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後藤房之助さんはまるで弁慶みたいですね!
後藤伍長は握り飯を油紙で包んで懐に抱いて凍結を防いだり古新聞を着込んで防寒着にしていた。など対策はしてましたね。これが無ければ凍死してましたね。
「目を見開いているけれど生きた人間の眼ではなかった」と新田次郎は小説の中で表現していますが、実在の後藤伍長の発見当時の顔はどういう表情だったんでしょうね。
@@hosamu7077 記述はほぼないけど、凍死した人間は見るからに死んだ目になるって言うからねおそらく低体温症で昏睡してたと思うから死んでるものとほぼ変わらなかったんだろうと思う…復活したら目がぎらつくなんて話もあるけどどうなんだろね
映画『八甲田山』では山口少佐が何かと横柄で悪者扱いされているが、史実は違うんだよな。第一露営地からの未明の出発判断も、実は山口自身は最初は夜間の出発は危険だからと反対していたが、寒さと疲労に耐えかねた下士官,兵卒からの強い出発の具申があり、彼らを慮った上で最終的に出発命令を出したんだよな。映画では、まるで逆のキャラ設定になっており、あれは気の毒だ。また、神成大尉は、『天は我を見放した』ではなく、『天は、我々に死して軍の資料となる事を望んでいる』という様な内容の事を述べて、それを聞いた周りの兵卒の最後の心が折れ、バタバタ倒れていったらしい。信じて従って付いて行ったのに、こんな事を聞かされた部下は、たまったモンじゃなかったろう。
陸上自衛隊は現在でも訓練のために八甲田山行軍をしてるそうな総選挙中に中露の軍艦が津軽海峡で合同軍事演習をしてたから、万が一のために現代でも八甲田山行軍は決して無駄なことではない近年でも似たようなことがありましたわ。日米合同演習を真冬のロッキー山脈で実施。自衛隊と米軍が別々ルートからロッキー山脈に入り合流地点に向かってた。途中、天候悪化。猛吹雪と極寒で低体温症に倒れる米兵が続出。本部へ緊急要請し救助活動となった。合同本部では自衛隊と連絡がつかず、自衛隊も絶望的と見られてた。…が、米軍が合流ポイントへ着いたら…そこには……元気に雪合戦をしてた自衛隊員の姿がwww自衛隊は全員無事で合流地点に着き、米兵達を待ってたが「遅いな〜、ヒマだからアメちゃん来るまで雪合戦しよか」となったらしい当時の自衛隊員は体中にホッカイロをつけまくり、その他極寒対策の装備もしてたようで八甲田山行軍の経験はきちんと後輩達に活かされてます
第8師団自衛官が読まされるという資料『陸奥の吹雪』を読まれたことのあるかた、いらっしゃいますか。小笠原孤酒氏の遺作『陸奥の惨劇』とは別のものです。
こんな人達と戦う敵が気の毒やわ。(笑)((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
雪合戦とか~(笑)散々大変な目にあった米軍とは対照的過ぎて。無邪気にも程がありますやね。
@@takaoga1644お叱りを受けそうだけど、まるで米海兵隊員が第5連隊、自衛隊が第31連隊みたいになっていますね😅
弘前側は案内人を雇ったけど、案内人に対するフォローが無かった(無理な斥候命令や途中での解散(放置))ので、何とか家に帰った案内人はその後半死半生となったのが多かったとのこと。案内人の1人は凍傷で頬に穴が開き、水も飲めなくなったそうです。
真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である。ナポレオンの言う通り。
そして、その無能は大抵「大丈夫だ、俺には経験がある」といって無茶な計画を建てる。
納得‼️((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
そのナポレオンはこうも言ったといいます、「エルバ島を見し前、朕は無敵なりき」。英語で書くと Able was I, ere I saw Elba. です(ere は before の古語)。きれいな回文になっていますが、ナポレオン自身はフランス人ですから、こんな弱音を英語で言うはずはないので、これはおそらく伝承に過ぎませんね。
幼きころこの映画を見た気がする猛吹雪の中奇声を上げながら服を脱ぎ始めるシーン、記憶に残ってるなあ
事前調査不足により夜営予定であった田代元湯は人がいて建物を使えると思っていたが冬季はいなかったらしい。雪山で方向が分からなくなったため全滅にいたったけど、迷わず目的の田代元湯にたどりつけても装備不足から犠牲者が出るのは避けられなかったように思える。弘前連隊は犠牲者を出さずに反対側から現場を通過したが案内に雇った民間人は凍傷になったのに補償もせず褒められたものじゃない。
極寒で満足に食事も取れない中で生存者がいたこと自体が奇跡だと思います。いや、極寒じゃなくても何日も食事を取れなければ生きていけないと思う。
実戦ではなく訓練で。しかも国内で亡くなるのは、無念だろうなあ。
淡々と語られる死亡者の数に凄惨な地獄絵図の様相が浮かび、思わず身震いしてしまった。ご冥福をお祈りします。合掌
確か第五連隊の方の予定ルートが遥かに短く目的地は温泉地で、隊員のなかには「温泉に入れる。😄」と指定された寒冷地用の下着を着用しなかた者もいたそうです。短い行軍予定が油断を生んだのです。🧐
実際に行ったことあります四方のどこを見ても鬱蒼とした木々がどこまでも広がっていて、ここで迷ったら発狂しそうだな…と恐ろしくなりました
つまり、『遭難始末』の巻頭に収められている白黒写真と同じ光景が、現在でも広がっているということですね。合掌。
あ、「鬱蒼とした木々」は、もしかすると夏場の光景ですか。申し訳ありません。『遭難始末』の写真はもちろん、遭難者捜索時に撮影されたものです。
完全な人災な気がする・・・。地元民の制止を聞かなかった事、夜中に行軍するなど自殺行為のように思われる。完遂した31連隊の方もかなり非人道的な事してたみたいだし、救援隊が出るのも遅すぎる。酷い話だよ・・・。こんな状況で生還者が出たのが凄い事だと思う。私なら1日もたない。
上層部は案内人を雇う事も考えましたが案内人を雇う事に特務曹長や伍長勤務上等兵が反対して上層部を突き上げた為雇わなかったそうです。31連隊も梵珠山(青森と弘前の間にある山)踏破は青森までの行軍で半数が凍傷にやられ、さらに極度に疲労していた為平坦な国道を歩行し、更に浪岡に一泊する計画に変更して断念してます。この件にも見られるように柔軟な計画の変更が成功の原因
@@古家武史-f5d 多少無茶な行程で行って終了後、訓練を完遂しましたと上層部への自分達の覚えを目出度くしようとしていたのでは?
