Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
誤解が多いのですが、超々ジュラルミンなのは、主翼主桁のみです。もっとも力のかかる部材に超々ジュラルミンの押出型材を用いることで、約30kgの重量軽減が図れたと言います。ただし、生産性は悪く、押出速度は、超ジュラルミンの半分以下でした。贅沢な材料であったと、堀越技師も述懐しています。
ご視聴&有益なコメント有難うございました。
よく調べてあり、的確な解説で素晴らしい動画ですね。ただ、9:21辺りで、「外板に超超ジュラルミンを使用」と解説されていますが、超超ジュラルミンが使用されている場所は、上下前後の「主桁」のみのはずです。勿論アルミ製薄板は外板に使われています。超超ジュラルミンは、経年変化で「ミルフィーユ」の様に剥がれてくる弱点が有りました。
ご視聴&コメント有難うございました。ご指摘ありがとうございます。仰る通りでした。
見やすく綺麗にまとまった動画をありがとうございます。零戦の軽量化は一見やり過ぎにも見えますが、実際の製造において問題を生じたと言うことはなく、戦後米国の戦略爆撃調査団の記録において中島飛行機ではほぼ発動機の入荷待ち、材料待ちが恒常的になっており、機体工場の稼働率が低調だった旨が指摘されています。機体構造を簡素化していれば、おそらく太田市の地下工場から溢れるほど大量の首無し機が並んでいたかも。堀越氏がこういった展開まで承知のうえ計算づくで方針を決めたとまでは思いませんが、少ない資源を最大限活用し丁寧に付加価値をつけるという、持たざる国である日本国の特質に良くマッチした機体ではあったようです。
ご視聴&コメント有難うございました。コメントに記載のありました「丁寧に付加価値をつける」という表現が的を射たもので、まったく同感であります。
あれ、中島飛行機は、もう昭和20年には栄エンジンは生産を停止し、誉エンジンを増産するとか言っていたから、ゼロ戦に載せる栄エンジンは昭和20年にはない可能性がありますね。
空母に搭載する艦上戦闘機であるので、せいぜい数百機の生産機数を考えていた。そのため工数低減より性能最優先の構造を選択したのですよ。
そんなことはないですよ。おそらく、陸上の航空部隊もあったから、1500機は常備していたと思いますよ。おかしな話、この機体は生産数1万機超えますからね。@@miyamiya2237
十二試艦戦の不具合箇所一、主翼後上面外板がリベット孔より亀裂し毀損す 七号機以降は該部外鈑鈑厚○・四を○・五とする 六号機以前は小骨を補強し外鈑鈑厚を○・四を○・六とする二、主翼前縁下面外鈑に皺曲歪み残留す3号機より該部鈑厚現在○・五を○・八程度とする三、主翼下面燃料槽覆蓋止めビス弛緩す四、遮風板硝子を半強化一枚硝子に入替え五、尾輪覆皮革破損し縫紐切損す 鳩目及縫目付近を特に丈夫に製作する六、増槽漏洩す (接続用充填ゴムは充分に燃料管に押込み燃料管上部より 5~10ミリは必ず下げる)七、増槽整形覆胴体下面に合わぬものあり(上方気流覆と胴体下面とは、フェルトを介して密着していることを要し、 もし、隙間のある場合は上 方気流覆を伸ばして密着させる)八、八号機より二十ミリ銃打殻放出筒入口の段付部を無くす 九、三号機よりフラップカウル(カウルフラップ)操作把手及取付位置変更曽根メモ二一型結合板真珠湾作戦を間近に控えた昭和16年4月16日、二階堂中尉が木更津上空で実戦に備えての飛行訓練中に主翼が後方へねじれ上面に45°の皺が発生し主翼外板、補助翼が脱落する事故に見舞われた。主翼外板や補助翼の脱落の原因は、後に主翼の剛性不足とフラッターが原因と判明したが、この事故が起こる以前でも5.5G位がかかる機動を行うと容易く主翼上面に皺が発生しており、その原因は縦通材を結合板で小骨に止める作業が手間がかかる為に縦通材と小骨(リブ)の固定がしっかり止められていなかった為でこの為高G機動を行うと縦通材が浮き上がり外板の剛性が下がって外板に皺が発生していた。事故後の対策として小骨と縦通材の結合部分には結合板を使用し、縦通材が小骨から浮き上がり主翼の剛性が低下するのを防いだ。外板を、0.1㎜厚くした。バランスタブの廃止。
