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考えてみれば、会津藩の悲劇は藩祖・保科正之からすでに始まってたんだよな・・・。
でもこの人は、原田甲斐曰く公明正大で、この人が元気なら仙台藩を救ってると⁉️しかし高齢の為、酒井雅楽の横暴を押さえられず⁉️伊達騒動が起こり多くの藩士が悲惨な目に遭い⁉️幕末、維新まで影響する羽目に
稀に見る名君と聞く。この人物の大河化を熱望する。現在の人にも学ぶ所が多い事だろう。
「畏れながら、幸松は殊の外利発で家臣の信望も厚うございます。」
当初家光が正之を観察したのは実弟忠長の件があったからですよね。立場故か腹違いの弟の方が人間が出来ていたという。保科家の家系上の「先祖」弥三郎が逃げ若にも登場したりしてますし、この辺は知るとなかなか面白い。
こんなに立派な方が現代にも存在して欲しいと思う限りです。
不遇という事を超えて、名君だったと思います。今の政治家に欠けている徳というものがあると思ってしまいました。
大河ドラマ化お願いしますNHKさん😂
AIイラストが悉く日本に見えない、できれば使わないで欲しい。
おっしゃる通りです。完全に同意します。
保科正光には弟の保科正貞がいて本来なら正光の跡を継いで保科家当主となるはずだったが、正之が養子となることで撤回されて叔父の元に身を寄せて改めて小規模だけど領地をもらって幕臣となった後に保科正之は保科家の家宝と保科家の正統な家系図を正貞に引き渡し、保科家の正統を引き継ぐように言い渡した。この頃は正之に徳川の系譜として松平を名乗るように言われていたとも
主君である甥の徳川家綱から松平姓と葵の家紋を下賜されようとしたけど、正之は「信濃の田舎育ちゆえ(つまり生涯保科正光の子でいることを宣言している)」と断っていますね。松平姓になるのは、正容(3代目)の代以降になります。
見性院は「甲斐」と「松平」から「幸松」を「甲松」と書き改めたという伝承があるのですが、幼名の読み方は「ゆきまつ」ではなく「こうまつ」、あるいは幸松丸(こうまつまる)ではなかったでしょうか?
同腹の忠長とはシエのせいもあって骨肉の争いだったからな。野心のない弟がいると判ったらそりゃ優遇する。
『風雲児たち』で読みました^^
継子問題で兄弟でも信用できない子供時代を過ごした家光にとって、この利発で誠実な異母弟は唯一の信頼できる親族として殊の外可愛かったらしく、烏帽子などの特権に加えて石高もガンガン増やしていた。1番好きなのは家光の臨終間際、他の大大名らが来ても容態が悪いため寝たままで「よろしく頼む」程度だったが、ただ1人正之の時だけは起き上がり手を握って「肥後よ、息子を頼むぞ」と言った話。これらに心底感激した正之が作った会津藩家訓にはまず第一に「会津藩は将軍家のためにある」とされ、さらに「将軍家に歯向かう藩主が出たら家臣や民は三行半を叩きつけろ」的な文言が続くなど、正之は終生恩義を忘れなかった。そして、その家訓が容保に受け継がれ最後まで将軍のために戦い抜くのである。いつか大河ドラマ化して欲しい名君。
「幸松」・・・幸いを待つと言う意味だったとか・・・。
家光からの正之への「肥後よ、宗家(家綱)を頼み置く」という有名な託孤の遺命、それから約300年後に会津松平家の松平恒孝氏が徳川宗家を継いで、今度は徳川宗家そのものを託されることになるのですから、歴史とは実に面白いものです。
戊辰戦争における会津の悲劇の発端…
「こうまつ」じゃなかった?
