Розмір відео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показувати елементи керування програвачем
Автоматичне відтворення
Автоповтор
こういう動画が伸びるべきだと私は思います本当にどの動画も丁寧に作られていると思います
今川義元上洛説は何を今さら感がありましたが、室町幕府が戦国時代にも影響を与えていることはある意味目から鱗でした。中国の戦国時代の周と同じで日本の戦国時代も近畿はともかく各地で室町幕府抜きで各大名が争っていたイメージでしたがそれなりに室町幕府の存在感があったのですね。
むしろリアル歴史にこそロマンを感じてしまう
何でこんなに良い内容なのにあんまり伸びてないんだろう
こんなモンが伸びるわけねぇだろwwwハントーと同じDNAでホルホルしたがるレットーが根拠に基づいた文脈を受け入れるワケなかろうがwww俺たちは世界有数の戦闘民族でモンゴルすらも蹴散らし中世の時代にあって最先端のテクノロジーを独自に発展させる古のシュメール人の末裔2タ"ーーーほんまケーとジェーは瓜二つwww
すごく調べていて論理的で面白いです。ただ歴史好きでないと食いつきづらいのはあると思います。しかし、私は頑張って欲しいと常に思う
兵糧すら確保できない以上、今川義元が上洛しても、三好氏に勝てる可能性がない…
三好は四国から米を流してもらえば補給が早いしな...
義元公は桶狭間(田楽狭間)で即死したとかよく書かれるけど(奇襲ってのも相まって)、一説としては襲ってきた敵の指を切り落としたとか結構奮闘してるんだよね・・・。ただの公家気取りじゃなかったっていう話だし。小学校の時に読んだ桶狭間の戦いっていう本では少しは抵抗してたな。
公家気取りって考え方がもうダメな気がする
現代において今川義元上洛説が信じられている理由として、司馬遼太郎が三好長慶を軽く扱ったのも一端にあると思います。最近は見直されてますが高齢の司馬世代の方だとまだまだ三好家を軽く扱ってる人が多い印象です。
こちらの動画でも説明されてるように桶狭間その他で織田軍を破りそのまま尾張を通過して京まで進撃はあり得ないでしょうが、織田家を滅亡或いは尾張から追い出して尾張を今川領として信長と同じように美濃を併合すれば浅井氏等の大名も同盟を検討するようになり三好氏と戦うのも可能なのでは。勿論一朝一夕には出来ませんからその間に今川記を補強するような史料を創作する等思想戦も展開する。このような意味の上洛は今川義元も考えていたのでは。桶狭間ではまず打倒織田家に集中していたでしょうが。
京に行った後の説明がおかしすぎて 草生える 普通に考えれば上洛しても目的が漠然としすぎて苦労していったとしても何の得にならないもんな。
当時小学生ながら社会の資料集の勢力図を見てどうやって今川が天下に号令かけるのか不思議だったけどやっぱり無理よね笑
うぽつです。大高城と鳴海城の後詰作戦だからね。
こうして見ると、歴史ってのはつまらない事どうでもいい事ちょっとした偶然の積み重ねなんだなと思う
上洛説を信じてましたわ。情報の鵜呑みは危険だと改めて思った。
でも大河より牛一が面白くなってしまうという信長による室町幕府滅亡のような矛盾した結果になりますます歴史って面白いなってなる
ハンニバル的に畿内をウロウロしながら三好と戦い続ける今川義元…なんかワクワクする設定だなw誰か書いてくれないかなw
上洛(無論軍事力を背景)って事になるならかなり綿密にやらないとって部分もありますし、今川は吉良の分家ですから最低でも吉良氏を立てるかまたはその将軍継承出来そうな人の中から立てるかしないと名分無しになりますからね。でも、こういう話って昔民放が正月にやっていた時代劇SPとかの題材にはうってつけだったから広まったのかもしれないですね。
ちなみに今年の大河はどうゆう理由にするのかな?
自分が戦国時代に興味を持った頃は、畿内の諸大名や幕府は内政を省みず政争に明け暮れていて兵が弱い しかし畿内から離れた地方大名はいち早く戦国大名へと変貌し独自の領国経営で力を蓄え、また隣国との戦で鍛え上げられた強兵を持つだから隣国とのゴタゴタさえなければいつでも上洛する腹積もりはあった今川の上洛は三国同盟が成立し隣国との問題が解決したから挙兵した という説が幅を効かせていた記憶がある今、思うとかなりのとんでも論ですね
三好長慶をどんだけ軽視していたんだとー当時は中央政治の研究にほとんど無関心だったのかなあこれ
今川が上洛云々なら二代続けて大軍地方から引っ張って上方戦局ひっくり返してノケタ大内の上洛の方が現実味があるのに……公家枠なのになぜ差がある大内義隆
いつもありがとうございます上洛云々言われるのは「今川が足利一門である」ということが大きいんでしょうね戦国時代好きの人は9割9分が足利氏内での家格において今川がそれほど高くないことを知らないでしょうし故にこんな俗説が蔓延ってしまったんでしょうな
@@太田うしいち 室町のシステムはだんだんわかってきても、いわゆる家格まで目がいくのは少ないとしか……そー思えば敢えて幕府本体から距離をおきぎみだった大内義興なり三好長慶なりノッブの動きだってかなり共通点見えてくるのですがね
大内義興「呼んだ?」
5:10 あと、軍事学講義の教科書に載るレベルの屈指のなまはげさんはお願いですから本来の目的を達成して下さい。
三好長慶「私の動員兵力は六万です。無論、皆様に全力をぶつける気はないのでご安心下さい」
来年については初回「義元〇す」征夷スタンバイ!になるとかならないとか...
