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17:50 字が綺麗すぎる
いつの時代も雪と戦う鉄道マンの努力は変わらない。この人たちがいるから 安全に運転できる
4:00 過ぎからスパイラルシュート直前までのBGMは、グリーグのアレグロマルカートだよね。昭和14年にこの曲を使うセンスは素晴らしすぎる。私は1990年代にはじめて聴いたが、そのときは、とても先進的な曲だと衝撃を受けたが、いかにドイツ音楽が全盛の戦前期とはいえ、この局をBGMに使った映画製作者には脱帽するしかない。
意外と今でも残っている風景が多くて驚く。こういうドラマに「鉄道精神の歌」はBGMとして合ってますね~。
6:28 今は上野東京ラインや東北新幹線の線路になっている辺りの秋葉原駅ですね。
この当時の車内が汚かったのは、ゴミを捨てる場所が無かった事、垂れ流し式の便所がゴミ箱替わりだった。駅弁の掛紙にも「食べ終わったら座席の下へ」と書かれていたし。あとは長距離列車が多かった、乗車距離が長ければそれだけ弁当ガラ等も多くなる。歌いながら振るっているのは「ツルハシ」では無く「ビート」、機械式タイタンパーが無い時代にバラストの突き固めに使われていました。スパイラスシュートの時に出てくる駅は秋葉原か?
おお、なるほど。沈んだ枕木近辺のバラストを「ビート」とやらで叩いてレールの歪を直していたんですね。ご教示ありがとうございます。それにしても列車が通過するほんの直前まで線路上で作業を続ける意図(撮影上の演出?)が、どうにもわかりません。そもそも歌いながらの作業では、接近する列車音を聞き逃して、危険が増すように思いますけど、当時の作業手順書はどうなっていたんでしょうね。
中西雅彦 おそらく線路閉鎖を行っていたのかと。この当時は今の様に機械化されていませんので昼間でも作業してましたからね。今でもそうですが、線路内での作業中は掛け声や騒音で接近がわかりにくいので手前に必ず監視員を置きます。
当時の日本人はモラルが低かったから。道徳心に欠けた利己的な人が多かったから。
対雪の設備が1960年代と大して変わらないことに驚いた。
良く撮れていますね~
昭和14年の気温をなんとなく調べたら大干ばつだったこの年は全国的に雨の少ない年でした。中でも西日本は未曽有の大干ばつに襲われました。
「携帯電話」という言葉はこの時代から使われていたんですね。
その分音質はかなり悪そうな気がする
伝送には線路沿いの通信架線に接続しているので持ち歩ける携帯有線電話機ですね。
超級懷念蒸汽機關車的年代,雖然辛苦 但很有思念故鄉之感覺,也更多人與人的溫馨! 🥰🥰🥰🥰🥰
5:50 少し前ですが、首都高の建設路線見学会の時に正にこのような形状の非常避難設備を体験しました。
この数年後には激しい戦争のため、駅舎は焼かれ、鉄道員は出征して中には戦死する人も居て、都会で暮らす人も空襲の被害に遭う。ここに映っている人のどのぐらいが戦争の被害に遭うのだろうか。映っている人たちは多分誰もそんな未来を予想していないはずで、そう考えると作品の主題に関係なく背筋がぞっとする。
電気が使えなくなった時の現代は無力だな。
13:13なんと言う歌なんですか?