資料には「幸松」とあるだけであり読みまでは書かれていないので、「ゆきまつ」「こうまつ」どちらでも構いません。現在の大河ドラマ『光る君へ』にて、藤原道長の長女で一条天皇の中宮になった彰子の呼び方が「しょうし」と「あきこ」の2通りあるのと同じです。
@ そうなんですね!葵三代の印象が強くてってのと、昌幸、信幸、幸村(信繁)もあって「ゆき」と秀忠が結び付かずってのがありました。織田信雄も、かつなのか、おなのかってのありましたね。女房文字じゃ決め手に欠けるでしたっけ。結構あるんですね。
保科正之は不遇かなあ。幼少期も大名嫡子で正室の男子が居る中で大領を与えられ一門の重鎮へこういう境遇の貴公子にしては理想的なルートだと思うけどそれに戊辰戦争では負けたけど西南戦争で薩摩にはやり返したしな
まあ、1638年と言えば前年に島原の乱が発生しているからねぇ。そりゃそうなるよねと
家訓第1条が哀しい結果につながるんやな。
しかしあの井伊直弼をして、今の幕府で頼りになるのは若く清廉潔白な松平容保公しかいないと・・・・つまり、井伊直弼からしたら、徳川慶喜も勝海舟も信用出来なかったんだろね⁉️
@呉志 紀伊派の井伊直弼にとったら、水戸出身の慶喜なんて信用できないでしょうし、勝海舟なんかこのときはまだ下っ端だったかと。信用できるのは容保くらいかも。。
幕末当時の孝明天皇が1番信頼してたのが容保公だったからな。清廉潔白ってスケープゴートにされやすいんよ。
@@はやて隊員-1351 清廉潔白ほどスケープゴートにされやすいのは今も同じで哀しいね。一個穴があくと、清廉潔白でなくなり、全ての辻褄があわなくなるから責められやすいんだろうな。
世間の人に、もっと保科正之を知ってほしい。
お江与の方は秀忠が他の女性に産ませた子供を「引き取って」殺した前歴があります。見性院の所にもお江与の方から正之さんの引き取り命令が来たのですが。「この見性院の子として引き取ったからには、たとえお方様と言えどもお渡しできません」と啖呵を切って拒否したそうで、多くの作家さんが「流石は武田信玄の娘!」と称賛しています。
知ってる方も多いでしょうが、お江与の方は、秀吉の側室にして豊臣家にしがみついて離れず滅ぼしてしまった淀君の妹なんですよ。性格怖すぎ。保科正之が十五か条の一節に『婦人女子の言、一切聞くべからず』と書いたのも、その恐怖が生涯忘れられなかったのでしょうね。
田中、神保…戊辰戦争で2人一緒に自害するという悲劇の2人ですね…
「さもありなん。やはり血は争えぬわ。」
江は前の旦那さんの間にも子供いるから8人産んだ事にはなる。
7:02 「なんと惨い…」
不遇ではないだろう。こんな立派な義理の両親の元で育てられたのだから。一番幸運だったと思う。
「そちではあるまい。いや、そちか。」
正之は…家光より優れた人物だったと思います。秀忠がお江与に対して強くいたのであれば、正之が三代将軍になっていたかも…ですね!
彼の功績は、河村瑞賢と組んで交通を整えたことが数えられます。
とりあえす於江与を「おえよ」と読むのはマジでやめとけw於江与というのは於江与之方あるいは於江与之君という尊号から来ているが、与には「と」の読みがあり、金地院崇伝の日記『本光国師日記』には「ゑとさま」と記している。これによるなら「おえど」と読んでいたということになるんだよ。
「賄」は「まかない」じゃなくて「まいない」の方じゃないですかね?
『えーと、、でんでんむし?』『ちがうわっ!』『それ、まいまいだろ』
婦女子の言、一切聞くべからず。はある意味至言。
この条文は、正之の側室同士のマウント合戦に端を発しています。正之の長女・媛(はる)姫(生母は継室・於万の方)は米沢藩30万石の上杉綱勝に嫁いだ一方で、別の側室の産んだ四女・摩須が加賀藩100万石の前田綱紀との縁組が決まります。於万の方(以前は側室だった)が我が子媛姫よりもずっと大藩に嫁ぐ側室の子・摩須を許せず江戸藩邸にて婚礼後の内輪の宴席で摩須の膳に毒を盛らせます。ところが摩須の侍女が気転を働かせたのか御膳を媛姫のそれとすり替えてしまいそれを食した媛姫は亡くなるという悲劇がありました。それを知った正之は以後於万の方を遠ざけ、上記のマウント合戦により娘を失ったことへの反省から「婦人子女の言、一切聞くべからず」という条文を家訓に入れたのです。
@@toyo-rex4899 女:『そりゃぁ女って怖いからね陰湿だしw』男:『あ、認めるんだ、、、、、 』会話してるとわりとこういう事あります(笑)
保科正之を目指す政治家ま~自民には居ないなてか日本の政治家に居るか?