○瀬○庵「上洛やで~っていうた方が盛り上がるやん!」
服部友定の率いる軍艦を使って上洛を考えていたって話も聞いたことあるけど…流石に荒唐無稽すぎる。
そうです。家臣、領民が良く働いてくれているので、ご褒美としての京都旅行です。福利厚生の一環なんですよ、求人にも影響あるし。この時代、当主も色々大変なんです。織田君もさぁ、同業者なんだから、その辺分かってくれよな。
今川さんうちの領内通らないでくださいよ〜今川さんが社員総出で京都旅行なんてして、うちの社員がそれを見たらみんな京都行こって言い出しちゃってめんどくさいんですよ...だからついやっちゃいましたそれにしても今川さんは大企業だし日本一のサッカークラブも持ってるし安泰だと思ってたんすけど、結構苦労してるんですね
子供の頃、義元は長慶を倒して京に入るつもりだったと、本気で思ってましたねw
子供の頃に三好長慶を認識しているだけ凄いと思いますよ
上洛自体が虚構だったんですか?ビックリしました。
今川義元「いや、尾張を攻めると決めた際に、『尾張を取れたら都も近くなる』とだけ言ったら皆が”上洛”と勝手に勘違いしたんよ…士気も上がってたんで否定するのも野暮だし尾張取ってから説明しなおそうと思ってたら…ああなっちゃった…」
今川義元「今思うと早めに否定すべきだった、皆浮足立って他所行きの戦してたし」
武田信玄のアレは上洛なんでしょうか。家康をスルーしたのが上洛っぽいですけど、その矢先に死んじゃってます。長生きしてたら、あそこからどういう戦略をとっていたのか気になります。
武田家の兵力も微妙。せいぜい2万5000.本願寺、朝倉氏、浅井氏、毛利氏など、複数の勢力が同時に攻め上らないと、織田氏に勝てない。
上洛説は信じていないけど、足利が絶えるとき吉良が継ぎ、吉良が絶えるとき今川が継ぐはあり得ると思っていたと言っても鎌倉時代だけど鎌倉時代は吉良も斯波も足利を名乗っていた家ですよね細川などは家臣ですから
尾張にある今川方の鳴海、大高の2城への後詰めの進軍という説があり、この方がまだ合理的と思います。伊勢湾海運への進出、知多半島の制圧(当時の戦略物質、木綿の生産地だとか)に、良い位置にあるし。織田も出てくるから、ヨシ叩いてやれと。京都なんてとても無理ですね。
先の小豆坂の合戦で織田勢力を三河から退かせたけど最前線の鳴海城が付け城戦略で苦しんでるしまあ織田家が内紛でまだ軍事力蓄えられる前に叩いた方が賢明、とかそれくらいの気持ちだったと思いますねえ織田と今川は先代の信秀の頃から戦っていたとか信秀に今川傍流のものが斯波氏統治時代でもずっと持っていた那古野城を謀略で落とされたことがあるとか前史も踏まえた上で改めて桶狭間を見ないとと思う所です
別建てでブックレビューまとめ動画も作ってくれると書店や図書館で探しやすくて便利なんだが。
この出兵にあたって、今川義元が「三河守」補任を受けているらしいですが…。この十数年前、西三河を勢力下にした織田信秀も「三河守」補任してた。信長が相続した那古野は元来今川分家領で、永正年間(1512年)、遠江進出に固執した斯波義達を大敗させた義元父・氏親が義達との和議で親族・氏豊に相続させた。これを信秀が騙し打ちして奪った(1532年)。1560年頃、氏豊は駿遠で保護されていたらしいですが。
最近の信長の野望をやってると三好がマジで強敵だからなぁ兵力とか人口の面で。史実だとマジで強いし、武田も鬼のいぬ間にと今川領取りかねないし・・・(実際駿河一時期取ったし・・・)上洛というよりは周辺の地固めで織田にとどめを刺す的な出陣の方が説明がつく
ハンニバルは出る番組間違っているよ。大河ドラマにゴジラが出てくるようなものが史実とはやっぱり色々おかしい。
戦国大名はみんな天下に大号令をかけるために京都を目指す…みたいな話を最初に広めた人は誰なのだろう?昔の子供向けの本なんかでは大体がそのような内容だったけど、全く意味不明だなと子供の頃思ってた。
義元は確かに死にましたが、城之内は厳密には死んでませんw
なお今年は戦死シーンすら省かれた模様
ほあエモン「信長公記には見せ場が少ないと思うんだよね(古文書に残る元祖牛一さんディスり」のあのWきっと胸の四次元ポケットには、たくさんの作り話の種がはいってる
信長や大内義興のように足利将軍家の人間を奉じているわけでも無いしなぁ~。京都に行っても軽く扱われて終わりそう。
コメントありがとうございます仰るように足利将軍家の人間を推戴しないと無理ですわなこれを補うために「今川が将軍になれる家格だ!!」というデマカセが横行しているんでしょうな実態は家格が全く足りていませんが…
足利義輝が今川義元に手紙だし義元が大義名文得たとしても三好長慶にバレるしな
そもそも今川じゃ雑魚すぎて…
平氏を名乗る織田が頼朝に忠誠誓っていきのびた足利の分家の分家の今川のクーデターで当主についた五男の侵攻に対して 頼朝生誕の地の熱田神宮に集合参拝して迎撃成功してるのがすごいw
上洛説は漢籍の影響を感じますね。南北朝とか春秋とか。洛陽が群雄ホイホイ過ぎて天下云々も、あまり日本的じゃない気がしますというか今川さん、守護不入を無視して地域の独立的支配を進めていたし、幕府とつるむ理由めっちゃ少ない人よね
なんか、幕末の島津久光の上洛を彷彿とさせる義元上洛説。生麦事件的な何かを起こしてたかも
素朴な疑問ですが、2万だか4万の兵力で上洛して、本国の守りはどうすんの?北条氏はいいとして、武田は絶対攻めると思うんだが。
その頃は武田と北条と今川は三国同盟してますよ
@@やーうえい そういうの破りそうやん
@@kenohzu5518 信虎人質にしてるからいけるやろ理論とかどう実際攻めてきたけど
@@KK-xn4cm 追い出したんだしw
今川が主人公の話が少なすぎる。北条も。信玄・謙信目立ちすぎ。
足利義輝が今川義元に打倒三好長慶の手紙だして義元が受け取ったと仮定無理あるしな義輝の短絡的からやらかしそうだが
守護代ごとき織田この野郎!が今川の本心じゃねぇかな?そもそも斯波守護時代ですら尾張領有の野心持ってて何度もぶつかってるし。
歴史は修正されてはならないが、その認識や理解は修正され得るという事ですね。で結局今川は何がしたかったのですか?
