関ヶ原の戦いにかかわる城と陣地

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  • Опубліковано 29 сер 2024
  • 1600年9月に行われた天下分け目の戦いの3か月前からの東西両軍の動きに解説を加えながら戦後処理まで記述しています。
    関連動画:軍師・竹中半兵衛重治131205

КОМЕНТАРІ • 105

  • @choubetsu
    @choubetsu 5 років тому +17

    何とも裏切りばかりで目も当てられん。西軍諸将を大いに評価するぞ

  • @guttyao
    @guttyao 8 років тому +15

    ここまでわかりやすかったのは個人的に初めて。

    • @seichan77
      @seichan77  8 років тому +2

      戦場になった関ヶ原、垂井、大垣には、数多くの伝承があります。この作品にはその一端を盛り込みました。

  • @SaT1984x
    @SaT1984x 5 років тому +3

    各要所から実際に見える現地の眺望画像がとても参考になります。

    • @seichan77
      @seichan77  5 років тому +1

      ありがとうございます。丹念に現地へ足を運んだ結果です。

  • @k.t7845
    @k.t7845 7 років тому +6

    素晴らしい。ありがとう😁とても見ごたえがありました。素晴らしい。

  • @user-dr7vl6iw5n
    @user-dr7vl6iw5n 7 років тому +9

    大変わかりやすい内容でした。勉強になります。ありがとうございます!

    • @seichan77
      @seichan77  7 років тому +1

      ご覧いただきありがとうございます。

  • @user-Thunderbird2
    @user-Thunderbird2 7 років тому +10

    関ヶ原の城と領地に絞って、解説しているところがいい。

    • @seichan77
      @seichan77  7 років тому +1

      企画のねらいを的確にご理解いただき、ありがとうございます。

  • @user-rv8vx6dh7e
    @user-rv8vx6dh7e 7 років тому +36

    小川、赤座の両名は後世に汚名も残ったうえに所領没収て哀れだな。
    とても分かりやすい動画で為になりますね

    • @user-dx8ok7zm4p
      @user-dx8ok7zm4p 2 роки тому

      脇坂安治は見事に所領手に入れたけどね

    • @user-rv8vx6dh7e
      @user-rv8vx6dh7e 2 роки тому +1

      @@user-dx8ok7zm4p 脇坂の場合、東軍との内通する際に仲介してもらった藤堂高虎の進言で所領安堵されたというけどこの行為が認められるなら西軍がそのまま押し切って勝っても脇坂は所領安堵されただろうしどっちに転んでもよかったという事になるから他の武将にとっては不服でしょうね。特に小川、赤座はなんで奴だけ安堵なんだよって感じでしょう。個人的には脇坂も小川も赤座も斬首でOKと思う。

    • @user-dx8ok7zm4p
      @user-dx8ok7zm4p 2 роки тому +1

      @@user-rv8vx6dh7e ですよね、小早川に関しては大谷吉継公の呪いのせいか本当に2年後に急死しましたね

    • @user-rv8vx6dh7e
      @user-rv8vx6dh7e 2 роки тому +1

      @@user-dx8ok7zm4p 大谷吉継の呪いありましたね。吉継にしてみれば小早川への憎しみは相当なものだったでしょうね。自業自得、天罰だと思いますよね。大谷吉継はここで死にましたが、吉継の息子の大谷吉勝(吉治ともいう)は父の意思を継ぎ、大坂の陣で真田幸村と共に家康の陣に突撃し、最後まで家康の首を狙い続けました。豊臣への恩を忘れない立派な父子だと思います。

  • @souten2008
    @souten2008 7 років тому +23

    領民の苦しみに言及されているのが素晴らしいと思いました。
    ドラマやゲームの影響か、義を偏重するような風潮の昨今ですが、それは一部の偉い人の心情に過ぎず、大多数を占める一般市民は明日の糧を得ることの方が重要であったのでは、と感じております。私も一般市民の1人でありますから、このような戦乱の世にこれ以上進まぬ事を祈って止みません。

    • @seichan77
      @seichan77  7 років тому +3

      その通りですね。あれから400余年を経た現在でも、地元には「領主に家を焼かれた」という恨みが残っているそうです。(地元領主が東軍に鞍替えし、戦場へ赴くときに戦場につながる治下の民家を焼き払いながら行進したのだそうです)。領主も自衛のために敵軍が潜むかもしれない障害物を焼かざるを得なかったのでしょうが…

