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ご視聴ありがとうございます。複数の方のご指摘により、動画中で「霧島」の「桜島」への名称変更に触れていない、同率で日本最長列車だった「富士」を紹介していないなど、いろいろ不備が判明したため、概要欄で訂正・補足しました。概要欄をご一読いただけると幸いです。
「霧島」は、京都〜西鹿児島の寝台特急電車に名称が移りました。「きりしま」とひらがなです。581系のメリットを活かし、全区間食堂車も営業。京都発着なのは当時向日町運転所が一杯(中国、九州方面の電車のみならず山陰方面のディーゼルカーで溢れていた)なので、野洲駅で停留させていたと聞いています。新幹線博多開業後は「なは」または「明星」に改称されました。
😢
☆ 50年ちょっと前伯父さんの車に乗って湘南方面に行った時に「桜島・高千穂」が通過していくのを見た記憶がある。
1971年当時日豊本線経由西鹿児島行き寝台特急「富士」が日本最長列車だと記憶しています。この年、急行桜島大阪からで西鹿児島に向かうも大雨災害のため鹿児島本線が八代以遠が不通となっており、熊本で運転打ち切り。そのため熊本で急行「えびの」に乗り換えて肥薩線経由で西鹿児島に向かうも、途中人吉で国鉄バスに乗り換えて小林の友人宅に向かったことがあります。帰りは都城から臨時急行「屋久島」で帰阪。先行の特急「彗星」の車両故障などで大阪まで20時間かかった記憶があります。お盆で大混雑の昭和14年製の客車車内で大変でした。津叔父九州への夜行寝台特急は大阪発が「あかつき」京都発が「きりしま」名古屋発が「金星」だったと記憶しています。
還暦過ぎた爺さんです。両親宮崎県出身の大阪生まれで、帰省で、この列車使ってました。懐かしい。相席になったおじさんに、サンドイッチご馳走になったことを思い出したりしています。動画アップありがとうございました😭
1970年前後は「高千穂・桜島」です。雑誌「鉄道ジャーナル」に優れた紀行文も載って、小学生ながら憧れたものでした。 全盛期は特急用から格下げされた10系(マニを除く)中心で、全国でも珍しいオロ11(南シナ)やオシ17が連結された美しい編成でした。しかし、10系は老朽化も早く末期には43系中心でG車もスロ54になっていました。東京発着のEF58牽引客車急行として、「銀河」と共に1970年代初期まで輝いていたのを思い出しました。 懐かしい話題をありがとうございます。
数年前に他界した両親が共に宮崎県の出身だったので、子供の頃は寝台特急『富士』で宮崎県に行くのが、夏休み最大のイベント。前日夕方東京駅を出発して、翌日の午後宮崎駅到着。途中関門トンネルを通過する時、わくわくした思い出がある。
高千穂引き継がれた感じになる寝台特急富士号の運行時間が23時間59分ってのに衝撃を覚えた小学生の頃が懐かしいっす。
子供の頃、静岡まででしたが良く利用していました。朝10時に東京駅発の西鹿児島行き。なんてロマンがある列車だったと思いますが、何よりもドアは手動で走っているときにドアを開けて全身で風を浴びる事が楽しみでした。
関門トンネルを貫けてくるスマートな20系の寝台特急より屋根の形が不揃いで痛みの激しい高千穂の方が何故か好きでした。乗っている人もくたびれた感じで生活感満載の列車でした。
懐かしい映像ありがとうございます。廃止直前の1974年夏に全線乗車しました。乗り鉄ではないのですが、はやぶさ、富士の指定席がとれなかったので(当時はいっかげつまえに主要駅のみどりの窓口に早朝から並んで指定席券を買わなければならず、ハイシーズンの九州行きのブルートレインは一瞬で売り切れでした)高校生で一度くらい日豊本線回りで帰省してみようと思い高千穂を選択。東京ではなく、品川始発だった記憶があります。西鹿児島駅に着く頃には白い服は埃まみれで茶色く変色、振動が酷くて暫く歯が浮いていたのを覚えてます。
他人事で失礼かもしれませんが、今なら「ちょっとした思い出」では?もし、こんな列車が残ってたら寧ろ「買い」です。気分は「銀☆鉄道」‼遅すぎなコメントですが、「長旅おつかれさまです!」
寝台特急「富士」は東京発18:00で、日豊本線経由で西鹿児島着18:24と丸1日かかってました。急行「桜島・高千穂」は東京発は10:00で、地元・京都発が17:24くらいだった覚えがあります。この急行は他の列車と違って、グリーン車に「オロ10・11」系を連結してました。特急の「はやぶさ」「富士」とも同時期に共存してました。東京始発の寝台特急は16:30発長崎行「さくら」から始まって、16:45西鹿児島行「はやぶさ」(鹿児島本線経由)、17:00熊本行「みずほ」17:20発博多行「あさかぜ1号」18:00発西鹿児島行「富士」(日豊本線経由)で、あと発車時刻は失念しましたが、「あさかぜ2号」(博多行)「あさかぜ3号」(下関行)「出雲」(山陰本線経由・浜田行)「瀬戸」(宇野行)。「紀伊」(新宮行)当時、京都駅に旅客停車していたのは「さくら」「はやぶさ」「みずほ」そして名古屋発の寝台電車「金星」までで、他の下り列車は通過してました。「出雲」だけはディーゼル車へ変更(その逆も)で運転停車(どちらかは旅客停車)してました。新幹線がまだ新大阪止の頃は「あかつき」「彗星」「明星」などが走ってました。岡山まで延伸されて、やっと「月光」が現れた、昭和のお話です。
紀伊は新宮じゃなくて紀伊勝浦まで行ってなかったっけ🤔
お疲れ様です🎵ほぼ同じ区間の運転だった「特急 富士」が東京 18時発 西鹿児島18時30分 着のスジだった事を考えれば、「急行 高千穂」は速い列車だったんですね。食堂車付き、区間限定でも寝台車付きは、立派ですね🎵
高千穂号は、小学校の頃、1人で西鹿児島から東京まで乗りました!当時4年生でしたが、他人からは2年生くらいにしかみられない小さな男の子でしたので、同じボックス席の大学生のお姉ちゃんたちからかなり可愛がられた記憶があります
高千穂には乗車叶いませんでしたが、昔は急行日南というなかなか個性的な列車もありました。彗星や富士は利用しました。九州の田舎の駅に新大阪や東京行きの寝台特急が止まるのは今思うととてもすごい事でした。0系新幹線も乗りましたし、食堂車も利用しました。在来線特急ではちょっと強引な売り子さんもいました。すべて良き思い出です。
「高千穂・桜島」小学校低学年の頃まで存在していて、鉄道ジャーナル誌で乗車レポを読みました。東京横浜あたりから沼津まで乗せてくれと親にねだりたかった列車でした。オロ11以外にも10系座席が連結されていたんですね。
筑紫・さつま・霧島・桜島・屋久島・高千穂・日向・夕月・阿蘇・天草・ひのくに・雲仙・西海・平戸・五島・ながさき・ぶんご・くにさき・玄海・はやとも…等々東海道・山陽路を駆け抜けた九州方面長距離急行は今の新幹線が担う長距離輸送の原点となっていた列車達であり、当時から様々な目的で様々な利用客が利用していた…正に世に必要とされた列車でした。華やかで庶民には高嶺の花と云われた寝台車主体の特別急行はそれでも確かに人気が高く連日満席が続いていたと云われ、そんな列車の指定券が取れなかった客にもまたこれらの急行はその受け皿となり、繁忙期ともなると自由席を求めて長い行列が出来たりもしていた時代があった様です。これは私のあくまでも勝手な解釈であり、鉄道専門分野に精通された方々の見解とは異なるかも知れませんが…当時の主な長距離列車は現在のカテゴリーで言えば夜行列車に該当する列車が殆どであり、それ自体に対しては決して異論を挟むつもりはないのですが、厳密に云えば…当時の列車の性能では現在の新幹線の様なハイスピードで走れる訳もなく、どうしても所要時間が掛かってしまうのは当然であり、早朝に始発駅を発ったとしてもその日の内に目的地に到達出来ず(或いは有効時間帯の到達に難があり)、嫌が負うにも夜間に渡って運転しなければ利用者のニーズに応える事が出来なかった為、必然的に昼間だけでなく夜間も通じて運転する列車…いわゆる「昼夜間継続運行列車」…が現在の夜行列車と呼ばれる列車の原点だったと云えるのではないかと思います。現在の夜行列車は…どちらかと言えばあくまでも「夜発朝着」で完結する列車のイメージであり、原則昼間の運転は行わないのが基本で、そうした点に於いては当時の長距離列車とはかなり運転される理由や使命が異なる部分があった様に感じられます。ですので個人的にはこの当時の長距離列車で夜間も昼間もそれなりの時間、運転が継続される列車の事を夜行列車ではなく、「昼夜兼行列車」、又は「昼夜行列車」と勝手に称しております(笑)また、特別急行が徐々に寝台車主体の列車になってゆくのに伴い、途中深夜帯となる区間の沿線の各駅は例え主要な駅であっても次第に列車が停車しても客扱いをしない様になっていき、現在では運転停車と云われる言葉も一般的にも使われる様になりましたが、かつての長距離特急は深夜帯であっても主要駅にはきちんと停車して客扱いが成されていました。これは当時の長距離特急の役割の中に非有効時間帯の乗降であっても、座席利用する需要がそれなりに存在していた事を意味しており、特に高度成長期の当時が如何に経済活動が盛んであったかを象徴する様な状況であったかが理解出来る現象だと感じられます。長距離特急とは異なり、更に沿線の中小の各駅にも停車する長距離急行や普通列車は、こうした特別急行の補完的役割を併せ持ち、日々過酷な道中を走り続けていたと云えるのではないかと思います。長文失礼しました🙇