本やドラマで何度も見聞きしてますが、毎年この時期どうしても吸い込まれるように「八甲田山」で検索してしまいます。平和な日本に生まれてよかった
長野のスキー場でブリザードに近い猛吹雪に巻き込まれたときは肌が無感覚になり、寒さで頭の脳が機能しないくらいにボーッとなってきて手足の感覚も麻痺し始めた。もちろん周りも真っ白で見えないためどちらに行けばいいのかわからない。これはヤバいと思うも思考能力が低下して考えがまとまらない。寒いどころではなく、脳を含め全身が凍っていくというイメージ。とりあえず下に下るしかないと思い。動けない体に鞭打ってやっとも思いで下ると下界は嘘のように暖かかった。一時間に満たない経験だが、その場にいると救いはないことはわかった。こういう状況で何時間も経過すると人はすぐに死んでいくのだと初めて実感した。想像以上に寒さは怖い。
近年でも自衛隊の冬山行軍の際、八甲田でやはり遭難事故が起こってますね。現代の装備でもやはり危険な場所のようです…
昔、自衛隊で北海道にいたころに冬季演習をやったことがありますが、北国の夜の冬山の寒さはマジでヤバいですよ。あれは人間が居ていい場所ではないですよ。
今でも雪上の物資運搬には人力ソリを使いますよ。陸自にもアキオというフィンランド由来の曳きソリが装備品としてあります。もしスキーが本格普及した後であれば違った結果だったかもしれないですね
最も身近で、かつ毎年北日本で何万人もが同時期に使用している人力ソリってたぶん「ママさんダンプ」だと思います。
北の方ではママは自転車じゃなくてダンプに乗ってるのか…
仮死状態で立っていた……何と言う…
立ち続けることで、自分が死んだ後も救援の手がかりになれるように、銃剣を杖代わりにしていたそうですよ。雪に埋もれてしまわないように。
@@user-kf1gk5wm6t そんな思いでその姿勢を保とうとしていたんですね。凄すぎます(T_T)
映画も見たけど、壮絶だったな😖
この事故の調査で行軍がどう動いていたか調べた結果青森隊はほぼ同じ場所を3周半していたらしい後読んだことは無いんだけどその時の生き残った人物の孫が自衛隊になり現代装備で八甲田山の行軍に挑んだ続編小説もあるらしい
この事件を題材とした新田次郎著「八甲田山死の彷徨」厳寒の雪中行軍を描いた小説を高校生ぐらいの頃に読んでその余りに壮絶な死と隣り合わせな描写が軽いトラウマになったのを思い出した。
生き残った者もてや足の指を壊疽のために切り落とさなければならなかったとか手や足の神経も痺れとかが取れないとか生存者も記録にはっきり残ってないだけで五体満足なのは殆どいなく全滅に近い結果になったんじゃないかな。
小説での目的地の田代元湯は、駒込川沿いに車を停めて川を渡ってしばらく下った所にあったやまだ旅館。ランプの宿で、四十年近く前に泊まった時は私一人だけで、小説を読んだ後だったので夜なんか怖かったけど、宿の母さんが、湯さいがねがって迎えに来てくれたので一緒にはいりました。宿はだいぶ前に無くなったって聞きました。八甲田は毎年のように行って、大岳には何十回も登りました。
学生ん時八甲田山の映画見てから一番インパクト強く何故か惹かれるように4回八甲田遭難資料館に行きました。季節関係なく山をあまく見てはいけないし自信が過信に変わると最悪な結末を迎えると教えられた遭難事件です。
生還した倉石一(くらいしはじめ)大尉は、この雪中行軍参加前に東京に出張した際、当時はまだ舶来品でファッションブーツ扱いされていたゴム長靴を土産として買い、偶然これを履いて行軍に参加したため、足の凍傷を免れたと聞いた事があります。
長谷川特務曹長は1、予備のマッチ、靴下などを持参2、靴下を手袋がわりにする3、足先に唐辛子を振り、更に油紙で覆った4、休憩中も常に手足を摩擦させるなどの凍傷予防策をフル活用してほとんど無傷で助かってます。
@@古家武史-f5d 情報ありがとうございます。
ダークサイドミステリーで今、八甲田山死の彷徨の放送が。あまりの惨劇に恐怖。「あと少し!あと少し…先に進めば…」の気持ちが悲劇を招くことに。実際の惨劇の実態は目も当てられないです…。
四肢切断って生き残っても生地獄だなぁ。
乙武だって生きてるぞ!🤣🤣
当時は御国のためとして奥さん候補がひっきりなしでした。義足も優先的に最先端与えられたし、義手も肘の作用で掴めてタバコを吸えた。恩給、障害年金でかなり裕福な生活。
だいたい山口少佐のせいというずっと頑張ってたり、正しく判断・統率しようとしてた神成大尉が報われねぇ…
実際の山口少佐は独裁者では無かったそうで他人の意見も良く聞いて判断していたそうです。真に独裁者なら佐藤特務曹長の意見具申を即座に却下して半数程度は犠牲になっても帰営出来てます。
銭湯に置いてある籐かごと、行李(こうり)は違いますよ、今でいう衣裳ケースみたいなもので蓋があり、丈夫で、保管を目的に作られてます
青森行軍隊の殆どが雪国生まれでないのもあって、雪山を甘く見ていました。一方 弘前隊の方は雪国育ちが多く雪山の恐ろしさを熟知していた。弘前隊は八甲田山の雪中行軍するにあたって、雪山を歩くためにブーツの中に敷く中敷きを 藁で作らせたそうです。この藁の中敷きは日露戦争の黒溝台会戦時に大活躍しました。弘前隊の経験値が活かされたのです。皆戦士しましたが。。青森隊の神成さんは秋田県出身なので、雪山の恐ろしさは少しは知ってたと思います。でも隊の中では格下なので 意見を言えなかったと思いますね。弘前隊は八甲田山雪中行軍の前に、実験的に岩木山の雪中行軍をしています。準備は万端 完璧です。福島隊長は吹雪に見舞われても混乱動揺しないように、隊の一人一人に任務を与えました。それぞれが与えられたその任務を果たすために、集中没頭していたので 隊の混乱も動揺もなく踏破できました。一人だけ脚に軽い怪我を負ったため リタイアさせられましたが。。 弘前隊の福島隊長さんは かなりのイケメンなんです。確かリーダーの決断という本にお写真載っていました。私はこの方が大好きです。
リタイアさせる時にも途中までの研究結果をまとめた資料を持たせて帰営させる任務を与えリタイアではなく成果を報告すると言う様に持って行ってます。
一応5連隊の多くも雪国出身者が多かったのですが同じ東北でも岩手県などのやや温暖で雪の量も少なく雪質も全く異なる地方出身者が多かったそうです。実際岩手県も宮城県も雪が多いものの八甲田山などと違い湿雪でカンジキやソリが雪に埋まってしまうと言う未曾有の事態は経験したことが無く更にその多くは雪の少ない平地出身で雪と寒さの恐ろしさを知らない百姓や給与生活者(今のサラリーマン)あがりでした。5連隊でも生き残ったのは雪や寒さ対策を知っていたマタギ(猟師)や炭焼き出身者です。彼らは新聞紙を下に着込む握り飯や餅を油紙で巻き、風呂敷で包んで腰に巻く、もしくは外套を多く着込んで絶対に凍結させないと言った対策をとってます。士官の中には握り飯や餅の替わりにパンを持参(当時パンは高価で士官しか買えなかった)者や倉石大尉の様にビスケットを持参した者まで居ました。31連隊も握り飯とは別に乾麺包(今で言うカンパンやビスケット)携行を義務付け食糧凍結対策を取っています。但し5連隊の一部が行った方法をもってしても握り飯の凍結には悩まされ結局は田代元湯付近で野営後偶然見つけた小屋で案内人が餅を焼いて腹巻きに入れるのをみてここでは握り飯を温めて食べ、餅は焼いて腹巻きに入れて簡易カイロにしろ餅を食べてしまった者は握り飯を表面が真っ黒になるまで焼いて(今で言う焼きおにぎり)同じように腹巻きに入れろと全員に命令してます。後この八甲田山遭難後は餅を乾麺包みたいに焼き、塩で味付けする(今の塩煎餅)方法が注目されたそうです。通常の醤油煎餅が好まれ無かったのは表面の醤油が凍結して意味が無くなるからだそうです。
@@古家武史-f5d倉石大尉は雪中行軍参加前に東京に出張した際に、土産として当時は舶来品だったゴム長靴(現代感覚で言えばファッションブーツ)を買い、これを履いて雪中行軍に参加したおかげで足の凍傷を免れ、また比較的冷静な判断や指揮を行えたとも聞いています。
31連隊は万が一遭難した場合でも志願者ならば徴兵で集めつ兵卒と違い非難されにくいこと統率が取りやすいことを理由に見習士官と下士官中心、下士官でも徴兵で集められた伍長勤務上等兵などの長期勤務伍長、士官勤務の特務曹長を編成から外し(5連隊は長期勤務伍長や特務曹長がメンツにこだわって司令部を突き上げ、暴走させたのが遭難の第一原因)士官でも福島大尉以外は従卒同伴を厳禁(従卒も案内人兼任)、兵卒はラッパ卒(雪中行軍でのラッパの吹き方の研究目的)と地元出身者(案内人がわり)のみに限定全ての隊員に研究テーマを与えて理不尽なシゴキなどをさせなかった。が成功の理由です。
「面白がってウサギを追跡」←なにやってんだよ救援隊
遭難者の意思の力みたいな「無視できない何か」を感じたんじゃないかな
大正2年8月の信州駒ヶ岳の遭難事故の後でも、いきなり現れた白兎(あの地方では白い毛皮の兎は滅多に見られないそうです)の後を追っていったら、遭難事故のあと長らく行方不明になっていた生徒の遺骨を発見した由、新田次郎の『聖職の碑』やその取材ノートに書かれていました。
警察の隠語でウサギ🐰🐇は脱走犯🕸️🐾🚓🆓つまり道に詳しい犯罪者を秘密で雇ったというピザ屋の地下の陰謀なんだよ!!!!
@@hosamu7077 映画でもそのくだりがありました。確か遭難事故から12年後の1925(大正14)年、事故を起こした中箕輪高等小学校(現箕輪中学校)が修学旅行登山を再開したその日に、この出来事が起こったと言います。
遭難事故のあと登山が再開されるまでの間の事情について、映画ではばっさりと省略されています。原作を読んでいない人にはぜひ、一読を奨めます。あ、八甲田山の遭難事故についても、『~死の彷徨』と併せて正式報告書『遭難始末』の一読を奨めます。あまり話題にならないようですが、小笠原孤酒氏のドキュメント(新田次郎が『~死の彷徨』のネタの一つにしました)をお読みになられた人、いらっしゃいますか?
