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当時働いてた方にお話を聞くなど素晴らしい取材力に拍手👏
ただ機関区の歴史を淡々と読み上げるのではなく、豊富に当時の画像を引用し、水の補給の話から神社の紹介もし、さらには機関区で働いていた人に話を聞くなど、非常に情報量の多い動画でとても素晴らしいと思いました。これからもクオリティの高い動画を撮のしみにしています。
素晴らしい動画ですね当時の糸崎の賑わいがよく分かりました当時を知る人に実際に話を聞いたのはすごいと思います!
そう言っていただけて嬉しいです!!
昭和30年代呉線まわりの寝台急行安芸(広島ー東京)が走っていて、呉線はSLで走り、糸崎で電気機関車に変えて山陽本線、東海道線を走っていました。私は安芸で上京したので懐かしいですね。懐かしい映像ありがとうございます。
神動画ですね。38年前幼稚園の時に松永から一人で電車に乗って糸崎で止められたのはいい思い出です。
三菱三原の創業は戦時中の1943年、それまで三菱神戸造船所にあった蒸気機関車製造ラインを移転させたのが始まりと聞いています。移転計画がいつごろかあったのかは調べ切れていませんが、神戸では1943年あたりまでD51が作られ続けました。その後のD51は三原製になったみたいですね。根拠はないのですが、その切り替わりの時期にあたるD51の中には神戸製としつつも三原で作られたのがあるようなカンジがしてます(試験操業の体で)。ちなみに、場内に保存展示されているC57 76は神戸造船所製。戦後の「機関車」は三原製です。C61組み立てのときは、2軸従台車が干渉して再調整された逸話がありますね。同じ構造のC62ではこの修正が反映されているようです。
こんなにもUA-cam動画を、時には映像を止めながらじっくりと見たのは久しぶりです。糸崎は私の母の故郷で、私も幼少~小学生の頃(主に1970年代)は毎年糸崎に遊びに行っていました。小さい漁港の近くにまで線路が敷かれていた理由もこれで分かりました。(水産専用の引き込み線だということ)私の記憶の中では蒸気機関車を見かけたことはほぼ無いのですが、このような歴史があったため、糸崎駅は広大な車両基地になっていたのですね。そういえば、糸崎駅は「いとざきえき」ですが、会話の中での糸崎の地名は「いとさき」と呼んでいます。この度は貴重な映像とお話を有難うございました。
素晴らしい動画!丹念に調べ上げていらっしゃる様子がよく分かります。子供の頃から時刻表を読み始めたけど、子供心ながら、「こんなに特急が停まるなんて、糸崎にはいったい何があるんだろう?」と思ってました。成人して、廃止直前の九州ブルートレインに乗りながらも、漫然と通り過ぎてしまっていた記憶があります。機会があったら降り立って、かつての栄華を思い起こしてみたいものです。
素晴らしい動画でした❗実際に、当時働いていた方に話を伺って、エピソードを入れているので、保存版の動画ですね。
特に最後の動画は、大変貴重なものですね❗よくぞ、見つけられたと思います🤔
働いていたかたや地元のかたなど、観測ではなく取材されていることが素晴らしいです。30年ほど前まではホームのうどん屋も顔を洗うための長い洗面台もありましたが、ホームのうどん屋はその後永らく待合室として使用されていましたね。開かずの踏切も撤去され、歩道橋となってしまいました。
じっくり見入ってしまいました。素晴らしい作品だと思います。わたしにはBGMは心地良く感じました😌仕事の関係でセメント会社に年に数回行っていました。場内引き込み線跡など遺構探しが楽しみの一つでした。久しぶりに行ってみたいなぁ。
おつかれさまです。新幹線の乗り継ぎの便が悪い、18きっぷで乗換の合間にコンビニもなんにもなく(ちょっと昔)暇つぶしに困る等「なんであんな半端な所に機関区作ったんだろ」とおもってましたがそうゆう事でしたか、いい動画ありがとうございました。