急行桜島+高千穂の存続はアメリカ統治下の沖縄の影響が大きかったらしいです。当時の沖縄では国鉄の指定券を入手するのが困難で、沖縄航路で鹿児島到着後にしか切符の購入ができなかった為に自由席主体の急行が必要だったのです。それと、末期に食堂車とグリーン車の連結が無くなったのは車両側の問題です。食堂車は併結相手の急行桜島にオシ17が連結されてましたが、この形式が急行きたぐにの火災事故の原因とされたため即日運行休止とされてそのまま廃止でした。またグリーン車のオロ11は無茶な冷房改造工事が祟って、たまたまこの時期に車体の寿命が尽きてしまったのです。なおこれ以降はもっと旧型で重いスロ54とスロ62が他の列車で生き残る事になりました。
ご視聴ありがとうございます。高千穂が生き残ったのは、沖縄からの連絡という特殊な事情もあったのですね。また、食堂車に関しては、最初北陸トンネル事故の影響で外されたのかなと思ったのですが、外されたのが事故前の72年3月なので(事故は11月)、これは単純な車両の老朽化か、不採算が原因と思われます。
@@koppe_233 [霧島]に限らず急行列車から食堂車が外され電車急行のビュッフェも営業休止が増えたのは特急増発に伴う要員不足によるもので特急の供食体制確保の為急行の食堂車要員を特急に回す為でした。オシ17・オシ16は当時まだ車齢20年に至っていなかったのですが軽量構造+水を多量に扱うこと、またオシ17は石炭レンジで扱いに熟練を要することなどから意外と傷みが早かったかも知れません(台枠などいずれも昭和一桁…と言っても同世代のスハ32はまだ現役車もありましてスロ62などは台枠は大正生まれの木造客車のそれを継ぎ接ぎした代物でしたが…)
@@SleeperExpressJNR それもあるだろうけど、当時慢性的にキャパ不足に悩まされてた時代だから、とにかく席を極力用意して積み残しをなくすことが至上命題で、食堂車をなくして普通車にするのが最適解であったのもあるかと思います。当時は少なくとも急行や普通は居住性より乗車機会だったので。
@@DJKotony そこは年末年始や旧盆時期、結構長距離夜行急行などはA寝台外して座席車挟む例がしばしばありました。食堂車も外された例も確かあった筈。牽引定数内に収まれば何でもあり。異形式でも世代が違ってもNoProblemだった在来一般型客車ならではの裏技でした。そして季節列車・臨時列車の~51号が新進気鋭の12系、一方定期列車は予備車の都合で座席指定席車に何故か車内ニス塗未更新ぶどう色2号塗装車が入ったり…或る意味カオスでしたがそこがまた面白かったのがあの時代の客レでした。
楽しくて、懐かしい投稿ありがとうございます。これからもお邪魔させてもらいますねに😊
03:16 この付近で時刻等をおっしゃっておりますが、先ず、昭和31年現在では上り列車の寝台車の解結は京都で行われておらず、大分で食堂車と共に連結したら東京まで連結しておりました(京都駅で寝台を解体し座席車扱いになったという事でしたら申し訳ありません)因みに、昭和35年10月より寝台車が1両増結し、この二等寝台が西鹿児島迄全区間連結していましたさらに細かい事では御座いますが、列車名命名から「げんかい」との併結を止める昭和31年11月迄は列車名「たかちほ」と平仮名書きで、漢字の「高千穂」になったのは単独運転後で御座います距離的には「高千穂」が長いのですが、イメージ的にむっちゃ長く感じるのは「筑紫→さつま」でした。なにせ「二晩夜行」って長距離各駅停車じゃないんだからって感じですよね(笑)
高千穂懐かしい、、、小学校の頃弟と今は亡き母親と3人で、名古屋の叔母宅へ遊びに行くため尾張一宮まで乗りました。確か桜島と併結していました。東京発10時丁度だと記憶しています。
途中説明があるよう、廉価な交通手段を維持する、学生のみならずマル優などのためでもあった。また、東京から見たら不要に見える列車も、それぞれの沿線住民からすれば駅に行くと「東京行」の列車があるというのは心強かったこれが国鉄の存在意義だったと思う
昭和51年頃の年末に、臨時ですが「高千穂」は名古屋始発で運転されました。
昔、大変お世話になった急行列車【高千穂桜島】大好きでした。大学生になったばかりの時に学割を使って静岡広島間を周遊券で3往復しました。当時5100円でしたが学割で2割引きでしたので4100円で3往復したことを覚えています。夜間寝ているときに停車から発車時の牽引の衝撃がまた貴重な体験でした。今では、味わうことができませんのでこの列車への思い入れは半端じゃありませんよ。復活してくれれば絶対に利用します。わが青春です。忘れもしません、牽引機関車はEF58でしたね。
昭和41年に従兄と宮崎(小林)に一緒に帰るのに乗ったのを覚えています。これ以前は、博多まで行って、急行えびので肥薩線・吉都線経由で帰るのが普通でしたが、初めて日豊線経由でした。窓が開いたのが何故か嬉しかった記憶があります。
高校生の昭和48年に熱海から大阪まで乗りました。10系座席車の長編成でガラガラ、EF 58がぶっ飛ばして日中の東海道を下りました。アップありがとうございます。
1973年3月に赤千穂・桜島で東京から西鹿児島まで乗り通した。当時は均一周遊券があり、九州内は有効期間中は乗り降り自由で、東京からの行き帰りは、急行の自由席であれば料金に含まれていた。就職も決まり、4月1日の辞令交付日までの最後の自由時間を九州で過ごそうと思った。この列車の旅は実に面白かった。1人旅だったので窓際に座っていたが、4人座席の相席の人が列車の進行に連れて次々に代わっていった。深夜に広島で乗車した米軍相手のホステスは深夜の仕事の帰りにこの列車を利用していると言ってたように。長距離を乗り通すのではなく、比較的中距離客が多いように感じた。
良い動画ありがとう😂スピード時代の今、当時の情緒ある寝台夜行列車はいいですね、50年位前に東京駅か15分頃間隔で発車していたブルートレインを思い出しました。
時代の流れで今やバスだからな😢
急行桜島と高千穂が存続した理由沖縄で国鉄の指定券が買えなかったから船で鹿児島まで行って指定券無しで乗れる列車が必要だったから
そうだけれど、沖縄まで行く人は人数的には少数派、当時は、鹿児島や宮崎だけじゃなく、川内や出水、都城や、佐伯や…このあたりから、東京というより静岡とか浜松、新大阪駅や伊丹の空港からは不便な関西の各地域、このあたりを定期的に(月1とか2とか)行き来する人も多かったその結果、その2点を乗り継がず一晩で移動できたので…列車としての利便性が大きかったし…だって夜行区間って山陽線の西の方(岡山~下関)だったでしょう。そしてこの山陽の西の区間は各地と1日の日中で移動できたから、別に広島発着の急行があったりした…だからですよ!
@@jiroukatayama9004 重要なのは沖縄へ行く人でなく、沖縄から日本へ来る人。日本としては「あくまでも沖縄は日本固有の領土」「日本人であるべき琉球民の本土へのアクセス権の確保」を理由に必要だったってことでしょう。のちに設定される特急なはもそんな理由で設定されたものだし。
復帰当時はもちろん沖縄県内にはみどりの窓口は無かったですからね。ついでに飛行機なんてとんでもない贅沢品。奄美群島を転々と船で渡って鹿児島に着いてもその日の寝台券はとっくに売り切れてた時代でしたね。
@@APW_Manbow なるほど、1975年改正では有明とひかりの自由席で上京できるようになったので必要なくなったということですね。しかし国鉄は「ブルートレインに乗るビジネスマンと違って急行自由席のエコノミー層が新幹線にシフトするわけない」ということが根本的に理解できておらず東北新幹線開業時に「津軽」で大問題に…
ムーンライトながら廃止でも理解されてなかったですね。結果的に昼間にしわ寄せが来て、313系を増備する羽目に。まあ今やバスにシフトする層はふえましたが。長距離だとLCCへの転移も。
高千穂と同じ経路で寝台特急「富士」があったね。その後は「富士」が南宮崎までになってから博多回りの「はやぶさ」が最長になったんじゃなかったっけ?
富士は宮崎まで短縮された後、南宮崎まで再延長じゃなかったでしたっけ?
最初は全て座席💺車両!その後にニーズに答えて寝台車等を連結導入!そしてここから座席💺寝台混合列車!寝台列車!にわかれた。そして違いは北海道での寝台車の座席💺一般使用!今はサンライズののびのびカーペット💺!それが該当だけど許される限り走り続けてほしい。
富士🗻と言いながら大分や宮崎まで向かうと言うギャップが何とも違和感バリバリでした事実上は逆で東京方向へ向かう為の特急だったらしいですからね
昭和の頃、鉄道ファンの読者投稿欄で売ります買いますみたいなコーナーがあり、ヤフオクもメルカリもない時代に手に入れた、昭和50年の博多開業前の古い時刻表で初めて存在を知ったのがこの急行を含む長距離列車でした。こんな列車が自分がまだ小さいころには走ってたんだとびっくりしたものです。さらにその投稿欄で、昭和42年の時刻表もそれなりの金額を払って買いました。古い時刻表を見てワクワクしてた自分が、大人になって、どんな因果か、時刻表を作る側に回ったのには我ながら驚きました。歴代編集長とも話す機会があり、この経緯を話すと、懐かしい列車知ってるね~と、乗車体験を教えていただいたことがあります。もうすでに転職してしまいましたが、懐かしい思い出です。
高千穂 桜島、併結時代。大阪駅で見送りました。日豊本線、西鹿児島行き、急行(高千穂)の行き先表示板が旅への誘いに胸が熱くなりました! 鹿児島本線経由、桜島の方が2時間?ぐらい鹿児島に着くのが速かったかな?
