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ご覧いただきありがとうございます。初めて三国志を読んだ時、関羽の最後を知った時は衝撃でした。もっと活躍してほしかった、、、この動画で2023年の動画投稿は最後です。1年、たくさんの皆様に動画を見てもらって本当に嬉しかったです。来年も動画投稿を続けていきます。みなさま、引き続きよろしくお願いします。
呂蒙&陸遜が巧妙でしたね。関羽の弱みを知り、徹底して弱みを突く。
呂蒙&陸遜の二人のタッグは強力ですね、、、、
@@sangokushich 呂蒙が後継者として若い陸遜の才に着眼したのも素晴らしいです。
関羽も張飛も最期は人との接し方で失敗してしまった感ですわ。
そうですね、歳を重ねて性格が難しくなってしまったのでしょうか。
横山光輝版の魯粛は呉と劉備の間で知恵者に振り回されつつ右往左往周瑜からは「おぬしは他の事はよくできても外交の才能は0じゃのう」なんて言われてたりするけど実際は関羽に対して会談で荊州の租借地を返してもらったり、蜀との関係でもwin-winともいえる良好な関係を保ってましたね三国志のifとして孔明が荊州に残って外交担当したらor魯粛がもっと長生きしてたらってのはよく考えます
魯粛は演義の被害者ですね!
孫権の婚姻提案は孫権の”息子”と関羽の”娘”ですね
そうでしたか、ご指摘ありがとうございます。
東は孫権と和す、関羽が孔明の言葉を忘れずに守っておれば、荊州を失わなかったかも知れない。そして後の北伐も成功していた可能性も高かっただろう。
ないと思う。樊城、夷陵、街亭、そして段谷と歴史を左右させる重要な戦いに常に敗北するのは蜀の伝統だから。そういう重要な戦いでしっかり勝利をモノにできる名将たちは既に魏と呉が持っていってしまってる。演義だと蜀は魏と呉に勝ちまくってる印象あるけど、実際は蜀は対魏、対呉の戦績は小さな小競り合いのいくつかは勝ってるかもしれないが、重要なところはほぼ敗北してるんだよな
孔明の言葉に従っていれば、、、悔やまれますね。
呂蒙陸遜の狡猾な策略もだが、天下の名将関羽から一歩もひかなかった頑強なる曹仁、それを支えたのが満寵、その関羽を野戦で打ち破った徐晃、曹劉孫のそれぞれの陣営のナンバー2たちが意地とプライドかけてぶつかり合う展開が熱い。彼らが関羽にも劣らぬ天下に鳴り響く名将たちであったからこそ、わずかな油断や少しのミスさえ命取りとなるほどの緊張があったんだな。
そうですね、魏軍も名将をそろえてますね。まさに中華全土が震えた戦いですね。
曹仁・満寵の粘り腰はもっと評価されるべきと思いますね。あの状況下で守り切れる将は数少ないはず。
逆にここで失敗してしまうのが三国志という物語の魅力ですね。あの時ああしておけばとか色々考察されるのもこういう失敗エピソードがあるから何だと思います。
そうですね、三国志の中では樊城の戦いは大きなクライマックスの一つで、戦いだけでなく人間模様も見えてくるのが三国志の魅力ですね。
部下の趙累が「後方の守備は周倉、廖化に任せて糜芳、士仁をそばに置いたほうが良いのでは?」と進言しましたが関羽はそれを却下した、みたいなやり取りがあったらしいです
そうなんですね、勉強になります!
陸遜は若輩ではあったけど、江東(特にベトナム方面での異民族対策)では実績を積んでいるんですよね。関羽も荊州での名士達と交流していれば、あるいは陸遜の情報を得られたかもしれない。
そうですね、陸遜を警戒していれば、、、結果は変わっていたかもしれませんね。
関羽がというか劉備軍全体的に孫権を格下に見てたろうしね
蜀全体が呉に対しての見立てを失敗したんですね。
関羽の兵糧強奪は疑わしいですね呉志には荊州領有を正当化するためと思われる矛盾が複数存在し、関羽が于禁を降伏させ食糧不足に陥り呉の米を奪ったと書かれる湘關は長沙郡と零陵郡の境にありますが、その頃関羽は漢水の北岸で包囲戦を行っていますその距離は千キロ近く離れており、その間に自領の南郡があります。そんなところから輸送を考えるなんて不可解で奪った後も呉領である江夏郡沿いを通るか、わざわざ荷を積み下ろして南郡を経由しなくてはなりません南郡から輸送するか、江夏郡の物資を奪った方がずっと安全で早く、また奇襲を仕掛けようとしていた側の呉が国境の警備を怠っているというおかしな状況さらに以前から関羽への攻撃を画策していたはずの孫権がこの報告を聞いて関羽を攻撃したと前後矛盾発生国境上の小競り合いを無理やり関羽攻めの口実にしたんでしょう
そうなんですね、口実という見方もあるんですね。面白い!
