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ブルートレインブーム全盛期に小学生時代を過ごした私は、6年生の夏休みに念願叶って、富士に乗りました。鹿児島在住の両親の知人を頼り、帰りははやぶさで帰って来るという、今では夢のような一人旅でした。東京発18:00、西鹿児島着は18:03だったと記憶しています。動画中1980年に終着が宮崎に短縮とありましたが、私が富士に乗ったのがまさに1980年だったので、改めて調べでみましたが、1980年10月のダイヤ改正で短縮されたんですね。西鹿児島までの富士が残り2か月のタイミングだったとはじめて知りました。もう40年以上の前の話。懐かしいです。
鹿児島出身者の都民、50代です。恐らく貴方と同じ世代かと思います。鹿児島の鉄道マニアにとって、「富士」「はやぶさ」は誇らしい存在でした。小学校3年の時、「富士」が宮崎まで短縮される時のことを今でもはっきり記憶しています。西鹿児島駅(現:鹿児島中央)には、多くの今で言う撮り鉄、別れを惜しむ県民が殺到しており、県内のローカルニュースでも大きく放映されていました。既に他界しましたが、叔父も鉄道マニアで、仕事柄出張が多く、年に数回は上京しており(極度の高所恐怖症で飛行機には生涯乗らなかったそうです)、「富士」にも何度か乗車したと言っていましたが、宮崎以降(下り)は殆ど人がいない。終点の西鹿児島で降りたのは自分だけの時もあったと語っていました。従って「富士」の短縮も仕方ないのかなという感情もありました。その10年後に私は就職の為、「はやぶさ」で上京、現在に至りますが、朝寝台で目を覚ましカーテンを開けた際、生まれて初めて”生”で見た富士山は今でも眼に焼き付いています。「富士」も「はやぶさ」も既に無くなりました。時代の流れとはいえ、寂しい限りです。
一度はのってみたかったブルートレインの一つです。今はもうほとんどこういう寝ながら乗る鉄道も減ってしまい、時代の流れを感じます。
はやぶさはよく利用しましたね。通路の折りたたみシートに座り、車窓を眺めながら過ごす時間は今も良い思い出です。
24時間26分 まだ走行時間は覚えている。A寝台個室はあの頃の憧れでした。
もう半世紀前の時代でしたからね。ある意味ゆとり世代だな。
富士号はすごい長い距離を走ってすごいわぁと思いました
末期は一足先に廃止された関西~九州ブルトレを補完する為、大阪からでも乗降できたダイヤになってました。車両の外装はボロボロ、車内販売も徳山辺りから地元弁当業者は乗るも幕の内弁当10個だけとか、何とも悲惨な状態でした。
上野から富山へ向かうブルートレインは子供の頃乗ったなぁ。もうわくわくドキドキが止まらなくて全く眠れず車窓見てたりしたなぁ。本当いい時代に生まれて良かったよ。
憧れの富士号。
1963生、下関出身です。写真11は、下関の山陽線から山陰線が分かれるところですか?私、あの写真を撮影できる大学町に実家がありました。ブルートレイン、沢山お世話になりました。懐かしいです、ありがとうございました。
末期の頃に はやぶさと富士に乗るためだけに熊本と大分へ行ったのは いい思い出ですねしかも 往復で利用したから存分に堪能できたよ😊
実家が福岡ですが、2004年から浜松で仕事をするようになりました。そのおかげで通称ふじぶさ号に何度か乗りました。割とギリギリになってもB個室が当たり前に取れました。たまに取れなくても開放B寝台の4つを独り占めできました。ごくごくたまに車掌さんが「今日はお客さんが多いんです。」と言う日は開放B寝台を誰か知らない人と二人で使っていました。下りは小倉着8時頃、上りは浜松着7時台。便利でした。
富士は日豊本線内で貨物列車にも抜かれていたなぁ…加減速度の遅い客車はJR九州による特急20分ヘッド化に伴い完全に邪魔な存在となった。片道で機関車を4回も変えた富士ってヘッドマークが独特だったなぁ😉
DF50は名機でした。
❤😂
25形2段寝台登場間もない頃、東京から西鹿児島まで乗り通しました。車掌さんとも話がはずみ、宮崎以南でA個室寝台を使わせてくれたことが、思い起こされます😊
小さい頃に「大人になったら絶対に乗ってやる」と憧れ、夢見ていた寝台特急でした、結局夢叶わず、最終年に米神で写真を撮れたのが最高の思い出です✨寝台特急「富士」よ永遠にです😺
西鹿児島が懐かしいです。
富士号が宮崎発着から大分に変わって寂しかった。そして、はやぶさと共に消えていった…。Nゲージで当時記憶を思い出す。
1991年から1999年は全区間大分車掌区担当で、大分県人としては「おらがくにの列車」でした。
寝台特急「富士」には一度だけ乗車しました。実家が岡山なので上りの岡山⇒東京間でした。牽引機はEF65のPF、車輌は24系25形でした。食堂車も営業していたと記憶してます。ハネの下段だったので朝起きてから東京へ着くまでの車窓も楽しめました。今は昔の「はやぶさ」の東京駅出発時刻(17:00)に新幹線に乗ればその日の内に鹿児島中央駅へ到着出来る時代。鉄道ファンの妄想の中でしかブルトレの復活は無いでしょうね。また写真で見た時、寝台特急はEF65のP、車輌は20系の組み合わせが1番美しいと私は思います。20系の白いストライプの上2本(雨樋下と窓下)とEF65のストライプが1本のラインとなり編成美を作ってました。短編成が当たり前になり多客期には変態連結でカバーする現代に於いて、編成美を追求するなんてのはブルトレ復活と共に、夢物語でしかないのでしょうね。
富士は1979年夏の日豊本線全線電化完成で所要時間が約24時間半かかっていたのが九州内全てでED76牽引で若干時間が短縮されたものの翌年10月改正で宮崎に短縮され最長距離ランナーの座をはやぶさに明け渡してしまいました。
小さい頃から一番の憧れ列車で、小学校入った頃から時刻表買ってもらうたびまっ先に富士を追った。停車駅変わったの見つけると興奮した。行先短縮や併結のときは凹んだ。ただ、中学高校と上がるにつれて鉄道への熱がいつの間にかすっかり冷めてた。30過ぎで最初に仕事辞めたときあてもなく九州ぶらぶらしに行って、1週間してもさほど気分晴れずに新幹線で帰ろうと博多。窓口並びながら「あ、ブルートレインて手もあるか」とふと思い出し、発車2時間前だけどはやぶさのA個室取れた。サンライズは何度も乗ってたけど人生初ブルトレ。蒲郡あたりの朝焼け真っ赤だった。熱海で降り、せっかくだから1枚くらい撮るかとお尻にまわったら「富士」だった。家に着き駅弁食べ終え朝刊めくると、翌年のダイヤ改正でのブルトレ廃止決定の記事があった。
寝台特急富士、懐かしいです。素敵な解説も素晴らしい!チャンネル登録させていただきました。
小学生の頃にケイブンシャの「特急、急行大百科」という本に、ブルートレイン富士の乗車ルポがあった。非常に読み応えある乗車記だった。東京から西鹿児島までの運転で、24時間もかかる事、運賃が飛行機より高いのに驚いた。機関車もEF65の500番台、そして宮崎からは電化されておらずD F50が牽引していたのも時代を感じさせる。あの頃はブルートレインなんて、自分には全く縁のない雲の上の存在だった。あの頃がブルートレインにとって最も華やいだ時代だったんじゃないかな?
