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seichan77
Приєднався 7 лип 2012
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秀吉の墨俣一夜城をPDCA解析~事例によるPDCA演習
Переглядів 5963 роки тому
管理手法PDCAの有用性を頭の中で理解しているだけで、実際に使いこなしていない人が多いようです。 本編はPDCAの有用性を事例により実感して、それぞれがPDCAの活用により業務の質とスピードを飛躍的に向上されることを企図しています。 【関連動画】 秀吉を支えた家臣たちと三成(1) ua-cam.com/video/k0ZYnNjuPi0/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(2) ua-cam.com/video/QV5Hic0WjGU/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(3) ua-cam.com/video/fLcqUjns8tQ/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(4) ua-cam.com/video/rQRm9wJJXoA/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(5) ua-cam.com/video/rbKjMGE1oL4...
関ヶ原の戦いにおける垂井の陣~毛利への家康の調略~
Переглядів 8743 роки тому
西暦1600年(慶長5年)に岐阜県の関ヶ原で行われた天下分け目の「関ヶ原の戦い」の勝敗のカギは毛利一門の裏切りにあるといわれています。 本作品では、それに至るまでの家康による調略と武将たちの心の底を追っています。 【関連作品】関ヶ原の戦いに関わる城と陣地(2015.12.12 youtubeにアップロード)
秀吉の中国大返し~神業を解析する~
Переглядів 16 тис.4 роки тому
「中国大返し」というのは、1582年6月、明智光秀が本能寺で信長を襲った3日後、羽柴秀吉が岡山から京都までの210kmを7日間で駆け戻り、光秀を討ったという神業ともいえる行動を指しています。この早業が秀吉の運命を劇的に変えました。 この作品は、近年行われた再現実験なども参考にして推理した試みのひとつです。 【関連動画】 秀吉を支えた家臣たちと三成(1) ua-cam.com/video/k0ZYnNjuPi0/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(2) ua-cam.com/video/QV5Hic0WjGU/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(3) ua-cam.com/video/fLcqUjns8tQ/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(4) ua-cam.com/video/rQRm9wJJXoA/v-deo.html 秀吉を支えた家臣...
自然に親しむ散策環境・杭瀬川スポーツ公園
Переглядів 3524 роки тому
杭瀬川スポーツ公園は、杭瀬川の河川敷を利用した15ヘクタールの公園で、スポーツゾーンと水生植物観察ゾーンがあります。 1995年の建設当初、国土交通省の川の通信簿で最高点評価されました。ただし「部分的には人為的整備の典型的な存在で冷たく感じる。もっと自然に近い植生でまとめてはどうか」と指摘されました。 以来25年、毎年の増水時に冠水・流失を繰り返し、順次自生え植物が優勢な事前環境が形作られてきました。
明智光秀(上)~~人間像を洗い出す
Переглядів 9 тис.5 років тому
本編では、「出生~叡山焼き討ち」までを詳述しています。 続編 :明智光秀(下)丹波平定~本能寺の変 ua-cam.com/video/XMGjjhy3Gxs/v-deo.html
秀吉を支えた家臣たちと三成(5)
Переглядів 5715 років тому
本編では、「志賀の陣~叡山焼き討ち~朝倉・浅井滅亡~長浜拝領」までを詳述しています。 【関連動画】 秀吉を支えた家臣たちと三成(1) ua-cam.com/video/k0ZYnNjuPi0/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(2) ua-cam.com/video/QV5Hic0WjGU/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(3) ua-cam.com/video/fLcqUjns8tQ/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(4) ua-cam.com/video/rQRm9wJJXoA/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(5) ua-cam.com/video/rbKjMGE1oL4/v-deo.html 秀吉の墨俣一夜城をPDCA解析~事例によるPDCA演習 ua-cam.com/video/RGWsQubUuhU/v-deo...
