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このどちらかのバスは今、安田の川沿いあたりに放置されていますね。 10:03
いつもご視聴、コメントありがとうございます。そんなことになっているのですね! 残念というべきか、解体されていないのなら幸いというべきか・・・
雨の日の記録も案外いいもんですね。なんかしっとりとしていて。手入れされた電車や駅舎、飾り付け。ここの社員さんの鉄道愛が伝わってきますね。合理化が徹底された今では考えられない😢
いつもご視聴、コメントありがとうございます。今見ると、仰るように雨の日もなかなか良い雰囲気がありますが、当時、何度も訪れることが叶わない中で雨に降られた際には、かなり落ち込んでいた(笑)記憶があります。当時の地方私鉄では経営が楽ではないにも関わらず、仰るように「鉄道愛」が感じられる場面が多々あったと思います。
幼い頃、時刻表の路線図にとても短く私鉄の表記があり、なぜか子供心に印象に残りました今だったら絶対に乗りに行く、素晴らしい景色です…車両の多くがきれいに保存されているようなのが幸いですね
いつもご視聴、コメントありがとうございます。短い路線って結構目につきますよね。でも蒲原鉄道に関しては私の場合、気付いたときは大部分が廃止された後で、大変残念な気持ちになったものでした。
こう言った廃止されてしまった地方ローカル線はほぼ確実に綺麗な道路が並走してますよね。悲しい現実。釣りかけサウンドを楽しみながら毎回見ています。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。たしかにそうですね。いつでもバスへの代替が可能と思われていたことでしょう。
かつては、五泉市に住んでました。蒲原鉄道は乗車したり、走行姿も良く見てました。加茂~村松間のさよなら運転には、乗車しました(この時は、中学生)小学3年の時に、遠足で村松~加茂間も乗車したことがあります。五泉から神奈川に移動した後も、何回か蒲原鉄道に乗りに来てました。加茂~村松間さよなら運転には乗車したのに、村松~五泉間のさよなら運転には、乗車しなかったのは、残念です。また、お魚ラッピング電車に乗れなかったのも、残念です。去年、五泉市に保存されているモハ41を見て来ました。モハ41に「五泉~村松間のさよなら運転に来れなくて御免!まだ元気な走る姿が見れると思っていたから、21世紀迄走っていてくれていると思っていたのに!五泉に住んでいた時は、乗車したり、走る姿を見ていたよ!モハ41だけでなく、他の車両の走る姿も!また、他の車両にも乗車させてもらったよ!今度五泉に来た時には、他の保存されている車両にも会って来るから!今迄お疲れ様!」と言って来ました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。最後の電車に対する貴殿の声掛け内容は、地元の方ならではの愛情が感じられて感銘を受けました。私は僅かに残った村松~五泉間しか知りませんので、加茂~村松間の車窓やそこを走った多くの車掌たちに対して強い憧れがあります。
車庫での映像で、奥にチラッと見えた木造貨車のワフ11は三重県員弁町にある貨物鉄道博物館に保存されています。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。モハ61の後に居た有蓋貨車ですね。保存されているのは良かったです。
懐かしい蒲原鉄道の動画ありがとうございました🙇自分も今回と同様(五泉~村松間)を乗り、村松の車庫?に有った車輌達も撮りました。五泉~村松間は五泉を出てカーブを過ぎたら後は村松迄一直線それなりスピードも地方私鉄にしては高速でビックリ👀しました。今、思えば先に廃止された村松~加茂間も乗って見たかったですね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。私が地方私鉄に急激に興味を持ったのは 1985年夏からなのですが、それは蒲原鉄道の「美味しい区間」廃止直後のことでした。もう少し早く目覚めていれば・・・と悔しい思いをしたものです。
蒲原鉄道,新潟交通(電車線),越後交通(栃尾鉄道)~全て消えてしまった😢(👦の頃長岡市在住,軽便鉄道に乗車)
いつもご視聴、コメントありがとうございます。私は地方鉄道行脚を始めたのが遅かったので、越後交通栃尾線には間に合っていません。蒲原鉄道は大部分が廃止された後。新潟交通はかろうじて全線健在な頃に間に合いました。
蒲原鉄道バスは神奈川中央交通の中古をよく導入していました。(詳細なメーカーまでは私もわかりません(泣))
いつもご視聴、コメントありがとうございます。バスも中古を使用していたのですね。メーカや系列については、これより後のコメントで詳しい方からご教示いただきました。
