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単純に話がおもろいうえに抽象と具体を行き来してくれてわかりやすい神
ほめ過ぎです(笑)。でも、ありがとうございます!
神って安易に使いすぎ
厨二病の人が何かを本来の名前とは違った名前で呼びたがるのも、発達の段階として中学生になると抽象的な概念が理解できるようになる→言語に通底する構造に気づくことができ、応用できるようになるからなのかも。授業公開していただいていて嬉しいです。いつも貴重なお話ありがとうございます!
「世界を分類し、秩序化し、標準化する」という知の姿勢が権力性を帯びているという指摘はなるほどなぁと思いました。こう考えると、権力ということについて今までとは違った考え方ができるように感じました。例えば、権力というと階級の上の者が握って、下の者を制御するように感じていましたが、下の者も権力を持っているのではないかと感じます。それは会社でのメンバーの振る舞いから思ったことです。よく会社で、仕事のやり方を自分のやり方に合わせたがり、上の者や周りに強要してくる人がいます。そういう人は、会社組織の階層の下にいても、権力を握っているのかなと思ったりします。実際、上司が言うことを聞かせるのも難しいですし。標準化から外れる者に対する苦情を言うのも、大概、上司ではなく、同僚の方だと感じます。「あの人変です」みたいな感じで。権力は一人の人が持つというより、集団の空気のようなものが持っているという方が本当は近いのかも知れません。そもそも、分類や秩序化、標準化というのは、多くの人間が大好きなように思います。ものや人を見ると多くの場合、個性ではなく分類で物事を考えてしまいます。そう考えると、人間は基本的に権力好き、他人の権力は嫌がるけど、自分が権力を持つことは大好き、ということが言えるように思います。だから、社会の隅々にまで小さな権力構造がはびこるのですね。分類好きが権力好きになる。まぁ、そうは言っても、権力構造の蔓延を防ぐために、分類してものを考えるなとは言えないですしね。また、分類して、標準化した後に、必ず逸脱者が出ますが、そこではラベリングされ、ラベリングすることが権力を生むということにつながる。そうすると、逸脱者は、権力を生み出すまたは維持するためには必要ということになるのかなとも思ったりします。今、会社の私の組織は、メンバーのスキルも仕事上の興味・関心も多様なのですが、幸い、お客様からのニーズも多様なため、組織の多様性はむしろ強みになっています。メンバーには、それぞれの強みを伸ばして欲しい旨お願いしています。そういう組織なので、そんなに権力性が高い組織ではなく、快適に過ごせています。一方、お客様のニーズがもっと画一的だったら、こうも行かないので、組織内でもっと標準化を進めることになるのかなと想像したりします。そう考えると、権力を持つかどうかは、単に、その組織の上長の意思によるものというよりも、環境がそうさせているという側面も強いのではないかと思います。そのため、組織内のそういった空気の出来不出来を全てマネージャーのせいにする風潮がありますが、それは間違いで、置かれた環境に依存するので、たとえば、マネージャーを取り替えるだけでは組織内の問題は解決しないということになるような気がします。以上のように、つらつらと考えていると、「世界を分類し、秩序化し、標準化する」という言葉は、権力について様々なアイデアを与えてくれる、大変効果的なものだと感じました。
おっしゃるとおり、垂直的な権力よりも水平的な権力の方が現在では論じる価値のある問題だと思います。ただ日本の場合、複雑なのはタテとヨコが絡み合っていることです。たとえば、上からの権力が時短や緊急事態宣言を出せば、日本人はよくいうことを聞きますが、その理由が「世間体が悪いから」であったりします。つまり、上からの権力から逸脱している人間をヨコの権力によって取り締まるというような構造になっているんです。僕みたいなアナーキーな人間からすれば、「上からなんか言うてきてるけど、みんなで生きて行けるようにがんばろな!」みたいな感じで互いにかばい合ったりする方がよっぽどマトモだと思うんですが、互いにチクリあってましたからね(苦笑)。「多様性」という言葉を連呼する割には「多様性」を許さない社会だよなとよく思います。ある意味、他人のやってることなんて自分に害がなければどうでもいいわけですから、その適度な他人への無関心がむしろ「多様性」を担保するのだと思います。まえさんの組織があまり画一的でなくても大丈夫なのは、顧客のニーズが多様であるということに加えて、結構個人プレーだからではないでしょうか。チームで何かするとなると、一人がサボると自分が割を食うので相互監視が働きますが、きっと構造的にそうはなっていないことと、あと、ヨコを見て妬んだりしない人たちが多いことがきっと職場を快適なものにしているのでしょう。みんなそういう風になっていけばいいんですけどねぇ。
@@アーカイブ社会学講義 先生、お忙しい中、ありがとうございます。「上からの権力から逸脱している人間をヨコの権力によって取り締まる」⇒なるほどぉ、確かにそうですね。会社もまさにその状況ですね。特に、これは上手く行かないだろうという戦略を経営層がゴリ押しで進めようとするときには、職場にはそういう雰囲気が漂います。「「多様性」という言葉を連呼する割には「多様性」を許さない社会だよなとよく思います」 ⇒ まさにその通りですね。「多様性」を言えば格好良いと思って、他人にそれを強要してきます。多様性を主張する人は、「多様性に寛容な人」以外の人には不寛容です。本当に多様性が必要だと思っているのか疑問です。単に、私のような日本人の中年男性をいじめたいだけではないかとさえ思えてきます。大学の教員募集とかでも、「女性教員募集」って堂々と書いていますよね。あれが、「男性教員募集」だと、多様性がないだの、女性差別だのと騒がれると思うのですが。結構個人プレーだからではないでしょうか ⇒ まさにその通りです。個人商店の集まりとも言われています。基本的に各人がお客さんに相対してサービスを行います。少し大きな仕事の場合、数人でプロジェクトを進めることもありますが、それに参加するかどうかは個人で決めることができます。したい人が一人もいない仕事は、丁重にお断りします。ほぼやりたくない仕事はやらなくて良いので、その点でもストレスが低いのかも知れません。大きなチームで何かするとなると、やはり大変ですよね。前の職場がそうでした。リーダーは、日程調整とメンバーの不満を聞くことで追われていました。今回、コロナで、仕事がしやすくなったという声をよく聞きます。うちの従業員へのアンケートでも過去最高になっていました。顔を付き合わせないので、気を遣うことがないからですかね。
話の流れが『現代思想の教科書』という私の受けた講義で扱った本と近くて理解の補助に大いに助かりました。ありがとうございます。
迷い込んだ一般人です。Eテレ「100分で名著」のディスタンクシオンの回から、You Tube検索で来ました。社会学について無学ですが、数年前に「寝ながら学べる構造主義」を読んで内田先生にはまりました。しかしまさに近年の言動から距離をとっていました。なぜ自分がついていけなくなったのか考えていたところ、この動画で膝を思いっきりうつ事ができました。ありがとうございます。自分の腑に落ちないところは何回も聞いています。
@@アーカイブ社会学講義こんな一般人にも、 丁寧なお返事いただけて素直に嬉しいです!内田先生の件は、私の中では心おけない仲間ができ、後に引けなくなった、ポジショントークに陥ったと勝手に解釈しております。学びに対しては真摯でいることが理想ではありますが…現実社会を生きているのもわかるので、そっとしておくしかないかなとたまにTwitter覗いています。一つ質問なのですが「ポスト構造主義」というものがいったい何なのか、わからないのですが…
@@アーカイブ社会学講義 うわっ!そうか!「ポストがつく時点で…」なるほど!いや、構造主義で結構完成やんと思ってたので、理解できないのは私の思慮が浅いからか?と考えこんでしまってました。(浅いのは事実ですが)また、「構造に縛られている、縛られていない」というのは、仏教の「色即是空 空即是色」に通じるものを感じます。うーんもうちょっと考えてみたいです。深く話せ、思考を鍛える事ができる友人がいる先生が羨ましい。絶対私はついていけないだろうけど。内田先生は大学で運営かに携わるようになり、だんだん政府批判に傾いていったとも推測しています。よきにせよまたその逆であれ、大きな権力に近づき過ぎると何かを失ってしまうのかなと少し怖くなります。良い読者かどうかはわかりませんが、内田先生の合気道の体験講習の時に、一生懸命指示どおりのつもりで身体を動かしていたら、背後から先生が「出来ているつもりかもしれませんが、できてませんよ」とボソッと言われた悔しさがあるのかもしれません(笑)あの時絶対ニヤッとしてたぞ先生!次の講義も楽しみにしています!このコロナの状況だからこそ巡りあえたと思うのは少々不謹慎ですよね。あと酷い装丁というのが気になってAmazonでポチッとしちゃいました(笑)
朝勉させていただきました。社会人学生でただいま卒論にむけて思考整理している最中です。ありがとうございました😊
人間全員が同じOS積んでるって表現めちゃくちゃわかりやすいですね。パンチライン。
サルトルとカミュの論争でサルトルが勝った、というのがカミュ好きの私には腑に落ちません(苦笑)カミュについて、いつか掘り下げていただけると嬉しいです。いつも楽しくて分かりやすい講義を有り難うございます。興味はあるのに難し過ぎてなかなか入れないでいた世界に、やっと踏み込めた気持ちでいます。
コメント、ありがとうございます。僕もカミュ好きなので、勝ち負けについてはあんまり信用していません(笑)。そもそもカミュは論争の勝ち負けという基準自体から降りていたんじゃないか、という気がするので。カミュの言っていた暴力の否定とは、物理的暴力だけではなく、他人に対する価値観の押し付けを指しているように思います。そういう意味でもカミュは現代人が読むべき小説家(思想家)であるとも言えるかもしれませんね!カミュをちゃんと扱うためには僕自身、結構学びなおさないといけないところがあるので、「いつか」という感じななってしまいますが、これに懲りず今後も楽しんで頂ければ幸いです。
@@アーカイブ社会学講義 カミュが論争の勝ち負けから降りていた、というご指摘、非常に納得です。私自身もきちんと読み直し学び直しをしようと思います。今後とも是非動画のアップ、継続していただければ幸いです。
こんにちは。2年ほど前に第17回までは視聴していましたが、就職活動などで離れておりました。私は社会学部の4年生で、今年の3月で卒業予定です。復習もかねて再度続きを見てみようと思い、授業の感想をコメントさせていただきます。構造主義的な考え方ができると、他者とのコミュニケーションも円滑に進むと感じました。例えば就職活動の面接で自分の大学の話をするときに「この言葉は私の大学でしか意味が通じないから説明が必要だな」と考え説明を追加したりするといった具合です。合わせて方言なども当てはまると感じます。私の地元、静岡県では洗濯物を取り込むことを「よせる」と言います。一般的に「よせる」と聞くと「(端に)よせる」という意味と解釈するのではないでしょうか。出身の違う友人や恋人に「雨が降ってきたから洗濯物を『よせて』おいて」と頼むと、服は部屋に取り込まれることはなく物干し竿の端によせられ、服が濡れていました。ある地域では伝わるものの、ほかの地域では通用しないということが上京した時のカルチャーショックでした。今私が行っている新入社員研修の電話対応の方法には「方言や若者言葉は避け、一般的な言葉や言い回しを使いましょう」と書かれています。この講義を受けた後だと「一般的」とは何だと感じます(笑)。今でいう若者言葉も年月が経てば若者言葉ではなくなるし、「一般的」になっているかもしれません。今いる社会は当たり前ではないというのはコロナ禍でもつくづく感じました。コロナ禍での常識の変化が社会ではいかにもマイナスなようにとらえられていますが、プラスのこともあったと思います。ありきたりですがコロナ禍からも学んでいく姿勢が重要だと感じます。系譜学的歴史観のように、あくまで一つの道を選んだ結果としての今に至っているわけなので、今が最良かも最悪かも分かりません。しかし、学ぶことによって道のりの選択肢が増えたり選ぶ際の判断基準が感情論だけにならなかったりと少なからず良い方向には向かうような気もします。最後に虹の見え方の話について、どこにも縛られずに生まれたままの純粋な状態で虹を見たらどのような感覚になるのかは気になりました(笑)。虹をきれいと感じるかもしれないし、ごちゃごちゃして気持ち悪いと感じるかもしれないし、まぶしいと感じるかもしれないし、、、ただ言語の学習過程でも社会集団に依存するはずなので、仮に頭の中で感じたとしてもそれを言語化するのが不可能になってしまうと思いますが(笑)。
自分たちが民主主義がいいって思うのは民主主義のもとで育ったからだってとこすごいわかります。共学と女子校/男子校双方にどんなメリットがあるか、どちらの方が有効なのかについて考えた時、自分が共学出身だからどうしても共学がいいって結論になりがちだなって思ってた。色々勉強して、女子校/男子校もむしろいいんじゃないかって最近思うようになったけど。
コメント、ありがとうございます。そうですね。民主主義みたいな大きな話だけではなく、共学なんかの日常的なところでも、僕たちは自分の経験や生まれた場所の文化に影響を受けてるんですよね。そんな風に自分の日常に落とし込んで理解してもらえると、とてもやりがいがあります。どうもありがとうございました。
単純接触効果、ザイアンスの法則ですね。俺は思想をよく味覚に例えます。誰でもおふくろの味が最高、母国の味が最高、でもそれを「世界の万人にとって絶対的論理的に最高」とみんな勘違いしてしまう。
5:43ソシュール17:30フーコー33:05レヴィストロース42:00レヴィストロース🆚サルトル58:00まとめ
You Tube動画に出逢い、順に拝聴させていただいています。お話の軽やかさも好きですし、深いお話なのにとても解りやすくてありがたいです。これまでの人生で私が感じて考えてきたことに照らし合わせながら、深い理解と納得をしてとても感激しています❤心の癒しとケアの活動をするなかで、人の心の在り方について長年探求してきました。人々の悩みはなぜなくならないのか?と素朴に疑問を持ち、長年かけて探求してきたところ、その人の自身の悩みではなくて、社会構造の縛りや囚われや執着と恐れなどに支配された信念みたいな考え方にあると気づいたときには非常に大きな衝撃を覚えました。そのことに気づけた事によって人生は拡がり心が自由になりました。私は精神的、スピリチュアル的、人間的な領域からこの分野を観てきましたが、社会構造学という視点の存在にとても興味を抱くことができました。貴重な講演を無料公開してくださりありがとうございます❤先生のおしゃべりがとても軽快で楽しくて、何度も聞いて学ばせていただきたいと思います❤同じ大阪在住です。もしも、一般公開授業や公演などがあるのでしたら拝聴したいです😊配信に心より感謝しています💖
最近このチャンネルを発見し、大変興味深く拝聴しております。ありがとうございます。サルトルが晩年に抱えてしまった「実存は本質に先立つ」と「マルクス史観(あるいは決定論的歴史観)」の矛盾について個人的な仮説があります。それはサルトル自身が自らの存在を「歴史的に自明なもの」としないための行動だったのではないか、というものです。哲学的思想の盛衰はその時代を少なからず反映すると思いますが、哲学の歴史を考えていくと近代科学並びに近代的知性が登場したことで必然的に実存主義哲学が現れるように思え、そこで敢えて自己矛盾することで自身の哲学が持つ歴史的自明性から意識的に逃れようとしたのではないか、なんて思えたりします。(他者から規定されたくないがためにノーベル賞を辞退したぐらいの大の「規定嫌い」ですし)なんの資料にも基づいておらず、また関連する研究なども調べてない勝手な投稿ですが、宜しければ先生のご意見伺いたいです。
面白いコメント、ありがとうございます。勝手でもなんでも面白ければ勝ちです(笑)。僕もサルトルやら哲学やらにはそんなに造詣が深くないのですが、その説が本当だったら、サルトルはメチャクチャ頭いいですね。ただ、僕はなんとなく、彼はそこを矛盾として認識していなかったんじゃないかと思います。「実存は本質に先立つ」という言葉の本質は無神論ですよね。本質というのは人間が作ったもの、あるいは作っていくものであって神に決められたものではない、と。で、マルクス史観は実は神を廃した代わりに絶対的な基準としてマルクス主義的歴史法則を引き入れたものと理解できます。だから堀中さんはこれを「矛盾」と感じられたのだと思います。ここで問題は、神とマルクス主義を同列に考えるような発想があったかなかったかでしょう。あくまで推測ですが、この時代、「神に本質を決められたのではないから、人間は自由だ!」というのが思想だとすると、「人間社会にはこんな感じで発展していく法則がある!」というテーゼはあくまで科学として認識されていたんじゃないでしょうか。で、そこの矛盾に気付いていなかったから、レヴィ=ストロースにボコボコにやられちゃったんじゃないかと・・・。その意味で、この論争は科学も1つの信仰に過ぎないということを浮き彫りにしたとも言えますね。・・・とはいえ堀中さんの説も魅力的ですね。論破王サルトルが自ら敗北することで何かを表現しようとしたのだとすると、ちょっと好きになってしまいそうです(笑)。また哲学の専門の先生にでも聞いておきますね。面白い仮説をありがとうございました。
早速のご返信ありがとうございますこの時代の人々が如何に運命というものを必要としていたか、ひしひしと感じます(今も大して変わっていないかもしれませんが)また何か新しいことが分かればご教示頂きたいです、よろしくお願いします
嬉しい。
58:43 香港で失職し、大嫌いだった中共の大陸に転職しそうになり上海や深圳の生活を見に行ったら日本より懐が広いなかなか幸福な世界でぶったまげました。人間て本当に構造に囚われてるなあ。
しっかり勉強します!