    • @Nakamura1238
      @Nakamura1238 5 років тому

      ゲームはゲームドラマはドラマで良いんだよ...
      でもこの動画は素晴らしくためになるね

    • @nishinarinosuke9693
      @nishinarinosuke9693 5 років тому

      最近の歴史動画の中では特に素晴らしい出来映えだと思います!
      中々、領民の側って描かれないですものね💦

    • @user-wj9lp6wp5i
      @user-wj9lp6wp5i Рік тому +1

      ドラマ「オラ、領主様のためなら死んでも構わないだ」
      現実「徳川が勝とうが石田が勝とうが知ったこっちゃねえぜ。落ち武者狩りでは覚悟しとけよ」

  • @tokyokyoko6682
    @tokyokyoko6682 8 років тому +29

    歴史がすきですが、秀逸だと思います。

  • @-msc
    @-msc 5 років тому +7

    この地の農民が関ヶ原決戦後に家康に直訴したところ、戦後復興の費用と戦死者の死体収用などの措置
    を領主にを命じたうえにその由を確約する書状を発行してるんだよな。
    関ヶ原の農民の子孫が大切に書状を保管してるのが平成の世になって初めて世に出てきたのには驚いたわ。

    • @seichan77
      @seichan77  5 років тому +2

      それはすごいものが見つかりましたね。

  • @naru3995
    @naru3995 7 років тому +5

    概ね、よく調べられていらっしゃいますが、
    現在の定説になってる勝者の歴史観点での解釈が多々あるように思います。
    東軍家康方対西軍石田(豊臣)方という構図ではなく、
    あくまでも豊臣家臣内での内ゲバという解釈があるのも事実です。
    ですので戦後、家康が恩賞を与えるとうのはとんでもない暴挙であり、
    最終的に島津の扱いが決定するまで時間がかかったのが何よりの証拠だと思います。
    権力を持った徳川ですが、関ケ原から大坂の陣までの間の歴史的矛盾を
    自分たちの都合のいい解釈に変更しきれなかった事をみても、
    家康のしたことがいかに理不尽であることをご指摘させていただきます。
    おおよそ、現在の価値観で歴史を見る事自体が間違いではないかと思っています。

    • @seichan77
      @seichan77  7 років тому

      naru 3 さんのご意見はもっともと思います。見る立場によって考え方が異なるといえますので、どれが絶対的に正しくて、どれが誤りかを確言できないと思っています。娯楽作品の気軽さ程度にお考えいただくことを希望します。

    • @user-ix8kf3vm3t
      @user-ix8kf3vm3t 5 років тому

      seichan77
      正にその通りで御座候。
      歴史なんて勝者の都合よく語り伝わるもの。敗者側からみたらウソ〜んということも沢山あるはずよ。

  • @user-ui2xz2mc4f
    @user-ui2xz2mc4f 6 років тому +23

    陣形だけを見れば圧倒的に西軍有利なんだけど最早 毛利、小早川、吉川は西軍じゃない。
    当時から小早川秀秋や毛利は三成に不審視されていたと聞くから信用出来ない大軍に依存しなきゃ勝てない時点でこの戦の勝敗は決まっていたのかもしれない。

  • @crystalme3911
    @crystalme3911 7 років тому +5

    教科向けでいいですね。解りやすさ秀逸です

  • @55tomokun66
    @55tomokun66 6 років тому +4

    素晴らしいです‼️鹿児島のおいら的には島津の敵中突破(捨てがまり)のくだりも入れて欲しいなぁ(>_.