秀吉を支えた家臣たちと三成(4)
Переглядів 8385 років тому
秀吉を支えた家臣たちと三成(4) 1570年に行われた「金ヶ崎の退き口」~「姉川の戦い」で秀吉は命をかけた大働きをしました。 この時点、信長の家臣の中で秀吉は5番目の地位に上り詰めていました、 【関連動画】 秀吉を支えた家臣たちと三成(1) ua-cam.com/video/k0ZYnNjuPi0/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(2) ua-cam.com/video/QV5Hic0WjGU/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(3) ua-cam.com/video/fLcqUjns8tQ/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(4) ua-cam.com/video/rQRm9wJJXoA/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(5) ua-cam.com/video/rbKjMGE1oL4/v-deo.html 秀吉の墨俣一夜城...
東海道新幹線の撮影ポイント
Переглядів 1,8 тис.5 років тому
新幹線の上りと下り列車がすれ違う瞬間を撮影しようと挑戦しました。新幹線を遠くから眺めるのにくらべ、近づいてみると、秒速75m(270km/h)という迫力は驚くべきもので、撮影視野17mの範囲を0.23秒で走り抜けてゆきます。 撮影している目の前17mの範囲内で、上りと下り列車がすれ違うチャンスはきわめて少ないのですが……
秀吉を支えた家臣たちと三成(3)
Переглядів 8216 років тому
秀吉を支えた家臣たちと三成(3)鉄砲伝来~信長上洛まで~ 庶民出身の秀吉は、僧侶あるいは武士としての教育を受ける機会がなく、信長のもとで下積みからたたき上げる段階で肌から学び・積み重ねました。 したがって、秀吉の人格形成の経過を知るには信長の活動を理解する必要があります。そのため、本編(3)は、信長が「血を流さない戦争」もしていたことの解説に重点を置いたので、表面的には秀吉の姿がやや薄れましたが、その裏で秀吉が貪欲に学び・吸収したことをくみ取ってください。 【関連動画】 秀吉を支えた家臣たちと三成(1) ua-cam.com/video/k0ZYnNjuPi0/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(2) ua-cam.com/video/QV5Hic0WjGU/v-deo.html 秀吉を支えた家臣たちと三成(3) ua-cam.com/video/fLcqUjns8tQ...
明智光秀の同時代の一次資料のみを読んでください。 ここで言われているのは、小説です。
素晴らしい動画
京都女子大の早島先生によると信長上洛当時光秀は義昭家臣の足軽で、義昭身の回りの雑用係、朝倉に戦術を指南したり、信長と義昭を仲介するような立場ではなかったようです。光秀は上洛後信長に能力を見出されもっとも低い身分の足軽(雑用係)から信長No1重臣までなりあがった人物です。この動画のソースは小説かなにかでしょうか。
光秀30~40歳の確かな史料はほとんどないと言われておりますので、歴史家の雑談や小説から推定しています。したがって娯楽作品と考えてください。
吉川広家あんなに徳川にスリスリしてたのにこんな減封されてたんだ
08:31
大変分かりやすく、楽しく拝聴させていただきました。
本能寺の変の約1年前の光秀の手紙には、信長への感謝や崇拝しているようなことが書かれていたと思います つまり1年間の間に、大きな心情の変化があった この期間に、秀吉との直接の接触があったかどうかですが、残された記録からすると、ありませんね ただ、織田家の謀反はあるあるなので、何れ討たれることを想定して準備をしておくことぐらいは、秀吉ならしそうです。
関ヶ原の戦いが一日で終わったっていう人はアホですね どんな戦いだって決着がつくのは一日なのにwwwww
わしがのう、生涯かなわんと思ったのは竹中半兵衛だけじゃのう。
竹中半兵衛に感謝したのは、黒田官兵衛はもちろんのことそれ以上に信長もそうであったろう。
天王山には高山、中川たちが通った麓の京街道の他、秀吉が本陣を置いた中腹のすぐ下を通る道と、秀長や官兵衛たちが布陣した山頂から下る道があり、そこから繰り出される後続を抑えるべく光秀が松田や並河たちを差し向けましたが、それが結果的に反対側の河川敷の道を進んだ池田や木村たちの突破を許したのではないかと思われます。
自転車で旧街道探訪しています。近々中山道を美濃国へ入りますが、関ヶ原垂井赤坂あたりでなかなか前へ進まないと思います。
BGMがうるさい!
