【ゆっくり解説】吹雪の中恐怖の現地解散!8万人死亡に匹敵する日本史上最悪の登山遭難事件の実態がヤバすぎる!【1902年 八甲田雪中行軍遭難事件】
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- Опубліковано 5 лют 2025
- 『ゆっくり遭難物語』は、過去に起きた山での遭難事故について解説するチャンネルです。
山で予期せぬトラブルが起きた時、「なぜ助からなかったのか」「どうすれば助かったのか」など、考察を加えながら解説していきます。
できるだけ細かく解説していきますので、少々長い動画もありますが、興味がある方はぜひチャンネル登録して、次の動画も見逃さないようお願い致します。
【動画投稿日】
毎週:水曜日・土曜日の20時公開
※動画での事故や死を取り扱う事が多くなりますが、関係者を冒涜したり、行動を助長したり、これに対して意見を提示するといった意図は一切ありません。
いま駒込川にダム建設してるから、これができたら遭難現場も変わってしまうだろうな😢
雪の降る地域の駐屯地にいた元自です。大先輩たちの無謀な命令による人災に頭が下がります。
現在はかなり改善されて、寒冷地は防寒装備を官品で支給(それなりに使えますが、服の下はフリースが一番です。動くときは下着と白の迷彩服一枚です。)、ソリにはテント、水タンク(凍結防止に8割しか入れない)宿営暖房用のバーナーなど、ソリを含めて200キロを引きます。
改善されてから言うのは卑怯ですが、命令を出した方は山をナメ過ぎです!
八甲田山雪中行軍遭難事件の話をこの動画で知って車で行けば行ける距離だったので実際に八甲田山と事件の資料館に行ってみたのですが吹雪の冬に、しかもコートとはいえものすごく薄手のコートにわらのブーツみたいなものでみんな行っていたのを考えるとかなり無謀な訓練だったんだなぁと改めて感じました。
景色自体はすごく綺麗な山で一度登ってみたいと思いました。
中学3年の時学年キャンプの2日目が八甲田山大岳全員登山で320人以上と教職員全員で登った。楽しかった思い出があるほど優しい山ですよ。こんなところであのような惨劇があったなんてその時はしんじられなかつた。ただ夜中にテントの中で誰かが兵隊の足音が聞こえている、といった時はさすがビビった、
@@近藤ゴマシオ
それは「そういう日」を選んで登っているからですね。
冬になれば周囲の地元住民は近寄りもしません。
タヒにたくないですからね。
登り易いと思う日と、地獄の地吹雪の落差が激しい所なんですよ。
19:48引前隊って何かと思ったら弘前隊のことか
弘前隊は、案内人に非道だったみたい、八甲田山は、ドライブ最高な、場所です。車🚗🏍バイクで、是非来てください。
その弘前隊でさえ1名が転倒により三本木(現在の十和田市)から馬車と汽車で帰営し、半数が凍傷にやられ、さらに極度の疲労で事実上青森で行軍中止、帰路は国道を途中浪岡で一泊して帰営する事になってます。
ちなみに当初は青森から梵珠山(麓にあるのが三内丸山遺跡)越えで帰営する予定だったそうです。
当時の遭難事故報告書『遭難始末』には、「自分が生きてきたうちでこれほど寒いと思う冬は初めてだ」という数え年60の地元住民男性の証言や、捜索隊の哨所間を結ぶ電話線が夜になると寒冷のため急激に収縮して断線してしまうためやむなく外国から輸入した高価な特殊仕様の電話線を用いたことなどが記されています。新田次郎の翻案小説がなまじ映画化されて有名になり過ぎたぶん、真相がなかなか世に広まらないことは遺憾ですね。
小説よりも、映画を史実だと思っている方の多いこと( ω-、)
当時、主演の人の家に投石があったとか。
弘前隊は民間人に対して鬼畜の所業をやっていたのに、人格者になってるし。
小説では指揮官山口少佐(山田少佐)は拳銃で自殺した
とありますが
凍傷により手指腫脹し
と有るように拳銃の引き金に手指が入る筈は無く自殺は不能。
実際大正年間に起きた「三毛別羆害事件」でも山本兵吉は
日本の銃は寒い北海道では性能も落ちるしそもそも引き金が引けない
として戦利品のロシア製ライフル銃を愛用してました。
近年言われているのは心筋梗塞です。
これは雪中極低温下で凍結した血液が温かい病院内で溶け、その際に血栓が生じてそれが冠動脈を詰まらせて心筋梗塞を起こさせる、現象で生存者でも心臓発作で亡くなった例もあります。
精神力が無さすぎた。
精強な日本軍人ならばこの程度の寒波で死ぬはずがない。情けない限り
というのが当時の日本軍の考え方だったんだろうな
八甲田の自然を舐めていたとしか考えられない。
日露戦争も、結局上のアホ共は同じでした。ところが「勝ってしまった」これが上のアホ共の強烈な成功体験になってしまい、インパール作戦に繋がって行くという😅
八甲田登山を目的とした雪中行軍じゃないから、山岳史上どうのこうのって言うのは間違い、雪中行軍資料館も同じ見解。
2:15十和田湖ならわかるけど、八甲田山が青森県と秋田県にまたがるなんてデタラメは何に出てるのかな?
18:30後藤伍長と神成大尉の死体の発見状況がごっちゃになってるじゃないか。
何をアンチョコにしたか知らないが、いろいろ調べてから動画にするように。
当時の第8師団長は桑名藩出身の立見尚文中将。この経験が日露戦争の黒溝台会戦で活きることになる。
いつも遭難事故の解説、ご苦労様です。
知らない事故もあり大変勉強になります。
八甲田山ですが、時系列等が違いますね、何故にその命令が出たのかも有りません。
映画と原作もかなり違うので事実と解説が違うのも仕方無いかもしれませんがインパールと同列にしないでくださいませ。
さて、弘前隊は物資の乏しい民家に泊まり、越冬に必要な貴重な燃料や物資を使わせ、案内人を脅し、凍傷で生活が困難になるほどこき使い、最後は放り出しました。
青森隊の解散命令は凍傷や道迷い等で行方不明になった時に脱走扱いにならない様に命令を出したと言う事もあります。
案内人に対しては軍は磁石と地図で行動する事も訓練の一環であり、断った事も責められないと思います。
根本的な原因はインパールとあまり変わらないと思いますよ
無能な指揮官、無謀な計画、この体質を変えれかったことがインパール作戦や無謀な作戦を作った原因だと思ってます
@@manmosuP-man
八甲田山は司令官は無能ではありませんでした。
実験と実戦との前提が違います。
青森第5連隊の指揮官は絶えず兵の事を考えておられていました。
軍による八甲田山縦走が目的であり、案内人無しで行う事になんら不思議ではありません。
問題点は予行演習で小峠で引き返した所と田代温泉の湯船が小型であった(野営前提)所でしょうか。
食料は行程2日分以上の物資を橇に載せて運搬していましたから、予定の行程以下の物資を持たせ、後は現地調達のジンギスカン作戦等と言う物とは雲泥の差です。
この遭難は天候によるものが多く当時解らなかった(近年やっと判明した)八甲田山特有の地形と空気の流れが原因です。
この遭難の教訓を生かし、寒地装備の充実を計って後の日露戦争にいかされています。
兵の事を考えず、輸送に力を使わず、補給を求める部隊に精神論だけを返した牟田口と一緒にされたら遭難した彼等に失礼だとおもいます。
八甲田を扱うなら「弘前」くらいちゃんと読もうよ…
ヤバすぎて笑う
これから日本はそうなる