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珍しい録音楽しませてもらいました。それにしても当時の国鉄は鈍行に急行を併結したり受験生のために臨時停車させたり思いがけない措置をしたものです。利用者のために柔軟な対応をする余裕があったのですね。鉄道全盛期ならでは、今と比べようもありません。
受験生のために急行の臨時停車も珍しいかと思いますが、そんな案内放送を「チャンス」とばかりに録音した人もいなかったと思います。とにかく耳に入るものは何でも録っておきたかったものですから。昔は受験生の数も多く、千歳線の普通列車は少なく、増結も増発もままならず、急行の臨時停車で対応、しかも一部区間急行券不要は苦肉の策だったことと思います。そんな時代でした。
発車ベルの音、かなり大きいですね…。連絡船の銅鑼を彷彿とさせますね。特急には格式があったんですね…。
駅の発車ベルもあまり聞かなくなってきました。いまどき大音響のベルを鳴らしたら「何事か」と思われてしまうのかもしれませんね。
非電化時代の千歳線列車の車内放送も貴重ですね、急行で普段は通過する駅での臨時停車案内は珍しいと思いました。
急行の臨時停車はありそうですが、一部区間を急行券なしで開放する例は珍しいかと・・・
急行らいでんの乗車はかないませんでした。かつての岩内線の分岐駅であった小沢駅の衰退ぶりを見ると急行が走っていたとは想像がつかないです。小樽でのらいでんと北海との交換も貴重です。他の方のコメントに「赤帽」の記載がありましたが、「チッキ」も存在していましたね。
「チッキ」もほとんど死語に近くなってしまいましたね。「らいでん」には何回か乗りましたが、「北海」には乗ったことがありませんでした。乗ろうと思えば乗れたはずですが、安上がりに急行の自由席にばかり乗っていましたので・・・以前頂戴したコメントによれば、北海の食堂車を利用したことがあるそうですね。羨ましい。
@@急行-宗谷 ちょっと間があいてしまいました。北海の食堂車を利用した時は、中学2年2人旅、発売初年の「青春18のびのびきっぷ」で道内に上陸、帰路は乗車券購入でしたが、ちょっと背伸びして思い出に利用しました。全てが冒険でしたね。
@@anklady 様。中二で北海道二人旅とはすごい。気の合う友達がいたのですね。
@@急行-宗谷 さん。同級生には小学6年で北海道や東北を一人旅するのが数人いて、私も一人旅デビューは中学1年の九州旅でした。
@@anklady 様。わたしが一人で遠出したのは中3でした。ユースの存在を知らなかったので、車中2連泊という行程でした。ユースを知って長めの旅ができるようになったのは高3からでした。ユース有難かったです。
ただただ素晴らしい! 鉄道遺産ですね。
いやあ・・・「鉄道遺産」などと呼べるようなモノではなく、鉄道好きのコレクションですが。でも、そんなお言葉が嬉しいです。
キハ80やキハ56が現役時代なのはこれ貴重ですねアナウンス音声も今のクリアな音声じゃなくAM変調が如何にも時代を感じさせます
「狩勝」はキハ56による堂々とした編成でしたが、「らいでん」はキハ22が主体でキハ21も混ざっていました。放送の機器類もキハ56とキハ22では違うようですね。
素晴らしいです✨わたしが子供じぶんに時刻表に食い入り始めた時点で道内駅では釧路にだけ赤帽マークが付いてました😂あと、駅弁マーク、そば駅弁マークも懐かしくて涙出る😢
駅の赤帽をご存知の方も少なくなりました。時刻表にある駅弁マークも、現代のような旅の楽しみというより、食料補給のための必要な情報だったように思います。
函館駅には明治時代から昭和53年まで赤帽さんいましたよ道内時刻表には駅弁の紹介、名所の紹介もありましたね青森の連絡船待合室、弘前駅前の書店でも道内時刻表買えたものです