懐かしいですねえ。子どもの頃、両親と兄弟合わせて5人で、京都~USA(宇佐)間で何度か利用しました。高千穂は京都からだと座席に座れず、通路に新聞紙を引いて座り込んだり寝たりしました(笑)。今では考えられない移動ですが、当時はみなさんそうしていたので、恥ずかしいと思わなかったですね。夏はとても暑く、冬はかなり寒かったです。日南や彗星、富士も、小学生の頃から社会人になってもからも、京都~USA間で利用し、学業や仕事など終えてから乗車しました。今では新大阪から新幹線のみずほやさくらを朝6時代に利用してます。
九州の夜行急行は貴重でしたね。平成の時代でも急行かいもんとかありましたから周遊券が使える夜行は有り難い存在。夜行普通列車ながさき、もありましたからね。今は夜行はバスの天下なのが残念、大垣夜行が消滅したのは本当に周遊券や18きっぷ利用者に大打撃。もっと夜行を残して欲しかった。
王貞治さんも巨人入団後宮崎キャンプに参加する際に乗車され到着した後の写真を拝見しました!
当時の巨人は1軍は飛行機で2軍と新人は列車で宮崎入りしてたというのを本で読んだ記憶がある。
その高千穂が寝台特急「富士」に取って変わられて一時期富士が最長運航の座についてたけども2009年に消えちゃったよね(´・ω・`)今何とか残ってるサンライズ瀬戸・出雲もいつまで残ってくれるのかなあ……
誠に善き動画を有難うございます😂動画最後の出典エンドロールに、この映像の信憑性の高さが垣間見えます👍️高千穂時代を知らぬ鹿児島本線沿線沿い出身の者ですが、はやぶさ、金星、明星、なはの寝台特急が走る勇姿、子供心に夢が踊るものでした…今やすっかり、くたびれたオッサンです…😅(長文失礼しました🙇)
三宮駅ホームで夕方西鹿児島行き急行[桜島,高千穂]併結列車を見た記憶がある。夫々🍀が連結され[桜島]は食堂車🍴も営業していた。東京⇔西鹿児島の乗客なら食堂車を3回ほど利用するはず(🌅🌃🌅)
夜行急行の食堂車…当時は宇都宮照信氏も乗勤されたのだろう。確か著書に「雲仙」での記述がありました。
懐かしい、清水駅で1回見ただけです。
父方の婆ちゃんが安くて乗り換えの要らない高千穂を好んで、名古屋からの帰りに清水まで乗ってました。小学生時代に一緒に乗った時から速いだけでつまらない新幹線には目もくれず高千穂愛用仲間に。できる事なら母方の親戚がある大分にも乗ってみたかったですが、15時台に名古屋を出て行くEF58と10系を眺めて思いを馳せるにとどまりました。
今から47年前高校生の時、急行高千穂で東京→宮崎間自由席に乗りました、27時間掛かったと記憶してます
4:14「高千穂」は日豊本線巡礼の列車だったんだ.....。😅
確か終盤は「高千穂・桜島」ではなかったでしょうか?高千穂が日豊本線経由、桜島が鹿児島本線経由の共に西鹿児島行だった記憶が?オハフ33、オハ47、ナハ10と多彩な編成でした。大垣→大阪まで乗車した時に、大阪到着時「危険ですから、列車が止まるまでお待ち下さい」のアナウンスが印象的でした。
ご視聴ありがとうございます🙇♀ご指摘の通り動画内の説明に誤りがあり、概要欄にて訂正しております。詳しくはそちらをご一読いただければと存じます◎
高千穂・桜島なのでは? 私は1970年代、東京駅の横須賀線ホームの隣のホームに止まって発車を待つ高千穂・桜島を見た思い出が今も鮮明に残ってますよ。
桜島・高千穂号の廃止後、オロ11型やナハ10系が鹿児島線の遠賀川駅の南側の側線(現在のレールセンター)にしばらく留置されてました。
幼稚園児やってた頃に名古屋↔︎中津で乗った覚えがあります。ぎゅうぎゅう詰めで新聞紙ひいて座ってたような…今では考えられない昔の列車旅ですね
ラオスからタイに入国して国境の街ノンカイ〜バンコクのクルンテープアピワットまで1940発の寝台特急二等二段寝台券を買いました。日本じゃ夜行はほぼ壊滅だけどこっちじゃ生き残ってる。時期次第じゃLCC航空券より高いけど、食堂車連結の夜行列車に勝があると思ってます。
東海道新幹線開業時には、寝台車、食堂車を外されながらも奮闘した感がある。今の情報発信時代にこういう長距離急行に乗り、新幹線、特急列車が追い越して行くのを尻目に見ながら、鉄道マニアはどう発信するのか興味がある。時代のギャップでこういう列車の情報はワクワクする。
高校生の頃(1974年)、高千穂(日豊本線経由)と併結されていた桜島(鹿児島本線経由)に乗ったことがあります。その頃は東京駅10:00発(夏休みなど繁忙期は品川発)だったと記憶しています。日付が変わると列車番号も変わるのが面白かったです。途中、山陽本線の事故で遅れ、30時間以上も乗っていたので、降車後にトイレにいったらおしっこが茶色になっていてビビりましたw
岐阜〜東京(神奈川だったかも)でグリーン車に乗りました。スロフ62という車両でした。見た目は旧型でしたが、車内はサロ165などとあまり変わらなかったので驚いたものです。
子供の頃、寝台特急さくらに乗りました。最近、寝台特急が消えそうですがサンライズに乗ってみたい
それでは相方のきりしま号も後日作成希望ですね~内田百閒阿房列車御用達列車。
実家に、最寄り駅の時刻表が貼っていました ものごころついての頃、始発東京終点東京を見てなんか感慨をおぼえました 嬉しかったですね おらが駅には東京行き列車が停まること うp主さん有難うございました!
全ての乗客が東京-西鹿児島全区間乗り通した訳では無いだろうけど直角のボックスシートで長時間の乗車は腰やお尻が痛く成るでしょう「座って移動出来るだけマシ」と言う時代からするとそれでも贅沢かも知れないですが
昔、小学生の頃、豊橋から、東京迄、乗って来た思い出がありました。貸し切りのような状態で、良い思い出した。
九州直通の急行櫻嶋・高千穂のきょうだい列車は座席💺列車で最長期的だったが末期でモノクラスだけで山陽新幹線の博多延伸の503であっけなく廃止し、まさにボンビー旅行で周遊券御用達列車やろ✋🚃
昭和50年3月、新幹線博多開業で、桜島・高千穂号が廃止になると言うニュースが流れ、昭和49年の夏か秋に豊橋駅まで行って、写真を撮りました。乗れば良かったと後悔しています。
寝台特急富士についてもとりあげる動画作ってこっちは東京を夕方出発して西鹿児島到着は翌日の夕方だったな
急行 高千穂・桜島 乗ったな〜 東京駅10:00AM発やった エエ旅やった...
発車するときのガックーンが客車の醍醐味。電車の滑るような加速は乗り心地は良いが、醍醐味に欠けると思うのは私だけ?
基本鹿児島の客車でしたが廃止前は尾久の客車も連結されてましたね
大垣夜行は、電車化される客車時代は大阪まで行ってたんではありませんでしたかね?
そだよ~😋
かつては九州の地域名が冠された急行列車が多数走っていた。余裕のない九州地方の乗客はこれらの列車で上京していた。1960年代は多客をさばくために16両編成もあり、私は真夜中にSLでこんな列車を走らせていた。C59だとずいぶん重かった。
>九州の地域名が冠された急行列車新幹線開業前の東海道本線急行(なにわ・せっつ・いこま等)もそうだったけど、東京もん視点での命名ですよね。
@@けん-o4y さん すべてが東京からの目線でしたね。
桜島の食堂車は、きたぐにの列車火災の前の通称ヨン白紙ダイヤ改正の時に外されています。その時から桜島編成と高千穂編成は、共通運用になった。
貨物なら札幌~福岡なんつ~のもあるでよ!😋7:31 少し違うな。夜行客車急行の電車&気動車化が進んだのはJR化してから。北海道の「まりも」等、九州の「かいもん」等が好例😉
でも良く考えたら鹿児島本線はほとんど複線!しかし日豊本線は小倉~大分と国分~鹿児島の部分は複線だけどほとんどが単線区間!でも鹿児島本線!日豊本線!どちらにおいてもほぼ同様レベルの車両内容だった!って事は変わらない。霧島と高千穂!かいもんとにちなん!富士とはやぶさ!そしてドリームつばめとドリームにちりん!懐かしい夜行列車の日々に!
八代以南単線だけど…😉
最後の時期の併結列車は霧島ではなく、(鹿児島線経由の)急行桜島ですよね。この頃高千穂で、西鹿児島から大阪まで行ったことがあります。全車自由席なのですが、年末年始などの多客期には西鹿児島の駅に並ぶと50円の整理券が発行され、席だけは確保できました。西鹿児島→大阪で桜島ではなく、わざわざ日豊線まわりの高千穂を選んだのは、時間がかかる分少しでも空いているという理由からでした。トイレに行くのも大変なくらい満員で90度直角のボックス席、親は大変だったろうなと思います。それでも座れるだけマシだと考えたのでしょうね…。西鹿児島の駅を出てすぐに通る鹿児島機関区からヘルメット姿の伯父が手を振ってくれていたのを昨日のことのように想い出します。動画ありがとうございました。
ご視聴ありがとうございます。調べたところ、高千穂の併結相手は、1968年10月の列車再編時点では霧島でしたが、その後1970年10月に桜島に改称され、同時に京都•西鹿児島間の電車寝台特急きりしまが運行を開始した、というかなりややこしい経緯があった様です。動画中の霧島から食堂車が外された、という表現は誤りですので、概要欄で訂正させて頂きます。
@@koppe_233 ご丁寧にありがとうございます。御指摘の通りで、私の記憶に残っている霧島は京都↔西鹿児島の電車特急です。また大阪から電車寝台の明星に乗って、熊本まで行き、そこから満席だったために西鹿児島まで桜島のグリーンに乗った記憶があるのですが、桜島・高千穂は最後の時期は自由席のみだったはずです。いずれも72年の新幹線岡山開業と75年の博多開業の間の時期の話です。
高千穂と併結していたのは桜島だったのでは?