雪中行軍行軍資料館に行ったことがありますが下士官の防寒着は普通のオーバーの様な感じで市街地への外出には良いとしてもどう考えても雪山では無理だろうと思いました。その装備に涙が出そうになった記憶があります。
映画もこれに忠実に再現して高倉健も命の危険を感じたと回顧してたよね知識のあるものだけが生き残れてるのすごい分かれ道
兵卒にはそれさえ無かった。
助かった兵隊さんには、縁談が殺到したとか、英雄視されたんですね
但し日露戦争後は見向きもされなくなったそうです。
最後の遭難兵遺体収容が完了したのは、遭難事故が起きた年の5月でした
あれ?弘前隊は案内人が犠牲になってた気が…
この時代戦争で死ぬか遭難で死ぬかどちらにせよ死ぬ事には変わりないにしても生き残る者いるのも確か数は力
田代元湯では、今も天然湯が沸いているそうですが、後継者不在で施設管理は放棄されてしまい、事実上入湯不可能な程に荒れているそうです
確か田代温泉は元湯か新湯のいずれか、もしくは両方ともダム湖に沈むか沈んだと聞いていますが。
@@AtsushiMizobe 数年前に、最後の橋が倒壊してしまって、素人さんは接近できなくなったそうです。
生存者も凍傷にかかり手足の指を失くしたそうですね…
倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の3人を除いてね。
隊員のみなさまには、心よりご冥福をお祈り申しあげます。それから、太平洋戦争でも旧陸軍の兵隊は戦いました。全力で国を護らせていただきました。日本は、二度と戦争には向かいません。どうぞ、安心してお過ごしください
まずは遭難者のご冥福をお祈りします。この遭難事件、捜索側の心情を推し量るのも遠慮したいくらい辛い事件。それはそれとして。知識や経験の不足がどのような結果を招くのか、この一点においては非常に有用なサンプル。地元の人々の意見を軽視してはいけない、特に山岳部や沿岸部では。生存者の中には極少数ながら防寒対策をしていた方々がいたはず。唐辛子なんかを靴に放り込んでた人もいなかったっけ?あとは軍上層部が大問題か。現場の指揮官レベルではなく命じる側の知識、経験がなく自然を甘く見ていたのでは?発案者を責めたくなるが遭難事故が目的でやった事ではないのは、誰にでもわかる事。事故後にできる事は再発防止の為に、原因や経過の調査結果を可能な限り詳細に残して、正しい対策を施す事くらい、か。事故自体がかなり昔の為現代基準でのみ考える事は公正さを欠く事になるとも考える。厳寒期の頼れるツールであるハクキンカイロが誕生したのは事故から21年も後の事である。この事件を知り、詳細を一度でも調べた経験があれば雪山や防寒対策を甘くみる人はいないはずなのだが、未だに事故は続いている。知る機会がないのか、自分は大丈夫という楽天家なのか。そのうち小規模ながらもDQNな方々がやらかすのだろう。DQN抜きに考えても、危機管理能力において日本人は思考停止と思える程に危機感が不足。多分、無意識レベルで『おこらない、おこるはずがない』とでも考えてるのだろう。『事故は必ず発生』『発生した時、行うべき事は何か?』という視点から考える担当者は少ない(日本人には)この点において、欧米人はシステマチックというかシビアな考え方をしていると感じる。まあ、やらかす場合は人種やら関係なくやらかすんだけどね。
このあと半世紀も無能で脳筋なパワハラ軍人による悲劇は続いていくと思うと。。
戦後も無意味な「根性論」は続いてますよ😭
軍人として、あり得ない思考過程に背筋が凍る。😱💦
この「寝たら死ぬぞ」のせいで「寒い?」と聞かれて寒いと答えると「寝るな!寝たら死ぬぞ!」ってヘラヘラ笑いながら顔や体をビンタしまくるいじめ、いや集団暴行が小学生の時はやったんだよな
止めてくれた人がいたのに…
映画上映時に新潟県在住のガキでしたが、夏の「犬神家の一族ごっこ」(プール内で倒立)と冬の「八甲田山ごっこ」(天はわれわれを見放したあ)は定番でしたな。
例の矛盾脱衣の真似をした坊やは、何人くらいいたのかしらん?
ちなみに大竹まこともこの事件を描いた映画「八甲田山」に出て凍傷になり、今でも手の指が一部曲がったままだそうです。何しろ発狂して素っ裸になって雪に埋まって死ぬ役でしたからね。ちなみに高倉健さんや北大路欣也さんも足の凍傷に苦しんでいます。
第一夜の夜中に出発したとき「あ~~~~~~~」と叫びながらのたうち回ってぽっくり逝く演技をした役者さんですね。あのときの撮影では、酷寒に耐え切れなくなったエキストラが何人も撮影途中で脱走してしまって戻ってこないので、撮影スタッフは苦労したと聞きます。
いくつか動画がありまして、発狂とばかり書かれているようですが、今となっては極限状態に生じる体感温度の急上昇という科学的な見解があるようです。映画などは想像で製作されたものなので間違っても仕方がないでしょうが、間違ったまま語り継がれるのは避けた方が良いと思う。
矛盾脱衣っては書かれてるので、多分その辺は認識の上で「普通では考えられないこと」を理解しやすいようにその表現使ってるのかな?って思ってました
山口少佐は、どれだけ無茶なプランも、「死に物狂いでやれ」と丸投げした、前の職場の上司を思い出す。
気合いと根性で乗り切れ‼️。😱💦無理やろ…。😅
今から四半世紀くらい前、当方の一番最初の就職先だった、零細ブラック企業の自称社長が、まさにそれでした。「技術は黙って営業の後からついてくればよい」「今時の若手に失望を感じる」の二つが座右の銘という、ハラスメント対策が当たり前の現在からみると、とんでもない糞親父でした。あいつ、今でも元気にしてるかな。
この日の北海道では日本史上最低気温を記録していた
最高気温はこの十数年間で更新されましたが、最低気温は今だにそのままですね(零下41℃……)。スキージャンプ選手の高梨沙羅嬢の出身地方での測定値でしたっけ、確か?
あ、沙羅嬢、先日の失格騒動は本当に残念でした。めげずに頑張ってください。
バカな大将敵より怖いとはまさにこのこと。
訓練だから、あえて案内を拒んだのかもね。実戦時に案内人がいるとは限らないからと。ただ装備の貧弱さがなぁ。日清戦争の時ですら「中国人の使ってる武器の方が性能が高い」って現場から意見されまくってたのに悉く黙殺してたわけだし
九州では、ちょっと雪が降っても大騒ぎなので・・・この状況は想像もつかない恐ろしさ😫
文字通り震えが止まらんよ。食べられない、休めない、極寒。ウィンタースポーツが限界のオレは、こんなところ仕事でも行かんよ。ご冥福をお祈りいたします。
餅等の凍結しやすい口糧では無く、乾パンやビスケット、日本酒では無く、アルコール度数の高いウイスキーやブランデーの類(同時にアルコールランプの類も持っていれば)又違ってましたかね?(私の素人考えに過ぎませんが…)
ウイスキーの代わりに焼酎という手もあったかも。
「天は... 天は我々を見放したぁぁぁ... !!」
現代の装備で同じ状況を挑んだらどうなるだろうか?
それを陸上自衛隊は毎冬行っているそうです。最近では婦人自衛官の参加もあり?
この遭難事件の報告書『遭難始末』(1902年7月発行)には、「地元に住む数え年60の男性が『今まで生きてきてこんなに寒い冬は一度もなかった』と話していたが、おそらく虚言ではないであろう」(原文はカナ漢字文語)と記されています。また、この報告書に折り込み添付されている事件当年およびその前年、前々年の一月の気温測定グラフをみると、事件発生年の行軍挙行日に限って、気温が前々年および前年よりも数℃~10℃近く、ガクンと下がっています。とまれ、百余年前の我々の先人が凍えながらのたうちまわっていたその場所の地下深くを、東北新幹線はわずか一時間少々で通過してしまいます。合掌。
スキーが入ってくる前だもんね。
小説版では、徳島大尉が神田大尉に「現時点での軍はスキーの導入には積極的でない」と話すシーンがありますね。海外の備品の使用については、遭難者捜索隊の哨所間を結ぶ国産の電話線が、夜間に寒気のため縮んで切れてしまうため、やむなく超高額の外国産の電話線を使用した旨、『遭難始末』には記されています。
それにしても、なぜ山口少佐は神成大尉の指揮権を奪い取るなんてマネをしたのだろうか?「八甲田山死の彷徨」を読んでも、それが分からなかった。
それほどまでに軍隊での階級のちがい、先任かそうでないか、軍人のプライドというのは病的なものです……
任せられない性格だったようですね。優秀とされる指揮者にはよくある事です。無能である事を知っている優秀な指揮官は周りの意見を聞いて慎重に判断し、決断後は愚直に行動しつつ事態の急変にも臨機応変に対応優秀だと過信している無能な指揮官は自分の考えだけで暴走して事態悪化させます
@@古家武史-f5d 牟田口廉也連想しました。
@@古家武史-f5d その無能な指揮官っていう奴、当方の職場にいる上司♀もまさにそれです。
トップの資質はアイディアマンでも能吏でも無いし「手柄」は狙う者ではないのだ〜賛成の反対なーのだ〜
この遭難事故を参考に、日露戦争の陸軍部隊は、耐寒耐雪装備を大幅強化したそうです
でも、もしロシア国内で革命が勃発していなければ、大日本帝國は敗けていたかも?