関羽の失敗、呂蒙&陸遜の優秀さが蜀の運命を変えたと言って過言ではなかった。関羽が呉を舐めずに警戒、もしくは蜀が呉との友好関係を維持出来ていれば関羽や張飛などの武将や精鋭の兵を失わずにすんだ。と言えるのは歴史を見た人間が言えることなのですが(苦笑)。
そうですね、関羽の存在が大きくなればなるほど、敗北の影響が大きいですね。
諸葛亮の北は曹操を防ぎ、南は孫権と和す。を守れば、荊州を失うことはありませんでしたが、呉を侮り、陸遜を舐めていた為、まんまと奪われました。関羽の大失態で、漢王朝の再興は、頓挫してしまいました。
関羽が荊州を守り切ったシナリオも見てたかったですね。
夷陵の敗北と荊州消失で孔明の北伐は失敗に終わりましたね、荊州消失と夷陵の敗北がなければ展開は違っていたかも😃
そうですね、荊州が奪われなかったら、、、どうなっていたんでしょう。
関羽が縁談を袖にしなかったとしても、いずれ荊州を巡って争っただろうし、こうなるのは不可避だっただろう。
そうですね、結果どうあれ、荊州での紛争はさけられなかったでしょうね。
五虎将軍は必要だったのかな?諸葛亮の指示に従っていれば……趙雲が3人いたら…蜀の勝ちだったような気もする。
後の蜀滅亡の遠因とも言われるほど、荊州を落とした関羽の失策は痛かった。あれがなければ、張飛が范疆、趙達に寝首をかかれることもなかっただろうし、劉備が夷陵の戦いで大敗して病死する事も無かったかもしれない。
蜀を代表する将の大敗北で蜀の運命は大きく変わりましたね。
命乞いしなかったとはいえ捕縛され、用いようとした孫権を諭す呂蒙。そして斬首。呂布の最期と似ていると思う。呂布も関羽も傲慢さと不遜な態度を改めず、結果的にそれが仇となった。中国のドラマ、スリーキングダムに出てくる関羽は実物像にかなり似ていると個人的には思ってます。そして知れば知る程嫌いになっていく関羽…
そうですね、最後のシーンは呂布と被りますね。
劉備のそばにいた時は関羽の欠点は劉備がうまくフォローしてくれてたんだと思う致命的に外交の大事さを理解してなかった節も
そこを含めて、さすが劉備ですかね。
ゲームから入ったせいか関羽は良い人なイメージが在りますが、関羽はプライドが高い、張飛は目上の人には礼儀が正しいのですが、自分より下には乱暴な一面と人との接し方で失敗してますね。戦って死すと言いたいですけど、三国志は本当に在った話で在り、人物も実在してますし、難しいものですね。ちなみに関羽の娘と孫権の息子との縁談です。関羽も油断し過ぎで敗北してますし、よく考えると関羽の死から、三国志の魅力ある武将もとい主役級が次々と世を去る事を考えると三国志が冷めたのもこの時期という声も多くありましたね。関羽の首を取ったのは孫権と書かれてますが、本によっては関羽を斬ったのは呂蒙で在り、孫権は止めようとしてたとか?まあ関羽の死で赤兎馬も餌を食べなくなって亡くなったのは悲しくも寂しいです←武器や名馬に憧れる人
張飛の評はそういう言い方(自分より下には乱暴)をすると性格悪い気もしますがどちらかというよ『基本荒っぽい性格だったのだが”士大夫”に対して対面する時は遜った振る舞いで接することもできた』という美点ととらえる方が妥当かもしれません(普段無頼なのに斉藤道三との会見では正装で道三を驚かせた信長的な)
@@kappanouen さん 張飛は荒っぽい一面は在りますが、愛されてる一面も在るので性格は悪いわけではないんですが、手が出たり、酒で失敗してますからね。関羽や劉備に言われても直してませんが最終的に張郃の陣の前で宴を開いて、油断させるという事ができるまでには成長してますし。まあ裏切り者も出てしまいましたし←演義では息子達が仇を撃つが事実では病死で不思議だと思う人 斉藤道三に会う時に正装で来た信長。上手く表現されてますね。あの時の信長は尾張のうつけと呼ばれてた時ですな←テレビ番組だと遊びつつも地形を見たりとかなり有能な一面の信長に感心した人
