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小川町を「おがわちょう」と話しています。正しくは「おがわまち」です。また東大島を「ひがしおおしま」と言っています。正しくは「ひがしおおじま」です。多くのご指摘を感謝します!m_ _m このチャンネルを作っていて漢字の読みで一番間違えやすいのは「町」「本」(本町 ほんちょう、もとまち・・)といったやさしい漢字です。まさかと思う所で間違えております。。。今回間違えやすいリストに「島」が追加されました!感謝ー
ケンさん!こんにちはこのコメント下の方に埋もれてしまっているので、配信者さんなら『固定』されれば一番上になるんじゃないですか?私は配信してないのでよくわからないですが、他のチャンネルで見たことがあります。せっかくのコメントですから皆さんに伝わるといいな✨と思います。私は、前にもお話した湯島に住んでいましたが、学校が一ツ橋の女子校でしたので神保町やお茶の水などとても懐かしくて嬉しい動画でした。
@@yuucoo あれ・・固定したつもりでしたが・・ありがとうございます。
@@ojmm さん固定コメ 👍私のコメは消した方がいいんじゃないか!に🤣
「秋葉原」の動画にもコメントさせていただきましたが、今回の「神田」も須田町で生まれ育った自分にとって、非常に懐かしい動画でした。当時、実家が靖国通り沿いで衣類関連の商売をしており、柳原通りの「柳森神社」が遊び場でした。小学校の運動会には「志乃多寿司」の海苔巻きやお稲荷さんを持って行くのが定番でしたし、父と一緒に「万惣」でホットケーキを食べるのも楽しみでした。
須田慎一郎さんのご近所さんですか
子供のころ、毎年、夏休みになると、神田に住んでいた従姉妹の家へひとりで泊まりに行きました。神田駅で降りると、あの静かで、どこか不思議な雰囲気の地下の商店街を通り抜け、狭い階段を登り、地上に出ると、伯母と従姉妹がニコニコと待っていました。秋葉原のオモチャ屋でアメリカ製のビールセットなんかをひとつづつ買ってもらい、万世でカツサンドを食べるのが恒例でした。翌朝、テレビでは、朝から、夏休み子供特別番組で外国製のアニメ映画が流れていて、それを観ながら、従姉妹と一緒にホットケーキを食べました。扇風機の音、カルピスの氷の音ともに、今となっては、幻のような昭和の思い出です。平和で善い時代でした😊
先日は鶯谷編でコメントさせていただいた、神田小学校、今川中学校の卒業生です。神田鍛冶町の神田っ子ですが、小学生のころ、神田囃子の演奏でTVに出たこともあります。小学校の同級生はリラックマで有名なサンエックスの社長で、神田多町に今でも本社ビルを構えています。神田は空き地が少なく、縦横無尽にあった路地や神田公園が遊び場所でしたが、サンエックスビルの屋上で遊ばせてもらったりもしていました。そもそも神田駅周辺で商店を営んでいた同級生も多く、現在は神田駅周辺ののあのビルこのビルのオーナーになっています。少年期、神田駅の西口付近では行商のおばあさんたちをよく見ました。主に野菜や乾物などを並べて駅入り口付近で露店していたのですが、総武線の上りでも時折大きな荷物を背負って神田に向かうおばあさんたちを見かけたものです。余談ですが、実家の近所に住んでいたトウマさんは、それ以前にここにあった闇市(勿論当方は知らない)でひと財産を築いたって話でしたが、小学校を卒業するまで、私は彼女の名前がトーマスだと思っていました。神田は過疎化から子供が少なく(40年以上も前なのに)、小学校6年生の頃の新入生は10人以下。神田祭になると、鳳輦では有無を言わせず駆り出されたものです。お鼻を白く塗って鉄の杖を突き、神田明神まで行進した思い出があります。今でも、ハンバーグなら豚汁が定番は「肉の万世」の影響かなとか、大袈裟かもですが、人間形成に大きな影響を及ぼした神田です。
行商のおばあさんたち、40年前の少子化など興味深い思い出のシェアを感謝です。
私も今中の卒業生です。小学校は千桜でしたが。
@@eiichirotakano282 母が千桜です!鍛冶3なので迷いますよね。
@@ojmm いつも、素敵な動画ありがとうございます!当方が住んでいた鍛冶町3丁目には魚屋さんが無く、千葉からの行商のおじさんが家を回って魚を売りあるいていました。周辺は小料理屋さんが多かったので、その残りを民家に売りさばいていたようです。(ちなみに、魚は選べず、半ば押し付けられていたって話でした。)要は押し売り。玄米パンの軽トラもよく来ましたね。1980年前後の話です。当方、神田っ子ですが、鶯谷を経て、今は下北沢在住です。機会がありましたら、下北沢編も是非。
神田周辺は「青春時代」の思い出が詰まっている所です。中学までは「新橋」で育ちましたが、高校は錦町にある男子校でした。直ぐ隣も「他の高校」が並んで建つという妙な所でした。電気大・神田警察にも近く自宅からは都電で通いました。地下鉄神田駅の商店街も懐かしいですが、同じ時代新橋の銀座線にも同じ様な商店街がありました。万惣フルーツパーラー、懐かしいですね!昔南口には「ピンクベアー」というスーパーが在ったり、JRガード下には3軒の映画館があってその内の「ピンク映画専門館」には高校をサボって良く行きました。学生運動が盛んな頃は某大学へ入ったモノの革命にも自己批判にも興味が無くギターを買いに小川町の「カワセ楽器」に通ったものです。「龍岡」と言うラーメン屋、「フクフク饅頭」と言う甘味店何処も「私の青春」に大事な思い出ですね。N-15 115さんがお書きになった「美土代町」が都電の最寄り駅の一つでした。「みとしろちょう」と読めない人が多かったように思います。「神田 小川町」は「おがわまち」なんですよね!全くも~・・・。
龍岡🍜 並でも大盛りでした。麺がやわらかいというか?伸び始めが提供されていました(笑)ピンクベア…あの細三角の所に1~3Fに何でも屋さん(笑)
遂に神田ですね。東京23区生まれの身として度々書き込みさせて頂きました。コロナ禍以前、私の個人的な遊び場は神田一帯でした。神保町駅で降り、靖国通りを散策しながら淡路町交差点を左折し北上、そのまま旧連雀町界隈の焼け残った街並みを眺めつつ万世橋を渡り電気街を散策し、最期はどこかの老舗で酒販を嗜み帰宅する。すっかり足が遠のいてしまった街の特集、とても興味深く拝見出来ました。明神様にお詣りにでも行こうかな。そう思える郷愁を誘う映像の数々、とても楽しかったです。
いつもありがとうございます!