ケイブンシャ懐かしい〜(^^)d小さくて分厚い本でしたよね
ありましたよね懐かしいその特集載せていた同じ本持っていましたよ‼️南 正時さん撮影監修でしたけ?ある時はあさかぜ1号東京―博多 女子大生1人旅A個室編とかありましたよね‼️私も憧れで あさかぜ1号 東京―博多間A個室乗り通しましたよ富士が18時に出た後出雲1号と隣同士に並び立つゴ―ルデンタイムでしたよ個室が最後尾1号車で夜と朝に8号車の食堂車まで行くのが大変でしたよ
広島から東京に行く時、行きは必ずブルトレでした😃初めて乗ったブルトレはあさかぜ(博多始発)だったけど富士にも何回か乗車しました✋富士川の鉄橋を渡る時に見た雪を抱いた富士山は本当に綺麗だったなぁ😊新幹線でピューッと行くのもいいけど、風情を楽しむなら断然ブルトレですよね😃
私は図書館で「日本の鉄道」の写真図鑑を読んで寝台特急「富士」の事で調べました。寝台は個室A寝台とB寝台、食堂車のメニューは「関門定食」と「牛焼肉定食」と「ハンバーグ定食」と分かりました。
ウチの小学校にも同じタイトルの本がありました私が読んだその本は「日本の鉄道」と言いつつ国鉄しか載ってなかったですね一度改訂されて改訂前に富士の東京〜西鹿児島の旅が載ってて改訂後に宮崎までの行程が載ってました他には上野からゆうづるに乗って青函連絡船を挟んで北海道の特急に乗る旅もあって改訂前が函館〜釧路のおおぞら、改訂後は函館〜網走のおおとりだったと思います
@@AlcoholBoatraceCarpDining 当時はヘッドマークには「やまびこ」と「ひばり」、489系は「白山」と「はくたか」、改訂版の場合は「鳥海」と「たざわ」と判明しました。
@@AlcoholBoatraceCarpDining なるほど、さはり終着は釧路と網走かな?
全盛期は16時台から12番13番線は寝台特急の出発タイムでしたね。富士、はやぶさ、さくら、みずほ、出雲、瀬戸、あさかぜが30分毎に発車していってた。最後が急行銀河で寝台列車の出発タイムが終了でした。富士は運行時間24時間26分と、翌日の下り富士の出発後に終着駅到着でした。結局東海道方面寝台特急は末期のさくら・はやぶさのさくら編成で長崎行った1回限りでした。特急かもめがさくらを追い越し折り返したのとすれ違うというなかなか無い体験もしました。富士は大分で食堂車を含めた半分を切り離し、宮崎で非電化区間走行のためにDF50に交換してましたしね。まだ志布志線方面の列車も有ったので接続をとっていたかもしれません。空路は高価で便数が少なかったので庶民は鉄道1択だったけど、割引運賃が設定されたり便数が増えたりして利用しやすくなったのが鉄道には大ダメージでしたね。
↑だいたいは、それらを見送った後に、18きっぷで「大垣夜行」乗ってたオッサン😁
2007年に最末期のはやぶさに全区間乗車しましたが、乗客は1両に私一人でした。東京到着時にJR西日本の車掌さんが廃止を危惧するような言葉が今も印象に残っています。
私も2007年に最末期のはやぶさに全区間乗車しましたが、乗客は数人しかいなかったのを記憶しています。
花形ブルトレキタ~!飛行機嫌いの私としては今でもあればよかったなと・・・・。
8:06 現役最末期でも乗車率が2割あったというのがむしろ驚きです。
急行「高千穂」のが最凶だと思う。なにげに「あの」宗太郎駅への謎停車もチャームポイント。なんと東京駅と宗太郎駅が直結!
行き違い停車かと思います。ドアか開けば、宗太郎周辺の民家は東京直通の列車を利用することができた?延岡で東京の幕の付いた列車を見られたのは感慨深いものがありました。新大阪までの区間でしたか。利用できたのはいい思い出です。
沖縄と直結してないのに那覇もあったやろ
@@tt-pc9snさま。また、関西〜博多経由〜西鹿児島の臨時急行「あまみ」と同じ論法ですな。…で、「富士」ですが、もしかして将来はリニアに採用される?寝台列車復活が期待薄ですが、私はそちらに望みをかける。
九州ブルートレインの愛称は、さくら、はやぶさ、みずほは新幹線の愛称として復活したが、あさかぜと富士は使われていない。あさかぜは昼行列車として使うのは難しいが、富士が復活しないのはそれにふさわしい列車が走ってないからであろう。
リニア新幹線が開業したら、「富士」(ふじ)が使われるかもしれませんね。でもひらがなだと青森っぽい感じもしますが…
小田急が「あさぎり」を「ふじさん」に変えているから、小田急がもう一度列車名を変更しないと「富士」がJRで復活する事は無いでしょう。
なかなか関西には戻れない「かもめ」
@@ys50私はリニアは単純に、「リニア○号」になるとみている😉
正直、「はやぶさ」と「さくら」は本来あるべき姿に戻してほしいですよ。どうして東北・北海道新幹線の列車名が「はつかり」じゃいけないんだよ。
3:14 実際は京阪神疾走でなく、時刻表では、停車駅になっていない駅で列車は停車
[さくら][はやぶさ][みずほ][富士][あさかぜ]([出雲]と[瀬戸]は山口県には来ない)…朝方下りが雁行し、夜の帳が下りる頃上りが雁行していた東京ブルトレ、このうち唯一[富士]は山陽本線内を蒸機牽引の経験がない(大分[みずほ]時代は蒸機牽引アリ)。数多あるブルトレの中で然し[富士]と[はやぶさ]の利用頻度は極めて低かった。それは単純に徳山駅に停車しなかったから。逆に一番利用頻度が高かったのは[あさかぜ]。20系ハネの52㎝幅の寝台は然し当時もやしっ子だったオレには何ら不満は無かった。今は下腹のたるんだメタボオジンに成り下がったので25型の70㎝幅なら問題ないが52㎝幅だとちと自信ない(^^);一晩中走るって時点で旅情たっぷりだったが、当時の特急列車・長距離列車には食堂車が営業している列車も少なくなくこれがまた魅力でもあった。内装は質素と言えば聞こえはいいがその実簡素なレベルで社員食堂並だったが、それでも流れる車窓を愛でながら今そこで調理されたばかりの食事に舌鼓を打つなんて、パリの三ツ星レストランでもそんな贅沢は味わえない至福のひと時だった。もうあんな贅沢は体験できないのは寂しい。
小学生のときの憧れのブルートレインだった。
私が小さい頃にはすでに宮崎止まりになっており、母方の田舎の最寄り駅の宇佐に停車していたので立席特急券で乗ってましたね、小倉・中津~宇佐間ですが....なつかしいですねぇ。
1980年代後半にこの富士をはじめあさかぜ、はやぶさ、さくら、みずほと各寝台列車を小倉から熱海の間をよく利用してましたが、この時期すでに富士の車両は他の寝台列車より車両が古くなっていた感じでした。当時、車掌さんにたのんで列車名入りのスタンプを押してもらったのがいい思い出です。
ブルートレイン全盛時、本線沿線に住んでいたので富士を始めはやぶさ、みずほさくら、紀伊といった列車を深夜に走るのを見て大人になって余裕が出たら乗りたいと思っていましたが、乗れる余裕が出来た頃には全廃…また定期運航が復活してくれれば絶対に乗りたいですね、ブルトレ
海上自衛隊にいた時に転勤で佐伯から横須賀に行く時に佐伯駅から東京駅まで乗ったのが思い出ですね。
寝台特急富士の西鹿児島行きは、今でもUA-camで国鉄の寝台特急富士の紹介動画で残っていて、凄い距離だなと思う、後は、渥美清さん主演の喜劇急行列車でも寝台特急富士が出て来てあの渥美清さんの笑いがあって、本当に笑ってしまう自分自身は、富士に乗ってアウェー大分トリニータ戦に行くときに使いました。
24系は関西地区発着が削減されて余剰車が生まれ品川客車区へ転属してきた。しかし一年半ほどで24系25型の新造車に置き換えられている。食堂車は引き続き使用されたが昭和53年2月の博多あさかぜ24系25型に伴い食堂車の捻出のために基本編成から付属編成へ移っているのは基本編成だと3編成必要だが付属編成だと2編成で済むためだ。食堂車は24系のために製造されたために25型に組み込むと食堂車だけ白線だった。
東京、熊本間の寝台は数回使いましたが快適で良い思い出です。サンライズも廃止される前に時間とお金貯めて乗りたいですな。
毎日18時半過ぎに家の前を通ってたイメージいつか俺もこの列車に乗って東京に行くんだと夢を抱いてた栄光の列車最後に門司まで写真を撮りに行った唯一の列車を取り上げていただきありがとうございます
さくら、みずほ、はやぶさは新幹線で愛称が復活してますが、富士はまだですね…。リニアで復活なのでしょうか…。
5:11 1968年の復刻版時刻表を見ると、延岡からB寝台は自由席特急券で乗車できたと思われます。
富士のヘッドマークは昭和の終わり頃に丸形から山の形になったり、通称「赤富士」が試作されましたね
遠い昔、東京から西鹿児島 まで下り「富士」を乗り通しました。東京行き上り「富士」と、二回、出会うのを覚えてます。
富士は新幹線の名前にしづらい縁のある大分・宮崎でも富士の側を走らない愛称復活が難しい
「最初の特急愛称」「富士山麓を突っ切る」とかでリニアの列車名に温存しているという説は?