近江商人て🗾日本を見ていた。
素晴らしい動画ありがとうございます♪
うざかいチャンネルVさんは、ひょっとすると敦賀の方ですか? 疋田舟川のある現地の雰囲気はすばらしいですね。
@@seichan77 いえ。他県でございます。運河の事を調べてましたら疋田舟川がヒットしたので動画見させて頂きました♪ 解りやすい動画で助かりました ぜひ行ってみたいです♬
@@wana1970 この運河は、大坂の商人の出資を受けて作ったものだそうです。 関連動画「水で運ぶ」ua-cam.com/video/CVOP639Hg9U/v-deo.html もご覧いただければ幸いです。
秀吉は信長が来るので 抜かりなく街道整備と兵站と信長情報を常に知っていなければ 評価に厳しい信長から叱責を受ける 中国大返しはこれを利用出来た 現代でも社長が地方の工場視察に 来るとなると 迎える工場側では上を下えの大騒ぎで準備万端整える
その通りでしょう。
播磨の東、摂津尼崎の村重の謀反や摂津勢の中川高山は光秀の寄騎であり、秀吉の後方は万全の状態ではなかった。本拠からやっと出て来た毛利主力の後方を脅かすメリットはすごく大きい。 敵の調略を得意な秀吉ならば信用し切れない播磨勢に毛利側の再調略を想定して、織田勢力圏である上方までの退却サバイバルルートの確保は命題だった筈。
歴史は勝者によって都合良く書き換えられています! 信長を殺した男(本)を読む事をオススメします。
維新によって下野した徳川家は根絶やしにされるべきだった。
正義だと謀反を起こして勝竜寺城から家臣を置いて逃げ出す卑怯者。
明智光秀は自己中心的、謀反をしても取り巻きの武将は味方をしてくれないので呆気なく負けてしまいました。
よく、中国大返しは不可能と秀吉が知っていたと言っているエセ専門家が沢山いますか(笑)しっかり勉強して下さい!関ヶ原の戦いの時に江戸にいた徳川家康は、約10日で岐阜までついてます。 秀吉が、8日や9日10日等で京都に行くのは不可能ではありません! 徳川家康も同じ事をやってます。
りき丸チャンネルさんのご指摘の通り、備中高松から京都までの距離を大部隊で駆け戻ることは「可能ではあるが」「梅雨期の増水等で容易ではない」ことを考慮する必要があります。 秀吉の中国大返しでは、京都近郊の山崎まで帰着しましたが、兵士の疲労がはげしく、戦場での働きはにぶかったとルイスフロイスが日本史に記載しています。 山崎で戦った秀吉側の主力は摂津に滞在していた池田、高山、中川隊でした。備中から帰ってきた秀長軍も参戦しましたが、これは「戦力としての期待ではなく」「秀吉傘下が戦ったという名目をつける意味が大きかったと言えます」。もし池田・高山・中川だけで勝ったと噂されると、秀吉の面目が立ちません。 なお、関ヶ原の戦いのときの家康本隊は、江戸から10日余で大垣へ駆け付けましたが、関ヶ原の最前線で戦った福島正則等の部隊は8月中旬に清州城へ入り、以後岐阜地域で戦闘と陣地構築を行っています。つまり、適度に休養した兵士たちが戦闘したと考えられます。
話しの分かる方で、本当に嬉しいです!年配の年配のUA-camを見ていて、絶対に不可能とか言ってたので、抗議したら、シカトされました(笑) これからもUA-cam頑張って下さい!戦国の歴史好きですが。 日本史が好きですし頑張って下さい
seichan77 ありがとうございます。日本史がお好きだとか、私はこの作品の他にも戦国時代を扱った作品をYou tubeに投稿しています。 「seichan77 you tube」で検索してご覧ください。
@@seichan77 さすがに、百姓上がりの小一郎秀長は戦慣れしてはいません。 にもかかわらず、秀吉の「小一郎!そなた一歩も引くでないぞ!」という秀吉の命令を愚直に守り、明智軍の鉄砲射撃に一歩も引かず、味方を勝利に導いたとの事。