『まあ、、、強いて言えば安倍さんが近いほうかな、、?』『石破は遠く及ばない』『岸田もな』『及ばないどころか真逆!』『あと山本太郎や立憲共産の奴らもないわ』『そもそもあいつ等売国だから』
まぁ、隠し子ってやつですねw
中国風の絵は止めて。
考えてみれば、会津藩の悲劇は藩祖・保科正之からすでに始まってたんだよな・・・。
でもこの人は、原田甲斐曰く公明正大で、この人が元気なら
仙台藩を救ってると⁉️
しかし高齢の為、酒井雅楽の横暴を押さえられず⁉️
伊達騒動が起こり多くの藩士が悲惨な目に遭い⁉️
幕末、維新まで影響する羽目に
稀に見る名君と聞く。この人物の大河化を熱望する。現在の人にも学ぶ所が多い事だろう。
「畏れながら、幸松は殊の外利発で家臣の信望も厚うございます。」
当初家光が正之を観察したのは実弟忠長の件があったからですよね。立場故か腹違いの弟の方が人間が出来ていたという。
保科家の家系上の「先祖」弥三郎が逃げ若にも登場したりしてますし、この辺は知るとなかなか面白い。
こんなに立派な方が現代にも存在して欲しいと思う限りです。
不遇という事を超えて、名君だったと思います。今の政治家に欠けている徳というものがあると思ってしまいました。
大河ドラマ化お願いしますNHKさん😂
AIイラストが悉く日本に見えない、できれば使わないで欲しい。
おっしゃる通りです。完全に同意します。
保科正光には弟の保科正貞がいて本来なら正光の跡を継いで保科家当主となるはずだったが、正之が養子となることで撤回されて叔父の元に身を寄せて改めて小規模だけど領地をもらって幕臣となった
後に保科正之は保科家の家宝と保科家の正統な家系図を正貞に引き渡し、保科家の正統を引き継ぐように言い渡した。この頃は正之に徳川の系譜として松平を名乗るように言われていたとも
主君である甥の徳川家綱から松平姓と葵の家紋を下賜されようとしたけど、正之は「信濃の田舎育ちゆえ(つまり生涯保科正光の子でいることを宣言している)」と断っていますね。
松平姓になるのは、正容(3代目)の代以降になります。
見性院は「甲斐」と「松平」から「幸松」を「甲松」と書き改めたという伝承があるのですが、幼名の読み方は「ゆきまつ」ではなく「こうまつ」、あるいは幸松丸(こうまつまる)ではなかったでしょうか?
同腹の忠長とはシエのせいもあって骨肉の争いだったからな。野心のない弟がいると判ったらそりゃ優遇する。
『風雲児たち』で読みました^^
継子問題で兄弟でも信用できない子供時代を過ごした家光にとって、この利発で誠実な異母弟は唯一の信頼できる親族として殊の外可愛かったらしく、烏帽子などの特権に加えて石高もガンガン増やしていた。1番好きなのは家光の臨終間際、他の大大名らが来ても容態が悪いため寝たままで「よろしく頼む」程度だったが、ただ1人正之の時だけは起き上がり手を握って「肥後よ、息子を頼むぞ」と言った話。これらに心底感激した正之が作った会津藩家訓にはまず第一に「会津藩は将軍家のためにある」とされ、さらに「将軍家に歯向かう藩主が出たら家臣や民は三行半を叩きつけろ」的な文言が続くなど、正之は終生恩義を忘れなかった。
そして、その家訓が容保に受け継がれ最後まで将軍のために戦い抜くのである。
いつか大河ドラマ化して欲しい名君。
「幸松」・・・幸いを待つと言う意味だったとか・・・。
家光からの正之への「肥後よ、宗家(家綱)を頼み置く」という有名な託孤の遺命、それから約300年後に会津松平家の松平恒孝氏が徳川宗家を継いで、今度は徳川宗家そのものを託されることになるのですから、歴史とは実に面白いものです。
戊辰戦争における会津の悲劇の発端…
「こうまつ」じゃなかった?