ブルトレで思うのは、B寝台でベッドがセットされてない時間は知らない人達と向かい合わせになるので、その状態が苦手な人はしんどいと思いましたよ。ただこれも相席ガチャで運ですね。自分から見て苦手だなと思うタイプの人と一緒になったらシンドイですw 自分の場合はどんな人と一緒なのかザっと見て、こりゃダメだ、と思ったら最後尾のロビーカーに移動し、ベッドが作られるまでそこに居ました。個室ならそういう状況には成らないので、乗るなら個室だなぁとその当時思いました。でも高いので結局B寝台しか乗りませんでしたw 友人と一緒に乗るならその辺は心配しなくて良いですけどね。 私はよく「瀬戸号」に乗りましたが、発車時間が遅いので最初からベッドになってるので気楽でした。ただ翌朝はベッドから座席になって向かい合わせになるので、そこでどんな人達と一緒だったのか知る事になります。そこで あぁダメだ、思ったら最後尾へ、て感じw 一度だけ、同年代で話しの合う人とベッドが上下だった事があり、その時は楽しかったですね。 あと話し好きのオバチャンの時も色々食べ物もらって楽しかったですね。
富士号 1日に3本走っていました。東京発18時00分~翌日の東京発18時00分の下り2本と上り1本。小学生の時に主に平日の夕方にブルトレ撮影に東京駅に行ってました。下りのさくら号に始まり、下りの富士号まで。そして、横須賀線で自宅の最寄り駅 新川崎駅まで乗って帰ってました。東京16:30分発 さくら号東京16:45分発 はやぶさ号東京17:00分発 みずほ号東京18:00分発 富士号
廃止前年の夏休み、富士号に運よく乗車出来ました。しかもA個室で。帰りのはやぶさ号がラスト数枚だったことを考えるととてもラッキーで貴重な体験が出来ました。下関や大分駅などでの大量の撮り鉄のみなさんに驚き、今でも大分駅での富士号の写真が壁紙です。
マイカーを運転するのも疲れる時代になったので、新幹線がない地方都市への直通列車は需要あると思うんですよね。最近はホテルも高いので、寝台車はちょっと嬉しいかも。ただ快適さをサンライズ以上にはしないと昔のようなすし詰めは無理かも。
国鉄がストライキをする時は全国で一番最初に運休する列車だった記憶があります。座席車が無くなり全車寝台となった昭和40年ごろには既に九州内でヒルネ(寝台解体後の座席を特急券だけで乗れるもの)が行われていたような気がするのですが、私の記憶違いでしょうか?当時は冷房付きの列車は他にキハ82の特急しかなく、かなり重宝されたものと思います。末期になるとA個室やソロは大分で分割されていましたが、そこから先まで乗るときは下りは座席になったB寝台利用だったのでしょうか?昔話にはなるものの本当ならある意味急なグレードダウンでしたね。
実は富士は仮に現在復活させたとしてもJRの路線内だけで完結可能な数少ない寝台特急の一つ他にはあけぼの、あさかぜ、彗星くらいしかないはず
懐かしい 50〜40年位前に、よく広島県福山市で見かけました 福山から東京を利用した事があります 福山は23時台でした、21時台に寝台特急「あさかぜ」もあり、利用した事があります20代の時の利用で車掌さんが優しくて、多分岡山車掌区の人で、降りる福山の一駅前の岡山「もうすぐ岡山じゃけえね」と声をかけてもらった事を覚えています(多分、車掌さんが交替する)
富士が東京駅を18:00に発車してた時、まだ前日に東京駅を発車した富士がまだ日豊線を走っていて西鹿児島に着いたのが18:36とは地球規模のスケールの列車ですね。スピードが優先される今では設定の難しい列車ですね。「四季島」みたいに超豪華で90万円以上じゃないと無理ですかね。😅
そろそろ関東側から宮崎に働きに来るみたいな流れになってもいいんだよな😂
「富士」は私の中では別格な存在でしたから深夜の岡山駅で寝台特急を撮ってて「富士」が入って来たら興奮しまくりでシャッターを切ってましたねw当時まだ西鹿児島行きで短縮(しかも後に廃止)されるとは思ってもいませんでした…
1970年ころには時刻表には載っていなかったが、大分からは寝台券無しで乗車できたと思います。そして富士は、ブルートレインに愛称❤が変わった時点で役目を終わっていた気がします。なぜなら上りはともかく、下りは富士山を望めないからで、今にして思えば東海道新幹線がかなり開業したときに冨士の愛称を与えても良かったのでは?と思います。
当時、東京ー西鹿児島のLPレコードを持ってました。
学生時代に都内で撮った列車のひとつでした。当時お金があれば、一度は乗って九州の旅をしてみたかったものです。
南宮崎発着のころ、行きにはやぶさで西鹿児島まで行って、九州ぶらっと廻って南宮崎から富士で帰ってきたことありますねー。行きのはやぶさでは熊本で切り離ししているうちに、後続のつばめに抜かれてました。
乗客が飛行機、深夜バス、新幹線に流れるのは仕方がない。時代の流れですね。
戦前からすると、富士の列車愛称も最長かもしれませんなとはいえ、はやぶさとさくらが新幹線の列車愛称に使われているので、何かの機会に使われるといいのですが
運転距離が短縮され、もう少しで廃止の議論が挙がるというタイミングになってから乗車しました。かつて、この列車に乗るという事が夢ではありましたが、小学生の時に読んだマンガに載っていた食堂車はすでに無く、ただの移動するビジネスホテルと化していたのは悲しかったです。乗客数もかつてのピークを思えばかなり少なく、私などB寝台4人の所に一人でしたからね。お陰で、誰にも干渉されず熟睡でき、しかも到着までごろ寝し放題でしたが。
3:00~東京駅を夕方18時に出発し、4:00~西鹿児島に夕方18時半に到着という鬼畜スケジュールで爆笑したww
日豊本線沿線に住んでいらっしゃる方々には失礼と思うが、同線は鹿児島本線と比べると、本線とは言え格下らしく、宮脇俊三先生はブルトレ「富士」が登場した際、「国鉄は何を考えてる!」と、批判的なコメントをのべていました。
分かる(笑)その前の電車特急も東京と 宇野 だもんね。富士って名前負けが多いよね。
大分行時代 A個室車掌室のとなりに乗りました 東京駅10番線の非日常な雰囲気、明石海峡大橋あたりの疾走感は忘れられません
全区間乗りました❤ 懐かしい😭
ばあちゃんが大分にいたので3回くらい乗ったかな?食堂車で食べたビーフシチューが謎にうまかった思い出
晩年の『はやぶさ』には静岡から博多まで乗車。寝台車はBソロで、中々眠れず岡山付近で眠りにつけたと思っていたら夜明け前の広島駅で目が覚めた。博多からの帰りは当時500系運用だった『のぞみ34号』(京都で下車)。