    • @seichan77
      @seichan77  6 років тому +1

      55tomokunさん。おっしゃるとおり島津義弘の敵中突破を外したのは残念です。テーマを城と陣地にしぼったので、それにはずれたものは対象から外さざるを得なかったのがその理由です。(総時間がずるずる延びるのを避けたかったのです)関ヶ原の隣村には、義弘の甥の豊久の墓があって、現在も地元の人々が定期的におまいりしています。徳川幕府の命令で、濃尾平野を流れる木曽三川の分流工事を島津藩の人々が担当されるなど、当地方には薩摩との縁が深い遺跡がたくさんあります。また機会を見て、この種の紹介をできればと思っています。

  • @img5xx
    @img5xx 7 років тому +10

    テレビ番組で本物の火縄銃を使って実験していたが、家康が撃ったとされる問い鉄砲は小早川の陣地では全く聞こえないものらしい。それは徳川側が死人に口なしを利用した後の創作で、島津側の一次資料によると山川辺りで小早川軍が口火をきって大谷軍を攻めたのがきっかけ。その後福島軍と併せあっという間に大谷軍が全滅。豊臣勢を使い西軍を滅ぼしたきっかけをつくったという説もある。その後大勢を見て島津が中央突破をしながら殿が命を賭して守り切った。一日どころか、正午には勝敗が既についてたそうですよ。ドラマや映画でやっている関ケ原の戦いは、三国志演義のようなもので、事実よりもドラマチックに書かれた創作だという見方もある。

    • @seichan77
      @seichan77  7 років тому +2

      img5xxさんのご意見、ありがとうございました。諸説あるようですが、この作品は比較的多数派の通説を使って、初心者向けに14分に要約したものですから、今回はこの程度でご容赦ください。

    • @user-cr1tj2py6l
      @user-cr1tj2py6l Рік тому

      面白い考察ありがとう
      ございます
      比べて西軍の諸将は纏りがなく
      戦意は低くて優柔不断ですね
      西軍の総大将が秀頼公だったら
      歴史は変わっていたかも
      しれません
      ただ、そうなると戦乱の世は
      暫く続きそうですね

  • @user-ce1ob5kh9b
    @user-ce1ob5kh9b 7 років тому +3

    石田三成がずぶ濡れの状態で迎撃するつもりだったとは初めて聞きました。
    そこに味方が裏切ったのですから、まともな判断など出来なかったでしょう。
    非常に為になるものでした。
    一点 会戦を開戦ではないでしょうか

    • @seichan77
      @seichan77  7 років тому +1

      ご指摘ありがとうございます。三成が大垣城から関ヶ原へ向かったルートは低湿地帯であり、その上9月5日早暁には小雨が降ったそうですから、上と下から水漬けだったようです。

  • @Punyo09gPunyo
    @Punyo09gPunyo 6 років тому +3

    9月15日の前の動きがかなり分かりやすく勉強になりました。
    ありがとうございます。
    10:40あたりから表示される陣形が
    その前の表示(こっちのほうが一般的だと思う)と逆になるの”だけ”
    分かりづらく感じました。

    • @seichan77
      @seichan77  6 років тому

      ご意見承りました。画面を上下2段構成にして、上段にムード画面(現地実写)を入れたのが視聴される方の思考を惑わせたというご指摘でしょうか。以後気を付けます。ありがとうございました。

  • @1136845792402
    @1136845792402 5 років тому +2

    鳥居元忠の話しも少し入れて欲しかった…。
    慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると(会津征伐)、伏見城を預けられる。6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は三千ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要でございます。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい」と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。
    wikipediaより。
    結果、鳥居元忠勢・約1800名
    石田三成勢・約4万名…。
    鳥居元忠勢、全滅。伏見城落城…。

  • @jinn2017
    @jinn2017 7 років тому +11

    大谷吉継は三成の腹心ではありません

    • @seichan77
      @seichan77  7 років тому +6

      1586年、石田三成が堺奉行に任じられたとき、大谷吉継はその配下でした。その後吉継は奉行格になりましたので、Hideo Jinnnai様のご指摘の通り、同格の親友とか盟友というのが妥当でしょう。ただ、初心者向け要約版である本動画では、三成が心を許せる仲という意味で、島左近とともにひとくくりして「腹心」と表現しました。ご了解ください。

    • @jinn2017
      @jinn2017 7 років тому +3

      石田三成と大谷吉継の関係はフレンドマンシップにふさわしい。あなたの意見は賛同します。

  • @yoshiki_from
    @yoshiki_from 7 років тому +14

    2番目に軍が多い小早川が裏切ったからだ!