@@江良龍郎 まあ私個人としては三国志時代の”the庶民”代表(庶民というよりもっとガラの悪い階層ですが)の張飛が士大夫に対しなんとか付き合っていこうという姿勢がすごい(今日で言えば日雇い出身の叩き上げ社長が経団連とかでそれなりの振る舞いをしているわけですので)という話で士大夫層の陳寿からしたら”それでも”(普段は)ガラが悪かったよ、という評価なんだと思います
自分も関羽は聖人君主イメージでしたが、知れば知るほど難もある人物像が見えてきて大変な人だったのかなというイメージに変化しました。
関羽伝に『梁、郟、 陸渾羣盜或遙受羽印號、為之支黨、羽威震華夏。』とある。これを解説すると梁と郟と陸渾は県名です。場所は以下の通りです。梁 →河南尹梁県郟 →豫州潁川郡郟県(旧襄県)陸渾→河南尹陸渾(弘農郡から編入)これを踏まえて文を訳すと…梁と郟と陸渾の群盗に印を渡し、関羽の支党となった。関羽の威は華夏(中原)を震撼させた。↑梁は洛陽と荊州と豫州に挟まれた県で、洛陽と豫州、洛陽と荊州の間に関羽党(野盗)が蜂起したという事になります。そして潁川でも関羽党(盗賊)が蜂起した事を意味しており、同郡にある許都(献帝が居る地)が危険に晒されていた事が此処に判る。一方で陸渾は元は弘農である。そして弘農郡の郡治(日本でいう県庁)は旧函谷関である。陸渾での関羽党(盗賊)が蜂起したというのは函谷関の閉鎖に動く可能性があり、それが成された場合は洛陽と長安の間に楔を打つ事になります。これが上手く行くと孤立した長安を漢中軍(劉備本隊)が撃つ絶好の機会となるんです。見て判ると思うけど、関羽の支党と化した群盗が許都、洛陽、長安を同時に孤立させる動きがあったからこそ、中原は震撼したと書かれているんです。
なるほど、関羽を慕う群盗にそんな動きが。勉強になります!
関羽の性格を知っていれば、誰か優秀な参謀を据えたかった所ですね💨劉備の方面(益州)は法正に任せて、孔明が再び荊州に戻って運営できたら良かったかもしれませんが💣龐統がなくなり孔明が益州に出張る事になった時点で、実は劉備陣営の歯車は狂い始めていたのかもしれませんね💨
関羽が耳を傾けられる参謀をつけていれば未来は変わったかもしれませんね。
もし、「関羽を処刑せずに、人質として蜀との交渉材料に使っていたら夷陵の戦いは起こらなかったのでは?」と初めて三国志を読んだときに思ったけどどうだろう
そうですね、自軍も他国も揺るがす関羽の存在感はすごいですね。
蜀ファンとしては、目を覆いたくなる戦い…食料は無くなるわ、兵隊は逃げ出すわ、あまりにも無様…下手したら、呂布の戦い並みの酷さかも…「虎の子を犬の子にやれるか」と言う態度が全てを駄目にしたと思うと、腹立たしいよ。
確かに、荊州戦の大敗さえなければ、、、と思ってしまいますね。
まぁ 関羽も呂蒙が陸遜と交代みになった時に油断せずに もっと気をつけなければいけなかったんだよなぁ そもそも自身が強いのだから相手が無能をぶつける事はないのだから💧
有能がゆえに、おごりから警戒をおこたってしまったんでしょうね、、、
そうだねぇ 本当か嘘か わかんないけど 関羽って かなり傲慢だと言われてたからなぁ 部下から危険だと言われても無視してたんではないかなぁ💧
その辺りがあったからこそ、芋づる式に裏切者が出たんだよな
関羽と荊州を失ったのは劉備の過ちでもあったと思います。益州を制圧するまで待ってほしいとして孫権がそれを受け入れて益州制圧まで待ち返還を求めたのに対して、劉備は涼州を制圧するまで待ってくれた約束を反故にしたため孫権の怒りに触れました。その後何のフォローもせず両者の関係は悪化する一方となり関羽が挟み撃ちを受け荊州陥落に繋がります。望外の成功で有頂天になっていたのだと思います。
加えて呉の司令官が穏健派の魯粛病没→強硬派の呂蒙に交代したのも時勢が悪かった。
家臣の過ちは君主の決断の過ち。確かに歴史に多くある実例ですね。
関羽は上司にしたくないイメージ
