Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
まるで楽園。😍😂もっと早く生まれて、安芸や音戸、乗ってみたかった。💖
小さな頃から鉄道が大好きで、高校になる頃から丁度無くなりつつあったSLを夢中で追いかけました。SLが現役から退いてしまったのは残念ですが、今でもテレビで鉄道番組をやっていると楽しく視聴しています。
@@野村朗-i4s 様、返信ありがとうございます。姿形は変わっても、2本のレールの上を走る鉄道は、やっぱりいいものですね。💖糸崎駅の駅舎は、昔からの駅舎のようですね。🙄いつか行きたいです。💓
糸崎から瀬戸内を呉線で行くのも、瀬野、八本松の山越えを山陽本線で行くのも、どちらも楽しいですね❗是非、楽しんで来てください😆
@@野村朗-i4s 様、ありがとうございます。
素敵でした。
呉線は旧海軍の重要な拠点が呉にあったから、東海道や山陽本線並みに特甲の線路規格で作られたんですよね。だから戦前の花形だったC53も乗り入れることができるんですよね。
そのようですね。主要幹線が電化されたあとも大型SLが残れたのは正に呉線の歴史にあったのですね❗
何にも触れられてないけどサムネの安芸先頭のハネがスハネフ30かスハネ30っちゅうのは珍しいんとちゃう?広島にはどっちもおらんから所定のオハネフ12が東京でトラブって品川のクルマを連結したように思える
スミマセン。何かいつもの編成と違うなとは思ってましたが、詳しいことは把握できていません。コメント有難うございました。
返信ありがとうございます大先輩からお返事いただけるとは、、、恐縮しております梅小路のすぐ近くで育ったのですが小さいときからC59が好きというませた子供でした後10年、20年早く生まれたかったと言う鉄道ファン共通のジレンマがありますね夏場に竹原に行く機会があったのですが呉線を眺めて、ここをあのカマたちが走ってたんやなと考えたら目頭が熱くなりました最後の大型蒸気の楽園を目の当たりにしたかったです
昭和43年が高校入学の年ですので、まさしくSLが全国で消えていく時代でした。お金もないので旅館に泊まらずに夜行列車や駅の待合室で寝て写真を撮り歩いてました。あれから半世紀が経ちましたが、今、当時の記憶を辿りながらネガフィルムの整理を楽しんでます。もう少し続編もアップしますので、良かったら楽しんでください❗
平区時代は常磐線のエースとしてしばしば[はくつる]や[ゆうづる]を颯爽とエスコートしていた23・48や37も、呉線では軽軸重が嫌われたそうですね。地元生え抜きの15・16は後に北海道に渡って大活躍しました。殊に15はハの字Apronを残していて埋込みTailLightと合せて2号機SwallowAngel以上に親近感を覚えたものです。(何しろ山陽本線沿線で生まれ育ち生涯最初に接した蒸機がC62・D52・C59でしたので…広島仕様のハの字Apronと埋込みTailLightが蒸機の標準仕様と思っていました)(^^);まだ未就学児童で他のことの記憶はあんまり残っていないのに電化前の山陽本線でC62牽引の鈍行に乗った記憶だけは鮮明に残っています(33と41は機番も覚えています)。また呉線の蒸機は1966/昭和41年夏、居住地の団体旅行に連れて行って貰った際、広島から呉線経由の夜行列車に乗り換えた際[この列車は蒸気機関車が牽いています]の車内放送が流れたこと、すぐ後ろの車輌が荷物車だったこと(乗車車輌は恐らくスハフ42、でも若しかしたらオハフ33630?)、そして朝になってカーブで窓越しに列車前方を見たら茶塗りのEF61が頑張っていたこと…などは鮮明に覚えていますが、行った筈の大阪城公園だのならの東大寺大仏などは全く記憶に残っていません(^^);因みに当時6歳、未就学児童でした(^^);
興味があること、好きなものはいつまでも鮮明に覚えているものですね。鉄道はいつの時代も子供たちのあこがれですよね……たくさんの思い出をこれからも大切にしたいですね⁉️