蒲原過疎路線側は、七谷での交換風景や雪に埋もれた高松の写真などを見掛けてました。部分廃止になった時、もうひとつくらい停留場を増やしていたら・・・それでも無理でしたかね。。モハ31・41は片隅運転台みたいになってて、計器類の横に車掌スイッチが二つもぶる下がっていて面白いですね。確か、まだDVDの時代ではない頃に蒲原鉄道自体が前面展望ビデオを通販して買った事があり、ちゃんと社名入り封筒だったのを思い出しました。廃線セレモニーみたいのが大半だった記憶なのですが、手元にないので確認できないです…
いつもご視聴、コメントありがとうございます。全線健在だった頃の映像は他の方がアップしている動画で見たことがありますが、ローカル色豊かな、実に「美味しい」路線だったようですね。蒲原鉄道からビデオが販売されていたのは知りませんでした。
モハ61・71は西武の中古でした。でも2両とも解体はせず保存されてます。中間駅の今泉は北海道のローカル駅(仮乗降所)みたいな感じでしょうか。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。保存されているのは良かったです! 今泉駅のような感じの素朴な味わいの駅は、北海道に限らず当時の地方私鉄では方々にありましたよね。
茨城県の関東鉄道竜ケ崎線と似ているように思えます。距離4,5㎞、直線が多い線形、駅数3駅(開業時は5駅ですが後に2駅目と4駅目が廃止)車両は3両ですがポイントがあるのは竜ケ崎駅だけなのでピストン運転です、こちらも「カンテツ」と呼ばれています。踏切を渡ってるバスのうち2代目のバスは新潟の北村製作所の車の様です今はバスの製造はしていない様ですが全盛期は関東地方でも見られました、足回りは2代ともいすゞ自動車製と思われます。蒲原鉄道の車体色は古い西武鉄道の色と同じ様ですのでモハ71は2回同じ色を纏っていたと考えられます、余談ですが西武の次の時代の色、赤とベージュの赤電色は隣の越後交通が採用していました。バスの色についても越後交通→古い東急バス、屋根が赤くなる前の新潟交通→古い川崎鶴見臨港バスと同じで関東地方との繋がりを感じます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。なるほど似てますね。筑波線(筑波鉄道)や鉾田線(鹿島鉄道)は廃止になってしまいましたが、竜ケ崎線は弱小ながら頑張ってますね。バスの情報ありがとうございます。どこかにあるのかもしれませんが、事業者別に使用したバスの年代や型番を整理した資料を見てみたいものです。蒲原鉄道の電車の車体色の件ですが、モハ61形の入線以降、旧西武色が蒲鉄の標準色になったようですね。
架線柱に 広告看板が付いてたなんて 余程困っていて「なんとかしなきゃ。」っていう台所事情の表れだったのか?しかし 線路沿いに道路があるところならともかく そうでないところでは かぶりつきをしている鉄オタ位にしか看板を見てもらえず あまり意味がなかったのでは?と 思います。蒲原鉄道の元西武車は もっとルーツを辿ると 旧武蔵野鉄道(現 池袋線)の電車。そして 電車の塗色も赤電以前の西武鉄道の旧塗装で これは 武蔵野と合併する前の 旧西武鉄道(現 新宿線)の塗色でもありました。元国鉄気動車 キハ41000改造の『クハ 10』は 他の電車がロングシートだったのに対して オリジナルの 背ずりの低い 向かい合わせクロスシートを最後まで維持していたと 記憶しています。尚 観光バスは『NEW POWER V10』のバッジと ヘッドライトのグリルの形から『いすゞCRA580』踏切を渡った路線バスの1台目が『いすゞLV』2台目が 10年程前の形の『いすゞBU』かと思われます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。架線柱の広告看板、気付きませんでした! かぶりついていた鉄ヲタにも宣伝効果が無かったようです(笑)。並行道路はありますが、架線柱は道路の反対側なので、クルマからは見えにくかったでしょうね。電車の車体色の件ですが、それまでマルーン1色であったものが、モハ61形の入線以降、旧西武色が蒲鉄の標準色になったようですね。バスの情報ありがとうございます。バスの図説のような書籍は2~3持ってはいるのですが該当車種を探すのがなかなか大変でして・・・
村松の踏切を渡ってたバス、一台目はいすゞジャーニーKでしょうか、二台目もいすゞですが車種はよく分からんですモハ11の劇狭乗務員室扉はワンマン化のさいに設置されたものですね