未だに上洛説を信じている人がいるんですね。確か風林火山辺りからは、単に豊かな尾張を征服しに行って桶狭間でやられた設定だったかと思いますが。
上洛するなら道中の大名を説得しなきゃならないしな〜。 どのみち、パルチザン六角がヒャハー蜂起は定期
コメントありがとうございます六角が蜂起したら織田とは比べ物にならないダメージはうけそうですよね
歴史修正主義者・陰謀論者は「無いことを証明しろ」と煩いです(笑)
従来は上洛説が多かったのですが、最近は尾張併合説の方が有力になっているようです隣国が武田、北条という有力大名なので本国を長期間留守にするのは危険過ぎますから
義教とか義稙とか義輝とか義昭とか(尊氏とか直義とか直冬とか義詮とか義政とか義尚とかとか)足利氏は変わり者ばかりで楽しいな性格(性質が歴史に直で影響してしまうダイナミック政権。
動画の本筋とは関係ないですが、桶狭間の戦い、というか今川の尾張侵攻って何を目標にしていたんでしょうね。織田家壊滅を目指していたのか、国境の数城を取りたかっただけなのか。尾張衆の調略とか寝返りを今川は仕掛けていなかったのか? 敵地に踏み込むのに織田主力の動静を探る努力をしなかったのか? 結果だけが大きく伝わって大敗に至る経緯がいまいち納得いきません。本当に神がかった信長采配による奇襲の成功なのか、たまたま織田主力が突撃したのが義元本陣で偶然大将首を挙げたのか。最近はどんな説が出ているのでしょうか?
確かにいろいろ説ありますよね。・迂回して本陣突くか迂回攻撃説(今川義元がいる場所知ってた)・正面からやってやるぜ正面攻撃説(豪雨で視界が悪いところに突撃)・軍勢2つに分けてやるか別動隊説(正面と背後からの奇襲)ついでに今川軍が尾張に侵攻した説は今のところ・天下取るための上洛説・一時期尾張守護をしていたための旧領回収説・とりあえず領土確保したいから領土拡大説ですかねえ。他に説があるなら知りたいです。
今川義元公はやはり平野が多く、土地が豊かで交易が盛んな港がある尾張が欲しかったのでしょう。それに尾張侵攻はそろそろ、織田を潰す良い機会だと思ったのでしょう。太田さんの動画には脱帽です。
東海一の弓取り駿遠三・3か国の太守といってるけど 実態は尾張半国の織田と稼ぎは変わらん。そして織田半国の織田に西三河は荒らされてる。義元の上洛作戦は実態は尾張侵攻侵略作戦。織田の領地が欲しいというのはあるけど大原雪斎(先代コロしてクーデター起こして義元を強引に当主につけ今川をでかくした実力者)の死亡で今川の方針決められる人がいなくなり 雪斎いなくても義元がきめれば何でもかなうんだぞ?と自ら陣頭に立ち全戦力で尾張侵攻したってことかな。そして織田的には義元を打ち取った話はでかくしたほうがおいしいので 三国の太守とか東海一の弓取りとか義元を偉大な人として扱い、その侵攻作戦も隣国同士のいつもの戦争でなく 上洛作戦!というでかい目的を少数でつぶした!!!と宣伝したほうが織田の株が上がる。そんなシナリオです。
今川義元が桶狭間時点で直接上洛したいと思っていたとは欠片も思わないのですが、信長のことはガチで警戒していたのは伺えるんですよね。 義元は出兵までに自国内の街道を1年かけて整備し、軍を出発させてから、尾張に迫るまでは秀吉の中国大返しを上回るほどの速度で進撃しています。今川領の石高から考えて、2万5千でも全力の動員、4万だと自国が滅亡する危機レベルの根こそぎ動員ですから、俗説のように信長のことを侮っていたとは到底思えません。ちなみに信長も最大動員すれば1万5千~7千くらい集められるはずなので、齋藤などへの備えもありますが、今川の進撃が速すぎて2千~3千程度しか動かせなかったという辺りで、今川軍の戦略的奇襲は成功しているのですよね。 余談はさておき、今川が上洛に全く関心がなかったかまでは、わかりません。今川軍が首尾よく尾張を征服したなら、そこで初めて中央に干渉できる軍事力になると思われます。この時期の三好長慶は確かに巨大な力を持っていますが、畠山高政と六角義賢はそれに反発していますから、義元からすれば彼らは敵側には見えないでしょう。実際、畠山高政は1560年11月13日に三好軍により高屋城を占領されていますが、同年5月の桶狭間で今川が勝利していた場合、今川軍は畠山や六角を味方につけるために、三好を牽制する可能性もあります。 畠山高政は、高屋城を占領されても力を失わず、1562年の久米田の戦いでは1~3万の兵を動員して三好軍と戦い、勝利しています。足利義輝は中尾城の戦いや相国寺の戦い、北白川の戦いで三好長慶と戦っていますし、暗殺も試みています。