まるで楽園。😍😂
もっと早く生まれて、安芸や音戸、乗ってみたかった。💖
小さな頃から鉄道が大好きで、高校になる頃から丁度無くなりつつあったSLを夢中で追いかけました。SLが現役から退いてしまったのは残念ですが、今でもテレビで鉄道番組をやっていると楽しく視聴しています。
@@野村朗-i4s 様、
返信ありがとうございます。
姿形は変わっても、2本のレールの上を走る鉄道は、やっぱりいいものですね。💖
糸崎駅の駅舎は、昔からの駅舎のようですね。🙄
いつか行きたいです。💓
糸崎から瀬戸内を呉線で行くのも、瀬野、八本松の山越えを山陽本線で行くのも、どちらも楽しいですね❗是非、楽しんで来てください😆
@@野村朗-i4s 様、
ありがとうございます。
素敵でした。
呉線は旧海軍の重要な拠点が呉にあったから、東海道や山陽本線並みに特甲の線路規格で作られたんですよね。だから戦前の花形だったC53も乗り入れることができるんですよね。
そのようですね。主要幹線が電化されたあとも大型SLが残れたのは正に呉線の歴史にあったのですね❗
何にも触れられてないけど
サムネの安芸
先頭のハネがスハネフ30かスハネ30っちゅうのは珍しいんとちゃう?
広島にはどっちもおらんから所定のオハネフ12が東京でトラブって品川のクルマを連結したように思える
スミマセン。何かいつもの編成と違うなとは思ってましたが、詳しいことは把握できていません。コメント有難うございました。
返信ありがとうございます
大先輩からお返事いただけるとは、、、恐縮しております
梅小路のすぐ近くで育ったのですが小さいときからC59が好きというませた子供でした
後10年、20年早く生まれたかったと言う鉄道ファン共通のジレンマがありますね
夏場に竹原に行く機会があったのですが
呉線を眺めて、ここをあのカマたちが走ってたんやなと考えたら目頭が熱くなりました
最後の大型蒸気の楽園を目の当たりにしたかったです
昭和43年が高校入学の年ですので、まさしくSLが全国で消えていく時代でした。お金もないので旅館に泊まらずに夜行列車や駅の待合室で寝て写真を撮り歩いてました。あれから半世紀が経ちましたが、今、当時の記憶を辿りながらネガフィルムの整理を楽しんでます。もう少し続編もアップしますので、良かったら楽しんでください❗
平区時代は常磐線のエースとしてしばしば[はくつる]や[ゆうづる]を颯爽とエスコートしていた23・48や37も、呉線では軽軸重が嫌われたそうですね。
地元生え抜きの15・16は後に北海道に渡って大活躍しました。殊に15はハの字Apronを残していて埋込みTailLightと合せて2号機SwallowAngel以上に親近感を覚えたものです。
(何しろ山陽本線沿線で生まれ育ち生涯最初に接した蒸機がC62・D52・C59でしたので…広島仕様のハの字Apronと埋込みTailLightが蒸機の標準仕様と思っていました)(^^);
まだ未就学児童で他のことの記憶はあんまり残っていないのに電化前の山陽本線でC62牽引の鈍行に乗った記憶だけは鮮明に残っています(33と41は機番も覚えています)。
また呉線の蒸機は1966/昭和41年夏、居住地の団体旅行に連れて行って貰った際、広島から呉線経由の夜行列車に乗り換えた際[この列車は蒸気機関車が牽いています]の車内放送が流れたこと、すぐ後ろの車輌が荷物車だったこと(乗車車輌は恐らくスハフ42、でも若しかしたらオハフ33630?)、そして朝になってカーブで窓越しに列車前方を見たら茶塗りのEF61が頑張っていたこと…などは鮮明に覚えていますが、行った筈の大阪城公園だのならの東大寺大仏などは全く記憶に残っていません(^^);因みに当時6歳、未就学児童でした(^^);
興味があること、好きなものはいつまでも鮮明に覚えているものですね。
鉄道はいつの時代も子供たちのあこがれですよね……たくさんの思い出をこれからも大切にしたいですね⁉️