国鉄時代の伝説の長距離急行列車をまとめてみた【ゆっくり解説】
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- Опубліковано 27 чер 2024
- 国鉄時代に走っていた伝説のカオスすぎる長距離普通列車をまとめてみた【ゆっくり解説】
• 国鉄時代に走っていた伝説のカオスすぎる長距離...
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目次
00:00 オープニング
00:12 北海道を横断する急行
03:43 東北本線を結ぶ急行
08:22 寝台がない…
15:09 全座席寝台車
17:51 エンディング
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/ yukkuri_museum
権利表記
docs.google.com/document/d/1W...
BGM
OP 『Dramatic train』 TAM Music Factory
劇中 曲名『Train』 作曲 Ryu Ito ryu110.com/train/#google_vign...
鉄道唱歌-First Train Arrange-【DL】
高宮いぬかみ 旧 高宮魔女
#鉄道 #ゆっくり解説 - Авто та транспорт
長距離急行とか寝台列車とかはロマンある。
長距離急行列車と周遊券と自由席の組み合わせこそコスパ最強
長旅において最も楽しい空間だったのは何と言っても「食堂車」!!
長距離特急、白鳥
大阪〜青森を往復乗り通した所要時間は確か13時間ほどだったが、
もうええわw
青森から青函連絡船と道内は特急を使って移動した。
まさしく修行でした。
因みに帰りの時に読んだ週刊誌に重力列車構想の記事が書いてあって、東京〜ロサンゼルスが3時間とか書いててブチ切れた覚えが有る。
急行八甲田や津軽が好きだった。黒磯駅で機関車を付け替えていたのも懐かしい。下り列車に赤い電機に付け替えられると、いよいよ東北だ…と旅気分が盛り上がったものだった。あそこの機関車付け替えは、関東から東北入りする儀式のようにも思えた。もうああした旅情が味わえないと思うと、寂しい気持ちになる。
長距離でもないけど、銀河(東京~大阪)には良くお世話になりました
平成初期までは座席指定の臨時もありましたね。
バブルのころは、あさかぜで大阪から東京に帰るのが流行りでした。
夜11時まで大阪で遊んで朝定時に東京に出社できるというね。
貧乏学生には夜行急行は頼もしい味方でした。北海道、東北、九州ワイド周遊券(期間内エリアの鉄道国鉄バス乗り放題券ー特急だけ特急券が必要だった)を駆使してホテルに宿泊せず何泊も夜行急行の中で寝ました。北海道に網の目のように鉄道がはりめぐらされていた時代はワイド周遊券持って宿泊は夜行急行使って北海道をくまなく回りました。旅行費用も20日間北海道を旅行して費用は5万円くらい。東北ワイド周遊券では青森から急行津軽、十和田、八甲田に乗って深夜福島からまた青森行きの急行に乗るとか。九州でも西鹿児島から博多まで夜になると夜行急行に乗って九州をぐるぐるまわってました。ワイド周遊券は鉄道マニアにとっては夢のチケット。
夜行急行は日が暮れてホテルの予約をしていなくても駅に行って急行に乗りさえすれば大丈夫と言う安心感がありました。疲れますけど。
今じゃその周遊券も販売されておりませんねッ!
余談ですが、私が物心付いた頃に準急、中堅社会人になる頃には急行と、各列車種別が亡くなり…もとい、無くなりまたねぇ〜!
そして、日本国有鉄道という公社 (!?) も…!! 😢😿😭😵
独特の据えたにおいとタバコで煙った車内が思い出されますね😄
おっしゃる通りワイド周遊券と夜行急行は、貧乏学生の味方でしたね。急行自由席なら急行券不要でしたから。北海道の旅では、「八甲田」「十和田」「ニセコ」「宗谷」「天北」「大雪」「狩勝」などにお世話になりました。
年末の「八甲田」は、費用を節約させたい帰省客、暮れぎりぎりまで働いた帰省客、指定席がとれなかった人、中距離の移動客、私のような旅人等で、旧型客車の座席は満席、通路やデッキに新聞紙を敷いて座り、その姿勢で眠り、………。難行苦行でしたが、日本が元気な時代だったせいか、客も体力や忍耐力があったのでしょうか❔デッキのトイレに行くのも、通路に座っている人に声をかけながら、行きました。通路に座っている年配の客に、途中まで座席(固い旧形客車の席ですが)を譲ったり、果物などを近くの人に分けたり、難行苦行を共にする人々には一種の連帯感のような雰囲気があったと思います。混雑していて快適な車中でないのに、私は客どうしのトラブルは見たことがありませんでした。懐かしいです。
鉄道が強い時代のロマンあふれる長距離急行はいいものだ。
夜行急行の八甲田や十和田に乗って青森まで行きそこから青函連絡船で北海道に上陸するのがワイド周遊券利用の乗り鉄の王道コースでしたね そんな大昔じゃない気がするけどもう30年以上も昔になってしまった まだまだ鉄道が元気な時代で乗り鉄してても楽しかったです
私も初めての北海道は、青森まで14系臨時急行十和田1号に乗った。でも当たった席が運悪く発電用ディーゼルエンジン真上😲!結局ほとんど眠れずに青森着いて、桟橋行ったら普通船室待ちの長蛇の列…こりゃ堪らんと自由席グリーン船室券を買った。函館~札幌は旧型客車のニセコ3号・札幌~北見が旧特別2等車スロ54の大雪5号・北見~釧路はしれとこ1号と急行列車3本と連絡船を乗り継いで上野~釧路を乗り通し。その後根室を往復して急行狩勝の狭いB寝台で岩見沢へと、夜行三連泊のハードスケジュールだったわ!