上司だったら良いんじゃない。張飛は嫌だけれど。
怒らしたら怖そうですね。
糜芳、傅士仁意外の武将からはかなり慕われていた。現に、周倉、王甫は関羽が死んだと分かったら、跡追い自殺した程だから…
呂蒙は関羽を討ってマイナスのイメージありますが、実は孫権に武将として知識を身に付けるよう促され、努力した優秀な人物。呉下の阿蒙に非ず、の由来。
そうですね、関羽を打って呪い殺されるは、かわいそうですね。
叩き上げの猛将から、智謀を備えた大局を識る司令官に成長。関羽と呂蒙は互いを認め合う間柄であったけど、呂蒙がここまで凄味を見せるのは想像してなかったでしょうね。
上手く言えないけど日本軍のミッドウェイみたいな作戦の二重性がそもそも無理だったと思う。雲長さんは襄陽の曹仁さんを攻めるだけのはずが背後の呉ともやり合う羽目に陥る(対策はそれなりにしたとしても)日本機動部隊は上陸作戦を支援しつつ敵艦隊が来たら撃滅する…どちらにしても敵を見くびったと言われても仕方ないのかなぁ。雲長さんは下に手厚く上に傲慢で肝心なときにみんな助けてくれなかったし翼徳さんは上のほうばっかりみて下はぶん殴るしでふたりとも分かりきった最期を遂げた。もし二人を足して割れたらよかったかもしれませんね。曹仁陳矯呂蒙陸遜が凄い、こともさることながら雲長さんは自分に負けた…都からも援軍の動きは見られなかったやに思えることからもそんな気がします。長くなり失礼しました。
作戦の二重性、わかりやすい例え、ありがとうございます!
魏への侵攻が漢中と荊州、二方面からの侵攻が戦略なら、関羽に単独で魏へ攻めさせるのは戦略違反です。戦略貫徹しなかったこと、優秀な参謀がいなかったこと、関羽の性格の欠点が敗因でしょうか。
関羽のワントップ、誰も止められない体制は問題ありそうですね。
違う胡昭伝を見れば分かるが関羽の北上は建安二十三年からつまり劉備の漢中侵攻と連動した作戦さらに並行して房陵・上庸の攻略をやってる孟達は宜都太守であり荊州から出撃してるので劉備本軍と関羽軍の共同作戦関羽が曹仁を押し込めてる間に孟達と劉封が上庸ルートを確保する計画荊州から漢水を下って襄陽と樊城に出られ、関係が不味くなってる孫権の影響がある長江ルートを使わずに曹操攻めができる劉備関羽は戦略通り動いてる
関羽はプライド高すぎる
(^◇^;)
骨を削って治療をしたとかそんな状態で戦に出れる関羽の胆力はすごいと思いますが孫権の娘との縁談はもう少し慎重に回答するべきだったと思いました。犬にやれないはないかな。
華佗と関羽のくだり。大好きですが、何度、想像しても痛そう、、、
ここから劉備の凋落が始まるんですよね
そうですね、張飛の死、黄忠の死、そして自らの死と悲運が続きますね。
ご覧いただきありがとうございます。
初めて三国志を読んだ時、関羽の最後を知った時は衝撃でした。
もっと活躍してほしかった、、、
この動画で2023年の動画投稿は最後です。1年、たくさんの皆様に動画を見てもらって本当に嬉しかったです。
来年も動画投稿を続けていきます。
みなさま、引き続きよろしくお願いします。
呂蒙&陸遜が巧妙でしたね。
関羽の弱みを知り、徹底して弱みを突く。
呂蒙&陸遜の二人のタッグは強力ですね、、、、
@@sangokushich 呂蒙が後継者として若い陸遜の才に着眼したのも素晴らしいです。
関羽も張飛も最期は人との接し方で失敗してしまった感ですわ。
そうですね、歳を重ねて性格が難しくなってしまったのでしょうか。
横山光輝版の魯粛は呉と劉備の間で知恵者に振り回されつつ右往左往
周瑜からは「おぬしは他の事はよくできても外交の才能は0じゃのう」なんて言われてたりするけど
実際は関羽に対して会談で荊州の租借地を返してもらったり、蜀との関係でもwin-winともいえる良好な関係を保ってましたね
三国志のifとして孔明が荊州に残って外交担当したらor魯粛がもっと長生きしてたらってのはよく考えます
魯粛は演義の被害者ですね!