動画配信、ご苦労さまです。今回は、母校の小川小学校の空撮写真が見られて、感動しました。しかも、おそらく私が卒業した年の写真ということで、画面をポーズしてガン見してしまいました(*^^*)。校舎の左側にある体育館は2階建てで、1階はピロティーの言う名の屋根付き運動場でしたので、雨の日などはよく遊んでました。ちょうど私が1~3年生くらいの時に建て替え工事が行われており、その間は屋上が運動場でした。運動会などは、四谷のグラウンドでやってましたね。懐かしい動画、ありがとうございました。
今回もとても見応えありました。神田は子供の頃に交通博物館、学生時代はスキー用品、書店街、などお世話になった場所がたくさんありますあと美味しいお店が多いのも神田の特徴ですね。カロリー焼久しぶりに食べたいな、、、そういえば、神田の地名はほとんど「ちょう」読みなのに、小川町と司町だけ?「まち」読みなのが興味深い所です。
亡くなった母が小川町の出身で、よく話をしていました。母や親戚の話でしか知らなかった事を、映像で観られた事に感動しています。空襲で自宅周囲が焼け残ったことや、皇居1周マラソンを北の丸だけ1周して男子より早く戻ってバレた叱られた話などを思い出しましたwこの動画を母達に観せてあげたかったです。ありがとうございます。
25年程前に友人の結婚式の余興で歌う為、イシバシ楽器にギブソンのアコースティックギターを買いに行きました。ミュージシャンでオールドギターコレクターの友人に付き添いをお願いして二人で買いに行ったことを重みだしました。帰りに須田町の万惣フルーツパーラーでホットケーキ食べて帰りました。懐かしい思い出です。
神田美土代町ってありますね。そこで15年ほど働いていました。懐かしい。神田は大好きな街です。
軽快なテンポと解説です♪調べるの大変だと思いますが東京は奥深いですねー🤔また、楽しみにしてます👍
重箱の隅をつつくようで申し訳ないのですが、街を深掘する素晴らしい動画なのであえて小川町は「おがわちょう」ではなく「おがわまち」ですね神田外語学院の学生だった頃、西口商店街にあった森永ラブや、鎌倉橋方面にあったウェンディーズはよく通いました
大作制作お疲れさまでした。このへんの歴史を探るのが好きだったのでとても面白く拝見しました。ありがとうございます。(細かすぎますが、小川町(おがわまち)、東大島(ひがしおおじま)と読むようです。面倒くさいですね)
元々須田町界隈には多くの問屋、それも小さな店の問屋さんが並んでました。今でも食品関係の問屋が数軒残ってますが昔は多く有り、須田町にはその人たちの飯屋もありました。衣服関係や、Yシャツの会社、その他服関係も多かったです、昭和30年代には沢山残っておりました。須田町から神保町には本屋が多く、三省堂を始め今でも多くの古本屋が残ってます。
神田の歴史ありがとうございました。神田にある学校に通学していたので、少し詳しい方ですが、初めて知った事も多くあります。
本当に、よく調べてますね。私は、昭和29年生まれで神田駅から徒歩5分の須田町2丁目に住んでいましたので、本当に懐かしく拝見いたしました。食べ物屋ももっと紹介してほしかったな。これからも楽しみにしております。
須田慎一郎さんのご近所さんですか?
@@ikinariiwaretemo0987 須田慎一郎氏のお住まいは、存じ上げませんが、私は、千桜小学校のすぐそばで、育ちました。岩本町と須田町の交差点の間あたりです。本当に懐かしい、うなぎの菊川や蕎麦の尾張屋、肉の万世など、もう一度行きたいと思います
嬉しい動画!かつて会社が神田鍛冶町、神田紺屋町にあり、神田界隈は目をつぶっても歩ける街です。会社は3年程前に日本橋に移転してしまいましたが、愛着はまだ神田にあります。当時会社終わったら神田界隈をよく彷徨てましたが、日本橋になってから真っ直ぐ家に帰るだけの日々になってる事に気がつきました。
勉学、青春、趣味、教養、安いメシと洒落た喫茶、仕事、転職、そしてそれら全てを思い出すそぞろ歩き‥ 意識はしていなくても、事実上私にとってとても重要な大好きな界隈です。今後も掘れば幾らでも逸話が出てきますよね、期待してます~!
多摩地区在住で神田界隈に勤めています。神田の歴史がまとめて知れてとても興味深買ったです!スマホで見たのでもう一度テレビ画面で見直そうと思います!ありがとうございます!!
毎日のように通る所だらけでとても面白かったです。
10月頃、柳原通りでの古着も扱うバザーはそんな由緒があったんですね。昭和通りの東側のエリアです。子供の頃(昭和40年代)銀座日本橋の買い物から、都電で神田まで足を伸ばし「ピンクベアー」というディスカウントストアのような店で買い物をしていたことを思い出しました。都電は「今川橋」電停だったように思います。国電ガードのすぐ下にピンクの建物がありました。亡き父が好きな場所でした。
神田は難しい。山の手線の神田駅が街をななめに走っているので、駅を降りると土地感がくるう。
素晴らしく見ごたえのあるイシュ-でした。今後ますます期待大です。
楽しい動画、ありがとうございました。神田駿河台で生まれ育った私には懐かしい母校の小川小学校を取り上げて下さり感謝致します。神田生まれと言うと神田祭のことを良く聞かれるのですが、駿河台は神田明神ではなく太田姫神社の氏子なので、参加した経験がないんです😢
近江屋洋菓子店懐かしいなあ、豊島に住んでた頃は秋葉原に行くのに丸ノ内線で御茶ノ水か淡路町で下車、夏場淡路町で降りた時はここで必ずアイスクリームを買っていましためっちゃ濃いアイスで、そうですねシンカンセンスゴイカタイアイスをシュガーコーンの上に乗っけたものを想像してもらうと大体合ってる様なそんなアイスでしたね
地下鉄神田駅6番出口に、大時計のある建物を復元してほしい。老朽化していたとはいえ、大変勿体ない。
今更ですがコメントします。「六本木」の時もすごく懐かしい気持ちになりましたが、同時期(昭和40年代後半)に駿河台、神保町周辺にいましたので今回も非常に懐かしく拝見(聴)しました。高校3年間と大学後期の2年間は駿河台下や神保町あたりでビリヤードや麻雀にふけっていました。また、コメントの質問にあったパチンコ人生劇場側の「天丼いもや」や「ジャンジャン」「カレーの南海」「ランチョン」にもよく行きました。
大変貴重な資料を興味深くまた懐かしく思い拝見いたしました。ありがとうございます。登録させていただきました。
二年前に鍛冶町にほんの一年程ですが住んでいて、かつての職場が神保町だったので興味深く見させて頂きました😊
志乃多寿司でアルバイトを年末にしました。炊きあがったシャリに酢なのかな混ぜるのは店の人、私はいろんなものを運ぶ役でした。
近江屋洋菓子店レトロな感じでケーキも安価で大きく美味しいんですよね!ただ、張り出し看板や今の洋菓子店のように派手な色彩を使ってないので、ビルの前を必ず通り過ぎてしまいますね(笑)。どちらかと言うと神田に多い鋼材関係のお店に見えますね!
最初の勤務地が神田須田町でした。その後神田多町、神田紺屋町、外神田と、通算で約13年神田でお世話になりました。思い出の多い場所です。動画アップ楽しみにしております。
交通博物館に行ってみたかったんですが、行けずじまいでした。残念。
神田橋に生まれ住んでいます自宅最寄り駅は神田ではなく大手町なので神田駅はあまり馴染みがないのですが将門塚に関する都市伝説は保存会の人達が進駐軍に保存をお願いする為に作った作り話です江戸っ子が深川にお詣りしないのは江戸っ子の神様を討ち取る祈願所だったからです、私も祖父祖母から深川には行くなと言われましたよ戦時中の金属供出を避けるために万世橋地下鉄駅には日比谷公園の鶴の噴水を隠していました
江戸っ子自体江戸初期に江戸に上京してきた人が見栄のために作った言葉ですのでそれ以前から住んでた家系の人は気にせずお詣りしてましたよ
毎回とても興味深い。よく調べたなあ。図版や古い写真をよく集めたなあ。
【神田 消えた地下道の謎】の地下道の話は?
都電を「終点・須田町」で降ろされ、見回しても国電の駅に連絡していないのでうろたえたものですイシバシ楽器は地下にブルーグラス楽器専門売り場があって毎週通っていましたギター、バンジョー、マンドリンを買いました弦は小川町のカワセ楽器のオリジナルを愛用していました15:45 ”和寿司”とは聞きなれぬ言い方ですね冒頭のBGMは歩行型ドローンさんのチャンネルだけで聴きたいな
近くに美土代町と言う地名もあります。
(´∀`*)ウフフ、昔は神田付近は学生や若者が沢山歩いていたけど、今はいかにも学生という感じの若者は少なくなったね。沢山大学がかたまって立っており、交流があったからこそ、学生が将来を夢見て勉学に励んだんだろうね。今は大学も神田付近には少なくなり、電子化が進んだせいか、学生らしき若者も本や教科書・ノートを持って歩いていないものね。単に土地の高騰だけでなく、学生紛争が学生が集中することにより激化したせいで、大学が分散した可能性否定できないのかもね。まあ40~50年前も鞄に本やノート、辞書・六法等を持って歩いていたのは東大生と中央大の法科の学生ぐらいで、ブックバンドぐらいで足りている学生がほとんどだったけどね。
当時の写真の中に亡き母の実家が写っていました。初めて見ました。貴重な写真をありがとうございます!