後藤伍長銅像付近では、今から約20年前の某心霊番組ロケ撮影で、銅像付近を行進する第五連隊の亡霊群が映る映像の収録に成功してます
止める勇気が無い愚者の行進
青森第5連隊は現在の陸上自衛隊第5普通科連隊だよね
この話は小説や映画のせいで山口少佐が全部悪いことになっていますが、佐藤特務曹長が道を知っていると言い、では行こうと決定したことぐらいが事実です。まず成功しそうだから俺も行くと言い出したとかは完全にフィクションです。実行部隊に本部将校が付随するのはよくあることだった、とどっかで読んだ気がします。田茂木野で案内を断った話は、確かそういう新聞記事があったというだけで誰がどうこうと言う話ではなく、生存者からの証言も出ていません。第一露営地から夜のうちに出発したのは兵、下士官が強く希望したからで山口少佐は当初暗いうちの出発は危険だと発言していたという生存者の証言があります。前記した佐藤特務曹長の件は本当らしいですが、神成大尉と対立したかは不明山口少佐と神成大尉の関係はこの行軍以前から悪くなかったという話もあります。その後の山口少佐はおそらく低体温で指揮能力が無くなっています。個人的には、馬立場16時の時点で野営を覚悟する状況なので、その時点で野営か撤退か、山口少佐が最高位の士官として決めるべきだったとは思います。どちらかと言うと独断専行ではなく、他人の主張、要望に流され続けた人という印象。個人的には、最初からこの行軍は危険だと思っていたであろう永井軍医の中止提案が早すぎたと思います。小峠は田茂木野から歩いてすぐだし、みんな元気で天候もそこまで悪くない。元々撤退とか大嫌いな若い軍人が中止に賛成するわけがないのです。やはり馬立場が撤退を決めるポイントだったと思うのですが、1度提案を却下された永井軍医も、大見得切った兵たちも、やっぱりやめましょと言えなかったのでしょう。
映画版の永野軍医役の俳優さんは、現フリーアナウンサー高島彩さんの父上だそうです(彩さんが小学生になる前に死別)。
拳銃自殺と言われてるが凍傷は指からなんだよ。指が無くなってる人が引金引けません。私は殺害されたと思ってます。
@@吉野正洋-k5g さん実際には凍結していた血液が一部溶けて流れ出し、凍結した血液由来の血栓が冠動脈を詰まらせる心筋梗塞や急性心不全が死因みたいですね。
@@古家武史-f5d この他麻酔薬投与により昏睡状態に陥って死亡した可能性もあるなど諸説ありと書籍やウィキペディアなどで読んだ事があります。
かなり前の真夏に、行ったことあります。当時の装備はペラペラに見えました。何にしても、手を合わせ、先人の方々へ思い抱き。
遭難すべくして、遭難したという状況ですね。😫食料足りない、防寒足りない、天候最悪では。
雪に強いアイヌパワーワード
タイトルだけだと男塾かと思うレベル
霊夢と魔理沙ちゃんっていろんな番組を持っているのね。こんな地獄の状況で、生煮えの白米だけで、軍歌歌って足踏みって、普通に気が狂うよ💦そんな中で業務遂行できる軍人さんはすごい…
八甲田山の雪中行軍遭難事故が起きた1902年、北海道旭川市では、日本の気象観測史上最低の、マイナス41℃を観測してました
八甲田山を甘く見た😌まぁ……結果(´・ω・`)生存者1割以下ね…
後藤伍長銅像辺りでは、銅像の傍を規律良く行進する隊列の亡霊群を映像に収める事に、東京のテレビ番組ロケで成功させています
その映像を紹介してほしいです。>ゆっくり動画作成者様
中学生の時に小説読みましたし、映画も観ました。当時は山口少佐の指揮系統を乱す行為が諸悪の根源だと思っていましたが、この動画を観て原因の一因ではあれ、それがすべてではないと思いなおしました。自然を甘くみてはいけないと肝に命じつつ拳銃自殺をされた山口少佐をはじめ、亡くなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
山口少佐の死因については、拳銃による自殺(映画ではこれでした)の他に、低体温症により死亡、麻酔薬投与により昏睡状態に陥って死亡、など諸説あり、今もって謎であると書籍やウィキペディアなどで読んだ事があります。
@@AtsushiMizobeさん実際には凍傷が酷く、引き金に指が入らないほど腫脹していたので拳銃自殺は絶対不能。最近では血液が極低温で凍結それが溶ける時に出来た血栓が心臓の冠動脈を詰まらせての急性心臓麻痺、もしくは急性心筋梗塞が死因とされています。
無茶苦茶ですね、昔の日本の軍隊は。大寒波襲来してる中での八甲田山??死にに行くようなもんですね。
プライドが人を殺すんだなぁ。
そういえば、田代元湯はもう、ダムの底へ沈んでしまったのかな?
数年前にぼろぼろの橋が倒壊したため、素人さんには接近不可能な場所になってしまったとのことです。天空の城ラピュタと同じですな。
上がアホだと部下も大変だな
1回目の協議で引き返しを決定していればなあ
この時代人の命は軽かったね兵士さん可哀想にこれは陸軍に殺されたね‼️😡‼️
Twitterで旧日本軍の制服で冬の八甲田山登山計画してる馬鹿いたなぁ
わろたw
それどうなったんだろう?
@@Ambivalenz0x なんか俺含めミリオタに非難されまくってた。やめろって言ったんだけどもう一度考えてチャレンジしようと思いますとかなんとかって。電車の中とかでも軍装してるアホだった
@@疾風-v7z なるほど止めたんですね・・・元々TPOわきまえない思考の持ち主だから良し悪しが判断できないのか
旧日本軍装備でもシベリア出兵以後とかの防寒重装備ならまだ解らないでもない大正以降の日本軍はこの行軍(八甲田山遭難)の研究を元に当時最高レベルの耐寒装備を持っていたんだとか更に現在の自衛隊では世界最高レベルの雪中行動能力が陸上自衛隊には有るそうなちなみに世界一の積雪を記録したのは滋賀県の西部の山中(7m以上)
事故ってか実験だったように感じた
ウィキ丸読みなのね現地の記念館で詳細をゆっくり読んだなぁ何というか、これだけの事件が人の嫉妬が原因で起こったと理解したときはホント遣る瀬無かった
うむ、フィンランド人ならTシャツ短パンでいけるな。
北欧やロシアなどの人たちは寒さに慣れていますからね。
@@AtsushiMizobe 日本の場合は湿度が高いため、Tシャツ短パンではさすがに無理であると思います。南極越冬隊の作業写真で、上半身すっぽんぽんのまま野外作業している男性隊員の写真を見かけますけれど、あれは湿度が0%に近いからことできることです。
死んだ兵隊のほとんどが、宿敵の岩手県人です。青森連隊と言いながら、兵隊はほぼ岩手人です。
弘前と八戸も犬猿の仲。そもそも言葉が通じないし…。
映画で前田吟さん(弘前第31連隊の斉藤伍長)が「青森(第5連隊)の兵士は、ほとんどが宮城、岩手の出身で、(青森の)雪に慣れていない」と言ってました。
しかし大陸の極寒は八甲田山が避寒地です。
子供の頃映画がやってて怖くて最後まで見られなかった。指揮系統がだめだと軍隊は地獄を見るな。
遠足気分だったんだろうな
新田次郎の小説では、予備行軍演習の状況をそのように記していましたね。
青森の冬は舐めたらアカンて…(-12℃とかザラにあるから)
マイケルムーアが久し振りにツイートしない
佐藤特務曹長が原因じゃん。
気合いがあれば何でも出来る‼️((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブルの果ての無惨な結果…😱。
練習で死んでたら本番で死ぬ。根性だけの日本兵。
軍国主義の出世は強いことが条件。強いことを組織に知らしめる意図があったんだろうな。戦闘時でない演習での自滅!馬鹿としか言えない!
単なる映画のまとめかな?もっと勉強してほしいです
映画や小説のほうこそフィクションから遠い旨、現地で活躍しておられるコメンテーター諸氏のホームページなどを拝見するとよくわかります。第一日目に雪濠を掘ったのは下士卒ではなく将校だったとか、第三十一連隊の案内人たちの多くは福島隊を終生憎み続けたとか、眼から鱗な話がたくさん提供されています。「八甲田牛が旨いよ」などというコメントもありましたけれど、本当かな。
「八甲田牛が旨いよ」で思い出しました。ここしばらく、「青森の正直」ブランドの牛肉大和煮を美味しておりません。ノザキや明治屋の牛肉大和煮よりも格段に美味しいのですが、東日本大震災が起こって以後、関東地方の店舗ではほとんど見かけなくなってしまいました。何とも寂しい限り。通販で購入できますかね?
無料動画に求めすぎ笑
「フィクション」→「ノンフィクション」
後藤房之助さんはまるで弁慶みたいですね!