1995年、震災のあった年の夏に18きっぷで広島、宮島まで行きました。さすがに京阪で降りてということはせず、ブルーシートに覆われたエリアを見て言葉になりませんでした。岡山で1泊ののち、広島方面に行ったときに糸崎駅で乗り換えだったと思います。当時、駅ホームにあった駅そばを食べましたが、ドンブリの持ち込みができるという文化に驚いたことを思い出します。そんなことが出来るんだと。確かにドンブリは陶器製ではなく薄いプラスチックのようなものでしたが、東京では聞いたことがないので、長距離旅客列車のためのサービスだったのかなと思ったものです。調べてみたらもう駅そばもないようですね。。。広い構内、待ち合わせ、駅そば、、忘れられない思い出です。
急行「安芸」は広島(呉線経由)~東京までの寝台列車でした。学生時にはこの列車を利用して帰省していました。食堂車も完備されていました。
平にいたゆうづるの23号機が安芸のヘッドマークをつけている!感激です。当時の時刻表には糸崎に着発の表示がありました。ありがとうございます。
大学進学決定おめでとうございます!編集お疲れ様&お久しぶりです!当時勤務されていた方のお話などが紹介されていて非常に良い動画でした。
鉄路100万キロ走行記の著者宇田賢吉さんの初任地ですね。降りたことはないですが何か、懐かしい気持ちになりました。ありがとうございます。
昔の山陽ブルトレも糸崎が運転士交代の駅だったと思いますよ。
さくら長崎佐世保 はやぶさ西鹿児島あさかぜ下関 東京急行安芸 広島 東京急行とも 広島 岡山
C62C59を見る為に良く行ったから懐かしいよ
糸崎の天麩羅蕎麦屋、最近まで休憩所として使われていましたね。ホームの端にあるので。今は福山みたいに柵で区切りはしていませんが、もうあの場所まで列車が届くことはなくなりました。
昔、山口県に住んでまして、実家の岐阜によく山陽本線を利用してたのですが…なぜ糸崎は構内が広いんだろうか?と思うコトがあったのですが…納得しました、ありがとう。良い仕事デス。
糸崎機関区は廃止になってませんよ。電化で機関車配置が無くなっただけです。乗務員区としてその後も存続し、岡山~広島の優等列車を何本も担当してました。JR以降も運転区、運転センターと名前を変えて存続してきています。
糸崎は鐵道の要衝の地なのも聞いたことがあるが、懐かし杉るよ😢⤵️⤵️🚃
大型蒸機(C59 C62)にとってまさに最後(アラモ)の砦…
糸崎から尾道の辺りは歴史的に広島の勢力圏と岡山の勢力圏の境目なのです(^O^)「今の広島県と岡山県の境は福山市の東側だよ」 とツッコミが入るかもしれませんが、今の広島県福山市・府中市・神石高原町の辺りは明治維新の1868年から1876年まで岡山グループ(深津県→小田県→岡山県)だった時代がありました鉄道は今でも名残がありますね。JR西日本広島支社と岡山支社の境は現県境よりだいぶ西の糸崎駅(山陽本線)・府中駅(福塩線)・備後落合駅(芸備線)です
ようここまで調べられましたね。お見事!知り合いのおじさんでその後JR初期まで勤められた人がおるけど、糸崎は今でも三菱重工、乗務員寮、車両基地(支社の境界)が残ってて始発列車や乗り換えの拠点として機能してる。ちなみに三原港や古浜港からは四国行きのフェリーが発着してたもの・・・ちなみに開かずの踏切は10年前くらいに立体交差しましたとさ。次は備後落合の歴史なんてどうじゃろう?
母の実家が三原だったのですが、隣の糸崎駅の構内が異様に広かったのが不思議でした。駅弁も三原駅になくても糸崎駅で買えることがありましたし、ホームには洗面台があったのもSL時代の名残だったのでしょう。なお、三菱重工の三原工場では碓氷峠で活躍したロクサンも何両か製造されたと聞きます。
確か70年位。岡山発糸崎行きのC59のお別れ列車に乗った。糸崎〜広島の呉線は重量級のC59C62が走り東京-広島間 急行安芸が走り坂〜広島間は朝は通勤列車が多数あった。広島の機関区にはC62c59の勇姿があった。
めっちゃ待ってましたよ!
ゴハチはすでにブルーだったんですか! 安芸持っててよかった!