東北急行の三羽烏。
廃止間際の桜島高千穂に乗った事あります。残念ながら大阪まででしたけど。客車列車に乗れるのもあと僅かという気持ちは大きかったです。発車するときのカックンが忘れられません。今でも貨物列車に乗せてくれんかなあと強く思います。
こういったのは国鉄解散以降消滅の道に辿ってますからね…
一度はこの目で長距離列車を見てみたいものです…
まだ航空機や車が普及してなかった時代では、長距離でも、鉄道は大変重要でしたね。
大阪と青森の間を走っていた急行きたぐに も外せない。
子供の頃に「やこうれっしゃ」っていう絵本があって
上野から金沢まで行く客車急行の車内が描かれていてすごく面白かった
アレは能登なのか越前なのか
10系軽量客車による寝台車と冷房改造した旧客グリーン車に近代化改造した旧客が定番編成だった
小学低学年で読んだ絵本は大人になっても強烈に記憶と目👀に焼き付きますね。
EF58が涼しい顔でスピードを出し客車列車を引いて走る。
横を走るEH10貨物専用機がうんうん唸りながら重い貨車を引く走る姿に「やーい!お前は遅いな」と悪口を言います。
悔しいEH10はそれじゃ交換しようと提案する。
EH10引く客車は遅いから客車のお客さんから「もっと速く走れ!」と怒られる。
反対に貨物列車を引くEF58は重たい貨物をやっぱりひいひい言いながら遅くしか走れない。貨物に乗っている豚さん牛さんからぶーぶー、もうもうと不満の叫び(鳴き声)がする。
やっぱりまた交換しようと基の鞘に収まるとお互いにニコニコ顔になる。
機関車には役割・役目・目的がありそれに適合する様に作られるを教える絵本でした。
金沢になんでゴハチが…?とツッコミ所もあるが、そんな事は置いといて、旅情が凄く伝わってくる情緒ある絵が印象に残ってます。
今は亡き鉄道紀行作家の宮脇俊三さんが監修してたな>えほん「夜行列車」
はしれ北風号
もし今でもこんな苦行の長距離急行が走ってたら
ユーチューブで「乗ってみた」動画めっちゃUPされそう笑
それ以前に某「どうでしょう」の餌食(いい意味でw)なってたかと(最長夜行バス「はかた号」の悲劇w再現)>長距離急行
長距離ってほどじゃないけど子供の頃よく帰省で夜行の急行だいせんに乗ってよる大阪を出発して朝出雲市に着いて立ち食いの出雲そばを食べたのは良い思い出です。
夜行の急行にはロマンがありました。
今年の年始に18きっぷを使って急行「大社」の運行ルート(名古屋→米原→敦賀→東舞鶴→天橋立→豊岡→鳥取→米子→出雲市)を辿る旅をしましたが、国鉄時代はこんな長距離急行が本当に走っていたんだと何ともエモい気持ちになりました。
沿線の各都市を結びつつ、全国的に名高い出雲大社にお参りする需要も受け持っていたものと思います。
東京からもこのルートではないものの急行の出雲号がありました。飛行機ややくも乗り継ぎがあるなかでも今もサンライズ出雲号が東京から直通しているのはある意味素晴らしいです。
粋だなぁ~🎉
「きたぐに」も期待していました。最盛期は大阪〜青森で、北陸、信越そして新潟停車の上、青森行きは寝台車切り離し(大阪行きは連結)、つまり大阪〜新潟は夜行、新潟から白新、羽越、奥羽線で青森へ。北陸トンネルの火災事故で食堂車が廃止されたが、それまでは動画にあった、当時の「十和田」「雲仙」と共に国鉄夜行急行列車における食堂車の最後の輝きだったと聞いています。鉄道模型で再現すると、A、B寝台、グリーン、普通、食堂、更に荷物、郵便車という懐かしい完全客車編成が再現できたのがうれしい。
急行時代の【瀬戸】にはビュッフェがありました。オシ16形が組み込まれてます。
@@user-kd5pt9qt2n 「十和田」は3本あった時、1本はオシ17、1本はオシ16だったようです。S43(ヨンサントウ)からS47(新幹線岡山延伸)頃の時刻表の編成図より。
北陸トンネル火災事故で名前を残していますね、「きたぐに」…。
外注任せの業者に何期待してるんですか(笑)😆
上野~酒田~秋田間には1985年に20系3段寝台天の川がありました。昔、山形県酒田市の父親の実家に行く時乗った事があります。
1970年代までは長距離急行・ユニークなルートを通る急行がたくさんありました。なくなったのは東北新幹線の開業と車の普及が主な理由。寂しいですが時代の流れでしたね。私も子どもの頃、母の実家に帰省するときは急行「あがの」をいつも利用していました。
特急だけど「おおとり」(函館~網走)や旧「おおぞら」(函館~釧路)も乗りがいがあったなあ。食堂車もついていたし。
動画で述べられていた、1961年海線ルートの函館発着になった際、「おおとり」の前身急行「オホーツク」、「おおぞら」の前身急行「摩周」と併結運転になっていた様です。1964年にこの3列車は分離され、急行「宗谷」、特急「おおとり」「おおぞら」になりました。下りは「ゆうづる」「はくつる」で青森まで来た客が青函連絡船で函館に到着した際に待っていたのがこの3列車。
@@user-nr1wq1xb2jさん
厳密に言うと急行「摩周」「オホーツク」が昭和39年に特急「おおとり」函館ー釧路・網走となり、「おおとり」の釧路編成がさらに昭和45年に分離して「おおぞら」になりました。
@@exp.m.k.2300 そう、その時に宗谷だけが取り残されたんだけど、wiki丸写し外注任せの業者にはそこまで気が回らない
冬の朝取手駅を雪をかぶった急行十和田が通過してた、茨城って雪降らないので、
なんか遠いとこから来たんだなって思ったよね。
高崎で雪マスクの電機牽引の「あけぼの」に遭遇。
以前、単車運転中に、とある国道で東北地方ナンバーのトラックを目撃したが、やはり荷台に雪が積もっており、つくづく御疲れ様、と思ったモノである。
霧島や高千穂が今も残っていたら、通しで乗る鉄ヲタやユーチューバーがいるでしょうね。
なぜ急行「きたぐに」か取り上げられない。大阪発日本海経由青森行きの名物急行がないんだ
なお当時学生の旅行者はワイド周遊券というのを使っていて、急行には無料で乗れたので重宝していました
鉄朗とメーテルは1年間
座席車で耐えた…
客より運転手の方が過酷だな
風景があまり変わらない原野を延々と走るんだろ、起きてるのが大変だ
通常は最長でも2時間くらいの乗務だぞ
機関車ならELやDLには一定時間内に操作しないと自動停車する装置が付いていた
気が抜けないSLから機種転換した機関士からすれば簡単に動くので退屈だったからだ
なので、日本貨物鉄道の機関車の運転士は、現在でも、飲み物とタバコが推奨されています。
昔の急行列車で途中で切り離して、その後、切り離した列車と連結するという面白い急行列車が山口県にありましたね。
山陰本線の急行「あきよし」だったか…
その昔、西村京太郎先生の「再婚列車」とかでドラマ化されたハズ。
急行「さんべ」じゃなかったですか?
@@miharu3748 様。
「さんべ」のようでした。
おっしゃる通り。
@@miharu3748
1966年僕は小学五年生。九州内を中心の時刻表を見ていました。
該当列車は熊本を朝~下関で山陰線が2両、美祢線は🈯指定とグリーン車含む3両で分割して長門市駅で再び合体します。終点米子は夜着く。
名前はやえがき。小学生だからやえがきの意味が分からないまま覚えました。後ほど有名な八重垣神社と知り納得した。
島根県の真ん中、三瓶山のさんべに変わる。米子行きがなんと熊本~鳥取行きに延長される。
さんべに名称変更は
熊本~鳥取の分割併合する🈯指定とグリーン車付き2号と3号。
小倉~米子のグリーン車付き4号と1号。
博多~米子のB寝台と🈯指定付き夜行5号と6号を統一する。
更に神社仏閣より島根県観光課と温泉組合がさんべ温泉・キャンプ場・スキー場を売りたいと国鉄に陳情したのでしょう。気持ちはよく分かる。
さんべ号は貢献したかな?
@@user-dt3it7nq2y
たしかそのまま山陰線を進むのと美祢線に入るのとが別れてまた連結されるんだと思います
推理小説で読みました!