  • @kumosukeponsuke
    @kumosukeponsuke 7 років тому +4

    竹中も平塚も、もし江戸期に同じ所領で藩として残っても、
    藩財政が大変だったろうなと思ってしまいました、

  • @ruger2961
    @ruger2961 Рік тому +1

    吉川広家あんなに徳川にスリスリしてたのにこんな減封されてたんだ

  • @asukas.7141
    @asukas.7141 4 роки тому

    関ヶ原の合戦場、
    領主が竹中半兵衛の嫡子と挙兵時に大谷吉継と共に挙兵を止めた人というのが、なんとも皮肉な。

    • @seichan77
      @seichan77  4 роки тому

      ご指摘の通り、戦場になった関ヶ原の領主は東軍についた竹中半兵衛重治の嫡男・重門でした。
      一方、関ヶ原隣接地の垂井の領主は西軍についた平塚為広でした。平塚為広は秀吉の身辺警護役を務めた武士で、三成と行動を共にしましたが、三成の挙兵をいさめたかどうかは不明です。
      いさめたと記録されているのは大谷吉継と島左近です。
      なお、竹中重門は垂井の城から戦場の関ヶ原へ向かう途中で、民家を焼き払いながら行ったといわれ、地元では「わしらの家は領主に焼かれた」と言い伝えられています。東軍は垂井の神社仏閣、民家のすべてを焼き払ったそうですから、異常な緊張状態だったと推定されます。
      このとき焼かれた南宮大社は、のちに春日局が家光に頼んで再建され、現在国の重要文化財に指定されています。
      焼いたり建て直したり、戦争はいろんなことをしたものです。

  • @dexiuxinbao8862
    @dexiuxinbao8862 5 років тому +3

    陣構えだけみたら西軍は勝ちでおかしくない。ただし調略など戦略的にすでに吉川と小早川が機能しない時点で負けだなぁ。この様子から学べることは、あえてあれだけ用心深い家康がなぜ袋の中に入ってきたかというところかな。まぁ秀忠が来るのも見越してとは思うけど。

    • @seichan77
      @seichan77  5 років тому

      結果的には家康の調略が奏功して東軍の勝利になりましたが、戦国時代の約束は守られないことが多かったようですから、家康としては疑心暗鬼の中での決断だったと思われます。
      鞍替えしようかどうか迷いのある武将の判断は、勢いがある方に傾きやすいので、家康が自信に満ちた強気の行動をしたのが「迷える武将」を味方に引き込む誘因になったともいえます。
      なお、秀忠が到着したのは数日後でしたから、関ヶ原での野戦には間に合わないと家康は判断したのではないでしょうか。

  • @user-kn1fx6bg6i
    @user-kn1fx6bg6i 6 років тому +1

    三成が挙兵を5日遅らせてたらな、だいぶ変わっていた

  • @sheellar
    @sheellar 8 років тому +8

    なんかすごい☆ 詳細だし、たいへんすてき☆ (✿╹◡╹)

    • @seichan77
      @seichan77  8 років тому +8

      ご覧いただき、ありがとうございます。この戦で命を失った人々の心が宿ったのでしょう。私は80歳。イラスト動画を作り始めて3年たちました。同類作品「軍師竹中半兵衛重治」もご覧ください。

    • @sheellar
      @sheellar 8 років тому +1

      ネットでみて、広島大学の准教授の人だと勝手に思い込んでました。。。
      それはともかく、はぃ、そちらも拝見します☆
      これからも素敵な作品、製作されてください☆ (✿╹◡╹)

  • @user-lc4db9ie8b
    @user-lc4db9ie8b 3 роки тому +1

    所詮は、秀吉の家臣団の争い。家康側が負けても徳川家康の跡継ぎ秀忠の率いている徳川軍本体は温存されている。
    遅参と言われているが、秀吉恩顧の大名同士が潰しあった後も勢力を維持するために遅れさせたのかもしれない。

  • @isobeferrero9778
    @isobeferrero9778 7 років тому +5

    地元民だった自分には関ヶ原鍾乳洞の思い出が1番だったりするw(彼女との初体験の場所)