探せば東京駅出発直後の「桜島·高千穂」 の車内放送があるはず。残念ながら途中駅の案内は入ってないが霧島も高千穂も「ハニ(多分)+ロザ+ハ×5」の編成だと推測出来るかな。乗りたかったな。住んでる処には山岳夜行くらいしか無かったから。
所要24時間を超えるということは、同一列車が同時走行していた時間帯があったわけだ。
この頃のグリーン客車はオロ11でしたが、かなり状態が悪く外板も窓枠もガタガタだったと人から聞きました。本当に安くで移動するためだけの列車だったのですね…最終日の打ち切りの話、私は初耳でした。記録しておられたらで構いませんが、どこでその記載を見られましたか…?
ご視聴ありがとうございます。以下の参考文献で知りました。hobbycom.jp/workshop/library/tetsudomeiressha/100.htmlあと、今調べて気づいたのですが、大分ではなく別府止まりだったようです。概要欄で訂正いたします。
@@koppe_233 丁寧な返事を頂きありがとうございます。このホビコムのサイトは見た事が無かったように思います。教えて頂き、非常に勉強になります。
AU13を載せて冷房化を計ったお陰で一気にガタがきた
丸救制度があったので長距離でも急行は無くせなかったのでは
「夜汽車」なんて、なんとも旅情を掻き立てる響きと思うが、死語になってしまうのだろうか?
「WE銀河」がそういう雰囲気醸し出せるかどうか?
上りと下りの高千穂桜島が途中で三回すれ違うということだが、そう言われてその理屈か分からなかったが今は良く分かる 笑
高千穂って1980頃まで関西~九州で定期運用されてませんでしたっけ?五島と併結で。
昔は列車は「乗車する乗り物」だったが現代では「利用する乗り物」昭和の頃のは「本日は、ご乗車いただき、ありがとうございます」と車掌さんが訛りながら放送していたが、現代では「本日は JRをご利用いただき‥」と自動放送に変わってしまった。
おそらく、鹿児島から東京まで、東京から鹿児島まで全区間乗車していた人はそんなに多くなかったんじゃないかな。寝台急行でもあり、未明でもこまめに停車していたことから、区間、区間での乗車も多かったように思います。私の知り合いが鹿児島から就職のためにこの「高千穂」に乗って上京したが、余りにも過酷な旅だったので、東京に到着して一週間くらい体調がおもわしくなかった、みたいな話を聞いたことがあります。
桜島号?どうなった?
高千穂と桜島は、最後のオロ11だったと思います。また最後の方はグリーン車も非連結でオール普通車自由席でしかも最後は大分止まりだった。桜島と高千穂は、鹿児島運転書所属で3編成づつ必要で効率も悪かったんだと思う。本当はヨンナナサンで名古屋か、大阪を始発駅にしたがったそうです。
高千穂、桜島じゃないの😢
特急富士号じゃないのですか?
富士と高千穂は同一区間同一経路なので、どちらもタイスコアの最長列車です。
@@鷂よめないとり ありがとうございます。
京都駅での、寝台車の、解結は、有りませんでしたよ。大分で、食堂車、ロネ、ナハ、ハザの解結、門司でハザ、宮﨑でも、ハネの、解結もあったかな?
高千穂は沼津静岡間で清水に停車する唯一の昼行客車急行で、旅行するときの選択候補だった。雲仙西海、霧島は富士停車だった。霧島・高千穂併結になって、富士清水の両駅に停車するようになった。この時代の客車急行は電車急行の停車する湯河原や三島は停まらなかった。上野から東北方面の夜行列車は運行する技能が残っている間に一本でも復活させてほしい。
問題は採算性とJR各社の調整、車両と人員の確保等という現実。私個人としては、あなたの御意見には大賛成なのですが…
なんかここまで来たらもうちょい先の枕崎まで行って1600キロ超えしてほしかったですね(笑)
それなら当時残ってた(今の)上野東京ライン経由で高崎(もしくは黒磯)発にしたほうがw
はじめまして今日チャンネル登録をしましたよろしくお願いいたします
自分も豊橋まで良くこの列車を利用しました。東京10時発で桜島と連結だと思っていましたが、動画では時間も連結相手も違っていて、もう耄碌したかとショックでしたが、ほかの方の投稿を見て安心しました。清水の手前から進行方向右手に清水市内線が走っており、来年は絶対乗ろうと思っていたら、翌年の集中豪雨で罹災し廃止になったのは、今でも悔しいですね。
‘74年頃にあった大雨ですか…実は‘91年に当時の清水市を訪問したのですが、これまた当時、市内にあった菓子屋「み○や」で豪雨の事に触れたのですが、そこのオバちゃま曰く、「よく御存知ですね、あれ『七夕豪雨』って言ってまして、市内電車も被災して無くなりましたよ。」との事です。
みなさんは夜行列車の効用を正しく理解できていない新幹線であっても航空機であっても、比較的大きな都市の中心に、あるいは郊外の1点でしか乗り降りができないもちろん乗り換えればいいけれど、両側で待ち時間を含めプラス1時間それに夜間は走っていない…しかし、地方に出かける時、その逆、何も1つの用事だけで長距離移動はしないし、1か所だけの観光だって無駄!で朝8時には現地に着きたい、21時位に解散ができる。でも前後にわざわざホテルを取らなくてもいい更に、旅行気分だと旅程の途中で下車をして…これができるのに、何で2点間移動&ハブ・スポークが効率的なのか?なぜ夜間に移動できないのか(0:00~6:00の新幹線が走れない時間に約500キロは移動できる)さらに、列車は、設備さえあればちょっとしたカフェもできるし、電源と通信環境さえあれば、走行中に会議もクラウドを使った仕事もできる…夜行バスじゃ正直無理!夜間の時間は寝る以外は無駄!!+5000円~10000円なら払ってもホテル代と比べれば…これだけのインフラを全国に張り巡らせないから日本経済は停滞(後退)してしまう!!
夜間に電車を走らせる止めるには昼間以上にコストがかかるわけで。単純に深夜割増賃金が発生するし、電車が来ないの見計らってほせんだから非効率。しかも1本でも深夜に停車する電車があれば駅は開けておかなければならない。そんな贅沢なことができたのは国営ゆえに採算なんて考えずに税金を垂れ流せばよかったからで、そのツケは我々が税金を通して返済してます。
JR東日本・九州「通勤時間帯の貴重な線路やホームを…」JR東海「深夜に通過されるだけなのに保線の邪魔はされるわ悪天候時に居座られるわで堪りません」JR西日本「朝も夜も微妙な時間に停車されてもなあ…」JR貨物「我々が機関車と運転士用意しなきゃならんのですか!?」全員「車両の管理は誰がするのよ」↓結論:止めようぜ
残念ながら今はホテル🏨代プラス¥5,000~10,000払っても飛行機✈️or新幹線🚅+ホテルが主流😁
今の若い方には分かんないかなあ。まあ、50年以上前の話だから想像つかないか。ヨンサントウの前後なんて、20系九州特急に乗って上京なんてのは贅沢だったの。庶民は乗れなかったんだよ。若い人は就職のとき、みんな霧島か高千穂の座席で来たんだ。
富士が宮崎以南がDF50で西鹿児島まで行っていた時代を知ってる世代にとって、最長距離列車と言われたら富士であって高千穂とか言われてもピンとこないんだよね。
特急富士が西鹿児島まで行っていたのは、昭和40年から55年の15年間だけ。ブルトレブームがあったから印象に残っているだけ。
そうだよ。でも高千穂は現役時代を見ていないのに対して、富士は現役で西鹿児島行きだった時代を見ているので全然印象が違う。アラフィフの世代でも高千穂が廃止されたころは生まれてないか良くて園児だけど、富士が宮崎止まりになったころはもう小学生だからね。
車両はほぼ同じ(?)の雲仙に乗ったことがあります。機関士の技量によるものなのか、制動の際、転倒したことが…
岩切章太郎の匂いを感じる。
4:15 これはさすがに日本ではない(笑)アフリカかな?
