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冒頭の宮原客車区に、サロンカーなにわとサロンエクスプレス東京が並んでいる画像にも目を惹きつけられました。子供の頃、リアルタイムでニュースを見ていましたが、かなり衝撃的でしたね。みやびの後継で12系と中間のサロンカーに14系寝台車を種車にした、あすかが製作されましたね。
あの事故は忘れられないです。餘部の景色を見る度に思い出します。犠牲になった方々の御冥福をお祈りします。
まさか、通過中の列車が転落するとは! 作業中だから、逃げられない恐怖!
強風時の運行ルール強化のキッカケとなりました。その後の餘部鉄橋、瀬戸大橋線や湖西線での強風による速度制限が決められて、大きな事故が発生していないことに活かされています。これから先も事故が起こりませんように。
まさに悲劇のジョイフルトレイン・・・
3:49 津山にいるDD51型1187号機。事故当時の当該牽引機だったのが気の毒だと感じましたが、2003年に山口線と山陰本線でお召し列車を牽引していた栄光の機関車とも感じられます。
14系ていろんな形に改造されてるけど、それだけ汎用性が高い便利屋だったのかな!ブルートレインの時普通にかっこよかったしな!
事故の影響なのかメーカーでは模型化されない車両でした個人で改造する人が少数居た位です
ある年の夏、大学の講義の歴史のレポートを書くため、中山道の馬籠、妻籠宿へ行き、帰りに南木曽駅で急行「ちくま」を待っていると、この列車が停まっていて、車内を見ると日本庭園が再現されていた。しかしその年の暮れ、バイトに励んでいた時、TVのニュースで転落事故を知り、何とも言えない気持ちになった。
運転取り止めてたら運命変わってたかもね、、
今まで余部鉄橋から列車が転落したなんて聞いた事が無かった。
@@ませあきたつさん、旧国鉄の時代から知ってるモンの間ではかなり有名な事故だよ。国鉄末期最大最悪の事故だったという…
怖い事故でしたよ
少なくともブルーリボン賞ローレル賞は取れてた可能性はあったかも
事故車の牽引機(DD51 1187)が津山に保存されているのも何かの縁を感じる。
餘部橋梁ではゴミや汚物など様々なものが降ってくることがあり、たまに紐なしバンジーを敢行する勇者もいたというみやびは鉄道友の会ブルーリボン賞にもノミネートされていたが、1年持たずに廃車となったので写真には黒いリボンがかけられていたそうな
忘れもしない1986年12月28日、「みやび」はその短い生涯にピリオドを打った。
あの事故以降、運転中止の判断が厳しくなって批判を浴びることも多くなりましたが、慎重になるのは止むなしだと思います。確か、この後責任を感じて自ら命を絶たれた方まで出たと記憶していますが、この事故の経験がその後の安全運行につながったことで、安心してくださっていると思いたいです。
当時大阪住んでたので衝撃だったんだけど、あの時期登場したジョイフルトレインの中で展望車が無かったので地味には感じてたなぁ
自然相手ではどうしようもないがもったいない事をした。当時の国鉄は悪条件下でも列車を出来るだけ走らせる事が義務のようになっていて少しでも条件が悪ければ運行停止する現在とは隔世の感があります。DD51が生き残ったのは重さ&断面積少ないゆえ。DD54だったら一緒に落ちていたかも。
阪急の初代京トレインにも箱庭が在りましたね。玉砂利を轢いた本格的な奴でした。
『みやび』によって運用終了となった81系お座敷車の中で、『播磨』だけはなぜか宮原区にいつまでも留置されていましたね。
余部鉄橋事故の被害客車ですね…、まさに悲劇の客車です😢。ただ、それが現代に活かされたのなら、それが救いです❤。
橋から転落した時に、乗客が乗ってたらどうなってたことか😭
「乗ってたら乗客の安全を考えて止めた」ので事故にならなかったのでは
事故の内容が衝撃的すぎる……亡くなった方にご冥福をお祈りします。
日本庭園仕様は阪急が引き継いでます😊
事故にあった「みやび」しか、知らなかった。こういう外観だったのは、初めて知った。車内に日本庭園があるのは、知らなかった。どういう配置だったのだろう。(石、砂の模様など)
お座敷列車 みやび で検索すると内装を映した動画がありますので、見た方が早いです。
@繁神名 さん動画の検索をしました。みやびの車内の日本庭園が、小さいけど、かなり本格的な感じで、びっくりです。教えていただきありがとうございます。
鉄橋が現役のうちに餘部に行った時、橋の下まで行って慰霊碑に黙祷しておいた。今はエレベーターがあるから楽に行けるが、当時は急坂の山道を降りて登ってと大変だった。
事故当時小学6年だった衝撃的な事故だったし、特急はまかぜ急行だいせん乗車時、餘部鉄橋を渡る時に事故をいつも思い出した。
こんなに頑張ったのに、、、
鷹取工場で改造された車輌だが旧高砂工場から移籍した職員が主体になり改造された。高砂工場にて改造されたサロンカーなにわが必ずしも良い出来ではなく現場から改善要求も出ていたので、みやびはリヴェンジの意気込みと民営化を直前に控えて技術をアピールする事で去就への最後の機会と捉える職員も少なくなかった。抑えた外観とはうらはらに内装は高級料亭を意識した豪華な意匠が多数盛り込まれた。そして民営化後も継承された悪癖である自爆営業のツアー商品に動員される。それまで散々冬季の季節風は吹いていたのに転落…この事故が山陰本線ひいては但馬地区のJRが輸送インフラとして地位を喪っていく事になる。
鉄橋からの事故といえば羽越本線特急いなほ号脱線事故を思い出します
蟹工場 列車転落 不稔の旅立ち (合掌!)