毎回楽しみにしてます。最後の「北海」は学生時代仙台ー深川でお世話になったものです。ご活躍を祈念致します。
「北海」に学生時代の思い出があるのですね。遠い昔を思い出して頂けましたら嬉しいです。
@@急行-宗谷 あ、一回だけ北海のグリーン車に乗りました。いまだにその時だけです。車内販売が一番先で優越感を覚えました。親に言ったら「贅沢すんじゃねー」云われました(笑)。
@@渡邉康英-f6n 昭和49年に山形県新庄市の親戚を訪ねた帰りに函館から倶知安まで特急北海に乗りました、自分は当時小学2年生でした、連絡船の深夜便に乗ったという事もあって北海に乗っている間、寝不足が祟って寝ているときもありました。後で今は亡き母から聞いた話しですが自分が寝ている時に食堂車で調理したカレーライスを車内販売で売りに来ていたので食べさせかったんだよ、って話しを聞いて今さら言われてもって感じでした。その後は北海道の特急列車では食堂車で調理したカレーライスを車内販売で売っているのは見かけませんでした。
子供のころ札幌の祖母の家から昆布の自宅に帰るのに乗った記憶が。座れないかもと新聞紙まで持たされたのに割と空いてて無意味に(笑)。近頃混雑する山線小樽ー倶知安間。らいでんのような短距離急行復活しませんかねぇ…
「らいでん」は時間や曜日によって混む列車もあれば、空いていることもあったようですね。この時も空いていました。
発車🔔の響きは、イイですねぇ😂
札幌と函館でこのベル音を聞くことができましたね。あと釧路にもありました。釧路は1番線だけだったかな・・・詳細はわかりませんが。
とかく国鉄時代は、増結や臨時列車に関しての意思決定が遅く決まっていないものはダメという風潮がありました。1年前から地域のお祭りのための増結のお願いをしても、車輛がないという理由で却下されるのが国鉄でした。現場はそれでは困るわけで、特に北海道総局は柔軟に行っていたと聞きます。そういった事実を裏付けるものがあるということは素晴らしいことだと思います。親方日の丸の国鉄がつぶれた原因もこんなところにあるわけで、急行に急行券なしで便乗させるなどけしからんで、処分の対象になっていたのかも知れません。山線の優等列車も懐かしいです。ただ、らいでんには乗ったことはないです。いわない線もいけずじまい。何とか北海の食堂車に間に合ったのですが、今となっては何を食べたのかも覚えていませんね。
受験による混雑に国鉄が柔軟な対応をしていて、当時の私も感心したものでした。偶然に録ることができた案内放送ですが、こんな音声があることすら忘れていました。
急行らいでん1号、倶知安で先に札幌を発車していた長万部行普通に追いついて併結になるとは...
面白い運用でしたね。先に着いた普通列車が1両としても、倶知安からは4両になったと想像されます。実際に長万部まで乗り通してみたかったです。
@@急行-宗谷倶知安から蘭越間は6両でした、長万部行の送り込み車両4両と蘭越切離し折返しらいでん運用2両です。らいでん1号は蘭越、岩内行きでした。
島松駅最寄りには恵庭北高という学校があるようですね。
島松に公立高校が1校か複数あったかはわかりませんが、受験生の数も多かったことと思います。
らいでん本体より付属編成のほうが長い
「らいでん」という愛称から岩内行きが主編成のように感じてしまいますが、まあ岩内線は支線、倶知安方面は本線ですからねぇ・・・
この急行らいでんは当時のローカル気動車キハ22型が使用されていました。出入り口付近には一部ロングシート出入り口付近には騙された感じがします。吊り革もありましたし!当時の北海道にはかなりのキハ22型を使用した急行がありました。
島松に急行ちとせを臨時停車(それもこれを利用するのに急行料金不要って?)何のイベントがおこなわれたのでしょうねぇ?🤔