義輝は可能なら長慶を排除したいと考えていると義元からは見えるでしょう。 義元が「尾張を占領したら、それ以降は畠山と六角を味方に付けて三好長慶に対抗し、上洛して義輝を庇護する立場になれば、天下に号令がかけられる」と考えていても不思議はありません。これはもちろん、義元自身が将軍になるという意味ではありませんので、義元の家格は関係ないものと思われます(今川は畠山以下、六角と同等かやや下ではありますが。細川家臣だった三好氏よりも家格は上ですし、そこは実力で乗り切れると考えたのではないかと思われます)。義元は足利義輝の父・義晴より偏諱を賜った身でもありますし、将軍家に敵対的とは思えないです。桶狭間後に、足利義輝は氏真と松平元康の紛争を調停していますし、氏真を相伴衆に任じてもいます。一定の関係性が義元の時代よりあったものと思われます。 三好軍が6万の最大動員兵力を持っていたとしても、義元が尾張も含めれば4万以上、畠山高政だけで1~3万ですから、畠山・六角が味方になれば対抗できると考えても不思議はありません。補給についても、尾張は穀倉地帯です。義元も信長も街道整備に熱心でしたから、ここを固めたなら、兵糧の心配はあまりないように思います。実際、信長は尾張と美濃で6万とも言われる大軍を動員して上洛しています。
ほあんしんちょうきぃぃ
昔は今川義元は上洛しようとしてて、北条早雲(伊勢宗瑞)は出自も不明な浪人で、斎藤道三も油商人から成り上がったんだよね。全部否定されてるし、そりゃそうだろうって感じだけど、浪漫はこっちの方があるね。
こちらの収益化停止はなしですか?
まぁ今川家は祖父の義忠もアレだしトチ狂って上洛した可能性も……
日本の歴史学者は本当に質が悪いな。こんな根拠のない説をずっと放置してきたんだね。
上洛はするけど、あくまで少数で行く。その前に将軍に拝謁するための手土産として尾張を平定するってとこじゃないのかな?それがいつの間にか上洛の言葉だけが独り歩きした・・・こんなとこでしょうな。
一般人感覚では、斎藤も六角も北畠も、その後に待つ三好も一吹きで消し飛ぶ雑魚だと思うけどな。特に六角と北畠に関しては、マジである程度の造詣がないとその強さはわからない。というか三好長慶に関しても「誰それ?弱そう」ってなるわけで……。まあこのチャンネルのコンセプト的には、そこまで知らない人向けじゃないのは一目瞭然し気に入ってるチャンネルのひとつだが……知識が貧弱な初心者を本格的に見捨てる物言いが少々引っかかったのでちょっと言わせてもらった。
今川義元は将軍足利義輝の招き(三好長慶と講和し、将軍職に復帰)により、上洛を志したと考えられています。事実、前年に織田信長は五百の兵をつれて上洛し将軍と会っています。上杉謙信も2千の兵を連れて(兵は大津止まり)上洛し将軍にお祝いの挨拶をしています。翌年に、京都で行列に使う華やかな武具(宗三左文字の太刀)や塗り輿を準備し、京で暫く滞在できる準備(かって大内氏が兵と上洛し管領代として滞在した。)をして、今川義元も上洛(将軍の了解・要請のもと)を目指したと考えられます。その今川軍を奇襲攻撃し、全滅させるなど、とんでもないことです。将軍の面目は丸つぶれ、どこの大名も将軍を見限り、三好一族に殺されてしまいました。桶狭間の戦いで一番喜んだのは三好長慶です。この時の宗三(三好氏)左文字の名刀は天下人、信長、秀吉、秀頼、家康、秀忠、家光・・・と伝わり、『天下取りの大名物刀、義元左文字、重要文化財』として現代に伝えられています。一地方の戦いに、天下の名刀や塗輿を準備するような武将は居ませんよ。『信長公記』の表面的な記述だけでは、理解が困難です。『上洛説」は現在においても正しいと信じます。今川義元は天下取りを志した立派な武将であったとおもいます。不幸にも、隣の国に「とんでもない常識はずれの武将がいた。」と言うことです
言っとくけど歴史マニア向けに大河ドラマはできてないし歴史日常識人向けなんだから何言っても無駄だと思う私は大河ドラマにハナっから興味ないし大河ドラマに絡ませるだけでナンセンス
それを否定するなら、なにが事実かまで述べてくれないと楽しくは無いのよね。今川義元が桶狭間で死亡したのは事実なのか。何故そこへ出向いたのか。という点が。今川には松平(家康)も従軍してたのは事実なのか。では織田は何故そんな今川義元を討ち取るところまでする気になったのか。その後の家康との協調性のある動きを見ると、何かあったんだろうナァとは思うけれど。
【信長の野望 全国版】しか歴史知識が無い人なら今川治部の上洛説を熱く推すのでは?