後藤伍長は
握り飯を油紙で包んで懐に抱いて凍結を防いだり
古新聞を着込んで防寒着にしていた。
など対策はしてましたね。
これが無ければ凍死してましたね。
「目を見開いているけれど生きた人間の眼ではなかった」と新田次郎は小説の中で表現していますが、実在の後藤伍長の発見当時の顔はどういう表情だったんでしょうね。
@@hosamu7077
記述はほぼないけど、凍死した人間は見るからに死んだ目になるって言うからね
おそらく低体温症で昏睡してたと思うから死んでるものとほぼ変わらなかったんだろうと思う…
復活したら目がぎらつくなんて話もあるけどどうなんだろね
映画『八甲田山』では山口少佐が何かと横柄で悪者扱いされているが、史実は違うんだよな。第一露営地からの未明の出発判断も、実は山口自身は最初は夜間の出発は危険だからと反対していたが、寒さと疲労に耐えかねた下士官,兵卒からの強い出発の具申があり、彼らを慮った上で最終的に出発命令を出したんだよな。映画では、まるで逆のキャラ設定になっており、あれは気の毒だ。
また、神成大尉は、『天は我を見放した』ではなく、『天は、我々に死して軍の資料となる事を望んでいる』という様な内容の事を述べて、それを聞いた周りの兵卒の最後の心が折れ、バタバタ倒れていったらしい。信じて従って付いて行ったのに、こんな事を聞かされた部下は、たまったモンじゃなかったろう。
陸上自衛隊は現在でも訓練のために八甲田山行軍をしてるそうな
総選挙中に中露の軍艦が津軽海峡で合同軍事演習をしてたから、万が一のために現代でも八甲田山行軍は決して無駄なことではない
近年でも似たようなことがありましたわ。
日米合同演習を真冬のロッキー山脈で実施。
自衛隊と米軍が別々ルートからロッキー山脈に入り合流地点に向かってた。
途中、天候悪化。猛吹雪と極寒で低体温症に倒れる米兵が続出。
本部へ緊急要請し救助活動となった。
合同本部では自衛隊と連絡がつかず、自衛隊も絶望的と見られてた。
…が、米軍が合流ポイントへ着いたら…そこには……元気に雪合戦をしてた自衛隊員の姿がwww
自衛隊は全員無事で合流地点に着き、米兵達を待ってたが「遅いな〜、ヒマだからアメちゃん来るまで雪合戦しよか」となったらしい
当時の自衛隊員は体中にホッカイロをつけまくり、その他極寒対策の装備もしてたようで
八甲田山行軍の経験はきちんと後輩達に活かされてます
第8師団自衛官が読まされるという資料『陸奥の吹雪』を読まれたことのあるかた、いらっしゃいますか。小笠原孤酒氏の遺作『陸奥の惨劇』とは別のものです。
こんな人達と戦う敵が気の毒やわ。(笑)
((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
雪合戦とか~(笑)
散々大変な目にあった米軍とは対照的過ぎて。
無邪気にも程がありますやね。
@@takaoga1644
お叱りを受けそうだけど、まるで米海兵隊員が第5連隊、自衛隊が第31連隊みたいになっていますね😅
弘前側は案内人を雇ったけど、案内人に対するフォローが無かった(無理な斥候命令や途中での解散(放置))ので、何とか家に帰った案内人はその後半死半生となったのが多かったとのこと。案内人の1人は凍傷で頬に穴が開き、水も飲めなくなったそうです。
真に恐れるべきは有能な敵ではなく無能な味方である。
ナポレオンの言う通り。
そして、その無能は大抵「大丈夫だ、俺には経験がある」といって無茶な計画を建てる。
納得‼️((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
そのナポレオンはこうも言ったといいます、「エルバ島を見し前、朕は無敵なりき」。英語で書くと Able was I, ere I saw Elba. です(ere は before の古語)。きれいな回文になっていますが、ナポレオン自身はフランス人ですから、こんな弱音を英語で言うはずはないので、これはおそらく伝承に過ぎませんね。
幼きころこの映画を見た気がする
猛吹雪の中奇声を上げながら服を脱ぎ始めるシーン、記憶に残ってるなあ
事前調査不足により夜営予定であった田代元湯は人がいて建物を使えると思っていたが冬季はいなかったらしい。雪山で方向が分からなくなったため全滅にいたったけど、迷わず目的の田代元湯にたどりつけても装備不足から犠牲者が出るのは避けられなかったように思える。弘前連隊は犠牲者を出さずに反対側から現場を通過したが案内に雇った民間人は凍傷になったのに補償もせず褒められたものじゃない。
極寒で満足に食事も取れない中で生存者がいたこと自体が奇跡だと思います。
いや、極寒じゃなくても何日も食事を取れなければ生きていけないと思う。
実戦ではなく訓練で。しかも国内で亡くなるのは、無念だろうなあ。
淡々と語られる死亡者の数に凄惨な地獄絵図の様相が
浮かび、思わず身震いしてしまった。
ご冥福をお祈りします。合掌
確か第五連隊の方の予定ルートが遥かに短く目的地は温泉地で、隊員のなかには「温泉に入れる。😄」と指定された寒冷地用の下着を着用しなかた者もいたそうです。短い行軍予定が油断を生んだのです。🧐
実際に行ったことあります
四方のどこを見ても鬱蒼とした木々がどこまでも広がっていて、ここで迷ったら発狂しそうだな…と恐ろしくなりました
つまり、『遭難始末』の巻頭に収められている白黒写真と同じ光景が、現在でも広がっているということですね。合掌。
あ、「鬱蒼とした木々」は、もしかすると夏場の光景ですか。申し訳ありません。『遭難始末』の写真はもちろん、遭難者捜索時に撮影されたものです。
完全な人災な気がする・・・。地元民の制止を聞かなかった事、夜中に行軍するなど自殺行為のように思われる。完遂した31連隊の方もかなり非人道的な事してたみたいだし、救援隊が出るのも遅すぎる。酷い話だよ・・・。こんな状況で生還者が出たのが凄い事だと思う。私なら1日もたない。
上層部は案内人を雇う事も考えましたが
案内人を雇う事に特務曹長や伍長勤務上等兵が反対して上層部を突き上げた為雇わなかったそうです。
31連隊も梵珠山(青森と弘前の間にある山)踏破は
青森までの行軍で半数が凍傷にやられ、さらに極度に疲労していた為
平坦な国道を歩行し、更に浪岡に一泊する計画に変更して断念してます。
この件にも見られるように柔軟な計画の変更が成功の原因
@@古家武史-f5d 多少無茶な行程で行って終了後、訓練を完遂しましたと上層部への自分達の覚えを目出度くしようとしていたのでは?