堀越氏についての評価は一般的に高いが、多いに疑問に思う。氏が三菱入社してからの軌跡をたどると、その社風と相まって、後に名声を博す零戦の開発、また、その他の一連の戦闘機設計における硬直化した手法(形状抵抗への偏狭なこだわり)、開発段階での勝手とも言える勤務実績、態度は褒められたものとは言い難い。さらに戦後初の輸送機開発において氏がとった後進への態度、設計への誤った口出し、結果としての失敗等、現代に於いてなお高い評価を得ていることは、太平洋戦争の結末はともかく、一技術者として、見るべき点は一部を除き無いと言える。当時真に名設計者と呼ばれるべき技術者は他にいくらもいた。氏の生き方は再考されるべきである。
・エンジン選定の説明は間違っている。瑞星から栄に変更されたのは海軍の命令によるもので堀越が決めたものではない。堀越は今度こそ三菱製エンジンでやれると思っていたのだ。 このあたりは海軍と中島の癒着を感じさせるものがある。後の誉エンジンごり押しの姿勢に通じるものがある。・「舵の効き、手ごたえが素晴らしい」という部分は捩じり下げとは関係ない。最も重要な舵の昇降舵に堀越自慢の剛性低下方式を導入したことによるものだ。捩じり下げは大きな速度低下をきたすことなく、大迎え角時の失速寸前の状態でも翼単失速を遅らせて補助翼操作を可能にし、空戦性能向上に寄与した。
ご視聴&貴重なコメント有難うございました。舵の効きなどは解説が不足していました。反省しております。
剛性低下方式は、本庄技師の8試偵察に使ったハインケルのワイヤーが伸びて、エレベーター、エルロンの効きが鈍くなったのが、好評だったことが。本庄技師が発見して、曽根さんが9試単座戦闘に使った。
旧日本海軍の古い考えを持った人達が譲らなかった結果、このような脆弱な戦闘機ができたのです。旋回能力と速度相反するものを要求したのだから仕方がありません。NHKの番組の中で曽根嘉年さんが、源田さんがゆずらなかったと回想しておられました。航空機の時代の変遷に乗り切れなかったのでしょう。柴田中佐などはこれからの飛行機は速度を第一に考えなければならないという意見を述べておられたようですが、何にしても格闘戦をいつまでも引きずった海軍の旧さの結果だと思います。
結局のところ、カタログスペックを満たすためにパイロットが犠牲になりましたとさ
風立ちぬからきますた
私も堀越はあまり評価できません。もともと海軍の構想はゼロ戦のあとは局戦雷電と艦戦烈風のはずでしたが、両方とも失敗した挙句、陸上戦闘機では素人同然の川西紫電改に局戦艦戦とも後継の座を奪われてしまいました。まあ堀越のせいで海軍の戦闘機開発計画はめちゃめちゃにされたわけです。烈風に関する発動機選定議論でも、まだ先が見えないㇵ43より、先行する誉を海軍が指定するのは非常に現実的だし、紫電改が翼面荷重160ちょっとで出来上がってるのだから、最初から誉最適で設計してたら四式戦と同じような時期にゼロ戦後継機は空母に載ってたわけだよな。
後知恵で考えると軽量で操縦し易かった事が後継機に影響を及ぼした点があるとも言えます。勿論、零式戦闘機が問題のある機体という訳ではありません。若(ジャク)でも操縦し易く日中戦争からの古参は凄まじい程の戦果を挙げた半面、後継機には操縦性が良く更なる高速を目指すという極端な要求を続ける海軍の悪癖を招いた可能性があります。また雷電で指摘されている様に、零戦に慣れたパイロットには操縦のし易さから後継機に影響を与えたとも言えるかも知れません。軽量化は機体の華奢でもあり、二式水戦がカタパルト発進出来なかった事は日本海軍が空母用カタパルトを実用化しても零戦には使えなかった事を示します。
ご視聴&コメント有難うございました。仰る通り初期の零戦が良すぎたのかも知れませんね。
零戦が97艦攻に似た形態になったのはなぜかな?海軍の担当官が影響した可能性はあるかもしれないが、誰だったのか回想にもでてこない。
ご視聴&コメント有難うございました。
雷電の時はFW190と真逆なデザインを信じて失敗した?