構造主義、理解したい
内田樹は世代が同じで嫌いではなく好きなタイプの思考者ですが、最も好きだったのはイラストにも衝撃だった😅橋本治でした。当時は、哲学的思考に憧れて志向した時代であり、東大が炎上し現役では京大が一番の受験時期で、已む無く二期校進んだ自分でした。我々の時代は、哲学系は、大学生であればかじって居なければバカにされる、と言う強迫感覚がありました。世間も、大学生をそれなりに認めてくれる時代でしたし自分もそれに応えようと思考した時代気分もあった様に感じます。 40代から、数字的ノルマ達成の世間の流れに合わなくなり後方部門の事務企画系の部署になり、哲学系思考の企画事務役割が適していたのか、また、紙ベースからデータベース変換時期だったことからも、哲学的思考である疑問力、がとても役に立って今でも相当な自信の基礎になったと思っています。そこらの一人の市井の老人ですが能楽とボクササイズをやりながら、学び続ける事と教養の幅を広げる事が人生における選択を都度行う上で、良い結果に繋がる場合が多い、という経験が後期高齢年代の今の時点ではそう思っています。哲学的疑問力は、いつも時代でも最強であり、流れ行く時代の欲望の中で、棹させて思い止まらせる自分の立つ位置を決断してくれるツールだと感じています。
哲学は、ギリシャ哲学から現代思想と言われる構造主義からポスト構造主義で60代まで自分なりに学んできましたが、今の自分の中の基本は、ヘーゲルとマルクスとドゥルーズ-ガタリが大きく占めていますが、自分の頭で考える、と云うことを示してくれた人は、池田晶子と永井均であり、ニーチェや西田幾多郎でしたし、兎に角、仏教系哲学等々も読みましたが、今は、関係学と云う社会環境から、東洋思想の仏教系哲学が日本人の歴史的環境や地政学的人的資質として合致しているし、西洋的思考とは相容れない歴史資質感覚があるのではと思っています。
そうなんだよなああ。喋るのも説明するのも上手くなりたいけど結局言葉にしたときに抜け落ちてしまう意味が無くせないからなあ
おっしゃるとおり、言葉を使うことは自分のナマの感覚を概念の中に閉じ込めることだと言えるでしょう。その意味で、言葉というのは「必要悪」のような存在なのかもしれませんね。
人類学や民俗学を勉強したことはありませんが、西洋からのみ見た視点だと感じます。
まさにその通りだと思います。というか、西洋人が「あれ?俺たちって西洋からしか見てなくね?」と気づきはじめた頃の学問ですよね(笑)
話が少しそれますが、昨年末にオンラインで美術史を勉強しましたが(講師は日本人)、アフリカや中東も美術があるはずなのにスルーでした。彼は現代美術が西洋美術から影響を受けてるから、そしてそれ以外は系統されてないからといってました。僕は単に西洋以外の情報が不足してたり見る気がないんだと思いますが。
この動画で言えばレヴィストロースは西洋中心主義良くないって行ったのに対し、日本世間はその西洋を叩くばかりで、自らも中心になりたがり結局は後進国を見下してる点では同じですね。実際コメ欄にそういう人がいたので存分に叩きました。先生にはコメ欄荒らすなケンカすんなって思われそうだけど、後進国を見下す人が一人いれば他国在住日系人一人の命が危うくなるんです。こういうコメ欄って他国の異言語母語話者も結構見てて日本人の本音はバレてるし、日本社会同士で民族主義思想高ぶらせてたらそのエゴがあちこちで無意識に吹き出し敵を増やします。俺も学生として勉強した事は無いけど趣味としては大学生くらいの本は読んだと思います。自説としてはもし西洋が自己中視点を持たなくても、代わりの集団が同じ事しただけです。オスマンとかムガールとか中国とかですね。アステカですら周辺国に対してドヤってた。そういう意味で西洋は絶対悪なんかじゃない。自論ですが人も集団も8割が悪です。根拠はパレートの法則とかユダヤの法則とかロサダの法則。西洋は1000の力のうち800で世界支配したけど、搾取で集めた富を資本に産業革命起こして200は世界に還元した。日本は100の力しかなかったから植民地人を80の力でしか虐められなかった。そして日本人はおそらくあなたを含めて日本がした20の良い事と西洋がした800の悪い事を比較して内集団バイアスを滾らせてる。根拠はもしそう考えてたらあなたはおもむろに西洋批判してないからです。西洋が悪いのではなくて強かったから有名税として叩かれてるだけ。では日本に虐められた東アジア弱小国は一方的な被害者か? 10の力しか無かった台湾は日本に虐められたけどその台湾の中でも漢民族は8の力で原住民を虐めてた。では原住民は一方的被害者かとなると、やっぱり部族間戦争を何百年か何千年も続けてて、強い部族は0.8の力で更なる弱い部族を絶滅させた事を武勇伝にしかしてない。自分たちが今も台湾中央政府とか中国とかから虐められたり圧力かけられてる事に対しては憤るけど、自分たちの先祖が他部族を滅ぼした事は良い事としか思ってない。そのエゴの本質は原住民も日本人も西洋人もみんな同じです。そして日本社会には「西洋視点も悪だけど日本視点も悪だから辞めよう」ってレヴィストロースが生まれたでしょうか? ちょっとでもそんな事言う奴は反日家とか工作員とか言ってフルボッコにされてますよね。あなたもその美術教師を叩く理由が単に日本人としてのナショナリズム感情から西洋偏重したかったのか、或いは日本人教師自身が「学問の中心に西洋を据えるのが日本人アイデンティティとして妥当だ」という部分も含んでるのか、或いは後者のウェイトの方が大きいのか、それによって意味が変わります。俺に言わせれば西洋だうが日本だろうがアフリカだろうがどいつもこいつもエゴの塊でうざいし、でもそのエゴの偏りを無くすことも自然界の掟に反する、要は自身の考えと感情は相対的でしかないと自覚出来てれば良いんです。五輪でもW杯でも高校野球でもみんな地元とか自国を無条件に応援する様が俺は大嫌いだし、日本のテレビが日本選手を贔屓する番組もあっても良いけど、それと同時に全ての国の選手を満遍なく扱う番組もあるべきだと思ってます。日本人選手に密着した30分番組を作るなら100か国の選手一人ずつにも同じ事するべき。それをしないとどうなるか? ナショナリズム感情や民族主義熱が一方的に高まり続けて「白人は極悪だ」「特亜は敵だ」「後進国を日本の力で開放しろ」って最悪な過ちをまた繰り返す事になります。鎖国しっ放しで世界の現実見ようとしないから開国した時にはもう遅くて90年足掻いても原爆落とされた、その足掻きの犠牲者も近隣国で大勢出した。ロシアがウクライナを開放しようとしてるのも、中国が台湾を開放しようとしてるのも、大日本帝国が東アジアを白人から解放しようとしたのも全部同じです。なのにみんな自国だけは違うと思い込んでる。それを想像しただけでも吐き気がします。特に日本は民族も言語も思想もほとんど一つしかないから国民は個人と国家を一心同体みたいに混同しやすいんです。あなたのコメにもそれを感じる。各集団の公平さを求めてるというより西洋を叩く事で日本を相対的に高めたい、日本を肯定する事でそこに投影してる個人エコを肯定したい。俺だったらまず「じゃあ日本は日本中心の哲学なり世界観を持たなかったのか? 立派に同じ事してたよねー」ってなって書くまでも無く終了なので、いきなり「西洋中心だな」なんて言いません。西洋中心なのを純粋に批判したかったらじゃあ西洋以外の地域ではそれら思想を超えるものは出てこなかったのかって自分から探せば良いし、見つからないなら存在しないんだから仕方ないってなる。西洋思想が50点だとしても、インドもイスラムも中国も日本もそれ以下で30点とか10点ならじゃあとりあえず仕方ないよなってなる。仮にあなたが後進国の立場から西洋だけでなく日本をも批判してたら俺はそれなりに支持しましたよ。後進国ばかりに肩入れしててもそれも偏りなので完全同意はしないけど。
ストラマーとカミュが似ているという新鮮な驚き
ソシュールの「色が先にあって言葉が後にできたわけではない」「言葉に当てはめて人は世界を見てる」っていうのが中々理解できないです。例えばペットの犬を飼った時にポチっていう名前をつけたとする。それは犬が先にあってポチという言葉が後で当てはめられてる。でもそのあとポチは大きくなったり、細胞も入れ替わったり、毛並みや性格も変わったりと成長するにつれて別人になっていくけど、それでも最初に決めた「ポチ」としてその犬を認識している。つまり最初は犬がいて、ポチという言葉を後から当てはめたんだけど、そのポチという言葉が後で一人歩きして、成長して別人になった犬にも、同じポチという言葉を当てはめてその犬を今までと同じポチとして認識してしまってるって感じですかね?その段階になると確かに言葉が先に来て、その言葉に当てはめて犬を認識するけど、一番最初は犬が先で言葉が後なんじゃないかな?
あとポチって名前を当てはめて認識してるとはいえ犬が成長してる事はちゃんとわかるのとおなじように、虹も2色しか見えない国の人は、2色しか見えない訳ではなく、寒色と暖色に分けて抽象化して2色と表現してるだけで、ちゃんと個々の色も認識できてるんじゃないかとおもうような?じゃないと色の言葉をまだ何も知らない子供は見えてる世界に色がないって事になる。それかそういう事じゃなくて記号を先に知ってしまうと、その記号で解釈しようとして、モノ自体を見ようともしなくなる事があるよねって事なのかな
コメント、ありがとうございます。良い質問ですね。ミュディさんが混乱したのはおそらく、実例として固有名詞を考えてしまったからだと思います。固有名詞については、ソシュール自身、別物として論じています。この点について考える際には2つ目のコメントでミュディさんがおっしゃっていることが重要になりますので、そっちから片づけていきましょう。まず、おっしゃっている通り、人間の目の物理的な機能として、色弱などでないかぎり、どんな文化の人でも赤ん坊でも、色が僕らと同じように目にうつっているのは確かです。ただ、重要なのはミュディさんの指摘しておられる以下のポイントです。「寒色と暖色に分けて抽象化して2色と表現してるだけで・・・」そう、この抽象化という作業こそが重要で、あらゆる一般名詞というのは抽象化によって生まれてきたものだと言えます。言い換えれば、「○○という性質を持ったものを全て××と呼ぼう」という約束こそが一般名詞を生んでいるんですね。その結果、2つめのコメントの後半に書いてあるように、「その記号で解釈しようとして、モノ自体を見ようともしなくなる」わけです。したがって、赤ん坊は色がない世界に生きているのではなく、正確には「色」という概念がない世界に生きていると言った方が正しいでしょう。そういう意味では、赤ん坊は言語に縛られている私たちよりも世界はもっと複雑、かつ豊かに見えているのかもしれません。以上を踏まえて1つめの固有名詞の話を考えてみましょう。「ポチ」という名前には先に述べた抽象化のプロセスがありません。「〇〇という性質をもったものを全てポチ」と呼ぼうという約束があるわけではなく、この個体そのものをポチと呼ぶわけです。だから見方によっては「これ」とか「あれ」に近く、そのものを指し示す意味しかないわけです。ここが固有名詞と一般名詞の違いです。それゆえに、ポチは先にその個体がいて、名前をつけているという説明になるわけです。ソシュールは固有名詞を「シニフィエなきシニフィアン」と呼んでいます。日本語にするとちょっとズレてしまうかもしれませんが、大まかに言うと、「概念なき記号」とか「空虚な記号」とでも表現できるかもしれません。抽象化されると概念が生まれますが、その概念という中身がない名詞ということですね。ただ、後半でミュディさんがおっしゃっているお話は面白くて、この空虚なところに段々意味が込められていく可能性についてはソシュールも示唆しています。ポチが賢い犬だとすると、しばらく姿が見えなくても「ポチやったら賢いから帰って来るやろ」とか言う風に、段々「ポチ」に中身が書き込まれていきますよね。人間だったら「名前がひとり歩きする」みたいな表現もあります。そういう意味では、名前の中にキャラみたいな意味が書き加えられて行って、周囲はそれにあてはめてその人物を理解するということも次第に起こってくるのかもしれませんね。どうでしょう?こんな感じで理解してもらえたでしょうか?固有名詞の話、あとだしみたいな感じになっちゃってすみません。ミュディさんの考えられたことはとても重要で、自分の周囲の具体的な現象にあてはめて考えたからこそ、その疑問が生まれてきたのだと思います。もしまた何か分からないことがあったら聞いてくださいね。ではでは。
@@アーカイブ社会学講義 ご丁寧な説明ありがとうございます!固有名詞と一般名詞を分けて考えるとすごくわかりやすく、理解が進みました。また先生もおっしゃられてるよう固有名詞の中にも意味が込められる事が確かにあるなと感じました。ポチの例でいうと本当はポチはウーパールーパーだったとしても多くの日本人は犬で柴犬でオスの動物を意味してると捉えてしまう気がします。(これはもはや固有名詞から一般名詞に移り変わってるだけ?)他の動画も見ていろいろ勉強させてもらいます
6:05 この図は俺が大嫌いなやつです。とある学者(誰の何に関する本か忘れた)がこの話を著書にたった1ページでさらっと書き(以前調べた時ページ検索できた)、それを10年くらい前にテレビ番組が取り上げ、ネット民がそれを一斉に広め、まるでそれが常識であるかのように日本の隅々に浸透し、ウェザーニュースもそれを6年くらい前に無意識に取り上げ、以後同社の提供する気象地象の割合が日本メディアの中で増え続けたために検索結果としても上位にくるのです。俺がなぜこの図が嫌いか?・著者が説明不足。例えばこの図だけだと「そうか台湾人は3色にしか見えないんだ(あいつら目と頭が悪いんだろうな)」って解釈させてしまう。布農族はその本が書かれた当時の人口5万人、台湾人口は2300万人で、台湾人の0.2%にしかなりません。まずそこが書かれてなかった。もしそれを書いていたら読者は次に「じゃあ残り99.8%の人は何色に見えてるの?」って気になりますよね。当然それも書いてない。この図は俺が2017年当時不感慨した図なのですが、今試しに調べたら案の定知恵袋とかで「台湾は3色ってホント?」みたいな質問があり、回答は「そうみたいよ」「は? そんなの聞いた事ないぞ」とものすごく低レベルなやりとりをしています。「聞いた事ないぞ決めつけんな」と言いたいのは分かるけどだったら本当はどうなのか反論しなきゃいけない、現地語で検索すりゃ現地社会の思想傾向なんか簡単に分かりますよね。現地語が分からなかったらグーグル翻訳使うなり、現地のポータルサイト検索エンジンで英語でも使って調べて見りゃ良い。でも誰もその程度の事をしないんです、関心無いから。どうでも良い事は事実を知ろうとしない。それで結局日本社会全体で何の解決も導き出されてなくて、よくわからんけど台湾は3色かもみたいな漠然とした風潮になったまま忘れ去られつつある。この手の誤解は古今東西にあります。例えば60年前に西部劇が流行った、西部劇のインディアン像は白人に都合良く仕立てられたものだった。頭に羽を生やした酋長がアワワワ言いながら子分を引き連れて白人社会を脅かすステレオタイプですね。実際は羽(ウォーボンネット)は一部の部族しかつけてなかったし、各部族とも基本的に平等社会で上下関係なんか無くて構成員はリーダーの言う事に従う必要なんか無かった。リーダーがいる集団ならそいつを捕まえれば群れ全体を支配できるけど彼らはそうじゃなかった、各個体一人一人を地道に捕まえないと支配出来なかった、だからスペインはメキシコから北上支配する効率が悪くて適当なところで諦めた。アステカはリーダーがいたからラクだったけどアメリカはそうじゃなかった。同様の事は東海岸にイギリスが上陸した時も同じで、リーダー的な人と約束しても同部族構成員はイギリスとの約束守らなくてイギリスは支配に手間取った。いうなれば蚊とかイワシの群れとかと延々戦い続けなきゃいけない状態です。負ける事は有り得ないけど支配も面倒というローリスクローリターン。そしてインディアン社会がそうだと映画のシナリオ的に盛り上がらないからハリウッドはインディアン社会に酋長を設けた。18世紀の独立前のアメリカには既にインディアン社会にはリーダーはいないよって事が理解されてたのに(最初はヨーロッパ自身やアフリカ黒人と同じ権力者を擁する社会形態だと勘違いしてた)、200年くらい経ってまたそのリーダー存在ステレオタイプが復活してしまいました。それはアメリカ国内だけでなく日本など世界各地にも同じように飛び火し、世界がアメリカ白人を肯定しインディアン社会を誤解するというアメリカ白人の目論見通りになり、そしてそれを日本社会も関心無くなって誤解を解かないまま忘れ去りつつあります。