この動画を見るとやはりサンライズだけは残して貰いたいと切に願います🎵
はやぶさで行って富士で帰って来るという変態高騰をしていた俺
「♪ふ〜じは日本一の列車〜」
最後のブルー・トレインとして残ったのは、戦前の特別急行1レ2レ列車、1・2等列車、欧亜連絡列車としての意地だったのか…。車両のグレードアップは常に「あさかぜ」の次だった感があったが、24系25 形化は早かった。その「あさかぜ」も先に廃止という運命だった。「富士」という格調高い名称、リニアで復活するか、それとも夜行寝台列車でもう一度登場するのか…。
私はリニアは単純に、「リニア○号」になるとみている😉
今の時代からすると富士みたいなブルトレにはロマンがあるし、もし走っていれば1度くらい乗ってみたいと思う。でも本当に1度だけかな。完全に実用性がなくなってしまった。東京九州なら飛行機が主流だし、飛行機がダメでも新幹線と在来特急で当日中に移動できる時代。
ブルートレインに憧れていた子供の頃、富士に乗った事があった。気が高ぶって眠れなかった記憶だけ残っている。ぜいたくな経験だった。サンライズののびのび席に明け方から乗って高松に行った事がある。マリンライナーという手もあったがサンライズを選択。サンライズより朝焼けの瀬戸内海の方が記憶に残っている。ブルートレインにはぜいたく感がある
1965年(昭和40年)に富士が西鹿児島発となったとき、宮崎から東京まで初めて24時間を割った。東京が一日圏となったと、当時の宮崎ではニュースに。ちなみに、その日のうちに東京から宮崎まで鉄道で行けるようになるのは、新幹線が岡山まで延びた1972年(昭和47年)3月。東京を6時に出るひかり1号に乗れば、新大阪・岡山間で大阪発の特急日向を追い越すので、岡山で日向に乗り替えられるようになった。午後8時過ぎに宮崎駅着。しかし、その頃は既に飛行機時代になっており、スカイメイトを使うと料金的にもかなり安上がりだった。
ラストランの年に小倉まで乗りましたね😂一生の思い出デス。❤
乗ってみたかったけど親に大人になってからねって言われて大人になったらそもそも無くなってた
1往復の列車を運行するのに4編成必要なこと。寝台列車が車両基地で夜を明かすことなど、西鹿児島乗り入れは問題点が大きすぎたと思う。せめて【カシオペア】や【トワイライトエクスプレス】並の設備があればかちはあっただろうが。ブルートレインブームのときには憧れのマトだったけど。
一度出発すると同じ列車と2回すれ違いor離合するからねぇ。運用的にはかなり効率が悪かったと思われる。(トワイライトエクスプレスも同様だった)
「トワイライト」(や「北斗星」)の場合は「乗ることを楽しみにする」列車だったけど、「富士」をはじめとする東京ブルトレはそういう要素は無かったからな。
旅情があるかないかの違い。
3編成だがや😉
@@psychedelicraspberry517 すみません 間違えました。
富士と言えばプラレールのブルートレインもEF65形500番台と24系客車で富士で売ってましたね。
踏切付きのセット持ってました
@@AlcoholBoatraceCarpDining そんなのがあったんですか?
@@気のままに鉄道撮影チャンネル 踏切付きのオーバルコースで駅はありませんでした
最後尾はカニ24でした...
@@exp.m.k.2300 そういやカニの顔側にカプラーなかったですねオハネフにはテールマークなかったし・・・
最後のBLはみずほでしたね‼️
はへ?😜
富士が静岡停まらなかったの意外だな
私は富士🗻に、廃止前に一度ですが乗りました。B寝台の下段でしたが振動と冷房の効きすぎで、あまり😢眠れませんでした。食事は、東京駅で済ませ、翌朝に、徳山から車販の弁当🍱を、買いました。終点の大分まで乗りました。その後阿蘇山に、行き、在来線の、つばめ号に乗り、新幹線🚅のぞみに乗り東京駅に行きました。その3年後に富士🗻が、廃止に、なりました。😢
東京から西鹿児島まで🙃24時間を越えてました。それが絶大なる人気を誇っていた理由である。
東京〜西鹿児島(日豊本線経由)特急富士所要時間24時間超え急行高千穂所要時間29時間超え
私が小学生のころが、まさに「ブルートレイン・ブーム」の真っ只中でした。その中で、特にもてはやされたのが「あさかぜ」&「はやぶさ」&「富士」&「出雲」でした。16時台から18時台の東京駅9番線は、入場券で入場したカメラ小僧たちが連日のように溢れ返っていたなぁ。富士は、私がブルトレにハマったころに運行区間が西鹿児島から宮崎に短縮されたけれど、当時の新婚旅行先で国内1番人気だったのが青島海岸だったので、当然「富士」のA寝台個室は新婚夫婦が競って取り合ってたよ。まぁ帰りは仕事の関係もあり、飛行機で帰京する新婚さんも少なくなかったようだけど…。(まぁ当時は国内旅行でも、往復飛行機というのは、かなり贅沢で料金も高額になりすぎるという問題があったと思います。)
「さくら」「みずほ」は好きじゃないのか…😵
@@psychedelicraspberry517 (だから東京の敵は郷土の変な新幹線で・・・、討てませんでしたー}さくら・みずほの郷
高三の時に防府まで乗車しました。
富士の柳井と、はやぶさの厚狭は何で停まるんだろうと子供の頃思ってました
当時 20系客車を牽いてたのが DF50だった。宮崎は電機機関車が走るまで時間があったような…
1975年だったら宮崎でも機関車の交換が行われていたはず。しかもDF50...
ダイナモ式の機関車。現代でいえばハイブリッド車の先駆けだった。
復活してほしい
華やかな時代の中でダイヤ改正では運行している路線の鉄道管理局の苦労もうかがえますね!
24時間36分てことは宮崎から先が非電化でDF50が担っていた頃かな?言っとくけど担当した機関車の種類が一番多かったのもこの頃の富士だったかな(EF65,EF30orEF81300,ED76,DF50)因みに西鹿児島までED76が牽くようになって24時間3分になった頃の車内放送(東京駅発車直後)が探せば出てくる。蛇足だが同じく西鹿児島行き急行桜島·高千穂の東京駅発車直後の車内放送も探せばあるぞw
あの時、もっとブルートレインに乗っていればなあ~と、今になって思います。
ブルートレイン「富士」、急行「高千穂」共に24時間以上走ってましたね。もう定期でこのような列車が走ることはないでしょう。昔はよかった?
日本海ですらギリギリ5割だったので富士・はやぶさの乗車率は悲惨きわまりないものだったでしょうね
昔は新婚旅行で宮崎って定番だったし、フェリーかブルトレだったのかな?