孫権の婚姻提案は孫権の”息子”と関羽の”娘”ですね
そうでしたか、ご指摘ありがとうございます。
東は孫権と和す、関羽が孔明の言葉を忘れずに守っておれば、荊州を失わなかったかも知れない。
そして後の北伐も成功していた可能性も高かっただろう。
ないと思う。樊城、夷陵、街亭、そして段谷と歴史を左右させる重要な戦いに常に敗北するのは蜀の伝統だから。そういう重要な戦いでしっかり勝利をモノにできる名将たちは既に魏と呉が持っていってしまってる。演義だと蜀は魏と呉に勝ちまくってる印象あるけど、実際は蜀は対魏、対呉の戦績は小さな小競り合いのいくつかは勝ってるかもしれないが、重要なところはほぼ敗北してるんだよな
孔明の言葉に従っていれば、、、悔やまれますね。
呂蒙陸遜の狡猾な策略もだが、天下の名将関羽から一歩もひかなかった頑強なる曹仁、それを支えたのが満寵、その関羽を野戦で打ち破った徐晃、曹劉孫のそれぞれの陣営のナンバー2たちが意地とプライドかけてぶつかり合う展開が熱い。彼らが関羽にも劣らぬ天下に鳴り響く名将たちであったからこそ、わずかな油断や少しのミスさえ命取りとなるほどの緊張があったんだな。
そうですね、魏軍も名将をそろえてますね。まさに中華全土が震えた戦いですね。
曹仁・満寵の粘り腰はもっと評価されるべきと思いますね。
あの状況下で守り切れる将は数少ないはず。
逆にここで失敗してしまうのが三国志という物語の魅力ですね。あの時ああしておけばとか色々考察されるのもこういう失敗エピソードがあるから何だと思います。
そうですね、三国志の中では樊城の戦いは大きなクライマックスの一つで、戦いだけでなく人間模様も見えてくるのが三国志の魅力ですね。
部下の趙累が「後方の守備は周倉、廖化に任せて糜芳、士仁をそばに置いたほうが良いのでは?」と進言しましたが関羽はそれを却下した、みたいなやり取りがあったらしいです
そうなんですね、勉強になります!
陸遜は若輩ではあったけど、江東(特にベトナム方面での異民族対策)では実績を積んでいるんですよね。
関羽も荊州での名士達と交流していれば、あるいは陸遜の情報を得られたかもしれない。
そうですね、陸遜を警戒していれば、、、結果は変わっていたかもしれませんね。
関羽がというか劉備軍全体的に孫権を格下に見てたろうしね
蜀全体が呉に対しての見立てを失敗したんですね。
関羽の兵糧強奪は疑わしいですね
呉志には荊州領有を正当化するためと思われる矛盾が複数存在し、関羽が于禁を降伏させ食糧不足に陥り呉の米を奪ったと書かれる湘關は長沙郡と零陵郡の境にありますが、その頃関羽は漢水の北岸で包囲戦を行っています
その距離は千キロ近く離れており、その間に自領の南郡があります。
そんなところから輸送を考えるなんて不可解で奪った後も呉領である江夏郡沿いを通るか、わざわざ荷を積み下ろして南郡を経由しなくてはなりません
南郡から輸送するか、江夏郡の物資を奪った方がずっと安全で早く、また奇襲を仕掛けようとしていた側の呉が国境の警備を怠っているというおかしな状況
さらに以前から関羽への攻撃を画策していたはずの孫権がこの報告を聞いて関羽を攻撃したと前後矛盾発生
国境上の小競り合いを無理やり関羽攻めの口実にしたんでしょう
そうなんですね、口実という見方もあるんですね。面白い!
