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昭和45年の夏に初めて山陽本線の旅に出ました。勿論大型蒸気を見る為でした。東京から急行高千穂に乗り深夜に糸崎で下車、そのまま駅のホ~ムのベンチで宿泊しました。当時は夜通し列車が走っており駅は24時間営業故にこんな事も出来ました。しかも寝ているとC62牽引の列車が入線したりして結局朝まで眠る事は叶いませんでした。国鉄最盛期の時代だった様に記憶して居ます。それに比べ現在の山陽本線は地方のロ~カル線になってしまい面影すらありません。
本当に野村さんとは同じ時期に同じ場所を訪れて居たんだなとしみじみ思います。私は何事も中途半端な性格で積極的に動いた訳ではありませんでした。その点は野村さんには到底鉄道ファンとしては追いつく事は叶いませんでした。何時も素晴らしい写真集ありがとう御座居ます。
小学校の低学年から発売日には地元の本屋に行って鉄道ファンを買っていました。隅々まで読み尽くしたのが懐かしいです。今はたまに本屋に立ち寄って立ち見をするのが楽しみです…
まさしくこの時代に急行高千穂に乗り深夜の糸崎に下車、そのままホ~ムのベンチで仮眠し翌朝呉に向かう。深夜の列車も多くとても仮眠どころではなかった。呉から広島に行き広島運転所にて大型蒸気機関車を堪能、当時は現場事務所に挨拶すれば自由に構内を廻る事が出来た。今では考えられない出来事でした。
やはりC59やC62の重量感迫力は半端ないですね!
山陽本線のバイパス的な呉線に大型SLが最後まで残れたのは幸運でしたね。常磐線で活躍したC62の元気な姿を見れたのも良かったです。
写真に映っているC62 17は蒸気機関車狭軌最速記録を出した機関車でしょうか動輪の大きな旅客用大型蒸気機関車は迫力がありますねC59は大好きな機関車の一つですC62との2ショットは迫力満点ですね
コメント有難うございます。17号機はおっしゃる通り記録達成した機関車です。呉線は最後まで原型を保った綺麗な機関車が活躍していました。九州、北海道など続編もアップしますので引き続きお楽しみください。
@@野村朗-i4s 返信ありがとうございますやはりそうだったのですねこれからの動画も楽しみにしてます(^_^)
C6217は国鉄の当時の中部支社長の尽力で最高速度を出した思い出の地に保存が決まった。常磐線から来た軽量型は重量型ばかり運転していた糸崎の機関士達にはかなり扱いにくいものだった。23と37は最後まで残って頑張ってくれたが検査切れなのか渡道しなかった。もし渡道したら「ゆうづる」「安芸」「ニセコ」を牽いた事になってたが
いつもよく写る写真を見せていただきありがとうございます。昔あった雑誌の確か、キネマ旬報社の蒸気機関車を思い出します。Ç59は憧れの機関車でしたが、自分は蒸気機関車の写真を取り始めたのが1971年からなので、現役を見ることはできませんでした。東海道本線は、大井町でよく眺めていました。まだ101系も走り103系と音が違うことや157系あまきが美しかったこと、急行桜島高千穂号(当時、近くの一部のファンでは言い方を高千穂桜島と高千穂を先に言う方を好む人々がいた、私も走行距離の長い高千穂を先に言うことが好きだった)で西鹿児島へ行ったらどうだろ?と想像だけの西日本旅行でした。呉線とは、私はその地域の経済や地理感は分らないのですが、山陽本線よりも都市間交通の要で、山陽本線は瀬野八などあり、呉線に「あき」を走らす需要があったことは、大型蒸気に良かったです。Ç59の動態保存がないのは残念です。機関車は違うが、せめてÇ574次型くらい動態保存機があれば楽しいと思います。
丁寧なコメント有難うございます。今、アップしている写真は中学3年から大学2年頃のものが中心です。当時は小遣いも少なくただただ撮りためたフィルムが増えるばかりで、プリントした写真を整理する余裕もありませんでした。会社勤めが終わって時間が出来たこともあり50年ぶりに押入れの奥からフィルムを引っ張り出して楽しんでいます。もう少し続きがありますので良かったらご覧になってください。月に一回くらいのペースでアップするつもりです。有難うございます。