こういう動画が伸びるべきだと私は思います
本当にどの動画も丁寧に作られていると思います
今川義元上洛説は何を今さら感がありましたが、室町幕府が戦国時代にも影響を与えていることはある意味目から鱗でした。中国の戦国時代の周と同じで日本の戦国時代も近畿はともかく各地で室町幕府抜きで各大名が争っていたイメージでしたがそれなりに室町幕府の存在感があったのですね。
むしろリアル歴史にこそロマンを感じてしまう
何でこんなに良い内容なのにあんまり伸びてないんだろう
こんなモンが伸びるわけねぇだろwww
ハントーと同じDNAでホルホルしたがるレットーが根拠に基づいた文脈を受け入れるワケなかろうがwww
俺たちは世界有数の戦闘民族でモンゴルすらも蹴散らし中世の時代にあって最先端のテクノロジーを独自に発展させる古のシュメール人の末裔2タ"ーーー
ほんまケーとジェーは瓜二つwww
すごく調べていて論理的で面白いです。
ただ歴史好きでないと食いつきづらいのはあると思います。
しかし、私は頑張って欲しいと常に思う
兵糧すら確保できない以上、今川義元が上洛しても、三好氏に勝てる可能性がない…
三好は四国から米を流してもらえば補給が早いしな...
義元公は桶狭間(田楽狭間)で即死したとかよく書かれるけど(奇襲ってのも相まって)、一説としては襲ってきた敵の指を切り落としたとか
結構奮闘してるんだよね・・・。ただの公家気取りじゃなかったっていう話だし。
小学校の時に読んだ桶狭間の戦いっていう本では少しは抵抗してたな。
公家気取りって考え方がもうダメな気がする
現代において今川義元上洛説が信じられている理由として、司馬遼太郎が三好長慶を軽く扱ったのも一端にあると思います。
最近は見直されてますが高齢の司馬世代の方だとまだまだ三好家を軽く扱ってる人が多い印象です。
こちらの動画でも説明されてるように桶狭間その他で織田軍を破りそのまま尾張を通過して京まで進撃はあり得ないでしょうが、織田家を滅亡或いは尾張から追い出して尾張を今川領として信長と同じように美濃を併合すれば浅井氏等の大名も同盟を検討するようになり三好氏と戦うのも可能なのでは。勿論一朝一夕には出来ませんからその間に今川記を補強するような史料を創作する等思想戦も展開する。このような意味の上洛は今川義元も考えていたのでは。桶狭間ではまず打倒織田家に集中していたでしょうが。
京に行った後の説明がおかしすぎて 草生える 普通に考えれば上洛しても目的が漠然としすぎて苦労していったとしても何の得にならないもんな。
当時小学生ながら社会の資料集の勢力図を見てどうやって今川が天下に号令かけるのか不思議だったけどやっぱり無理よね笑
うぽつです。大高城と鳴海城の後詰作戦だからね。
こうして見ると、歴史ってのは
つまらない事
どうでもいい事
ちょっとした偶然
の積み重ねなんだなと思う
上洛説を信じてましたわ。
情報の鵜呑みは危険だと改めて思った。
でも大河より
牛一が面白くなってしまうという
信長による室町幕府滅亡のような
矛盾した結果になり
ますます歴史って面白いなってなる
ハンニバル的に畿内をウロウロしながら三好と戦い続ける今川義元…
なんかワクワクする設定だなw
誰か書いてくれないかなw
上洛(無論軍事力を背景)って事になるならかなり綿密にやらないとって部分もありますし、今川は吉良の分家ですから最低でも吉良氏を立てるかまたはその将軍継承出来そうな人の中から立てるかしないと名分無しになりますからね。
でも、こういう話って昔民放が正月にやっていた時代劇SPとかの題材にはうってつけだったから広まったのかもしれないですね。
ちなみに今年の大河はどうゆう理由にするのかな?
自分が戦国時代に興味を持った頃は、畿内の諸大名や幕府は内政を省みず政争に明け暮れていて兵が弱い
しかし畿内から離れた地方大名はいち早く戦国大名へと変貌し独自の領国経営で力を蓄え、また隣国との戦で鍛え上げられた強兵を持つ
だから隣国とのゴタゴタさえなければいつでも上洛する腹積もりはあった
今川の上洛は三国同盟が成立し隣国との問題が解決したから挙兵した
という説が幅を効かせていた記憶がある
今、思うとかなりのとんでも論ですね
三好長慶をどんだけ軽視していたんだとー当時は中央政治の研究にほとんど無関心だったのかなあこれ
今川が上洛云々なら二代続けて大軍地方から引っ張って上方戦局ひっくり返してノケタ大内の上洛の方が現実味があるのに……公家枠なのになぜ差がある大内義隆
いつもありがとうございます
上洛云々言われるのは「今川が足利一門である」ということが大きいんでしょうね
戦国時代好きの人は9割9分が足利氏内での家格において
今川がそれほど高くないことを知らないでしょうし
故にこんな俗説が蔓延ってしまったんでしょうな
@@太田うしいち 室町のシステムはだんだんわかってきても、いわゆる家格まで目がいくのは少ないとしか……そー思えば敢えて幕府本体から距離をおきぎみだった大内義興なり三好長慶なりノッブの動きだってかなり共通点見えてくるのですがね
大内義興「呼んだ?」
5:10 あと、軍事学講義の教科書に載るレベルの屈指のなまはげさんはお願いですから本来の目的を達成して下さい。
三好長慶「私の動員兵力は六万です。無論、皆様に全力をぶつける気はないのでご安心下さい」
来年については初回「義元〇す」征夷スタンバイ!になるとかならないとか...