いつもご視聴、コメントありがとうございます。バスの情報をお寄せいただき恐縮です。皆さまからいただいた情報によると、いすゞの車輛だったことは少なくとも確かなようです。モハ11の恐ろしく狭い扉は、かなりスリムな方でないと出入りできそうもないですね(笑)。
部分廃止というよりは、大部分廃止だったんですね。今でこそ広告車両は珍しくはなくなっていますけど、1989年にもあったんですか。現在ではラップ貼付け仕様ですが、この当時はガチの塗装だったのでかしら。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。仰るように「大部分廃止」と呼ぶしかない状況でしたよね。全面広告電車はたしかに当時は珍しかったと思いますが、釣り堀の名称や地図、連絡先などは(少なくとも目立つように)書かれておらず、広告の役目を果たしていない(笑)ようでした。私も広告電車と知ったのは随分あとになってからで、訪問当時は「何だ?この魚だらけの塗装は!」と正直憤慨(他所者なので通常塗装の電車に乗りたかった)したものです。ラッピングなど無い時代ですのでガチ塗装でしたね。
おやまナツイ、今泉の停留所だね👺村松、加茂の桜見に使ったよ✨イタバリで吊り掛け独特のうなり音は中々🚋🤖鏡田辺りに停留所あったらデンカの通勤用にできたか🦧できた時期が違うから無理か❓️🤖
いつもご視聴、コメントありがとうございます。仰るように、今泉は「駅」というより「停留所」ですよね。先端の激狭ホームを含めて、この素朴さが堪りません・・ 私が訪問した時期は、残念ながら村松までの超短い路線となっていました。
このどちらかのバスは今、安田の川沿いあたりに放置されていますね。 10:03
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
そんなことになっているのですね! 残念というべきか、解体されていないのなら幸いというべきか・・・
雨の日の記録も案外いいもんですね。なんかしっとりとしていて。手入れされた電車や駅舎、飾り付け。ここの社員さんの鉄道愛が伝わってきますね。合理化が徹底された今では考えられない😢
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
今見ると、仰るように雨の日もなかなか良い雰囲気がありますが、当時、何度も訪れることが叶わない中で雨に降られた際には、かなり落ち込んでいた(笑)記憶があります。当時の地方私鉄では経営が楽ではないにも関わらず、仰るように「鉄道愛」が感じられる場面が多々あったと思います。
幼い頃、時刻表の路線図にとても短く私鉄の表記があり、なぜか子供心に印象に残りました
今だったら絶対に乗りに行く、素晴らしい景色です…
車両の多くがきれいに保存されているようなのが幸いですね
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
短い路線って結構目につきますよね。でも蒲原鉄道に関しては私の場合、気付いたときは大部分が廃止された後で、大変残念な気持ちになったものでした。
こう言った廃止されてしまった地方ローカル線はほぼ確実に綺麗な道路が並走してますよね。悲しい現実。
釣りかけサウンドを楽しみながら毎回見ています。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
たしかにそうですね。いつでもバスへの代替が可能と思われていたことでしょう。
かつては、五泉市に住んでました。
蒲原鉄道は乗車したり、走行姿も良く見てました。
加茂~村松間のさよなら運転には、乗車しました(この時は、中学生)
小学3年の時に、遠足で村松~加茂間も乗車したことがあります。
五泉から神奈川に移動した後も、何回か蒲原鉄道に乗りに来てました。
加茂~村松間さよなら運転には乗車したのに、村松~五泉間のさよなら運転には、乗車しなかったのは、残念です。
また、お魚ラッピング電車に乗れなかったのも、残念です。
去年、五泉市に保存されているモハ41を見て来ました。モハ41に「五泉~村松間のさよなら運転に来れなくて御免!まだ元気な走る姿が見れると思っていたから、21世紀迄走っていてくれていると思っていたのに!五泉に住んでいた時は、乗車したり、走る姿を見ていたよ!モハ41だけでなく、他の車両の走る姿も!また、他の車両にも乗車させてもらったよ!今度五泉に来た時には、他の保存されている車両にも会って来るから!今迄お疲れ様!」と言って来ました。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
最後の電車に対する貴殿の声掛け内容は、地元の方ならではの愛情が感じられて感銘を受けました。私は僅かに残った村松~五泉間しか知りませんので、加茂~村松間の車窓やそこを走った多くの車掌たちに対して強い憧れがあります。