関羽の失敗、呂蒙&陸遜の優秀さが蜀の運命を変えたと言って過言ではなかった。
関羽が呉を舐めずに警戒、もしくは蜀が呉との友好関係を維持出来ていれば関羽や張飛などの武将や精鋭の兵を失わずにすんだ。
と言えるのは歴史を見た人間が言えることなのですが(苦笑)。
そうですね、関羽の存在が大きくなればなるほど、敗北の影響が大きいですね。
諸葛亮の北は曹操を防ぎ、南は孫権と和す。を守れば、荊州を失うことはありませんでしたが、呉を侮り、陸遜を舐めていた為、まんまと奪われました。関羽の大失態で、漢王朝の再興は、頓挫してしまいました。
関羽が荊州を守り切ったシナリオも見てたかったですね。
夷陵の敗北と荊州消失で孔明の北伐は失敗に終わりましたね、荊州消失と夷陵の敗北がなければ展開は違っていたかも😃
そうですね、荊州が奪われなかったら、、、どうなっていたんでしょう。
関羽が縁談を袖にしなかったとしても、いずれ荊州を巡って争っただろうし、こうなるのは不可避だっただろう。
そうですね、結果どうあれ、荊州での紛争はさけられなかったでしょうね。
五虎将軍は必要だったのかな?
諸葛亮の指示に従っていれば……
趙雲が3人いたら…蜀の勝ちだったような気もする。
後の蜀滅亡の遠因とも言われるほど、荊州を落とした関羽の失策は痛かった。あれがなければ、張飛が范疆、趙達に寝首をかかれることもなかっただろうし、劉備が夷陵の戦いで大敗して病死する事も無かったかもしれない。
蜀を代表する将の大敗北で蜀の運命は大きく変わりましたね。
命乞いしなかったとはいえ捕縛され、用いようとした孫権を諭す呂蒙。そして斬首。呂布の最期と似ていると思う。
呂布も関羽も傲慢さと不遜な態度を改めず、結果的にそれが仇となった。
中国のドラマ、スリーキングダムに出てくる関羽は実物像にかなり似ていると個人的には思ってます。そして知れば知る程嫌いになっていく関羽…
そうですね、最後のシーンは呂布と被りますね。
劉備のそばにいた時は関羽の欠点は劉備がうまくフォローしてくれてたんだと思う致命的に外交の大事さを理解してなかった節も
そこを含めて、さすが劉備ですかね。
ゲームから入ったせいか関羽は良い人なイメージが在りますが、関羽はプライドが高い、張飛は目上の人には礼儀が正しいのですが、自分より下には乱暴な一面と人との接し方で失敗してますね。戦って死すと言いたいですけど、三国志は本当に在った話で在り、人物も実在してますし、難しいものですね。ちなみに関羽の娘と孫権の息子との縁談です。関羽も油断し過ぎで敗北してますし、よく考えると関羽の死から、三国志の魅力ある武将もとい主役級が次々と世を去る事を考えると三国志が冷めたのもこの時期という声も多くありましたね。関羽の首を取ったのは孫権と書かれてますが、本によっては関羽を斬ったのは呂蒙で在り、孫権は止めようとしてたとか?まあ関羽の死で赤兎馬も餌を食べなくなって亡くなったのは悲しくも寂しいです←武器や名馬に憧れる人
張飛の評はそういう言い方(自分より下には乱暴)をすると性格悪い気もしますが
どちらかというよ『基本荒っぽい性格だったのだが”士大夫”に対して対面する時は遜った振る舞いで接することもできた』という美点ととらえる方が妥当かもしれません(普段無頼なのに斉藤道三との会見では正装で道三を驚かせた信長的な)
