【三国志】赤壁の戦い後、劉備の益州・荊州進行戦!蜀獲得!孫権、劉璋との闘い!歴史解説

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  • Опубліковано 4 лис 2024

КОМЕНТАРІ • 31

  • @sangokushich
    @sangokushich  10 місяців тому +1

    ご覧頂きありがとうございます。
    歴史を変えた赤壁の戦い、その後の劉備の動きでさらに大きな時代の変化があったのかも、、、、
    戦の勝敗は時の運、三国が一夫的に勝利し続けないことが三国志の魅力でもありますね。
    いよいよ、2023年もあと1週!私は年末も三国志三昧、動画を作り続けます!

  • @武闘派のび太
    @武闘派のび太 10 місяців тому +8

    その後の蜀の事を考えると、龐統の戦死は痛恨事だった。

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому +1

      本当に惜しい死ですね。

  • @ぽんちきらーず
    @ぽんちきらーず 10 місяців тому +3

    三国志の強武将達がひしめき合い全盛期だったここら辺の時代が一番好き

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому

      私もこの時代が大好きです!

  • @寺内央
    @寺内央 10 місяців тому +5

    やはり劉備が呉と揉めたのが蜀の衰退の見過ごせない原因ですね。呉との戦いで関羽、張飛などの武将や精鋭を失った。
    ただ譲歩しすぎると呉の属国となる可能性もあった。難しい問題ですね。

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому

      そうですね、戦わなければどうなっていたか、それはそれで分からないですね。

  • @藤井大輔-f3g
    @藤井大輔-f3g 10 місяців тому +3

    戦いに勝利することより、その後の成果をどのように配分するかがむしろ難しいのではと思わされます。互いの戦略が違えばぶつかるのは必定。蜀にとって龐統を早くに失ったことは、痛過ぎ…。

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому

      龐統の死、、、、蜀の運命を決めてしまったのかもしれませんね。

  • @つねウォーキング中
    @つねウォーキング中 10 місяців тому +4

    暗愚と言われる劉璋だけど、成都の民を案じて無血開城したのは英断だったと思う。乱世の荒波を乗り切る器では無かったけど、君主としての器はあったのかな。
    そういえば漢中の張魯も穀倉を焼いて逃げるという配下の案に首を縦に振らなかったし。
    2人とも流石に三国鼎立間際まで己の土地を守っていただけの事はあったのかも。

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому +1

      そうですね、国主の無血開城は英断という側面がありますね!

  • @matukawatositane
    @matukawatositane 10 місяців тому +2

    孫権を格下として見てましたよね劉備さん…手痛い反撃を喰らったわけですが

  • @ボルボル-t7c
    @ボルボル-t7c 10 місяців тому +1

    お疲れ様です
    蜀が益州手に入れて、その数年後に管仲(春秋戦国)じゃなかった漢中進行や荊州租借問題
    219年…樊城の戦い
    その3年後に夷陵の戦い
    でしたね
    周瑜が矢傷を負って、そのせいで病死のが、孫呉にとってはデカいです
    あの時代って医療が発達してなかったのが残念でした←華佗が居れば
    最後に英傑大戦の特殊セリフでは
    周瑜の計略が赤壁の大火
    範囲内に曹仁が居ると「私を狙うまでが良かったのだかな」
    敵軍に周瑜が存在すると曹仁の開幕セリフが「周瑜、お前の快進撃はここまでだ」
    計略は、時代の違う武将ですが😅範囲内の味方に山県昌景、飯富虎昌が居ると「赤備えよ、我が騎馬隊に続け!」

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому

      周瑜、華佗と出会っていれば、、、惜しまれますね

  • @ぴろしき-x1j
    @ぴろしき-x1j 10 місяців тому +3

    関羽は大局を見る事ができなかった。
    演義にて諸葛亮が
    夏侯淵・張郃は司令官の器に非ず
    と語っていたが、関羽も同じだった。
    荊州は三国が角を突き合わせた場所だから、尚の事運営が難しい地域だった。

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому +1

      関羽、、、名将ですが弱点も多かったんでしょうか

  • @江良龍郎
    @江良龍郎 10 місяців тому +1

    沢山の君主や将達。こういう戦いや生き様などのドラマが多い時期が三国志で好きですねえ。蜀と呉で魏を倒して、天を分かち合うのか?と思いつつ、関羽が孫権に勧められた子供達の見合いに対して、犬の子に虎の子はやれん!と言ったのはマズイと思いました。荊州は重要拠点とはいえ、長引かせても同盟決裂になりますし。まあ孫権は孫堅や孫策の様に兵を率いて戦うタイプではないので同盟相手がコロコロ変わるのであれですが。春来さん、今年もあと僅かですが、良いお年を

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому +1

      ありがとうございます。来年もよろしくお願いします!

  • @竹本小鉄-o2u
    @竹本小鉄-o2u 10 місяців тому +1

    武将の配置次第で法統や関羽が生き長らえた未来もあったのかなと思う一方、史実よりも悲惨な劉備軍になったのかなとも🙄

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому

      そうですね、蜀の名将たちが生き残ったら、どうなっていたんでしょう。

  • @織田敦-t2t
    @織田敦-t2t 10 місяців тому +1

    たしかにさっさと劉璋を暗殺していたら、龐統の戦死も回避出来たかもな
    それに荊州南部は劉備が武力で取った物であり、盗賊如きに返す必要はない
    俺があの世にいたら盗賊をさっさと暗殺してやるのに

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому

      確かに、劉璋への対応を素早く行動したら、、、、どうなっていたんでしょう。

  • @間嶌孝弘-m6i
    @間嶌孝弘-m6i 9 місяців тому +1

    益州取れたまでは良かったよな劉備は

    • @sangokushich
      @sangokushich  9 місяців тому

      そこが絶頂期ですね!

  • @tts-th3mc
    @tts-th3mc 10 місяців тому +1

    しかし劉備が蜀を獲得した後、蜀の民の暮らしは良くなったんだろうか?
    戦争が増えて増税されて却って苦しくなったような気がしないでもない、それなら劉備は単なる簒奪者だな😮‍💨
    その辺の解説をしている動画が見当たらないのは残念だな😣

    • @sangokushich
      @sangokushich  10 місяців тому

      すいません、解説が足らずで。
      コメント欄の皆さんは三国志にめちゃくちゃ詳しい方が多いのでご存じの方もいらっしゃるかもしれません。