それで終わればまだ良いけど数年前から今度は毎月満月になる度にハーベストムーンとかストロベリームーンとか言って各局天気予報で「アメリカ先住民は昔こう呼んでました」みたいに強引に風情を醸し出そうとします。それら各満月名もアメリカに600くらいあると言われる各部族で違ってて、中にはインディアン人口の1割にもならないマイノリティの呼称がまるでインディアン全体がそう呼んでたみたいに決めつけられ、更にその誤解が浸透してしまったレースもあります。そのなんとかムーンてのも元はやはりアメリカ社会がインディアン文化に対する利用価値を半ば捏造する目的で拾ってきて、アメリカ社会全体に対してインディアンへのステレオタイプを振りまき、それを日本も再び酋長やウォーボンネット同様に真に受けまくっています。日本は60年経っても、こんなにネットやサイトが充実しても、それをろくに駆使しようとしない、意識がろくに発展してないのです。興味があったら英語でさらさらっとググって、実際はそんな単純じゃないよってのを大勢が言って、知らなかった人もふーんそうなんだってなってお約束の「マスコミは相変わらず嘘ばかりだな」って悪態ついて終わらせられる。でも少なくともこの件に関してはそのメディアの嘘に乗せられてる人の方が圧倒的多数で、メディアの嘘を信じてる人が多いなら「日本社会は相変わらずバカばかりだな」って事になります。でも世間はそう言わない。世間にとっては事実なんてどうでも良くてただ自己肯定出来れば良い。メディアを叩く事で自己肯定出来るのならばインディアンとか台湾原住民の実態なんてどうでも良い。インディアンだってメディア関係者だって視聴者だって良い所と悪い所を持つ並列関係にある、だから三者がケンカするのは良いんです。でもいざとなったら数の力が強い視聴者がどうしたって勝つし、その数の力にはいくら正しい事を言って逆らっても叩き潰される。「マスコミは嘘ばかり」というのは正しくは「マスコミは俺らの気に入らない話をしてばかり」なだけですよね。嘘でも国民にとって都合良い話だったら国民は抗議しない。正しくても気に入らなければ存分に叩きまくる。国民自身はそれを自覚していない。犠牲者がマスコミだけならまだしも他国原住民という犠牲を生み出している。もしこれをここまで読んだ人がいたら、嫌悪感を持つのは日本のマスコミとアメリか白人社会と俺に対してであって、布農族やインディアンには持たないでしょう。日本マスコミは世間にとって元々対立的な存在である、白人も日本の内集団バイアスやナショナリズム感情の敵である、俺は長文という習慣ガン無視してる上に世間(かなりの確率であなたの事です)を叩いてる。インディアンは日本にとって知白人という同じ敵を持つ論理で遠交近攻的に漠然と肯定したい、白人を叩く道具にしたい、日本はインディアンからろくに被害受けた事が無い、日本は台湾にも親日イメージ持ってるしブヌン族が何なのかも知らないしで恨む理由が無い、日本世間が他国社会に対して最も気がかりなのは親日か反日かで、台湾という国自体が親日ならブヌン族だって親日だろみたいな事しか考えないで終わりでしょう。実際には日本時代に彼らは日本軍によって虐殺されまくりました。布農族は山奥に住んでて低地平地海岸にはろくに接点が無かったために閉鎖的な社会で、それまで中国とか欧米とかとも接触した事が無く、初めて全支族が支配される勢力が日本だったんです。彼らは台湾原住民の中でも最後まで日本支配に頑強に抵抗し、日本もそれを口実にいたぶりまくりました。日本統治時代が50年あって2世代くらいに渡って洗脳同化を受けたので今の彼らは確かに日本を好きか嫌いか二択で言えば好きだけど、好きが6~7割で恨みが3~4割くらい、その好悪の感情は相殺されません。抜群に美味いけど毎回必ずゴキブリ出るんだよなって店に対する感情は割り切れる事がありません。夫婦でも長続きする秘訣は長所短所のトータルではなく極端に嫌いな部分が無い事です。性格良いし金もよく稼ぐし気も利くけどあの笑い方だけは絶対無理って所があったらうまくいきません。年収1億あったって家事が完璧だってその致命的に嫌いな部分は相殺されません。他国を親日か反日かでしか判断しようとしない人たちはその事を理解してません。自分たちだってアメリカに対して好きか嫌いかどっちかだけの感情を持てって言われてもそんなの無理って言うであろう癖にです。ともかく日本世間はブヌン族が何なのかどうだって良い、「3つにしか見えないのか頭悪そうだな」的に自尊心を高める道具にすれば良いだけです。その図はそういうエゴ感情やナショナリズム感情を促進する図になっちゃってるんです。
ウェザーニュースもこの虹の色に限らずインディアンの各月満月名ステレオタイプをもテレビの天気予報番組に毎月のように話してますが、同社の中には「本当は部族ごとに呼称が違うよ、日本だって他国から春には全国的に清明節をして冬には雪まつりして親が死ねば骨噛みするよって決めつけられたら嫌ですよね」って事を知ってる人もいます。でも日本世間はそこまで求めてないので、それをいくら言って世間の誤解を解こうとしてもどうせ聞く耳持ってくれない、それで言うの辞めた人もいるんです。大手メディアとしては民意には逆らえない、極端な事にしてると政治思想持ってる面倒な奴みたいに思われてクビになる。日本社会にとっては他国社会に必要以上の関心持つ事が悪なんです。自分たちは他国から細部を理解されたいだろうにですよ。人も集団もエゴを持ちます。性善説とか性悪説とか言うけど俺は8割悪だと思います。利他行動は2割しかしない。自分の事は8割知って欲しい、相手の事は2割知れば十分。でもみんなその自覚が出来てなくて自他に対する五分五分の理解が出来てると思い込んでる。それ自体がエゴ問題の根深さなんです。エゴ割合がそれより大きすぎる奴は敵を作りまくり、小さすぎる奴は金品を他人にあげすぎたり鬱になったりで心身維持できなくて、どっちも絶滅してます。これは人間に近い動物なら他の種でも同じ。社会学には心理学統計学だけでなく倫理学と生物学も絡んできます。アリやハチのような社会性も強く兄弟姉妹間で遺伝子が似通う種だと集団のためなら天敵に対して簡単に自爆攻撃もする。人間やサルならだいたい逃げて他人を見捨てる。生物学ではやはりそれを主に自他間での遺伝子の一致割合の多寡に理由づける傾向があります。人間には人間社会なりの倫理感があるので無理に他人や他集団を助けたり理解しなくてもいい、ならば自分も理解されたり助けられる事を望んではいけない、それが分かっていれば何の問題もないけど、大概分かってないから問題なんです。・漸く二項目になりますが、テレビとネット上サイトが酷い。まず虹の話が書かれた本をテレビが取り上げるなら、視聴者に各集団に誤解させないように「布農族は台湾人の0.2%しか占めてなくて、子供は国としては一応学校で7色って教えられてるよ、布農族以外の2300万人はまず7色って思ってるよ、でも布農族はその事で殊更異端視されてる訳でもないよ」くらいの話をすべきでした。いちいち全ての国についてそこまで説明しなくていいけど、一つ二つくらいはそう話すべきなんです。理由は倫理観の黄金律。日本が他国集団に対してぞんざいな扱いをするなら日本もそれをされても文句言えないから。テレビ業界ってすごく正義感と責任感の強い人もいれば、どうやって視聴者を騙すかしか考えてなくて、もはや騙してる感覚すら持ってないか、騙す事が快感でたまらない人まで幅広いです。誰でも自分が右と言ったら一千万人が右向くのを何度か経験したらその権力の虜になっちゃいますよ。業界人には下手な独裁者よりも支配欲の麻薬的要素があるんです。独裁者は責任とらなきゃいけないし常にある程度は非難されるけど、この手の無難そうな教養話をする分には国民は誰もろくに疑わない。2×3=7ですよって言ったら国民はこの権力者嘘つきだって叩きまくる。24325×9425=325235625ですよって言ったら国民はいちいち正解を確認してそれは嘘だと叩くのも面倒なので無関心になる。434×63=27432くらいのウソだと国民は「ふーんそうなんだ勉強になった」って真に受ける、「それ違うよ」って極一部の人が抗議しても誰もどっちが正しいかなんて確認するの面倒だから「まあまあここはケンカせずテレビの言う事でいいんじゃないですか」みたいに、自分がテレビの話を真に受けてるスタンスから遠回しに自己肯定して終わり。正解を主張する人がうざい奴と叩かれるだけ。そして翌週にはまた同じレベルの事を繰り返す。ヘーゲル曰く、歴史を勉強して分かった事は人は歴史から何も学ばない事。この虹色図こそがその典型例なんです。著者もテレビもウェザーニュースも視聴者も全員が悪い。だから誰一人間違いに気づけない。その誤解のツケはいつか他国との戦争とかの形でやってくるんです。もし俺がこの授業に出ていたらここまで書いた事そのままレポートとして提出してました。レポート課題として指定された内容でなくてもです。ここまで書いた事もほとんど社会学分野の話には違いませんよね。「先生言いたい事は分かるけど題材としてちょっと相応しくないですよ、これを扱うならメディア論なり社会心理論なり倫理の問題として使うべきであって、構造主義には次から使わないでください、でないと先生もデマを広める側になりかねませんよ」って言ってました。もし聞き入れられないようだったら先生の授業自体を、ここで書いた事を余所でテーマにして語ります。その方が先生自身にとっても困る筈。俺は闇雲に誰かを非難したいんじゃない、誤解に気付いて改めて欲しいだけです。そして俺だって気付いてない誤解が無数にある筈です。誤解を無くしたいのはやまやまだけどものによっては頭が悪いせいで無くせない事もある。でもインディアンと布農族の話は中高生くらいの頭があればだけでも無くせますよね。それでもだめなら頭の問題というより心の問題、右翼か左翼かの問題です。何がなんでも日本肯定しなきゃ許せない人と、世界と仲良くしようって人での意見は一致し得ない。そのテーマだけでも一時間の授業になるでしょう。この虹の図一つで何日でも授業できます。先生として一方的に語るだけだと往々にして自身の考えを押し付けてるだけになる、不満を持った学生は先生をネットで叩いたり学校自体を叩いたりする。それはそれでまた新たな社会学のネタになります。或いは先生は自論を述べずに学生同士で議論させてもいい、かなりの確率で右翼か左翼かのケンカになるでしょう。そうしたら今度は「はい皆さん集団極性化実験につきあってくれてありがとうございましたー、だから社会学って必要だよねー」ってメタ発言して手玉にとって見せれば良い。マイケルサンデルの東北大の東日本大震災に関する授業動画見ると彼は聴衆を焚きつけるのすごく上手いですよ。最初に参加者の一人が「我々日本人は引っ込み思案だからアメリカほど盛り上がる議論にならない」って言ったのを、彼は参加者一人一人を都度指名して反論させあって、最後には怒鳴る奴まで出て来ててアメリカでの授業よりも感情的にさせてました。焚きつけるのが上手いってのは扇動が美味いという悪い意味ではなく、人や社会の心を良く理解してるって事です。
@@meroppa1 @meroppa1 ご指摘、ありがとうございます。そんなに問題になっていたんですね。とりあえず、概要欄に注意を載せておきました。他のいくつかのコメントを見た上で、僕からのコメントを返しておきます。meroppaさんは論理的で教養もあり、かつ正義感も強い人のようですね。偶然見ただけの動画やコメントにこれほど長文の投稿をしてくるのは、そのいずれが欠けていても不可能なことだろうと思います。ただ、meroppaさんの投稿に共感や反省もしつつ、違和感を覚えたところもあり、自分なりにそれはなんなのか?と考えてみました。といっても正直、最初はその違和感を覚えたポイントがどこかすら、分からなかったので、あくまで自分なりに考えてみた感想みたいなものとして読んでいただければと思います。結論から言うと、meroppaさんの投稿に僕が感じた違和感の正体はひょっとしたら人間や社会に対する根本的な信頼感や感情の違いなのかなと思います。meroppaさんの投稿から僕が感じたのは人間や社会の愚かさに対する嫌悪、あるいは憎しみに近い感情です。これは正義感とも密接に関連したものだと思います。一方、僕は自分を含む人間や社会の愚かさを時に慨嘆することはあれど、おおむね面白いものとして、そのあり方を愛しています。「ああ、人間ってしゃーない生き物やな」と思いながらも嫌いになれないのです。これはどちらが悪いかとかではなく、これまで生きてきた経歴や周囲の環境によるところが大きいのだと思います。僕はmeroppaさんのことを全く知らないので、ひょっとしたら人生の中で色々な形で裏切られたり、差別されたりしてきたのかもしれませんし、僕みたいな感覚でいると生きていけないような環境にいた、何らかの当事者の方なのかもしれません。だから僕から何か間違い等を指摘するといったことはありません。ただ、もしかしたら、meroppaさんの役に立つかもしれない助言があるとすれば、もう少しだけ、自分を愛してみてもいいのではないでしょうか。どういうことか、説明してみますね。meroppaさんのおっしゃった「(人や社会の)8割悪」という言葉の意味を僕は「ダメなやつと良いやつがいる」とは考えず、「すべての人間が8割ダメな部分を持っていて2割良いところがある」という風に考えます。一方、社会の多くの部分に憤りを感じているmeroppaさんはどちらかというと前者の方で考えてらっしゃるのではないかと思います。もちろん、文章を読んでいる限り、meroppaさんはきちんとものを考えている人だと思うので、きっと自分がその8割に入ってしまう時もあることを反省的に考え、そうならないように自身の正義感に従って生きてらっしゃるのだと思います。そうした努力は尊いものですが、とてもしんどいだろうなと思うんです。いつも自分を反省し、正しくあるために時に自分を否定しなければならなかったり、人や社会とうまくいかなかったり・・・。つまり、僕が自分を愛してみては?と言うのは、自分のダメな部分も愛してくださいという意味です。それができると、今までと同じように正しいことを主張する際にも、きっともう少しだけ違う、そしてより相手に響く話し方になり、結果的にmeroppaさんの主張も相手に届くと思うのです。なぜなら、自分のダメな部分と同時に相手のダメな部分も愛しながら諭すことができるのですから。とはいえ、この程度のことはとっくに考えておられるかもしれず、僕から聞かされるほどのことはなかったのかもしれません。meroppaさんの正義感や知性が人の役に立ち、かつ、あなた自身の幸せに役立つことをお祈りしております。
37:00 原著の仏語は分かりませんが、演技=role playingと言うことであれば、「本気でRPGのキャラクターとして他者と関係する」と言えば日本語でも概念が通じますね。
虹の話はちょっと、、目の色が違うと見える色は違います。色素の少ない青や緑の目は黒や茶色よりも光が入りすぎて、色を識別できる数は減ります。気候で性格は変わると思いますが、目の色だけでなく、食べ物に困ら無い気候の民俗はおおらかな性格な方が多い様で数字を数えても1、2、3、たくさん!!みたいな感じで色の識別もおおよそで水色も青と同じくくりで考えるような民族性になる部分もあるようですし、、
興味深いコメント、ありがとうございます。目の色で見える色が違うというのは知らなかったです。博学ですね!その上で、僕はあの例はやはり適切であろうと考えます。Sakamotoさんのご指摘のうち、前半部分と後半部分は少し性質の違うお話なので、わけてご説明しますね。まず、前半のご指摘は次のようにまとめられると思います。「身体的特徴によって見えているものが現実に違うのだから、見えたとおりに表現しているにすぎず、言語によって対象の認識の切り分けが違うことの例として不適切である。」まず端的な事実関係として、あくまでネット情報ですが、Sakamotoさんと逆のことを言っている人もいるみたいです。要は「青の方が見分ける能力が高い」派もいるようなんです。ただ、どっちが本当であるにしても、虹の色の数と矛盾が生まれます。仮にSakamotoさんのおっしゃるとおり、「青い目のほうが色を見分けにくい」とすれば、おそらく黒い瞳のはずのアジアの民族が2色で、青い目の方がもっと色の種類が多いのは不自然です。一方、それと逆の「青のほうが見分ける能力が高い」とすれば、アメリカやドイツに比べて日本の方が色の識別が多いという事実はおかしいです。ここから分かるのは、「生理的にどのように(そしてどの程度)見え方が違うにしても、身体的特徴によって言語的に区分される色の数が規定されているわけではない」ということです。後半部分はむしろ今回の動画のお話と同じ方向のことをおっしゃっているように思います。生活習慣や文化、民族性によって色の識別が規定されるというのは、まさに言語によって見えるものが違うということの根本原因です。言語は生活習慣や文化をひっくるめた民族性と言われるものの結晶ですし、その表れであるとも言えます。つまり、後半のご指摘はまさに今回の動画の「言語」という話をさらに掘り下げるようなお話だということです。ちょっと面白いのでここからは僕なりにSakamotoさんのお話を展開してみます。おっしゃるとおり、人は共同体の暮らす場所をはじめとする様々な環境に応じてものを認識し、言語を生み出します。最初はきっと自然発生的に「あれは〇〇と呼ぼう」みたいな「とりきめ」として言語は生まれてきのだと思います。ところが、やがてそれが確立していくと「とりきめ」だったことは忘れられ、どこかで転倒が起こるのだと思います。「あれは〇〇と呼ぼう」という「とりきめ」にすぎなかったはずが、「〇〇がある」という風に〇〇という単語の方が存在のように扱われ始め、それが人間の現実認識を縛っていくのです。これは、ジンメルの動画で話した「文化の悲劇」とも通じます。つまり、人は自分の生み出したものによって拘束されるということですね。Sakamotoさんのご指摘があるまではジンメルの話とこうした言語論をつなげて考えたことはなかったのですが、実は両者は違う角度や対象から同じことを言っていたのかもしれませんね。面白いご指摘、ありがとうございました。