    • @seichan77
      @seichan77  7 років тому +1

      よい思い出があってよかったですね。

  • @ex6417
    @ex6417 8 років тому +9

    凄く分かりやすい!!
    低評価を押すやつは、どうかしてる。

    • @seichan77
      @seichan77  8 років тому +1

      ご理解いただきありがとうございます

    • @user-si4jk3rq1d
      @user-si4jk3rq1d 7 років тому +4

      ホシガくん 人それぞれだから、どうかしてるとか言ってる時点で低脳だな

    • @ex6417
      @ex6417 7 років тому +1

      バギー て-ん お前みたいな知識のないやつは、黙っとけ。雑魚
      それだけしか言えないんですか?笑

    • @user-si4jk3rq1d
      @user-si4jk3rq1d 7 років тому +3

      ホシガくん 安心して、これを見ずともわかるくらいの知識はあるから、

    • @ex6417
      @ex6417 7 років тому +1

      バギー て-ん その証拠は?
      多分俺の方が知っていると思うよ。笑

  • @dreamin2921
    @dreamin2921 5 років тому +1

    関ヶ原最終章に、死んだと思われていた織田信長爺が現れて"いえやす、ご苦労さん"てオチです。

  • @user-oh2kh4xi4e
    @user-oh2kh4xi4e 4 роки тому +1

    岐阜城では激戦が行われたから、別に戦意喪失してたわけじゃないよ。そもそも岐阜城籠城に向いてないし。これのせいで毎回秀信が愚将っていうイメージがついちゃうんよ

    • @seichan77
      @seichan77  4 роки тому

      岐阜城主・織田秀信(三法師)は信長の嫡孫として苦労知らずに育てられ、当時21歳の若さで「勇ましいカッコよさ」を見せようと城外へ打って出たのでしょう。
      戦は勝つこと(あるいは負けないこと)が不可欠で、激しく戦うのが目的ではありません。いたずらに家臣を死に追いやることは避けるべきです。当時の状況から見て、野戦の一発勝負で敵を追い散らすことはできないのですから、老臣が籠城を主張したように岐阜城単独で戦うよりも味方の応援を待って、城の内と外が協力して攻め手を押し返すのが良策でしょう。
      秀信の浅慮により最初の野戦に大将自らが出馬し負けたのですから、こんな大将の下では勝ち目がないと城兵の士気は衰えてしまったと言うことでしょう。

    • @user-oh2kh4xi4e
      @user-oh2kh4xi4e 4 роки тому

      seichan77 そもそも岐阜城は井戸が少なく籠城に向いてない城であり、曲輪の数も少ないため十分な兵力を城に置けない、また攻めてに池田氏がおり、彼は元々岐阜城主だったため岐阜城の構造を知っていた。以下のことから籠城しても意味ないし、そもそも歴代の岐阜城主は岐阜城を中心として長良川や木曽川などの川を水堀に見立てることにより防衛をしてきたのでそもそもうってでるという選択肢は間違ってはいなかったし、福島正則の軍勢は撃退しているから単純に軍勢の差が敗因なのと、石田三成は自己中で、佐和山城を中心とした防衛線を張ることしか考えておらず、その時岐阜城が防衛線外にあったため援軍をあまりださなかったからどっちにしろ援軍が来ても負けてた。

    • @user-oh2kh4xi4e
      @user-oh2kh4xi4e 3 роки тому

      @べリヤ 福島正則は木曽川からの渡河を試みたけど失敗したのでさらに下流に南下してます。

    • @user-oh2kh4xi4e
      @user-oh2kh4xi4e 3 роки тому

      @べリヤ それは知らなかったです。無知を披露してしまいすみませんでした。

  • @avmvpLdj
    @avmvpLdj 5 років тому +5

    分かりやすかったけど、島津義弘出さなかったのは、残念(>_

    • @user-vp9ig3yx7s
      @user-vp9ig3yx7s 4 роки тому

      あいつ有名すぎるし要らんだろ。どのみち500人しかいないから大勢に影響を与えるのは無理

  • @E3higurashi
    @E3higurashi 8 років тому +12

    小早川の裏切りで全てが決したのは事実だが、徳川の背後に布陣していた吉川広家が三成の攻撃伝令に逆らっていなかったら、義理とは言え毛利家の小早川秀秋もその流れにのり徳川を攻撃し西軍の勝利になっていただろう。 長宗我部も元々東軍に加わる予定だったところをしぶしぶ西軍にさせられていたようだし、西軍の諸大名の多くが初めから乗り気でなかったのが勝敗を分ける重要な要素であったとともに、西軍にとっては十分機が熟していたとは言い難かったのかもしれない。