特別なイベントではなく高校入試による混雑ですね。
珍しい録音楽しませてもらいました。
それにしても当時の国鉄は鈍行に急行を併結したり受験生のために臨時停車させたり思いがけない措置をしたものです。
利用者のために柔軟な対応をする余裕があったのですね。
鉄道全盛期ならでは、今と比べようもありません。
受験生のために急行の臨時停車も珍しいかと思いますが、そんな案内放送を「チャンス」とばかりに録音した人もいなかったと思います。とにかく耳に入るものは何でも録っておきたかったものですから。
昔は受験生の数も多く、千歳線の普通列車は少なく、増結も増発もままならず、急行の臨時停車で対応、しかも一部区間急行券不要は苦肉の策だったことと思います。そんな時代でした。
発車ベルの音、かなり大きいですね…。連絡船の銅鑼を彷彿とさせますね。
特急には格式があったんですね…。
駅の発車ベルもあまり聞かなくなってきました。
いまどき大音響のベルを鳴らしたら「何事か」と思われてしまうのかもしれませんね。
非電化時代の千歳線列車の車内放送も貴重ですね、急行で普段は通過する駅での臨時停車案内は珍しいと思いました。
急行の臨時停車はありそうですが、一部区間を急行券なしで開放する例は珍しいかと・・・
急行らいでんの乗車はかないませんでした。かつての岩内線の分岐駅であった小沢駅の衰退ぶりを見ると急行が走っていたとは想像がつかないです。小樽でのらいでんと北海との交換も貴重です。
他の方のコメントに「赤帽」の記載がありましたが、「チッキ」も存在していましたね。
「チッキ」もほとんど死語に近くなってしまいましたね。
「らいでん」には何回か乗りましたが、「北海」には乗ったことがありませんでした。乗ろうと思えば乗れたはずですが、安上がりに急行の自由席にばかり乗っていましたので・・・
以前頂戴したコメントによれば、北海の食堂車を利用したことがあるそうですね。羨ましい。
@@急行-宗谷 ちょっと間があいてしまいました。北海の食堂車を利用した時は、中学2年2人旅、発売初年の「青春18のびのびきっぷ」で道内に上陸、帰路は乗車券購入でしたが、ちょっと背伸びして思い出に利用しました。全てが冒険でしたね。
@@anklady 様。中二で北海道二人旅とはすごい。気の合う友達がいたのですね。
@@急行-宗谷 さん。同級生には小学6年で北海道や東北を一人旅するのが数人いて、私も一人旅デビューは中学1年の九州旅でした。
@@anklady 様。わたしが一人で遠出したのは中3でした。ユースの存在を知らなかったので、車中2連泊という行程でした。ユースを知って長めの旅ができるようになったのは高3からでした。
ユース有難かったです。
ただただ素晴らしい! 鉄道遺産ですね。
いやあ・・・「鉄道遺産」などと呼べるようなモノではなく、鉄道好きのコレクションですが。
でも、そんなお言葉が嬉しいです。
キハ80やキハ56が現役時代なのはこれ貴重ですね
アナウンス音声も今のクリアな音声じゃなくAM変調が如何にも時代を感じさせます
「狩勝」はキハ56による堂々とした編成でしたが、「らいでん」はキハ22が主体でキハ21も混ざっていました。
放送の機器類もキハ56とキハ22では違うようですね。
素晴らしいです✨わたしが子供じぶんに時刻表に食い入り始めた時点で道内駅では釧路にだけ赤帽マークが付いてました😂あと、駅弁マーク、そば駅弁マークも懐かしくて涙出る😢
駅の赤帽をご存知の方も少なくなりました。
時刻表にある駅弁マークも、現代のような旅の楽しみというより、食料補給のための必要な情報だったように思います。
函館駅には明治時代から昭和53年まで赤帽さんいましたよ
道内時刻表には駅弁の紹介、名所の紹介もありましたね
青森の連絡船待合室、弘前駅前の書店でも道内時刻表買えたものです