雷電の紡錘形は失敗したわけではない。当時の理論ほどご利益がなかっただけだ。視界の問題は、主に着陸時のもので、艦上戦闘機と同様に機首上げの3点着陸したために「見えない」となった。陸軍のように水平に着地すればさほど問題ではなかったはずだ。陸軍の荒蒔少佐は、鍾馗より扱いやすいとコメントしている。エンジン技術の遅れで、出力不足と振動問題を引き起こしてしまったことが雷電の不幸であった。
ご視聴&コメント有難うございました。雷電は残念でした。
三菱は、当時の内外の理論を多数検討し、風洞実験を繰り返して、最大断面積が大きくなっても、滑らかに変化させることの方が、空気抵抗を減らせる、という結論を出します。一式陸攻や雷電は、それを取り入れた設計です。逆に、中島は、鍾馗のように、なるべく胴体径を絞ります。結果論から見れば、やはり胴体を極端に絞った彩雲(海軍機だが中島)が高速を発揮したように、空気抵抗低減でみるなら、中島の方が妥当だったとは言えるでしょう。ただ、局地戦闘機(インターセプター)の最重要性能は上昇力であり、たとえば雷電は鍾馗に劣り、疾風には優っています。
@@whitepandajp 零戦神話の後光が強すぎて雷電、烈風が大目に見られすぎではと感じてしまいます。
誤解が多いのですが、超々ジュラルミンなのは、主翼主桁のみです。もっとも力のかかる部材に超々ジュラルミンの押出型材を用いることで、約30kgの重量軽減が図れたと言います。ただし、生産性は悪く、押出速度は、超ジュラルミンの半分以下でした。贅沢な材料であったと、堀越技師も述懐しています。
ご視聴&有益なコメント有難うございました。
よく調べてあり、的確な解説で素晴らしい動画ですね。
ただ、9:21辺りで、「外板に超超ジュラルミンを使用」と解説されていますが、
超超ジュラルミンが使用されている場所は、上下前後の「主桁」のみのはずです。
勿論アルミ製薄板は外板に使われています。
超超ジュラルミンは、経年変化で「ミルフィーユ」の様に剥がれてくる弱点が有りました。
ご視聴&コメント有難うございました。ご指摘ありがとうございます。仰る通りでした。
見やすく綺麗にまとまった動画をありがとうございます。
零戦の軽量化は一見やり過ぎにも見えますが、実際の製造において問題を生じたと言うことはなく、戦後米国の戦略爆撃調査団の記録において中島飛行機ではほぼ発動機の入荷待ち、材料待ちが恒常的になっており、機体工場の稼働率が低調だった旨が指摘されています。
機体構造を簡素化していれば、おそらく太田市の地下工場から溢れるほど大量の首無し機が並んでいたかも。
堀越氏がこういった展開まで承知のうえ計算づくで方針を決めたとまでは思いませんが、少ない資源を最大限活用し丁寧に付加価値をつけるという、持たざる国である日本国の特質に良くマッチした機体ではあったようです。
ご視聴&コメント有難うございました。コメントに記載のありました「丁寧に付加価値をつける」という表現が的を射たもので、まったく同感であります。
あれ、中島飛行機は、もう昭和20年には栄エンジンは生産を停止し、誉エンジンを増産するとか言っていたから、ゼロ戦に載せる栄エンジンは昭和20年にはない可能性がありますね。
空母に搭載する艦上戦闘機であるので、せいぜい数百機の生産機数を考えていた。そのため工数低減より性能最優先の構造を選択したのですよ。
そんなことはないですよ。おそらく、陸上の航空部隊もあったから、1500機は常備していたと思いますよ。おかしな話、この機体は生産数1万機超えますからね。@@miyamiya2237