鉄道荷物なんてJR移行直前の廃止までこの映像と変わらなかったもんな。
東京駅は太平洋戦争の空襲で丸の内駅舎の屋根が燃えて美しい屋根が失くなりましたけどまさか復元するとは思ってませんでしたね。その当時に花形電気機関車だったEF551も国鉄最後の夏に奇跡の復活をしましたけど、今後は機関車で牽引する客車列車が激減したので蒸気機関車や電気機関車の復活はもうないと思います。
列車の安全運行にタブレットが使われ、保線区員が緊急連絡に、携帯電話を使っているのか。
冒頭の曲は鉄道精神の歌ですね。国鉄の社歌として民営化まで使われました。
戦前でも「ラッシュアワー」と言っていたのですね。
takana4381o pn 1
この映像に映っている人達は全員もういないと考えると変な気持ちになります。
17:24「直ちに携帯電話機で・・・」というナレーションに「この時代に携帯電話あったのか。スゲー('ω')」と思ったらようは普通の電話を有線の電話線につないで報告するのですね('ω')
切符は手売り、貨物は殆ど車扱いのバラ積みか・・・
切符が自動販売でなかった世代から一言。お釣りを渡すとき注目してもらいたいのは客に確認しやすいようにサーっと横一列に並べるのが基本でした。
交通博物館で見ました。懐かしいです。
スハフ34775(1分28秒あたり)→この映像の2年後の昭和16年に行われた車輛称号規定改正で、オハフ33 56を経て更に電気暖房取付でオハフ33 2056となりました。まだ赤い帯があった頃ですね。
13' 55" にでてくる、歌いながらの保線作業員列車が到達するわずか10秒前まで、線路上でツルハシをふるうのはなぜ?命がけのガマン大会/度胸試し、みたいなもの?
中西雅彦 汽笛が聞こえて来るまで気づかなかったからでは無いでしょうか?
SL運転士の皆様、これからも頑張って下さいませ
しかし、SLの運転だけど、こんなに連係プレーがすごいとは❗
EF57は翌昭和15年製造開始だから、当時はEF55とEF56が最新鋭の電機だったんですね。そして金属供出以前だから全てのカマが形式入りナンバープレートのはずなのに、なぜか8:32のD51 315の側面プレートには形式が入ってない?
Toshi Horrich 金属供出といえば、寺のつり鐘や神社の擬宝珠や校庭の鉄棒等々が、砲弾や薬莢に~持って行かれましたね。
線路つき固め音頭かぁそんなものもあったんだなぁ
恐らく、いつも同じ歌を歌いながらツルハシを振るといつでも同じ振りかぶり方、同じ振り下ろし方が出来て毎回の作業品質というか出来栄えがバッチリ揃うから列車の安全性が高まるのでしょう。優雅さだけでなく合理的とも言える。
うっかり「かんなわ」と読んでしまった…
EF55は3台しか製造されていないのによくこういう戦前戦後の記録映画に映るのは何故だろう。
この作品が制作された昭和14年当時の最新鋭電気機関車だったからでしょうね。EF56やC57、同じ流線形C55も同じく昭和12年製造開始ですが、見た目があたかも新しい時代を象徴する姿である流線形の電気機関車ということ、そして首都圏を中心に運用されていたのでEF55を採用していたのではないでしょうか。
この時代にも鉄道マニアは居たのだろうか
勿論、模型マニアも 線路幅がタバコの箱の横位で牛乳パック位の電車ですよ、大きいので八畳間いっぱいに使って遊びました 昭和10年代製の赤さびになってます
いたが、警察特に特別高等警察のお方には理解されなかった(鉄道は兵器なりという考えから)そうです。実際従軍し名誉の負傷で除隊された人が昭和16年の夏に写真撮ったら到着地で特別高等警察のお出迎えを受けて、その人の立場からなあなあで済んだがこれ以上また何かあったら困るから帰宅してくれと懇願されたとか(プレスアイゼンバーンのレイルに連載されてる)。車番を控えるなど以ての外で、トイレで書くか学生だと勉強しているフリして書いていたとか。
もう戦後間もない時期にすべて廃車解体され一両も実物は残されてないC53が。映像でしか見られない。
tomyboys2001 さん1両梅小路に保存されてる
なんとレトロな動画でせう
ゴミの量が半端ない(笑)
ムーミン現役時代
大昔から鉄道の雪対策は大変だったんだから今の民営化したJRにそれをやらせたらそりゃ大変なことになるわな
戦前は鉄道利用が旺盛で、一貫して国鉄は黒字だった訳だけれども、乗客も荷主も 必ずしもサービスに満足していたとは限らないね。。。他の長距離輸送機関がひどく貧弱で、道路なんか都市部を一歩出れば劣悪な状態。特に多くの旧国境部分では戦後の高度成長期になってようやく十分な幹線道路が整備されるようになった(=それが在来線凋落の第一歩だった訳だけれど)。
世界でもこの頃は鉄道の時代だからねしょうがないね、ドイツとアメリカ以外は
夜行列車は高い。その前に絶滅危惧種か。けどムーンライトながらはありだなー。高速バス以外でいいと思った瞬間。
さういへば最近電車に乗つてゐない。
doromamire ワタシクモ セウセウ ムカシニ テフキョリリョコウ シマシタ。
保線掛が~リットン調査団みたい?