食堂車が営業休止になった頃から用務客に見捨てられて乗客が現在でのサンライズ出雲瀬戸のように乗車することが目的のマニアばかりになり先が長くないと思っていたら統合され消されてしまった
富士の愛称はリニアに相応しい
ブルトレになる前が東京ー宇野間の特急だったり富士という名前は結構不遇なんだよねリニアに使うかな
ブルートレインブーム全盛期に小学生時代を過ごした私は、6年生の夏休みに念願叶って、富士に乗りました。
鹿児島在住の両親の知人を頼り、帰りははやぶさで帰って来るという、今では夢のような一人旅でした。
東京発18:00、西鹿児島着は18:03だったと記憶しています。
動画中1980年に終着が宮崎に短縮とありましたが、私が富士に乗ったのがまさに1980年だったので、改めて調べでみましたが、1980年10月のダイヤ改正で短縮されたんですね。西鹿児島までの富士が残り2か月のタイミングだったとはじめて知りました。
もう40年以上の前の話。懐かしいです。
鹿児島出身者の都民、50代です。
恐らく貴方と同じ世代かと思います。
鹿児島の鉄道マニアにとって、「富士」「はやぶさ」は誇らしい存在でした。
小学校3年の時、「富士」が宮崎まで短縮される時のことを今でもはっきり記憶しています。
西鹿児島駅(現:鹿児島中央)には、多くの今で言う撮り鉄、別れを惜しむ県民が殺到しており、県内のローカルニュースでも大きく放映されていました。
既に他界しましたが、叔父も鉄道マニアで、仕事柄出張が多く、年に数回は上京しており(極度の高所恐怖症で飛行機には生涯乗らなかったそうです)、「富士」にも何度か乗車したと言っていましたが、宮崎以降(下り)は殆ど人がいない。終点の西鹿児島で降りたのは自分だけの時もあったと語っていました。
従って「富士」の短縮も仕方ないのかなという感情もありました。
その10年後に私は就職の為、「はやぶさ」で上京、現在に至りますが、朝寝台で目を覚ましカーテンを開けた際、生まれて初めて”生”で見た富士山は今でも眼に焼き付いています。
「富士」も「はやぶさ」も既に無くなりました。
時代の流れとはいえ、寂しい限りです。
一度はのってみたかったブルートレインの一つです。
今はもうほとんどこういう寝ながら乗る鉄道も減ってしまい、時代の流れを感じます。
はやぶさはよく利用しましたね。
通路の折りたたみシートに座り、車窓を眺めながら過ごす時間は今も良い思い出です。
24時間26分 まだ走行時間は覚えている。A寝台個室はあの頃の憧れでした。
もう半世紀前の時代でしたからね。ある意味ゆとり世代だな。
富士号はすごい長い距離を走ってすごいわぁと思いました
末期は一足先に廃止された関西~九州ブルトレを補完する為、
大阪からでも乗降できたダイヤになってました。
車両の外装はボロボロ、車内販売も徳山辺りから地元弁当業者は乗るも幕の内弁当10個だけとか、
何とも悲惨な状態でした。
上野から富山へ向かうブルートレインは子供の頃乗ったなぁ。もうわくわくドキドキが止まらなくて全く眠れず車窓見てたりしたなぁ。本当いい時代に生まれて良かったよ。
憧れの富士号。
1963生、下関出身です。写真11は、下関の山陽線から山陰線が分かれるところですか?私、あの写真を撮影できる大学町に実家がありました。
ブルートレイン、沢山お世話になりました。懐かしいです、ありがとうございました。
末期の頃に はやぶさと富士に
乗るためだけに熊本と大分へ
行ったのは いい思い出ですね
しかも 往復で利用したから
存分に堪能できたよ😊
実家が福岡ですが、2004年から浜松で仕事をするようになりました。そのおかげで通称ふじぶさ号に何度か乗りました。割とギリギリになってもB個室が当たり前に取れました。たまに取れなくても開放B寝台の4つを独り占めできました。ごくごくたまに車掌さんが「今日はお客さんが多いんです。」と言う日は開放B寝台を誰か知らない人と二人で使っていました。
下りは小倉着8時頃、上りは浜松着7時台。便利でした。
富士は日豊本線内で貨物列車にも抜かれていたなぁ…加減速度の遅い客車はJR九州による特急20分ヘッド化に伴い完全に邪魔な存在となった。片道で機関車を4回も変えた富士ってヘッドマークが独特だったなぁ😉
DF50は名機でした。
❤😂
25形2段寝台登場間もない頃、東京から西鹿児島まで乗り通しました。車掌さんとも話がはずみ、宮崎以南でA個室寝台を使わせてくれたことが、思い起こされます😊
小さい頃に「大人になったら絶対に乗ってやる」と憧れ、夢見ていた寝台特急でした、結局夢叶わず、最終年に米神で写真を撮れたのが最高の思い出です✨寝台特急「富士」よ永遠にです😺
西鹿児島が懐かしいです。
富士号が宮崎発着から大分に変わって寂しかった。
そして、はやぶさと共に消えていった…。
Nゲージで当時記憶を思い出す。
1991年から1999年は全区間大分車掌区担当で、大分県人としては「おらがくにの列車」でした。
寝台特急「富士」には一度だけ乗車しました。実家が岡山なので上りの岡山⇒東京間でした。
牽引機はEF65のPF、車輌は24系25形でした。食堂車も営業していたと記憶してます。ハネの下段だったので朝起きてから東京へ着くまでの車窓も楽しめました。
今は昔の「はやぶさ」の東京駅出発時刻(17:00)に新幹線に乗ればその日の内に鹿児島中央駅へ到着出来る時代。
鉄道ファンの妄想の中でしかブルトレの復活は無いでしょうね。
また写真で見た時、寝台特急はEF65のP、車輌は20系の組み合わせが1番美しいと私は思います。
20系の白いストライプの上2本(雨樋下と窓下)とEF65のストライプが1本のラインとなり編成美を作ってました。
短編成が当たり前になり多客期には変態連結でカバーする現代に於いて、編成美を追求するなんてのはブルトレ復活と共に、夢物語でしかないのでしょうね。
富士は1979年夏の日豊本線全線電化完成で所要時間が約24時間半かかっていたのが九州内全てでED76牽引で若干時間が短縮されたものの翌年10月改正で宮崎に短縮され最長距離ランナーの座をはやぶさに明け渡してしまいました。
小さい頃から一番の憧れ列車で、小学校入った頃から時刻表買ってもらうたびまっ先に富士を追った。停車駅変わったの見つけると興奮した。行先短縮や併結のときは凹んだ。
ただ、中学高校と上がるにつれて鉄道への熱がいつの間にかすっかり冷めてた。
30過ぎで最初に仕事辞めたときあてもなく九州ぶらぶらしに行って、1週間してもさほど気分晴れずに新幹線で帰ろうと博多。窓口並びながら「あ、ブルートレインて手もあるか」とふと思い出し、発車2時間前だけどはやぶさのA個室取れた。サンライズは何度も乗ってたけど人生初ブルトレ。蒲郡あたりの朝焼け真っ赤だった。
熱海で降り、せっかくだから1枚くらい撮るかとお尻にまわったら「富士」だった。
家に着き駅弁食べ終え朝刊めくると、翌年のダイヤ改正でのブルトレ廃止決定の記事があった。
寝台特急富士、懐かしいです。素敵な解説も素晴らしい!チャンネル登録させていただきました。
小学生の頃にケイブンシャの「特急、急行大百科」という本に、ブルートレイン富士の乗車ルポがあった。非常に読み応えある乗車記だった。東京から西鹿児島までの運転で、24時間もかかる事、運賃が飛行機より高いのに驚いた。機関車もEF65の500番台、そして宮崎からは電化されておらずD F50が牽引していたのも時代を感じさせる。あの頃はブルートレインなんて、自分には全く縁のない雲の上の存在だった。あの頃がブルートレインにとって最も華やいだ時代だったんじゃないかな?
ケイブンシャ懐かしい〜(^^)d
小さくて分厚い本でしたよね
ありましたよね
懐かしいその特集載せていた同じ本持っていましたよ‼️
南 正時さん撮影監修でしたけ?