復刻版時刻表(1968年10月)見てると、九州内完結でも「フェニックス」なんて長距離急行があった。
宮崎-西鹿児島間を、ご丁寧に大分・小倉・博多・熊本経由でぐるっと遠回りしてました。
つい先程ともやん君TVで準急ひまわり号を特集しております。思わずひまわりに実乗したコメントしました。
フェニックスや青島と被る区間もあります。
大分~別府~小倉~博多~熊本~大分~別府行きの一回りしてもまだ走る健気な列車でした。
循環距離を一本の線にするとけっこうな距離になります。
東海道線の大垣行に乗った事あるけど
8時間くらいでも座席車は結構地獄w
若くてそういう旅をしてみたいって言う
目的が無いとめっさしんどい
今にして思えば、特急北海は、余市に停車していましたが、急行宗谷は通過していたのが、不思議に思います。
大阪~青森を結んでいた、急行きたぐにを忘れてるぞ~!あれを大阪から青森まで12系座席車で乗り通したら、さすがにグロッキー…青森から上野は20系になっていた急行十和田の座席車の予定だったが、堪りかねて25系のゆうづるの寝台にした。
学生や出稼ぎ者の帰省列車のイメージ。親も「津軽」をよく使ったと言ってた。
一種の拷問って言うけれ
ど その拷問に喜んて 乗り込む俺たち鉄オタって…
周囲の人は座席で寝るの嫌がる人が多かったけど慣れたら余裕で寝れた。自分は座席式の夜行列車に乗るのが楽しくて仕方がなかった。
夜行の八甲田は朝、二戸から青森まで乗車したことがある。夜行列車崩れだが、ほとんどの人が降りたのか、余裕で座れた。
1972年頃に九州旅行の計画を立てた時、運賃を調べた時の事を覚えていますが、航空便はたくさんありましたが大阪〜鹿児島で運賃料金が寝台特急が航空運賃の半分、座席の急行が航空運賃の1/3だったから鉄道利用が多かった。
急行津軽は秋田県県南から東京へ出稼ぎへ行く、出稼ぎから帰る人達に重宝がられた。14系座席車に置き換えられる前は寝台車が連結されていた。
1979年NHK「新日本紀行」で十文字駅に入線する急行津軽3号を撮影していた。
20系客車に置き換えたら座席車が圧倒的に不足した。
早々に秋田方面への列車と編成を入れ替えた筈。
秋田方面への急行列車はオール寝台車でA寝台車2両も連結した天の川やおがと寝台車需要が旺盛だった。
”津軽”で帰る。
きたぐにの大阪駅~青森駅も、耐久レース。
地元に夜行列車で八甲田と津軽が走っていました。
機関車が牽引する客車列車、今思えば、懐かしいです!
十和田も忘れないで!
黒磯駅での機関車交換は忘れられないですね。
はい、十和田は上野駅で見ました。
黒磯駅の機関車交換がありましたね!
今は、仙台方のほうで交直流の切り替えになりました。
当時存在したワイド周遊券だと急行乗り放題で若いころよく利用していた思い出。長時間乗車は座席が固くてツライというのに加えて更なる苦行がありましたね。これら急行全盛期は車内全車喫煙ok、座席の灰皿や床にはガムがこびり付き、ボックス席では酒盛りなんて光景をよく目にしました。あと旧型客車だと自由落下方式トイレも恐怖。
211系のオールロング車でも郊外区間では車内喫煙可能でしたね。ドア横に円筒形の灰皿がついていました。
>床にはガムがこびり付き
→帰省シーズンの混雑時、席にありつけなかった場合は、そんな状態の床面に新聞紙を敷いてごろ寝していました。
スグ降りる近郊型4カ所ドア普通電車に比べ2カ所ドア長時間の急行だと非喫煙者にとってはまさに地獄(喫煙者は天国)列車、駅も駅員もトイレも吸ってた印象。そうでした新聞紙布団にプレイボーイ雑誌で枕でしたね・・・ペットボトルじゃないので倒れた缶ジュースが床に流れてきたり。指定席車両も少ないからホーム列車位置看板下での自由席取り行列でも新聞紙は場所取りマーキングで大活躍。現代は痰を吐き散らかす人ほぼいないので床もキレイで進歩したものです。
民営化まで車内清掃も地域によってはいい加減で利用者が残した生ゴミの山
唾や痰を平気で吐き捨てる年配者も多かった(この衛生状態だから結核が蔓延する筈だよ…)
民営化後は清掃も頻繁に入り
利用者のモラルも向上して綺麗にはなった
@@user-ii3xb1lc1lさん
>唾や痰を平気で吐き捨てる
→駅構内や客車の洗面台、私が乗った時代には既にありませんでしたが、客室通路にも「痰壺」が備わっていた様です。洗面台の痰壺の使い方は爺ちゃんに教えてもらいました。
@@takana4381
旧客は勿論急行型電車には付いていましたよ
とき鉄に残存している455系に遺構として残っていたと記憶しています
子供の頃だったので、列車名は覚えてないけど、三ノ宮から西鹿児島まで乗った列車は寝台じゃなかった笑
急行「しろやま」とか?
マイナーですが、名古屋から出雲大社まで走るキハ58系の急行『大社』という列車も有りました。もう、どれぐらい時間を要したかも覚えていませんが😂
昭和56年の交通公社の時刻表を見ますと 名古屋発9:30 大社着 20:31でした
出雲市~大社間は普通列車に化けてました。
経由するルートが凄かったですよね😆
現在でも同じ行程を移動すれば接続の悪さや優等列車が無い区間もあるから同じような所要時間になるとか
@@user-ii3xb1lc1l
なわけないだろ!