十二試艦戦の不具合箇所
一、主翼後上面外板がリベット孔より亀裂し毀損す
七号機以降は該部外鈑鈑厚○・四を○・五とする
六号機以前は小骨を補強し外鈑鈑厚を○・四を○・六とする
二、主翼前縁下面外鈑に皺曲歪み残留す
3号機より該部鈑厚現在○・五を○・八程度とする
三、主翼下面燃料槽覆蓋止めビス弛緩す
四、遮風板硝子を半強化一枚硝子に入替え
五、尾輪覆皮革破損し縫紐切損す 鳩目及縫目付近を特に丈夫に製作する
六、増槽漏洩す
(接続用充填ゴムは充分に燃料管に押込み燃料管上部より
5~10ミリは必ず下げる)
七、増槽整形覆胴体下面に合わぬものあり
(上方気流覆と胴体下面とは、フェルトを介して密着していることを要し、
もし、隙間のある場合は上 方気流覆を伸ばして密着させる)
八、八号機より二十ミリ銃打殻放出筒入口の段付部を無くす
九、三号機よりフラップカウル(カウルフラップ)操作把手及取付位置変更
曽根メモ
二一型
結合板
真珠湾作戦を間近に控えた昭和16年4月16日、二階堂中尉が木更津上空で実戦に備えての
飛行訓練中に主翼が後方へねじれ上面に45°の皺が発生し主翼外板、補助翼が脱落する事故に見舞われた。
主翼外板や補助翼の脱落の原因は、後に主翼の剛性不足とフラッターが原因と判明したが、
この事故が起こる以前でも5.5G位がかかる機動を行うと容易く主翼上面に皺が発生しており、
その原因は縦通材を結合板で小骨に止める作業が手間がかかる為に縦通材と小骨(リブ)の
固定がしっかり止められていなかった為でこの為高G機動を行うと縦通材が浮き上がり外板の剛性が
下がって外板に皺が発生していた。
事故後の対策として小骨と縦通材の結合部分には結合板を使用し、
縦通材が小骨から浮き上がり主翼の剛性が低下するのを防いだ。
外板を、0.1㎜厚くした。バランスタブの廃止。
堀越氏についての評価は一般的に高いが、多いに疑問に思う。氏が三菱入社してからの軌跡をたどると、その社風と相まって、後に名声を博す零戦の開発、また、その他の一連の戦闘機設計における硬直化した手法(形状抵抗への偏狭なこだわり)、開発段階での勝手とも言える勤務実績、態度は褒められたものとは言い難い。さらに戦後初の輸送機開発において氏がとった後進への態度、設計への誤った口出し、結果としての失敗等、現代に於いてなお高い評価を得ていることは、太平洋戦争の結末はともかく、一技術者として、見るべき点は一部を除き無いと言える。当時真に名設計者と呼ばれるべき技術者は他にいくらもいた。氏の生き方は再考されるべきである。
・エンジン選定の説明は間違っている。瑞星から栄に変更されたのは海軍の命令によるもので堀越が決めたものではない。堀越は今度こそ三菱製エンジンでやれると思っていたのだ。 このあたりは海軍と中島の癒着を感じさせるものがある。後の誉エンジンごり押しの姿勢に通じるものがある。
・「舵の効き、手ごたえが素晴らしい」という部分は捩じり下げとは関係ない。最も重要な舵の昇降舵に堀越自慢の剛性低下方式を導入したことによるものだ。
捩じり下げは大きな速度低下をきたすことなく、大迎え角時の失速寸前の状態でも翼単失速を遅らせて補助翼操作を可能にし、空戦性能向上に寄与した。
ご視聴&貴重なコメント有難うございました。舵の効きなどは解説が不足していました。反省しております。
剛性低下方式は、本庄技師の8試偵察に使ったハインケルのワイヤーが伸びて、エレベーター、エルロンの効きが鈍くなったのが、好評だったことが。
本庄技師が発見して、曽根さんが9試単座戦闘に使った。