お返事有難う御座います。全てを否定して居るわけでは御座いません。ただ、違和感を感じた部分が何となく気になり投稿いたしました。定義によって前後は違う視点の物とは思うのですがただ、思考も身体的特徴も同じ様に環境によって形成される物だと思っています。人類は移動し分布は大きく変わるのですが、目の色も環境に適応し変化したと思います。南の方はおおらかなな方が多く感じるたのも環境によって培われた物かと思いますもが複雑に交差して作り上げられる物だとしたら同等に並べて考えたのです。目の色の話ですが、色素が多い方が強い日差しの場所ではサングラスなどなく過ごされる方が多いのではないかと思います。自然光の環境では色を区別する能力は光が入りやすい色素薄い目の方より優れ識別できるのだと思っています。ただ、濃い色素でも暑すぎる環境の方は悪く言うと怠け癖、よく言えばおおらかで身体的特徴よりも思考の方が勝り虹の色もここまでが赤っぽいから赤で、ここからここまでは青でいいんじゃね、みたいな感じになってしまっている様に思います。どちらが先かはわかりませんが、より良い生活環境を求めた集団は向上心も強く良い環境で安定した暮らしは知的好奇心のつよく高め色彩なども たとえ色素の薄い目であろうと注意深く認識する様になっていったのではないでしょうか?私は中間の色の濃い茶の目の色でなお過ごしやすい環境が色彩認識が良いもではないかと思います。先程目が覚めて取り止めもない話書きもまさせて戴きましたが、内容事態否定する意図はない事ご理解ください。そして、とても興味深い内容楽しく拝聴させて戴きました。そして言語の形成の話、思うところ、また投稿させて戴きます。ありがとうございます♪
あなたは色素がどうのこうのと至って生物学的であり社会学と関係無い話を先生にふっかる一方で、後半は非常に非生物学的な話を臆面もなくしてますね。「食べ物に困らない」ってステレオタイプはこの動画に因めばレヴィストロースに全力でぶん殴られるでしょう。あなたは見たい所だけ見たいようにしか見ていない。知識自慢したいとか自己表現したいのならそのチャンネルは不似合いです。まず自分自身が何を知ってて何を知らないか、相手が何を話してるか、そこのけじめがつけられてない。寒冷地の陸上にはクマとかアザラシとかがいる、ベルクマンの法則で体はでかいけど個体数が少ない。熱帯の生物の多様性は寒帯の比ではなく動植物が無数にいる。食料が10しかない地域では10人住むし、1000あ地域には1000人住む。いずれもそのキャパに余裕があれば、6人とか700人とかしか居なければ飽和状態まで突き進む、そしてキャパを超えると人数うはそこで一定になる。あぶれた11人目は食料を巡るから削いで殺され12人目は他の土地に居場所を求めて旅立つ。1001人目から1050人目まではホームレスとかテロリストとなって社会に抵抗しては玉砕し、1051人目以降は中絶されたり生まれたその日に間引かれる。食べ物に困らない集団なんかいねえんだよって事です。むしろ下手な熱帯よりも日本の方が食料生産性が高くて人口キャパが高い。それには・気候。気温湿度が食料生産に向いてるか。・カロリー供給効率の高い食料を育てるのに向いてるか。例えば牧畜より農耕の方が効率が良い、人が食えない繊維の固い草を飼料として育てて草食動物に食わせてその肉を人が食うより、人が直接食える果物とか穀物を植えた方がカロリー生産効率が9倍高い。じゃあなんで農耕しない地域があるの? 水が足りないとか寒すぎるとかでそれが無理だからです。ともかく狩猟採取牧畜よりも農耕の方がカロリー生産効率が高いから、可能なら農耕する。・農耕に向いてても更にその中でカロリー生産効率の高い作物を作るのに向いてるか。インダス以東は稲作に向いてるから大人口を抱えられた。イラン以西は麦にしか向いてなくて麦は米よりも単位収量低いから人口も増えにくい。・土壌。降水量と気温が適度にあればいいだけじゃなくそれが土壌と愛書が良くなきゃいけない。雨が多すぎたり暑すぎると地表のミネラル分が洗い流されたり熟成しなくて痩せた土地になる。凍土でも当然農業できない。ウクライナのチェルノーゼムや北米のプレーリーが未だに肥沃土壌でいられるのはやや寒くて降水量も少なめで、人類が濃厚開始してからまだその栄養分を採り尽くしてないから。もし水と気温が十分にあったら数千年前からそこに人が殺到して人口爆発してとっくに枯れてる。今のイラクとかエジプトみたいにです。ボルネオ島は日本の倍の面積があるのに2000万人しか住んで無いのは食料生産環境として不向きだったから。気温は十分だけど雨が多すぎて土壌の栄養が乏しくて島が育てられる人口は低かった。それをあなたは「現地人は食べ物に困らないから陽気なんだ」と言いますか? キナバル山の運び屋なんて自分の体重と同じ重さの荷物を6時間かけて山小屋まで運んでその日のうちに下山を年200回とか苦労してますよ。そこまでして日当4000円とか。食料に困ってなかったらそんな苦労しなくて良いですよね。先に書いた人口飽和状態、ラクして食生活できるキャパを超えたら苦労しなきゃいけないんです。じゃあ超えなきゃ良いんじゃない? とはならない。人々にとって繁殖は三大欲の一つだし、国や権力者としてもキャパ最大限の人口抱えてないと国力を強く維持できなくて他国と戦争して負けます。特に産業革命以前はそう。あなたが王とか酋長だったとして国民に対して「うちの国土は100人までしか食わせられないから101人目は問答無用で殺すね」って言って国民がそれに大人しく従えるでしょうか? 実際そういう掟の部族もたくさんいたけど、これがダンバー数を超えた1億人規模の国だったら? 国民の大部分は国家予算がどうのこうのとか直に把握してないから自分たちに都合悪い話は「どうせ権力視野がウソついてる」って解釈する、命令に従わなかったり革命起こしたりする。で自分が権力者になってみると政治するのが案外難しい事に気付く、今度は自分が国民をなだめすかしたりと気には嘘ついたりして国民から叩かれないように苦心する。子供には親の気持ちが分からないのと同じです。そしていずれ棄民したり一人っ子政策したり、中絶を美徳とまでは見なさなくても悪とは言わないようにしたり奨励したり、場合によっては性欲持たせないように割礼したりヒジャブ被らせたりする。マーヴィンハリスは「ヒトはヒトをなぜ食べたか」でパプア離島原住民が限られた食料環境の中で人口調整に苦労してる様を書いてます。小さな島内の食糧資源は一つ一つが貴重だから木を切るにしても8代先の事まで考えてどの木を切るか決めた。木を切りすぎるとどんぐりとかが減る、生態系が崩れる、食料が足りなくなって戦争が増えるのを、文字も持ってない集団だって分かってたんです。集団にとって最大の敵は食料危機であり、それは天候不順とか不漁とかよりも人口過多が一番の理由だった。女児を好き放題産ませるとその女児が20年後の次の世代作ってあっと言う間に人口飽和になって食料危機から内戦が起きて酋長は責任取らされて殺されたり、生き残れても集団が内戦で弱れば近隣敵部族に滅ぼされる。例えば47都道府県でどの県も100人分の食糧しか生産できない場合、常に人口100人を維持して居たい、3人もオーバーするとテロや革命が起きるし3人足りなかったら近隣県から攻め込まれて負けて滅ぼされてしまう。じゃあどうやって人口をギリ100人で維持するか、20年後を考えて男女どちらをどれくらいの割合で生かすかその都度熟慮したんです。それでも近隣部族が人口調整がうまくいかなくてその解決策として口減らし目的で攻め込んでくる事もあった、それを返り討ちにすれば捕虜を食用家畜として育てていざと言う時に食ったりした。食用家畜ってのは一番の目的は人が食えない物を食わせて人が食える肉に変える加工機であり、二つ目は食料資源の保存です。リンゴや蜜柑が一杯余っててそれを放置すると三日で腐ってしまうけど、捕虜に食わせればカロリー効率は1割以下まで減ってしまうけど2週間くらいなら水さえ与えれば生で保存できる。燻製か塩漬けにすればもっと持つ。そういう文化は太平洋諸島のいたるところにあって、ハワイでもアマゾン奥地でもそう。それをあなたは「食料に困ってない」と言いますか? 食料に困ってないのならなぜパプアは今世紀になってもカニバリズムの習慣を捨てないのですか? 食人の理由は必ずしも食料目的ではないけれどそれが一番の理由ではあるでしょう。熱帯はメシに困ってないから苦労しなくて良くてバカで、寒帯の白人は知恵を絞らなきゃいけないから頭が良くなった敵なステレオタイプは、名前忘れたけど100年くらい前の確か日本の学者が言い出した事で、特に団塊世代がそれを延々引きずってるんです。団塊ならその上の世代は東南アジアの各地に戦争に行ってたんだから現地事情を知ってる癖に、見下し偏見と、或いは彼らが現地人に対して暴力働いてきた過去を隠したいのか或いは自分たちが負けた側である事に付いて触れたくないのか、子の団塊世代にはそれを伝えなかった、だから団塊は戦前の植民地に対する見下し偏見から抜けられないままになった。大日本帝国のイデオロギーという亡霊に生涯を呪われたんです。呪われるのはそいつら一代で十分なのに、ネットがここまで発達してんのに亡霊をその子の世代、更には今の小中高校までもが纏い続けているでしょう。
人類がアフリカで増え始めて食料が足りなくなって、食いっぱくれた負け組は都落ちした。都落ちの繰り返しで1万年前には南米南端まで到達し地球上に空白地が無くなった。次にやる事は・食糧増産。農業の開始。・それまで飲んでなかった牛乳を飲む、食ってなかった虫を食う。・人口抑制。生まれた日に間引いたり、女児が初潮迎える前に生贄にして葬る。・単純に戦争する。内戦だったり外戦だったり。東南アジアには少なくとも5万年前から人が住んでた、運悪く孤島とか半島とか行き止まりに辿り着いてしまった集団は上記四つの対策を組み合わせて対処するしかなかった。言い換えれば日本よりもずっと前から食料危機と戦ってた筈なんです。日本で食いっぱぐれたらベリンジア渡ってアメリカに行けば良いけど東南アジアはタスマニアで行き止まりだったしオーストラリアは世界一不毛の大陸だった。それでも更に困ってオーストロネシアはイースター島なりマダガスカルまでカヌーで逃げ延びた。そんな苦労してた人たちに面と向かって食べ物に困ってないなんて言えますか?よく「江戸時代は自給率100%で3千万人抱えられた」と言うけど、足りてなんかいません。ちょっと天候不順になればすぐ飢饉が起きて一揆した弾圧される。子供が多すぎれば奴隷として売る。江戸末期に3千万人に達してたってだけで、それと足りてるかどうかなんて全然関係無い。幕府が強いから飢えた人からの暴力的抗議を鎮圧し続けた、政権が変わらなかったから表面上はなんとなく平和が続いたように見えてるだけ。間引かれる側の子供にとっては立派に戦争です。足りてないんです。現代だって事実上そうで、その点は熱帯の島々だって全く同じです。貧国のエンゲル係数の高さを調べたら分かる筈です。また社会のハードルが上がると金をそっちにつぎ込まないと暮らせなくなるので食料自体は本来足りてるのに手に入らない事になる。原始時代なら全裸か腰蓑で良かったけど今はそれで歩いてたら捕まる、千円あってもまず服着てないとどこも食料売ってくれない。海で漁を使しようにも漁業権無くて罰金払わされかねない。山にこもってもいずれ林野庁に捕まる。捕まらずに暮らせたとしても子供を学校に行かせないとその事で虐待と言われ逮捕される。社会平均生活するために本来いらない金を稼がなきゃならない、経済は回転速度が速いほど税収が増える、要はお上の得にならん奴は消されるんです。それもこの動画の内容同様で「みんなが当たり前と思ってる事に論理的根拠がなかったり、合理的でもなければ正しい事でもない場もある」。「1・2・3・たくさん」も「おおらか」も見下しの典型です。メシにすら困ってる人たちがラクする訳が無い。ナミビアの狩猟採集民は学校には行かないけど野生動植物の知識を親から詰め込まれます。あなたはその家の周囲にある雑草がそれぞれどの部分が食べられてどう調理すればいいか、一年を通じて家の周りに群がるどの虫をどう食えばいいか、もし食えなくなったらどっちの方向に引っ越せばまた虫か野草とかに困らなくなるか言えますか? その知識を身につける上で4桁の暗算とかする必要がありますか? 狩猟採集民は「小学校なんか行ってたら野生生物の知識を身に付ける時間が足りなくなって同級生に差を付けられる」から本読んだりしないんです。反対に彼らが「先進国人は魚の取り方も取らないし弓の作り方も覚えないし湧水がどんな所に隠れてるか割り出すコツも学ぼうとしないで、学校なんかでだらだら遊んでて暢気だな」って言ったらあなたは「そうだね俺ら暢気だよ」って返事できますか?暑い地域の人々が陽気に見えるのは、まず単純に暑さに抗うのってそれだけで体力消耗するから無理が出来なくなる。寒さは焚火でもすればいいけど夏の屋外で涼むのは難しい。じっとして体力消耗や気温上昇を避ける様が、それを経験した事無い人にはサボってるように見える。次にメシが足りなくて戦争が多くて明日死ぬかも分からないからこそ、今のうちに存分に楽しんでおこうという刹那主義になる。先進国の多い温帯や亜寒帯だってメシは本来足りてないけどユーラシアの温帯には金と軍事力があった。このへんの細かい所は定番の「文明生態史観」「銃病原菌鉄」でざっくり説明されてます。温帯勢力は他地域を搾取する事で発展もしたし寿命も実際に伸びた。平均寿命が70歳の国と80歳の国でどっちが刹那的になるか分かりますよね。そして最近言われてる説が、赤道に近いほど年較差が少なくて時間の概念が乏しかった。高緯度地域は嫌でも四季とか日照時間の変化を感じるけど赤道付近だとその幅がほとんどない。特にバリ島みたいな島も小さくて山もさほど高くないと一年中気温湿度が同じだから時間経過を感じにくくなる。実験で人を日の当たらない独房に一か月も閉じ込めておくと体のリズムも狂って二週間しか経ってないように感じる。もし四季変化も雨季乾季変化もなくて日の出日の入りもずっと同じだと時間を意識しにくくなるのでいい意味では時間に追われなくなるんです。すると時間にルーズになる、それを先進国基準で見たら「おおらか」って見下しになる。これも彼らに言わせれば「俺らは暑さと戦ってるし寿命も短いのに比べて、先進国人は暑さにも襲われないし寿命も長いのに俺らから搾取し続けててどんだけ欲深いんだ」ってなる。あなたは目の医学の話したいだけで、社会学も史学も民俗学も心理学も何も全く興味が無い。物事に対する関心バランスが悪い。缶ジュースを横から見たら四角に見える、上から見たら円に見える、あなたはその一つの見方しかしようとしない、自信の関心対象のバランスの悪さに気付いてない。医学話するならすれで良いんだけど、123とか余計な事言って自身の偏見と無知さを曝け出している、そこからの差別主義者になっている自覚も出来ないでいる。あんたみたいな人がいると困るんだよ。俺が他国人と会話してて相手の落ち度を咎めたい時に、相手に「日本人だってテキトーな事ばかり言ってるだろ」って言われたら引っ込むしか無くなっちゃうんだよ。日本で他国人と話すならまだしも、他国で自分が外国人として生活してて現地人とケンカした場合に、自分が個人としていくら正しい事言ってても日本本土にいい加減な事言ってる人がいると受け入れて貰えなくなるんだよ。「お前ら日本社会だって俺らを差別してるんだから俺らが日本人であるお前に仕返ししても文句ねえだろ」って論理になっちゃうんだよ。あんたにとってはそういう事よりも色素どうこうが大事なのか? 趣味は自由だけど責任取れない事に首突っ込むな人の足引っ張るな。
ありがとうございます。レヴィ・ストロースはLBGTの夫婦関係についてはどう触れているのでしょうか?私はよく知りませんが、男役と女役が状況によって変わるケースもあるみたいです。日本では法制化もされました。今は少数派、例外的存在であると認識されていますが、一定数がいる社会になると思います。夫婦関係が普遍的であるとする構造主義を否定する考え方が現代社会では生まれて来ていると思いました。
わかりやすくて登録しようかとチャンネル見たらもう動画上げてないのね。もう語り尽くしたのかな?
戦争に勝ってたら民主主義じゃなかったかもしれないし、今でも至るところに天皇の写真があったかも
失礼します。プラグマティズムについての動画お願い出来ますか?
象形文字から出来上がった言語は象徴なのか記号なのか14:10 造語症とかあるよなぁ
寮食がヤケアトになった世代なんだ…!(寮食あった時代に学生でした
おおお!!!先輩ですね。僕の頃はヤケアトで、今はなんかバカデカい建物がたっちゃいました。
@@アーカイブ社会学講義 どれもめちゃくちゃ面白いです。1つめの講義からゆっくり聞いています。パンキョーをちゃんとやらなかったことを悔いつつ、草引きのおともです。こんな素晴らしい講義集をアップロードしてくださってありがとうございます。
@@junkosan154cm ありがとうございます!パンキョー真面目にやらないのは京大の伝統ですもんね。僕も何一つ講義を憶えてないぐらいなんで、今も学生に授業真面目に受けろって言えずにいます(笑)。
6:41 虹 32:52 素材 盛り付け 調理法
就活ゃ入社式に個性がない黒スーツを着用することの批判をネット上でよく目にします。最も大きな理由は安上がりなんですよ。
ユニクロの方が安いですよ。
レビストロス自身が考えていることもレビストロス自身のかんがえで未開となる、なんじゃこれ???
iPhoneが普及したこの時代にどうやったらこんなに音質落とせるんや
ps4のヘッドセットをpcに挿してしゃべるとこうなりますよ(苦笑)
@@アーカイブ社会学講義 わろた
誤配なんですね!笑
誤配というか偶然ですね。公開にしてたらみんなに届いたという(笑)。
ジョーストラマーに似てるwww
単純に話がおもろいうえに抽象と具体を行き来してくれてわかりやすい神
ほめ過ぎです(笑)。でも、ありがとうございます!