ナレーターの方お疲れ様です。
所詮は、秀吉の家臣団の争い。家康側が負けても徳川家康の跡継ぎ秀忠の率いている徳川軍本体は温存されている。 遅参と言われているが、秀吉恩顧の大名同士が潰しあった後も勢力を維持するために遅れさせたのかもしれない。
私は神戸町出身で現在中国に駐在しております。異国で故郷を懐かしく思い、この動画に出会いました。子供の頃は全く興味がなかった「神戸町の歴史」でしたが、不思議なもので大人になると自分の育ったルーツが気になり、最後まで熱中して動画を観ることができました。それは作成者様の緻密な情報収集力とわかりやすくまとめられていた動画だったからだと思います。自分の町を誇りに思いました。そして近い将来、私のUA-camチャンネルでも世界に向けて神戸町を紹介していきたいと思います。
しゅっぴーさん、異国でのお仕事ごくろうさまです。拙作をご覧いただき光栄です。喜んでいただけたので、私の在住の大垣から何回も現地へ足を運んで調査・撮影した甲斐がありました。 そこで生まれ育ち・住んでいる人にとっては当たり前のことばかりで、「わが町には何もない」とぼやきがちですが、立つ位置を変えると、「案外素晴らしいところがあるんだな」との思いをすることがありがちです。 多くの場合、歴史と言えばずーっと古い時代やそれにまつわる祭事を強調しがちですが、私はよそ者の視点から「神戸町の価値は明治以降の先人たちが活躍した」ことが大きいと考えて調査・編集しました。 私が神戸町の事業場で約10年働かせていただいた恩返しの一端です。
大返しの最大のポイントは明智軍に秀吉が密偵を潜入させておいてすぐ本能寺の変の連絡を受けられたことでしょう。信長が本当に討たれるまで予想していたかはともかく光秀の翻意に秀吉は前から気づいていて「光秀、いつか裏切るぞ」と予想していた。
ご指摘のように、秀吉が明智軍に密偵を潜入させておいたというご意見に賛成です。秀吉は、明智に限らず、柴田、丹羽、滝川など味方陣営、信長側近、毛利の各武将等に情報網を巡らせていたようですから、それが今回の事件をいち早く知る効果を発揮したものと推定しています。
姫路で金銀や米を兵に分配した話はよく聞きますが、持って歩けるようなものではないので、目録か何かを渡して、実際は戦後に現物を渡したんでしょうね。
多分そうでしょう。小荷駄人夫が配分を受けた自分の米を運んだ場合、それだけで馬1頭を使ってしまいますから、秀吉軍の荷物を運べなくなります。人夫の自宅が姫路の人もいますが、大半はあちこちからかき集めた人たちですから、「預かり証」を発行して、山崎の戦いが終わったあとで清算するのが最適でしょう。 そうしておけば、人夫が離脱せずに山崎まで来ますし、当時は貨幣経済が発達していたので、米を貨幣に変えるのが容易だったようですから、戦いが終わった現地で貨幣で受け取ることができたと考えられます。
相変わらず、わかりやすい解説でした。 また、お願いします。
関ヶ原の合戦場、 領主が竹中半兵衛の嫡子と挙兵時に大谷吉継と共に挙兵を止めた人というのが、なんとも皮肉な。
ご指摘の通り、戦場になった関ヶ原の領主は東軍についた竹中半兵衛重治の嫡男・重門でした。 一方、関ヶ原隣接地の垂井の領主は西軍についた平塚為広でした。平塚為広は秀吉の身辺警護役を務めた武士で、三成と行動を共にしましたが、三成の挙兵をいさめたかどうかは不明です。 いさめたと記録されているのは大谷吉継と島左近です。 なお、竹中重門は垂井の城から戦場の関ヶ原へ向かう途中で、民家を焼き払いながら行ったといわれ、地元では「わしらの家は領主に焼かれた」と言い伝えられています。東軍は垂井の神社仏閣、民家のすべてを焼き払ったそうですから、異常な緊張状態だったと推定されます。 このとき焼かれた南宮大社は、のちに春日局が家光に頼んで再建され、現在国の重要文化財に指定されています。 焼いたり建て直したり、戦争はいろんなことをしたものです。