神田に住んでいます。歴史を知れて良かったです。昔は巨大な青果市場があったんですね。今は数件の小さな青果店がありますね
明治大学駿河台キャンパスに通い、よく神保町の古本屋に通い、よく御茶ノ水駅前の楽器屋に通い、よく旧万世橋駅や秋葉原へ寄り道をする私には大変興味深い動画でした!東京って歴史が詰まっててほんとに面白い所だな、、特に神田御茶ノ水周辺は江戸時代や明治時代の名残を色濃く残していてワクワクする
このチャンネルのコメ欄を見ているとスマホもタブレットも使いこなしUA-camコメもガンガン投稿される'40'50年代と思しき諸先輩方が沢山居られて感服しています。
いつも楽しく見させていただいております。今回、神田を取り上げていただき、ありがとうございます。懐かしい写真と初めて見る写真がたくさんあり、とても感動しております。私は神田で生まれ、岩本町にある幼稚園・小学校に、神田駅近くにある中学校、東神田にある高校と、学生時代まで神田地区圏内で過ごしておりました。ちなみに結婚式も神田明神で行いました。5歳くらいの頃、靖国通りを学生運動がデモ行進している姿が目に焼き付いています。それを見て「この人達は一体何しているんだろう?」と思った記憶があります。また、小学校時代は友達と良く「鉄道博物館」に行き、「万惣」やうなぎの「きくかわ」へは祖父に連れられて行った思い出があります。中学校時代は地下鉄ストアに良く行きました。高校時代は御茶ノ水にギターを見に毎日のように出没し、明治大学の学食に入り込みカレーライスを食べていました。神田祭は神田っ子の魂で、ここ数年コロナのため開催されていないのが残念でたまりません。良く大人に「成田山だけは行っちゃいけない」とも言われていました。あと、余談ですが中西隆紀さんの「幻の東京赤煉瓦駅」という本に、なぜあの地区に赤レンガの高架線が残されているか詳しく書いてありますので、オススメです。ちなみに、重箱の角をつつくようで大変申し訳ございませんが、小川町は「おがわちょう」でなく「おがわまち」になります。このような動画が上がっていて興奮してとりとめのないコメントになってしまいました。申し訳ございませんでした。
中大の学食は行かなかったのですか?(笑)
@@ハゼヘラ さん、はい。楽器屋巡りのついでにお邪魔していたので明大になってしまいました。
確かに5歳の子どもの視線からですとあのデモ隊は異様に映りますよね^^;>大人に「成田山だけは行っちゃいけない」とも言われていました。おお、証言をありがとうございます!
都営新宿線の東大島駅は、ひがしおおじまですね。 いつも楽しくみています。
神田書店街の中に「書泉グランデ」という店があり、道路を挟んだ斜向かい側に「共栄堂」という老舗カレー屋があります。今では立派なビルの半地下になっているようですが、ぼくが学生だった頃には普通の戸建て一軒家でした。グランデで本を買った後、ここでカレーを食べましたが、ワイシャツにネクタイ姿の品の良いおじいさんが直立不動の姿勢で注文を取るので、恐縮したことを覚えています。おいしいカレーですよね。この一帯はカレー屋街になっているそうですが、その発端となったのはひょっとしたら、この「共栄堂」なのでしょうか。
共栄堂は、鎌倉町にも、(暖簾分けでしょうか)ありましたねえ
銀座線神田駅を秋葉原に向かう天井の低い地下通路、1枚の写真でしたが懐かしいです。靴屋、理髪店、手描き看板屋(私は秘かに神田のロートレックと呼んでいた)、地上に出る踊り場にはメトロダンスホールがありました。
メトロダンスホール懐かしいですね。子供の頃、ホールの前を通る度、不思議な空間だと子供心に思っていました。行きつけの床屋がお休みの時は、父と一緒に地下道の理髪店に行ってました。
良く纏まった動画だと思います。神保町で孫文や周恩来に言及していただけていたらもっと良かったと思います。
下町の古今 を 楽しみして 見ています。今回、神田明神祭りの映像を観て自分の地元の事も何か資料が無いかなぁっと思い小学生の頃、父の趣味であった 8ミリ編集を手伝った事が あったなそう言えば その資料を 8ミリ→VHS→DVD にした事も 思い出し久しぶりに DVDを見つけ出すことができて 久しぶりに 地元の祭り(墨田区 牛島神社大祭)の映像を観ています昔の資料があったことが 思い出させて頂いて ありがとうございました😁
子供の頃ここらへんに居たので懐かしいです、ありがとう
万惣フルーツパーラー懐かしい!よくそのホットケーキを食べに行きました。メイプルソースとホットケーキが昔ながらの味だったことを覚えています。確か2階だったような。中のメイドさんも昔風な感じでした。今はもうないことは寂しい。
万世橋駅は廃止では無くて休止状態と言う話もありますね。
1970~80年代に田舎でニッポン放送のラジオを聞いてるとよく下倉楽器のCMで「日本のカルチェラタン、お茶の水」と言っていてどんな街だと思ってました。その後東京電機大学に通うようになり、「ここが日本のカルチェラタン。全然パリっぽくない」と思った記憶があります(笑)。
学生や若者は当時たくさんいつのは間違いのない事だけどね。学生は喫茶店やパチンコ屋にいたんだね😁😁😁でも、余り、パチンコ屋行かないから比較内容は正しくないけど、昔の神田のパチンコ屋の景品本屋並みに書籍が並んでいいたよ、そんな事学生街のない地方のパチンコ屋は有り得ない話だけどね。
私は日大闘争で有名な学部でしたから、講義に出ずに古本屋で本を買って、喫茶店で本を読み、そのまま歩いて万世橋まで抜けるという学生時代を送っていました。あぁ、ここは漱石も通った道だと思いながら今となってはどうでもいいことの思索に耽っていました。
以前神田駅近くの会社に勤務していたが、神田駅改札口構内(西口・南口側)の中に、地下に喫茶店があって、出社前よくモーニングを取ってそれから出社したな。コーヒーのほかオレンジジュースかミルク、野菜サラダ、トースト、マーガリンが付いたな。まるで名古屋のモーニングサービス、250円だったかな、安いのでいつも混んでいたな、そのうち赤字か何かでモーニングサービスは無くなってしまいそれ以降行かなくなったが、2020年東京オリンピックに合わせ、神田駅改良工事でこの喫茶店も追い出されてしまったかもな。それと、西口を出た目の前に道路が走っており(西口商店街入り口付近)、その高架橋の桁下の歩道上で、毎朝モンペを履いた農家のおばさんがゴザを敷いて野菜を売っていたな。聞く処によると、千葉方面から来ているとのことであったが、JR上野東海道ラインの工事が始まる頃、追い出されたのか何時(イツ)の間にか見えなくなってしまったな。ライン開通後も再び見ることはなかったな、大都会での風物史がまた一つ消えてしまったな!!あっそうそう、神田駅周辺の通りでは、夕方になると垢(アカ)すりを誘う若いお姉様方がいっぱい出没していたな、今でもいるのかな・・・!!
地下鉄ストアの写真は日中でしょうこの頃には殆どの店舗が営業を終了しており日中でも暗く閑散としていました画像にある床屋と蕎麦屋、小さな雑貨屋が有ったのを覚えています万惣は妻とのデートで必ずと言って良いくらい通っていました分厚い銅板で狐色に焼けるホットケーキは絶品でした
東大島はひがしおおじまと読みます。小川町はおがわまちと読みます。
国鉄が作られる前の甲武鉄道は、もともと私財をはたいて作った甲府の財閥家がおり、最初新宿〜八王子を結び、その後数年後から、甲府と接続させた私鉄線です。
ただただ頭が下がります。。たとえ有料化になろうとも見守り続けたいチャンネル。いもありがとうございます!
動画の補足のようになりますが、須田町から小川町にかけては奇跡的に戦災を免れた地域です。さすがに戦後77年も経つと現存建造物は少なくなってきていますが、探してみるのも面白いかも。一番有名なのは今も営業を続けるそばの松屋さんですね。
松屋さんいいですよ!