毎回楽しみにしてます。最後の「北海」は学生時代仙台ー深川でお世話になったものです。ご活躍を祈念致します。
「北海」に学生時代の思い出があるのですね。遠い昔を思い出して頂けましたら嬉しいです。
@@急行-宗谷 あ、一回だけ北海のグリーン車に乗りました。いまだにその時だけです。車内販売が一番先で優越感を覚えました。親に言ったら「贅沢すんじゃねー」云われました(笑)。
@@渡邉康英-f6n 昭和49年に山形県新庄市の親戚を訪ねた帰りに函館から倶知安まで特急北海に乗りました、自分は当時小学2年生でした、連絡船の深夜便に乗ったという事もあって北海に乗っている間、寝不足が祟って寝ているときもありました。後で今は亡き母から聞いた話しですが自分が寝ている時に食堂車で調理したカレーライスを車内販売で売りに来ていたので食べさせかったんだよ、って話しを聞いて今さら言われてもって感じでした。その後は北海道の特急列車では食堂車で調理したカレーライスを車内販売で売っているのは見かけませんでした。
子供のころ札幌の祖母の家から昆布の自宅に帰るのに乗った記憶が。座れないかもと新聞紙まで持たされたのに割と空いてて無意味に(笑)。近頃混雑する山線小樽ー倶知安間。らいでんのような短距離急行復活しませんかねぇ…
「らいでん」は時間や曜日によって混む列車もあれば、空いていることもあったようですね。
この時も空いていました。
発車🔔の響きは、イイですねぇ😂
札幌と函館でこのベル音を聞くことができましたね。
あと釧路にもありました。釧路は1番線だけだったかな・・・詳細はわかりませんが。
とかく国鉄時代は、増結や臨時列車に関しての意思決定が遅く決まっていないものはダメという風潮がありました。1年前から地域のお祭りのための増結のお願いをしても、車輛がないという理由で却下されるのが国鉄でした。
現場はそれでは困るわけで、特に北海道総局は柔軟に行っていたと聞きます。そういった事実を裏付けるものがあるということは素晴らしいことだと思います。
親方日の丸の国鉄がつぶれた原因もこんなところにあるわけで、急行に急行券なしで便乗させるなどけしからんで、処分の対象になっていたのかも知れません。
山線の優等列車も懐かしいです。ただ、らいでんには乗ったことはないです。いわない線もいけずじまい。何とか北海の食堂車に間に合ったのですが、今となっては何を食べたのかも覚えていませんね。
受験による混雑に国鉄が柔軟な対応をしていて、当時の私も感心したものでした。
偶然に録ることができた案内放送ですが、こんな音声があることすら忘れていました。
急行らいでん1号、倶知安で先に札幌を発車していた長万部行普通に追いついて併結になるとは...
面白い運用でしたね。先に着いた普通列車が1両としても、倶知安からは4両になったと想像されます。
実際に長万部まで乗り通してみたかったです。
@@急行-宗谷倶知安から蘭越間は6両でした、長万部行の送り込み車両4両と蘭越切離し折返しらいでん運用2両です。らいでん1号は蘭越、岩内行きでした。
島松駅最寄りには恵庭北高という学校があるようですね。
島松に公立高校が1校か複数あったかはわかりませんが、受験生の数も多かったことと思います。
らいでん本体より付属編成のほうが長い
「らいでん」という愛称から岩内行きが主編成のように感じてしまいますが、まあ岩内線は支線、倶知安方面は本線ですからねぇ・・・
この急行らいでんは当時のローカル気動車キハ22型が使用されていました。出入り口付近には一部ロングシート出入り口付近には騙された感じがします。吊り革もありましたし!当時の北海道にはかなりのキハ22型を使用した急行がありました。
島松に急行ちとせを臨時停車(それもこれを利用するのに急行料金不要って?)何のイベントがおこなわれたのでしょうねぇ?🤔
特別なイベントではなく高校入試による混雑ですね。