寝台特急はやぶさ号もお忘れなく!トゥワライトエクスプレスより長距離だった『はやぶさ』が語られないのはオカシイ!それから、他の方のコメントで『高千穂』の後に『富士』と思われている方が複数おられますが、『高千穂』と『富士』は昭和40年代の10年間、同じ時代に在りましたよ!『はやぶさ』も30年代のデビューだったので『霧島』『桜島』と重なっていました。
一方SDGsの観点からヨーロッパでは夜行列車が復活。日本は相変わらず昭和なモータリゼーション。w
今更夜行列車復活させても高速バスより高くて窮屈で誰も乗らない定期。
当時は政治の力が左右していましたね。
関係なくて草😉
大阪-大分なら関西汽船でゴロ寝したほうが楽そう(時間もさほど変わらないのでは)
フェリーとどっちが遅いんかな
現在急行桜島高千穂があったら乗って見たかった
乗り鉄として乗ってみたーーーいo(>
ご視聴ありがとうございます。複数の方のご指摘により、動画中で「霧島」の「桜島」への名称変更に触れていない、同率で日本最長列車だった「富士」を紹介していないなど、いろいろ不備が判明したため、概要欄で訂正・補足しました。概要欄をご一読いただけると幸いです。
「霧島」は、京都〜西鹿児島の寝台特急電車に名称が移りました。「きりしま」とひらがなです。581系のメリットを活かし、全区間食堂車も営業。京都発着なのは当時向日町運転所が一杯(中国、九州方面の電車のみならず山陰方面のディーゼルカーで溢れていた)なので、野洲駅で停留させていたと聞いています。新幹線博多開業後は「なは」または「明星」に改称されました。
😢
☆ 50年ちょっと前伯父さんの車に乗って湘南方面に行った時に「桜島・高千穂」が通過していくのを見た記憶がある。
1971年当時日豊本線経由西鹿児島行き寝台特急「富士」が日本最長列車だと記憶しています。この年、急行桜島大阪からで西鹿児島に向かうも大雨災害のため鹿児島本線が八代以遠が不通となっており、熊本で運転打ち切り。そのため熊本で急行「えびの」に乗り換えて肥薩線経由で西鹿児島に向かうも、途中人吉で国鉄バスに乗り換えて小林の友人宅に向かったことがあります。帰りは都城から臨時急行「屋久島」で帰阪。先行の特急「彗星」の車両故障などで大阪まで20時間かかった記憶があります。お盆で大混雑の昭和14年製の客車車内で大変でした。津叔父九州への夜行寝台特急は大阪発が「あかつき」京都発が「きりしま」名古屋発が「金星」だったと記憶しています。
還暦過ぎた爺さんです。両親宮崎県出身の大阪生まれで、帰省で、この列車使ってました。懐かしい。相席になったおじさんに、サンドイッチご馳走になったことを思い出したりしています。動画アップありがとうございました😭
1970年前後は「高千穂・桜島」です。雑誌「鉄道ジャーナル」に優れた紀行文も載って、小学生ながら憧れたものでした。
全盛期は特急用から格下げされた10系(マニを除く)中心で、全国でも珍しいオロ11(南シナ)やオシ17が連結された美しい編成でした。しかし、10系は老朽化も早く末期には43系中心でG車もスロ54になっていました。東京発着のEF58牽引客車急行として、「銀河」と共に1970年代初期まで輝いていたのを思い出しました。
懐かしい話題をありがとうございます。
数年前に他界した両親が共に宮崎県の出身だったので、子供の頃は寝台特急『富士』で宮崎県に行くのが、夏休み最大のイベント。前日夕方東京駅を出発して、翌日の午後宮崎駅到着。途中関門トンネルを通過する時、わくわくした思い出がある。
高千穂引き継がれた感じになる寝台特急富士号の運行時間が23時間59分ってのに衝撃を覚えた小学生の頃が懐かしいっす。
子供の頃、静岡まででしたが良く利用していました。朝10時に東京駅発の西鹿児島行き。なんてロマンがある列車だったと思いますが、何よりもドアは手動で走っているときにドアを開けて全身で風を浴びる事が楽しみでした。
関門トンネルを貫けてくるスマートな20系の寝台特急より屋根の形が不揃いで痛みの激しい高千穂の方が何故か好きでした。乗っている人もくたびれた感じで生活感満載の列車でした。
懐かしい映像ありがとうございます。廃止直前の1974年夏に全線乗車しました。乗り鉄ではないのですが、はやぶさ、富士の指定席がとれなかったので(当時はいっかげつまえに主要駅のみどりの窓口に早朝から並んで指定席券を買わなければならず、ハイシーズンの九州行きのブルートレインは一瞬で売り切れでした)高校生で一度くらい日豊本線回りで帰省してみようと思い高千穂を選択。東京ではなく、品川始発だった記憶があります。西鹿児島駅に着く頃には白い服は埃まみれで茶色く変色、振動が酷くて暫く歯が浮いていたのを覚えてます。
他人事で失礼かもしれませんが、今なら「ちょっとした思い出」では?
もし、こんな列車が残ってたら寧ろ「買い」です。
気分は「銀☆鉄道」‼
遅すぎなコメントですが、「長旅おつかれさまです!」
寝台特急「富士」は東京発18:00で、日豊本線経由で西鹿児島着18:24と丸1日かかってました。急行「桜島・高千穂」は東京発は10:00で、地元・京都発が17:24くらいだった覚えがあります。この急行は他の列車と違って、グリーン車に「オロ10・11」系を連結してました。特急の「はやぶさ」「富士」とも同時期に共存してました。
東京始発の寝台特急は16:30発長崎行「さくら」から始まって、16:45西鹿児島行「はやぶさ」(鹿児島本線経由)、17:00熊本行「みずほ」17:20発博多行「あさかぜ1号」18:00発西鹿児島行「富士」(日豊本線経由)で、あと発車時刻は失念しましたが、「あさかぜ2号」(博多行)「あさかぜ3号」(下関行)「出雲」(山陰本線経由・浜田行)「瀬戸」(宇野行)。「紀伊」(新宮行)当時、京都駅に旅客停車していたのは「さくら」「はやぶさ」「みずほ」そして名古屋発の寝台電車「金星」までで、他の下り列車は通過してました。「出雲」だけはディーゼル車へ変更(その逆も)で運転停車(どちらかは旅客停車)してました。新幹線がまだ新大阪止の頃は「あかつき」「彗星」「明星」などが走ってました。岡山まで延伸されて、やっと「月光」が現れた、昭和のお話です。
紀伊は新宮じゃなくて紀伊勝浦まで行ってなかったっけ🤔
お疲れ様です🎵
ほぼ同じ区間の運転だった「特急 富士」が東京 18時発 西鹿児島18時30分 着のスジだった事を考えれば、「急行 高千穂」は速い列車だったんですね。
食堂車付き、区間限定でも寝台車付きは、立派ですね🎵
高千穂号は、小学校の頃、1人で西鹿児島から東京まで乗りました!当時4年生でしたが、他人からは2年生くらいにしかみられない小さな男の子でしたので、同じボックス席の大学生のお姉ちゃんたちからかなり可愛がられた記憶があります
高千穂には乗車叶いませんでしたが、
昔は急行日南というなかなか個性的な列車もありました。
彗星や富士は利用しました。
九州の田舎の駅に新大阪や東京行きの寝台特急が止まるのは今思うととてもすごい事でした。
0系新幹線も乗りましたし、食堂車も利用しました。
在来線特急ではちょっと強引な売り子さんもいました。
すべて良き思い出です。
「高千穂・桜島」小学校低学年の頃まで存在していて、鉄道ジャーナル誌で乗車レポを読みました。
東京横浜あたりから沼津まで乗せてくれと親にねだりたかった列車でした。
オロ11以外にも10系座席が連結されていたんですね。
筑紫・さつま・霧島・桜島・屋久島・高千穂・日向・夕月・阿蘇・天草・ひのくに・雲仙・西海・平戸・五島・ながさき・ぶんご・くにさき・玄海・はやとも…等々
東海道・山陽路を駆け抜けた九州方面長距離急行は今の新幹線が担う長距離輸送の原点となっていた列車達であり、当時から様々な目的で様々な利用客が利用していた…正に世に必要とされた列車でした。
華やかで庶民には高嶺の花と云われた寝台車主体の特別急行はそれでも確かに人気が高く連日満席が続いていたと云われ、そんな列車の指定券が取れなかった客にもまたこれらの急行はその受け皿となり、繁忙期ともなると自由席を求めて長い行列が出来たりもしていた時代があった様です。
これは私のあくまでも勝手な解釈であり、鉄道専門分野に精通された方々の見解とは異なるかも知れませんが…当時の主な長距離列車は現在のカテゴリーで言えば夜行列車に該当する列車が殆どであり、それ自体に対しては決して異論を挟むつもりはないのですが、厳密に云えば…当時の列車の性能では現在の新幹線の様なハイスピードで走れる訳もなく、どうしても所要時間が掛かってしまうのは当然であり、早朝に始発駅を発ったとしてもその日の内に目的地に到達出来ず(或いは有効時間帯の到達に難があり)、嫌が負うにも夜間に渡って運転しなければ利用者のニーズに応える事が出来なかった為、必然的に昼間だけでなく夜間も通じて運転する列車…いわゆる「昼夜間継続運行列車」…が現在の夜行列車と呼ばれる列車の原点だったと云えるのではないかと思います。
現在の夜行列車は…どちらかと言えばあくまでも「夜発朝着」で完結する列車のイメージであり、原則昼間の運転は行わないのが基本で、そうした点に於いては当時の長距離列車とはかなり運転される理由や使命が異なる部分があった様に感じられます。ですので個人的にはこの当時の長距離列車で夜間も昼間もそれなりの時間、運転が継続される列車の事を夜行列車ではなく、「昼夜兼行列車」、又は「昼夜行列車」と勝手に称しております(笑)
また、特別急行が徐々に寝台車主体の列車になってゆくのに伴い、途中深夜帯となる区間の沿線の各駅は例え主要な駅であっても次第に列車が停車しても客扱いをしない様になっていき、現在では運転停車と云われる言葉も一般的にも使われる様になりましたが、かつての長距離特急は深夜帯であっても主要駅にはきちんと停車して客扱いが成されていました。
これは当時の長距離特急の役割の中に非有効時間帯の乗降であっても、座席利用する需要がそれなりに存在していた事を意味しており、特に高度成長期の当時が如何に経済活動が盛んであったかを象徴する様な状況であったかが理解出来る現象だと感じられます。