神って安易に使いすぎ
厨二病の人が何かを本来の名前とは違った名前で呼びたがるのも、発達の段階として中学生になると抽象的な概念が理解できるようになる→言語に通底する構造に気づくことができ、応用できるようになるからなのかも。
授業公開していただいていて嬉しいです。いつも貴重なお話ありがとうございます!
「世界を分類し、秩序化し、標準化する」という知の姿勢が権力性を帯びているという指摘はなるほどなぁと思いました。
こう考えると、権力ということについて今までとは違った考え方ができるように感じました。
例えば、権力というと階級の上の者が握って、下の者を制御するように感じていましたが、下の者も権力を持っているのではないかと感じます。それは会社でのメンバーの振る舞いから思ったことです。よく会社で、仕事のやり方を自分のやり方に合わせたがり、上の者や周りに強要してくる人がいます。そういう人は、会社組織の階層の下にいても、権力を握っているのかなと思ったりします。実際、上司が言うことを聞かせるのも難しいですし。
標準化から外れる者に対する苦情を言うのも、大概、上司ではなく、同僚の方だと感じます。「あの人変です」みたいな感じで。権力は一人の人が持つというより、集団の空気のようなものが持っているという方が本当は近いのかも知れません。
そもそも、分類や秩序化、標準化というのは、多くの人間が大好きなように思います。ものや人を見ると多くの場合、個性ではなく分類で物事を考えてしまいます。そう考えると、人間は基本的に権力好き、他人の権力は嫌がるけど、自分が権力を持つことは大好き、ということが言えるように思います。だから、社会の隅々にまで小さな権力構造がはびこるのですね。分類好きが権力好きになる。まぁ、そうは言っても、権力構造の蔓延を防ぐために、分類してものを考えるなとは言えないですしね。
また、分類して、標準化した後に、必ず逸脱者が出ますが、そこではラベリングされ、ラベリングすることが権力を生むということにつながる。そうすると、逸脱者は、権力を生み出すまたは維持するためには必要ということになるのかなとも思ったりします。
今、会社の私の組織は、メンバーのスキルも仕事上の興味・関心も多様なのですが、幸い、お客様からのニーズも多様なため、組織の多様性はむしろ強みになっています。メンバーには、それぞれの強みを伸ばして欲しい旨お願いしています。そういう組織なので、そんなに権力性が高い組織ではなく、快適に過ごせています。一方、お客様のニーズがもっと画一的だったら、こうも行かないので、組織内でもっと標準化を進めることになるのかなと想像したりします。そう考えると、権力を持つかどうかは、単に、その組織の上長の意思によるものというよりも、環境がそうさせているという側面も強いのではないかと思います。そのため、組織内のそういった空気の出来不出来を全てマネージャーのせいにする風潮がありますが、それは間違いで、置かれた環境に依存するので、たとえば、マネージャーを取り替えるだけでは組織内の問題は解決しないということになるような気がします。
以上のように、つらつらと考えていると、「世界を分類し、秩序化し、標準化する」という言葉は、権力について様々なアイデアを与えてくれる、大変効果的なものだと感じました。
おっしゃるとおり、垂直的な権力よりも水平的な権力の方が現在では論じる価値のある問題だと思います。
ただ日本の場合、複雑なのはタテとヨコが絡み合っていることです。
たとえば、上からの権力が時短や緊急事態宣言を出せば、日本人はよくいうことを聞きますが、その理由が「世間体が悪いから」であったりします。
つまり、上からの権力から逸脱している人間をヨコの権力によって取り締まるというような構造になっているんです。
僕みたいなアナーキーな人間からすれば、「上からなんか言うてきてるけど、みんなで生きて行けるようにがんばろな!」みたいな感じで互いにかばい合ったりする方がよっぽどマトモだと思うんですが、互いにチクリあってましたからね(苦笑)。
「多様性」という言葉を連呼する割には「多様性」を許さない社会だよなとよく思います。
ある意味、他人のやってることなんて自分に害がなければどうでもいいわけですから、その適度な他人への無関心がむしろ「多様性」を担保するのだと思います。
まえさんの組織があまり画一的でなくても大丈夫なのは、顧客のニーズが多様であるということに加えて、結構個人プレーだからではないでしょうか。
チームで何かするとなると、一人がサボると自分が割を食うので相互監視が働きますが、きっと構造的にそうはなっていないことと、あと、ヨコを見て妬んだりしない人たちが多いことがきっと職場を快適なものにしているのでしょう。
みんなそういう風になっていけばいいんですけどねぇ。
@@アーカイブ社会学講義
先生、お忙しい中、ありがとうございます。
「上からの権力から逸脱している人間をヨコの権力によって取り締まる」⇒なるほどぉ、確かにそうですね。会社もまさにその状況ですね。特に、これは上手く行かないだろうという戦略を経営層がゴリ押しで進めようとするときには、職場にはそういう雰囲気が漂います。
「「多様性」という言葉を連呼する割には「多様性」を許さない社会だよなとよく思います」 ⇒ まさにその通りですね。「多様性」を言えば格好良いと思って、他人にそれを強要してきます。多様性を主張する人は、「多様性に寛容な人」以外の人には不寛容です。本当に多様性が必要だと思っているのか疑問です。単に、私のような日本人の中年男性をいじめたいだけではないかとさえ思えてきます。大学の教員募集とかでも、「女性教員募集」って堂々と書いていますよね。あれが、「男性教員募集」だと、多様性がないだの、女性差別だのと騒がれると思うのですが。
結構個人プレーだからではないでしょうか ⇒ まさにその通りです。個人商店の集まりとも言われています。基本的に各人がお客さんに相対してサービスを行います。少し大きな仕事の場合、数人でプロジェクトを進めることもありますが、それに参加するかどうかは個人で決めることができます。したい人が一人もいない仕事は、丁重にお断りします。ほぼやりたくない仕事はやらなくて良いので、その点でもストレスが低いのかも知れません。
大きなチームで何かするとなると、やはり大変ですよね。前の職場がそうでした。リーダーは、日程調整とメンバーの不満を聞くことで追われていました。
今回、コロナで、仕事がしやすくなったという声をよく聞きます。うちの従業員へのアンケートでも過去最高になっていました。顔を付き合わせないので、気を遣うことがないからですかね。
話の流れが『現代思想の教科書』という私の受けた講義で扱った本と近くて理解の補助に大いに助かりました。ありがとうございます。
迷い込んだ一般人です。Eテレ「100分で名著」のディスタンクシオンの回から、You Tube検索で来ました。社会学について無学ですが、数年前に「寝ながら学べる構造主義」を読んで内田先生にはまりました。しかしまさに近年の言動から距離をとっていました。なぜ自分がついていけなくなったのか考えていたところ、この動画で膝を思いっきりうつ事ができました。
ありがとうございます。
自分の腑に落ちないところは何回も聞いています。
@@アーカイブ社会学講義こんな一般人にも、 丁寧なお返事いただけて素直に嬉しいです!
内田先生の件は、私の中では心おけない仲間ができ、後に引けなくなった、ポジショントークに陥ったと勝手に解釈しております。学びに対しては真摯でいることが理想ではありますが…現実社会を生きているのもわかるので、そっとしておくしかないかなとたまにTwitter覗いています。
一つ質問なのですが「ポスト構造主義」というものがいったい何なのか、わからないのですが…
@@アーカイブ社会学講義 うわっ!そうか!「ポストがつく時点で…」なるほど!いや、構造主義で結構完成やんと思ってたので、理解できないのは私の思慮が浅いからか?と考えこんでしまってました。(浅いのは事実ですが)
また、「構造に縛られている、縛られていない」というのは、仏教の「色即是空 空即是色」に通じるものを感じます。うーんもうちょっと考えてみたいです。深く話せ、思考を鍛える事ができる友人がいる先生が羨ましい。絶対私はついていけないだろうけど。
内田先生は大学で運営かに携わるようになり、だんだん政府批判に傾いていったとも推測しています。よきにせよまたその逆であれ、大きな権力に近づき過ぎると何かを失ってしまうのかなと少し怖くなります。
良い読者かどうかはわかりませんが、内田先生の合気道の体験講習の時に、一生懸命指示どおりのつもりで身体を動かしていたら、背後から先生が「出来ているつもりかもしれませんが、できてませんよ」とボソッと言われた悔しさがあるのかもしれません(笑)あの時絶対ニヤッとしてたぞ先生!
次の講義も楽しみにしています!このコロナの状況だからこそ巡りあえたと思うのは少々不謹慎ですよね。
あと酷い装丁というのが気になってAmazonでポチッとしちゃいました(笑)
朝勉させていただきました。社会人学生でただいま卒論にむけて思考整理している最中です。ありがとうございました😊
人間全員が同じOS積んでるって表現めちゃくちゃわかりやすいですね。パンチライン。
サルトルとカミュの論争でサルトルが勝った、
というのがカミュ好きの私には腑に落ちません(苦笑)
カミュについて、いつか掘り下げていただけると嬉しいです。
いつも楽しくて分かりやすい講義を有り難うございます。
興味はあるのに難し過ぎてなかなか入れないでいた世界に、やっと踏み込めた気持ちでいます。
コメント、ありがとうございます。
僕もカミュ好きなので、勝ち負けについてはあんまり信用していません(笑)。
そもそもカミュは論争の勝ち負けという基準自体から降りていたんじゃないか、という気がするので。
カミュの言っていた暴力の否定とは、物理的暴力だけではなく、他人に対する価値観の押し付けを指しているように思います。
そういう意味でもカミュは現代人が読むべき小説家(思想家)であるとも言えるかもしれませんね!
カミュをちゃんと扱うためには僕自身、結構学びなおさないといけないところがあるので、「いつか」という感じななってしまいますが、これに懲りず今後も楽しんで頂ければ幸いです。
@@アーカイブ社会学講義
カミュが論争の勝ち負けから降りていた、
というご指摘、非常に納得です。
私自身もきちんと読み直し学び直しをしようと思います。
今後とも是非動画のアップ、
継続していただければ幸いです。
こんにちは。2年ほど前に第17回までは視聴していましたが、就職活動などで離れておりました。私は社会学部の4年生で、今年の3月で卒業予定です。復習もかねて再度続きを見てみようと思い、授業の感想をコメントさせていただきます。
構造主義的な考え方ができると、他者とのコミュニケーションも円滑に進むと感じました。例えば就職活動の面接で自分の大学の話をするときに「この言葉は私の大学でしか意味が通じないから説明が必要だな」と考え説明を追加したりするといった具合です。合わせて方言なども当てはまると感じます。私の地元、静岡県では洗濯物を取り込むことを「よせる」と言います。一般的に「よせる」と聞くと「(端に)よせる」という意味と解釈するのではないでしょうか。出身の違う友人や恋人に「雨が降ってきたから洗濯物を『よせて』おいて」と頼むと、服は部屋に取り込まれることはなく物干し竿の端によせられ、服が濡れていました。ある地域では伝わるものの、ほかの地域では通用しないということが上京した時のカルチャーショックでした。
今私が行っている新入社員研修の電話対応の方法には「方言や若者言葉は避け、一般的な言葉や言い回しを使いましょう」と書かれています。この講義を受けた後だと「一般的」とは何だと感じます(笑)。今でいう若者言葉も年月が経てば若者言葉ではなくなるし、「一般的」になっているかもしれません。
今いる社会は当たり前ではないというのはコロナ禍でもつくづく感じました。コロナ禍での常識の変化が社会ではいかにもマイナスなようにとらえられていますが、プラスのこともあったと思います。ありきたりですがコロナ禍からも学んでいく姿勢が重要だと感じます。系譜学的歴史観のように、あくまで一つの道を選んだ結果としての今に至っているわけなので、今が最良かも最悪かも分かりません。しかし、学ぶことによって道のりの選択肢が増えたり選ぶ際の判断基準が感情論だけにならなかったりと少なからず良い方向には向かうような気もします。
最後に虹の見え方の話について、どこにも縛られずに生まれたままの純粋な状態で虹を見たらどのような感覚になるのかは気になりました(笑)。虹をきれいと感じるかもしれないし、ごちゃごちゃして気持ち悪いと感じるかもしれないし、まぶしいと感じるかもしれないし、、、
ただ言語の学習過程でも社会集団に依存するはずなので、仮に頭の中で感じたとしてもそれを言語化するのが不可能になってしまうと思いますが(笑)。
自分たちが民主主義がいいって思うのは民主主義のもとで育ったからだってとこすごいわかります。共学と女子校/男子校双方にどんなメリットがあるか、どちらの方が有効なのかについて考えた時、自分が共学出身だからどうしても共学がいいって結論になりがちだなって思ってた。色々勉強して、女子校/男子校もむしろいいんじゃないかって最近思うようになったけど。
コメント、ありがとうございます。
そうですね。民主主義みたいな大きな話だけではなく、共学なんかの日常的なところでも、僕たちは自分の経験や生まれた場所の文化に影響を受けてるんですよね。
そんな風に自分の日常に落とし込んで理解してもらえると、とてもやりがいがあります。
どうもありがとうございました。
単純接触効果、ザイアンスの法則ですね。俺は思想をよく味覚に例えます。誰でもおふくろの味が最高、母国の味が最高、でもそれを「世界の万人にとって絶対的論理的に最高」とみんな勘違いしてしまう。
5:43ソシュール
17:30フーコー
33:05レヴィストロース
42:00レヴィストロース🆚サルトル
58:00まとめ
You Tube動画に出逢い、順に拝聴させていただいています。
お話の軽やかさも好きですし、深いお話なのにとても解りやすくてありがたいです。
これまでの人生で私が感じて考えてきたことに照らし合わせながら、深い理解と納得をしてとても感激しています❤
心の癒しとケアの活動をするなかで、人の心の在り方について長年探求してきました。
人々の悩みはなぜなくならないのか?と素朴に疑問を持ち、長年かけて探求してきたところ、その人の自身の悩みではなくて、社会構造の縛りや囚われや執着と恐れなどに支配された信念みたいな考え方にあると気づいたときには非常に大きな衝撃を覚えました。
そのことに気づけた事によって人生は拡がり心が自由になりました。
私は精神的、スピリチュアル的、人間的な領域からこの分野を観てきましたが、社会構造学という視点の存在にとても興味を抱くことができました。
貴重な講演を無料公開してくださりありがとうございます❤
先生のおしゃべりがとても軽快で楽しくて、何度も聞いて学ばせていただきたいと思います❤
同じ大阪在住です。
もしも、一般公開授業や公演などがあるのでしたら拝聴したいです😊
配信に心より感謝しています💖
最近このチャンネルを発見し、大変興味深く拝聴しております。ありがとうございます。
サルトルが晩年に抱えてしまった「実存は本質に先立つ」と「マルクス史観(あるいは決定論的歴史観)」の矛盾について個人的な仮説があります。それはサルトル自身が自らの存在を「歴史的に自明なもの」としないための行動だったのではないか、というものです。
哲学的思想の盛衰はその時代を少なからず反映すると思いますが、哲学の歴史を考えていくと近代科学並びに近代的知性が登場したことで必然的に実存主義哲学が現れるように思え、そこで敢えて自己矛盾することで自身の哲学が持つ歴史的自明性から意識的に逃れようとしたのではないか、なんて思えたりします。(他者から規定されたくないがためにノーベル賞を辞退したぐらいの大の「規定嫌い」ですし)
なんの資料にも基づいておらず、また関連する研究なども調べてない勝手な投稿ですが、宜しければ先生のご意見伺いたいです。
面白いコメント、ありがとうございます。
勝手でもなんでも面白ければ勝ちです(笑)。
僕もサルトルやら哲学やらにはそんなに造詣が深くないのですが、その説が本当だったら、サルトルはメチャクチャ頭いいですね。
ただ、僕はなんとなく、彼はそこを矛盾として認識していなかったんじゃないかと思います。
「実存は本質に先立つ」という言葉の本質は無神論ですよね。
本質というのは人間が作ったもの、あるいは作っていくものであって神に決められたものではない、と。
で、マルクス史観は実は神を廃した代わりに絶対的な基準としてマルクス主義的歴史法則を引き入れたものと理解できます。
だから堀中さんはこれを「矛盾」と感じられたのだと思います。
ここで問題は、神とマルクス主義を同列に考えるような発想があったかなかったかでしょう。
あくまで推測ですが、この時代、
「神に本質を決められたのではないから、人間は自由だ!」というのが思想だとすると、
「人間社会にはこんな感じで発展していく法則がある!」というテーゼはあくまで科学として認識されていたんじゃないでしょうか。
で、そこの矛盾に気付いていなかったから、レヴィ=ストロースにボコボコにやられちゃったんじゃないかと・・・。
その意味で、この論争は科学も1つの信仰に過ぎないということを浮き彫りにしたとも言えますね。
・・・とはいえ堀中さんの説も魅力的ですね。
論破王サルトルが自ら敗北することで何かを表現しようとしたのだとすると、ちょっと好きになってしまいそうです(笑)。
また哲学の専門の先生にでも聞いておきますね。
面白い仮説をありがとうございました。
早速のご返信ありがとうございます
この時代の人々が如何に運命というものを必要としていたか、ひしひしと感じます(今も大して変わっていないかもしれませんが)
また何か新しいことが分かればご教示頂きたいです、よろしくお願いします
嬉しい。
58:43 香港で失職し、大嫌いだった中共の大陸に転職しそうになり上海や深圳の生活を見に行ったら日本より懐が広いなかなか幸福な世界でぶったまげました。人間て本当に構造に囚われてるなあ。
しっかり勉強します!