○瀬○庵「上洛やで~っていうた方が盛り上がるやん!」
服部友定の率いる軍艦を使って上洛を考えていたって話も聞いたことあるけど…
流石に荒唐無稽すぎる。
そうです。家臣、領民が良く働いてくれているので、ご褒美としての京都旅行です。福利厚生の一環なんですよ、求人にも影響あるし。この時代、当主も色々大変なんです。織田君もさぁ、同業者なんだから、その辺分かってくれよな。
今川さんうちの領内通らないでくださいよ〜
今川さんが社員総出で京都旅行なんてして、うちの社員がそれを見たらみんな京都行こって言い出しちゃってめんどくさいんですよ...だからついやっちゃいました
それにしても今川さんは大企業だし日本一のサッカークラブも持ってるし安泰だと思ってたんすけど、結構苦労してるんですね
子供の頃、義元は長慶を倒して京に入るつもりだったと、本気で思ってましたねw
子供の頃に三好長慶を認識しているだけ
凄いと思いますよ
上洛自体が虚構だったんですか?ビックリしました。
今川義元「いや、尾張を攻めると決めた際に、『尾張を取れたら都も近くなる』とだけ言ったら皆が”上洛”と勝手に勘違いしたんよ…士気も上がってたんで否定するのも野暮だし尾張取ってから説明しなおそうと思ってたら…ああなっちゃった…」
今川義元「今思うと早めに否定すべきだった、皆浮足立って他所行きの戦してたし」
武田信玄のアレは上洛なんでしょうか。
家康をスルーしたのが上洛っぽいですけど、その矢先に死んじゃってます。
長生きしてたら、あそこからどういう戦略をとっていたのか気になります。
武田家の兵力も微妙。せいぜい2万5000.本願寺、朝倉氏、浅井氏、毛利氏など、複数の勢力が同時に攻め上らないと、織田氏に勝てない。
上洛説は信じていないけど、足利が絶えるとき吉良が継ぎ、吉良が絶えるとき今川が継ぐはあり得ると思っていた
と言っても鎌倉時代だけど
鎌倉時代は吉良も斯波も足利を名乗っていた家ですよね
細川などは家臣ですから
尾張にある今川方の鳴海、大高の2城への後詰めの進軍という説があり、この方がまだ合理的と思います。伊勢湾海運への進出、知多半島の制圧(当時の戦略物質、木綿の生産地だとか)に、良い位置にあるし。織田も出てくるから、ヨシ叩いてやれと。京都なんてとても無理ですね。
先の小豆坂の合戦で織田勢力を三河から退かせたけど
最前線の鳴海城が付け城戦略で苦しんでるし
まあ織田家が内紛でまだ軍事力蓄えられる前に叩いた方が賢明、とか
それくらいの気持ちだったと思いますねえ
織田と今川は先代の信秀の頃から戦っていたとか
信秀に今川傍流のものが斯波氏統治時代でもずっと持っていた那古野城を謀略で落とされたことがあるとか
前史も踏まえた上で改めて桶狭間を見ないとと思う所です
別建てで
ブックレビューまとめ動画も
作ってくれると
書店や図書館で探しやすくて
便利なんだが。
この出兵にあたって、今川義元が「三河守」補任を受けているらしいですが…。この十数年前、西三河を勢力下にした織田信秀も「三河守」補任してた。信長が相続した那古野は元来今川分家領で、永正年間(1512年)、遠江進出に固執した斯波義達を大敗させた義元父・氏親が義達との和議で親族・氏豊に相続させた。これを信秀が騙し打ちして奪った(1532年)。1560年頃、氏豊は駿遠で保護されていたらしいですが。
最近の信長の野望をやってると三好がマジで強敵だからなぁ兵力とか人口の面で。史実だとマジで強いし、武田も鬼のいぬ間にと今川領取りかねないし・・・(実際駿河一時期取ったし・・・)
上洛というよりは周辺の地固めで織田にとどめを刺す的な出陣の方が説明がつく
ハンニバルは出る番組間違っているよ。大河ドラマにゴジラが出てくるようなものが史実とはやっぱり色々おかしい。
戦国大名はみんな天下に大号令をかけるために京都を目指す…みたいな話を最初に広めた人は誰なのだろう?
昔の子供向けの本なんかでは大体がそのような内容だったけど、全く意味不明だなと子供の頃思ってた。
義元は確かに死にましたが、
城之内は厳密には死んでませんw
なお今年は戦死シーンすら省かれた模様
ほあエモン「信長公記には見せ場が少ないと思うんだよね(古文書に残る元祖牛一さんディスり」のあのW
きっと胸の四次元ポケットには、たくさんの作り話の種がはいってる
信長や大内義興のように足利将軍家の人間を奉じているわけでも無いしなぁ~。京都に行っても軽く扱われて終わりそう。
コメントありがとうございます
仰るように足利将軍家の人間を推戴しないと無理ですわな
これを補うために「今川が将軍になれる家格だ!!」という
デマカセが横行しているんでしょうな
実態は家格が全く足りていませんが…
足利義輝が今川義元に手紙だし
義元が大義名文得たとしても
三好長慶にバレるしな
そもそも今川じゃ雑魚すぎて…
平氏を名乗る織田が頼朝に忠誠誓っていきのびた足利の分家の分家の今川のクーデターで当主についた五男の侵攻に対して 頼朝生誕の地の熱田神宮に集合参拝して迎撃成功してるのがすごいw
上洛説は漢籍の影響を感じますね。
南北朝とか春秋とか。洛陽が群雄ホイホイ過ぎて
天下云々も、あまり日本的じゃない気がします
というか今川さん、守護不入を無視して地域の独立的支配を進めていたし、幕府とつるむ理由めっちゃ少ない人よね
なんか、幕末の島津久光の上洛を
彷彿とさせる義元上洛説。
生麦事件的な何かを起こしてたかも
素朴な疑問ですが、2万だか4万の兵力で上洛して、本国の守りはどうすんの?
