【ゆっくり解説】北伐に関する一考察(陳倉の戦い第三次北伐篇)
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- Опубліковано 8 лют 2025
- 今回は蜀軍の兵站考察から陳倉での攻城戦経由第三部北伐までです。
解説 :パチュリー
曹叡 :橙
郝昭 :リグル
曹真 :レティ
張郃 :慧音
諸葛亮 :映姫
陳式 :にとり
コメントは承認制です。
■次回
武将能力(鄭問之三國誌)篇
• 【ゆっくり解説】武将能力(鄭問之三國誌)に関...
■前回(何故陳倉に千人しかいなかったのか篇)
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現場猫さんの使い方が適切すぎて...よしっ!
安定の面白さ&判り易さで、過去動画も何度も見てしまいます。ゆっくり解説では随一かも。次回がとても楽しみです。
相変わらず、ずば抜けて深い考察で面白い
正史を見るとまた印象違うのも面白い
動画アップ、ありがとうございます。心待ちにしていました。楽しみです。
蜀兵にはこれだけの運搬能力がありながら、なぜ街亭に登るときだけは水を置いてきてしまったのか。
司令官が馬謖だったからです・・それだけです・・。
人があり、道具があっても
目的にあわないモノ(者と物)であったなら
運べないのです=使えないのです
水に関しては水脈や雨による現地調達が可能と考えたのでしょう。ただ、雨は不確定要素であり水脈は絶ちきられる恐れが有ることを軽視した結果。
逆に考えると、「水の調達方法が特殊なのが蜀の兵站の肝で、街亭においてだけはそれが通用しなかった」結果が馬謖なのかも
hmori0622
水と糧食は重さが全然違うし、無理では?
29:21 「征西車騎将軍」の響きめっちゃかっこいいですよね(興奮)
明代の流賊でも総員の8~9割は「老営」という補給・輸送部隊だったそうなので、山道に基地つくりまくってバケツリレーの要領で前線に補給をしてたんじゃないでしょうか?夷陵と違って後ろを取られる心配も少ないわけですし。
横山三国志のここの孔明とかく昭の戦いの激しい応酬がコント並に凄くテンポ良かった記憶がある。
テンポの鬼 横山光輝
張コウの目的は「保険」では?
つまり一般論として蜀軍は陳倉に長居できないけど絶対とは言えないし、万一落城すれば、長安方面で現地調達し始めたり厄介なことになる。
それなら間に合わない援軍に行くより、留守の漢中を襲って、蜀本国との連携を遮断してしまえば、横綱と張コウに挟まれた孔明は長安方面に長居できないだろうし、当初の予想通り蜀軍が早期に撤退すれば、別に無理する必要も無いので上庸方面に撤退すればいい、少なくともイヤガラセくらいにはなるだろう・・・というものです。
今回の戦いが深刻な事態に陥るとすれば、それは陳倉が落城したり長期戦の様相を呈した時だけ、と魏では考えていたのではないかと思います。だから張コウは遅れてもいいし、予想通り蜀軍は撤退したので、特に何もせずに帰ったのだとすれば、張コウの発言の矛盾は説明できると思います。
何気に三国志で降伏勧告といった威圧的な要求を伝える使者は、首が飛ばされるかボロ雑巾にされる事が多いのに丁重に返すかく昭がカッコいい。
こうして見ると正史の諸葛亮って演技とは違う化物じみた能力を持ってるんだなぁって思います
このシリーズ見返してて思うんだけど、5回も北伐やって過労と合わせ技でやっと死んだ諸葛亮実は超健康説。
ケンプファーのチェーンマイン
って急に出てきてもここの視聴者なら分かる人多そうw
第一次北伐で敗北してから第三次北伐終了までは官位的に諸葛亮って李厳とかより低いはずなんだけど
丞相府はそのままでやりたい放題できているから諸葛亮の内を固める能力ってとんでもないよね
何万人もデス・ストランディングみたいなことしてたと思うと、蜀軍やべえですね。
歩荷さんでも夏山とかならともかく、冬で30日続けてとなると無茶やで。
とにかく大部分の人数が物資を道中に置きまくっては往復する部隊で、戦闘部隊は速やかに通過したんじゃないでしょうか。
その采配が孔明の行政家としての腕の見せ所で、曹叡、曹真の意表を突いたが、実戦部隊の数は少なかった。
攻城兵器の充実も兵の少なさをカバーするためだった…
城を奪って拠点化できれば、補給部隊も戦闘に復帰させることができた…
しかし300キロ、仙台東京間、東京名古屋間の山岳地帯。
現代の行政組織をもってしても、手配だけでも相当に大変そうです。
そりゃ司馬懿も、おそるべし諸葛亮、となったでしょうね。
確かに、部隊の大半が補給に従事するなら、この作戦もそれほど無理ではないですね。戦闘部隊も補給部隊もすごい重労働には違いないが。
まず、敵が補給線を切りに来る恐れはほとんどない。重い攻城兵器などは、夏場から運び始めて中継基地に保管できる。
作戦期間中の食糧は補給部隊に任せればよく、戦闘部隊が所持する必要はない。帰路の食料は中継基地に保管すれば済む。
軍事行動を兵站が支える、典型的な例かも。
待っとったで 第二チャンネルも楽しみにしとるで
相撲解説風にすると面白いな、やはり三方面作戦の大相撲編は秀逸だ。
たしかにあんなタイミングで張郃軍が漢中に出現したら、帝都大パニック必至。
相変わらずおもしろかったです。勉強になるなぁ。
ケンプファーだのATフィールドだの年齢が察せられるなぁ
お疲れ様です。毎回楽しみに待ってます。
この瞬間を待ってた!