これは素晴らしい動画です。拝見出来て幸せです。表現的にストレートに言ってしまうと「C55流線型はポンコツだった」というのは衝撃でした。まぁ、普通に中学校レベルの理科を理解していりゃ「そりゃそうだ」となるのですが、機関車全体の形状が美しく、いかにも高速運転が出来そうなその体は当時生まれていない自分ですら憧れを持ってしまいます。まぁ、本気出しても今の水準と比較して当時のレールや路盤の質、路線の線形を考えれば、頑張っても時速100キロ定速運転までは行かなかったと思うので、あまり流線型による空気抵抗の恩恵は無かったような気もします。ただただ、美しかった、というものでしょうか?そんな印象をもっていた自分にとって近隣のご老人の実質的意味で「ポンコツだった」発言は大変興味を惹かれます。後々まで残していきたい動画です。ありがとうございました。拝聴出来て久々に「嬉しかった」と思える動画でした。
昔、寝台特急の「はやぶさ」が真夜中にポツンとド田舎の駅に泊まるのが不思議だったのですが、こんな偉大な駅だったのですねとにもかくにも素晴らしい動画ありがとう。
興味深く拝見させていただきました。糸崎の歴史、改めて深いものがあると感じ、広島に縁あるものとして嬉しく思いました。
神々しい水で、機関車が動いていたのですね。
お〜お久しぶりです!
岡山県民ですが子供の頃、広島方面にいく電車にやたら糸崎行があるのが不思議でした。糸崎ってホームに降りた時に見渡しても小さな町で大きな工場以外は電車の車両基地があったくらいでした。隣の三原駅は新幹線に呉線が乗換できる大きな駅なのになんで手前の糸崎止まりで乗り換えないといけないのかな?って。
待ってました!
学生時代、上りムーンライト九州に乗車した時、運転停車したことです。糸崎?どこにあるかも分かりませんでした。
1960年代糸崎駅の思い出は、列車の乗り換えと待ち時間にホームの店舗で食べた天婦羅そばです。作家児島穣氏の取材メモで、アメリカのアーカイブスにある軍人手帳に、宇品から出征する軍用列車が糸崎駅で待機した記事を読みました。ホーム数が多いだけで、何も無い暗闇の駅の風景が記されていました。三原 糸崎は鉄道敷設時、四軒の浜旦那がいました。今、水産会社の話題もありましたが、三菱重工 セメント会社の展開で、今は浜旦那に触れられる事もなくなりました。しかし、糸崎の浜は、漁師から鉄道に、更には製造業の活動する場に移り変わりました。
♪C62 15好き~と言って~by サザンオールスターズの「糸崎ジェーン」
京都行きのムーンライト九州で運転停車した駅です。地味、場所が今一つ分かりにくい存在。
昔、呉線に行こうとして糸崎行きの列車に乗ったそして糸崎で山陽本線の接続列車がすぐ出るのに「呉線の乗換駅」と勘違いし呉線を通る列車を馬鹿みたいに待っていたことがありました
蒸気機関車の時代は今とは比較にならないほどの賑わい
6:17の写真、凄くイイ。久しぶり元気だった?
重い(16両)の急行列車を牽いて広島~糸崎を何度も往復しました。補機のつかない糸崎から広島は難儀したものです。
めっちゃ久々に更新されたw
C6223じゃないですか!常磐の女王ですよ!!
糸崎から瀬野へ区間は、ほとんどダラダラと登り坂なので。石炭と水の使用料には、気を付けたそうです。
正しく保存版ですね。
お久しぶりです!
まずは、大学進学おめでとうございます。それでこれ、漫画「甲組の徹」の舞台になった所ですね?著者の池田邦彦先生が、何故この機関区を題材にしたのか何となく分かったような気がします。
ええ?あれって糸崎機関区だったんですか!!って今調べたらマジだった笑。池田先生の作品は大好きなので即ポチっちゃいました!教えていただきありがとうございます!!
大量に水が湧くんです
??? 選ばれたのは、糸崎でした
当初は交通の便利がよい三原に海軍工厰は決まっていたと聞いた。なぜ呉になったんだろう?
川からの砂で水深がすぐに浅くなるなり、航路が限定された為です。
愛知嫌い男より😡⚡。広島、魅力あるでがんすー‼️関西三重男より🇦🇷
センス無し!SLの音が或る時は、BGMをCUTするくらいの配慮が欲しい!モシ、アナタが鉄道フアンなら?