本やドラマで何度も見聞きしてますが、毎年この時期どうしても吸い込まれるように「八甲田山」で検索してしまいます。平和な日本に生まれてよかった
長野のスキー場でブリザードに近い猛吹雪に巻き込まれたときは
肌が無感覚になり、
寒さで頭の脳が機能しないくらいにボーッとなってきて
手足の感覚も麻痺し始めた。
もちろん周りも真っ白で見えないため
どちらに行けばいいのかわからない。
これはヤバいと思うも思考能力が低下して
考えがまとまらない。
寒いどころではなく、脳を含め全身が凍っていくというイメージ。
とりあえず下に下るしかないと思い。
動けない体に鞭打ってやっとも思いで下ると
下界は嘘のように暖かかった。
一時間に満たない経験だが、
その場にいると救いはないことはわかった。
こういう状況で何時間も経過すると人はすぐに死んでいくのだと
初めて実感した。
想像以上に寒さは怖い。
近年でも自衛隊の冬山行軍の際、八甲田でやはり遭難事故が起こってますね。
現代の装備でもやはり危険な場所のようです…
昔、自衛隊で北海道にいたころに冬季演習をやったことがありますが、北国の夜の冬山の寒さはマジでヤバいですよ。
あれは人間が居ていい場所ではないですよ。
今でも雪上の物資運搬には人力ソリを使いますよ。陸自にもアキオというフィンランド由来の曳きソリが装備品としてあります。もしスキーが本格普及した後であれば違った結果だったかもしれないですね
最も身近で、かつ毎年北日本で何万人もが同時期に使用している人力ソリってたぶん「ママさんダンプ」だと思います。
北の方ではママは自転車じゃなくてダンプに乗ってるのか…
仮死状態で立っていた……何と言う…
立ち続けることで、自分が死んだ後も救援の手がかりになれるように、銃剣を杖代わりにしていたそうですよ。雪に埋もれてしまわないように。
@@user-kf1gk5wm6t そんな思いでその姿勢を保とうとしていたんですね。凄すぎます(T_T)
映画も見たけど、壮絶だったな😖
この事故の調査で行軍がどう動いていたか調べた結果青森隊はほぼ同じ場所を3周半していたらしい
後読んだことは無いんだけどその時の生き残った人物の孫が自衛隊になり現代装備で八甲田山の行軍に挑んだ続編小説もあるらしい
この事件を題材とした新田次郎著「八甲田山死の彷徨」
厳寒の雪中行軍を描いた小説を高校生ぐらいの頃に読んで
その余りに壮絶な死と隣り合わせな描写が軽いトラウマになったのを思い出した。
生き残った者もてや足の指を壊疽のために切り落とさなければならなかったとか手や足の神経も痺れとかが取れないとか生存者も記録にはっきり残ってないだけで五体満足なのは殆どいなく全滅に近い結果になったんじゃないかな。
小説での目的地の田代元湯は、駒込川沿いに車を停めて川を渡ってしばらく下った所にあったやまだ旅館。ランプの宿で、四十年近く前に泊まった時は私一人だけで、小説を読んだ後だったので夜なんか怖かったけど、宿の母さんが、湯さいがねがって迎えに来てくれたので一緒にはいりました。宿はだいぶ前に無くなったって聞きました。八甲田は毎年のように行って、大岳には何十回も登りました。
学生ん時八甲田山の映画見てから一番インパクト強く何故か惹かれるように4回八甲田遭難資料館に行きました。季節関係なく山をあまく見てはいけないし自信が過信に変わると最悪な結末を迎えると教えられた遭難事件です。
生還した倉石一(くらいしはじめ)大尉は、この雪中行軍参加前に東京に出張した際、当時はまだ舶来品でファッションブーツ扱いされていたゴム長靴を土産として買い、偶然これを履いて行軍に参加したため、足の凍傷を免れたと聞いた事があります。
長谷川特務曹長は
1、予備のマッチ、靴下などを持参
2、靴下を手袋がわりにする
3、足先に唐辛子を振り、更に油紙で覆った
4、休憩中も常に手足を摩擦させる
などの凍傷予防策をフル活用してほとんど無傷で助かってます。
@@古家武史-f5d
情報ありがとうございます。
ダークサイドミステリーで今、八甲田山死の彷徨の放送が。あまりの惨劇に恐怖。「あと少し!あと少し…先に進めば…」の気持ちが悲劇を招くことに。実際の惨劇の実態は目も当てられないです…。
四肢切断って生き残っても生地獄だなぁ。
乙武だって生きてるぞ!🤣🤣
当時は御国のためとして
奥さん候補がひっきりなしでした。
義足も優先的に最先端与えられたし、義手も肘の作用で掴めてタバコを吸えた。
恩給、障害年金でかなり裕福な生活。
だいたい山口少佐のせいという
ずっと頑張ってたり、正しく判断・統率しようとしてた神成大尉が報われねぇ…
実際の山口少佐は独裁者では無かったそうで
他人の意見も良く聞いて判断していたそうです。
真に独裁者なら佐藤特務曹長の意見具申を即座に却下して半数程度は犠牲になっても帰営出来てます。
銭湯に置いてある籐かごと、行李(こうり)は違いますよ、今でいう衣裳ケースみたいなもので蓋があり、丈夫で、保管を目的に作られてます
青森行軍隊の殆どが雪国生まれでないのもあって、雪山を甘く見ていました。
一方 弘前隊の方は雪国育ちが多く雪山の恐ろしさを熟知していた。
弘前隊は八甲田山の雪中行軍するにあたって、雪山を歩くためにブーツの中に敷く中敷きを 藁で作らせたそうです。
この藁の中敷きは日露戦争の黒溝台会戦時に大活躍しました。弘前隊の経験値が活かされたのです。皆戦士しましたが。。
青森隊の神成さんは秋田県出身なので、雪山の恐ろしさは少しは知ってたと思います。でも隊の中では格下なので 意見を言えなかったと思いますね。
弘前隊は八甲田山雪中行軍の前に、実験的に岩木山の雪中行軍をしています。
準備は万端 完璧です。
福島隊長は吹雪に見舞われても混乱動揺しないように、隊の一人一人に任務を与えました。それぞれが与えられたその任務を果たすために、集中没頭していたので 隊の混乱も動揺もなく踏破できました。一人だけ脚に軽い怪我を負ったため リタイアさせられましたが。。
弘前隊の福島隊長さんは かなりのイケメンなんです。
確かリーダーの決断という本にお写真載っていました。
私はこの方が大好きです。
リタイアさせる時にも途中までの研究結果をまとめた資料を持たせて帰営させる任務を与え
リタイアではなく成果を報告する
と言う様に持って行ってます。
一応5連隊の多くも雪国出身者が多かったのですが
同じ東北でも岩手県などのやや温暖で雪の量も少なく雪質も全く異なる地方出身者が多かったそうです。
実際岩手県も宮城県も雪が多いものの八甲田山などと違い湿雪でカンジキやソリが雪に埋まってしまう
と言う未曾有の事態は経験したことが無く
更にその多くは雪の少ない平地出身で雪と寒さの恐ろしさを知らない百姓や給与生活者(今のサラリーマン)あがりでした。
5連隊でも生き残ったのは
雪や寒さ対策を知っていたマタギ(猟師)や炭焼き出身者です。
彼らは
新聞紙を下に着込む
握り飯や餅を油紙で巻き、風呂敷で包んで腰に巻く、もしくは外套を多く着込んで絶対に凍結させない
と言った対策をとってます。
士官の中には握り飯や餅の替わりにパンを持参(当時パンは高価で士官しか買えなかった)者や
倉石大尉の様にビスケットを持参した者まで居ました。
31連隊も
握り飯とは別に乾麺包(今で言うカンパンやビスケット)携行を義務付け食糧凍結対策を取っています。
但し5連隊の一部が行った方法をもってしても握り飯の凍結には悩まされ
結局は田代元湯付近で野営後偶然見つけた小屋で案内人が餅を焼いて腹巻きに入れるのをみて
ここでは握り飯を温めて食べ、餅は焼いて腹巻きに入れて簡易カイロにしろ
餅を食べてしまった者は握り飯を表面が真っ黒になるまで焼いて(今で言う焼きおにぎり)同じように腹巻きに入れろ
と全員に命令してます。
後この八甲田山遭難後は餅を乾麺包みたいに焼き、塩で味付けする(今の塩煎餅)方法が注目されたそうです。
通常の醤油煎餅が好まれ無かったのは
表面の醤油が凍結して意味が無くなるからだそうです。
@@古家武史-f5d
倉石大尉は雪中行軍参加前に東京に出張した際に、土産として当時は舶来品だったゴム長靴(現代感覚で言えばファッションブーツ)を買い、これを履いて雪中行軍に参加したおかげで足の凍傷を免れ、また比較的冷静な判断や指揮を行えたとも聞いています。
31連隊は
万が一遭難した場合でも志願者ならば徴兵で集めつ兵卒と違い非難されにくいこと
統率が取りやすいこと
を理由に見習士官と下士官中心、下士官でも徴兵で集められた伍長勤務上等兵などの長期勤務伍長、士官勤務の特務曹長を編成から外し(5連隊は長期勤務伍長や特務曹長がメンツにこだわって司令部を突き上げ、暴走させたのが遭難の第一原因)
士官でも福島大尉以外は従卒同伴を厳禁(従卒も案内人兼任)、兵卒はラッパ卒(雪中行軍でのラッパの吹き方の研究目的)と地元出身者(案内人がわり)のみに限定
全ての隊員に研究テーマを与えて理不尽なシゴキなどをさせなかった。
が成功の理由です。
「面白がってウサギを追跡」←なにやってんだよ救援隊
遭難者の意思の力みたいな「無視できない何か」を感じたんじゃないかな
大正2年8月の信州駒ヶ岳の遭難事故の後でも、いきなり現れた白兎(あの地方では白い毛皮の兎は滅多に見られないそうです)の後を追っていったら、遭難事故のあと長らく行方不明になっていた生徒の遺骨を発見した由、新田次郎の『聖職の碑』やその取材ノートに書かれていました。
警察の隠語で
ウサギ🐰🐇は脱走犯🕸️🐾🚓🆓
つまり道に詳しい犯罪者を秘密で雇った
というピザ屋の地下の陰謀なんだよ!!!!
@@hosamu7077
映画でもそのくだりがありました。確か遭難事故から12年後の1925(大正14)年、事故を起こした中箕輪高等小学校(現箕輪中学校)が修学旅行登山を再開したその日に、この出来事が起こったと言います。
遭難事故のあと登山が再開されるまでの間の事情について、映画ではばっさりと省略されています。原作を読んでいない人にはぜひ、一読を奨めます。あ、八甲田山の遭難事故についても、『~死の彷徨』と併せて正式報告書『遭難始末』の一読を奨めます。あまり話題にならないようですが、小笠原孤酒氏のドキュメント(新田次郎が『~死の彷徨』のネタの一つにしました)をお読みになられた人、いらっしゃいますか?