    • @seichan77
      @seichan77  8 років тому +6

      歴史を左右する要因にはささいなことがあるようです。吉川広家は息子を家康のもとへ人質として差し出しており、政治的な動きが多い安国寺恵瓊に対する反感もありました。それまでの文のやりとりから、家康は広家が西軍につかないだろうと踏んでいたのです。小早川秀秋が松尾山の陣へ押し込みで入った時から、西軍の味方ではないと見られたように、三成の求心力不足を見抜いた家康が、豊臣恩顧の旗のもとに集まるはずの人々を「アンチ三成」という目先の感情にすり替えたのも大きな要因でしょう。

    • @E3higurashi
      @E3higurashi 7 років тому +1

      なるほど、勉強になります。

    • @seichan77
      @seichan77  7 років тому +1

      関心を持っていただき、うれしく思います。

    • @user-nc2vf5ko4q
      @user-nc2vf5ko4q 6 років тому +1

      吉川の確約がないのに家康本陣が鶴翼の陣深くまで布陣するわけがありません。
      毛利軍の不戦を確信して退路も確保したからこその野戦決戦なんですからそれが成らなければ関ヶ原で野戦自体がなかったはずです。

  • @user-nd7hf4mf2n
    @user-nd7hf4mf2n 6 років тому +2

    しかし、毛利は恥ずかしい限りやな!

    • @seichan77
      @seichan77  6 років тому

      戦国時代の複雑な価値観と情報不足の中でいかなる判断をするかは難しいものだったでしょう。家康も豊臣恩顧の大名がどれだけ味方してくれるか、味方してくれたはずでも、秀頼あたりが陣頭へ現れたら恩顧の方を優先するかもしれないし、危ない綱渡りだったのでしょう。
      結果的には、やや中途半端な態度の毛利氏が家康を利したといえるかもしれません。

  • @izumikomenotu
    @izumikomenotu 7 років тому +10

    どんだけ家康は、戦上手なんだよ。
    やっぱり三成では最初から勝てないよ。
    吉継がいうように、このタイミングでは無かった。

    • @user-ee2zs8ew9l
      @user-ee2zs8ew9l 5 років тому

      saki ei 確かに挙兵の時期はもう少し後が良い。家康たちが、上杉たちと戦っている時に挙兵してれば家康は負けていたと思います。補足なのですが、多分上杉対徳川が戦っている最中、伊達政宗が裏切るでしょう。伊達政宗は父を打ち、弟を斬り、母を追いました。それは、全て、天下統一を夢見た政宗の行動です。なので、政宗は裏切るでしょう。それについてなのですが、大坂夏の陣で伊達政宗隊の前の味方の部隊が攻撃されていたのですが、家臣は後詰を推奨しましたが、ですが、政宗は突然味方が前のいるにもかかわらず斉射を命じました。そのほかにも家康本陣に突撃していた真田幸村隊の他に突撃しようとしていた部隊がありました政宗はその時味方しましたが、裏切った可能性もあります。

    • @uotamickey4970
      @uotamickey4970 5 років тому

      個人的に三成を嫌いな武将が多かった。

    • @user-tf7lm7sr9m
      @user-tf7lm7sr9m 4 роки тому

      最近の研究から、最初から秀秋は東軍側で裏切りは無かったとの説も出てきました。
      10時頃から西軍に襲いかかり、ドラマでよくある三成が使者を何度も送ったり
      花火を打ったりとか家康が鉄砲打ったりとか、時間軸が合わないらしい。
      関ヶ原の陣形は西軍が不利だったとの新説も出てるし、軍勢も東軍が多いし
      ただ単に大名たちが勝ち馬に乗っただけかも、、、、しれませんね〜

  • @lex3513
    @lex3513 4 роки тому +1

    くろだぁぁぁぁぁぁ

  • @om11111a
    @om11111a 6 років тому +3

    あら?ご先祖の事が記載されてない!あとで若狭8万石もらったのに!