では、提供元の動画からどうぞ。概要欄に記載しています。そのまま映像を載せるのは如何なものか思ったので、BGMをつけた次第です。
当時働いてた方にお話を聞くなど素晴らしい取材力に拍手👏
ただ機関区の歴史を淡々と読み上げるのではなく、豊富に当時の画像を引用し、水の補給の話から神社の紹介もし、さらには機関区で働いていた人に話を聞くなど、非常に情報量の多い動画でとても素晴らしいと思いました。これからもクオリティの高い動画を撮のしみにしています。
素晴らしい動画ですね
当時の糸崎の賑わいがよく分かりました
当時を知る人に実際に話を聞いたのはすごいと思います!
そう言っていただけて嬉しいです!!
昭和30年代呉線まわりの寝台急行安芸(広島ー東京)が走っていて、呉線はSLで走り、
糸崎で電気機関車に変えて山陽本線、東海道線を走っていました。私は安芸で上京したので懐かしいですね。
懐かしい映像ありがとうございます。
神動画ですね。
38年前幼稚園の時に松永から一人で電車に乗って糸崎で止められたのはいい思い出です。
三菱三原の創業は戦時中の1943年、それまで三菱神戸造船所にあった蒸気機関車製造ラインを移転させたのが始まりと聞いています。移転計画がいつごろかあったのかは調べ切れていませんが、神戸では1943年あたりまでD51が作られ続けました。その後のD51は三原製になったみたいですね。根拠はないのですが、その切り替わりの時期にあたるD51の中には神戸製としつつも三原で作られたのがあるようなカンジがしてます(試験操業の体で)。ちなみに、場内に保存展示されているC57 76は神戸造船所製。戦後の「機関車」は三原製です。C61組み立てのときは、2軸従台車が干渉して再調整された逸話がありますね。同じ構造のC62ではこの修正が反映されているようです。
こんなにもUA-cam動画を、時には映像を止めながらじっくりと見たのは久しぶりです。
糸崎は私の母の故郷で、私も幼少~小学生の頃(主に1970年代)は毎年糸崎に遊びに行っていました。
小さい漁港の近くにまで線路が敷かれていた理由もこれで分かりました。(水産専用の引き込み線だということ)
私の記憶の中では蒸気機関車を見かけたことはほぼ無いのですが、このような歴史があったため、
糸崎駅は広大な車両基地になっていたのですね。
そういえば、糸崎駅は「いとざきえき」ですが、会話の中での糸崎の地名は「いとさき」と呼んでいます。
この度は貴重な映像とお話を有難うございました。
素晴らしい動画!
丹念に調べ上げていらっしゃる様子がよく分かります。
子供の頃から時刻表を読み始めたけど、子供心ながら、「こんなに特急が停まるなんて、糸崎にはいったい何があるんだろう?」と思ってました。
成人して、廃止直前の九州ブルートレインに乗りながらも、漫然と通り過ぎてしまっていた記憶があります。
機会があったら降り立って、かつての栄華を思い起こしてみたいものです。
素晴らしい動画でした❗
実際に、当時働いていた方に話を伺って、エピソードを入れているので、保存版の動画ですね。
そう言っていただけて嬉しいです!!
特に最後の動画は、大変貴重なものですね❗よくぞ、見つけられたと思います🤔
働いていたかたや地元のかたなど、観測ではなく取材されていることが素晴らしいです。
30年ほど前まではホームのうどん屋も顔を洗うための長い洗面台もありましたが、ホームのうどん屋はその後永らく待合室として使用されていましたね。
開かずの踏切も撤去され、歩道橋となってしまいました。
じっくり見入ってしまいました。
素晴らしい作品だと思います。
わたしにはBGMは心地良く感じました😌
仕事の関係でセメント会社に年に数回行っていました。
場内引き込み線跡など遺構探しが楽しみの一つでした。
久しぶりに行ってみたいなぁ。
おつかれさまです。新幹線の乗り継ぎの便が悪い、18きっぷで乗換の合間にコンビニもなんにもなく(ちょっと昔)暇つぶしに困る等「なんであんな半端な所に機関区作ったんだろ」とおもってましたがそうゆう事でしたか、いい動画ありがとうございました。
1995年、震災のあった年の夏に18きっぷで広島、宮島まで行きました。さすがに京阪で降りてということはせず、ブルーシートに覆われたエリアを見て言葉になりませんでした。
岡山で1泊ののち、広島方面に行ったときに糸崎駅で乗り換えだったと思います。当時、駅ホームにあった駅そばを食べましたが、ドンブリの持ち込みができるという文化に驚いたことを思い出します。そんなことが出来るんだと。確かにドンブリは陶器製ではなく薄いプラスチックのようなものでしたが、東京では聞いたことがないので、長距離旅客列車のためのサービスだったのかなと思ったものです。調べてみたらもう駅そばもないようですね。。。広い構内、待ち合わせ、駅そば、、忘れられない思い出です。
急行「安芸」は広島(呉線経由)~東京までの寝台列車でした。
学生時にはこの列車を利用して帰省していました。
食堂車も完備されていました。
平にいたゆうづるの23号機が安芸のヘッドマークをつけている!感激です。当時の時刻表には糸崎に着発の表示がありました。ありがとうございます。
大学進学決定おめでとうございます!