雪中行軍行軍資料館に行ったことがありますが下士官の防寒着は普通のオーバーの様な感じで
市街地への外出には良いとしてもどう考えても雪山では無理だろうと思いました。
その装備に涙が出そうになった記憶があります。
映画もこれに忠実に再現して高倉健も命の危険を感じたと回顧してたよね
知識のあるものだけが生き残れてるのすごい分かれ道
兵卒にはそれさえ無かった。
助かった兵隊さんには、縁談が殺到したとか、英雄視されたんですね
但し日露戦争後は見向きもされなくなったそうです。
最後の遭難兵遺体収容が完了したのは、遭難事故が起きた年の5月でした
あれ?弘前隊は案内人が犠牲になってた気が…
この時代
戦争で死ぬか
遭難で死ぬか
どちらにせよ死ぬ事には変わりない
にしても生き残る者いるのも確か
数は力
田代元湯では、今も天然湯が沸いているそうですが、後継者不在で施設管理は放棄されてしまい、事実上入湯不可能な程に荒れているそうです
確か田代温泉は元湯か新湯のいずれか、もしくは両方ともダム湖に沈むか沈んだと聞いていますが。
@@AtsushiMizobe 数年前に、最後の橋が倒壊してしまって、素人さんは接近できなくなったそうです。
生存者も凍傷にかかり手足の指を失くしたそうですね…
倉石大尉、伊藤中尉、長谷川特務曹長の3人を除いてね。
隊員のみなさまには、心よりご冥福をお祈り申しあげます。それから、太平洋戦争でも旧陸軍の兵隊は戦いました。
全力で国を護らせていただきました。日本は、二度と戦争には向かいません。どうぞ、安心してお過ごしください
まずは遭難者のご冥福をお祈りします。
この遭難事件、捜索側の心情を推し量るのも遠慮したいくらい辛い事件。
それはそれとして。
知識や経験の不足がどのような結果を招くのか、この一点においては非常に有用なサンプル。
地元の人々の意見を軽視してはいけない、特に山岳部や沿岸部では。
生存者の中には極少数ながら
防寒対策をしていた方々がいたはず。唐辛子なんかを靴に放り込んでた人もいなかったっけ?
あとは軍上層部が大問題か。
現場の指揮官レベルではなく
命じる側の知識、経験がなく
自然を甘く見ていたのでは?
発案者を責めたくなるが
遭難事故が目的でやった事ではないのは、誰にでもわかる事。
事故後にできる事は再発防止の為に、原因や経過の調査結果を可能な限り詳細に残して、正しい対策を施す事くらい、か。
事故自体がかなり昔の為
現代基準でのみ考える事は公正さを欠く事になるとも考える。
厳寒期の頼れるツールである
ハクキンカイロが誕生したのは事故から21年も後の事である。
この事件を知り、詳細を一度でも調べた経験があれば
雪山や防寒対策を甘くみる人はいないはずなのだが、未だに事故は続いている。
知る機会がないのか、自分は大丈夫という楽天家なのか。
そのうち小規模ながらもDQNな方々がやらかすのだろう。
DQN抜きに考えても、危機管理能力において日本人は思考停止と思える程に危機感が不足。
多分、無意識レベルで『おこらない、おこるはずがない』とでも考えてるのだろう。
『事故は必ず発生』『発生した時、行うべき事は何か?』という視点から考える担当者は少ない(日本人には)
この点において、欧米人はシステマチックというかシビアな考え方をしていると感じる。
まあ、やらかす場合は人種やら関係なくやらかすんだけどね。
このあと半世紀も無能で脳筋なパワハラ軍人による悲劇は続いていくと思うと。。
戦後も無意味な「根性論」は続いてますよ😭
軍人として、あり得ない思考過程に背筋が凍る。😱💦
この「寝たら死ぬぞ」のせいで「寒い?」と聞かれて寒いと答えると「寝るな!寝たら死ぬぞ!」ってヘラヘラ笑いながら顔や体をビンタしまくるいじめ、いや集団暴行が小学生の時はやったんだよな
止めてくれた人がいたのに…
映画上映時に新潟県在住のガキでしたが、夏の「犬神家の一族ごっこ」(プール内で倒立)と冬の「八甲田山ごっこ」(天はわれわれを見放したあ)は定番でしたな。
例の矛盾脱衣の真似をした坊やは、何人くらいいたのかしらん?
ちなみに大竹まこともこの事件を描いた映画「八甲田山」に出て凍傷になり、
今でも手の指が一部曲がったままだそうです。
何しろ発狂して素っ裸になって雪に埋まって死ぬ役でしたからね。
ちなみに高倉健さんや北大路欣也さんも足の凍傷に苦しんでいます。
第一夜の夜中に出発したとき「あ~~~~~~~」と叫びながらのたうち回ってぽっくり逝く演技をした役者さんですね。あのときの撮影では、酷寒に耐え切れなくなったエキストラが何人も撮影途中で脱走してしまって戻ってこないので、撮影スタッフは苦労したと聞きます。
いくつか動画がありまして、発狂とばかり書かれているようですが、今となっては極限状態に生じる体感温度の急上昇という科学的な見解があるようです。映画などは想像で製作されたものなので間違っても仕方がないでしょうが、間違ったまま語り継がれるのは避けた方が良いと思う。
矛盾脱衣っては書かれてるので、多分その辺は認識の上で「普通では考えられないこと」を理解しやすいようにその表現使ってるのかな?って思ってました
山口少佐は、どれだけ無茶なプランも、
「死に物狂いでやれ」と丸投げした、前の職場の上司を思い出す。
気合いと根性で乗り切れ‼️。😱💦
無理やろ…。😅
今から四半世紀くらい前、当方の一番最初の就職先だった、零細ブラック企業の自称社長が、まさにそれでした。「技術は黙って営業の後からついてくればよい」「今時の若手に失望を感じる」の二つが座右の銘という、ハラスメント対策が当たり前の現在からみると、とんでもない糞親父でした。あいつ、今でも元気にしてるかな。
この日の北海道では日本史上最低気温を記録していた
最高気温はこの十数年間で更新されましたが、最低気温は今だにそのままですね(零下41℃……)。スキージャンプ選手の高梨沙羅嬢の出身地方での測定値でしたっけ、確か?
あ、沙羅嬢、先日の失格騒動は本当に残念でした。めげずに頑張ってください。
バカな大将敵より怖いとはまさにこのこと。
訓練だから、あえて案内を拒んだのかもね。実戦時に案内人がいるとは限らないからと。ただ装備の貧弱さがなぁ。日清戦争の時ですら「中国人の使ってる武器の方が性能が高い」って現場から意見されまくってたのに悉く黙殺してたわけだし
九州では、ちょっと雪が降っても大騒ぎなので・・・この状況は想像もつかない恐ろしさ😫
文字通り震えが止まらんよ。
食べられない、休めない、極寒。
ウィンタースポーツが限界のオレは、こんなところ仕事でも行かんよ。
ご冥福をお祈りいたします。
餅等の凍結しやすい口糧では無く、乾パンやビスケット、日本酒では無く、アルコール度数の高いウイスキーやブランデーの類(同時にアルコールランプの類も持っていれば)又違ってましたかね?(私の素人考えに過ぎませんが…)
ウイスキーの代わりに焼酎という手もあったかも。
「天は... 天は我々を見放したぁぁぁ... !!」
現代の装備で同じ状況を挑んだらどうなるだろうか?
それを陸上自衛隊は毎冬行っているそうです。最近では婦人自衛官の参加もあり?
この遭難事件の報告書『遭難始末』(1902年7月発行)には、「地元に住む数え年60の男性が『今まで生きてきてこんなに寒い冬は一度もなかった』と話していたが、おそらく虚言ではないであろう」(原文はカナ漢字文語)と記されています。また、この報告書に折り込み添付されている事件当年およびその前年、前々年の一月の気温測定グラフをみると、事件発生年の行軍挙行日に限って、気温が前々年および前年よりも数℃~10℃近く、ガクンと下がっています。とまれ、百余年前の我々の先人が凍えながらのたうちまわっていたその場所の地下深くを、東北新幹線はわずか一時間少々で通過してしまいます。合掌。
スキーが入ってくる前だもんね。
小説版では、徳島大尉が神田大尉に「現時点での軍はスキーの導入には積極的でない」と話すシーンがありますね。海外の備品の使用については、遭難者捜索隊の哨所間を結ぶ国産の電話線が、夜間に寒気のため縮んで切れてしまうため、やむなく超高額の外国産の電話線を使用した旨、『遭難始末』には記されています。
それにしても、なぜ山口少佐は神成大尉の指揮権を奪い取るなんてマネをしたのだろうか?
「八甲田山死の彷徨」を読んでも、それが分からなかった。
それほどまでに軍隊での階級のちがい、先任かそうでないか、軍人のプライドというのは病的なものです……
任せられない性格
だったようですね。
優秀とされる指揮者にはよくある事です。
無能である事を知っている優秀な指揮官は周りの意見を聞いて慎重に判断し、決断後は愚直に行動しつつ事態の急変にも臨機応変に対応
優秀だと過信している無能な指揮官は自分の考えだけで暴走して事態悪化させます
@@古家武史-f5d 牟田口廉也連想しました。
@@古家武史-f5d その無能な指揮官っていう奴、当方の職場にいる上司♀もまさにそれです。
トップの資質はアイディアマンでも能吏でも無いし「手柄」は狙う者ではないのだ〜
賛成の反対なーのだ〜
この遭難事故を参考に、日露戦争の陸軍部隊は、耐寒耐雪装備を大幅強化したそうです
でも、もしロシア国内で革命が勃発していなければ、大日本帝國は敗けていたかも?