会社帰りに呑みに行くのですが気にしてませんでした。勉強になります。
東大島駅は「ひがしおおじま」と読みます。
母方の祖父の先祖は神田で米屋を営んでいたそうです。神田のどの辺りかは分からないですが、幕末、震災、戦災と大変だったんだろうな亡父が昭和30年代初めに神田にあった頃の中大法にいたそうです。私も神保町に小学期からよく通ってます。小さい頃アキバの貨物線に特急や急行の車両がたくさん留置されてました。
昔を懐かし思い拝見しています!機会があれば1960〜1970の北千住の事教えて下さい🙇♀️
連雀町だけで1本upできそうだ。。。
今ではメジャーな隣の秋葉原、上野、東京、新宿などに比べて一見地味な神田の神保町、小川町、須田町、岩本町に何で都営で地下鉄が?という感じですが、昔賑わっていた都電の名残りで今でも重要な路線だと分かりました。それとは別に神田に地下通路があって通ったことあるけどこれも謎でした。
今ではメジャーな隣の秋葉原だって?…昔の秋葉原の方がもっとメジャーだった様な気がするけどな。
“おがわまち”(小川町)を“おがわちよう”と呼ばないでください、“おかちまち”と同じように“町”を“ちよう”と呼ばない数少ない東京の地名です。
懐かしいね、秋葉原の青果市場も神田駅の地下街も覚えている。青果市場のあった頃の秋葉原は家電とオーディオ、無線機の街だった。地下街は革靴の匂いがこもっていた印象。晴れた日は地上を歩くので雨に濡れた革靴の印象が強いのかな…
私も戦後10数年頃小から中学生にかけて秋葉原駅のガード下を中心に真空管やその部品を買いによく行ったもんです。本屋街は御茶ノ水駅で降りておちゃじょや明大の坂を下り行きました。また旧万世橋駅の下の交通博物館にもよく通った。総武線小岩駅から電車賃15円で行けた記憶が。切符売り場の木枠窓口で硬券切符を買って。あの鋏を入れてもらうのも楽しみだった。66年前頃か。
その昔、神田駅ガード下には成人向けの映画館もしくはソレらしき施設があった様な?にしても、ガードを支える網目状の鉄の柱...これは現存してますね!
神田アカデミー ですね! アカデミックな、成人映画劇場でした~
秋葉の青果の跡地は、ヨドバシカメラだと記憶してますが。あの位置でないと、貨物線はなく、UDX等は山手・京浜東北の内側になってしまいます。あの位置も、市場の一部であったかもしれませんが。
須田町や淡路町は昔の繁華街だったと聞いたことがあります。随分前ですが、外回りの帰りに、周辺をうろついたことがあります。オフィスビルばかりで、飲食店があまりなかった記憶があります。
全共闘が話題になりましたが、私が田舎の小学生のときに産休教員の代行として赴任された先生がこの全共闘に参加していました。御両親も教師で本人も教師になる事を渇望していたそうですが、機動隊との衝突で前科が付いてしまい正規の教師にはなれなかったそうです。
専修大学が入っていない。「~など」で括られてしまう大学ではないと思うが。
かつて飯田橋に貨物駅があり、どちらが先かは判りませんが、紙の取り扱いと印刷・出版が飯田橋ー水道橋・神保町で盛んになりました。当時の作家陣が執筆のために逃げ込んだ(缶詰めになった)所が、隣町の神楽坂にあった旅館でした。こうしてみると、神田学生街から神楽坂まで「文化街」として繋がっていたんですねぇ。
母の実家は小川町でした。登場するお店も、誰ちゃんの家、誰くんの家と聞いたことがあります。当時、帰省?すると、よく近江屋洋菓子店のケーキが出てきました。今でも手土産には、よくこのお店を使います。で、ここの袋の住所には旧地名、連雀で書かれています。ちなみに三鷹にも連雀の地名がありますが、明暦の大火の時、神田の連雀町の人が今の下連雀に移り住んだことからきているようです。
神田の語源は「からだ」と聞いたことありますよ。将門公の身体「神田」からだと首「首塚」があったとか。詳しくはお調べください。
質問です。物凄く多くのネット上の写真を使われていますが、各写真にリンクを貼られてますね。これは一枚一枚全て掲載許可をいただいているのでしょうか?
一つ現在の神田について見落としてるな。それは、秋葉原・神保町は夜になるとゴースト・タウンになること...。
とても勉強になり、毎回、拝見しています。ただ、サムネにある「消えた地下道の謎」については言及が無かったようでした。このテーマも大変に興味深いですが、何か圧力があったのでしょうか? 一説によりますと、かつてのJR神田駅の駅長様が、「本来の神田駅の位置の地面は13m下である」と言ったそうです。地下3階位下が、江戸時代以前に踏み硬められた本来の街道ということですね。明治になる前に何かあったと思われます。
ありがとうございます!
よく調べていて敬服致します。昭和の風景が懐かしいです。気になったのですが、日光東照宮は江戸から見て北北西の方角なので鬼門と無関係ではないかと思います。
鬼門にあるのは上野東照宮参道が江戸城の方を向いているのが日光東照宮…かな?
@@yamasiyama なるほど、東照宮=日光と考えてしまいました。とほほ。
JR高架と銀座通りが斜めに交差しているので目的地の入る道を間違えると筋毎に町名が変わりどこを歩いているのか迷子になる!
地下鉄ストアビルの地下街、平成に入っても昭和中期の雰囲気がありました。地上への階段の近くには社交ダンススクールなんてのも。秋葉原の青果市場も、私が社会人になり千代田区の外回り営業を始めたころまで残っていたのでよく記憶しています。
神田エリア町名の由来編お願いしたいです。
御茶ノ水やってください!