    • @seichan77
      @seichan77  6 років тому +1

      ご指摘の方は、当時大津城主で、その後家康から若狭小浜藩8.5万石に封じられた京極高次さんでしょうか。大津城では寡兵で奮戦されたのでしたね。

    • @om11111a
      @om11111a 6 років тому +1

      おお!ご存知でしたか!あの戦いはいつも表に出てきませんが、最も重要な戦いなんです。
      だからいつも我が先祖は過小評価ですよ。

    • @seichan77
      @seichan77  6 років тому +1

      京極さんは鎌倉・室町以来の名門で、戦国時代も浮き沈みしながら生き延びてきたラッキー家系ですね。高次さんも姉妹の竜子さんのコネで秀吉に引き立てられ、関ヶ原の戦いの折にはタイミングよく東軍に鞍替えして家康に評価され、明治維新後は華族におなりになるとは、細川さんに匹敵する立ち回りの良さのように拝見しましたから、あやかりたい人もいるでしょうね。
      過小評価と嘆くよりも、よくぞ生き延びてくれたとご先祖に感謝されてはいかがでしょう。

    • @om11111a
      @om11111a 6 років тому +1

      しかし、子孫と言いながらも高次直系は実際いないですよ。せいぜい分家直系です。
      しかし何故か私は立花家と因縁が強いんです。昔の小学校の親友は戸次家の子孫。その後何故か私は高橋紹雲の玉砕した四王寺山の近くに家を立てました。他にも多々不思議な因縁がありますよ。
      私の母方の祖母は尼子氏で祖父は鍋島氏に関係してます。私はでも西軍石田光成、大谷吉継が大好きですよ。

    • @seichan77
      @seichan77  6 років тому +1

      いい話ですね。私にはこれ以上お相手するウンチクがありません。
      現在、「秀吉を支えた家臣たちと三成」という題名でyou tubeにアップロードしています。連続ものですが、高次さんの話に至るのはズーッと後になりそうですが、ご覧ください。

  • @dreamin2921
    @dreamin2921 5 років тому +2

    再来年の大河ドラマは嵐のニノが石田三成主役で決定!

  • @user-rf6uw8zi4b
    @user-rf6uw8zi4b 4 роки тому +1

    三成じゃなかったら勝てたかもね

  • @dreamin2921
    @dreamin2921 5 років тому

    三成内府、タイミングが遅すぎるか、早過ぎました。

  • @user-qd6vk3us3w
    @user-qd6vk3us3w 5 років тому +4

    西軍の敗因は石田三成の人望の無さに尽きる😩😩😩

  • @dreamin2921
    @dreamin2921 5 років тому +3

    西軍ではなくて豊臣秀頼軍だったら楽勝!秀頼が使えなかったと解った段階で考えた方がよかったね。三成さん。クソ秀頼を使えなかったのが大誤算か?

  • @katsukurano4297
    @katsukurano4297 7 років тому +5

    戦に苦しむのはいつも一般庶民だって?
    まあ、0ではないかもね。ナレーション内で語られている領民の苦しみに関する歴史的資料は何なのですかね。
    1600年当時俗に言う支配階級意外の庶民の権利はかなり強かったようですよ。
    なんだかな~左翼思想家の厭戦動画に思えてしまいます。

    • @seichan77
      @seichan77  7 років тому +2

      領民の苦しみについての根拠は、現地で伝承されていることがらが第一の根拠。伝承されている具体的な言葉で申し上げることができます。さらに、NHKの「ヒストリア」番組でも同様のことを述べていましたから、それほどいい加減なことではないと思っています。この地域は原野が多く人口が少なかったようです。その数少ない人々が陣地の構築に労働力として駆り出され、障害物になるからと領主に家を焼かれたという戦場事前状態ですから、武士は殺気立っており、一般的に庶民の権利が強かったとしても拒否できたかどうかは疑問です。なお、私は庶民の立場で物事を考えていますが、左翼思想の持ち主ではありません。

    • @seichan77
      @seichan77  6 років тому +2

      【参考情報】2018年2月洋泉社から「竹中重門と百姓たちの関ヶ原合戦」三池純正・中田正光著が出版されました。これに領民の苦しみの様子が説明されています。

  • @goodbymredo8630
    @goodbymredo8630 2 роки тому

    関ヶ原の戦いが一日で終わったっていう人はアホですね
    どんな戦いだって決着がつくのは一日なのにwwwww