孔明は、密かに日本の兵糧丸みたいな軽くて高カロリーなものを開発していた可能性は・・ないか。
山小屋に100kgの荷物を毎日届ける歩荷さんとかいうのを思い出した
兵数や戦闘日数とかの数字はこの手の書物のお約束で大げさに書かれていたとしても、
戦闘に持って行けたこと自体でも驚きですよねぇ…。
本当にどうやったんだろう?
日数に関しては実際これぐらい長引いたと思います。
大兵力が揃った状態でではないですが
第二次世界大戦に兵隊として参加していた祖父に昔50キロくらいの荷物を背負い行軍したと聞きましたので、案外ありえるのかもしれませんね、因みに祖父は中国戦線で戦っていました
待ってました!
古来より「兵糧を運搬しようとすると、運搬のために兵糧が消える」は大問題ですね。
そこで夷陵の戦いで考えて、途中に補給基地が多数あり、その間は兵装無しの運搬兵が運搬していた、と考えます。
というかでもなければ無理。
インパール作戦でも各自5,60kg背負うことが前提だったから、継続的にはそこらが限界でしょうけど、補給基地の間のみで武装無しならもっと行けそうです。
攻城戦で腐った動物の死体とか投げ入れて病気はやらせるのが常套手段で、そういうのがあって攻城中は耐えられても伝染病にやられるとかあるのかな?
帰りの食料については、道に補給基地作って守備兵つけて守っておけばいいのでは。あのあたりには川も陸遜もいないので。
陸遜が只の放火魔扱いで草
お疲れ様でした。ついに次回は「孫権皇帝即位」ですか。
有力豪族の集まりの形の呉にとって孫権を皇帝という絶対無二の存在にする(=独断で中央集権化可能な国家になる)ことは個人的には「悪手」でしかなかったのではないかと思っているのですが、その辺りうp主さんがどう考えているのか、楽しみにしています。
主の説に完全同意です
孔明は『失敗したら責任を取る』といういう正々堂々とした信念(これに嘘はない)と同時に
逆に多少強引でも『理論上失敗でなければセーフ』という見た目の形作りはやっていたと思われますね
野球でペナントレースの態勢も決まった後に、9勝11敗ぐらいの投手が来季の年某査定のため「せめて星を五分(11勝11敗)」にするためちょこちょこっと(名目上の)勝ちを拾いに行く感じでしょうか笑
10勝10敗の投手はいらない(迫真
@@ka00014 先発の駒が足りないチームにとってはシーズン通してゲームを作れる投手は貴重です。実際Bクラスのチームならその位の成績の投手が先発の2~3番手になってます
でも「10勝しても10敗する投手は要らない」って言ったの、ビリのチームのフロントなんだよなぁ・・・。
縄連石磨って機動隊が浅間山で使ったようなのをイメージしましたね。城壁から吊るしたりして守城兵器として使う感じ。
陳寿や司馬懿にそれほど戦巧者じゃないと言われていたのに、武廟十哲に選出した唐代の人センスいい。
次回も楽しみにしてます。
南極のペンギンみたいに大勢で固まる…つまり押しくらまんじゅうですな。人数集まればそれだけで保温性は高まるそうです。
外側の人は寒いとかの不公平はどう解決したかはわかりませんが(笑)
高山で練習すると心肺機能あがる理論で 蜀の土地柄でみんなアフリカ人みたいな体力なんじゃね?