後藤伍長銅像付近では、今から約20年前の某心霊番組ロケ撮影で、銅像付近を行進する第五連隊の亡霊群が映る映像の収録に成功してます
止める勇気が無い愚者の行進
青森第5連隊は現在の陸上自衛隊第5普通科連隊だよね
この話は小説や映画のせいで山口少佐が全部悪いことになっていますが、
佐藤特務曹長が道を知っていると言い、では行こうと決定したことぐらいが事実です。
まず成功しそうだから俺も行くと言い出したとかは完全にフィクションです。
実行部隊に本部将校が付随するのはよくあることだった、とどっかで読んだ気がします。
田茂木野で案内を断った話は、確かそういう新聞記事があったというだけで
誰がどうこうと言う話ではなく、生存者からの証言も出ていません。
第一露営地から夜のうちに出発したのは兵、下士官が強く希望したからで
山口少佐は当初暗いうちの出発は危険だと発言していたという生存者の証言があります。
前記した佐藤特務曹長の件は本当らしいですが、神成大尉と対立したかは不明
山口少佐と神成大尉の関係はこの行軍以前から悪くなかったという話もあります。
その後の山口少佐はおそらく低体温で指揮能力が無くなっています。
個人的には、馬立場16時の時点で野営を覚悟する状況なので、
その時点で野営か撤退か、山口少佐が最高位の士官として決めるべきだったとは思います。
どちらかと言うと独断専行ではなく、他人の主張、要望に流され続けた人という印象。
個人的には、最初からこの行軍は危険だと思っていたであろう永井軍医の中止提案が早すぎたと思います。
小峠は田茂木野から歩いてすぐだし、みんな元気で天候もそこまで悪くない。
元々撤退とか大嫌いな若い軍人が中止に賛成するわけがないのです。
やはり馬立場が撤退を決めるポイントだったと思うのですが、
1度提案を却下された永井軍医も、大見得切った兵たちも、やっぱりやめましょと言えなかったのでしょう。
映画版の永野軍医役の俳優さんは、現フリーアナウンサー高島彩さんの父上だそうです(彩さんが小学生になる前に死別)。
拳銃自殺と言われてるが凍傷は指からなんだよ。
指が無くなってる人が引金引けません。
私は殺害されたと思ってます。
@@吉野正洋-k5g さん
実際には凍結していた血液が一部溶けて流れ出し、凍結した血液由来の血栓が冠動脈を詰まらせる
心筋梗塞や急性心不全が死因みたいですね。
@@古家武史-f5d
この他麻酔薬投与により昏睡状態に陥って死亡した可能性もあるなど諸説ありと書籍やウィキペディアなどで読んだ事があります。
かなり前の真夏に、行ったことあります。当時の装備はペラペラに見えました。何にしても、手を合わせ、先人の方々へ思い抱き。
遭難すべくして、遭難したという状況ですね。😫食料足りない、防寒足りない、天候最悪では。
雪に強いアイヌ
パワーワード
タイトルだけだと男塾かと思うレベル
霊夢と魔理沙ちゃんっていろんな番組を持っているのね。
こんな地獄の状況で、生煮えの白米だけで、軍歌歌って足踏みって、普通に気が狂うよ💦
そんな中で業務遂行できる軍人さんはすごい…
八甲田山の雪中行軍遭難事故が起きた1902年、北海道旭川市では、日本の気象観測史上最低の、マイナス41℃を観測してました
八甲田山を甘く見た😌
まぁ……
結果(´・ω・`)
生存者1割以下ね…
後藤伍長銅像辺りでは、銅像の傍を規律良く行進する隊列の亡霊群を映像に収める事に、東京のテレビ番組ロケで成功させています
その映像を紹介してほしいです。>ゆっくり動画作成者様
中学生の時に小説読みましたし、映画も観ました。当時は山口少佐の指揮系統を乱す行為が諸悪の根源だと思っていましたが、この動画を観て原因の一因ではあれ、それがすべてではないと思いなおしました。自然を甘くみてはいけないと肝に命じつつ拳銃自殺をされた山口少佐をはじめ、亡くなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
山口少佐の死因については、拳銃による自殺(映画ではこれでした)の他に、低体温症により死亡、麻酔薬投与により昏睡状態に陥って死亡、など諸説あり、今もって謎であると書籍やウィキペディアなどで読んだ事があります。
@@AtsushiMizobeさん
実際には凍傷が酷く、引き金に指が入らないほど腫脹していたので
拳銃自殺は絶対不能。
最近では血液が極低温で凍結
それが溶ける時に出来た血栓が心臓の冠動脈を詰まらせての急性心臓麻痺、もしくは急性心筋梗塞が死因とされています。
@@古家武史-f5d
情報ありがとうございます。
無茶苦茶ですね、昔の日本の軍隊は。大寒波襲来してる中での八甲田山??死にに行くようなもんですね。
プライドが人を殺すんだなぁ。
そういえば、田代元湯はもう、ダムの底へ沈んでしまったのかな?
数年前にぼろぼろの橋が倒壊したため、素人さんには接近不可能な場所になってしまったとのことです。天空の城ラピュタと同じですな。
上がアホだと部下も大変だな
1回目の協議で引き返しを決定していればなあ
この時代人の命は軽かったね兵士さん可哀想にこれは陸軍に殺されたね‼️😡‼️
Twitterで旧日本軍の制服で冬の八甲田山登山計画してる馬鹿いたなぁ
わろたw
それどうなったんだろう?
@@Ambivalenz0x なんか俺含めミリオタに非難されまくってた。やめろって言ったんだけどもう一度考えてチャレンジしようと思いますとかなんとかって。電車の中とかでも軍装してるアホだった
@@疾風-v7z なるほど止めたんですね・・・元々TPOわきまえない思考の持ち主だから良し悪しが判断できないのか
旧日本軍装備でもシベリア出兵以後とかの防寒重装備ならまだ解らないでもない
大正以降の日本軍はこの行軍(八甲田山遭難)の研究を元に当時最高レベルの耐寒装備を持っていたんだとか
更に現在の自衛隊では世界最高レベルの雪中行動能力が陸上自衛隊には有るそうな
ちなみに世界一の積雪を記録したのは滋賀県の西部の山中(7m以上)
事故ってか実験だったように感じた
ウィキ丸読みなのね
現地の記念館で詳細をゆっくり読んだなぁ
何というか、これだけの事件が人の嫉妬が原因で起こったと理解したときはホント遣る瀬無かった
うむ、フィンランド人ならTシャツ短パンでいけるな。
北欧やロシアなどの人たちは寒さに慣れていますからね。
@@AtsushiMizobe 日本の場合は湿度が高いため、Tシャツ短パンではさすがに無理であると思います。南極越冬隊の作業写真で、上半身すっぽんぽんのまま野外作業している男性隊員の写真を見かけますけれど、あれは湿度が0%に近いからことできることです。
死んだ兵隊のほとんどが、宿敵の岩手県人です。
青森連隊と言いながら、兵隊はほぼ岩手人です。
弘前と八戸も犬猿の仲。
そもそも言葉が通じないし…。
映画で前田吟さん(弘前第31連隊の斉藤伍長)が「青森(第5連隊)の兵士は、ほとんどが宮城、岩手の出身で、(青森の)雪に慣れていない」と言ってました。
しかし大陸の極寒は八甲田山が避寒地です。
子供の頃映画がやってて怖くて最後まで見られなかった。指揮系統がだめだと軍隊は地獄を見るな。
遠足気分だったんだろうな
新田次郎の小説では、予備行軍演習の状況をそのように記していましたね。
青森の冬は舐めたらアカンて…(-12℃とかザラにあるから)
マイケルムーアが久し振りにツイートしない
佐藤特務曹長が原因じゃん。
気合いがあれば何でも出来る‼️
((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
の果ての無惨な結果…😱。
練習で死んでたら本番で死ぬ。根性だけの日本兵。
軍国主義の出世は強いことが条件。強いことを組織に知らしめる意図があったんだろうな。戦闘時でない演習での自滅!馬鹿としか言えない!
単なる映画のまとめかな?もっと勉強してほしいです
映画や小説のほうこそフィクションから遠い旨、現地で活躍しておられるコメンテーター諸氏のホームページなどを拝見するとよくわかります。第一日目に雪濠を掘ったのは下士卒ではなく将校だったとか、第三十一連隊の案内人たちの多くは福島隊を終生憎み続けたとか、眼から鱗な話がたくさん提供されています。「八甲田牛が旨いよ」などというコメントもありましたけれど、本当かな。
「八甲田牛が旨いよ」で思い出しました。ここしばらく、「青森の正直」ブランドの牛肉大和煮を美味しておりません。ノザキや明治屋の牛肉大和煮よりも格段に美味しいのですが、東日本大震災が起こって以後、関東地方の店舗ではほとんど見かけなくなってしまいました。何とも寂しい限り。通販で購入できますかね?
無料動画に求めすぎ笑
「フィクション」→「ノンフィクション」