構造主義、理解したい
内田樹は世代が同じで嫌いではなく好きなタイプの思考者ですが、最も好きだったのはイラストにも衝撃だった😅橋本治でした。当時は、哲学的思考に憧れて志向した時代であり、東大が炎上し現役では京大が一番の受験時期で、已む無く二期校進んだ自分でした。我々の時代は、哲学系は、大学生であればかじって居なければバカにされる、と言う強迫感覚がありました。世間も、大学生をそれなりに認めてくれる時代でしたし自分もそれに応えようと思考した時代気分もあった様に感じます。
40代から、数字的ノルマ達成の世間の流れに合わなくなり後方部門の事務企画系の部署になり、哲学系思考の企画事務役割が適していたのか、また、紙ベースからデータベース変換時期だったことからも、哲学的思考である疑問力、がとても役に立って今でも相当な自信の基礎になったと思っています。そこらの一人の市井の老人ですが能楽とボクササイズをやりながら、学び続ける事と教養の幅を広げる事が人生における選択を都度行う上で、良い結果に繋がる場合が多い、という経験が後期高齢年代の今の時点ではそう思っています。哲学的疑問力は、いつも時代でも最強であり、流れ行く時代の欲望の中で、棹させて思い止まらせる自分の立つ位置を決断してくれるツールだと感じています。
哲学は、ギリシャ哲学から現代思想と言われる構造主義からポスト構造主義で60代まで自分なりに学んできましたが、今の自分の中の基本は、ヘーゲルとマルクスとドゥルーズ-ガタリが大きく占めていますが、自分の頭で考える、と云うことを示してくれた人は、池田晶子と永井均であり、ニーチェや西田幾多郎でしたし、兎に角、仏教系哲学等々も読みましたが、今は、関係学と云う社会環境から、東洋思想の仏教系哲学が日本人の歴史的環境や地政学的人的資質として合致しているし、西洋的思考とは相容れない歴史資質感覚があるのではと思っています。
そうなんだよなああ。喋るのも説明するのも上手くなりたいけど結局言葉にしたときに抜け落ちてしまう意味が無くせないからなあ
おっしゃるとおり、言葉を使うことは自分のナマの感覚を概念の中に閉じ込めることだと言えるでしょう。
その意味で、言葉というのは「必要悪」のような存在なのかもしれませんね。
人類学や民俗学を勉強したことはありませんが、西洋からのみ見た視点だと感じます。
まさにその通りだと思います。
というか、西洋人が「あれ?俺たちって西洋からしか見てなくね?」と気づきはじめた頃の学問ですよね(笑)
話が少しそれますが、昨年末にオンラインで美術史を勉強しましたが(講師は日本人)、アフリカや中東も美術があるはずなのにスルーでした。彼は現代美術が西洋美術から影響を受けてるから、そしてそれ以外は系統されてないからといってました。僕は単に西洋以外の情報が不足してたり見る気がないんだと思いますが。
この動画で言えばレヴィストロースは西洋中心主義良くないって行ったのに対し、日本世間はその西洋を叩くばかりで、自らも中心になりたがり結局は後進国を見下してる点では同じですね。実際コメ欄にそういう人がいたので存分に叩きました。先生にはコメ欄荒らすなケンカすんなって思われそうだけど、後進国を見下す人が一人いれば他国在住日系人一人の命が危うくなるんです。こういうコメ欄って他国の異言語母語話者も結構見てて日本人の本音はバレてるし、日本社会同士で民族主義思想高ぶらせてたらそのエゴがあちこちで無意識に吹き出し敵を増やします。
俺も学生として勉強した事は無いけど趣味としては大学生くらいの本は読んだと思います。自説としてはもし西洋が自己中視点を持たなくても、代わりの集団が同じ事しただけです。オスマンとかムガールとか中国とかですね。アステカですら周辺国に対してドヤってた。そういう意味で西洋は絶対悪なんかじゃない。
自論ですが人も集団も8割が悪です。根拠はパレートの法則とかユダヤの法則とかロサダの法則。西洋は1000の力のうち800で世界支配したけど、搾取で集めた富を資本に産業革命起こして200は世界に還元した。日本は100の力しかなかったから植民地人を80の力でしか虐められなかった。そして日本人はおそらくあなたを含めて日本がした20の良い事と西洋がした800の悪い事を比較して内集団バイアスを滾らせてる。根拠はもしそう考えてたらあなたはおもむろに西洋批判してないからです。西洋が悪いのではなくて強かったから有名税として叩かれてるだけ。では日本に虐められた東アジア弱小国は一方的な被害者か? 10の力しか無かった台湾は日本に虐められたけどその台湾の中でも漢民族は8の力で原住民を虐めてた。では原住民は一方的被害者かとなると、やっぱり部族間戦争を何百年か何千年も続けてて、強い部族は0.8の力で更なる弱い部族を絶滅させた事を武勇伝にしかしてない。自分たちが今も台湾中央政府とか中国とかから虐められたり圧力かけられてる事に対しては憤るけど、自分たちの先祖が他部族を滅ぼした事は良い事としか思ってない。そのエゴの本質は原住民も日本人も西洋人もみんな同じです。
そして日本社会には「西洋視点も悪だけど日本視点も悪だから辞めよう」ってレヴィストロースが生まれたでしょうか? ちょっとでもそんな事言う奴は反日家とか工作員とか言ってフルボッコにされてますよね。あなたもその美術教師を叩く理由が単に日本人としてのナショナリズム感情から西洋偏重したかったのか、或いは日本人教師自身が「学問の中心に西洋を据えるのが日本人アイデンティティとして妥当だ」という部分も含んでるのか、或いは後者のウェイトの方が大きいのか、それによって意味が変わります。俺に言わせれば西洋だうが日本だろうがアフリカだろうがどいつもこいつもエゴの塊でうざいし、でもそのエゴの偏りを無くすことも自然界の掟に反する、要は自身の考えと感情は相対的でしかないと自覚出来てれば良いんです。五輪でもW杯でも高校野球でもみんな地元とか自国を無条件に応援する様が俺は大嫌いだし、日本のテレビが日本選手を贔屓する番組もあっても良いけど、それと同時に全ての国の選手を満遍なく扱う番組もあるべきだと思ってます。日本人選手に密着した30分番組を作るなら100か国の選手一人ずつにも同じ事するべき。それをしないとどうなるか? ナショナリズム感情や民族主義熱が一方的に高まり続けて「白人は極悪だ」「特亜は敵だ」「後進国を日本の力で開放しろ」って最悪な過ちをまた繰り返す事になります。鎖国しっ放しで世界の現実見ようとしないから開国した時にはもう遅くて90年足掻いても原爆落とされた、その足掻きの犠牲者も近隣国で大勢出した。ロシアがウクライナを開放しようとしてるのも、中国が台湾を開放しようとしてるのも、大日本帝国が東アジアを白人から解放しようとしたのも全部同じです。なのにみんな自国だけは違うと思い込んでる。それを想像しただけでも吐き気がします。特に日本は民族も言語も思想もほとんど一つしかないから国民は個人と国家を一心同体みたいに混同しやすいんです。あなたのコメにもそれを感じる。各集団の公平さを求めてるというより西洋を叩く事で日本を相対的に高めたい、日本を肯定する事でそこに投影してる個人エコを肯定したい。
俺だったらまず「じゃあ日本は日本中心の哲学なり世界観を持たなかったのか? 立派に同じ事してたよねー」ってなって書くまでも無く終了なので、いきなり「西洋中心だな」なんて言いません。西洋中心なのを純粋に批判したかったらじゃあ西洋以外の地域ではそれら思想を超えるものは出てこなかったのかって自分から探せば良いし、見つからないなら存在しないんだから仕方ないってなる。西洋思想が50点だとしても、インドもイスラムも中国も日本もそれ以下で30点とか10点ならじゃあとりあえず仕方ないよなってなる。仮にあなたが後進国の立場から西洋だけでなく日本をも批判してたら俺はそれなりに支持しましたよ。後進国ばかりに肩入れしててもそれも偏りなので完全同意はしないけど。
ストラマーとカミュが似ているという新鮮な驚き
ソシュールの「色が先にあって言葉が後にできたわけではない」「言葉に当てはめて人は世界を見てる」っていうのが中々理解できないです。
例えばペットの犬を飼った時にポチっていう名前をつけたとする。それは犬が先にあってポチという言葉が後で当てはめられてる。でもそのあとポチは大きくなったり、細胞も入れ替わったり、毛並みや性格も変わったりと成長するにつれて別人になっていくけど、それでも最初に決めた「ポチ」としてその犬を認識している。つまり最初は犬がいて、ポチという言葉を後から当てはめたんだけど、そのポチという言葉が後で一人歩きして、成長して別人になった犬にも、同じポチという言葉を当てはめてその犬を今までと同じポチとして認識してしまってるって感じですかね?その段階になると確かに言葉が先に来て、その言葉に当てはめて犬を認識するけど、一番最初は犬が先で言葉が後なんじゃないかな?
あとポチって名前を当てはめて認識してるとはいえ犬が成長してる事はちゃんとわかるのとおなじように、虹も2色しか見えない国の人は、2色しか見えない訳ではなく、寒色と暖色に分けて抽象化して2色と表現してるだけで、ちゃんと個々の色も認識できてるんじゃないかとおもうような?じゃないと色の言葉をまだ何も知らない子供は見えてる世界に色がないって事になる。それかそういう事じゃなくて記号を先に知ってしまうと、その記号で解釈しようとして、モノ自体を見ようともしなくなる事があるよねって事なのかな
コメント、ありがとうございます。
良い質問ですね。
ミュディさんが混乱したのはおそらく、実例として固有名詞を考えてしまったからだと思います。
固有名詞については、ソシュール自身、別物として論じています。
この点について考える際には2つ目のコメントでミュディさんがおっしゃっていることが重要になりますので、そっちから片づけていきましょう。
まず、おっしゃっている通り、人間の目の物理的な機能として、色弱などでないかぎり、どんな文化の人でも赤ん坊でも、色が僕らと同じように目にうつっているのは確かです。
ただ、重要なのはミュディさんの指摘しておられる以下のポイントです。
「寒色と暖色に分けて抽象化して2色と表現してるだけで・・・」
そう、この抽象化という作業こそが重要で、あらゆる一般名詞というのは抽象化によって生まれてきたものだと言えます。
言い換えれば、「○○という性質を持ったものを全て××と呼ぼう」という約束こそが一般名詞を生んでいるんですね。
その結果、2つめのコメントの後半に書いてあるように、「その記号で解釈しようとして、モノ自体を見ようともしなくなる」わけです。
したがって、赤ん坊は色がない世界に生きているのではなく、正確には「色」という概念がない世界に生きていると言った方が正しいでしょう。
そういう意味では、赤ん坊は言語に縛られている私たちよりも世界はもっと複雑、かつ豊かに見えているのかもしれません。
以上を踏まえて1つめの固有名詞の話を考えてみましょう。
「ポチ」という名前には先に述べた抽象化のプロセスがありません。
「〇〇という性質をもったものを全てポチ」と呼ぼうという約束があるわけではなく、この個体そのものをポチと呼ぶわけです。
だから見方によっては「これ」とか「あれ」に近く、そのものを指し示す意味しかないわけです。
ここが固有名詞と一般名詞の違いです。
それゆえに、ポチは先にその個体がいて、名前をつけているという説明になるわけです。
ソシュールは固有名詞を「シニフィエなきシニフィアン」と呼んでいます。
日本語にするとちょっとズレてしまうかもしれませんが、大まかに言うと、「概念なき記号」とか「空虚な記号」とでも表現できるかもしれません。
抽象化されると概念が生まれますが、その概念という中身がない名詞ということですね。
ただ、後半でミュディさんがおっしゃっているお話は面白くて、この空虚なところに段々意味が込められていく可能性についてはソシュールも示唆しています。
ポチが賢い犬だとすると、しばらく姿が見えなくても「ポチやったら賢いから帰って来るやろ」とか言う風に、段々「ポチ」に中身が書き込まれていきますよね。
人間だったら「名前がひとり歩きする」みたいな表現もあります。
そういう意味では、名前の中にキャラみたいな意味が書き加えられて行って、周囲はそれにあてはめてその人物を理解するということも次第に起こってくるのかもしれませんね。
どうでしょう?こんな感じで理解してもらえたでしょうか?
固有名詞の話、あとだしみたいな感じになっちゃってすみません。
ミュディさんの考えられたことはとても重要で、自分の周囲の具体的な現象にあてはめて考えたからこそ、その疑問が生まれてきたのだと思います。
もしまた何か分からないことがあったら聞いてくださいね。
ではでは。
@@アーカイブ社会学講義 ご丁寧な説明ありがとうございます!固有名詞と一般名詞を分けて考えるとすごくわかりやすく、理解が進みました。また先生もおっしゃられてるよう固有名詞の中にも意味が込められる事が確かにあるなと感じました。ポチの例でいうと本当はポチはウーパールーパーだったとしても多くの日本人は犬で柴犬でオスの動物を意味してると捉えてしまう気がします。(これはもはや固有名詞から一般名詞に移り変わってるだけ?)他の動画も見ていろいろ勉強させてもらいます
6:05 この図は俺が大嫌いなやつです。とある学者(誰の何に関する本か忘れた)がこの話を著書にたった1ページでさらっと書き(以前調べた時ページ検索できた)、それを10年くらい前にテレビ番組が取り上げ、ネット民がそれを一斉に広め、まるでそれが常識であるかのように日本の隅々に浸透し、ウェザーニュースもそれを6年くらい前に無意識に取り上げ、以後同社の提供する気象地象の割合が日本メディアの中で増え続けたために検索結果としても上位にくるのです。
俺がなぜこの図が嫌いか?