乙です。
蜀軍って本当、バーサーカーじゃないかと思うほどの行軍してますよね。
道もない真冬の山岳地帯。脱落する兵士だっていたはずなのに、この後
攻撃する力もあったなんて。どういう集中力と体力してんだ??
しかも、ほぼ人力でしょうからね。
魏に騎兵、呉に水軍がいる様に蜀は国民全員が登山家って事か
馬謖「そこに山があるから」
馬謖「クセになってんだ 山登るの」
動画見て何となく関東軍を思い出した
戦争続けるための成果を上げて予算獲得したい戦争みたいな
待ってたぜ
ハンニバルとかその弟・ハシュドュルバルのアルプス越えとかは参考になるかもしれない
>そこで動画が終わったと思って帰った人が相当居ましたけど
終わってなかったんですか?
それはともかく正史は当然の権利のように矛盾した記録があるから読んでて辛いですよね
動画助かります
100キロの荷物ですか‥無理ですよね。富士山の剛力の人がそれくらい担いでたと記憶してますが、超軽装で本人の荷物なんて全然無さそうでした。苦労なんてレベルじゃないと思うんですが、蜀軍は一体どうやっていたのか?
うぽつです。今回のも解り易く且つ面白かったです。曹真 役のレティの王双のネタも、ちゃんと拾われていたのも良かったです(^ ^
にしても出番の多さの割に台詞が全然 無い映姫が何とも(^ ^;
しかし、コメントを承認制にしているそうなので読んでもらえているか微妙ですが、大真面目な話として、おそれながら回を重ねる度に動画内容が刺々しくなっていっている気がしなくもないので、
入門編的として良さげな、れーしチャンネルさん やいおた さん(あと一応、しかかく さん)とか
情緒的な感じが強めな、孔明の歴史解説さん等の
東方キャラによるドラマパート等を交えたタイプの他の ゆっくり解説者さんとコラボでもして、他の人の価値観へ本格的に触れてみるのも良いかと……
魏と蜀では武都・陰平の戦略的重要度がかなり違うのでは?
魏は無くても困らないけど蜀はここを抑えれば漢中まで繋がる防衛ラインが構築されるし
つまり、蜀兵は馬謖以外も登山家(ガチ)だったわけだ
なお秦嶺山脈の海抜は2000~3000mらしい(最高峰は、富士山よりちょっとだけ低いみたい)
解説にはなかったけど(見逃してたらゴメンナサイ)、空気も薄いのでチャレンジする人は気を付けるべき。
順番逆にしてまず交渉前から穴攻め、同時に攻城塔で弓兵を牽制して
火矢を撃てない状況にしてから梯子車と破城槌を向かわせて最後に降伏勧告しよう(提案)
事実として、人間は峻険な山岳路を100kgの荷物を背負って30kmは確実に歩けます。
もちろん多少の訓練をすればという話ですが、毎日実働7時間で険しい山を30km全く問題なく歩けるそうです。
私の知人は数年前まで山小屋や山荘に荷物を運ぶ歩荷やポーターという仕事をしていました。
彼は登山シーズンの半年間、地図上の距離で往復15kmを毎日2往復30km歩いて物資を輸送していたそうです。
輸送重量は80kg程度なら余裕。
最大充填されたプロパンガスのボンベは100kg。
最大で120kgを超える事も珍しくないそうです。
登山道は当然未舗装でハイキングコースなどではなく、相応の装備と登山経験がない素人さんが舐めてかかると結構簡単に遭難したり救助要請したりするレベルの行程だそうです。
物資が滞れば山小屋や山荘が困るので天候や体調に関係なく毎日運ぶ必要があるのだとか。
なので、人間は100kgの荷物を毎日30km険しい山道を天候に関係なく輸送する事は可能だそうです。
また、ヒマラヤのポーターとして有名なシェルパ族は、寒冷で空気が薄い高山で同様の仕事に従事しています。
なので、先述の知人曰く「秦嶺山脈でも100kg 30kmなら毎日輸送可能だろう」との事でした。
もちろん輸送だけという話で、兵隊と兼務するのは別問題だそうです。
youtubeは時々こういう貴重な意見を見かけるので、コメ欄を見てしまうんですよね~
大切な点が抜け落ちていましたので補足します。
歩荷をしていた知人は夏場の登山シーズンの話です。
冬場は山小屋も登山道も閉鎖されますので仕事はしません。
雪道や凍結路では、大量の物資を人力で輸送するのは困難でしょう。
つまり、私が言わんとする意図は、冬場の山岳地帯を戦闘部隊に帯同して補給部隊が移動するのは無理なのでは?