新幹線で岡山、そこから特急やくもで5時間で着くわ。
@@user-cm1gh6rj8d
まず米原で最初のスイッチバック、続いて敦賀で福井発天橋立行きとのドッキングを兼ねて2度目のスイッチバック、さらに豊岡で3度目のスイッチバックを行うという珍しい存在でした。
集団就職列車で故郷を離れ、急行津軽で帰郷する事はステータスの一つであった。
大学出て東京の大企業に就職した勝ち組は「あけぼの」のA寝台で帰ってきてたそうですよ。当時からある格差社会
バンドマンをしている弘前市名士子息はねぷたで帰郷する際には583系下段利用でしたね。
@@user-ii3xb1lc1l 混雑期は583系の下段の切符が取るというだけで上級のコネが必要でした。
@@user-dm8sf8jw9s
でも、「津軽で帰る」のほうが語呂合わせが良い😁😁
同一都道府県内の端から端までだけで半日かかる「でっかいどう」がいかにえげつないかが急行宗谷の苦労から滲み出てくる感🥲😇
急行宗谷だけ触れてもらって、併結していた「オホーツク」「摩周」には全然言及しないのはかわいそう。
それにしても函館発稚内・網走・釧路行きなんてロマンの塊でしかない。
大学時代の合宿や旅行には、八甲田をよく使いましたね。
ワシが最初にして最後に乗った「八甲田」は'92年暮れ。
編成は14系モノクラス。
私が座席夜行列車でもっとも長い時間乗ったのは、小学生の時の青森〜上野の「十和田」で、約12時間です。
車両は冷房は付いていたと思うので、多分12系です。
富士、はやぶさの先祖ですね、寝台車の復活期待しますね。
急行八甲田、東北新幹線が開通する以前、通路に新聞紙を敷いて上野まで、寝ながら乗ってましたよ😃
小学生の時に乗った急行「うわじま」宇和島→高松 約6時間。死んだ親父が「最初はウキウキしていたのに高松駅に着いた時 顔が真っ青だったぞ」と言われた😅戦後の厳しい時代に生きて来た親父と違うからね😅
あの線区、特急であってさえも遅い遅い。
ちなみに急行「うわじま」って確か、八幡浜からが急行仕立てとなっていた筈。
小学生の頃、宮崎~都城間を行きは彗星、帰りは高千穂に乗車した思い出がありました。
都城から先は路盤が悪いので軽い客車だと揺れまくりで地獄でした。今でもかなり揺れは酷いですけどね。あと、北海道の天北もかなり揺れがひどかった。
21世紀になって7.8年も急行銀河が残ったのはある意味奇跡的かも…
確か長野にも、長野〜大阪間を走る夜間急行ちくま、長野経由で上野〜金沢間を走っていた急行能登がありました。
高校生の頃に北アルプス山行の帰りにちくまに乗りましたあっとゆう間に熟睡して朝日に目を覚ましたのが滋賀県に入っていたのかな?懐かしい思い出ですね
能登号は上越新幹線の開通までは長岡回りだったものが信越線経由の越前号の区間短縮で長野経由になったものですね。
長野新幹線が出来た時に長岡回りに戻りました。
中越地震の後はしばらく北越急行線を通過したこともありました。
民営化を見越して急行列車が粛清された新幹線上野開業直前まで妙高もあったな
長野からの中央西線夜行には名古屋行の客車「きそ」もありましたが、
その頃の客車「ちくま」は名古屋では運転停車(機関車交換)扱いで客扱い無しでした。
なので、時刻表では名古屋は通過表示に…
後に「ちくま」の時間繰り下げ「きそ」の廃止で名古屋は客扱いになりました。
更に言えば急行「越前」なんてのも。
長崎号の寝台車にのった思い出😄懐かしすぎます。動画ありがとうございます
八甲田の走行経路、仙台の次が古川になっているけど小牛田ではないかと。古川は陸羽東線の駅(当時は陸前古川)
今の路線図で経路検索してしまった結果を載せてるので残念ながら合ってないものばかりなんですよね……
新幹線の博多開業以前は、多数の夜行急行列車が走っていました。特にお盆や年末年始には、急行はかた、北九州、ちくほう、ひろしま、あまみ、五島、ながさき、させぼ、くまもと、ひとよし、佐賀、みやざき、ことぶき、名城、鯉城、壇ノ浦、厳流、天満などのこの時にしか名称が使用されない多数の臨時急行が走っていました。博多開業後も名古屋発着の高千穂や五島が、繁忙期にしばらく走っていました。※霧島の原型となる列車は、1944年頃から運行が開始されたようです。1944年12月号では、東京~鹿児島を1レ・2レの急行列車として運行されていました。1945年7月号では、下関までに短縮されましたが、1946年2月号では博多まで運行されるようになり、1948年8月号では当初の鹿児島まで再び運行されるようになりました。1949年9月号では、従来東京を7時~8時頃に出発していた筋を東京~長崎の急行に譲り、東京を10時30分に出発するように改められました。そして1950年10月改正で、きりしまという愛称を付与されました。
現在は、日豊本線の、鹿児島中央 ~ 宮崎間に運行の特急列車。
コメント以上に資料です。中々の古豪の方ですね。
名前付きの列車に初めて乗ったのは父親と小学生時代に乗ったしろやまで八代駅から博多駅までの時間は見るものが皆、新鮮。一生涯忘れません。
西鹿児島~大阪の夜行列車は八代駅で増結する。駅端の洗浄線には増結用の🟦青色の旧型客車が列をなし群れで並んでいる。
盆正月のひとよしに使用したのは容易に推察出来る。
しろやまは八代駅に深夜着~大阪に14:30頃着く雄大な時間帯に走る。
小学生の僕は八代駅で朝、乗った。不思議?相当な遅れだ。理由は覚えていない。
子ども心にこれが優等列車かと感激して自分自身までもが偉くなったかの錯覚に陥る(笑)
ただ時刻表から列車名見て日本中の旧国名・おらが村さの御自慢の山・川・名跡・名所の勉強になりました。
私も時刻表を見て日本の地名を覚えた世代です。地名を言われると大体どのあたりなのかピンと来ます。
霧島号の由来は関門トンネルが出来た1942年に東京と下関を結んでいた特急のさくら号が急行に格下げされ、鹿児島延長で誕生しています。
終戦直前からしばらくは東京から門司までの設定であったものの空襲、戦後すぐは石炭不足で満足に走れなかったものとは思います。
それでも1947年には東京から鹿児島へ。国鉄の皆様も苦しいなかよく頑張ったものと思います。
@@TSUYOS185山陽新幹線との直通運転が始まる際に愛称が「さくら」になったけど、さほど違和感なかった要因ですね>「さくら」が急行格下げになって鹿児島延長。
「ことぶき」は全車A寝台の新婚旅行御用達寝台列車ですね。たしか臨時「日南」のスジで走っていたと思うのですが。(「日南」は自由席車ありの普通急行)
大阪ー青森
日本海、きたぐに
上野-青森
津軽、北上、十和田、みちのく、いわて、おいらせ、北斗
動画中のやつに比肩するのはこのくらいかね
改めて、昭和が良くも悪くもタフな時代だったなぁと思った動画ですね。
地元が北海道の旭川で、親戚が札幌と小樽と留萌にいた関係で「かむい」「さちかぜ」「るもい」「はぼろ」が
小学生の頃のメインでした。いずれも短距離、もしくは中距離の急行でしたが。
深川駅のホームで売り子さんからウロコダンゴを買うのが定番で、
ボックスシートでそれをつまみながら家族団らんのひと時は、本当に楽しかった思い出です。
高校卒業後、札幌に住むようになってからも「宗谷」「天北」「利尻」「大雪」はよく利用しました。
乗車券と急行券が一体化したロングタイプの硬券が好きだったので。(笑)
さて、長距離急行では全区間乗り通したのはJR北海道になってからの「はまなす」くらいです。
上京してまだ30代だった頃にJR北海道東日本パスを使って帰省することが多かったからですが、
青春18と似て異なる性格の切符で、急行料金を別途払えばパスのみで乗れるというのが大きなメリットだったのです。