旧日本海軍の古い考えを持った人達が譲らなかった結果、このような脆弱な戦闘機ができたのです。旋回能力と速度相反するものを要求したのだから仕方がありません。NHKの番組の中で曽根嘉年さんが、源田さんがゆずらなかったと回想しておられました。航空機の時代の変遷に乗り切れなかったのでしょう。柴田中佐などはこれからの飛行機は速度を第一に考えなければならないという意見を述べておられたようですが、何にしても格闘戦をいつまでも引きずった海軍の旧さの結果だと思います。
結局のところ、カタログスペックを満たすためにパイロットが犠牲になりましたとさ
風立ちぬからきますた
私も堀越はあまり評価できません。もともと海軍の構想はゼロ戦のあとは局戦雷電と艦戦烈風のはずでしたが、両方とも失敗した挙句、陸上戦闘機では素人同然の川西紫電改に局戦艦戦とも後継の座を奪われてしまいました。まあ堀越のせいで海軍の戦闘機開発計画はめちゃめちゃにされたわけです。烈風に関する発動機選定議論でも、まだ先が見えないㇵ43より、先行する誉を海軍が指定するのは非常に現実的だし、紫電改が翼面荷重160ちょっとで出来上がってるのだから、最初から誉最適で設計してたら四式戦と同じような時期にゼロ戦後継機は空母に載ってたわけだよな。
後知恵で考えると軽量で操縦し易かった事が後継機に影響を及ぼした点があるとも言えます。
勿論、零式戦闘機が問題のある機体という訳ではありません。
若(ジャク)でも操縦し易く日中戦争からの古参は凄まじい程の戦果を挙げた半面、後継機には操縦性が良く更なる高速を目指すという極端な要求を続ける海軍の悪癖を招いた可能性があります。
また雷電で指摘されている様に、零戦に慣れたパイロットには操縦のし易さから後継機に影響を与えたとも言えるかも知れません。
軽量化は機体の華奢でもあり、二式水戦がカタパルト発進出来なかった事は日本海軍が空母用カタパルトを実用化しても零戦には使えなかった事を示します。
ご視聴&コメント有難うございました。仰る通り初期の零戦が良すぎたのかも知れませんね。
零戦が97艦攻に似た形態になったのはなぜかな?海軍の担当官が影響した可能性はあるかもしれないが、誰だったのか回想にもでてこない。
ご視聴&コメント有難うございました。
雷電の時はFW190と真逆なデザインを信じて失敗した?
雷電の紡錘形は失敗したわけではない。当時の理論ほどご利益がなかっただけだ。視界の問題は、主に着陸時のもので、艦上戦闘機と同様に機首上げの3点着陸したために「見えない」となった。陸軍のように水平に着地すればさほど問題ではなかったはずだ。陸軍の荒蒔少佐は、鍾馗より扱いやすいとコメントしている。エンジン技術の遅れで、出力不足と振動問題を引き起こしてしまったことが雷電の不幸であった。
ご視聴&コメント有難うございました。雷電は残念でした。
三菱は、当時の内外の理論を多数検討し、風洞実験を繰り返して、最大断面積が大きくなっても、滑らかに変化させることの方が、空気抵抗を減らせる、という結論を出します。一式陸攻や雷電は、それを取り入れた設計です。
逆に、中島は、鍾馗のように、なるべく胴体径を絞ります。結果論から見れば、やはり胴体を極端に絞った彩雲(海軍機だが中島)が高速を発揮したように、空気抵抗低減でみるなら、中島の方が妥当だったとは言えるでしょう。
ただ、局地戦闘機(インターセプター)の最重要性能は上昇力であり、たとえば雷電は鍾馗に劣り、疾風には優っています。
@@whitepandajp 零戦神話の後光が強すぎて雷電、烈風が大目に見られすぎではと感じてしまいます。