Yasushi Akutagawa: Songs of the Native Tribes on the Island of Papua (1950) [subtitles]

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  • Опубліковано 24 лип 2024
  • Yasushi Akutagawa [芥川也寸志] (1925~1989, Japan)
    パプア島土蛮の歌
    Songs of the Native Tribes on the Island of Papua
    00:00 1. Introduzione
    00:33 2. Song of the Dead 死霊の歌
    03:29 3. Song of Joy 歓喜の歌
    Yoshinobu Kuribayashi [栗林義信], baritone
    Yoichi Miura [三浦洋一], piano
    Recorded: April 13, June 11, 15, July 2 & 6, 1974 at Victor 1st Studio
    [...] As for the "Songs of the Native Tribes on the Island of Papua," let me borrow the composer's own words:
    "The Papuan people believe in an ancient legend that the souls of dead people reside in the mambulu and saguau trees. They also have a custom of worshipping "mitaro," which is made of hollowed-out trees, as a god.
    The melody that motivates the "Song of the Dead" is recited by these people.
    The "Song of Joy" is a combination of two independent festival songs, "Yamma Yamma" and "Wuhste mahbah."
    The Papuan words attached to this song barely make any sense.
    These songs, which have a few dozen bars of introduction on the piano, are entirely from the composer's imagination, inspired by the short Papuan melodies and words."
    [...]
    Yasushi Akutagawa cannot be called a songwriter. Rather, it is his orchestral works that form his world, and his song works are limited to the "Shajin-shū" and "Songs of the Native Tribes on the Island of Papua" included in this record. If one were to add to them, his three most naïve works, "Three Songs of Children," (melodies of his own compositions that he sang on his own when he was in kindergarten and later added accompaniment), are all his song works up to the present.
    [...]
    However, the contrasting worlds presented by these two song collections, "Shajin-shū" (1949) and "Papuan Doban no Uta" (50), coincidentally point to the "two worlds"* of Akutagawa's music. Therefore, these two collections of songs cannot be extinguished from the light in the history of Japanese song.
    by Ryosuke Hatanaka from SJK-1049 "Japanese Song Collection Vol. 18: Yasusi Akutagawa / Makoto Moroi" booklet
    [Quoter's note]
    * "two worlds" ... "the ostinato technique," which was handed down from Akira Ifukube, his teacher, and "the world of pure lyricism," which he was born with. Hatanaka's detailed explanation of these two worlds has been omitted for reasons of word count. (The full text is given in the Japanese explanation below.)