長距離特急とは異なり、更に沿線の中小の各駅にも停車する長距離急行や普通列車は、こうした特別急行の補完的役割を併せ持ち、日々過酷な道中を走り続けていたと云えるのではないかと思います。長文失礼しました🙇
急行桜島+高千穂の存続はアメリカ統治下の沖縄の影響が大きかったらしいです。
当時の沖縄では国鉄の指定券を入手するのが困難で、沖縄航路で鹿児島到着後にしか切符の購入ができなかった為に自由席主体の急行が必要だったのです。
それと、末期に食堂車とグリーン車の連結が無くなったのは車両側の問題です。
食堂車は併結相手の急行桜島にオシ17が連結されてましたが、この形式が急行きたぐにの火災事故の原因とされたため即日運行休止とされてそのまま廃止でした。
またグリーン車のオロ11は無茶な冷房改造工事が祟って、たまたまこの時期に車体の寿命が尽きてしまったのです。
なおこれ以降はもっと旧型で重いスロ54とスロ62が他の列車で生き残る事になりました。
ご視聴ありがとうございます。高千穂が生き残ったのは、沖縄からの連絡という特殊な事情もあったのですね。また、食堂車に関しては、最初北陸トンネル事故の影響で外されたのかなと思ったのですが、外されたのが事故前の72年3月なので(事故は11月)、これは単純な車両の老朽化か、不採算が原因と思われます。
@@koppe_233 [霧島]に限らず急行列車から食堂車が外され電車急行のビュッフェも営業休止が増えたのは特急増発に伴う要員不足によるもので特急の供食体制確保の為急行の食堂車要員を特急に回す為でした。オシ17・オシ16は当時まだ車齢20年に至っていなかったのですが軽量構造+水を多量に扱うこと、またオシ17は石炭レンジで扱いに熟練を要することなどから意外と傷みが早かったかも知れません(台枠などいずれも昭和一桁…と言っても同世代のスハ32はまだ現役車もありましてスロ62などは台枠は大正生まれの木造客車のそれを継ぎ接ぎした代物でしたが…)
@@SleeperExpressJNR
それもあるだろうけど、当時慢性的にキャパ不足に悩まされてた時代だから、
とにかく席を極力用意して積み残しをなくすことが至上命題で、
食堂車をなくして普通車にするのが最適解であったのもあるかと思います。
当時は少なくとも急行や普通は居住性より乗車機会だったので。
@@DJKotony そこは年末年始や旧盆時期、結構長距離夜行急行などはA寝台外して座席車挟む例がしばしばありました。食堂車も外された例も確かあった筈。牽引定数内に収まれば何でもあり。異形式でも世代が違ってもNoProblemだった在来一般型客車ならではの裏技でした。そして季節列車・臨時列車の~51号が新進気鋭の12系、一方定期列車は予備車の都合で座席指定席車に何故か車内ニス塗未更新ぶどう色2号塗装車が入ったり…或る意味カオスでしたがそこがまた面白かったのがあの時代の客レでした。
楽しくて、懐かしい投稿ありがとうございます。これからもお邪魔させてもらいますねに😊
03:16 この付近で時刻等をおっしゃっておりますが、先ず、昭和31年現在では上り列車の寝台車の解結は京都で行われておらず、大分で食堂車と共に連結したら東京まで連結しておりました(京都駅で寝台を解体し座席車扱いになったという事でしたら申し訳ありません)
因みに、昭和35年10月より寝台車が1両増結し、この二等寝台が西鹿児島迄全区間連結していました
さらに細かい事では御座いますが、列車名命名から「げんかい」との併結を止める昭和31年11月迄は列車名「たかちほ」と平仮名書きで、漢字の「高千穂」になったのは単独運転後で御座います
距離的には「高千穂」が長いのですが、イメージ的にむっちゃ長く感じるのは「筑紫→さつま」でした。
なにせ「二晩夜行」って長距離各駅停車じゃないんだからって感じですよね(笑)
高千穂懐かしい、、、小学校の頃弟と今は亡き母親と3人で、名古屋の叔母宅へ遊びに行くため尾張一宮まで乗りました。確か桜島と併結していました。東京発10時丁度だと記憶しています。
途中説明があるよう、廉価な交通手段を維持する、学生のみならずマル優などのためでもあった。
また、東京から見たら不要に見える列車も、それぞれの沿線住民からすれば駅に行くと「東京行」の列車があるというのは心強かった
これが国鉄の存在意義だったと思う
昭和51年頃の年末に、臨時ですが「高千穂」は名古屋始発で運転されました。
昔、大変お世話になった急行列車【高千穂桜島】大好きでした。大学生になったばかりの時に学割を使って静岡広島間を周遊券で3往復しました。当時5100円でしたが学割で2割引きでしたので4100円で3往復したことを覚えています。夜間寝ているときに停車から発車時の牽引の衝撃がまた貴重な体験でした。今では、味わうことができませんのでこの列車への思い入れは半端じゃありませんよ。復活してくれれば絶対に利用します。わが青春です。忘れもしません、牽引機関車はEF58でしたね。
昭和41年に従兄と宮崎(小林)に一緒に帰るのに乗ったのを覚えています。これ以前は、博多まで行って、急行えびので肥薩線・吉都線経由で帰るのが普通でしたが、初めて日豊線経由でした。窓が開いたのが何故か嬉しかった記憶があります。
高校生の昭和48年に熱海から大阪まで乗りました。10系座席車の長編成でガラガラ、EF 58がぶっ飛ばして日中の東海道を下りました。アップありがとうございます。
1973年3月に赤千穂・桜島で東京から西鹿児島まで乗り通した。当時は均一周遊券があり、九州内は有効期間中は乗り降り自由で、東京からの行き帰りは、急行の自由席であれば料金に含まれていた。
就職も決まり、4月1日の辞令交付日までの最後の自由時間を九州で過ごそうと思った。
この列車の旅は実に面白かった。1人旅だったので窓際に座っていたが、4人座席の相席の人が列車の進行に連れて次々に代わっていった。深夜に広島で乗車した米軍相手のホステスは深夜の仕事の帰りにこの列車を利用していると言ってたように。長距離を乗り通すのではなく、比較的中距離客が多いように感じた。
良い動画ありがとう😂
スピード時代の今、当時の情緒ある寝台夜行列車はいいですね、50年位前に東京駅か15分頃間隔で発車していたブルートレインを思い出しました。
時代の流れで今やバスだからな😢
急行桜島と高千穂が存続した理由
沖縄で国鉄の指定券が買えなかったから
船で鹿児島まで行って指定券無しで乗れる列車が必要だったから
そうだけれど、沖縄まで行く人は人数的には少数派、
当時は、鹿児島や宮崎だけじゃなく、川内や出水、都城や、佐伯や…
このあたりから、東京というより静岡とか浜松、新大阪駅や伊丹の空港からは不便な
関西の各地域、
このあたりを定期的に(月1とか2とか)行き来する人も多かった
その結果、その2点を乗り継がず一晩で移動できたので…
列車としての利便性が大きかったし…
だって夜行区間って山陽線の西の方(岡山~下関)だったでしょう。
そしてこの山陽の西の区間は各地と1日の日中で移動できたから、
別に広島発着の急行があったりした…
だからですよ!
@@jiroukatayama9004
重要なのは沖縄へ行く人でなく、沖縄から日本へ来る人。
日本としては「あくまでも沖縄は日本固有の領土」
「日本人であるべき琉球民の本土へのアクセス権の確保」
を理由に必要だったってことでしょう。
のちに設定される特急なはもそんな理由で設定されたものだし。
復帰当時はもちろん沖縄県内にはみどりの窓口は無かったですからね。
ついでに飛行機なんてとんでもない贅沢品。
奄美群島を転々と船で渡って鹿児島に着いてもその日の寝台券はとっくに売り切れてた時代でしたね。
@@APW_Manbow なるほど、1975年改正では有明とひかりの自由席で上京できるようになったので必要なくなったということですね。しかし国鉄は「ブルートレインに乗るビジネスマンと違って急行自由席のエコノミー層が新幹線にシフトするわけない」ということが根本的に理解できておらず東北新幹線開業時に「津軽」で大問題に…
ムーンライトながら廃止でも理解されてなかったですね。
結果的に昼間にしわ寄せが来て、313系を増備する羽目に。
まあ今やバスにシフトする層はふえましたが。
長距離だとLCCへの転移も。
高千穂と同じ経路で寝台特急「富士」があったね。その後は「富士」が南宮崎までになってから博多回りの「はやぶさ」が最長になったんじゃなかったっけ?
富士は宮崎まで短縮された後、南宮崎まで再延長じゃなかったでしたっけ?
最初は全て座席💺車両!その後にニーズに答えて寝台車等を連結導入!そしてここから座席💺寝台混合列車!寝台列車!にわかれた。そして違いは北海道での寝台車の座席💺一般使用!今はサンライズののびのびカーペット💺!それが該当だけど許される限り走り続けてほしい。
富士🗻と言いながら大分や宮崎まで向かうと言うギャップが何とも違和感バリバリでした
事実上は逆で東京方向へ向かう為の特急だったらしいですからね
昭和の頃、鉄道ファンの読者投稿欄で売ります買いますみたいなコーナーがあり、ヤフオクもメルカリもない時代に手に入れた、昭和50年の博多開業前の古い時刻表で初めて存在を知ったのがこの急行を含む長距離列車でした。こんな列車が自分がまだ小さいころには走ってたんだとびっくりしたものです。さらにその投稿欄で、昭和42年の時刻表もそれなりの金額を払って買いました。古い時刻表を見てワクワクしてた自分が、大人になって、どんな因果か、時刻表を作る側に回ったのには我ながら驚きました。歴代編集長とも話す機会があり、この経緯を話すと、懐かしい列車知ってるね~と、乗車体験を教えていただいたことがあります。もうすでに転職してしまいましたが、懐かしい思い出です。
高千穂 桜島、併結時代。大阪駅で見送りました。日豊本線、西鹿児島行き、急行(高千穂)の行き先表示板が旅への誘いに胸が熱くなりました! 鹿児島本線経由、桜島の方が2時間?ぐらい鹿児島に着くのが速かったかな?