北条氏はいいとして、武田は絶対攻めると思うんだが。
その頃は武田と北条と今川は
三国同盟してますよ
@@やーうえい そういうの破りそうやん
@@kenohzu5518 信虎人質にしてるからいけるやろ理論とかどう
実際攻めてきたけど
@@KK-xn4cm 追い出したんだしw
今川が主人公の話が少なすぎる。北条も。信玄・謙信目立ちすぎ。
足利義輝が今川義元に打倒三好長慶の手紙だして義元が受け取ったと仮定無理あるしな
義輝の短絡的からやらかしそうだが
守護代ごとき織田この野郎!が今川の本心じゃねぇかな?
そもそも斯波守護時代ですら尾張領有の野心持ってて何度もぶつかってるし。
歴史は修正されてはならないが、その認識や理解は修正され得るという事ですね。で結局今川は何がしたかったのですか?
未だに上洛説を信じている人がいるんですね。
確か風林火山辺りからは、単に豊かな尾張を征服しに行って桶狭間でやられた設定だったかと思いますが。
上洛するなら道中の大名を説得しなきゃならないしな〜。
どのみち、パルチザン六角がヒャハー蜂起は定期
コメントありがとうございます
六角が蜂起したら織田とは比べ物にならないダメージはうけそうですよね
歴史修正主義者・陰謀論者は「無いことを証明しろ」と煩いです(笑)
従来は上洛説が多かったのですが、最近は尾張併合説の方が有力になっているようです
隣国が武田、北条という有力大名なので本国を長期間留守にするのは危険過ぎますから
義教とか義稙とか義輝とか義昭とか
(尊氏とか直義とか直冬とか義詮とか
義政とか義尚とかとか)
足利氏は変わり者ばかりで楽しいな
性格(性質が歴史に直で影響してしまう
ダイナミック政権。
動画の本筋とは関係ないですが、桶狭間の戦い、というか今川の尾張侵攻って何を目標にしていたんでしょうね。織田家壊滅を目指していたのか、国境の数城を取りたかっただけなのか。尾張衆の調略とか寝返りを今川は仕掛けていなかったのか? 敵地に踏み込むのに織田主力の動静を探る努力をしなかったのか? 結果だけが大きく伝わって大敗に至る経緯がいまいち納得いきません。本当に神がかった信長采配による奇襲の成功なのか、たまたま織田主力が突撃したのが義元本陣で偶然大将首を挙げたのか。最近はどんな説が出ているのでしょうか?
確かにいろいろ説ありますよね。
・迂回して本陣突くか迂回攻撃説(今川義元がいる場所知ってた)
・正面からやってやるぜ正面攻撃説(豪雨で視界が悪いところに突撃)
・軍勢2つに分けてやるか別動隊説(正面と背後からの奇襲)
ついでに今川軍が尾張に侵攻した説は今のところ
・天下取るための上洛説
・一時期尾張守護をしていたための旧領回収説
・とりあえず領土確保したいから領土拡大説
ですかねえ。他に説があるなら知りたいです。
今川義元公はやはり平野が多く、土地が豊かで交易が盛んな港がある尾張が欲しかったのでしょう。それに尾張侵攻はそろそろ、織田を潰す良い機会だと思ったのでしょう。
太田さんの動画には脱帽です。
東海一の弓取り駿遠三・3か国の太守といってるけど 実態は尾張半国の織田と稼ぎは変わらん。そして織田半国の織田に西三河は荒らされてる。義元の上洛作戦は実態は尾張侵攻侵略作戦。織田の領地が欲しいというのはあるけど大原雪斎(先代コロしてクーデター起こして義元を強引に当主につけ今川をでかくした実力者)の死亡で今川の方針決められる人がいなくなり 雪斎いなくても義元がきめれば何でもかなうんだぞ?と自ら陣頭に立ち全戦力で尾張侵攻したってことかな。そして織田的には義元を打ち取った話はでかくしたほうがおいしいので 三国の太守とか東海一の弓取りとか義元を偉大な人として扱い、その侵攻作戦も隣国同士のいつもの戦争でなく 上洛作戦!というでかい目的を少数でつぶした!!!と宣伝したほうが織田の株が上がる。そんなシナリオです。
今川義元が桶狭間時点で直接上洛したいと思っていたとは欠片も思わないのですが、信長のことはガチで警戒していたのは伺えるんですよね。
義元は出兵までに自国内の街道を1年かけて整備し、軍を出発させてから、尾張に迫るまでは秀吉の中国大返しを上回るほどの速度で進撃しています。今川領の石高から考えて、2万5千でも全力の動員、4万だと自国が滅亡する危機レベルの根こそぎ動員ですから、俗説のように信長のことを侮っていたとは到底思えません。ちなみに信長も最大動員すれば1万5千~7千くらい集められるはずなので、齋藤などへの備えもありますが、今川の進撃が速すぎて2千~3千程度しか動かせなかったという辺りで、今川軍の戦略的奇襲は成功しているのですよね。
余談はさておき、今川が上洛に全く関心がなかったかまでは、わかりません。今川軍が首尾よく尾張を征服したなら、そこで初めて中央に干渉できる軍事力になると思われます。この時期の三好長慶は確かに巨大な力を持っていますが、畠山高政と六角義賢はそれに反発していますから、義元からすれば彼らは敵側には見えないでしょう。実際、畠山高政は1560年11月13日に三好軍により高屋城を占領されていますが、同年5月の桶狭間で今川が勝利していた場合、今川軍は畠山や六角を味方につけるために、三好を牽制する可能性もあります。