@@野村朗-i4s さんお返事を賜りまして恐縮いたします。どうもありがとうございます。私の写真は、フィルム現像に失敗して現像タンクにフィルムを巻き込む作業でフィルムがくっついたりした物や露出が下手な写真などで写真よりも、写真撮りに行った断片的思い出になりました。35ミリから蒸気機関車は、マミヤスーパープレス23を買った頃には69.67で撮りたかっけれど走らなくなりました。またアップしていただけましたら楽しく見せて(魅せて)いただきます。どうもありがとうございます。敬具
呉線って単線で徐行区間も多いけど重量級SLが入れたんですね
そうですね。呉に軍港があったことから東京まで直通の優等列車を走らせるため、軌道も高規格のものが戦前から使われたということです。
糸崎から広島へ16両の重い客車を牽き、本郷~河内の坂を上らなきゃならない。気が重い仕事だった。冬時はなを気が重い。
お便りありがとうございます。もしや呉線で機関士をされていたのですか?好きで写真を撮っているのと違い大変なお仕事だったでしょうね。みんなに夢をあたえて頂き感謝致します。
@@野村朗-i4s さん C59とC62の釜炊きをしてました。運転していた範囲は糸崎から小郡です。さくら、あさかぜ、はやぶさ、などの寝台特急。九州の名前がついた筑紫・豊後、天草、阿蘇、平戸、などなどの急行列車、あとは普通列車を走らせていました。
そうですか。山陽本線の名だたる列車も乗務されてたのですね。呉線も良いですが、山陽本線の風景はやはり幹線の華やかさがありますね。でも八本松の峠は越えるのが辛かったのでしょうね……
@@野村朗-i4s さん 瀬野~八本松は補機がつくのでそんなに苦ではない。ただ信号が18本もある区間で長い。つらいのはむしろだらだらと長い上り勾配がある下り線です。糸崎で乗り継いだ時の釜の状態が良ければいいが、クリンカー(燃えがらが粘って固まったもの)が残っていたりすると最悪です。
そうでしたか。確かに山陽本線の下りは山の間をうねりながら登って行く感じですね……実は私の母方の祖父は戦前は甲府機関区でその後、満鉄に行っていました。そんな訳で私にも鉄道の血が流れているのかも知れません。
はぁ~!👀C59とかC62とか、梅小路でしか見たこと無いです。😓もっと早く生まれて、急行安芸とか音戸とか乗ってみたかったです。💓凄かったんだろうなぁ………。😂マロネ41など、軽量客車以前の寝台車も、見てみたかったなぁ。💖
この頃は常磐線電化も完了したために、平機関区にいたC62が何両か糸崎に移って来ていました。また、呉線電化のあとは最後の仕事に向けて数両が小樽にわたりC62の歴史に幕を閉じました……もう半世紀も経ってしまいました。
@@野村朗-i4s 様、返信ありがとうございます。そっか………。🙄もう半世紀も経つのですね。😲C62牽引のゆうづるやニセコも、乗ってみたかったなぁ。😌それくらい経ってしまったのに、こうしてUA-camで、当時の様子を見ることが出来るのは、嬉しいことです。😂ありがとうございます。🙇
まだ続篇をアップしていく予定ですので、時間があれば楽しんでください😆
@@野村朗-i4s 様、楽しみにしております。💓
C62 17は廃車後、1971年から愛知県名古屋市千種区の東山公園(東山動植物園)内にて静態保存されていたが、2011年3月、名古屋市港区にリニア・鉄道館が開館する際に移設された。現在は同館の屋内で展示されている。
糸崎のデゴイチはこっそり音戸とか安芸にも入ってたみたいですね常磐組が嫌われてたから乗務員の方々には高速区間はともかくその方が良かったかも撮る側からすればシロクニやシゴク狙ってデゴイチやったら、、、ですが比較的重量の軽い安芸をシロクニ限定にしてまだマロネ41が入ってたりする音戸に優先的にシゴクを当ててたようです音戸は2本とも定数一杯の換算両数やから無理もないでしょうし常磐組の48号機が音戸に入ったのは数少ない記録やと思われます
そうなんですか……常磐線は最後のタイミングに平でゆうづるを撮りました。その時の牽引機が48号でした。呉線で23、37、48号機と再開したのは懐かしかったです。常磐線時代よりみんな小綺麗になってました……