ある時は
あさかぜ1号
東京―博多 女子大生1人旅A個室編とかありましたよね‼️
私も憧れで あさかぜ1号 東京―博多間A個室乗り通しましたよ
富士が18時に出た後
出雲1号と隣同士に並び立つゴ―ルデンタイムでしたよ
個室が最後尾1号車で
夜と朝に8号車の食堂車まで行くのが大変でしたよ
広島から東京に行く時、行きは必ずブルトレでした😃初めて乗ったブルトレはあさかぜ(博多始発)だったけど富士にも何回か乗車しました✋富士川の鉄橋を渡る時に見た雪を抱いた富士山は本当に綺麗だったなぁ😊新幹線でピューッと行くのもいいけど、風情を楽しむなら断然ブルトレですよね😃
私は図書館で「日本の鉄道」の写真図鑑を読んで寝台特急「富士」の事で調べました。
寝台は個室A寝台とB寝台、食堂車のメニューは「関門定食」と「牛焼肉定食」と「ハンバーグ定食」と分かりました。
ウチの小学校にも同じタイトルの本がありました
私が読んだその本は「日本の鉄道」と言いつつ国鉄しか載ってなかったですね
一度改訂されて改訂前に富士の東京〜西鹿児島の旅が載ってて改訂後に宮崎までの行程が載ってました
他には上野からゆうづるに乗って青函連絡船を挟んで北海道の特急に乗る旅もあって改訂前が函館〜釧路のおおぞら、改訂後は函館〜網走のおおとりだったと思います
@@AlcoholBoatraceCarpDining 当時はヘッドマークには「やまびこ」と「ひばり」、489系は「白山」と「はくたか」、改訂版の場合は「鳥海」と「たざわ」と判明しました。
@@AlcoholBoatraceCarpDining なるほど、さはり終着は釧路と網走かな?
全盛期は16時台から12番13番線は寝台特急の出発タイムでしたね。
富士、はやぶさ、さくら、みずほ、出雲、瀬戸、あさかぜが30分毎に発車していってた。
最後が急行銀河で寝台列車の出発タイムが終了でした。
富士は運行時間24時間26分と、翌日の下り富士の出発後に終着駅到着でした。
結局東海道方面寝台特急は末期のさくら・はやぶさのさくら編成で長崎行った1回限りでした。
特急かもめがさくらを追い越し折り返したのとすれ違うというなかなか無い体験もしました。
富士は大分で食堂車を含めた半分を切り離し、宮崎で非電化区間走行のためにDF50に交換してましたしね。
まだ志布志線方面の列車も有ったので接続をとっていたかもしれません。
空路は高価で便数が少なかったので庶民は鉄道1択だったけど、割引運賃が設定されたり便数が増えたりして利用しやすくなったのが鉄道には大ダメージでしたね。
↑だいたいは、それらを見送った後に、18きっぷで「大垣夜行」乗ってたオッサン😁
2007年に最末期のはやぶさに全区間乗車しましたが、乗客は1両に私一人でした。
東京到着時にJR西日本の車掌さんが廃止を危惧するような言葉が今も印象に残っています。
私も2007年に最末期のはやぶさに全区間乗車しましたが、乗客は数人しかいなかったのを記憶しています。
花形ブルトレキタ~!
飛行機嫌いの私としては今でもあればよかったなと・・・・。
8:06 現役最末期でも乗車率が2割あったというのがむしろ驚きです。
急行「高千穂」のが最凶だと思う。
なにげに「あの」宗太郎駅への謎停車もチャームポイント。なんと東京駅と宗太郎駅が直結!
行き違い停車かと思います。
ドアか開けば、
宗太郎周辺の民家は東京直通の列車を利用することができた?
延岡で東京の幕の付いた列車を見られたのは感慨深いものがありました。
新大阪までの区間でしたか。
利用できたのはいい思い出です。
沖縄と直結してないのに那覇もあったやろ
@@tt-pc9snさま。
また、関西〜博多経由〜西鹿児島の臨時急行「あまみ」と同じ論法ですな。
…で、「富士」ですが、もしかして将来はリニアに採用される?寝台列車復活が期待薄ですが、私はそちらに望みをかける。
九州ブルートレインの愛称は、さくら、はやぶさ、みずほは新幹線の愛称として復活したが、あさかぜと富士は使われていない。
あさかぜは昼行列車として使うのは難しいが、富士が復活しないのはそれにふさわしい列車が走ってないからであろう。
リニア新幹線が開業したら、「富士」(ふじ)が使われるかもしれませんね。でもひらがなだと青森っぽい感じもしますが…
小田急が「あさぎり」を「ふじさん」に変えているから、小田急がもう一度列車名を変更しないと「富士」がJRで復活する事は無いでしょう。
なかなか関西には戻れない「かもめ」
@@ys50私はリニアは単純に、「リニア○号」になるとみている😉
正直、「はやぶさ」と「さくら」は本来あるべき姿に戻してほしいですよ。
どうして東北・北海道新幹線の列車名が「はつかり」じゃいけないんだよ。
3:14
実際は京阪神疾走でなく、
時刻表では、停車駅になっていない駅で列車は停車
[さくら][はやぶさ][みずほ][富士][あさかぜ]([出雲]と[瀬戸]は山口県には来ない)…朝方下りが雁行し、夜の帳が下りる頃上りが雁行していた東京ブルトレ、このうち唯一[富士]は山陽本線内を蒸機牽引の経験がない(大分[みずほ]時代は蒸機牽引アリ)。数多あるブルトレの中で然し[富士]と[はやぶさ]の利用頻度は極めて低かった。それは単純に徳山駅に停車しなかったから。逆に一番利用頻度が高かったのは[あさかぜ]。20系ハネの52㎝幅の寝台は然し当時もやしっ子だったオレには何ら不満は無かった。今は下腹のたるんだメタボオジンに成り下がったので25型の70㎝幅なら問題ないが52㎝幅だとちと自信ない(^^);
一晩中走るって時点で旅情たっぷりだったが、当時の特急列車・長距離列車には食堂車が営業している列車も少なくなくこれがまた魅力でもあった。
内装は質素と言えば聞こえはいいがその実簡素なレベルで社員食堂並だったが、それでも流れる車窓を愛でながら今そこで調理されたばかりの食事に舌鼓を打つなんて、パリの三ツ星レストランでもそんな贅沢は味わえない至福のひと時だった。
もうあんな贅沢は体験できないのは寂しい。
小学生のときの憧れのブルートレインだった。
私が小さい頃にはすでに宮崎止まりになっており、母方の田舎の最寄り駅の宇佐に停車していたので
立席特急券で乗ってましたね、小倉・中津~宇佐間ですが....なつかしいですねぇ。
1980年代後半にこの富士をはじめあさかぜ、はやぶさ、さくら、みずほと各寝台列車を
小倉から熱海の間をよく利用してましたが、
この時期すでに富士の車両は他の寝台列車より車両が古くなっていた感じでした。
当時、車掌さんにたのんで列車名入りのスタンプを押してもらったのがいい思い出です。
ブルートレイン全盛時、本線沿線に住んでいたので富士を始めはやぶさ、みずほ
さくら、紀伊といった列車を深夜に走るのを見て大人になって余裕が出たら乗りたいと
思っていましたが、乗れる余裕が出来た頃には全廃…また定期運航が復活してくれれば
絶対に乗りたいですね、ブルトレ
海上自衛隊にいた時に転勤で佐伯から横須賀に行く時に佐伯駅から東京駅まで乗ったのが思い出ですね。
寝台特急富士の西鹿児島行きは、今でもUA-camで国鉄の寝台特急富士の紹介動画で残っていて、凄い距離だなと思う、
後は、渥美清さん主演の喜劇急行列車でも寝台特急富士が出て来て
あの渥美清さんの笑いがあって、
本当に笑ってしまう
自分自身は、富士に乗ってアウェー大分トリニータ戦に行くときに使いました。
24系は関西地区発着が削減されて余剰車が生まれ品川客車区へ転属してきた。しかし一年半ほどで24系25型の新造車に置き換えられている。食堂車は引き続き使用されたが昭和53年2月の博多あさかぜ24系25型に伴い食堂車の捻出のために基本編成から付属編成へ移っているのは基本編成だと3編成必要だが付属編成だと2編成で済むためだ。食堂車は24系のために製造されたために25型に組み込むと食堂車だけ白線だった。
東京、熊本間の寝台は数回使いましたが快適で良い思い出です。サンライズも廃止される前に時間とお金貯めて乗りたいですな。
毎日18時半過ぎに家の前を通ってたイメージ
いつか俺もこの列車に乗って東京に行くんだと夢を抱いてた栄光の列車
最後に門司まで写真を撮りに行った唯一の列車を取り上げていただきありがとうございます
さくら、みずほ、はやぶさは新幹線で愛称が復活してますが、富士はまだですね…。
リニアで復活なのでしょうか…。
5:11 1968年の復刻版時刻表を見ると、延岡からB寝台は自由席特急券で乗車できたと思われます。
富士のヘッドマークは昭和の終わり頃に丸形から山の形になったり、通称「赤富士」が試作されましたね
遠い昔、東京から西鹿児島 まで下り「富士」を乗り通しました。東京行き上り「富士」と、二回、出会うのを覚えてます。
富士は新幹線の名前にしづらい
縁のある大分・宮崎でも富士の側を走らない
愛称復活が難しい
「最初の特急愛称」「富士山麓を突っ切る」とかでリニアの列車名に温存しているという説は?