編集お疲れ様&お久しぶりです!当時勤務されていた方のお話などが紹介されていて非常に良い動画でした。
鉄路100万キロ走行記の著者宇田賢吉さんの初任地ですね。降りたことはないですが
何か、懐かしい気持ちになりました。ありがとうございます。
昔の山陽ブルトレも糸崎が運転士交代の駅だったと思いますよ。
さくら長崎佐世保
はやぶさ西鹿児島
あさかぜ下関 東京
急行安芸 広島 東京
急行とも 広島 岡山
C62C59を見る為に良く行ったから懐かしいよ
糸崎の天麩羅蕎麦屋、最近まで休憩所として使われていましたね。ホームの端にあるので。今は福山みたいに柵で区切りはしていませんが、もうあの場所まで列車が届くことはなくなりました。
昔、山口県に住んでまして、実家の岐阜によく山陽本線を利用してたのですが…なぜ糸崎は構内が広いんだろうか?と思うコトがあったのですが…納得しました、ありがとう。良い仕事デス。
糸崎機関区は廃止になってませんよ。電化で機関車配置が無くなっただけです。乗務員区としてその後も存続し、岡山~広島の優等列車を何本も担当してました。JR以降も運転区、運転センターと名前を変えて存続してきています。
糸崎は鐵道の要衝の地なのも聞いたことがあるが、懐かし杉るよ😢⤵️⤵️🚃
大型蒸機(C59 C62)にとって
まさに最後(アラモ)の砦…
糸崎から尾道の辺りは歴史的に広島の勢力圏と岡山の勢力圏の境目なのです(^O^)
「今の広島県と岡山県の境は福山市の東側だよ」 とツッコミが入るかもしれませんが、今の広島県福山市・府中市・神石高原町の辺りは明治維新の1868年から1876年まで岡山グループ(深津県→小田県→岡山県)だった時代がありました
鉄道は今でも名残がありますね。JR西日本広島支社と岡山支社の境は現県境よりだいぶ西の糸崎駅(山陽本線)・府中駅(福塩線)・備後落合駅(芸備線)です
ようここまで調べられましたね。お見事!
知り合いのおじさんでその後JR初期まで勤められた人がおるけど、糸崎は今でも三菱重工、乗務員寮、車両基地(支社の境界)が残ってて始発列車や乗り換えの拠点として機能してる。
ちなみに三原港や古浜港からは四国行きのフェリーが発着してたもの・・・
ちなみに開かずの踏切は10年前くらいに立体交差しましたとさ。
次は備後落合の歴史なんてどうじゃろう?
母の実家が三原だったのですが、隣の糸崎駅の構内が異様に広かったのが不思議でした。駅弁も三原駅になくても糸崎駅で買えることがありましたし、ホームには洗面台があったのもSL時代の名残だったのでしょう。なお、三菱重工の三原工場では碓氷峠で活躍したロクサンも何両か製造されたと聞きます。
確か70年位。岡山発糸崎行きのC59のお別れ列車に乗った。糸崎〜広島の呉線は重量級のC59C62が走り東京-広島間 急行安芸が走り坂〜広島間は朝は通勤列車が多数あった。広島の機関区にはC62c59の勇姿があった。
めっちゃ待ってましたよ!
ゴハチはすでにブルーだったんですか! 安芸持っててよかった!
