福島復興「桜花咲く街」シンポジウム(後編)

Поділитися
Вставка
  • Опубліковано 17 лис 2024

КОМЕНТАРІ • 1

  • @戸谷浩史
    @戸谷浩史 6 років тому

    冒頭の宮崎による発言について、
    安全と安心が違うから情報が必要というのは、その情報自体の公正さの判断能力と、その情報をもとにした判断能力とが、正常にある国民のみについて言える。
    日本のように、戦後の 「民主主義」 において 「自由」 にされた地域では、
    前半で学生発表のあったとおり、上意下達型の街づくりもできないし、
    「新聞」 や地上波等のテレビ放送系列局もそうだしラジオもそうで、
    扇動までも 「自由」 (「鼻血」ねたや「甲状腺がん」ねたなどの不安をあおってきた報道の 「自由」 と、
    国連の科学委員会による数千の論文の調査結果の無視という報道しない 「自由」 まである)なので、
    そもそも 「民主主義」 における環境は 「安心」 を提供してくれはしない
    (国内に侵入している日本国外の工作員による扇動の自由もあるし、ネットの記事でもある)。
    日本のように、毎日のように人が交通事故で死んだり、数千人超の科学者らにより数万の論文で気候変動問題、火発の危険を指摘されていながら、
    放射能は危険だとして福島から九州へ避難するような、とんちんかんなことが平気で起きてきたとおり。
    「新聞」 記事で高齢者が反原発洗脳されてきた、つまり判断能力の欠けた 「日本」 国民においては、その 「安心」 思想により逆に、反 「安全」 となってきた。
    原発さえ使わなければ 「安全」 だという、それこそ科学的根拠の無い 「安全神話」 である。
    16:00 ころからの奈良林による主張は、的をいていた。
    情報汚染、インフォメーションコンタミネーション等。
    そのあと宮崎から Google の話もあったが Google ニュースでも記事の多数は、いわゆる左翼的、
    反政府的ありきの偏向(戦後、反権力的なのは良いことだという)媒体の収集(クロール)が多数であり、全体としては役に立たないほうに作用。
    具体的には、海にも空にも陸にも、膨大な量の放射能が既存であり、空では毎日トリチウムが作成されているという情報は、相対としては、ほとんど流れてこなかった。
    地熱(再生可能エネルギー)が、放射性物質によるという情報も基本的に 「新聞」 等により隠ぺいされてきていた。
    UA-cam の各種動画の 「視聴回数」 をみても明らかなとおり、危険だという情報は、国民のきょうみをひく(カウンターが数十万となることもめずらしくない)
    一方で、危険が妥当な範囲内である、むしろ原発の廃棄物は他の発電方法より管理されていて、
    発電の一定量あたりのリスク全体としては低い(ハザードとリスクは異なる)という情報は、関心をもたれにくいという、きわめて強い非対称性がある。
    逆に、なれている内容、たとえば 2011 年前の津波についてが特にで、体感できていない危険は関心をもたれないという非対称性も強くある。
    「人権(「自由」含む)」 があって 『生涯学習の義務』 がない 「民主主義」 国では、各個人の責任で全体的に対応しなければならない現状があっても、混乱することのほうが自然。
    そのうえ、日本では 「報道の自由(ここでは報道しない自由含む)」 があっても、その自由に対する責任は、とられない。たとえばバスビーとかいう人が、こう言いました、岡山大学の、ある(バカ)教授が、こう言いました、というだけで、
    その言われた内容が、いかに宗教的であり非科学であっても、言ったことは事実だとして訂正は、されない。つまり個人は責任を問われやすい現実に対して法人(nhk や「新聞」等々)は無責任であるという深刻な問題がある。