この動画保存機大杉
昭和45年の夏に初めて山陽本線の旅に出ました。勿論大型蒸気を見る為でした。東京から急行高千穂に乗り深夜に糸崎で下車、そのまま駅のホ~ムのベンチで宿泊しました。当時は夜通し列車が走っており駅は24時間営業故にこんな事も出来ました。しかも寝ているとC62牽引の列車が入線したりして結局朝まで眠る事は叶いませんでした。国鉄最盛期の時代だった様に記憶して居ます。それに比べ現在の山陽本線は地方のロ~カル線になってしまい面影すらありません。
本当に野村さんとは同じ時期に同じ場所を訪れて居たんだなとしみじみ思います。私は何事も中途半端な性格で積極的に動いた訳ではありませんでした。その点は野村さんには到底鉄道ファンとしては追いつく事は叶いませんでした。何時も素晴らしい写真集ありがとう御座居ます。
小学校の低学年から発売日には地元の本屋に行って鉄道ファンを買っていました。隅々まで読み尽くしたのが懐かしいです。今はたまに本屋に立ち寄って立ち見をするのが楽しみです…
まさしくこの時代に急行高千穂に乗り深夜の糸崎に下車、そのままホ~ムのベンチで仮眠し翌朝呉に向かう。深夜の列車も多くとても仮眠どころではなかった。呉から広島に行き広島運転所にて大型蒸気機関車を堪能、当時は現場事務所に挨拶すれば自由に構内を廻る事が出来た。今では考えられない出来事でした。
やはりC59やC62の重量感
迫力は半端ないですね!
山陽本線のバイパス的な呉線に大型SLが最後まで残れたのは幸運でしたね。常磐線で活躍したC62の元気な姿を見れたのも良かったです。
写真に映っているC62 17は蒸気機関車狭軌最速記録を出した機関車でしょうか
動輪の大きな旅客用大型蒸気機関車は迫力がありますね
C59は大好きな機関車の一つです
C62との2ショットは迫力満点ですね
コメント有難うございます。17号機はおっしゃる通り記録達成した機関車です。呉線は最後まで原型を保った綺麗な機関車が活躍していました。九州、北海道など続編もアップしますので引き続きお楽しみください。
@@野村朗-i4s 返信ありがとうございます
やはりそうだったのですね
これからの動画も楽しみにしてます(^_^)
C6217は国鉄の当時の中部支社長の尽力で最高速度を出した思い出の地に保存が決まった。常磐線から来た軽量型は重量型ばかり運転していた糸崎の機関士達にはかなり扱いにくいものだった。23と37は最後まで残って頑張ってくれたが検査切れなのか渡道しなかった。もし渡道したら「ゆうづる」「安芸」「ニセコ」を牽いた事になってたが
いつもよく写る写真を見せていただきありがとうございます。
昔あった雑誌の確か、キネマ旬報社の蒸気機関車を思い出します。
Ç59は憧れの機関車でしたが、自分は蒸気機関車の写真を取り始めたのが1971年からなので、現役を見ることはできませんでした。
東海道本線は、大井町でよく眺めていました。まだ101系も走り103系と音が違うことや157系あまきが美しかったこと、急行桜島高千穂号
(当時、近くの一部のファンでは言い方を高千穂桜島と高千穂を先に言う方を好む人々がいた、私も走行距離の長い高千穂を先に言うことが好きだった)
で西鹿児島へ行ったらどうだろ?と想像だけの西日本旅行でした。
呉線とは、私はその地域の経済や地理感は分らないのですが、山陽本線よりも都市間交通の要で、山陽本線は瀬野八などあり、呉線に「あき」を走らす需要があったことは、大型蒸気に良かったです。
Ç59の動態保存がないのは残念です。
機関車は違うが、せめてÇ574次型くらい動態保存機があれば楽しいと思います。
丁寧なコメント有難うございます。今、アップしている写真は中学3年から大学2年頃のものが中心です。当時は小遣いも少なくただただ撮りためたフィルムが増えるばかりで、プリントした写真を整理する余裕もありませんでした。会社勤めが終わって時間が出来たこともあり50年ぶりに押入れの奥からフィルムを引っ張り出して楽しんでいます。もう少し続きがありますので良かったらご覧になってください。月に一回くらいのペースでアップするつもりです。有難うございます。