今おもうと不謹慎であるが、最初にニュースでこの事故の映像を見た時、橋の下で亡くなった方もいるのを知らず、登場して1年もたたないジョイフルトレインの無惨な姿にショックを受けた。改めて、この橋の下で暮らしていたばかりに命を落としてしまった方がのご冥福を祈るばかりです。これも亡くなられたには不謹慎になってしまうが、列車が回送で乗客が居なかったのは、不幸中の幸いだったと思います。
事故るまで1年もなかったとは知りませんでした。
この「みやび」…既に国鉄末期前年内にデビューしてその年内に事故廃車になったからあまり言いたくはないが…内装のあの、個別の座卓に一体としてあったバカデカいテレビ📺が、個人的にどうも好きになれず第一窓からの眺めを遮ってるとしか思えない…あのリクライニング座椅子も相まってなんだか究極の怠け者が乗る列車というイメージしか無かったなぁ…😅最大売りの中央のミニ庭園とやらも…なんか中途半端感は否めなかった…後継車両「あすか」の方が魅了溢れてた✊️✨️
今なら液晶モニターで済みますが、当時の技術ではこれがいっぱいです(汗)
世界一不幸な客車みやび…
確か、余部鉄橋から転落した車両でしたよねコレ。
カニが蟹工場に落ちたと話題になってたね
みやびにカニなんかないよ。座布団全部持っていって
冒頭の宮原客車区に、サロンカーなにわとサロンエクスプレス東京が並んでいる画像にも目を惹きつけられました。
子供の頃、リアルタイムでニュースを見ていましたが、かなり衝撃的でしたね。
みやびの後継で12系と中間のサロンカーに14系寝台車を種車にした、あすかが製作されましたね。
あの事故は忘れられないです。
餘部の景色を見る度に思い出します。
犠牲になった方々の御冥福をお祈りします。
まさか、通過中の列車が転落するとは! 作業中だから、逃げられない恐怖!
強風時の運行ルール強化のキッカケとなりました。
その後の餘部鉄橋、瀬戸大橋線や湖西線での強風による速度制限が決められて、大きな事故が発生していないことに活かされています。
これから先も事故が起こりませんように。
まさに悲劇のジョイフルトレイン・・・
3:49 津山にいるDD51型1187号機。
事故当時の当該牽引機だったのが気の毒だと感じましたが、2003年に山口線と山陰本線でお召し列車を牽引していた栄光の機関車とも感じられます。
14系ていろんな形に改造されてるけど、それだけ汎用性が高い便利屋だったのかな!
ブルートレインの時普通にかっこよかったしな!