小川町にあった、カナザワスポーツ店、だったか、金澤運動店の歴史を知りたい。
素晴らしいリサーチ力です。神田地下鉄ストアの入り口に中川ダンススタジオがあって今思えば中を覗いてみたかったです。
祖父の実家のビルがすずらん通りにありました。祖父は癌で30歳で他界していますが昭和39-40年の神保町の街並みが葬式時の写真に残ってます。90代の方がこの動画を見てる可能性は少ないですが、もし祖父をご存知の人がいたらコメントください。
小川町は都電の駅があったように記憶してますが、私もおがわちょうだと思ってました。住んでる地域が違うとわかりませんよね。都内でも荒川区出身の人と大田区出身の人ではお互いに地域をさっぱり知らないということがあります。学生が都内全域から通って来ている学校に行ってたのですがなんとなく気風まで違うような気がしました。でもさすがに2月や4月を ‾ _ _ のようには誰も発音しませんでしたね。
2月と4月のイントネーションは東京弁では昔は_‾‾だった記憶があります。最近は逆ですね。おがわまちって読むこと知ってても、言いにくいからおがわちょうって呼んでます。二子玉川もニコタマって呼んでますよね。
神田の界隈が東京では一番都会だと思います。大きなビルがあれば良いわけじゃないです。お金がモノを言わす東京23区の中で、数少ない文化のある地域ではないでしょうか。
映像を含むデータと解説が秀逸です。今や東大合格者数を誇る開成高校もこの辺りが発祥だと聞きました。
古本屋ふるぼんや でなくふるほんや だと思います。
まあ社会に出た時は小川町でしたね、最寄は御茶ノ水。
小川町 おがわちよう→おがわまち
私としては町名がなぜ残っているのかが欲しかったです。あとカラーとモノクロ写真は最近時代を逆転させているものが多いので、通史的に紹介するときは気を付けたほうがいいと思います。
大時計がついた地下鉄ストアがあったのは上野駅前だよ。
廣瀬中佐の銅像はGHQの命令で撤去されたのではないはずですが、いかがでしょうか
神田明神は平将門さんの身体を祀ってたのがなまったんだよね平将門さん黄泉帰る可能性なんか本当にあるんかな
小川町(おがわちょう)ではなく、おがわまちです。ざんねん。
小川町を「おがわちょう」と話しています。正しくは「おがわまち」です。また東大島を「ひがしおおしま」と言っています。正しくは「ひがしおおじま」です。多くのご指摘を感謝します!m_ _m このチャンネルを作っていて漢字の読みで一番間違えやすいのは「町」「本」(本町 ほんちょう、もとまち・・)といったやさしい漢字です。まさかと思う所で間違えております。。。今回間違えやすいリストに「島」が追加されました!感謝ー
ケンさん!こんにちは
このコメント下の方に埋もれてしまっているので、配信者さんなら『固定』されれば一番上になるんじゃないですか?私は配信してないのでよくわからないですが、他のチャンネルで見たことがあります。せっかくのコメントですから皆さんに伝わるといいな✨と思います。
私は、前にもお話した湯島に住んでいましたが、学校が一ツ橋の女子校でしたので神保町やお茶の水などとても懐かしくて嬉しい動画でした。
@@yuucoo あれ・・固定したつもりでしたが・・ありがとうございます。
@@ojmm さん
固定コメ 👍
私のコメは消した方がいいんじゃないか!に🤣
「秋葉原」の動画にもコメントさせていただきましたが、今回の「神田」も須田町で生まれ育った自分にとって、非常に懐かしい動画でした。
当時、実家が靖国通り沿いで衣類関連の商売をしており、柳原通りの「柳森神社」が遊び場でした。
小学校の運動会には「志乃多寿司」の海苔巻きやお稲荷さんを持って行くのが定番でしたし、父と一緒に「万惣」でホットケーキを食べるのも楽しみでした。
須田慎一郎さんのご近所さんですか
子供のころ、毎年、夏休みになると、神田に住んでいた従姉妹の家へひとりで泊まりに行きました。神田駅で降りると、あの静かで、どこか不思議な雰囲気の地下の商店街を通り抜け、狭い階段を登り、地上に出ると、伯母と従姉妹がニコニコと待っていました。秋葉原のオモチャ屋でアメリカ製のビールセットなんかをひとつづつ買ってもらい、万世でカツサンドを食べるのが恒例でした。翌朝、テレビでは、朝から、夏休み子供特別番組で外国製のアニメ映画が流れていて、それを観ながら、従姉妹と一緒にホットケーキを食べました。扇風機の音、カルピスの氷の音ともに、今となっては、幻のような昭和の思い出です。
平和で善い時代でした😊
先日は鶯谷編でコメントさせていただいた、神田小学校、今川中学校の卒業生です。
神田鍛冶町の神田っ子ですが、小学生のころ、神田囃子の演奏でTVに出たこともあります。
小学校の同級生はリラックマで有名なサンエックスの社長で、神田多町に今でも本社ビルを構えています。神田は空き地が少なく、縦横無尽にあった路地や神田公園が遊び場所でしたが、サンエックスビルの屋上で遊ばせてもらったりもしていました。そもそも神田駅周辺で商店を営んでいた同級生も多く、現在は神田駅周辺ののあのビルこのビルのオーナーになっています。
少年期、神田駅の西口付近では行商のおばあさんたちをよく見ました。主に野菜や乾物などを並べて駅入り口付近で露店していたのですが、総武線の上りでも時折大きな荷物を背負って神田に向かうおばあさんたちを見かけたものです。余談ですが、実家の近所に住んでいたトウマさんは、それ以前にここにあった闇市(勿論当方は知らない)でひと財産を築いたって話でしたが、小学校を卒業するまで、私は彼女の名前がトーマスだと思っていました。
神田は過疎化から子供が少なく(40年以上も前なのに)、小学校6年生の頃の新入生は10人以下。神田祭になると、鳳輦では有無を言わせず駆り出されたものです。
お鼻を白く塗って鉄の杖を突き、神田明神まで行進した思い出があります。
今でも、ハンバーグなら豚汁が定番は「肉の万世」の影響かなとか、大袈裟かもですが、人間形成に大きな影響を及ぼした神田です。
行商のおばあさんたち、40年前の少子化など興味深い思い出のシェアを感謝です。
私も今中の卒業生です。
小学校は千桜でしたが。
@@eiichirotakano282 母が千桜です!鍛冶3なので迷いますよね。
@@ojmm いつも、素敵な動画ありがとうございます!
当方が住んでいた鍛冶町3丁目には魚屋さんが無く、千葉からの行商のおじさんが家を回って魚を売りあるいていました。周辺は小料理屋さんが多かったので、その残りを民家に売りさばいていたようです。(ちなみに、魚は選べず、半ば押し付けられていたって話でした。)要は押し売り。玄米パンの軽トラもよく来ましたね。1980年前後の話です。
当方、神田っ子ですが、鶯谷を経て、今は下北沢在住です。機会がありましたら、下北沢編も是非。
神田周辺は「青春時代」の思い出が詰まっている所です。
中学までは「新橋」で育ちましたが、高校は錦町にある男子校でした。
直ぐ隣も「他の高校」が並んで建つという妙な所でした。
電気大・神田警察にも近く自宅からは都電で通いました。
地下鉄神田駅の商店街も懐かしいですが、同じ時代新橋の銀座線にも
同じ様な商店街がありました。
万惣フルーツパーラー、懐かしいですね!昔南口には「ピンクベアー」という
スーパーが在ったり、JRガード下には3軒の映画館があってその内の
「ピンク映画専門館」には高校をサボって良く行きました。
学生運動が盛んな頃は某大学へ入ったモノの革命にも自己批判にも興味が無く
ギターを買いに小川町の「カワセ楽器」に通ったものです。
「龍岡」と言うラーメン屋、「フクフク饅頭」と言う甘味店何処も「私の青春」に
大事な思い出ですね。
N-15 115さんがお書きになった「美土代町」が都電の最寄り駅の一つでした。
「みとしろちょう」と読めない人が多かったように思います。
「神田 小川町」は「おがわまち」なんですよね!
全くも~・・・。
龍岡🍜 並でも大盛りでした。麺がやわらかいというか?伸び始めが提供されていました(笑)
ピンクベア…あの細三角の所に1~3Fに何でも屋さん(笑)
遂に神田ですね。東京23区生まれの身として度々書き込みさせて頂きました。コロナ禍以前、私の個人的な遊び場は神田一帯でした。神保町駅で降り、靖国通りを散策しながら淡路町交差点を左折し北上、そのまま旧連雀町界隈の焼け残った街並みを眺めつつ万世橋を渡り電気街を散策し、最期はどこかの老舗で酒販を嗜み帰宅する。すっかり足が遠のいてしまった街の特集、とても興味深く拝見出来ました。明神様にお詣りにでも行こうかな。そう思える郷愁を誘う映像の数々、とても楽しかったです。
いつもありがとうございます!