・著者が説明不足。例えばこの図だけだと「そうか台湾人は3色にしか見えないんだ(あいつら目と頭が悪いんだろうな)」って解釈させてしまう。布農族はその本が書かれた当時の人口5万人、台湾人口は2300万人で、台湾人の0.2%にしかなりません。まずそこが書かれてなかった。もしそれを書いていたら読者は次に「じゃあ残り99.8%の人は何色に見えてるの?」って気になりますよね。当然それも書いてない。この図は俺が2017年当時不感慨した図なのですが、今試しに調べたら案の定知恵袋とかで「台湾は3色ってホント?」みたいな質問があり、回答は「そうみたいよ」「は? そんなの聞いた事ないぞ」とものすごく低レベルなやりとりをしています。「聞いた事ないぞ決めつけんな」と言いたいのは分かるけどだったら本当はどうなのか反論しなきゃいけない、現地語で検索すりゃ現地社会の思想傾向なんか簡単に分かりますよね。現地語が分からなかったらグーグル翻訳使うなり、現地のポータルサイト検索エンジンで英語でも使って調べて見りゃ良い。でも誰もその程度の事をしないんです、関心無いから。どうでも良い事は事実を知ろうとしない。それで結局日本社会全体で何の解決も導き出されてなくて、よくわからんけど台湾は3色かもみたいな漠然とした風潮になったまま忘れ去られつつある。
この手の誤解は古今東西にあります。例えば60年前に西部劇が流行った、西部劇のインディアン像は白人に都合良く仕立てられたものだった。頭に羽を生やした酋長がアワワワ言いながら子分を引き連れて白人社会を脅かすステレオタイプですね。実際は羽(ウォーボンネット)は一部の部族しかつけてなかったし、各部族とも基本的に平等社会で上下関係なんか無くて構成員はリーダーの言う事に従う必要なんか無かった。リーダーがいる集団ならそいつを捕まえれば群れ全体を支配できるけど彼らはそうじゃなかった、各個体一人一人を地道に捕まえないと支配出来なかった、だからスペインはメキシコから北上支配する効率が悪くて適当なところで諦めた。アステカはリーダーがいたからラクだったけどアメリカはそうじゃなかった。同様の事は東海岸にイギリスが上陸した時も同じで、リーダー的な人と約束しても同部族構成員はイギリスとの約束守らなくてイギリスは支配に手間取った。いうなれば蚊とかイワシの群れとかと延々戦い続けなきゃいけない状態です。負ける事は有り得ないけど支配も面倒というローリスクローリターン。そしてインディアン社会がそうだと映画のシナリオ的に盛り上がらないからハリウッドはインディアン社会に酋長を設けた。18世紀の独立前のアメリカには既にインディアン社会にはリーダーはいないよって事が理解されてたのに(最初はヨーロッパ自身やアフリカ黒人と同じ権力者を擁する社会形態だと勘違いしてた)、200年くらい経ってまたそのリーダー存在ステレオタイプが復活してしまいました。それはアメリカ国内だけでなく日本など世界各地にも同じように飛び火し、世界がアメリカ白人を肯定しインディアン社会を誤解するというアメリカ白人の目論見通りになり、そしてそれを日本社会も関心無くなって誤解を解かないまま忘れ去りつつあります。
それで終わればまだ良いけど数年前から今度は毎月満月になる度にハーベストムーンとかストロベリームーンとか言って各局天気予報で「アメリカ先住民は昔こう呼んでました」みたいに強引に風情を醸し出そうとします。それら各満月名もアメリカに600くらいあると言われる各部族で違ってて、中にはインディアン人口の1割にもならないマイノリティの呼称がまるでインディアン全体がそう呼んでたみたいに決めつけられ、更にその誤解が浸透してしまったレースもあります。そのなんとかムーンてのも元はやはりアメリカ社会がインディアン文化に対する利用価値を半ば捏造する目的で拾ってきて、アメリカ社会全体に対してインディアンへのステレオタイプを振りまき、それを日本も再び酋長やウォーボンネット同様に真に受けまくっています。日本は60年経っても、こんなにネットやサイトが充実しても、それをろくに駆使しようとしない、意識がろくに発展してないのです。興味があったら英語でさらさらっとググって、実際はそんな単純じゃないよってのを大勢が言って、知らなかった人もふーんそうなんだってなってお約束の「マスコミは相変わらず嘘ばかりだな」って悪態ついて終わらせられる。でも少なくともこの件に関してはそのメディアの嘘に乗せられてる人の方が圧倒的多数で、メディアの嘘を信じてる人が多いなら「日本社会は相変わらずバカばかりだな」って事になります。でも世間はそう言わない。世間にとっては事実なんてどうでも良くてただ自己肯定出来れば良い。メディアを叩く事で自己肯定出来るのならばインディアンとか台湾原住民の実態なんてどうでも良い。インディアンだってメディア関係者だって視聴者だって良い所と悪い所を持つ並列関係にある、だから三者がケンカするのは良いんです。でもいざとなったら数の力が強い視聴者がどうしたって勝つし、その数の力にはいくら正しい事を言って逆らっても叩き潰される。「マスコミは嘘ばかり」というのは正しくは「マスコミは俺らの気に入らない話をしてばかり」なだけですよね。嘘でも国民にとって都合良い話だったら国民は抗議しない。正しくても気に入らなければ存分に叩きまくる。国民自身はそれを自覚していない。犠牲者がマスコミだけならまだしも他国原住民という犠牲を生み出している。もしこれをここまで読んだ人がいたら、嫌悪感を持つのは日本のマスコミとアメリか白人社会と俺に対してであって、布農族やインディアンには持たないでしょう。日本マスコミは世間にとって元々対立的な存在である、白人も日本の内集団バイアスやナショナリズム感情の敵である、俺は長文という習慣ガン無視してる上に世間(かなりの確率であなたの事です)を叩いてる。インディアンは日本にとって知白人という同じ敵を持つ論理で遠交近攻的に漠然と肯定したい、白人を叩く道具にしたい、日本はインディアンからろくに被害受けた事が無い、日本は台湾にも親日イメージ持ってるしブヌン族が何なのかも知らないしで恨む理由が無い、日本世間が他国社会に対して最も気がかりなのは親日か反日かで、台湾という国自体が親日ならブヌン族だって親日だろみたいな事しか考えないで終わりでしょう。実際には日本時代に彼らは日本軍によって虐殺されまくりました。布農族は山奥に住んでて低地平地海岸にはろくに接点が無かったために閉鎖的な社会で、それまで中国とか欧米とかとも接触した事が無く、初めて全支族が支配される勢力が日本だったんです。彼らは台湾原住民の中でも最後まで日本支配に頑強に抵抗し、日本もそれを口実にいたぶりまくりました。日本統治時代が50年あって2世代くらいに渡って洗脳同化を受けたので今の彼らは確かに日本を好きか嫌いか二択で言えば好きだけど、好きが6~7割で恨みが3~4割くらい、その好悪の感情は相殺されません。抜群に美味いけど毎回必ずゴキブリ出るんだよなって店に対する感情は割り切れる事がありません。夫婦でも長続きする秘訣は長所短所のトータルではなく極端に嫌いな部分が無い事です。性格良いし金もよく稼ぐし気も利くけどあの笑い方だけは絶対無理って所があったらうまくいきません。年収1億あったって家事が完璧だってその致命的に嫌いな部分は相殺されません。他国を親日か反日かでしか判断しようとしない人たちはその事を理解してません。自分たちだってアメリカに対して好きか嫌いかどっちかだけの感情を持てって言われてもそんなの無理って言うであろう癖にです。ともかく日本世間はブヌン族が何なのかどうだって良い、「3つにしか見えないのか頭悪そうだな」的に自尊心を高める道具にすれば良いだけです。その図はそういうエゴ感情やナショナリズム感情を促進する図になっちゃってるんです。
ウェザーニュースもこの虹の色に限らずインディアンの各月満月名ステレオタイプをもテレビの天気予報番組に毎月のように話してますが、同社の中には「本当は部族ごとに呼称が違うよ、日本だって他国から春には全国的に清明節をして冬には雪まつりして親が死ねば骨噛みするよって決めつけられたら嫌ですよね」って事を知ってる人もいます。でも日本世間はそこまで求めてないので、それをいくら言って世間の誤解を解こうとしてもどうせ聞く耳持ってくれない、それで言うの辞めた人もいるんです。大手メディアとしては民意には逆らえない、極端な事にしてると政治思想持ってる面倒な奴みたいに思われてクビになる。日本社会にとっては他国社会に必要以上の関心持つ事が悪なんです。自分たちは他国から細部を理解されたいだろうにですよ。
人も集団もエゴを持ちます。性善説とか性悪説とか言うけど俺は8割悪だと思います。利他行動は2割しかしない。自分の事は8割知って欲しい、相手の事は2割知れば十分。でもみんなその自覚が出来てなくて自他に対する五分五分の理解が出来てると思い込んでる。それ自体がエゴ問題の根深さなんです。エゴ割合がそれより大きすぎる奴は敵を作りまくり、小さすぎる奴は金品を他人にあげすぎたり鬱になったりで心身維持できなくて、どっちも絶滅してます。これは人間に近い動物なら他の種でも同じ。社会学には心理学統計学だけでなく倫理学と生物学も絡んできます。アリやハチのような社会性も強く兄弟姉妹間で遺伝子が似通う種だと集団のためなら天敵に対して簡単に自爆攻撃もする。人間やサルならだいたい逃げて他人を見捨てる。生物学ではやはりそれを主に自他間での遺伝子の一致割合の多寡に理由づける傾向があります。人間には人間社会なりの倫理感があるので無理に他人や他集団を助けたり理解しなくてもいい、ならば自分も理解されたり助けられる事を望んではいけない、それが分かっていれば何の問題もないけど、大概分かってないから問題なんです。
・漸く二項目になりますが、テレビとネット上サイトが酷い。まず虹の話が書かれた本をテレビが取り上げるなら、視聴者に各集団に誤解させないように「布農族は台湾人の0.2%しか占めてなくて、子供は国としては一応学校で7色って教えられてるよ、布農族以外の2300万人はまず7色って思ってるよ、でも布農族はその事で殊更異端視されてる訳でもないよ」くらいの話をすべきでした。いちいち全ての国についてそこまで説明しなくていいけど、一つ二つくらいはそう話すべきなんです。理由は倫理観の黄金律。日本が他国集団に対してぞんざいな扱いをするなら日本もそれをされても文句言えないから。
テレビ業界ってすごく正義感と責任感の強い人もいれば、どうやって視聴者を騙すかしか考えてなくて、もはや騙してる感覚すら持ってないか、騙す事が快感でたまらない人まで幅広いです。誰でも自分が右と言ったら一千万人が右向くのを何度か経験したらその権力の虜になっちゃいますよ。業界人には下手な独裁者よりも支配欲の麻薬的要素があるんです。独裁者は責任とらなきゃいけないし常にある程度は非難されるけど、この手の無難そうな教養話をする分には国民は誰もろくに疑わない。2×3=7ですよって言ったら国民はこの権力者嘘つきだって叩きまくる。24325×9425=325235625ですよって言ったら国民はいちいち正解を確認してそれは嘘だと叩くのも面倒なので無関心になる。434×63=27432くらいのウソだと国民は「ふーんそうなんだ勉強になった」って真に受ける、「それ違うよ」って極一部の人が抗議しても誰もどっちが正しいかなんて確認するの面倒だから「まあまあここはケンカせずテレビの言う事でいいんじゃないですか」みたいに、自分がテレビの話を真に受けてるスタンスから遠回しに自己肯定して終わり。正解を主張する人がうざい奴と叩かれるだけ。そして翌週にはまた同じレベルの事を繰り返す。ヘーゲル曰く、歴史を勉強して分かった事は人は歴史から何も学ばない事。この虹色図こそがその典型例なんです。著者もテレビもウェザーニュースも視聴者も全員が悪い。だから誰一人間違いに気づけない。その誤解のツケはいつか他国との戦争とかの形でやってくるんです。
もし俺がこの授業に出ていたらここまで書いた事そのままレポートとして提出してました。レポート課題として指定された内容でなくてもです。ここまで書いた事もほとんど社会学分野の話には違いませんよね。「先生言いたい事は分かるけど題材としてちょっと相応しくないですよ、これを扱うならメディア論なり社会心理論なり倫理の問題として使うべきであって、構造主義には次から使わないでください、でないと先生もデマを広める側になりかねませんよ」って言ってました。もし聞き入れられないようだったら先生の授業自体を、ここで書いた事を余所でテーマにして語ります。その方が先生自身にとっても困る筈。俺は闇雲に誰かを非難したいんじゃない、誤解に気付いて改めて欲しいだけです。そして俺だって気付いてない誤解が無数にある筈です。誤解を無くしたいのはやまやまだけどものによっては頭が悪いせいで無くせない事もある。でもインディアンと布農族の話は中高生くらいの頭があればだけでも無くせますよね。それでもだめなら頭の問題というより心の問題、右翼か左翼かの問題です。何がなんでも日本肯定しなきゃ許せない人と、世界と仲良くしようって人での意見は一致し得ない。そのテーマだけでも一時間の授業になるでしょう。この虹の図一つで何日でも授業できます。先生として一方的に語るだけだと往々にして自身の考えを押し付けてるだけになる、不満を持った学生は先生をネットで叩いたり学校自体を叩いたりする。それはそれでまた新たな社会学のネタになります。或いは先生は自論を述べずに学生同士で議論させてもいい、かなりの確率で右翼か左翼かのケンカになるでしょう。そうしたら今度は「はい皆さん集団極性化実験につきあってくれてありがとうございましたー、だから社会学って必要だよねー」ってメタ発言して手玉にとって見せれば良い。マイケルサンデルの東北大の東日本大震災に関する授業動画見ると彼は聴衆を焚きつけるのすごく上手いですよ。最初に参加者の一人が「我々日本人は引っ込み思案だからアメリカほど盛り上がる議論にならない」って言ったのを、彼は参加者一人一人を都度指名して反論させあって、最後には怒鳴る奴まで出て来ててアメリカでの授業よりも感情的にさせてました。焚きつけるのが上手いってのは扇動が美味いという悪い意味ではなく、人や社会の心を良く理解してるって事です。
@@meroppa1 @meroppa1 ご指摘、ありがとうございます。
そんなに問題になっていたんですね。
とりあえず、概要欄に注意を載せておきました。
他のいくつかのコメントを見た上で、僕からのコメントを返しておきます。meroppaさんは論理的で教養もあり、かつ正義感も強い人のようですね。
偶然見ただけの動画やコメントにこれほど長文の投稿をしてくるのは、そのいずれが欠けていても不可能なことだろうと思います。
ただ、meroppaさんの投稿に共感や反省もしつつ、違和感を覚えたところもあり、自分なりにそれはなんなのか?と考えてみました。
といっても正直、最初はその違和感を覚えたポイントがどこかすら、分からなかったので、あくまで自分なりに考えてみた感想みたいなものとして読んでいただければと思います。
結論から言うと、meroppaさんの投稿に僕が感じた違和感の正体はひょっとしたら人間や社会に対する根本的な信頼感や感情の違いなのかなと思います。
meroppaさんの投稿から僕が感じたのは人間や社会の愚かさに対する嫌悪、あるいは憎しみに近い感情です。
これは正義感とも密接に関連したものだと思います。
一方、僕は自分を含む人間や社会の愚かさを時に慨嘆することはあれど、おおむね面白いものとして、そのあり方を愛しています。
「ああ、人間ってしゃーない生き物やな」と思いながらも嫌いになれないのです。
これはどちらが悪いかとかではなく、これまで生きてきた経歴や周囲の環境によるところが大きいのだと思います。
僕はmeroppaさんのことを全く知らないので、ひょっとしたら人生の中で色々な形で裏切られたり、差別されたりしてきたのかもしれませんし、僕みたいな感覚でいると生きていけないような環境にいた、何らかの当事者の方なのかもしれません。
だから僕から何か間違い等を指摘するといったことはありません。
ただ、もしかしたら、meroppaさんの役に立つかもしれない助言があるとすれば、もう少しだけ、自分を愛してみてもいいのではないでしょうか。
どういうことか、説明してみますね。
meroppaさんのおっしゃった「(人や社会の)8割悪」という言葉の意味を僕は「ダメなやつと良いやつがいる」とは考えず、「すべての人間が8割ダメな部分を持っていて2割良いところがある」という風に考えます。
一方、社会の多くの部分に憤りを感じているmeroppaさんはどちらかというと前者の方で考えてらっしゃるのではないかと思います。
もちろん、文章を読んでいる限り、meroppaさんはきちんとものを考えている人だと思うので、きっと自分がその8割に入ってしまう時もあることを反省的に考え、そうならないように自身の正義感に従って生きてらっしゃるのだと思います。
そうした努力は尊いものですが、とてもしんどいだろうなと思うんです。
いつも自分を反省し、正しくあるために時に自分を否定しなければならなかったり、人や社会とうまくいかなかったり・・・。
つまり、僕が自分を愛してみては?と言うのは、自分のダメな部分も愛してくださいという意味です。
それができると、今までと同じように正しいことを主張する際にも、きっともう少しだけ違う、そしてより相手に響く話し方になり、結果的にmeroppaさんの主張も相手に届くと思うのです。
なぜなら、自分のダメな部分と同時に相手のダメな部分も愛しながら諭すことができるのですから。
とはいえ、この程度のことはとっくに考えておられるかもしれず、僕から聞かされるほどのことはなかったのかもしれません。
meroppaさんの正義感や知性が人の役に立ち、かつ、あなた自身の幸せに役立つことをお祈りしております。
37:00 原著の仏語は分かりませんが、演技=role playingと言うことであれば、「本気でRPGのキャラクターとして他者と関係する」と言えば日本語でも概念が通じますね。
虹の話はちょっと、、目の色が違うと見える色は違います。色素の少ない青や緑の目は黒や茶色よりも光が入りすぎて、色を識別できる数は減ります。
気候で性格は変わると思いますが、目の色だけでなく、食べ物に困ら無い気候の民俗はおおらかな性格な方が多い様で数字を数えても1、2、3、たくさん!!みたいな感じで色の識別もおおよそで水色も青と同じくくりで考えるような民族性になる部分もあるようですし、、
興味深いコメント、ありがとうございます。
目の色で見える色が違うというのは知らなかったです。
博学ですね!