ブルトレで思うのは、B寝台でベッドがセットされてない時間は知らない人達と向かい合わせになるので、その状態が苦手な人はしんどいと思いましたよ。ただこれも相席ガチャで運ですね。自分から見て苦手だなと思うタイプの人と一緒になったらシンドイですw 自分の場合はどんな人と一緒なのかザっと見て、こりゃダメだ、と思ったら最後尾のロビーカーに移動し、ベッドが作られるまでそこに居ました。個室ならそういう状況には成らないので、乗るなら個室だなぁとその当時思いました。でも高いので結局B寝台しか乗りませんでしたw 友人と一緒に乗るならその辺は心配しなくて良いですけどね。 私はよく「瀬戸号」に乗りましたが、発車時間が遅いので最初からベッドになってるので気楽でした。ただ翌朝はベッドから座席になって向かい合わせになるので、そこでどんな人達と一緒だったのか知る事になります。そこで あぁダメだ、思ったら最後尾へ、て感じw 一度だけ、同年代で話しの合う人とベッドが上下だった事があり、その時は楽しかったですね。 あと話し好きのオバチャンの時も色々食べ物もらって楽しかったですね。
富士号 1日に3本走っていました。東京発18時00分~翌日の東京発18時00分の下り2本と上り1本。小学生の時に主に平日の夕方にブルトレ撮影に東京駅に行ってました。下りのさくら号に始まり、下りの富士号まで。そして、横須賀線で自宅の最寄り駅 新川崎駅まで乗って帰ってました。
東京16:30分発 さくら号
東京16:45分発 はやぶさ号
東京17:00分発 みずほ号
東京18:00分発 富士号
廃止前年の夏休み、富士号に運よく乗車出来ました。しかもA個室で。帰りのはやぶさ号がラスト数枚だったことを考えるととてもラッキーで貴重な体験が出来ました。下関や大分駅などでの大量の撮り鉄のみなさんに驚き、今でも大分駅での富士号の写真が壁紙です。
マイカーを運転するのも疲れる時代になったので、新幹線がない地方都市への直通列車は需要あると思うんですよね。
最近はホテルも高いので、寝台車はちょっと嬉しいかも。
ただ快適さをサンライズ以上にはしないと昔のようなすし詰めは無理かも。
国鉄がストライキをする時は全国で一番最初に運休する列車だった記憶があります。
座席車が無くなり全車寝台となった昭和40年ごろには既に九州内でヒルネ(寝台解体後の座席を特急券だけで乗れるもの)が行われていたような気がするのですが、私の記憶違いでしょうか?
当時は冷房付きの列車は他にキハ82の特急しかなく、かなり重宝されたものと思います。
末期になるとA個室やソロは大分で分割されていましたが、そこから先まで乗るときは下りは座席になったB寝台利用だったのでしょうか?昔話にはなるものの本当ならある意味急なグレードダウンでしたね。
実は富士は仮に現在復活させたとしてもJRの路線内だけで完結可能な数少ない寝台特急の一つ
他にはあけぼの、あさかぜ、彗星くらいしかないはず
懐かしい 50〜40年位前に、よく広島県福山市で見かけました 福山から東京を利用した事があります 福山は23時台でした、21時台に寝台特急「あさかぜ」もあり、利用した事があります
20代の時の利用で車掌さんが優しくて、多分岡山車掌区の人で、降りる福山の一駅前の岡山
「もうすぐ岡山じゃけえね」と声をかけてもらった事を覚えています(多分、車掌さんが交替する)
富士が東京駅を18:00に発車してた時、まだ前日に東京駅を発車した富士がまだ日豊線を走っていて西鹿児島に着いたのが18:36とは地球規模のスケールの列車ですね。
スピードが優先される今では設定の難しい列車ですね。
「四季島」みたいに超豪華で90万円以上じゃないと無理ですかね。😅
そろそろ関東側から宮崎に
働きに来るみたいな流れに
なってもいいんだよな😂
「富士」は私の中では別格な存在でしたから深夜の岡山駅で寝台特急を撮ってて「富士」が入って来たら興奮しまくりでシャッターを切ってましたねw
当時まだ西鹿児島行きで短縮(しかも後に廃止)されるとは思ってもいませんでした…
1970年ころには時刻表には載っていなかったが、大分からは寝台券無しで乗車できたと思います。そして富士は、ブルートレインに愛称❤が変わった時点で役目を終わっていた気がします。なぜなら上りはともかく、下りは富士山を望めないからで、今にして思えば東海道新幹線がかなり開業したときに冨士の愛称を与えても良かったのでは?と思います。
当時、東京ー西鹿児島のLPレコードを持ってました。
学生時代に都内で撮った列車のひとつでした。
当時お金があれば、一度は乗って九州の旅をしてみたかったものです。
南宮崎発着のころ、行きにはやぶさで西鹿児島まで行って、九州ぶらっと廻って南宮崎から富士で帰ってきたことありますねー。行きのはやぶさでは熊本で切り離ししているうちに、後続のつばめに抜かれてました。
乗客が飛行機、深夜バス、新幹線に流れるのは仕方がない。時代の流れですね。
戦前からすると、富士の列車愛称も最長かもしれませんな
とはいえ、はやぶさとさくらが新幹線の列車愛称に使われているので、何かの機会に使われるといいのですが
運転距離が短縮され、もう少しで廃止の議論が挙がるというタイミングになってから乗車しました。
かつて、この列車に乗るという事が夢ではありましたが、小学生の時に読んだマンガに載っていた
食堂車はすでに無く、ただの移動するビジネスホテルと化していたのは悲しかったです。
乗客数もかつてのピークを思えばかなり少なく、私などB寝台4人の所に一人でしたからね。
お陰で、誰にも干渉されず熟睡でき、しかも到着までごろ寝し放題でしたが。
3:00~東京駅を夕方18時に出発し、
4:00~西鹿児島に夕方18時半に到着という鬼畜スケジュールで爆笑したww
日豊本線沿線に住んでいらっしゃる方々には失礼と思うが、同線は鹿児島本線と比べると、本線とは言え格下らしく、宮脇俊三先生はブルトレ「富士」が登場した際、「国鉄は何を考えてる!」と、批判的なコメントをのべていました。
分かる(笑)
その前の電車特急も東京と 宇野 だもんね。富士って名前負けが多いよね。
大分行時代 A個室車掌室のとなりに乗りました 東京駅10番線の非日常な雰囲気、明石海峡大橋あたりの疾走感は忘れられません
全区間乗りました❤ 懐かしい😭
ばあちゃんが大分にいたので3回くらい乗ったかな?食堂車で食べたビーフシチューが謎にうまかった思い出
晩年の『はやぶさ』には静岡から博多まで乗車。寝台車はBソロで、中々眠れず岡山付近で眠りにつけたと思っていたら夜明け前の広島駅で目が覚めた。博多からの帰りは当時500系運用だった『のぞみ34号』(京都で下車)。
この動画を見るとやはりサンライズだけは残して貰いたいと切に願います🎵
はやぶさで行って富士で帰って来るという変態高騰をしていた俺
「♪ふ〜じは日本一の列車〜」