車庫での映像で、奥にチラッと見えた木造貨車のワフ11は三重県員弁町にある貨物鉄道博物館に保存されています。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
モハ61の後に居た有蓋貨車ですね。保存されているのは良かったです。
懐かしい蒲原鉄道の動画ありがとうございました🙇
自分も今回と同様(五泉~村松間)を乗り、村松の車庫?に有った車輌達も撮りました。
五泉~村松間は五泉を出てカーブを過ぎたら後は村松迄一直線それなりスピードも地方私鉄にしては高速でビックリ👀しました。
今、思えば先に廃止された村松~加茂間も乗って見たかったですね。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
私が地方私鉄に急激に興味を持ったのは 1985年夏からなのですが、それは蒲原鉄道の「美味しい区間」廃止直後のことでした。もう少し早く目覚めていれば・・・と悔しい思いをしたものです。
蒲原鉄道,新潟交通(電車線),越後交通(栃尾鉄道)~全て消えてしまった😢(👦の頃長岡市在住,軽便鉄道に乗車)
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
私は地方鉄道行脚を始めたのが遅かったので、越後交通栃尾線には間に合っていません。蒲原鉄道は大部分が廃止された後。新潟交通はかろうじて全線健在な頃に間に合いました。
蒲原鉄道バスは
神奈川中央交通の中古を
よく導入していました。
(詳細なメーカーまでは
私もわかりません(泣))
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
バスも中古を使用していたのですね。メーカや系列については、これより後のコメントで詳しい方からご教示いただきました。
蒲原過疎路線側は、七谷での交換風景や雪に埋もれた高松の写真などを見掛けてました。
部分廃止になった時、もうひとつくらい停留場を増やしていたら・・・それでも無理でしたかね。。
モハ31・41は片隅運転台みたいになってて、計器類の横に車掌スイッチが二つもぶる下がっていて面白いですね。
確か、まだDVDの時代ではない頃に蒲原鉄道自体が前面展望ビデオを通販して買った事があり、ちゃんと社名入り封筒だったのを思い出しました。
廃線セレモニーみたいのが大半だった記憶なのですが、手元にないので確認できないです…
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
全線健在だった頃の映像は他の方がアップしている動画で見たことがありますが、ローカル色豊かな、実に「美味しい」路線だったようですね。蒲原鉄道からビデオが販売されていたのは知りませんでした。
モハ61・71は西武の中古でした。でも2両とも解体はせず保存されてます。中間駅の今泉は北海道のローカル駅(仮乗降所)みたいな感じでしょうか。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
保存されているのは良かったです! 今泉駅のような感じの素朴な味わいの駅は、北海道に限らず当時の地方私鉄では方々にありましたよね。
茨城県の関東鉄道竜ケ崎線と似ているように思えます。距離4,5㎞、直線が多い線形、駅数3駅(開業時は5駅ですが後に2駅目と4駅目が廃止)車両は3両ですがポイントがあるのは竜ケ崎駅だけなのでピストン運転です、こちらも「カンテツ」と呼ばれています。踏切を渡ってるバスのうち2代目のバスは新潟の北村製作所の車の様です今はバスの製造はしていない様ですが全盛期は関東地方でも見られました、足回りは2代ともいすゞ自動車製と思われます。蒲原鉄道の車体色は古い西武鉄道の色と同じ様ですのでモハ71は2回同じ色を纏っていたと考えられます、余談ですが西武の次の時代の色、赤とベージュの赤電色は隣の越後交通が採用していました。バスの色についても越後交通→古い東急バス、屋根が赤くなる前の新潟交通→古い川崎鶴見臨港バスと同じで関東地方との繋がりを感じます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
なるほど似てますね。筑波線(筑波鉄道)や鉾田線(鹿島鉄道)は廃止になってしまいましたが、竜ケ崎線は弱小ながら頑張ってますね。バスの情報ありがとうございます。どこかにあるのかもしれませんが、事業者別に使用したバスの年代や型番を整理した資料を見てみたいものです。蒲原鉄道の電車の車体色の件ですが、モハ61形の入線以降、旧西武色が蒲鉄の標準色になったようですね。
架線柱に 広告看板が付いてたなんて 余程困っていて「なんとかしなきゃ。」っていう台所事情の表れだったのか?