その上で、僕はあの例はやはり適切であろうと考えます。
Sakamotoさんのご指摘のうち、前半部分と後半部分は少し性質の違うお話なので、わけてご説明しますね。
まず、前半のご指摘は次のようにまとめられると思います。
「身体的特徴によって見えているものが現実に違うのだから、見えたとおりに表現しているにすぎず、言語によって対象の認識の切り分けが違うことの例として不適切である。」
まず端的な事実関係として、あくまでネット情報ですが、Sakamotoさんと逆のことを言っている人もいるみたいです。
要は「青の方が見分ける能力が高い」派もいるようなんです。
ただ、どっちが本当であるにしても、虹の色の数と矛盾が生まれます。
仮にSakamotoさんのおっしゃるとおり、「青い目のほうが色を見分けにくい」とすれば、
おそらく黒い瞳のはずのアジアの民族が2色で、青い目の方がもっと色の種類が多いのは不自然です。
一方、それと逆の「青のほうが見分ける能力が高い」とすれば、アメリカやドイツに比べて日本の方が色の識別が多いという事実はおかしいです。
ここから分かるのは、「生理的にどのように(そしてどの程度)見え方が違うにしても、身体的特徴によって言語的に区分される色の数が規定されているわけではない」ということです。
後半部分はむしろ今回の動画のお話と同じ方向のことをおっしゃっているように思います。
生活習慣や文化、民族性によって色の識別が規定されるというのは、まさに言語によって見えるものが違うということの根本原因です。
言語は生活習慣や文化をひっくるめた民族性と言われるものの結晶ですし、その表れであるとも言えます。
つまり、後半のご指摘はまさに今回の動画の「言語」という話をさらに掘り下げるようなお話だということです。
ちょっと面白いのでここからは僕なりにSakamotoさんのお話を展開してみます。
おっしゃるとおり、人は共同体の暮らす場所をはじめとする様々な環境に応じてものを認識し、言語を生み出します。
最初はきっと自然発生的に「あれは〇〇と呼ぼう」みたいな「とりきめ」として言語は生まれてきのだと思います。
ところが、やがてそれが確立していくと「とりきめ」だったことは忘れられ、どこかで転倒が起こるのだと思います。
「あれは〇〇と呼ぼう」という「とりきめ」にすぎなかったはずが、「〇〇がある」という風に〇〇という単語の方が存在のように扱われ始め、それが人間の現実認識を縛っていくのです。
これは、ジンメルの動画で話した「文化の悲劇」とも通じます。
つまり、人は自分の生み出したものによって拘束されるということですね。
Sakamotoさんのご指摘があるまではジンメルの話とこうした言語論をつなげて考えたことはなかったのですが、実は両者は違う角度や対象から同じことを言っていたのかもしれませんね。
面白いご指摘、ありがとうございました。
お返事有難う御座います。
全てを否定して居るわけでは御座いません。ただ、違和感を感じた部分が何となく気になり投稿いたしました。
定義によって前後は違う視点の物とは思うのですが
ただ、
思考も身体的特徴も同じ様に環境によって形成される物だと思っています。人類は移動し分布は大きく変わるのですが、目の色も環境に適応し変化したと思います。南の方はおお
らかなな方が多く感じるたのも環境によって培われた物かと思いますもが複雑に交差して作り上げられる物だとしたら同等に並べて考えたのです。目の色の話ですが、色素が多い方が強い日差しの場所ではサングラスなどなく過ごされる方が多いのではないかと思います。自然光の環境では色を区別する能力は光が入りやすい色素薄い目の方より優れ識別できるのだと思っています。ただ、濃い色素でも暑すぎる環境の方は悪く言うと怠け癖、よく言えばおおらかで身体的特徴よりも思考の方が勝り虹の色もここまでが赤っぽいから赤で、ここからここまでは青でいいんじゃね、みたいな感じになってしまっている様に思います。どちらが先かはわかりませんが、より良い生活環境を求めた集団は向上心も強く良い環境で安定した暮らしは知的好奇心のつよく高め色彩なども たとえ色素の薄い目であろうと注意深く認識する様になっていったのではないでしょうか?私は中間の色の濃い茶の目の色でなお過ごしやすい環境が色彩認識が良いもではないかと思います。先程目が覚めて取り止めもない話書きもまさせて戴きましたが、内容事態否定する意図はない事ご理解ください。そして、とても興味深い内容楽しく拝聴させて戴きました。
そして言語の形成の話、思うところ、また投稿させて戴きます。ありがとうございます♪
あなたは色素がどうのこうのと至って生物学的であり社会学と関係無い話を先生にふっかる一方で、後半は非常に非生物学的な話を臆面もなくしてますね。「食べ物に困らない」ってステレオタイプはこの動画に因めばレヴィストロースに全力でぶん殴られるでしょう。あなたは見たい所だけ見たいようにしか見ていない。知識自慢したいとか自己表現したいのならそのチャンネルは不似合いです。まず自分自身が何を知ってて何を知らないか、相手が何を話してるか、そこのけじめがつけられてない。
寒冷地の陸上にはクマとかアザラシとかがいる、ベルクマンの法則で体はでかいけど個体数が少ない。熱帯の生物の多様性は寒帯の比ではなく動植物が無数にいる。食料が10しかない地域では10人住むし、1000あ地域には1000人住む。いずれもそのキャパに余裕があれば、6人とか700人とかしか居なければ飽和状態まで突き進む、そしてキャパを超えると人数うはそこで一定になる。あぶれた11人目は食料を巡るから削いで殺され12人目は他の土地に居場所を求めて旅立つ。1001人目から1050人目まではホームレスとかテロリストとなって社会に抵抗しては玉砕し、1051人目以降は中絶されたり生まれたその日に間引かれる。
食べ物に困らない集団なんかいねえんだよって事です。むしろ下手な熱帯よりも日本の方が食料生産性が高くて人口キャパが高い。それには
・気候。気温湿度が食料生産に向いてるか。
・カロリー供給効率の高い食料を育てるのに向いてるか。例えば牧畜より農耕の方が効率が良い、人が食えない繊維の固い草を飼料として育てて草食動物に食わせてその肉を人が食うより、人が直接食える果物とか穀物を植えた方がカロリー生産効率が9倍高い。じゃあなんで農耕しない地域があるの? 水が足りないとか寒すぎるとかでそれが無理だからです。ともかく狩猟採取牧畜よりも農耕の方がカロリー生産効率が高いから、可能なら農耕する。
・農耕に向いてても更にその中でカロリー生産効率の高い作物を作るのに向いてるか。インダス以東は稲作に向いてるから大人口を抱えられた。イラン以西は麦にしか向いてなくて麦は米よりも単位収量低いから人口も増えにくい。
・土壌。降水量と気温が適度にあればいいだけじゃなくそれが土壌と愛書が良くなきゃいけない。雨が多すぎたり暑すぎると地表のミネラル分が洗い流されたり熟成しなくて痩せた土地になる。凍土でも当然農業できない。ウクライナのチェルノーゼムや北米のプレーリーが未だに肥沃土壌でいられるのはやや寒くて降水量も少なめで、人類が濃厚開始してからまだその栄養分を採り尽くしてないから。もし水と気温が十分にあったら数千年前からそこに人が殺到して人口爆発してとっくに枯れてる。今のイラクとかエジプトみたいにです。
ボルネオ島は日本の倍の面積があるのに2000万人しか住んで無いのは食料生産環境として不向きだったから。気温は十分だけど雨が多すぎて土壌の栄養が乏しくて島が育てられる人口は低かった。それをあなたは「現地人は食べ物に困らないから陽気なんだ」と言いますか? キナバル山の運び屋なんて自分の体重と同じ重さの荷物を6時間かけて山小屋まで運んでその日のうちに下山を年200回とか苦労してますよ。そこまでして日当4000円とか。食料に困ってなかったらそんな苦労しなくて良いですよね。先に書いた人口飽和状態、ラクして食生活できるキャパを超えたら苦労しなきゃいけないんです。じゃあ超えなきゃ良いんじゃない? とはならない。人々にとって繁殖は三大欲の一つだし、国や権力者としてもキャパ最大限の人口抱えてないと国力を強く維持できなくて他国と戦争して負けます。特に産業革命以前はそう。あなたが王とか酋長だったとして国民に対して「うちの国土は100人までしか食わせられないから101人目は問答無用で殺すね」って言って国民がそれに大人しく従えるでしょうか? 実際そういう掟の部族もたくさんいたけど、これがダンバー数を超えた1億人規模の国だったら? 国民の大部分は国家予算がどうのこうのとか直に把握してないから自分たちに都合悪い話は「どうせ権力視野がウソついてる」って解釈する、命令に従わなかったり革命起こしたりする。で自分が権力者になってみると政治するのが案外難しい事に気付く、今度は自分が国民をなだめすかしたりと気には嘘ついたりして国民から叩かれないように苦心する。子供には親の気持ちが分からないのと同じです。そしていずれ棄民したり一人っ子政策したり、中絶を美徳とまでは見なさなくても悪とは言わないようにしたり奨励したり、場合によっては性欲持たせないように割礼したりヒジャブ被らせたりする。
マーヴィンハリスは「ヒトはヒトをなぜ食べたか」でパプア離島原住民が限られた食料環境の中で人口調整に苦労してる様を書いてます。小さな島内の食糧資源は一つ一つが貴重だから木を切るにしても8代先の事まで考えてどの木を切るか決めた。木を切りすぎるとどんぐりとかが減る、生態系が崩れる、食料が足りなくなって戦争が増えるのを、文字も持ってない集団だって分かってたんです。集団にとって最大の敵は食料危機であり、それは天候不順とか不漁とかよりも人口過多が一番の理由だった。女児を好き放題産ませるとその女児が20年後の次の世代作ってあっと言う間に人口飽和になって食料危機から内戦が起きて酋長は責任取らされて殺されたり、生き残れても集団が内戦で弱れば近隣敵部族に滅ぼされる。例えば47都道府県でどの県も100人分の食糧しか生産できない場合、常に人口100人を維持して居たい、3人もオーバーするとテロや革命が起きるし3人足りなかったら近隣県から攻め込まれて負けて滅ぼされてしまう。じゃあどうやって人口をギリ100人で維持するか、20年後を考えて男女どちらをどれくらいの割合で生かすかその都度熟慮したんです。それでも近隣部族が人口調整がうまくいかなくてその解決策として口減らし目的で攻め込んでくる事もあった、それを返り討ちにすれば捕虜を食用家畜として育てていざと言う時に食ったりした。食用家畜ってのは一番の目的は人が食えない物を食わせて人が食える肉に変える加工機であり、二つ目は食料資源の保存です。リンゴや蜜柑が一杯余っててそれを放置すると三日で腐ってしまうけど、捕虜に食わせればカロリー効率は1割以下まで減ってしまうけど2週間くらいなら水さえ与えれば生で保存できる。燻製か塩漬けにすればもっと持つ。そういう文化は太平洋諸島のいたるところにあって、ハワイでもアマゾン奥地でもそう。それをあなたは「食料に困ってない」と言いますか? 食料に困ってないのならなぜパプアは今世紀になってもカニバリズムの習慣を捨てないのですか? 食人の理由は必ずしも食料目的ではないけれどそれが一番の理由ではあるでしょう。
熱帯はメシに困ってないから苦労しなくて良くてバカで、寒帯の白人は知恵を絞らなきゃいけないから頭が良くなった敵なステレオタイプは、名前忘れたけど100年くらい前の確か日本の学者が言い出した事で、特に団塊世代がそれを延々引きずってるんです。団塊ならその上の世代は東南アジアの各地に戦争に行ってたんだから現地事情を知ってる癖に、見下し偏見と、或いは彼らが現地人に対して暴力働いてきた過去を隠したいのか或いは自分たちが負けた側である事に付いて触れたくないのか、子の団塊世代にはそれを伝えなかった、だから団塊は戦前の植民地に対する見下し偏見から抜けられないままになった。大日本帝国のイデオロギーという亡霊に生涯を呪われたんです。呪われるのはそいつら一代で十分なのに、ネットがここまで発達してんのに亡霊をその子の世代、更には今の小中高校までもが纏い続けているでしょう。
人類がアフリカで増え始めて食料が足りなくなって、食いっぱくれた負け組は都落ちした。都落ちの繰り返しで1万年前には南米南端まで到達し地球上に空白地が無くなった。次にやる事は
・食糧増産。農業の開始。
・それまで飲んでなかった牛乳を飲む、食ってなかった虫を食う。
・人口抑制。生まれた日に間引いたり、女児が初潮迎える前に生贄にして葬る。
・単純に戦争する。内戦だったり外戦だったり。
東南アジアには少なくとも5万年前から人が住んでた、運悪く孤島とか半島とか行き止まりに辿り着いてしまった集団は上記四つの対策を組み合わせて対処するしかなかった。言い換えれば日本よりもずっと前から食料危機と戦ってた筈なんです。日本で食いっぱぐれたらベリンジア渡ってアメリカに行けば良いけど東南アジアはタスマニアで行き止まりだったしオーストラリアは世界一不毛の大陸だった。それでも更に困ってオーストロネシアはイースター島なりマダガスカルまでカヌーで逃げ延びた。そんな苦労してた人たちに面と向かって食べ物に困ってないなんて言えますか?
よく「江戸時代は自給率100%で3千万人抱えられた」と言うけど、足りてなんかいません。ちょっと天候不順になればすぐ飢饉が起きて一揆した弾圧される。子供が多すぎれば奴隷として売る。江戸末期に3千万人に達してたってだけで、それと足りてるかどうかなんて全然関係無い。幕府が強いから飢えた人からの暴力的抗議を鎮圧し続けた、政権が変わらなかったから表面上はなんとなく平和が続いたように見えてるだけ。間引かれる側の子供にとっては立派に戦争です。足りてないんです。現代だって事実上そうで、その点は熱帯の島々だって全く同じです。貧国のエンゲル係数の高さを調べたら分かる筈です。また社会のハードルが上がると金をそっちにつぎ込まないと暮らせなくなるので食料自体は本来足りてるのに手に入らない事になる。原始時代なら全裸か腰蓑で良かったけど今はそれで歩いてたら捕まる、千円あってもまず服着てないとどこも食料売ってくれない。海で漁を使しようにも漁業権無くて罰金払わされかねない。山にこもってもいずれ林野庁に捕まる。捕まらずに暮らせたとしても子供を学校に行かせないとその事で虐待と言われ逮捕される。社会平均生活するために本来いらない金を稼がなきゃならない、経済は回転速度が速いほど税収が増える、要はお上の得にならん奴は消されるんです。それもこの動画の内容同様で「みんなが当たり前と思ってる事に論理的根拠がなかったり、合理的でもなければ正しい事でもない場もある」。
「1・2・3・たくさん」も「おおらか」も見下しの典型です。メシにすら困ってる人たちがラクする訳が無い。ナミビアの狩猟採集民は学校には行かないけど野生動植物の知識を親から詰め込まれます。あなたはその家の周囲にある雑草がそれぞれどの部分が食べられてどう調理すればいいか、一年を通じて家の周りに群がるどの虫をどう食えばいいか、もし食えなくなったらどっちの方向に引っ越せばまた虫か野草とかに困らなくなるか言えますか? その知識を身につける上で4桁の暗算とかする必要がありますか? 狩猟採集民は「小学校なんか行ってたら野生生物の知識を身に付ける時間が足りなくなって同級生に差を付けられる」から本読んだりしないんです。反対に彼らが「先進国人は魚の取り方も取らないし弓の作り方も覚えないし湧水がどんな所に隠れてるか割り出すコツも学ぼうとしないで、学校なんかでだらだら遊んでて暢気だな」って言ったらあなたは「そうだね俺ら暢気だよ」って返事できますか?
暑い地域の人々が陽気に見えるのは、まず単純に暑さに抗うのってそれだけで体力消耗するから無理が出来なくなる。寒さは焚火でもすればいいけど夏の屋外で涼むのは難しい。じっとして体力消耗や気温上昇を避ける様が、それを経験した事無い人にはサボってるように見える。次にメシが足りなくて戦争が多くて明日死ぬかも分からないからこそ、今のうちに存分に楽しんでおこうという刹那主義になる。先進国の多い温帯や亜寒帯だってメシは本来足りてないけどユーラシアの温帯には金と軍事力があった。このへんの細かい所は定番の「文明生態史観」「銃病原菌鉄」でざっくり説明されてます。温帯勢力は他地域を搾取する事で発展もしたし寿命も実際に伸びた。平均寿命が70歳の国と80歳の国でどっちが刹那的になるか分かりますよね。そして最近言われてる説が、赤道に近いほど年較差が少なくて時間の概念が乏しかった。高緯度地域は嫌でも四季とか日照時間の変化を感じるけど赤道付近だとその幅がほとんどない。特にバリ島みたいな島も小さくて山もさほど高くないと一年中気温湿度が同じだから時間経過を感じにくくなる。実験で人を日の当たらない独房に一か月も閉じ込めておくと体のリズムも狂って二週間しか経ってないように感じる。もし四季変化も雨季乾季変化もなくて日の出日の入りもずっと同じだと時間を意識しにくくなるのでいい意味では時間に追われなくなるんです。すると時間にルーズになる、それを先進国基準で見たら「おおらか」って見下しになる。これも彼らに言わせれば「俺らは暑さと戦ってるし寿命も短いのに比べて、先進国人は暑さにも襲われないし寿命も長いのに俺らから搾取し続けててどんだけ欲深いんだ」ってなる。
あなたは目の医学の話したいだけで、社会学も史学も民俗学も心理学も何も全く興味が無い。物事に対する関心バランスが悪い。缶ジュースを横から見たら四角に見える、上から見たら円に見える、あなたはその一つの見方しかしようとしない、自信の関心対象のバランスの悪さに気付いてない。医学話するならすれで良いんだけど、123とか余計な事言って自身の偏見と無知さを曝け出している、そこからの差別主義者になっている自覚も出来ないでいる。あんたみたいな人がいると困るんだよ。俺が他国人と会話してて相手の落ち度を咎めたい時に、相手に「日本人だってテキトーな事ばかり言ってるだろ」って言われたら引っ込むしか無くなっちゃうんだよ。日本で他国人と話すならまだしも、他国で自分が外国人として生活してて現地人とケンカした場合に、自分が個人としていくら正しい事言ってても日本本土にいい加減な事言ってる人がいると受け入れて貰えなくなるんだよ。「お前ら日本社会だって俺らを差別してるんだから俺らが日本人であるお前に仕返ししても文句ねえだろ」って論理になっちゃうんだよ。あんたにとってはそういう事よりも色素どうこうが大事なのか? 趣味は自由だけど責任取れない事に首突っ込むな人の足引っ張るな。
ありがとうございます。
レヴィ・ストロースはLBGTの夫婦関係についてはどう触れているのでしょうか?
私はよく知りませんが、男役と女役が状況によって変わるケースもあるみたいです。
日本では法制化もされました。今は少数派、例外的存在であると認識されていますが、一定数がいる社会になると思います。
夫婦関係が普遍的であるとする
構造主義を否定する考え方が現代社会では生まれて来ていると思いました。
わかりやすくて登録しようかとチャンネル見たらもう動画上げてないのね。
もう語り尽くしたのかな?
戦争に勝ってたら民主主義じゃなかったかもしれないし、今でも至るところに天皇の写真があったかも
失礼します。プラグマティズムについての動画お願い出来ますか?
象形文字から出来上がった言語は象徴なのか記号なのか
14:10 造語症とかあるよなぁ
寮食がヤケアトになった世代なんだ…!(寮食あった時代に学生でした
おおお!!!
先輩ですね。
僕の頃はヤケアトで、今はなんかバカデカい建物がたっちゃいました。
@@アーカイブ社会学講義
どれもめちゃくちゃ面白いです。1つめの講義からゆっくり聞いています。パンキョーをちゃんとやらなかったことを悔いつつ、草引きのおともです。
こんな素晴らしい講義集をアップロードしてくださってありがとうございます。
@@junkosan154cm ありがとうございます!
パンキョー真面目にやらないのは京大の伝統ですもんね。
僕も何一つ講義を憶えてないぐらいなんで、今も学生に授業真面目に受けろって言えずにいます(笑)。
6:41 虹 32:52 素材 盛り付け 調理法
就活ゃ入社式に個性がない黒スーツを着用することの批判をネット上でよく目にします。最も大きな理由は安上がりなんですよ。
ユニクロの方が安いですよ。
レビストロス自身が考えていることもレビストロス自身のかんがえで未開となる、なんじゃこれ???
iPhoneが普及したこの時代にどうやったらこんなに音質落とせるんや
ps4のヘッドセットをpcに挿してしゃべるとこうなりますよ(苦笑)
@@アーカイブ社会学講義 わろた
誤配なんですね!笑
誤配というか偶然ですね。
公開にしてたらみんなに届いたという(笑)。
ジョーストラマーに似てるwww