動画配信、ご苦労さまです。
今回は、母校の小川小学校の空撮写真が見られて、感動しました。しかも、おそらく私が卒業した年の写真ということで、画面をポーズしてガン見してしまいました(*^^*)。
校舎の左側にある体育館は2階建てで、1階はピロティーの言う名の屋根付き運動場でしたので、雨の日などはよく遊んでました。
ちょうど私が1~3年生くらいの時に建て替え工事が行われており、その間は屋上が運動場でした。
運動会などは、四谷のグラウンドでやってましたね。
懐かしい動画、ありがとうございました。
今回もとても見応えありました。
神田は子供の頃に交通博物館、学生時代はスキー用品、書店街、などお世話になった場所がたくさんあります
あと美味しいお店が多いのも神田の特徴ですね。カロリー焼久しぶりに食べたいな、、、
そういえば、神田の地名はほとんど「ちょう」読みなのに、小川町と司町だけ?「まち」読みなのが興味深い所です。
亡くなった母が小川町の出身で、よく話をしていました。
母や親戚の話でしか知らなかった事を、映像で観られた事に感動しています。
空襲で自宅周囲が焼け残ったことや、皇居1周マラソンを北の丸だけ1周して男子より早く戻ってバレた叱られた話などを思い出しましたw
この動画を母達に観せてあげたかったです。
ありがとうございます。
25年程前に友人の結婚式の余興で歌う為、イシバシ楽器にギブソンのアコースティックギターを買いに行きました。ミュージシャンでオールドギターコレクターの友人に付き添いをお願いして二人で買いに行ったことを重みだしました。帰りに須田町の万惣フルーツパーラーでホットケーキ食べて帰りました。懐かしい思い出です。
神田美土代町ってありますね。そこで15年ほど働いていました。懐かしい。神田は大好きな街です。
軽快なテンポと解説です♪調べるの大変だと思いますが東京は奥深いですねー🤔また、楽しみにしてます👍
重箱の隅をつつくようで申し訳ないのですが、街を深掘する素晴らしい動画なのであえて
小川町は「おがわちょう」ではなく「おがわまち」ですね
神田外語学院の学生だった頃、西口商店街にあった森永ラブや、鎌倉橋方面にあったウェンディーズはよく通いました
大作制作お疲れさまでした。このへんの歴史を探るのが好きだったのでとても面白く拝見しました。ありがとうございます。(細かすぎますが、小川町(おがわまち)、東大島(ひがしおおじま)と読むようです。面倒くさいですね)
元々須田町界隈には多くの問屋、それも小さな店の問屋さんが並んでました。今でも食品関係の問屋が数軒残ってますが昔は多く有り、須田町にはその人たちの飯屋もありました。衣服関係や、Yシャツの会社、その他服関係も多かったです、昭和30年代には沢山残っておりました。須田町から神保町には本屋が多く、三省堂を始め今でも多くの古本屋が残ってます。
神田の歴史ありがとうございました。神田にある学校に通学していたので、少し詳しい方ですが、初めて知った事も多くあります。
本当に、よく調べてますね。私は、昭和29年生まれで神田駅から徒歩5分の須田町2丁目に住んでいましたので、本当に懐かしく拝見いたしました。食べ物屋ももっと紹介してほしかったな。これからも楽しみにしております。
須田慎一郎さんのご近所さんですか?
@@ikinariiwaretemo0987 須田慎一郎氏のお住まいは、存じ上げませんが、私は、千桜小学校のすぐそばで、育ちました。岩本町と須田町の交差点の間あたりです。本当に懐かしい、うなぎの菊川や蕎麦の尾張屋、肉の万世など、もう一度行きたいと思います
嬉しい動画!かつて会社が神田鍛冶町、神田紺屋町にあり、神田界隈は目をつぶっても歩ける街です。会社は3年程前に日本橋に移転してしまいましたが、愛着はまだ神田にあります。当時会社終わったら神田界隈をよく彷徨てましたが、日本橋になってから真っ直ぐ家に帰るだけの日々になってる事に気がつきました。
勉学、青春、趣味、教養、安いメシと洒落た喫茶、仕事、転職、そしてそれら全てを思い出すそぞろ歩き‥ 意識はしていなくても、事実上私にとってとても重要な大好きな界隈です。今後も掘れば幾らでも逸話が出てきますよね、期待してます~!
多摩地区在住で神田界隈に勤めています。
神田の歴史がまとめて知れて
とても興味深買ったです!スマホで見たのでもう一度テレビ画面で見直そうと思います!ありがとうございます!!
毎日のように通る所だらけでとても面白かったです。
10月頃、柳原通りでの古着も扱うバザーはそんな由緒があったんですね。昭和通りの東側のエリアです。
子供の頃(昭和40年代)銀座日本橋の買い物から、都電で神田まで足を伸ばし「ピンクベアー」というディスカウントストアのような店で買い物をしていたことを思い出しました。都電は「今川橋」電停だったように思います。国電ガードのすぐ下にピンクの建物がありました。亡き父が好きな場所でした。
神田は難しい。山の手線の神田駅が街をななめに走っているので、駅を降りると土地感がくるう。
素晴らしく見ごたえのあるイシュ-でした。今後ますます期待大です。
楽しい動画、ありがとうございました。神田駿河台で生まれ育った私には懐かしい母校の小川小学校を取り上げて下さり感謝致します。神田生まれと言うと神田祭のことを良く聞かれるのですが、駿河台は神田明神ではなく太田姫神社の氏子なので、参加した経験がないんです😢
近江屋洋菓子店懐かしいなあ、豊島に住んでた頃は秋葉原に行くのに丸ノ内線で御茶ノ水か淡路町で下車、夏場淡路町で降りた時はここで必ずアイスクリームを買っていました
めっちゃ濃いアイスで、そうですねシンカンセンスゴイカタイアイスをシュガーコーンの上に乗っけたものを想像してもらうと大体合ってる様なそんなアイスでしたね
地下鉄神田駅6番出口に、大時計のある建物を復元してほしい。老朽化していたとはいえ、大変勿体ない。
今更ですがコメントします。「六本木」の時もすごく懐かしい気持ちになりましたが、同時期(昭和40年代後半)に駿河台、神保町周辺にいましたので今回も非常に懐かしく拝見(聴)しました。高校3年間と大学後期の2年間は駿河台下や神保町あたりでビリヤードや麻雀にふけっていました。また、コメントの質問にあったパチンコ人生劇場側の「天丼いもや」や「ジャンジャン」「カレーの南海」「ランチョン」にもよく行きました。
大変貴重な資料を興味深くまた懐かしく思い拝見いたしました。ありがとうございます。登録させていただきました。
二年前に鍛冶町にほんの一年程ですが住んでいて、かつての職場が神保町だったので興味深く見させて頂きました😊
志乃多寿司でアルバイトを年末にしました。炊きあがったシャリに酢なのかな混ぜるのは店の人、私はいろんなものを運ぶ役でした。
近江屋洋菓子店レトロな感じでケーキも安価で大きく美味しいんですよね!ただ、張り出し看板や今の洋菓子店のように派手な色彩を使ってないので、ビルの前を必ず通り過ぎてしまいますね(笑)。どちらかと言うと神田に多い鋼材関係のお店に見えますね!
最初の勤務地が神田須田町でした。その後神田多町、神田紺屋町、外神田と、通算で約13年神田でお世話になりました。思い出の多い場所です。
動画アップ楽しみにしております。
交通博物館に行ってみたかったんですが、行けずじまいでした。残念。
神田橋に生まれ住んでいます
自宅最寄り駅は神田ではなく大手町なので神田駅はあまり馴染みがないのですが
将門塚に関する都市伝説は保存会の人達が進駐軍に保存をお願いする為に作った作り話です
江戸っ子が深川にお詣りしないのは江戸っ子の神様を討ち取る祈願所だったからです、私も祖父祖母から深川には行くなと言われましたよ
戦時中の金属供出を避けるために万世橋地下鉄駅には日比谷公園の鶴の噴水を隠していました
江戸っ子自体江戸初期に江戸に上京してきた人が見栄のために作った言葉ですのでそれ以前から住んでた家系の人は気にせずお詣りしてましたよ
毎回とても興味深い。よく調べたなあ。図版や古い写真をよく集めたなあ。
【神田 消えた地下道の謎】の地下道の話は?
都電を「終点・須田町」で降ろされ、見回しても国電の駅に連絡していないのでうろたえたものです
イシバシ楽器は地下にブルーグラス楽器専門売り場があって毎週通っていました
ギター、バンジョー、マンドリンを買いました
弦は小川町のカワセ楽器のオリジナルを愛用していました
15:45 ”和寿司”とは聞きなれぬ言い方ですね
冒頭のBGMは歩行型ドローンさんのチャンネルだけで聴きたいな
近くに美土代町と言う地名もあります。
(´∀`*)ウフフ、昔は神田付近は学生や若者が沢山歩いていたけど、今はいかにも学生という感じの若者は少なくなったね。沢山大学がかたまって立っており、交流があったからこそ、学生が将来を夢見て勉学に励んだんだろうね。今は大学も神田付近には少なくなり、電子化が進んだせいか、学生らしき若者も本や教科書・ノートを持って歩いていないものね。単に土地の高騰だけでなく、学生紛争が学生が集中することにより激化したせいで、大学が分散した可能性否定できないのかもね。まあ40~50年前も鞄に本やノート、辞書・六法等を持って歩いていたのは東大生と中央大の法科の学生ぐらいで、ブックバンドぐらいで足りている学生がほとんどだったけどね。
当時の写真の中に亡き母の実家が写っていました。初めて見ました。貴重な写真をありがとうございます!