@@kappanouen さん 張飛は荒っぽい一面は在りますが、愛されてる一面も在るので性格は悪いわけではないんですが、手が出たり、酒で失敗してますからね。関羽や劉備に言われても直してませんが最終的に張郃の陣の前で宴を開いて、油断させるという事ができるまでには成長してますし。まあ裏切り者も出てしまいましたし←演義では息子達が仇を撃つが事実では病死で不思議だと思う人 斉藤道三に会う時に正装で来た信長。上手く表現されてますね。あの時の信長は尾張のうつけと呼ばれてた時ですな←テレビ番組だと遊びつつも地形を見たりとかなり有能な一面の信長に感心した人
@@江良龍郎 まあ私個人としては三国志時代の”the庶民”代表(庶民というよりもっとガラの悪い階層ですが)の張飛が士大夫に対しなんとか付き合っていこうという姿勢がすごい(今日で言えば日雇い出身の叩き上げ社長が経団連とかでそれなりの振る舞いをしているわけですので)という話で
士大夫層の陳寿からしたら”それでも”(普段は)ガラが悪かったよ、という評価なんだと思います
自分も関羽は聖人君主イメージでしたが、知れば知るほど難もある人物像が見えてきて大変な人だったのかなというイメージに変化しました。
関羽伝に『梁、郟、 陸渾羣盜或遙受羽印號、為之支黨、羽威震華夏。』とある。
これを解説すると梁と郟と陸渾は県名です。場所は以下の通りです。
梁 →河南尹梁県
郟 →豫州潁川郡郟県(旧襄県)
陸渾→河南尹陸渾(弘農郡から編入)
これを踏まえて文を訳すと…
梁と郟と陸渾の群盗に印を渡し、関羽の支党となった。関羽の威は華夏(中原)を震撼させた。
↑梁は洛陽と荊州と豫州に挟まれた県で、洛陽と豫州、洛陽と荊州の間に関羽党(野盗)が蜂起したという事になります。
そして潁川でも関羽党(盗賊)が蜂起した事を意味しており、同郡にある許都(献帝が居る地)が危険に晒されていた事が此処に判る。
一方で陸渾は元は弘農である。そして弘農郡の郡治(日本でいう県庁)は旧函谷関である。
陸渾での関羽党(盗賊)が蜂起したというのは函谷関の閉鎖に動く可能性があり、それが成された場合は洛陽と長安の間に楔を打つ事になります。
これが上手く行くと孤立した長安を漢中軍(劉備本隊)が撃つ絶好の機会となるんです。
見て判ると思うけど、関羽の支党と化した群盗が許都、洛陽、長安を同時に孤立させる動きがあったからこそ、中原は震撼したと書かれているんです。
なるほど、関羽を慕う群盗にそんな動きが。勉強になります!
関羽の性格を知っていれば、
誰か優秀な参謀を据えたかった所ですね💨
劉備の方面(益州)は法正に任せて、孔明が
再び荊州に戻って運営できたら良かったかも
しれませんが💣
龐統がなくなり孔明が益州に出張る事に
なった時点で、実は劉備陣営の歯車は狂い
始めていたのかもしれませんね💨
関羽が耳を傾けられる参謀をつけていれば未来は変わったかもしれませんね。
もし、「関羽を処刑せずに、人質として蜀との交渉材料に使っていたら夷陵の戦いは起こらなかったのでは?」と初めて三国志を読んだときに思ったけどどうだろう
そうですね、自軍も他国も揺るがす関羽の存在感はすごいですね。
蜀ファンとしては、目を覆いたくなる戦い…
食料は無くなるわ、兵隊は逃げ出すわ、あまりにも無様…
下手したら、呂布の戦い並みの酷さかも…
「虎の子を犬の子にやれるか」と言う態度が全てを駄目にしたと思うと、腹立たしいよ。
確かに、荊州戦の大敗さえなければ、、、と思ってしまいますね。
まぁ 関羽も呂蒙が陸遜と交代みになった時に油断せずに もっと気をつけなければいけなかったんだよなぁ そもそも自身が強いのだから相手が無能をぶつける事はないのだから💧
有能がゆえに、おごりから警戒をおこたってしまったんでしょうね、、、