上野を朝一の電車(宇都宮経由でもいわき経由でも結局仙台で同じ時刻の一ノ関行きに乗ることになる)に乗れば
その日のうちに青森に着けるけど、
「はまなす」を利用すれば翌日旭川に余裕で行けますが、利用しないと道内の接続がメチャクチャ悪いために
長万部で3時間以上待たされる方が地獄でしたね。(爆)
しかもその日のうちに旭川まで行けないと言う・・・。(超核爆)
ただ残念なのは、連続する七日間のみ有効なので旭川には長くても二日しかいられない、まさにトンボ返りでした。
桜島・高千穂が座席車で編成されていたのは東海道線内では時間的に急行東海や比叡の補完的な役割を担っていたこともありますね
「あさかぜ」ができるまでは、東京〜九州の急行列車(特急はなかった)は、京阪神からの利用も考慮したダイヤで、下りだと東京を日中に出て、京阪神を夜に通過し山陽線は夜行になって翌日九州着、あるいは東京を夜に出て東海道線は夜行で翌朝京阪神で山陽線は日中走行で夕方以降に九州着のパターンだったのが、あさかぜは京阪神をまるきり無視する形で夕方に出て京阪神は深夜時間帯に通過して、翌日午前中に九州着というのが画期的だったわけで。
東海道新幹線の開業後は寝台車を関西から九州方面に回したこともあるのでしょうね。貴重な車両なのにお客もなく昼間東京まで運行していればそれもロスでしかありませんし。
さらにはこの急行は東京から九州までの書籍などの荷物輸送の役割を有したことから残さざるを得なかった事情もあるのかなとは思います。
東京で印刷された少年ジャンプが地方で発売されるのは数日後と言うのはよくある話でした。
当時はね、北九州の出張にね、新幹線代が出るのは課長以上だったのね。
新幹線で新大阪や岡山乗り換えで特急つばめはとに乗り継ぐなんてとても贅沢なことだったのね。
だから、若い社員はこういった寝台もない急行で北九州に出張したの。
タイムイズマネーからしたら非効率なんだけど、若いやつに新幹線や特急なんて贅沢という昭和丸出しの発想があったのね。
@@TSUYOS185
動画にも出ていた「ながさき」も夜行普通のときは、門司で印刷した新聞を長崎へ運ぶ役割がありましたね。(全国紙の西部本社がかつては門司にあったのは鉄道輸送のため)鹿児島線は急行かいもん、日豊線は急行日南の夜行がその役割を担っていましたが、長崎線は距離が短すぎたので普通、さらに大村線経由で時間を稼いでいました。
この頃の「普通急行」とか呼ばれてた急行ほんとすき
他のチャンネルでも申し上げましたが、JRでは現在「特急」がノーマルてか「普通のEXP」となり、定期列車としての急行は「はまなす」廃止により絶滅、一部の線区で臨時に登場する、という「Limited」な急行列車と云うのは、ある意味皮肉です。
現在の特急は全て冷房も付き、一部例外除き、座席は基本リクライニングで直角ボックスと比べると快適で、幹線では殆ど120km/h以上と、こと設備や座席に関してはともかく、ローカル特急等はグリーン車も無いモノクラス編成だし、食堂車はおろか車販無しは当たり前となりました。
かつての急行列車は一部の夜行を除くと二等車や食堂車連結してましたし、それなりの「格」がありました。
夜行普通列車「ながさき」は一度乗りました。寝台車もある列車でしたが座席車に乗った時はあの焦げ茶色のオンボロ客車でしかも真夏でしたので夜行急行の中で一番の難行苦行でしたw
スーツ君が1人で貸し切りで臨時列車長崎号に見立てて走らせたのは凄かったな🤔
急行じゃないですけど、大阪ー青森を走っていた特急「白鳥」も長距離でしたね。確か14時間近くかけて走ってました。
一回青森駅から乗った事がありますが、一日中列車の中で過ごしていた感じでした。
こんな長距離ではありませんが、母の実家が会津だったので、幼い頃はよく夜行急行『ばんだい』に乗りました。子供心にもベンチシートの硬さと寝苦しさを覚えています。でも朝、目が覚めるころに何時も見えていた磐梯山は、子供の目には今よりもはるかに雄大でした。
東北を走った多層建て急行だけで動画1本は確実に作れる説
東北夜行急行は、当時、北海道を目指す周遊券キッパーには欠かせない列車でした。寝台特急だと、別途、特急券と寝台券が必要だったからね。
確か「八甲田」と「十和田」はモノクラス編成だったけれど、「津軽」にはグリーン車があった。秋田や青森の知人が
「集団就職で上京するときは、普通列車か、せいぜい津軽の自由席だった。東京で出世して家族を持ってからは、わざわざ津軽のグリーンで帰省するのがステータスだったよ」
と懐かしそうに話していました。
ソレが「目標」でしたからね、いわゆる「出世列車」。
夢が「今一歩」の場合、普通車から二等車の扉に移動し、目的地にてソコから降りる、と云うパターンも…
そういった急行列車だけでなく、上野からは秋田、青森方面の長距離普通列車も存在したようです。
金額の問題じゃなくって、グリーンで帰省できる格になったというアピールなんですよね。
一番のステータスは、つばさのグリーンかあけぼののA寝台で帰省だったはず。
あけぼのはA寝台の連結数が多かった。
十和田1号によくお世話になりました♪
@@user-dt3it7nq2y
当時、この沿線地域の人々の間で「”津軽”で帰る」という、上京した末の出世を夢見ながら、これを果たそうではないかという合言葉が有ったんだそうな。
長距離急行ではグリーン車の指定席券は大争奪戦だっただろう。
1969年までは1等と2等に分かれていました。1等は運賃も急行料金も2等の2倍。1等寝台車となると高嶺の花で当時の航空運賃と変わらないケースもあったそうです。
グリーン車や寝台車に乗車する層はある程度の経済力がある客層なのでそこまで争奪戦にはなっていない。
場所取りが文字通り争奪戦だったのは繁忙期の普通車
寝台券も。 マルスの機械で
YES NOのランプにドキドキ
@@user-dl2oj3je8o さま
マルスが行き渡る前は駅から乗車券センターに鉄道電話、OKが出たら手書きで発券。
マルスが入ったあとでも小さな駅では拠点駅に電話、そして拠点駅でマルスの操作の後座席番号を教えてもらい手書きで発券でしたね。
昭和三十年代前半位迄は、総理大臣でも飛行機ではなく、列車を使っていたようだ。政治絡みのニュースでは、必ず東京駅や大阪駅にEF58の牽引する特急つばめやはとが進入して来る場面から始まってたが、それを観るのが結構な愉しみだった。
寝台列車無くなったけど、久しぶりに新幹線で東京から鹿児島まで帰省したくなりました。…大抵のぞみで琵琶湖辺りから爆睡して、博多で寝ぼけマナコで乗り換えのパターンですが。
学生時代にたまたま懐が豊かで、わざわざ鹿児島から日豊本線特急で下って大分から富士のA個室寝台で帰京したのは、思い返せばGJでした。
「ながさき」はむしろ「短距離夜行普通列車」のほうで有名ですね
急行宗谷が函館発着から札幌発着になった1981年10月改正は航空機の発達でそれまでの青函連絡船による函館から道内各地から札幌から道内各地へのシフトが加速していた時期で前年10月改正でもおおぞらの一部が札幌発着に変更されていました。宗谷の函館~札幌間は特急北海に格上げされ北海は2往復になりました。
懐かしい話題をありがとうございます。名古屋ー熊本の急行阿蘇などもありましたね。
更に言えば名古屋ー西鹿児島の急行「屋久島」なんてのも。
高速道や航空機が発達していなかった時代は長距離旅客列車が郵便や小荷物の長距離高速輸送も担っていました。
現地の新聞社や印刷工場が全国紙の地方版の印刷を請け負うようになる前は、全国紙の地方版は前日夕刻に本社で印刷されたものを夜行列車の荷物車で輸送するという体制でしたからね。
11:55 32時間では?