最後のブルー・トレインとして残ったのは、戦前の特別急行1レ2レ列車、1・2等列車、欧亜連絡列車としての意地だったのか…。車両のグレードアップは常に「あさかぜ」の次だった感があったが、24系25 形化は早かった。その「あさかぜ」も先に廃止という運命だった。「富士」という格調高い名称、リニアで復活するか、それとも夜行寝台列車でもう一度登場するのか…。
私はリニアは単純に、「リニア○号」になるとみている😉
今の時代からすると富士みたいなブルトレにはロマンがあるし、もし走っていれば1度くらい乗ってみたいと思う。
でも本当に1度だけかな。完全に実用性がなくなってしまった。東京九州なら飛行機が主流だし、飛行機がダメでも新幹線と在来特急で当日中に移動できる時代。
ブルートレインに憧れていた子供の頃、富士に乗った事があった。気が高ぶって眠れなかった記憶だけ残っている。ぜいたくな経験だった。サンライズののびのび席に明け方から乗って高松に行った事がある。マリンライナーという手もあったがサンライズを選択。サンライズより朝焼けの瀬戸内海の方が記憶に残っている。ブルートレインにはぜいたく感がある
1965年(昭和40年)に富士が西鹿児島発となったとき、宮崎から東京まで初めて24時間を割った。東京が一日圏となったと、当時の宮崎ではニュースに。
ちなみに、その日のうちに東京から宮崎まで鉄道で行けるようになるのは、新幹線が岡山まで延びた1972年(昭和47年)3月。東京を6時に出るひかり1号に乗れば、新大阪・岡山間で大阪発の特急日向を追い越すので、岡山で日向に乗り替えられるようになった。午後8時過ぎに宮崎駅着。しかし、その頃は既に飛行機時代になっており、スカイメイトを使うと料金的にもかなり安上がりだった。
ラストランの年に小倉まで乗りましたね😂一生の思い出デス。❤
乗ってみたかったけど親に大人になってからねって言われて大人になったらそもそも無くなってた
1往復の列車を運行するのに4編成必要なこと。寝台列車が車両基地で夜を明かすことなど、西鹿児島乗り入れは問題点が大きすぎたと思う。せめて【カシオペア】や【トワイライトエクスプレス】並の設備があればかちはあっただろうが。
ブルートレインブームのときには憧れのマトだったけど。
一度出発すると同じ列車と2回すれ違いor離合するからねぇ。
運用的にはかなり効率が悪かったと思われる。
(トワイライトエクスプレスも同様だった)
「トワイライト」(や「北斗星」)の場合は「乗ることを楽しみにする」列車だったけど、「富士」をはじめとする東京ブルトレはそういう要素は無かったからな。
旅情があるかないかの違い。
3編成だがや😉
@@psychedelicraspberry517 すみません 間違えました。
富士と言えばプラレールのブルートレインもEF65形500番台と24系客車で富士で売ってましたね。
踏切付きのセット持ってました
@@AlcoholBoatraceCarpDining そんなのがあったんですか?
@@気のままに鉄道撮影チャンネル
踏切付きのオーバルコースで駅はありませんでした
最後尾はカニ24でした...
@@exp.m.k.2300
そういやカニの顔側にカプラーなかったですね
オハネフにはテールマークなかったし・・・
最後のBLはみずほでしたね‼️
はへ?😜
富士が静岡停まらなかったの意外だな
私は富士🗻に、廃止前に一度ですが乗りました。B寝台の下段でしたが
振動と冷房の効きすぎで、あまり😢眠れませんでした。食事は、東京駅で済ませ、翌朝に、徳山から車販の弁当🍱を、買いました。終点の大分まで乗りました。その後阿蘇山に、行き、在来線の、つばめ号に乗り、新幹線🚅のぞみに乗り東京駅に行きました。その3年後に富士🗻が、廃止に、なりました。😢
東京から西鹿児島まで🙃24時間を越えてました。それが絶大なる人気を誇っていた理由である。
東京〜西鹿児島(日豊本線経由)
特急富士所要時間24時間超え
急行高千穂所要時間29時間超え
私が小学生のころが、まさに「ブルートレイン・ブーム」の真っ只中でした。その中で、特にもてはやされたのが「あさかぜ」&「はやぶさ」&「富士」&「出雲」でした。
16時台から18時台の東京駅9番線は、入場券で入場したカメラ小僧たちが連日のように溢れ返っていたなぁ。
富士は、私がブルトレにハマったころに運行区間が西鹿児島から宮崎に短縮されたけれど、当時の新婚旅行先で国内1番人気だったのが青島海岸だったので、当然「富士」のA寝台個室は新婚夫婦が競って取り合ってたよ。まぁ帰りは仕事の関係もあり、飛行機で帰京する新婚さんも少なくなかったようだけど…。(まぁ当時は国内旅行でも、往復飛行機というのは、かなり贅沢で料金も高額になりすぎるという問題があったと思います。)
「さくら」「みずほ」は好きじゃないのか…😵
@@psychedelicraspberry517
(だから東京の敵は郷土の変な新幹線で・・・、討てませんでしたー}さくら・みずほの郷
高三の時に防府まで乗車しました。
富士の柳井と、はやぶさの厚狭は何で停まるんだろうと子供の頃思ってました
当時 20系客車を牽いてたのが DF50だった。宮崎は電機機関車が走るまで時間があったような…
1975年だったら宮崎でも機関車の交換が行われていたはず。しかもDF50...
ダイナモ式の機関車。現代でいえばハイブリッド車の先駆けだった。
復活してほしい
華やかな時代の中でダイヤ改正では運行している路線の鉄道管理局の苦労もうかがえますね!
24時間36分てことは宮崎から先が非電化でDF50が担っていた頃かな?
言っとくけど担当した機関車の種類が一番多かったのもこの頃の富士だったかな(EF65,EF30orEF81300,ED76,DF50)
因みに西鹿児島までED76が牽くようになって24時間3分になった頃の車内放送(東京駅発車直後)が探せば出てくる。
蛇足だが同じく西鹿児島行き急行桜島·高千穂の東京駅発車直後の車内放送も探せばあるぞw
あの時、もっとブルートレインに乗っていればなあ~と、今になって思います。
ブルートレイン「富士」、急行「高千穂」共に24時間以上走ってましたね。もう定期でこのような列車が走ることはないでしょう。昔はよかった?
日本海ですらギリギリ5割だったので富士・はやぶさの乗車率は悲惨きわまりないものだったでしょうね
昔は新婚旅行で宮崎って定番だったし、フェリーかブルトレだったのかな?
食堂車が営業休止になった頃から用務客に見捨てられて
乗客が現在でのサンライズ出雲瀬戸のように乗車することが目的のマニアばかりになり
先が長くないと思っていたら統合され消されてしまった
富士の愛称はリニアに相応しい
ブルトレになる前が東京ー宇野間の特急だったり
富士という名前は結構不遇なんだよね
リニアに使うかな
私はリニアは単純に、「リニア○号」になるとみている😉