学もほぼ素人ですが、哲学は理想論に近しいと思っていました。
ざっくり言うと、「この社会が、人類が良くなるために」という前提のもと、「我々はどう生きるべきか。どう在るべきか。」という問いへの答えを出していく学問。
しかし細かいところをこねくり回すような不毛な議論も含まれている?と考えると少し悲しいです。
一種のスピリチュアルにも近い、未来的な社会のあり方を哲学で説き、その実現のために解明していく科学という認識でしたが、実際はそのような立ち位置ではないということでしょうか?
身の回りにある、「ちょっとこれってどうよ?」という不満や疑問、社会や人間の未熟さを題材にした哲学が広く普及すれば良いなぁとも思います。
哲学が理想論を語る学問なら間違っても科学と密接な関係にはならないですよ
理論的、法則的な科学は哲学的な考え方が根底にあります
もっとも、これを知らずそのような認識で哲学を学ぶと却って落胆してしまう恐れは十分にありますが。
極端かもしれませんが、哲学は音楽のようなものだと考えます。
古典音楽と現代音楽とを比較したときに、現代音楽は必ずしも古典音楽に勝るとは言い切れません。
また、音楽はバリエーションが増えていくものであって、科学のように過去の理論を振るいにかけて積み上げていくものではありません。
どのような音楽を愛好するかは個々人に委ねられ、必ずしも検証を必要とはしません。
理論が磨かれることはなく、その種類を増やしていく行為が学問に該当するかは意見が分かれると思われます。
観測してデータを取ってモデルを作って実際の現象とおおむね合ってて使えるんならそれで大成功って世界の勉強をしてたから、最初は哲学なんてくだらないと思ってたんだよね。
哲学とか、データをしっかりとってないし合ってるのかどうか検証もできないしノーベル賞に哲学ないじゃんって単純に馬鹿にしてたんだけど、ある日哲学者と物理学者の対談の本を読んですごく面白くて、哲学をちょっと勉強してみようって思ったんだよね。哲学者ってあいつら何考えてんの?何やってんのいったい?って感じで。
だから今回のお話はすごく面白かった。
本の紹介もありがたい。
哲学は面白い。
「別に主張があったわけではないが理性的に論理展開したらこういう結論になった」を主張している風でもなく、
行きつく主張(法則)は、バラバラ。が、哲学と、もし、するならば、
「話として面白ければ、良いか ^^; 」扱いになる/扱いにせざるを得ないかもしれない。まぁ、その、世の中の流行りものと似ているというか…
人間が、あらゆる謎を解き明かし「これはこうだ!」と言ったとき、
眼をきらきらさせた6歳児が現れて、「それはなぜ?」と問いかけます。
解き明かした謎のそのまた先も謎なのです。「神のみ技は計り知れない」で逃げることは許されません。
もしかしたら「シジフォスの岩を押し上げる」のは、人類の苦行であり喜びであるのかも。
その全部論理記号で書くって言う試み自体も、それはそれで分からない事が多くて楽しいんよな
実は論理って俺達が思ってるほど客観的なものではなく、
色々主観で弄れる
普通の論理は矛盾を毛嫌いするが
矛盾もある程度許容する矛盾許容論理って論理も実はあるんだよなあ