大変楽しく興味深く拝見いたしました。寝台ではなく座席(リクライニング無しでしょうね)で25時間はすごすぎですね😮乗った人よくガマンしていたね!あっちこっち痛くなりそう。昔修学旅行の帰り急行で夜行だったけどくたびれたわ。他の急行も取りあげて下さい。
長野駅から軽井沢駅まで鈍行で軽井沢から急行と言うのに乗ったのですが退屈で大変だった記憶があります😢
高千穂の所要時間はやばすぎ
まーあ、シベリア鉄道や大陸横断鉄道のような悠長さに比べれば全然…
急行「きりしま」は阿房列車に何回か登場しますね。
各等急行列車・・・つまり1,2,3等車を連結していました。
阿房列車の著者は同行者と一等コンバートメント寝台車に乗り、食堂車で酒盛りをしているシーンも書かれています。
古い鉄道旅行記に目を通すと、これら古い列車のことも色々とわかって楽しいのではないでしょうか。
青森発米原行き普通列車(日本海側経由)もあったようです。
内田百閒先生は自腹で1等を利用してらしたので素晴らしいです。
当時の1等車は上級国民専用で、しかも彼らは特権で無料で乗っていました。
国会で問題になってそれが出来なくなったのも1等廃止の一要因です。
一度高千穂号東京西鹿児島間全区間乗ってみたかった。
戦後の長距離急行について、なぜ寝台列車でなかったのか少し補足します。
鉄道は沿線の町と町を結ぶのがその役割であり、九州急行といえど昼間は電車急行の合間の需要を補完して区間利用者も多かったのです。
したがって座席車主体でないと都合が悪かったのです。
また今のように首都圏と地方の差が大きくなくて沿線の町も活気がありました。
高千穂などの西鹿児島行の客車は酒臭くて、子ども心にはできれば電車急行を利用したかった。
旧型客車のボックスシートはテーブルが付いており、スチーム暖房が効いて居住性は良かったです。
八甲田や津軽で12時間くらいなら平気でした。
普段はまだしもお盆や年末年始は押し寄せる乗客を座席車に詰め込まなければならないほど輸送状況が逼迫していたことが理由でしょうね。
東京から東北の急行では昭和40年代はピークは寝台車を外して座席車を連結した例もあったほど。
急行列車といえども着席券が買えなければ上野駅から数時間通路に座るかずっと立つ状況でした。
@@TSUYOS185 さま。
「乗車整理券」「ワッペン列車」なんかあったらしいが、今一つ解らん…
駅の外にテントを張って、列車ごとの乗車待ち列を作ったなんて話もありますね。
また、上野駅がパンクするので、東北方面の臨時急行の一部は臨時ホームがある品川始発にしたこともあったとか。
東北常磐上信越の東日本の列車に関しては、繁忙期の輸送が問題でしたね。ところが43.10以降の東海道線の急行列車は混雑の報道は見られませんでした。というのは昼行の時間帯は東海道新幹線が圧倒的な輸送力を持っていて、繁忙期の需要を新幹線がさばいたのです。
@@N--T 様。
その昔は上野東京ラインになる前は東北方面の長距離列車が東京に乗り入れした事もありましたな。
某鉄道雑誌で同駅停車中の「ひばり」の写真を拝見しましたゾ。
東海道本線が輸送力旺盛で東京駅がやや手狭だった為でしょうか、ソレで品川を…ねえ…初めて知りましたゾ。
いやいやいや!!
確かに車両は更新されて食堂車なんて失くなった平成初期の特急・急行でも…
で「平成元年」に日本海縦貫線を走っていた本家特急「白鳥」に大阪から乗車し、青森で急行「はまなす(当時は寝台車の連結無し!!)」で札幌から網走行き特急「オホーツク」に乗車し、旭川から稚内は急行「礼文」に乗車し、稚内でタクシーを貸し切り「宗谷岬」等、日本最北端での観光地を巡回。深夜に稚内を発車する寝台車連結の夜行急行「利尻」で大阪を出発してから38時間振りに横になって眠れる様になり、旭川での機関車交換にも気付かずに爆睡し、気付いたら札幌地区の高架区間を走行中…
朝食も食べれずに特急「北斗」で函館、そして当日の目玉の快速「海峡」でゾーン539きっぷ発動!!「竜飛海底駅(現竜飛定点)」で下車し、1時間程度の海底駅見学ツアーに参加し、次の快速「海峡」で青森、特急「はつかり」で盛岡からは当時の有名新幹線「スーパーやまびこ(仙台のみの停車で大宮通過です!!)」
上野駅到着後に少し時間の余裕が有ったので駅員氏に質問…結果、改札を出なければの条件で山手線内回りで未乗区間の「巣鴨・池袋・新宿・渋谷・品川」経由で東京より東海道本線最後の急行「銀河」で関西に帰着し、1度自宅に戻ってシャワーで全身を洗浄(笑)
当日の出勤時間の8時30分には、職場に到着しました。
有給休暇には余裕は有りましたが、私の勤務先は病気で診療部だったので、旅行から帰着して通常通りの出勤時間には余裕が
有りました。
本音で言うと、やはり帰着当日は有給休暇を押さえるべきでした。終業後に行き付けのショットバーで店員や仲良しのお客様にお土産を渡してから、いつしかカウンターで授業中の学生の様に(笑)突っ伏して寝てましたよ( >Д<;
34年前の事なので、やはり長距離在来線移動は特に帰着後の安心感等から、本当に「若いから出来た「強行」」だったですね(^_^;)))
文体が熱すぎて、燃えている
参考書を丁寧に読む感覚に
陥る🔥
@@user-yn9zg8jh5c 様、有り難うございます(^_^;)))
当の私も63才となり無理を承知のスケジュールは組めずで、当時を回想するばかりです。
八甲田、、思い出深い列車です。88年夏、高校生の時に青函トンネルが開通し、また夏休みにリバイバル青函連絡船が運行されるのに合わせて、友人たちと八甲田で向かいました。上野駅13番線に発車するずいぶん前から並んで乗車。まだ地上を走ってた頃の最寄りの赤羽駅の踏切で父と母が見送ってる姿を車中から見ることが出来ました。父は私が初めて遠くに旅に行くことにバンザイと手を挙げて喜び、母がそれを恥ずかしそうに、でも笑いながら見送ってくれたのを八甲田から見てました。その八甲田が廃止となった数日前に父が亡くなり、葬式明けに溜まった新聞でそのことを知りました。そして、この動画をアップしてくれた23年の夏に母が亡くなりました。明後日はその四九日。個人的に、八甲田との縁を改めて実感しました。アップしていただきありがとう。しばし亡き父母の姿を思い出すこととが出来ました。また、その時、共に旅した友人も亡くなってしまってるので、彼を思い出すことが出来たことも併せて感謝申し上げます。
昭和の時代高校生になったらみんな一念発起して一人旅してました。今はどうなんでしょう。
@@sa-oq7ci ↑中学生から一人旅してたオッサン😁
今の時代は急行が廃止され特急オンリーで、客が自分の乗る列車のグレードを選べない
のが残念です。
「立席特急券」を使って全車指定の特急に乗車するぐらいならば「普通急行券」でもって、少しぐらい時間がかかっても自由席が確実にある急行列車に乗車しようと僕だったら考える。
国鉄時代に存在していた特急あさしお。京都〜米子や城崎、東舞鶴までを走っていましたね。後は寝台特急出雲の東京〜浜田の内、山陰本線区間の京都〜浜田間もロングランだと思います。
特急「あさしお」は、今の特急「きのさき」みたいな感じかな?