しかし 線路沿いに道路があるところならともかく そうでないところでは かぶりつきをしている鉄オタ位にしか看板を見てもらえず あまり意味がなかったのでは?
と 思います。
蒲原鉄道の元西武車は もっとルーツを辿ると 旧武蔵野鉄道(現 池袋線)の電車。
そして 電車の塗色も赤電以前の西武鉄道の旧塗装で これは 武蔵野と合併する前の 旧西武鉄道(現 新宿線)の塗色でもありました。
元国鉄気動車 キハ41000改造の『クハ 10』は 他の電車がロングシートだったのに対して オリジナルの 背ずりの低い 向かい合わせクロスシートを最後まで維持していたと 記憶しています。
尚 観光バスは『NEW POWER V10』のバッジと ヘッドライトのグリルの形から『いすゞCRA580』
踏切を渡った路線バスの1台目が『いすゞLV』2台目が 10年程前の形の『いすゞBU』かと思われます。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
架線柱の広告看板、気付きませんでした! かぶりついていた鉄ヲタにも宣伝効果が無かったようです(笑)。並行道路はありますが、架線柱は道路の反対側なので、クルマからは見えにくかったでしょうね。電車の車体色の件ですが、それまでマルーン1色であったものが、モハ61形の入線以降、旧西武色が蒲鉄の標準色になったようですね。バスの情報ありがとうございます。バスの図説のような書籍は2~3持ってはいるのですが該当車種を探すのがなかなか大変でして・・・
村松の踏切を渡ってたバス、一台目はいすゞジャーニーKでしょうか、二台目もいすゞですが車種はよく分からんです
モハ11の劇狭乗務員室扉はワンマン化のさいに設置されたものですね
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
バスの情報をお寄せいただき恐縮です。皆さまからいただいた情報によると、いすゞの車輛だったことは少なくとも確かなようです。モハ11の恐ろしく狭い扉は、かなりスリムな方でないと出入りできそうもないですね(笑)。
部分廃止というよりは、大部分廃止だったんですね。
今でこそ広告車両は珍しくはなくなっていますけど、1989年にもあったんですか。現在ではラップ貼付け仕様ですが、この当時はガチの塗装だったのでかしら。
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
仰るように「大部分廃止」と呼ぶしかない状況でしたよね。全面広告電車はたしかに当時は珍しかったと思いますが、釣り堀の名称や地図、連絡先などは(少なくとも目立つように)書かれておらず、広告の役目を果たしていない(笑)ようでした。私も広告電車と知ったのは随分あとになってからで、訪問当時は「何だ?この魚だらけの塗装は!」と正直憤慨(他所者なので通常塗装の電車に乗りたかった)したものです。ラッピングなど無い時代ですのでガチ塗装でしたね。
おやまナツイ、今泉の停留所だね👺村松、加茂の桜見に使ったよ✨イタバリで吊り掛け独特のうなり音は中々🚋🤖鏡田辺りに停留所あったらデンカの通勤用にできたか🦧できた時期が違うから無理か❓️🤖
いつもご視聴、コメントありがとうございます。
仰るように、今泉は「駅」というより「停留所」ですよね。先端の激狭ホームを含めて、この素朴さが堪りません・・ 私が訪問した時期は、残念ながら村松までの超短い路線となっていました。