懐かしいですねえ。子どもの頃、両親と兄弟合わせて5人で、京都~USA(宇佐)間で何度か利用しました。高千穂は京都からだと座席に座れず、通路に新聞紙を引いて座り込んだり寝たりしました(笑)。今では考えられない移動ですが、当時はみなさんそうしていたので、恥ずかしいと思わなかったですね。夏はとても暑く、冬はかなり寒かったです。日南や彗星、富士も、小学生の頃から社会人になってもからも、京都~USA間で利用し、学業や仕事など終えてから乗車しました。今では新大阪から新幹線のみずほやさくらを朝6時代に利用してます。
九州の夜行急行は貴重でしたね。平成の時代でも急行かいもんとかありましたから周遊券が使える夜行は有り難い存在。夜行普通列車ながさき、もありましたからね。今は夜行はバスの天下なのが残念、大垣夜行が消滅したのは本当に周遊券や18きっぷ利用者に大打撃。もっと夜行を残して欲しかった。
王貞治さんも巨人入団後
宮崎キャンプに参加する
際に乗車され到着した後
の写真を拝見しました!
当時の巨人は1軍は飛行機で2軍と新人は列車で宮崎入りしてたというのを本で読んだ記憶がある。
その高千穂が寝台特急「富士」に
取って変わられて
一時期富士が最長運航の座に
ついてたけども
2009年に消えちゃったよね(´・ω・`)
今何とか残ってる
サンライズ瀬戸・出雲も
いつまで残ってくれるのかなあ……
誠に善き動画を有難うございます😂
動画最後の出典エンドロールに、この映像の信憑性の高さが垣間見えます👍️
高千穂時代を知らぬ鹿児島本線沿線沿い出身の者ですが、はやぶさ、金星、明星、なはの寝台特急が走る勇姿、子供心に夢が踊るものでした…
今やすっかり、くたびれたオッサンです…😅(長文失礼しました🙇)
三宮駅ホームで夕方西鹿児島行き急行[桜島,高千穂]併結列車を見た記憶がある。夫々🍀が連結され[桜島]は食堂車🍴も営業していた。東京⇔西鹿児島の乗客なら食堂車を3回ほど利用するはず(🌅🌃🌅)
夜行急行の食堂車…
当時は宇都宮照信氏も乗勤されたのだろう。確か著書に「雲仙」での記述がありました。
懐かしい、清水駅で1回見ただけです。
父方の婆ちゃんが安くて乗り換えの要らない高千穂を好んで、名古屋からの帰りに清水まで乗ってました。
小学生時代に一緒に乗った時から速いだけでつまらない新幹線には目もくれず高千穂愛用仲間に。
できる事なら母方の親戚がある大分にも乗ってみたかったですが、15時台に名古屋を出て行くEF58と10系を眺めて思いを馳せるにとどまりました。
今から47年前高校生の時、急行高千穂で東京→宮崎間自由席に乗りました、27時間掛かったと記憶してます
4:14「高千穂」は日豊本線巡礼の列車だったんだ.....。😅
確か終盤は「高千穂・桜島」ではなかったでしょうか?高千穂が日豊本線経由、桜島が鹿児島本線経由の共に西鹿児島行だった記憶が?
オハフ33、オハ47、ナハ10と多彩な編成でした。
大垣→大阪まで乗車した時に、大阪到着時「危険ですから、列車が止まるまでお待ち下さい」のアナウンスが印象的でした。
ご視聴ありがとうございます🙇♀
ご指摘の通り動画内の説明に誤りがあり、概要欄にて訂正しております。詳しくはそちらをご一読いただければと存じます◎
高千穂・桜島なのでは? 私は1970年代、東京駅の横須賀線ホームの隣のホームに止まって発車を待つ高千穂・桜島を見た思い出が今も鮮明に残ってますよ。
桜島・高千穂号の廃止後、オロ11型やナハ10系が鹿児島線の遠賀川駅の南側の側線(現在のレールセンター)にしばらく留置されてました。
幼稚園児やってた頃に名古屋↔︎中津で乗った覚えがあります。
ぎゅうぎゅう詰めで新聞紙ひいて座ってたような…
今では考えられない昔の列車旅ですね
ラオスからタイに入国して国境の街ノンカイ〜バンコクのクルンテープアピワットまで1940発の寝台特急二等二段寝台券を買いました。日本じゃ夜行はほぼ壊滅だけどこっちじゃ生き残ってる。時期次第じゃLCC航空券より高いけど、食堂車連結の夜行列車に勝があると思ってます。
東海道新幹線開業時には、寝台車、食堂車を外されながらも奮闘した感がある。今の情報発信時代にこういう長距離急行に乗り、新幹線、特急列車が追い越して行くのを尻目に見ながら、鉄道マニアはどう発信するのか興味がある。時代のギャップでこういう列車の情報はワクワクする。
高校生の頃(1974年)、高千穂(日豊本線経由)と併結されていた桜島(鹿児島本線経由)に乗ったことがあります。その頃は東京駅10:00発(夏休みなど繁忙期は品川発)だったと記憶しています。日付が変わると列車番号も変わるのが面白かったです。途中、山陽本線の事故で遅れ、30時間以上も乗っていたので、降車後にトイレにいったらおしっこが茶色になっていてビビりましたw
岐阜〜東京(神奈川だったかも)でグリーン車に乗りました。スロフ62という車両でした。見た目は旧型でしたが、車内はサロ165などとあまり変わらなかったので驚いたものです。
子供の頃、寝台特急さくらに乗りました。最近、寝台特急が消えそうですがサンライズに乗ってみたい
それでは相方のきりしま号も後日作成希望ですね~
内田百閒阿房列車御用達列車。
実家に、最寄り駅の時刻表が貼っていました ものごころついての頃、始発東京終点東京を見てなんか感慨をおぼえました 嬉しかったですね おらが駅には東京行き列車が停まること うp主さん有難うございました!
全ての乗客が東京-西鹿児島全区間乗り通した訳では無いだろうけど
直角のボックスシートで長時間の乗車は腰やお尻が痛く成るでしょう
「座って移動出来るだけマシ」と言う時代からするとそれでも贅沢かも知れないですが
昔、小学生の頃、豊橋から、東京迄、乗って来た思い出がありました。貸し切りのような状態で、良い思い出した。
九州直通の急行櫻嶋・高千穂のきょうだい列車は座席💺列車で最長期的だったが末期でモノクラスだけで山陽新幹線の博多延伸の503であっけなく廃止し、まさにボンビー旅行で周遊券御用達列車やろ✋🚃
昭和50年3月、新幹線博多開業で、桜島・高千穂号が廃止になると言うニュースが流れ、昭和49年の夏か秋に豊橋駅まで行って、写真を撮りました。乗れば良かったと後悔しています。
寝台特急富士についてもとりあげる動画作って
こっちは東京を夕方出発して西鹿児島到着は翌日の夕方だったな
急行 高千穂・桜島 乗ったな〜 東京駅10:00AM発やった エエ旅やった...
発車するときのガックーンが客車の醍醐味。電車の滑るような加速は乗り心地は良いが、醍醐味に欠けると思うのは私だけ?
基本鹿児島の客車でしたが廃止前は尾久の客車も連結されてましたね
大垣夜行は、電車化される客車時代は大阪まで行ってたんではありませんでしたかね?
そだよ~😋
かつては九州の地域名が冠された急行列車が多数走っていた。余裕のない九州地方の乗客はこれらの列車で上京していた。1960年代は多客をさばくために16両編成もあり、私は真夜中にSLでこんな列車を走らせていた。C59だとずいぶん重かった。
>九州の地域名が冠された急行列車
新幹線開業前の東海道本線急行(なにわ・せっつ・いこま等)もそうだったけど、東京もん視点での命名ですよね。
@@けん-o4y さん すべてが東京からの目線でしたね。
桜島の食堂車は、きたぐにの列車火災の前の通称ヨン白紙ダイヤ改正の時に外されています。その時から桜島編成と高千穂編成は、共通運用になった。
貨物なら札幌~福岡なんつ~のもあるでよ!😋
7:31 少し違うな。夜行客車急行の電車&気動車化が進んだのはJR化してから。北海道の「まりも」等、九州の「かいもん」等が好例😉
でも良く考えたら鹿児島本線はほとんど複線!しかし日豊本線は小倉~大分と国分~鹿児島の部分は複線だけどほとんどが単線区間!でも鹿児島本線!日豊本線!どちらにおいてもほぼ同様レベルの車両内容だった!って事は変わらない。霧島と高千穂!かいもんとにちなん!富士とはやぶさ!そしてドリームつばめとドリームにちりん!懐かしい夜行列車の日々に!
八代以南単線だけど…😉
最後の時期の併結列車は霧島ではなく、(鹿児島線経由の)急行桜島ですよね。この頃高千穂で、西鹿児島から大阪まで行ったことがあります。全車自由席なのですが、年末年始などの多客期には西鹿児島の駅に並ぶと50円の整理券が発行され、席だけは確保できました。西鹿児島→大阪で桜島ではなく、わざわざ日豊線まわりの高千穂を選んだのは、時間がかかる分少しでも空いているという理由からでした。トイレに行くのも大変なくらい満員で90度直角のボックス席、親は大変だったろうなと思います。それでも座れるだけマシだと考えたのでしょうね…。西鹿児島の駅を出てすぐに通る鹿児島機関区からヘルメット姿の伯父が手を振ってくれていたのを昨日のことのように想い出します。動画ありがとうございました。
ご視聴ありがとうございます。調べたところ、高千穂の併結相手は、1968年10月の列車再編時点では霧島でしたが、その後1970年10月に桜島に改称され、同時に京都•西鹿児島間の電車寝台特急きりしまが運行を開始した、というかなりややこしい経緯があった様です。動画中の霧島から食堂車が外された、という表現は誤りですので、概要欄で訂正させて頂きます。
@@koppe_233 ご丁寧にありがとうございます。御指摘の通りで、私の記憶に残っている霧島は京都↔西鹿児島の電車特急です。また大阪から電車寝台の明星に乗って、熊本まで行き、そこから満席だったために西鹿児島まで桜島のグリーンに乗った記憶があるのですが、桜島・高千穂は最後の時期は自由席のみだったはずです。いずれも72年の新幹線岡山開業と75年の博多開業の間の時期の話です。
高千穂と併結していたのは桜島だったのでは?