@@aki-4800城崎温泉よりももっと先に行ってた。
@@aki-4800さん。はじめまして。質問ありがとうございます。そうですね。当時存在していた特急あさしお。現在では電化区間完結の城崎温泉〜京都までを特急きのさきが、東舞鶴〜京都では特急まいづるがそれぞれ継承しています。
@@ph-pr-dhさん。かつての特急あさしおは最長の運行では確かに城崎温泉から先の米子や倉吉にも走っていましたね。それ以外でも東舞鶴行や西舞鶴から進行方向を変えて宮津線回りで城崎温泉までの運行もありましたね
@@user-lc4zh1ry8m その西舞鶴経由の方が先に出るのに後から出た福知山経由の方が先に城崎(現・城崎温泉)に着く…
トレインミステリーのネタにもなりました。
この時代に水曜どうでしょうでサイコロの旅やってたら、とんでもないことになってたのでは…。
でも見てみたかったりする…(笑)
東京駅でサイコロ振って
「6 急行高千穂 西鹿児島」
↓
「ダメ人間」
東京駅でサイコロ振って「1 急行八甲田 青森」→青森駅で「1 青函連絡船 函館」→函館で「6 急行宗谷 稚内」
↓
「ダメ人間」
寝台急行では、「阿蘇」「天草」「十和田」に乗ったことがあります。車両はもちろん10系のB寝台車。どれも昭和40年代の話です。また「十和田」では食堂車(オシ17)で食事をしたことも覚えています。今から考えたら、エッ!なのですが。
よくブルートレイン、ブルートレインといわれますが、寝台特急の場合、乗車に必要となるのは、1、乗車券、2、特急なら特急券、急行なら急行券、あと急行の場合は指定席券があったかな。3,寝台券。乗車券と寝台券は特急も急行も同額でしたが、問題は特急券と急行券。この急行券が201km以上は均一料金だったため、寝台特急と寝台急行の間には大変な価格差がありました。だから、寝台特急が高いと感じる人にとっては、急行寝台は大変身近な乗り物だったのです。今でいえば、高速バスやLCCみたいなものといえば良いでしょうか。やはり今も昔も、飛行機(レガシーキャリア)、新幹線、特急を高いと考える層がいるということなのでしょう。
子供の頃、寝台急行「天草」で実家のある九州から大阪の親戚の家に行った時に、親父は寝台特急のブルートレインがあるのに何故寝台急行を選んだのかと思いましたが、大人になった今、親父の気持ちは分かります。お金の無駄だと考えたのでしょう。
懐かしいです。81年の夏に八甲田で朝に青森へ着き、青函連絡船から乗り継ぐと、函館駅には稚内行き宗谷と網走行きおおとりが待ってました。これだけで八甲田が北海道への重要列車であると認識しました。なんせ、津軽や十和田では青函連絡船への乗り継ぎが悪かったですからね。宗谷は超大編成で岩見沢?など途中で切り落とし編成もありました。
十和田→青函連絡船→すずらん→利尻で一気に稚内まで行った思い出。今にして思うとよくお尻が保ったなと(^◇^;)
@@user-il8eq7ve3fさま。
当時は特急を除き直角座席が主流でしたからね。ケツや背中の痛さは波半端ぢゃなかったと察しました。
しかし、その痛みも今は良い思い出でしょう。私もそんな体験をしてみたかった。
私の渡道計画は、ことあるごとに諸々の事情で中止に追い込まれ、未だ実現せず、乗りたかった列車も数多く失せてしまった。
またJR北海道も廃線ラッシュで、留萌本線や日高本線の大半が失われ、函館:山線も将来の新幹線開業による並行在来線転換を見据え、「※銀河鉄道」になろうとしている…
※銀河鉄道とは死者の乗る路線だと、「あの童話」を読んだときに知った。
@@user-dt3it7nq2y ある意味古き良き時代でした♪周遊券もあり、貧乏学生の救いの神でした^_^
急行「宗谷」が1961年に海線経由の函館発着になった際、確か釧路発着の「摩周」、網走発着の「オホーツク」と併結運転だったのでは。この3階建て急行、最長の15両編成とスケールも大きかったと聞いている。しかし1964年に「宗谷」は山線経由、「摩周」と「オホーツク」は分離、格上げの上、「おおぞら」「おおとり」になったと聞いている。後に函館にて3列車が次々発車する為、ホームに待機しているダイヤだった。確か1981年頃のダイヤ改正で、「宗谷」は再び札幌発着に、札幌〜函館は「北海」に格上げの上当時最新鋭のキハ183系に、「おおぞら」は「おおとり」と競合する海線経由の札幌〜函館は廃止、札幌発着になったと記憶しています。間違っていたらすみません。😮
俺、小学生の頃、盛岡まで行く急行の「もりおか」のグリーン車に乗って、田舎に帰省した事あります。
宗谷、八甲田懐かしいです。ワイド周遊券は急行券なしで乗れたから道内では宿代わりに
札幌発着の稚内行き、釧路行き、網走行き、函館行きの夜行に毎日乗ってました
自分が大学生だった昭和40年代は青函連絡船も夜行急行もあり2度北海道へ春休みと夏休みに利用しました。
1人旅でしたが今から考えれば体力と好奇心があった若さゆえ出来たもので北海道は廃線が多くなってしまい懐かしい思い出です。
ここらへんは「急行券一枚」の意味の扱いを周知しないと。
「おまえら、列車乗り継ぎしたら、その度に一万円追加な」
それを必死で回避しようとした国鉄の努力なのよね。
それもあったけど、車両が足りないというのもあったので複数の需要を繋げた結果の優等列車も結構あった。
581・583系はその車両不足解消の一つの答えだったし、一時期運転されていた信越白鳥こと、特急白鳥の上野編成も、京阪神〜北陸、北陸〜首都圏の2つの需要を繋げたような列車だったし、大阪〜博多を山陰線経由で結んだ特急まつかぜもそういう列車。
乗車運賃と違って急行料金には上限がある。201kmも千キロも同額のはず
ま、同じ座席に丸一日も座っていられないけど
高千穂と併結してたのは霧島じゃなく桜島だろ
ウィキペディアにも書いてると思うけど
急行「霧島」は、1968年10月改正以前は単独運転されていましたが、
このダイヤ改正で急行「高千穂」と併結運転されるようになりました。
なので、何もおかしくないです。
個人的に東北地方は、カオスな急行列車が多いイメージだなぁ
多層建て列車では最多の4方向への列車を併結した「いなわしろ・いわき」や、他の急行を追い抜いた爆速急行「くりこま」等、ネタとして纒めると動画1本だけでは足りなさそうですね(笑)