神田に住んでいます。歴史を知れて良かったです。昔は巨大な青果市場があったんですね。今は数件の小さな青果店がありますね
明治大学駿河台キャンパスに通い、よく神保町の古本屋に通い、よく御茶ノ水駅前の楽器屋に通い、よく旧万世橋駅や秋葉原へ寄り道をする私には大変興味深い動画でした!
東京って歴史が詰まっててほんとに面白い所だな、、
特に神田御茶ノ水周辺は江戸時代や明治時代の名残を色濃く残していてワクワクする
このチャンネルのコメ欄を見ているとスマホもタブレットも使いこなしUA-camコメもガンガン投稿される'40'50年代と思しき諸先輩方が沢山居られて感服しています。
いつも楽しく見させていただいております。今回、神田を取り上げていただき、ありがとうございます。
懐かしい写真と初めて見る写真がたくさんあり、とても感動しております。
私は神田で生まれ、岩本町にある幼稚園・小学校に、神田駅近くにある中学校、東神田にある高校と、学生時代まで神田地区圏内で過ごしておりました。ちなみに結婚式も神田明神で行いました。
5歳くらいの頃、靖国通りを学生運動がデモ行進している姿が目に焼き付いています。それを見て「この人達は一体何しているんだろう?」と思った記憶があります。また、小学校時代は友達と良く「鉄道博物館」に行き、「万惣」やうなぎの「きくかわ」へは祖父に連れられて行った思い出があります。中学校時代は地下鉄ストアに良く行きました。高校時代は御茶ノ水にギターを見に毎日のように出没し、明治大学の学食に入り込みカレーライスを食べていました。
神田祭は神田っ子の魂で、ここ数年コロナのため開催されていないのが残念でたまりません。良く大人に「成田山だけは行っちゃいけない」とも言われていました。あと、余談ですが中西隆紀さんの「幻の東京赤煉瓦駅」という本に、なぜあの地区に赤レンガの高架線が残されているか詳しく書いてありますので、オススメです。
ちなみに、重箱の角をつつくようで大変申し訳ございませんが、小川町は「おがわちょう」でなく「おがわまち」になります。
このような動画が上がっていて興奮してとりとめのないコメントになってしまいました。申し訳ございませんでした。
中大の学食は行かなかったのですか?(笑)
@@ハゼヘラ さん、はい。楽器屋巡りのついでにお邪魔していたので明大になってしまいました。
確かに5歳の子どもの視線からですとあのデモ隊は異様に映りますよね^^;
>大人に「成田山だけは行っちゃいけない」とも言われていました。
おお、証言をありがとうございます!
都営新宿線の東大島駅は、ひがしおおじまですね。 いつも楽しくみています。
神田書店街の中に「書泉グランデ」という店があり、道路を挟んだ斜向かい側に「共栄堂」という老舗カレー屋があります。今では立派なビルの半地下になっているようですが、ぼくが学生だった頃には普通の戸建て一軒家でした。グランデで本を買った後、ここでカレーを食べましたが、ワイシャツにネクタイ姿の品の良いおじいさんが直立不動の姿勢で注文を取るので、恐縮したことを覚えています。おいしいカレーですよね。この一帯はカレー屋街になっているそうですが、その発端となったのはひょっとしたら、この「共栄堂」なのでしょうか。
共栄堂は、鎌倉町にも、(暖簾分けでしょうか)ありましたねえ
銀座線神田駅を秋葉原に向かう天井の低い地下通路、1枚の写真でしたが懐かしいです。靴屋、理髪店、手描き看板屋(私は秘かに神田のロートレックと呼んでいた)、地上に出る踊り場にはメトロダンスホールがありました。
メトロダンスホール懐かしいですね。
子供の頃、ホールの前を通る度、不思議な空間だと子供心に思っていました。
行きつけの床屋がお休みの時は、父と一緒に地下道の理髪店に行ってました。
良く纏まった動画だと思います。
神保町で孫文や周恩来に言及していただけていたらもっと良かったと思います。
下町の古今 を 楽しみして 見ています。
今回、神田明神祭りの映像を観て
自分の地元の事も何か資料が無いかなぁっと思い
小学生の頃、父の趣味であった 8ミリ編集を手伝った事が あったな
そう言えば その資料を 8ミリ→VHS→DVD にした事も 思い出し
久しぶりに DVDを見つけ出すことができて 久しぶりに 地元の祭り(墨田区 牛島神社大祭)
の映像を観ています
昔の資料があったことが 思い出させて頂いて ありがとうございました
😁
子供の頃ここらへんに居たので懐かしいです、ありがとう
万惣フルーツパーラー懐かしい!よくそのホットケーキを食べに行きました。メイプルソースとホットケーキが昔ながらの味だったことを覚えています。確か2階だったような。中のメイドさんも昔風な感じでした。今はもうないことは寂しい。
万世橋駅は廃止では無くて休止状態と言う話もありますね。
1970~80年代に田舎でニッポン放送のラジオを聞いてるとよく下倉楽器のCMで「日本のカルチェラタン、お茶の水」と言っていてどんな街だと思ってました。その後東京電機大学に通うようになり、「ここが日本のカルチェラタン。全然パリっぽくない」と思った記憶があります(笑)。
学生や若者は当時たくさんいつのは間違いのない事だけどね。学生は喫茶店やパチンコ屋にいたんだね😁😁😁でも、余り、パチンコ屋行かないから比較内容は正しくないけど、昔の神田のパチンコ屋の景品本屋並みに書籍が並んでいいたよ、そんな事学生街のない地方のパチンコ屋は有り得ない話だけどね。
私は日大闘争で有名な学部でしたから、講義に出ずに古本屋で本を買って、喫茶店で本を読み、そのまま歩いて万世橋まで抜けるという学生時代を送っていました。
あぁ、ここは漱石も通った道だと思いながら今となってはどうでもいいことの思索に耽っていました。
以前神田駅近くの会社に勤務していたが、神田駅改札口構内(西口・南口側)の中に、地下に喫茶店があって、出社前よくモーニングを取ってそれから出社したな。
コーヒーのほかオレンジジュースかミルク、野菜サラダ、トースト、マーガリンが付いたな。まるで名古屋のモーニングサービス、250円だったかな、安いのでいつも混んでいたな、そのうち赤字か何かでモーニングサービスは無くなってしまいそれ以降行かなくなったが、2020年東京オリンピックに合わせ、神田駅改良工事でこの喫茶店も追い出されてしまったかもな。
それと、西口を出た目の前に道路が走っており(西口商店街入り口付近)、その高架橋の桁下の歩道上で、毎朝モンペを履いた農家のおばさんがゴザを敷いて野菜を売っていたな。聞く処によると、千葉方面から来ているとのことであったが、JR上野東海道ラインの工事が始まる頃、追い出されたのか何時(イツ)の間にか見えなくなってしまったな。ライン開通後も再び見ることはなかったな、大都会での風物史がまた一つ消えてしまったな!!
あっそうそう、神田駅周辺の通りでは、夕方になると垢(アカ)すりを誘う若いお姉様方がいっぱい出没していたな、今でもいるのかな・・・!!
地下鉄ストアの写真は日中でしょう
この頃には殆どの店舗が営業を終了しており
日中でも暗く閑散としていました
画像にある床屋と蕎麦屋、小さな雑貨屋が有ったのを覚えています
万惣は妻とのデートで必ずと言って良いくらい通っていました
分厚い銅板で狐色に焼けるホットケーキは絶品でした
東大島はひがしおおじまと読みます。
小川町はおがわまちと読みます。
国鉄が作られる前の甲武鉄道は、もともと私財をはたいて作った甲府の財閥家がおり、最初新宿〜八王子を結び、その後数年後から、甲府と接続させた私鉄線です。
ただただ頭が下がります。。たとえ有料化になろうとも見守り続けたいチャンネル。いもありがとうございます!
動画の補足のようになりますが、須田町から小川町にかけては奇跡的に戦災を免れた地域です。
さすがに戦後77年も経つと現存建造物は少なくなってきていますが、探してみるのも面白いかも。
一番有名なのは今も営業を続けるそばの松屋さんですね。
松屋さんいいですよ!