@@野村朗-i4s さんお返事を賜りまして恐縮いたします。どうもありがとうございます。私の写真は、フィルム現像に失敗して現像タンクにフィルムを巻き込む作業でフィルムがくっついたりした物や露出が下手な写真などで写真よりも、写真撮りに行った断片的思い出になりました。
35ミリから蒸気機関車は、マミヤスーパープレス23を買った頃には69.67で撮りたかっけれど走らなくなりました。
またアップしていただけましたら楽しく見せて(魅せて)いただきます。
どうもありがとうございます。敬具
呉線って単線で徐行区間も多いけど重量級SLが入れたんですね
そうですね。呉に軍港があったことから東京まで直通の優等列車を走らせるため、軌道も高規格のものが戦前から使われたということです。
糸崎から広島へ16両の重い客車を牽き、本郷~河内の坂を上らなきゃならない。気が重い仕事だった。冬時はなを気が重い。
お便りありがとうございます。もしや呉線で機関士をされていたのですか?好きで写真を撮っているのと違い大変なお仕事だったでしょうね。みんなに夢をあたえて頂き感謝致します。
@@野村朗-i4s さん C59とC62の釜炊きをしてました。運転していた範囲は糸崎から小郡です。さくら、あさかぜ、はやぶさ、などの寝台特急。九州の名前がついた筑紫・豊後、天草、阿蘇、平戸、などなどの急行列車、あとは普通列車を走らせていました。
そうですか。山陽本線の名だたる列車も乗務されてたのですね。呉線も良いですが、山陽本線の風景はやはり幹線の華やかさがありますね。でも八本松の峠は越えるのが辛かったのでしょうね……
@@野村朗-i4s さん 瀬野~八本松は補機がつくのでそんなに苦ではない。ただ信号が18本もある区間で長い。つらいのはむしろだらだらと長い上り勾配がある下り線です。糸崎で乗り継いだ時の釜の状態が良ければいいが、クリンカー(燃えがらが粘って固まったもの)が残っていたりすると最悪です。
そうでしたか。確かに山陽本線の下りは山の間をうねりながら登って行く感じですね……実は私の母方の祖父は戦前は甲府機関区でその後、満鉄に行っていました。そんな訳で私にも鉄道の血が流れているのかも知れません。
はぁ~!👀
C59とかC62とか、梅小路でしか見たこと無いです。😓
もっと早く生まれて、急行安芸とか音戸とか乗ってみたかったです。💓
凄かったんだろうなぁ………。😂
マロネ41など、軽量客車以前の寝台車も、見てみたかったなぁ。💖
この頃は常磐線電化も完了したために、平機関区にいたC62が何両か糸崎に移って来ていました。また、呉線電化のあとは最後の仕事に向けて数両が小樽にわたりC62の歴史に幕を閉じました……もう半世紀も経ってしまいました。
@@野村朗-i4s 様、
返信ありがとうございます。
そっか………。🙄
もう半世紀も経つのですね。😲
C62牽引のゆうづるやニセコも、乗ってみたかったなぁ。😌
それくらい経ってしまったのに、こうしてUA-camで、当時の様子を見ることが出来るのは、嬉しいことです。😂
ありがとうございます。🙇
まだ続篇をアップしていく予定ですので、時間があれば楽しんでください😆
@@野村朗-i4s 様、
楽しみにしております。💓
C62 17は廃車後、1971年から愛知県名古屋市千種区の東山公園(東山動植物園)内にて静態保存されていたが、2011年3月、名古屋市港区にリニア・鉄道館が開館する際に移設された。現在は同館の屋内で展示されている。
糸崎のデゴイチはこっそり音戸とか安芸にも入ってたみたいですね
常磐組が嫌われてたから乗務員の方々には高速区間はともかくその方が良かったかも
撮る側からすればシロクニやシゴク狙ってデゴイチやったら、、、ですが
比較的重量の軽い安芸をシロクニ限定にして
まだマロネ41が入ってたりする音戸に優先的にシゴクを当ててたようです
音戸は2本とも定数一杯の換算両数やから無理もないでしょうし
常磐組の48号機が音戸に入ったのは数少ない記録やと思われます
そうなんですか……常磐線は最後のタイミングに平でゆうづるを撮りました。その時の牽引機が48号でした。呉線で23、37、48号機と再開したのは懐かしかったです。常磐線時代よりみんな小綺麗になってました……
この動画保存機大杉