チッキと言う荷扱いが有ったね
ムーミン機関車ですね🎵(^^)d。凄くかわいいねぇ~\(^^)/🎵。
EF55だ!懐かしい^^
これは相当昔の映像ですね!昭和63年ですかね
荷物の扱いが雑だな
弁当ゴミ多すぎwww
Itoh Syun 下車した後にゴミ箱の設置がなかったため、ゴミ屑類は寧ろ車中に放置することが推奨されていたそうです。こうすることで集中的にゴミ処理ができるという合理性が確認できますね。当時の日本国民の民度が低かったのではありませんよ。
この動画の主題から外れますが、そうすると、やはり「民度」なるものの見方自体が主観的で偏見に満ちたものであるのだとわかります
地元のシウマイ弁当の包装紙に、食べ終わった弁当ガラは床に置いておけとの注意書きが記載されていましたね。
@@lennonist9746 何とも合理的な
なんて読むの?
昔の鉄(てつ)です。鉄輪(鐵輪 てつりん)と読むはずです
諸悪の根源労働組合幹部
国鉄復活をよろしくお願いいたします。
17:50 字が綺麗すぎる
いつの時代も雪と戦う鉄道マンの努力は変わらない。
この人たちがいるから 安全に運転できる
4:00 過ぎからスパイラルシュート直前までのBGMは、グリーグのアレグロマルカートだよね。昭和14年にこの曲を使うセンスは素晴らしすぎる。私は1990年代にはじめて聴いたが、そのときは、とても先進的な曲だと衝撃を受けたが、いかにドイツ音楽が全盛の戦前期とはいえ、この
局をBGMに使った映画製作者には脱帽するしかない。
意外と今でも残っている風景が多くて驚く。
こういうドラマに「鉄道精神の歌」はBGMとして合ってますね~。
6:28 今は上野東京ラインや東北新幹線の線路になっている辺りの秋葉原駅ですね。
この当時の車内が汚かったのは、ゴミを捨てる場所が無かった事、垂れ流し式の便所がゴミ箱替わりだった。駅弁の掛紙にも「食べ終わったら座席の下へ」と書かれていたし。あとは長距離列車が多かった、乗車距離が長ければそれだけ弁当ガラ等も多くなる。歌いながら振るっているのは「ツルハシ」では無く「ビート」、機械式タイタンパーが無い時代にバラストの突き固めに使われていました。スパイラスシュートの時に出てくる駅は秋葉原か?