会社帰りに呑みに行くのですが気にしてませんでした。勉強になります。
東大島駅は「ひがしおおじま」と読みます。
母方の祖父の先祖は神田で米屋を営んでいたそうです。神田のどの辺りかは分からないですが、幕末、震災、戦災と大変だったんだろうな
亡父が昭和30年代初めに神田にあった頃の中大法にいたそうです。私も神保町に小学期からよく通ってます。小さい頃アキバの貨物線に特急や急行の車両がたくさん留置されてました。
昔を懐かし思い拝見しています!機会があれば1960〜1970の北千住の事教えて下さい🙇♀️
連雀町だけで1本upできそうだ。。。
今ではメジャーな隣の秋葉原、上野、東京、新宿などに比べて一見地味な神田の神保町、小川町、須田町、岩本町に何で都営で地下鉄が?という感じですが、昔賑わっていた都電の名残りで今でも重要な路線だと分かりました。それとは別に神田に地下通路があって通ったことあるけどこれも謎でした。
今ではメジャーな隣の秋葉原だって?…昔の秋葉原の方がもっとメジャーだった様な気がするけどな。
“おがわまち”(小川町)を“おがわちよう”と呼ばないでください、“おかちまち”と同じように“町”を“ちよう”と呼ばない数少ない東京の地名です。
懐かしいね、秋葉原の青果市場も神田駅の地下街も覚えている。青果市場のあった頃の秋葉原は家電とオーディオ、無線機の街だった。
地下街は革靴の匂いがこもっていた印象。晴れた日は地上を歩くので雨に濡れた革靴の印象が強いのかな…
私も戦後10数年頃小から中学生にかけて秋葉原駅のガード下を中心に真空管やその部品を買いによく行ったもんです。本屋街は御茶ノ水駅で降りておちゃじょや明大の坂を下り行きました。また旧万世橋駅の下の交通博物館にもよく通った。総武線小岩駅から電車賃15円で行けた記憶が。切符売り場の木枠窓口で硬券切符を買って。あの鋏を入れてもらうのも楽しみだった。66年前頃か。
その昔、神田駅ガード下には成人向けの映画館もしくはソレらしき施設があった様な?にしても、ガードを支える網目状の鉄の柱...これは現存してますね!
神田アカデミー ですね! アカデミックな、成人映画劇場でした~
秋葉の青果の跡地は、ヨドバシカメラだと記憶してますが。
あの位置でないと、貨物線はなく、UDX等は山手・京浜東北の内側になってしまいます。
あの位置も、市場の一部であったかもしれませんが。
須田町や淡路町は昔の繁華街だったと聞いたことがあります。随分前ですが、外回りの帰りに、周辺をうろついたことがあります。
オフィスビルばかりで、飲食店があまりなかった記憶があります。
全共闘が話題になりましたが、私が田舎の小学生のときに産休教員の代行として赴任された先生がこの全共闘に参加していました。御両親も教師で本人も教師になる事を渇望していたそうですが、機動隊との衝突で前科が付いてしまい正規の教師にはなれなかったそうです。
専修大学が入っていない。「~など」で括られてしまう大学ではないと思うが。
かつて飯田橋に貨物駅があり、どちらが先かは判りませんが、紙の取り扱いと印刷・出版が飯田橋ー水道橋・神保町で盛んになりました。当時の作家陣が執筆のために逃げ込んだ(缶詰めになった)所が、隣町の神楽坂にあった旅館でした。
こうしてみると、神田学生街から神楽坂まで「文化街」として繋がっていたんですねぇ。
母の実家は小川町でした。
登場するお店も、誰ちゃんの家、誰くんの家と聞いたことがあります。
当時、帰省?すると、よく近江屋洋菓子店のケーキが出てきました。
今でも手土産には、よくこのお店を使います。
で、ここの袋の住所には旧地名、連雀で書かれています。
ちなみに三鷹にも連雀の地名がありますが、明暦の大火の時、神田の連雀町の人が今の下連雀に移り住んだことからきているようです。
神田の語源は「からだ」と聞いたことありますよ。
将門公の身体「神田」からだと首「首塚」があったとか。
詳しくはお調べください。
質問です。
物凄く多くのネット上の写真を使われていますが、各写真にリンクを貼られてますね。これは一枚一枚全て掲載許可をいただいているのでしょうか?
一つ現在の神田について見落としてるな。それは、秋葉原・神保町は夜になるとゴースト・タウンになること...。
とても勉強になり、毎回、拝見しています。ただ、サムネにある「消えた地下道の謎」については言及が無かったようでした。このテーマも大変に興味深いですが、何か圧力があったのでしょうか? 一説によりますと、かつてのJR神田駅の駅長様が、「本来の神田駅の位置の地面は13m下である」と言ったそうです。地下3階位下が、江戸時代以前に踏み硬められた本来の街道ということですね。明治になる前に何かあったと思われます。
ありがとうございます!
よく調べていて敬服致します。昭和の風景が懐かしいです。気になったのですが、日光東照宮は江戸から見て北北西の方角なので鬼門と無関係ではないかと思います。
鬼門にあるのは上野東照宮
参道が江戸城の方を向いているのが日光東照宮…かな?
@@yamasiyama なるほど、東照宮=日光と考えてしまいました。とほほ。
JR高架と銀座通りが斜めに交差しているので目的地の入る道を間違えると筋毎に町名が変わりどこを歩いているのか迷子になる!
地下鉄ストアビルの地下街、平成に入っても昭和中期の雰囲気がありました。地上への階段の近くには社交ダンススクールなんてのも。秋葉原の青果市場も、私が社会人になり千代田区の外回り営業を始めたころまで残っていたのでよく記憶しています。
神田エリア町名の由来編お願いしたいです。
御茶ノ水やってください!
小川町にあった、カナザワスポーツ店、だったか、金澤運動店の歴史を知りたい。
素晴らしいリサーチ力です。神田地下鉄ストアの入り口に中川ダンススタジオがあって今思えば中を覗いてみたかったです。
祖父の実家のビルがすずらん通りにありました。祖父は癌で30歳で他界していますが昭和39-40年の神保町の街並みが葬式時の写真に残ってます。90代の方がこの動画を見てる可能性は少ないですが、もし祖父をご存知の人がいたらコメントください。
小川町は都電の駅があったように記憶してますが、私もおがわちょうだと思ってました。住んでる地域が違うとわかりませんよね。都内でも荒川区出身の人と大田区出身の人ではお互いに地域をさっぱり知らないということがあります。学生が都内全域から通って来ている学校に行ってたのですがなんとなく気風まで違うような気がしました。でもさすがに2月や4月を ‾ _ _ のようには誰も発音しませんでしたね。
2月と4月のイントネーションは東京弁では昔は_‾‾だった記憶があります。
最近は逆ですね。
おがわまちって読むこと知ってても、言いにくいからおがわちょうって呼んでます。
二子玉川もニコタマって呼んでますよね。
神田の界隈が東京では一番都会だと思います。大きなビルがあれば良いわけじゃないです。お金がモノを言わす東京23区の中で、数少ない文化のある地域ではないでしょうか。
映像を含むデータと解説が秀逸です。
今や東大合格者数を誇る開成高校もこの辺りが発祥だと聞きました。
古本屋
ふるぼんや でなく
ふるほんや だと思います。
まあ社会に出た時は小川町でしたね、最寄は御茶ノ水。
小川町 おがわちよう→おがわまち
私としては町名がなぜ残っているのかが欲しかったです。
あとカラーとモノクロ写真は最近時代を逆転させているものが多いので、通史的に紹介するときは気を付けたほうがいいと思います。
大時計がついた地下鉄ストアがあったのは上野駅前だよ。
廣瀬中佐の銅像はGHQの命令で撤去されたのではないはずですが、いかがでしょうか
神田明神は平将門さんの身体を祀ってたのがなまったんだよね
平将門さん
黄泉帰る可能性なんか本当にあるんかな
小川町(おがわちょう)ではなく、おがわまちです。ざんねん。