くろだぁぁぁぁぁぁ
そうなんだ(´・ ・`)
私1回だけ担架で運ばれたことがあったなーその時先生が周りに10人ぐらいちょっと怖かったな〜😂
岐阜城では激戦が行われたから、別に戦意喪失してたわけじゃないよ。そもそも岐阜城籠城に向いてないし。これのせいで毎回秀信が愚将っていうイメージがついちゃうんよ
岐阜城主・織田秀信(三法師)は信長の嫡孫として苦労知らずに育てられ、当時21歳の若さで「勇ましいカッコよさ」を見せようと城外へ打って出たのでしょう。 戦は勝つこと(あるいは負けないこと)が不可欠で、激しく戦うのが目的ではありません。いたずらに家臣を死に追いやることは避けるべきです。当時の状況から見て、野戦の一発勝負で敵を追い散らすことはできないのですから、老臣が籠城を主張したように岐阜城単独で戦うよりも味方の応援を待って、城の内と外が協力して攻め手を押し返すのが良策でしょう。 秀信の浅慮により最初の野戦に大将自らが出馬し負けたのですから、こんな大将の下では勝ち目がないと城兵の士気は衰えてしまったと言うことでしょう。
seichan77 そもそも岐阜城は井戸が少なく籠城に向いてない城であり、曲輪の数も少ないため十分な兵力を城に置けない、また攻めてに池田氏がおり、彼は元々岐阜城主だったため岐阜城の構造を知っていた。以下のことから籠城しても意味ないし、そもそも歴代の岐阜城主は岐阜城を中心として長良川や木曽川などの川を水堀に見立てることにより防衛をしてきたのでそもそもうってでるという選択肢は間違ってはいなかったし、福島正則の軍勢は撃退しているから単純に軍勢の差が敗因なのと、石田三成は自己中で、佐和山城を中心とした防衛線を張ることしか考えておらず、その時岐阜城が防衛線外にあったため援軍をあまりださなかったからどっちにしろ援軍が来ても負けてた。
@べリヤ 福島正則は木曽川からの渡河を試みたけど失敗したのでさらに下流に南下してます。
@べリヤ それは知らなかったです。無知を披露してしまいすみませんでした。
三成じゃなかったら勝てたかもね
父のハガキを整理していて拝見しました。
「父のハガキ」とおっしゃると、何かのご縁のある方と思います。 関心を持っていただき、ありがとうございます。
西軍の敗因は石田三成の人望の無さに尽きる😩😩😩
各要所から実際に見える現地の眺望画像がとても参考になります。
ありがとうございます。丹念に現地へ足を運んだ結果です。
鳥居元忠の話しも少し入れて欲しかった…。 慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝の征伐を主張し、諸将を率いて出兵すると(会津征伐)、伏見城を預けられる。6月16日、家康は伏見城に宿泊して元忠と酒を酌み交わし「我は手勢不足のため伏見に残す人数は三千ばかりにて汝には苦労をかける」と述べると「そうは思いませぬ。天下の無事のためならば自分と松平近正両人で事足ります。将来殿が天下を取るには一人でも多くの家臣が必要でございます。もし変事があって大坂方の大軍が包囲した時は城に火をかけ討死するほかないから、人数を多くこの城に残すことは無駄であるため、一人でも多くの家臣を城からお連れ下さい」と答えた。家康はその言葉に喜び、深夜まで酒を酌んで別れたと伝わる。 wikipediaより。 結果、鳥居元忠勢・約1800名 石田三成勢・約4万名…。 鳥居元忠勢、全滅。伏見城落城…。
何とも裏切りばかりで目も当てられん。西軍諸将を大いに評価するぞ
再来年の大河ドラマは嵐のニノが石田三成主役で決定!