おお、なるほど。沈んだ枕木近辺のバラストを「ビート」とやらで叩いて
レールの歪を直していたんですね。ご教示ありがとうございます。
それにしても列車が通過するほんの直前まで線路上で作業を続ける意図
(撮影上の演出?)が、どうにもわかりません。
そもそも歌いながらの作業では、接近する列車音を聞き逃して、危険が増すように思いますけど、
当時の作業手順書はどうなっていたんでしょうね。
中西雅彦 おそらく線路閉鎖を行っていたのかと。この当時は今の様に機械化されていませんので昼間でも作業してましたからね。今でもそうですが、線路内での作業中は掛け声や騒音で接近がわかりにくいので手前に必ず監視員を置きます。
当時の日本人はモラルが低かったから。道徳心に欠けた利己的な人が多かったから。
対雪の設備が1960年代と大して変わらないことに驚いた。
良く撮れていますね~
昭和14年の気温をなんとなく
調べたら
大干ばつだった
この年は全国的に雨の少ない年でした。中でも西日本は未曽有の大干ばつに襲われました。
「携帯電話」という言葉はこの時代から使われていたんですね。
その分音質はかなり悪そうな気がする
伝送には線路沿いの通信架線に接続しているので持ち歩ける携帯有線電話機ですね。
超級懷念蒸汽機關車的年代,雖然辛苦 但很有思念故鄉之感覺,也更多人與人的溫馨! 🥰🥰🥰🥰🥰
5:50 少し前ですが、首都高の建設路線見学会の時に正にこのような形状の非常避難設備を体験しました。
この数年後には激しい戦争のため、駅舎は焼かれ、鉄道員は出征して中には戦死する人も居て、都会で暮らす人も空襲の被害に遭う。ここに映っている人のどのぐらいが戦争の被害に遭うのだろうか。映っている人たちは多分誰もそんな未来を予想していないはずで、そう考えると作品の主題に関係なく背筋がぞっとする。
電気が使えなくなった時の現代は無力だな。
13:13なんと言う歌なんですか?
鉄道荷物なんてJR移行直前の廃止までこの映像と変わらなかったもんな。
東京駅は太平洋戦争の空襲で丸の内駅舎の屋根が燃えて美しい屋根が失くなりましたけどまさか復元するとは思ってませんでしたね。その当時に花形電気機関車だったEF551も国鉄最後の夏に奇跡の復活をしましたけど、今後は機関車で牽引する客車列車が激減したので蒸気機関車や電気機関車の復活はもうないと思います。
列車の安全運行にタブレットが使われ、保線区員が緊急連絡に、携帯電話を使っているのか。
冒頭の曲は鉄道精神の歌ですね。
国鉄の社歌として民営化まで使われました。
戦前でも「ラッシュアワー」と言っていたのですね。
takana4381o pn 1
この映像に映っている人達は全員もういないと考えると変な気持ちになります。
17:24「直ちに携帯電話機で・・・」というナレーションに
「この時代に携帯電話あったのか。スゲー('ω')」と思ったら
ようは普通の電話を有線の電話線につないで報告するのですね('ω')
切符は手売り、貨物は殆ど車扱いのバラ積みか・・・
切符が自動販売でなかった世代から一言。お釣りを渡すとき注目してもらいたいのは客に確認しやすいようにサーっと横一列に並べるのが基本でした。
交通博物館で見ました。懐かしいです。
スハフ34775(1分28秒あたり)→この映像の2年後の昭和16年に行われた車輛称号規定改正で、オハフ33 56を経て更に電気暖房取付でオハフ33 2056となりました。
まだ赤い帯があった頃ですね。
13' 55" にでてくる、歌いながらの保線作業員
列車が到達するわずか10秒前まで、線路上でツルハシをふるうのはなぜ?
命がけのガマン大会/度胸試し、みたいなもの?
中西雅彦 汽笛が聞こえて来るまで気づかなかったからでは無いでしょうか?
SL運転士の皆様、これからも頑張って下さいませ
しかし、SLの運転だけど、こんなに連係プレーがすごいとは❗
EF57は翌昭和15年製造開始だから、当時はEF55とEF56が最新鋭の電機だったんですね。
そして金属供出以前だから全てのカマが形式入りナンバープレートのはずなのに、なぜか8:32のD51 315の側面プレートには形式が入ってない?