これは素晴らしい動画です。拝見出来て幸せです。表現的にストレートに言ってしまうと「C55流線型はポンコツだった」というのは衝撃でした。まぁ、普通に中学校レベルの理科を理解していりゃ「そりゃそうだ」となるのですが、機関車全体の形状が美しく、いかにも高速運転が出来そうなその体は当時生まれていない自分ですら憧れを持ってしまいます。
まぁ、本気出しても今の水準と比較して当時のレールや路盤の質、路線の線形を考えれば、頑張っても時速100キロ定速運転までは行かなかったと思うので、あまり流線型による空気抵抗の恩恵は無かったような気もします。ただただ、美しかった、というものでしょうか?そんな印象をもっていた自分にとって近隣のご老人の実質的意味で「ポンコツだった」発言は大変興味を惹かれます。
後々まで残していきたい動画です。
ありがとうございました。拝聴出来て久々に「嬉しかった」と思える動画でした。
昔、寝台特急の「はやぶさ」が真夜中にポツンとド田舎の駅に泊まるのが不思議だったのですが、こんな偉大な駅だったのですね
とにもかくにも素晴らしい動画ありがとう。
興味深く拝見させていただきました。糸崎の歴史、改めて深いものがあると感じ、広島に縁あるものとして嬉しく思いました。
神々しい水で、機関車が動いていたのですね。
お〜お久しぶりです!
岡山県民ですが子供の頃、広島方面にいく電車にやたら糸崎行があるのが不思議でした。
糸崎ってホームに降りた時に見渡しても小さな町で大きな工場以外は電車の車両基地があったくらいでした。
隣の三原駅は新幹線に呉線が乗換できる大きな駅なのになんで手前の糸崎止まりで乗り換えないといけないのかな?って。
待ってました!
学生時代、上りムーンライト九州に乗車した時、運転停車したことです。糸崎?どこにあるかも分かりませんでした。
1960年代糸崎駅の思い出は、列車の乗り換えと待ち時間にホームの店舗で食べた天婦羅そばです。
作家児島穣氏の取材メモで、アメリカのアーカイブスにある軍人手帳に、宇品から出征する軍用列車が糸崎駅で待機した記事を読みました。ホーム数が多いだけで、何も無い暗闇の駅の風景が記されていました。
三原 糸崎は鉄道敷設時、四軒の浜旦那がいました。今、水産会社の話題もありましたが、三菱重工 セメント会社の展開で、今は浜旦那に触れられる事もなくなりました。しかし、糸崎の浜は、漁師から鉄道に、更には製造業の活動する場に移り変わりました。
♪C62 15好き~と言って~by サザンオールスターズの「糸崎ジェーン」
京都行きのムーンライト九州で運転停車した駅です。地味、場所が今一つ分かりにくい存在。
昔、呉線に行こうとして糸崎行きの列車に乗った
そして糸崎で山陽本線の接続列車がすぐ出るのに「呉線の乗換駅」と勘違いし呉線を通る列車を馬鹿みたいに待っていたことがありました
蒸気機関車の時代は今とは比較にならないほどの賑わい
6:17の写真、凄くイイ。
久しぶり元気だった?
重い(16両)の急行列車を牽いて広島~糸崎を何度も往復しました。補機のつかない糸崎から広島は難儀したものです。
めっちゃ久々に更新されたw
C6223じゃないですか!常磐の女王ですよ!!
糸崎から瀬野へ区間は、ほとんどダラダラと登り坂なので。石炭と水の使用料には、気を付けたそうです。
正しく保存版ですね。
お久しぶりです!
まずは、大学進学おめでとうございます。それでこれ、漫画「甲組の徹」の舞台になった所ですね?著者の池田邦彦先生が、何故この機関区を題材にしたのか何となく分かったような気がします。
ええ?あれって糸崎機関区だったんですか!!って今調べたらマジだった笑。
池田先生の作品は大好きなので即ポチっちゃいました!
教えていただきありがとうございます!!
大量に水が湧くんです
??? 選ばれたのは、糸崎でした
当初は交通の便利がよい三原に海軍工厰は決まっていたと聞いた。なぜ呉になったんだろう?
川からの砂で水深がすぐに浅くなるなり、航路が限定された為です。
愛知嫌い男より😡⚡。広島、魅力あるでがんすー‼️関西三重男より🇦🇷
センス無し!
SLの音が或る時は、BGMをCUTするくらいの配慮が欲しい!
モシ、アナタが鉄道フアンなら?
では、提供元の動画からどうぞ。
概要欄に記載しています。
そのまま映像を載せるのは如何なものか思ったので、BGMをつけた次第です。