三成内府、タイミングが遅すぎるか、早過ぎました。
関ヶ原最終章に、死んだと思われていた織田信長爺が現れて"いえやす、ご苦労さん"てオチです。
ななかか 中野竹夫
西軍ではなくて豊臣秀頼軍だったら楽勝!秀頼が使えなかったと解った段階で考えた方がよかったね。三成さん。クソ秀頼を使えなかったのが大誤算か?
この地の農民が関ヶ原決戦後に家康に直訴したところ、戦後復興の費用と戦死者の死体収用などの措置 を領主にを命じたうえにその由を確約する書状を発行してるんだよな。 関ヶ原の農民の子孫が大切に書状を保管してるのが平成の世になって初めて世に出てきたのには驚いたわ。
それはすごいものが見つかりましたね。
陣構えだけみたら西軍は勝ちでおかしくない。ただし調略など戦略的にすでに吉川と小早川が機能しない時点で負けだなぁ。この様子から学べることは、あえてあれだけ用心深い家康がなぜ袋の中に入ってきたかというところかな。まぁ秀忠が来るのも見越してとは思うけど。
結果的には家康の調略が奏功して東軍の勝利になりましたが、戦国時代の約束は守られないことが多かったようですから、家康としては疑心暗鬼の中での決断だったと思われます。 鞍替えしようかどうか迷いのある武将の判断は、勢いがある方に傾きやすいので、家康が自信に満ちた強気の行動をしたのが「迷える武将」を味方に引き込む誘因になったともいえます。 なお、秀忠が到着したのは数日後でしたから、関ヶ原での野戦には間に合わないと家康は判断したのではないでしょうか。
分かりやすかったけど、島津義弘出さなかったのは、残念(>_<)
あいつ有名すぎるし要らんだろ。どのみち500人しかいないから大勢に影響を与えるのは無理
静止画❔
そうです。
素晴らしいです‼️鹿児島のおいら的には島津の敵中突破(捨てがまり)のくだりも入れて欲しいなぁ(>_<)‼️「せごどん」の初話にあった「妙円寺参り」(今でも島津義弘公を偲んで鹿児島から伊集院まで行進するんだよ(^-^)v明治維新の原動力だよ✨)今日でも郷土の誇りです😽ぜひ第二段完結編も作ってくださいませ(>.<)y-~
55tomokunさん。おっしゃるとおり島津義弘の敵中突破を外したのは残念です。テーマを城と陣地にしぼったので、それにはずれたものは対象から外さざるを得なかったのがその理由です。(総時間がずるずる延びるのを避けたかったのです)関ヶ原の隣村には、義弘の甥の豊久の墓があって、現在も地元の人々が定期的におまいりしています。徳川幕府の命令で、濃尾平野を流れる木曽三川の分流工事を島津藩の人々が担当されるなど、当地方には薩摩との縁が深い遺跡がたくさんあります。また機会を見て、この種の紹介をできればと思っています。
三成が挙兵を5日遅らせてたらな、だいぶ変わっていた
戦国歴史はドラマなどで何度もやっているので、多少は知っていましたが、本作品は へー・・・そうだったんだ!との新しく知った逸話も多く、面白く見ました。 特に、蜂須賀小六などの人物も登場し、まさに地元の話で、小牧城、犬山城、稲葉城(岐阜)、墨俣城の地域での戦いも、今とその当時とダブらせながら、とても興味深かったです。 15分足らずの短い映像?時間ながら、本当に判りやすかったです。 次作に期待します。
しっかり読み込んでいただき、光栄です。次回の(3)も力を入れて取り組みます。
末吉孫左衛門
しかし、毛利は恥ずかしい限りやな!
戦国時代の複雑な価値観と情報不足の中でいかなる判断をするかは難しいものだったでしょう。家康も豊臣恩顧の大名がどれだけ味方してくれるか、味方してくれたはずでも、秀頼あたりが陣頭へ現れたら恩顧の方を優先するかもしれないし、危ない綱渡りだったのでしょう。 結果的には、やや中途半端な態度の毛利氏が家康を利したといえるかもしれません。