Toshi Horrich
金属供出といえば、寺のつり鐘や神社の擬宝珠や校庭の鉄棒等々が、砲弾や薬莢に~持って行かれましたね。
線路つき固め音頭かぁ
そんなものもあったんだなぁ
恐らく、いつも同じ歌を歌いながらツルハシを振るといつでも同じ振りかぶり方、同じ振り下ろし方が出来て毎回の作業品質というか出来栄えがバッチリ揃うから列車の安全性が高まるのでしょう。優雅さだけでなく合理的とも言える。
うっかり「かんなわ」と読んでしまった…
EF55は3台しか製造されていないのによくこういう戦前戦後の記録映画に映るのは何故だろう。
この作品が制作された昭和14年当時の最新鋭電気機関車だったからでしょうね。
EF56やC57、同じ流線形C55も同じく昭和12年製造開始ですが、見た目があたかも新しい時代を象徴する姿である流線形の電気機関車ということ、そして首都圏を中心に運用されていたのでEF55を採用していたのではないでしょうか。
この時代にも鉄道マニアは居たのだろうか
勿論、模型マニアも 線路幅がタバコの箱の横位で牛乳パック位の電車ですよ、大きいので八畳間いっぱいに使って遊びました 昭和10年代製の赤さびになってます
いたが、警察特に特別高等警察のお方には理解されなかった(鉄道は兵器なりという考えから)そうです。実際従軍し名誉の負傷で除隊された人が昭和16年の夏に写真撮ったら到着地で特別高等警察のお出迎えを受けて、その人の立場からなあなあで済んだがこれ以上また何かあったら困るから帰宅してくれと懇願されたとか(プレスアイゼンバーンのレイルに連載されてる)。車番を控えるなど以ての外で、トイレで書くか学生だと勉強しているフリして書いていたとか。
もう戦後間もない時期にすべて廃車解体され一両も実物は残されてないC53が。映像でしか見られない。
tomyboys2001 さん
1両梅小路に保存されてる
なんとレトロな動画でせう
ゴミの量が半端ない(笑)
ムーミン現役時代
大昔から鉄道の雪対策は大変だったんだから
今の民営化したJRにそれをやらせたらそりゃ大変なことになるわな
戦前は鉄道利用が旺盛で、一貫して国鉄は黒字だった訳だけれども、乗客も荷主も 必ずしもサービスに満足していたとは限らないね。。。他の長距離輸送機関がひどく貧弱で、道路なんか都市部を一歩出れば劣悪な状態。特に多くの旧国境部分では戦後の高度成長期になってようやく十分な幹線道路が整備されるようになった(=それが在来線凋落の第一歩だった訳だけれど)。
世界でもこの頃は鉄道の時代だからねしょうがないね、ドイツとアメリカ以外は
夜行列車は高い。その前に絶滅危惧種か。けどムーンライトながらはありだなー。高速バス以外でいいと思った瞬間。
さういへば最近電車に乗つてゐない。
doromamire
ワタシクモ セウセウ ムカシニ テフキョリリョコウ シマシタ。
保線掛が~リットン調査団みたい?
チッキと言う荷扱いが有ったね
ムーミン機関車ですね🎵(^^)d。凄くかわいいねぇ~\(^^)/🎵。
EF55だ!懐かしい^^
これは相当昔の映像ですね!昭和63年ですかね
荷物の扱いが雑だな
弁当ゴミ多すぎwww
Itoh Syun 下車した後にゴミ箱の設置がなかったため、ゴミ屑類は寧ろ車中に放置することが推奨されていたそうです。こうすることで集中的にゴミ処理ができるという合理性が確認できますね。当時の日本国民の民度が低かったのではありませんよ。
この動画の主題から外れますが、そうすると、やはり「民度」なるものの見方自体が主観的で偏見に満ちたものであるのだとわかります
地元のシウマイ弁当の包装紙に、食べ終わった弁当ガラは床に置いておけとの注意書きが記載されていましたね。
@@lennonist9746 何とも合理的な
なんて読むの?
昔の鉄(てつ)です。
鉄輪(鐵輪 てつりん)と読むはずです
諸悪の根源労働組合幹部
国鉄復活をよろしくお願いいたします。