畠山高政は、高屋城を占領されても力を失わず、1562年の久米田の戦いでは1~3万の兵を動員して三好軍と戦い、勝利しています。足利義輝は中尾城の戦いや相国寺の戦い、北白川の戦いで三好長慶と戦っていますし、暗殺も試みています。義輝は可能なら長慶を排除したいと考えていると義元からは見えるでしょう。
義元が「尾張を占領したら、それ以降は畠山と六角を味方に付けて三好長慶に対抗し、上洛して義輝を庇護する立場になれば、天下に号令がかけられる」と考えていても不思議はありません。これはもちろん、義元自身が将軍になるという意味ではありませんので、義元の家格は関係ないものと思われます(今川は畠山以下、六角と同等かやや下ではありますが。細川家臣だった三好氏よりも家格は上ですし、そこは実力で乗り切れると考えたのではないかと思われます)。義元は足利義輝の父・義晴より偏諱を賜った身でもありますし、将軍家に敵対的とは思えないです。桶狭間後に、足利義輝は氏真と松平元康の紛争を調停していますし、氏真を相伴衆に任じてもいます。一定の関係性が義元の時代よりあったものと思われます。
三好軍が6万の最大動員兵力を持っていたとしても、義元が尾張も含めれば4万以上、畠山高政だけで1~3万ですから、畠山・六角が味方になれば対抗できると考えても不思議はありません。補給についても、尾張は穀倉地帯です。義元も信長も街道整備に熱心でしたから、ここを固めたなら、兵糧の心配はあまりないように思います。実際、信長は尾張と美濃で6万とも言われる大軍を動員して上洛しています。
ほあんしんちょうきぃぃ
昔は今川義元は上洛しようとしてて、北条早雲(伊勢宗瑞)は出自も不明な浪人で、斎藤道三も油商人から成り上がったんだよね。全部否定されてるし、そりゃそうだろうって感じだけど、浪漫はこっちの方があるね。
こちらの収益化停止はなしですか?
まぁ今川家は祖父の義忠もアレだしトチ狂って上洛した可能性も……
日本の歴史学者は本当に質が悪いな。こんな根拠のない説をずっと放置してきたんだね。
上洛はするけど、あくまで少数で行く。
その前に将軍に拝謁するための手土産として尾張を平定するってとこじゃないのかな?
それがいつの間にか上洛の言葉だけが独り歩きした・・・こんなとこでしょうな。
一般人感覚では、斎藤も六角も北畠も、その後に待つ三好も一吹きで消し飛ぶ雑魚だと思うけどな。
特に六角と北畠に関しては、マジである程度の造詣がないとその強さはわからない。
というか三好長慶に関しても「誰それ?弱そう」ってなるわけで……。
まあこのチャンネルのコンセプト的には、そこまで知らない人向けじゃないのは一目瞭然し気に入ってるチャンネルのひとつだが……知識が貧弱な初心者を本格的に見捨てる物言いが少々引っかかったのでちょっと言わせてもらった。
今川義元は将軍足利義輝の招き(三好長慶と講和し、将軍職に復帰)により、上洛を志したと考えられています。事実、
前年に織田信長は五百の兵をつれて上洛し将軍と会っています。上杉謙信も2千の兵を連れて(兵は大津止まり)上洛し将軍にお祝いの挨拶をしています。翌年に、京都で行列に使う華やかな武具(宗三左文字の太刀)や塗り輿を準備し、京で暫く滞在できる準備(かって大内氏が兵と上洛し管領代として滞在した。)をして、今川義元も上洛(将軍の了解・要請のもと)を目指したと考えられます。その今川軍を奇襲攻撃し、全滅させるなど、とんでもないことです。将軍の面目は丸つぶれ、どこの大名も将軍を見限り、三好一族に殺されてしまいました。桶狭間の戦いで一番喜んだのは三好長慶です。この時の宗三(三好氏)左文字の名刀は天下人、信長、秀吉、秀頼、家康、秀忠、家光・・・と伝わり、『天下取りの大名物刀、義元左文字、重要文化財』として現代に伝えられています。一地方の戦いに、天下の名刀や塗輿を準備するような武将は居ませんよ。『信長公記』の表面的な記述だけでは、理解が困難です。『上洛説」は現在においても正しいと信じます。今川義元は天下取りを志した立派な武将であったとおもいます。不幸にも、隣の国に「とんでもない常識はずれの武将がいた。」と言うことです
言っとくけど
歴史マニア向けに大河ドラマはできてないし
歴史日常識人向けなんだから何言っても無駄だと思う
私は大河ドラマにハナっから興味ないし
大河ドラマに絡ませるだけでナンセンス
それを否定するなら、なにが事実かまで述べてくれないと楽しくは無いのよね。今川義元が桶狭間で死亡したのは事実なのか。何故そこへ出向いたのか。という点が。今川には松平(家康)も従軍してたのは事実なのか。では織田は何故そんな今川義元を討ち取るところまでする気になったのか。その後の家康との協調性のある動きを見ると、何かあったんだろうナァとは思うけれど。
【信長の野望 全国版】しか歴史知識が無い人なら今川治部の上洛説を熱く推すのでは?