そうだねぇ 本当か嘘か わかんないけど 関羽って かなり傲慢だと言われてたからなぁ 部下から危険だと言われても無視してたんではないかなぁ💧
その辺りがあったからこそ、芋づる式に裏切者が出たんだよな
関羽と荊州を失ったのは劉備の過ちでもあったと思います。
益州を制圧するまで待ってほしいとして孫権がそれを受け入れて益州制圧まで待ち返還を求めたのに対して、劉備は涼州を制圧するまで待ってくれた約束を反故にしたため孫権の怒りに触れました。
その後何のフォローもせず両者の関係は悪化する一方となり関羽が挟み撃ちを受け荊州陥落に繋がります。
望外の成功で有頂天になっていたのだと思います。
加えて呉の司令官が穏健派の魯粛病没→強硬派の呂蒙に交代したのも時勢が悪かった。
家臣の過ちは君主の決断の過ち。確かに歴史に多くある実例ですね。
関羽は上司にしたくないイメージ
上司だったら良いんじゃない。張飛は嫌だけれど。
怒らしたら怖そうですね。
糜芳、傅士仁意外の武将からはかなり慕われていた。
現に、周倉、王甫は関羽が死んだと分かったら、跡追い自殺した程だから…
呂蒙は関羽を討ってマイナスのイメージありますが、実は孫権に武将として知識を身に付けるよう促され、努力した優秀な人物。呉下の阿蒙に非ず、の由来。
そうですね、関羽を打って呪い殺されるは、かわいそうですね。
叩き上げの猛将から、智謀を備えた大局を識る司令官に成長。
関羽と呂蒙は互いを認め合う間柄であったけど、呂蒙がここまで凄味を見せるのは想像してなかったでしょうね。
上手く言えないけど日本軍のミッドウェイみたいな作戦の二重性がそもそも無理だったと思う。雲長さんは襄陽の曹仁さんを攻めるだけのはずが背後の呉ともやり合う羽目に陥る(対策はそれなりにしたとしても)日本機動部隊は上陸作戦を支援しつつ敵艦隊が来たら撃滅する…どちらにしても敵を見くびったと言われても仕方ないのかなぁ。雲長さんは下に手厚く上に傲慢で肝心なときにみんな助けてくれなかったし翼徳さんは上のほうばっかりみて下はぶん殴るしでふたりとも分かりきった最期を遂げた。もし二人を足して割れたらよかったかもしれませんね。曹仁陳矯呂蒙陸遜が凄い、こともさることながら雲長さんは自分に負けた…都からも援軍の動きは見られなかったやに思えることからもそんな気がします。長くなり失礼しました。
作戦の二重性、わかりやすい例え、ありがとうございます!
魏への侵攻が漢中と荊州、二方面からの侵攻が戦略なら、関羽に単独で魏へ攻めさせるのは戦略違反です。戦略貫徹しなかったこと、優秀な参謀がいなかったこと、関羽の性格の欠点が敗因でしょうか。
関羽のワントップ、誰も止められない体制は問題ありそうですね。
違う
胡昭伝を見れば分かるが関羽の北上は建安二十三年から
つまり劉備の漢中侵攻と連動した作戦
さらに並行して房陵・上庸の攻略をやってる
孟達は宜都太守であり荊州から出撃してるので劉備本軍と関羽軍の共同作戦
関羽が曹仁を押し込めてる間に孟達と劉封が上庸ルートを確保する計画
荊州から漢水を下って襄陽と樊城に出られ、関係が不味くなってる孫権の影響がある長江ルートを使わずに曹操攻めができる
劉備関羽は戦略通り動いてる
関羽はプライド高すぎる
(^◇^;)
骨を削って治療をしたとかそんな状態で戦に出れる関羽の胆力はすごいと思いますが孫権の娘との縁談はもう少し慎重に回答するべきだったと思いました。
犬にやれないはないかな。
華佗と関羽のくだり。大好きですが、何度、想像しても痛そう、、、
ここから劉備の凋落が始まるんですよね
そうですね、張飛の死、黄忠の死、そして自らの死と悲運が続きますね。