事故の影響なのか
メーカーでは模型化されない車両でした
個人で改造する人が少数居た位です
ある年の夏、大学の講義の歴史のレポートを書くため、中山道の馬籠、妻籠宿へ行き、帰りに南木曽駅で急行「ちくま」を待っていると、この列車が停まっていて、車内を見ると日本庭園が再現されていた。しかしその年の暮れ、バイトに励んでいた時、TVのニュースで転落事故を知り、何とも言えない気持ちになった。
運転取り止めてたら運命変わってたかもね、、
今まで余部鉄橋から列車が転落したなんて聞いた事が無かった。
@@ませあきたつさん、旧国鉄の時代から知ってるモンの間ではかなり有名な事故だよ。
国鉄末期最大最悪の事故だったという…
怖い事故でしたよ
少なくともブルーリボン賞ローレル賞は取れてた可能性はあったかも
事故車の牽引機(DD51 1187)が津山に保存されているのも何かの縁を感じる。
餘部橋梁ではゴミや汚物など様々なものが降ってくることがあり、たまに紐なしバンジーを敢行する勇者もいたという
みやびは鉄道友の会ブルーリボン賞にもノミネートされていたが、1年持たずに廃車となったので写真には黒いリボンがかけられていたそうな
忘れもしない1986年12月28日、「みやび」はその短い生涯にピリオドを打った。
あの事故以降、運転中止の判断が厳しくなって批判を浴びることも多くなりましたが、慎重になるのは止むなしだと思います。
確か、この後責任を感じて自ら命を絶たれた方まで出たと記憶していますが、この事故の経験がその後の安全運行につながったことで、安心してくださっていると思いたいです。
当時大阪住んでたので衝撃だったんだけど、あの時期登場したジョイフルトレインの中で展望車が無かったので地味には感じてたなぁ
自然相手ではどうしようもないがもったいない事をした。
当時の国鉄は悪条件下でも列車を出来るだけ走らせる事が義務のようになっていて少しでも条件が悪ければ運行停止する現在とは隔世の感があります。
DD51が生き残ったのは重さ&断面積少ないゆえ。DD54だったら一緒に落ちていたかも。
阪急の初代京トレインにも箱庭が在りましたね。玉砂利を轢いた本格的な奴でした。
『みやび』によって運用終了となった81系お座敷車の中で、『播磨』だけはなぜか宮原区にいつまでも留置されていましたね。
余部鉄橋事故の被害客車ですね…、まさに悲劇の客車です😢。ただ、それが現代に活かされたのなら、それが救いです❤。
橋から転落した時に、乗客が乗ってたらどうなってたことか😭
「乗ってたら乗客の安全を考えて止めた」ので事故にならなかったのでは
事故の内容が衝撃的すぎる……亡くなった方にご冥福をお祈りします。
日本庭園仕様は阪急が引き継いでます😊
事故にあった「みやび」しか、知らなかった。
こういう外観だったのは、初めて知った。
車内に日本庭園があるのは、知らなかった。どういう配置だったのだろう。(石、砂の模様など)
お座敷列車 みやび で検索すると内装を映した動画がありますので、見た方が早いです。
@繁神名 さん
動画の検索をしました。
みやびの車内の日本庭園が、小さいけど、かなり本格的な感じで、びっくりです。
教えていただきありがとうございます。
鉄橋が現役のうちに餘部に行った時、橋の下まで行って慰霊碑に黙祷しておいた。
今はエレベーターがあるから楽に行けるが、当時は急坂の山道を降りて登ってと大変だった。
事故当時小学6年だった
衝撃的な事故だったし、特急はまかぜ
急行だいせん乗車時、餘部鉄橋を
渡る時に事故をいつも思い出した。
こんなに頑張ったのに、、、
鷹取工場で改造された車輌だが旧高砂工場から移籍した職員が主体になり改造された。
高砂工場にて改造されたサロンカーなにわが必ずしも良い出来ではなく現場から改善要求も出ていたので、
みやびはリヴェンジの意気込みと民営化を直前に控えて技術をアピールする事で去就への最後の機会と捉える職員も少なくなかった。
抑えた外観とはうらはらに内装は高級料亭を意識した豪華な意匠が多数盛り込まれた。
そして民営化後も継承された悪癖である自爆営業のツアー商品に動員される。
それまで散々冬季の季節風は吹いていたのに転落…
この事故が山陰本線ひいては但馬地区のJRが輸送インフラとして地位を喪っていく事になる。
鉄橋からの事故といえば羽越本線特急いなほ号脱線事故を思い出します
蟹工場
列車転落
不稔の旅立ち
(合掌!)
今おもうと不謹慎であるが、最初にニュースでこの事故の映像を見た時、橋の下で亡くなった方もいるのを知らず、登場して1年もたたないジョイフルトレインの無惨な姿にショックを受けた。改めて、この橋の下で暮らしていたばかりに命を落としてしまった方がのご冥福を祈るばかりです。これも亡くなられたには不謹慎になってしまうが、列車が回送で乗客が居なかったのは、不幸中の幸いだったと思います。
事故るまで1年もなかったとは知りませんでした。
この「みやび」…既に国鉄末期前年内にデビューしてその年内に事故廃車になったからあまり言いたくはないが…
内装のあの、個別の座卓に一体としてあったバカデカいテレビ📺が、個人的にどうも好きになれず第一窓からの眺めを遮ってるとしか思えない…あのリクライニング座椅子も相まってなんだか究極の怠け者が乗る列車というイメージしか無かったなぁ…😅
最大売りの中央のミニ庭園とやらも…なんか中途半端感は否めなかった…
後継車両「あすか」の方が魅了溢れてた✊️✨️
今なら液晶モニターで済みますが、当時の技術ではこれがいっぱいです(汗)
世界一不幸な客車みやび…
確か、余部鉄橋から転落した車両でしたよねコレ。
カニが蟹工場に落ちたと話題になってたね
みやびにカニなんかないよ。座布団全部持っていって