     芥川也寸志を歌曲作家と呼ぶことは出来ない。むしろ彼の世界を形成しているのは、オーケストラの作品群であって、歌曲作品は、ここに収められた、歌曲集「車塵集」と「パプア島土蛮の歌」に過ぎない。それに強いて加えれば、彼の最もナイーヴな想いにみちた(幼稚園のころに勝手に歌っていた自作のメロディーに後年伴奏を附したもの)「三つの子供の歌」の三作品が、現在まで、彼の歌曲作品のすべてである。
     彼は一般的には、オスティナートの作曲家であるかのように考えられている面がある。それは「オスティナータ・シンフォニカ」(67)や、「コンチェルト・オスティナート」(69)、「オスティナータ・シンフォニカ’70」(67年の改作)などのように、オスティナート(ひとつのリズム・パターンを執拗に繰り返しつづける方法、これによってひとつの土俗的ヴァイタリティの表出が可能となる)技法が、意識的にオーケストラ作品に用いられているからでもあり、これは伊福部昭のレコード(SJK-1041)の解説でふれておいたことでもあるが、芥川が、伊福部昭から受けた影響は、あまりにも鮮烈であったということが出来よう。
     このオスティナートの技法に対して、芥川は、生来持って生れた純粋な抒情の世界を対応させる。それは前述の、彼が幼稚園のころ、「キンダーブック」にのっていた浜田広介の童詩に即興的にメロディをつけて、みんなにひろめたという「三つの子供の歌」が、そこに潜在する。「われながら傑作だと思ったのでしょうね。音楽学校を卒業するまで覚えていたんですよ。ぼくにとっては非常に記念になるから、伴奏をつけて出版したんですけれどね」と、後年彼は秋山邦晴に語っているように、〈うた〉に対する郷愁は、彼の抒情の奥深くに眠っている筈である。龍之介を父に持ち、文学座をはじめ、日本の演劇史上に大きな役割を果たしている比呂志、そして戦争で若くしてその命を絶ったフランス語を学んでいた多加志(彼は、この三つの違いの兄、多加志から一番影響を受けた)という二人の兄たちは何れも〈ことば〉に対する、鋭い感受性と、思考力を持っていた筈である。
     彼が、書くべくして歌曲を書かなかったのは、むしろ〈ことば〉に対しての感受性が鋭敏でありすぎたからかもしれない。詩としてすぐれた作品は、それゆえ〈ことば〉の中に世界を完結させている筈である。そこに音楽の入り込む余地のないまでに完璧なことばの世界を創り上げてしまったものに、どうして音楽が必要なのだろう--という考え方。もちろん、そのために、音楽は詩に附随する必要はない。たとえばリルケとヒンデミットが成し遂げたように、お互いが全く異なった立場で照射し合うことによって、別の世界を創り上げた《マリアの生涯》などという名歌曲集もあるわけだけれども、少くとも、芥川也寸志という作曲家にとって、歌曲としての〈ことば〉は、彼の本質の中に抒情の世界が潜んでいるにも拘わらず、必要ではなかったということになるのであろう。
     しかしこのたった二つの歌曲集「車塵集」(49)、と「パプア島土蛮の歌」(50)が示している対照的な世界は、芥川音楽の〈二つの世界〉を、偶然にも指し示しているといえよう。それゆえに、この二つの歌曲集は、日本の歌曲の歴史の中で、その光を消すことは出来ない。
     彼が語った幼児期の想い出に、この二つの世界を指向するエピソオドがある。彼が2歳か3歳のころ、毎日のように聴いていたのがストラヴィンスキーの〈火の鳥〉だった。もちろん、そのころ、その音楽が〈火の鳥〉だとは知る由もなく次兄の多加志たちと「アマゾンだ、アマゾンだ」と呼んでいたという。アマゾン探検のスリルみたいなものを感じていたのであろう。「アマゾン河をきこうよ」というのが合言葉だったらしい。〈火の鳥〉の “子守歌” などは、幼稚園に行くころには大きな声で、そのメロディを歌っていたそうである。
     リズムとメロディが示す、ドラマティックなものとスタティックなものの出逢いが、既にそこには潜在的に芽生えており、それが、この二つの歌曲集において顕在したと考える事も出来よう。
              *
    ・・・「パプア島土蛮の歌」は、作曲者自身の言葉を借りよう。
     「パプアの人々は、マンブルウやサグウの木には、それぞれ死んだ人間の魂が宿っているという、古くからの云伝えを信じている。そして、それらの木をくり抜いて作った “ミタロ” を神として拝む風習がある。
     「死霊の歌」の動機をなす旋律は、そのとき彼等によって吟じられるものである。
     「歓喜の歌」は、二つのそれぞれ独立した祭の歌「ヤンマ・ヤンマ」と「ウウステマアバア」の組合せによって作られた。
     この曲につけられているパプアの言葉は、殆ど意味をなしていない。
     ピアノによる数十小節のIntroductionをもつこれらの歌は、短いパプアの旋律と言葉に刺戟された、全く作曲者の想像の世界から創られたものである。」
              *
     芥川也寸志の歌曲を語るとき、もうひとつ忘れてならない作品がある。それは大江健三郎の原作によるオペラ「暗い鏡」である。60年のこの作品は、67年にTVのためのオペラ「ヒロシマのオルフェ」に改作されることとなる。原爆をテーマにした “核時代の想像力” と、“行動” のオペラは視聴者に激しい衝撃を与え、彼の言葉に対する鋭いリアクションを明確なものにしている。このフィルムはヨーロッパでも放映され、68年の夏ザルツブルグの音楽祭でばったり顔を合わせた、ベルリン音楽大学の声楽主任教授のドクター・ブラウアー教授は、興奮してこの作品のことを私に語ったものだった。
     大きなオペラを書ける能力を持っている作曲家として、第一に芥川也寸志は挙げられなければならないに拘わらず、其後の彼の作品に声楽曲のないのはあまりにも淋しいと云わねばならない。
    (畑中良輔、SJK-1049『日本歌曲全集18: 芥川也寸志/諸井誠作品集』解説書より)

КОМЕНТАРІ • 2

  • @Tortoise443
    @Tortoise443 2 роки тому

    Thank you so much for these rare pieces by Akutagawa

  • @tomaccino
    @tomaccino 2 роки тому

    Beautiful!