その「いなわしろ・いわき」ですら敵わなかった列車があった程なので、東北地方の気動車急行の分割・併合のカオスぶりが伺えます。
地元の長野県内にも、東北地方程ではないものの、個性的な急行が揃っていました。
上野から「信州」「妙高」と併結し、屋代から長野電鉄に乗り入れて湯田中へと向かった「志賀」、長野始発で長野駅へと戻ってきた循環急行「のべやま」「すわ」、神領区の165系を充当した他の4往復と異なり、下り(上諏訪→長野)1本のみながら旧型国電の80系を充当した時期があるという黒歴史(笑)の持ち主の「天竜」など、個性的な列車が多かった印象があります。
急行「おが」なんかが、地味なようでとっても面白い存在だった。
とにかく地域輸送・区間輸送の利用客が主体の長距離DC急行でもあったわけで。
あとは急行時代の「しらゆき」。
北海道ならば根室発函館行き【ニセコ2号】というとんでもない列車もありました。
【きたぐに】もかつては大阪ー青森の運転でした。
3階建てを分離したときに、下り摩周が廃止になったので上り摩周をニセコに統合した結果変な列車扱いになったんですよね。
急行宗谷は青函連絡船連絡で本州で寝台の特急はくつるやゆうづるとの連絡スジですもんね。道内は長距離でも昼行ですね。稚内発は朝早いし、稚内着は夜遅くなってましたよね。
「端から端まで走る急行」って、語呂が良いですね。
JRE中央本線で珍しい区間での人身事故(相模湖−藤野)で大幅遅延中の視聴となるとは思わんかった自分🤣
線路(トンネル)内にいたずらで立ち入った挙句死亡事故になったようですね。迷惑な話ですね。
@@user-dm8sf8jw9sおやそうでしたか😳
詳細ありがとうございます👏
今から30年以上前高校生の時名前忘れたけど大阪から札幌まで夜行だけど座席の急行乗った。夜明けの日本海が凄い綺麗で今でも覚えてる。帰りは札幌から上野行きの名前覚えて無いけど寝台付いてる急行で帰った。新幹線でパーと行くのもいいけど、
こんなのんびりした旅も楽しい
うに?😜
大阪→札幌??
札幌→上野?? 急行????
正しいブルトレには乗ったことはないのですが、ここに出てくる雲仙西海、十和田には乗ったことがあります。後は銀河とトワイライト、変わり種としては、山陰線の各駅停車のだいせんですね。(大垣夜行とシュプール号は除く)懐かしい解説ありがとうです。
名曲の「あずさ2号」はAD1977
狩人の「あずさ2号」は下り新宿発の2号だったのですが、ヒット直後のダイヤ改正で現在の偶数奇数になったため意味が通らなくなりました。
なお例の「上野発の夜行列車」は急行八甲田という説が有力なようです。
ちなみに当時のあずさ2号に対応するのは2023年時点であずさ5号ですね。
八甲田は青函連絡の役割は低いので違うと思うよ
あと、急行「三陸」といって、上野始発で、たしか盛岡から宮古方面に直通する長距離急行が存在していたこともある。
急行「津軽」、デビュー当時なんか”出世列車”という異名をほしいままにした花形列車だったんだそうな。
特急「あけぼの」によって主役の座を明け渡すまでの期間。
個人的に思い起こす急行と言えば真っ先に出てくるのは利尻でした。
高架化された札幌駅を23時に同時発車する特急おおぞら13号釧路行と急行はまなす青森行の露払いをするかのように22時に最果てを目指す急行利尻稚内行と特急オホーツク9号網走行と言う存在は北海道鉄道最盛期のラストを飾る存在ではありましたよね。
利尻・宗谷・サロベツ・礼文の宗谷4姉妹がいた時代や、地上駅時代の札幌から旅立ってゆく急行利尻稚内行、急行大雪網走行、急行まりも釧路行の寝台急行3姉妹が居た北海道が最盛期だった感がありますよね。
冒頭に登場した急行宗谷号は鉄道の魔境とも言うべき存在である事はよく知られており、蒸気機関車時代は戦前の寝台車マロネロ38と言う今で言うA寝台+グリーン車と言う物が運行されていたり、マロネロ38を置き換えたオロハネ10と言う中央に扉があってA寝台は冷房、B寝台は非冷房と言うオンリーワンな存在が居て、その後グリーン車扱いの寝台区画撤去のオハネフ14がいたり、14系寝台車を間に挟み電源車を183系から持ってきたキハ400系と言う様な車両の迷走をしていた事はよく知られていたりしますよね。
末期の宗谷本線の急行は特急格下げのキハ183、キハ40を改造したキハ400、そして14系寝台車、さらにはキハ56とカオスな編成もありましたね。
利尻回送を兼用していた昼行急行列車の宗谷/天北で自由席車に割り当てられた14系寝台車を周遊券ながら“ヒルネ”で利用出来た利用者はラッキーだろうな
一般国民の生活が豊かになるまでは急行が主流だったでしょうからね。私は生まれ育ち現在住地も関西ですが、小学校低学年の時まで大阪から九州行きの座席夜行急行(阿蘇・くにさき・雲仙・西海)がありました。また東北方面の急行が平成初期まで残ったのは出稼ぎ労働者の交通費の負担を和らげる意味合いもあったと、ある書物で読んだことがあります。
またこういう時代に戻りますよ。車や飛行機は高嶺の花になりますから。
今こそ長距離夜行急行が必要な時代だと思う!
私もそうですが飛行機嫌い、あと中途半端な移動区間の出張の人とか!
プロ野球などプロスポーツ遠征(流石に貸し切り&寝台設備レベル)にも使えないかな?
例えば札幌仙台間、あと白米をケチってる某球団用とか・・・・。
必要な時代?あんたの都合だろ。
生前の水島新司氏は飛行機がお好きではなかったらしく、ホークス戦観戦で博多入りする際は「あさかぜ」等の列車利用だったらしい。
飛行機が苦手とか
座席ではなく寝台の方が負担が少ないという需要は確かにあるんですが
その絶対数が少ないから夜行列車が淘汰されたのも現実ですからねぇ…
(JRが全国1社ではないので長距離列車を設定しづらくなった面があるのも事実)
「需要の有無」と「商売として成り立つ需要か否か」は基本的に分けて考える必要があると思います
85年に墜落した日航機の前の運用の福岡発羽田行の便に阪神の選手たちが乗っていました。そして折り返しの墜落した便に阪神球団社長が乗っていて犠牲になりました。
@@tetsuona1106 さま。
そうです!
だからタイミング次第ではバース、掛布、そして現監督の岡田ら(各敬称略)タイガースナインは…
故に、その年のリーグ優勝もシリーズ制覇も幻になってたかも…?
いや不謹慎な発言失礼。そして犠牲になられました御霊を悼む。