資料には「幸松」とあるだけであり読みまでは書かれていないので、「ゆきまつ」「こうまつ」どちらでも構いません。
現在の大河ドラマ『光る君へ』にて、藤原道長の長女で一条天皇の中宮になった彰子の呼び方が「しょうし」と「あきこ」の2通りあるのと同じです。
@ そうなんですね!葵三代の印象が強くてってのと、昌幸、信幸、幸村(信繁)もあって「ゆき」と秀忠が結び付かずってのがありました。
織田信雄も、かつなのか、おなのかってのありましたね。
女房文字じゃ決め手に欠けるでしたっけ。
結構あるんですね。
保科正之は不遇かなあ。幼少期も大名嫡子で正室の男子が居る中で大領を与えられ一門の重鎮へ
こういう境遇の貴公子にしては理想的なルートだと思うけど
それに戊辰戦争では負けたけど西南戦争で薩摩にはやり返したしな
まあ、1638年と言えば前年に島原の乱が発生しているからねぇ。そりゃそうなるよねと
家訓第1条が哀しい結果につながるんやな。
しかしあの井伊直弼をして、今の幕府で頼りになるのは
若く清廉潔白な松平容保公しかいないと・・・・
つまり、井伊直弼からしたら、徳川慶喜も勝海舟も
信用出来なかったんだろね⁉️
@呉志
紀伊派の井伊直弼にとったら、水戸出身の慶喜なんて信用できないでしょうし、勝海舟なんかこのときはまだ下っ端だったかと。
信用できるのは容保くらいかも。。
幕末当時の孝明天皇が1番信頼してたのが容保公だったからな。
清廉潔白ってスケープゴートにされやすいんよ。
@@はやて隊員-1351
清廉潔白ほどスケープゴートにされやすいのは今も同じで哀しいね。
一個穴があくと、清廉潔白でなくなり、全ての辻褄があわなくなるから責められやすいんだろうな。
世間の人に、もっと保科正之を知ってほしい。
お江与の方は秀忠が他の女性に産ませた子供を「引き取って」殺した前歴があります。見性院の所にもお江与の方から正之さんの引き取り命令が来たのですが。「この見性院の子として引き取ったからには、たとえお方様と言えどもお渡しできません」と啖呵を切って拒否したそうで、多くの作家さんが「流石は武田信玄の娘!」と称賛しています。
知ってる方も多いでしょうが、お江与の方は、秀吉の側室にして豊臣家にしがみついて離れず滅ぼしてしまった淀君の妹なんですよ。性格怖すぎ。保科正之が十五か条の一節に『婦人女子の言、一切聞くべからず』と書いたのも、その恐怖が生涯忘れられなかったのでしょうね。
田中、神保…
戊辰戦争で2人一緒に自害するという悲劇の2人ですね…
「さもありなん。やはり血は争えぬわ。」
江は前の旦那さんの間にも子供いるから8人産んだ事にはなる。
7:02 「なんと惨い…」
不遇ではないだろう。こんな立派な義理の両親の元で育てられたのだから。
一番幸運だったと思う。
「そちではあるまい。いや、そちか。」
正之は…家光より優れた人物だったと思います。秀忠がお江与に対して強くいたのであれば、正之が三代将軍になっていたかも…ですね!
彼の功績は、河村瑞賢と組んで交通を整えたことが数えられます。
とりあえす於江与を「おえよ」と読むのはマジでやめとけw
於江与というのは於江与之方あるいは於江与之君という尊号から来ているが、与には「と」の読みがあり、金地院崇伝の日記『本光国師日記』には「ゑとさま」と記している。これによるなら「おえど」と読んでいたということになるんだよ。
「賄」は「まかない」じゃなくて「まいない」の方じゃないですかね?
『えーと、、でんでんむし?』
『ちがうわっ!』『それ、まいまいだろ』
婦女子の言、一切聞くべからず。はある意味至言。
この条文は、正之の側室同士のマウント合戦に端を発しています。
正之の長女・媛(はる)姫(生母は継室・於万の方)は米沢藩30万石の上杉綱勝に嫁いだ一方で、別の側室の産んだ四女・摩須が加賀藩100万石の前田綱紀との縁組が決まります。
於万の方(以前は側室だった)が我が子媛姫よりもずっと大藩に嫁ぐ側室の子・摩須を許せず江戸藩邸にて婚礼後の内輪の宴席で摩須の膳に毒を盛らせます。ところが摩須の侍女が気転を働かせたのか御膳を媛姫のそれとすり替えてしまいそれを食した媛姫は亡くなるという悲劇がありました。
それを知った正之は以後於万の方を遠ざけ、上記のマウント合戦により娘を失ったことへの反省から
「婦人子女の言、一切聞くべからず」
という条文を家訓に入れたのです。
@@toyo-rex4899
女:『そりゃぁ女って怖いからね陰湿だしw』
男:『あ、認めるんだ、、、、、 』
会話してるとわりとこういう事あります(笑)
保科正之を目指す政治家
ま~自民には居ないな
てか日本の政治家に居るか?
『まあ、、、強いて言えば安倍さんが近いほうかな、、?』
『石破は遠く及ばない』『岸田もな』『及ばないどころか真逆!』
『あと山本太郎や立憲共産の奴らもないわ』『そもそもあいつ等売国だから』
まぁ、隠し子ってやつですねw
中国風の絵は止めて。