探せば東京駅出発直後の「桜島·高千穂」 の車内放送があるはず。残念ながら途中駅の案内は入ってないが霧島も高千穂も「ハニ(多分)+ロザ+ハ×5」の編成だと推測出来るかな。乗りたかったな。住んでる処には山岳夜行くらいしか無かったから。
所要24時間を超えるということは、同一列車が同時走行していた時間帯があったわけだ。
この頃のグリーン客車はオロ11でしたが、かなり状態が悪く外板も窓枠もガタガタだったと人から聞きました。本当に安くで移動するためだけの列車だったのですね…
最終日の打ち切りの話、私は初耳でした。記録しておられたらで構いませんが、どこでその記載を見られましたか…?
ご視聴ありがとうございます。以下の参考文献で知りました。
hobbycom.jp/workshop/library/tetsudomeiressha/100.html
あと、今調べて気づいたのですが、大分ではなく別府止まりだったようです。概要欄で訂正いたします。
@@koppe_233
丁寧な返事を頂きありがとうございます。
このホビコムのサイトは見た事が無かったように思います。教えて頂き、非常に勉強になります。
AU13を載せて冷房化を計ったお陰で一気にガタがきた
丸救制度があったので長距離でも急行は無くせなかったのでは
「夜汽車」なんて、なんとも旅情を掻き立てる響きと思うが、死語になってしまうのだろうか?
「WE銀河」がそういう雰囲気醸し出せるかどうか?
上りと下りの高千穂桜島が途中で三回すれ違うということだが、そう言われてその理屈か分からなかったが今は良く分かる 笑
高千穂って1980頃まで関西~九州で定期運用されてませんでしたっけ?五島と併結で。
昔は列車は「乗車する乗り物」だったが現代では「利用する乗り物」
昭和の頃のは「本日は、ご乗車いただき、ありがとうございます」と車掌さんが訛りながら放送していたが、現代では「本日は JRをご利用いただき‥」と自動放送に変わってしまった。
おそらく、鹿児島から東京まで、東京から鹿児島まで全区間乗車していた人はそんなに多くなかったんじゃないかな。寝台急行でもあり、未明でもこまめに停車していたことから、区間、区間での乗車も多かったように思います。私の知り合いが鹿児島から就職のためにこの「高千穂」に乗って上京したが、余りにも過酷な旅だったので、東京に到着して一週間くらい体調がおもわしくなかった、みたいな話を聞いたことがあります。
桜島号?どうなった?
高千穂と桜島は、最後のオロ11だったと思います。また最後の方はグリーン車も非連結でオール普通車自由席でしかも最後は大分止まりだった。桜島と高千穂は、鹿児島運転書所属で3編成づつ必要で効率も悪かったんだと思う。本当はヨンナナサンで名古屋か、大阪を始発駅にしたがったそうです。
高千穂、桜島じゃないの😢
特急富士号じゃないのですか?
富士と高千穂は同一区間同一経路なので、どちらもタイスコアの最長列車です。
@@鷂よめないとり ありがとうございます。
京都駅での、寝台車の、解結は、有りませんでしたよ。大分で、食堂車、ロネ、ナハ、ハザの解結、門司でハザ、宮﨑でも、ハネの、解結もあったかな?
高千穂は沼津静岡間で清水に停車する唯一の昼行客車急行で、旅行するときの選択候補だった。雲仙西海、霧島は富士停車だった。
霧島・高千穂併結になって、富士清水の両駅に停車するようになった。
この時代の客車急行は電車急行の停車する湯河原や三島は停まらなかった。
上野から東北方面の夜行列車は運行する技能が残っている間に一本でも復活させてほしい。
問題は採算性とJR各社の調整、車両と人員の確保等という現実。
私個人としては、あなたの御意見には大賛成なのですが…
なんかここまで来たらもうちょい先の枕崎まで行って1600キロ超えしてほしかったですね(笑)
それなら当時残ってた(今の)上野東京ライン経由で高崎(もしくは黒磯)発にしたほうがw
はじめまして今日チャンネル登録をしましたよろしくお願いいたします
自分も豊橋まで良くこの列車を利用しました。東京10時発で桜島と連結だと思っていましたが、動画では時間も連結相手も違っていて、もう耄碌したかとショックでしたが、ほかの方の投稿を見て安心しました。清水の手前から進行方向右手に清水市内線が走っており、来年は絶対乗ろうと思っていたら、翌年の集中豪雨で罹災し廃止になったのは、今でも悔しいですね。
‘74年頃にあった大雨ですか…
実は‘91年に当時の清水市を訪問したのですが、これまた当時、市内にあった菓子屋「み○や」で豪雨の事に触れたのですが、そこのオバちゃま曰く、「よく御存知ですね、あれ『七夕豪雨』って言ってまして、市内電車も被災して無くなりましたよ。」との事です。
みなさんは夜行列車の効用を正しく理解できていない
新幹線であっても航空機であっても、比較的大きな都市の中心に、あるいは郊外の1点でしか乗り降りができない
もちろん乗り換えればいいけれど、両側で待ち時間を含めプラス1時間
それに夜間は走っていない…
しかし、地方に出かける時、その逆、何も1つの用事だけで長距離移動はしないし、1か所だけの観光だって無駄!
で朝8時には現地に着きたい、21時位に解散ができる。でも前後にわざわざホテルを取らなくてもいい
更に、旅行気分だと旅程の途中で下車をして…
これができるのに、
何で2点間移動&ハブ・スポークが効率的なのか?
なぜ夜間に移動できないのか(0:00~6:00の新幹線が走れない時間に約500キロは移動できる)
さらに、列車は、設備さえあればちょっとしたカフェもできるし、
電源と通信環境さえあれば、走行中に会議もクラウドを使った仕事もできる…
夜行バスじゃ正直無理!夜間の時間は寝る以外は無駄!!
+5000円~10000円なら払ってもホテル代と比べれば…
これだけのインフラを全国に張り巡らせないから日本経済は停滞(後退)してしまう!!
夜間に電車を走らせる止めるには昼間以上にコストがかかるわけで。
単純に深夜割増賃金が発生するし、
電車が来ないの見計らってほせんだから非効率。
しかも1本でも深夜に停車する電車があれば駅は開けておかなければならない。
そんな贅沢なことができたのは国営ゆえに採算なんて考えずに税金を垂れ流せばよかったからで、
そのツケは我々が税金を通して返済してます。
JR東日本・九州「通勤時間帯の貴重な線路やホームを…」
JR東海「深夜に通過されるだけなのに保線の邪魔はされるわ悪天候時に居座られるわで堪りません」
JR西日本「朝も夜も微妙な時間に停車されてもなあ…」
JR貨物「我々が機関車と運転士用意しなきゃならんのですか!?」
全員「車両の管理は誰がするのよ」
↓
結論:止めようぜ
残念ながら今はホテル🏨代プラス¥5,000~10,000払っても飛行機✈️or新幹線🚅+ホテルが主流😁
今の若い方には分かんないかなあ。まあ、50年以上前の話だから想像つかないか。
ヨンサントウの前後なんて、20系九州特急に乗って上京なんてのは贅沢だったの。
庶民は乗れなかったんだよ。若い人は就職のとき、みんな霧島か高千穂の座席で来たんだ。
富士が宮崎以南がDF50で西鹿児島まで行っていた時代を知ってる世代にとって、最長距離列車と言われたら富士であって高千穂とか言われてもピンとこないんだよね。
特急富士が西鹿児島まで行っていたのは、昭和40年から55年の15年間だけ。ブルトレブームがあったから印象に残っているだけ。
そうだよ。でも高千穂は現役時代を見ていないのに対して、富士は現役で西鹿児島行きだった時代を見ているので全然印象が違う。アラフィフの世代でも高千穂が廃止されたころは生まれてないか良くて園児だけど、富士が宮崎止まりになったころはもう小学生だからね。
車両はほぼ同じ(?)の雲仙に乗ったことがあります。機関士の技量によるものなのか、制動の際、転倒したことが…
岩切章太郎の匂いを感じる。
4:15 これはさすがに日本ではない(笑)
アフリカかな?
寝台特急はやぶさ号もお忘れなく!トゥワライトエクスプレスより長距離だった『はやぶさ』が語られないのはオカシイ!
それから、他の方のコメントで『高千穂』の後に『富士』と思われている方が複数おられますが、『高千穂』と『富士』は昭和40年代の10年間、同じ時代に在りましたよ!『はやぶさ』も30年代のデビューだったので『霧島』『桜島』と重なっていました。
一方SDGsの観点からヨーロッパでは夜行列車が復活。日本は相変わらず昭和なモータリゼーション。w
今更夜行列車復活させても高速バスより高くて窮屈で誰も乗らない定期。
当時は政治の力が左右していましたね。
関係なくて草😉
大阪-大分なら関西汽船でゴロ寝したほうが楽そう(時間もさほど変わらないのでは)
フェリーとどっちが遅いんかな
現在急行桜島高千穂があったら乗って見たかった
乗り鉄として乗ってみたーーーいo(>