という事です。
蜀軍は、あらかじめ夏場などにある程度の輸送をしておいて要所要所の拠点に物資を備蓄してあった筈です。
冬場の作戦行動時には備蓄されていた物資を使い、あとは輜重隊が後方から必要最低限の補充をしたのだと思います。
江戸時代だけど、米俵担げて一人前だっていうからなあ。米俵=60kg。
米俵5つ担いでる女性の写真もあるとか
アナ「えー放送席、放送席、横綱諸葛亮を破りました殊勲の郝昭関です、おめでとうございます!」
郝昭「ありがとうございます」
アナ「素晴らしい守りでしたが?」
郝昭「普段から準備してることが実りました」
アナ「解説の曹真親方もいい戦いだったと言っていました」
郝昭「ごっつぁんです」
(*´Д`)ㇵァㇵァ、と試合直後の荒い息である事はあえて省略されています
なお場所後に怪我が発表されて引退する模様
@@midoren この世から引退してしまうんやな。
郝昭『ごっつぁ・・・うっ胸が!』
荷物が重いと使用カロリーも増えるので、100kgのごはんを担いで歩いてもロスが多い感じがします。バランスがあるんでしょうね。
ひもじい思いをしても荷物を軽くした方が効率的でしょうか。
まず荷物が無かったとしても真冬の山道を300キロも400キロも歩くのは相当きついぞ…
なのに大した不満も違反もないって蜀漢兵はサイボーグ集団かなにか?
ほんの半世紀前まで自分の体重くらいの荷物を担ぐ行商のおばちゃんが日本各地にたくさんいた
それより遥かに昔、鉄道も道路もリヤカーも無い古代中国なら同じような事が出来てもおかしくないはず。
おばちゃんが担げて況や壮年男性をや。昔の人の根性ってすごいなあ栄養状態も違うのに
某紅茶好き元帥も、負け戦で活躍して英雄と呼ばれることが多かったな。
今更ですが、縄連石磨ってボーラーみたいなものでは?
キングダムオブヘブンかなんかでも投石機で飛ばしてたような記憶が
諸葛孔明の戦略が意外とサラリーマン臭くて笑った。
ぴょんぴょんしている「まんじゅうたち」の速度が心地よい
蜀軍は「手押し車」以外にも、運搬用の秘密道具を使っていたのかもしてませんね
飢えたるものはいつも問い、答えの中にはいつも罠…
Not even justice,I want to get TRUTH!
何故にと問う。故にと答える。
だが、人が言葉を得てより以来、問いに見合う答えなどないのだ。
問いが剣か、答えが盾か。果てしない撃ち合いに散る火花。
その瞬間に刻まれる影にこそ、真実が潜む。
蜀兵パーフェクトソルジャー説
兵法書丸暗記ストの馬謖が率いると、優秀な蜀軍も水源が無い山に登る「陳倉団」になった訳で・・
武器類は一切持たず、兵たちの分の食料のみを運ぶ輜重部隊がいたのかな?
数日分は兵に渡しておいて多少遅れてもいいので手押し車とかで後に続くとか。
曹真が出てくると確実に相撲になる
陳倉落としても防衛もは難しくないかなぁ。
ここが落とせれば祁山含む西は切り取れるだろうけども。
陳倉は補給場所としても重要ではあるものの最前線とほ言いにくい。ここを攻めるのは諸葛孔明の奇策と言えるんじゃないかなぁ。
このあと晋Vs蜀で同じことされて蜀が敗北してるから人材の差は如何ともしがたいね
寿命が50歳の世界で無理すると、40歳前でも死ぬんだろうなあ
桟道を通ってる途中で、崖から落ちて死亡した蜀の将軍とかいないのかな。
陳倉の戦い、勝った郝昭さんは敢闘技能殊勲のカクショウを独占。
なお戦後、
郝昭「皇爺(おやじ)さん…燃え尽きたよ、真っ白に…」→逝去。
(シナでは「爺」は「偉大な」という意味も持つ)
曹叡「立て!立つんだ、ショー!(涙)」
という切ない結末が…
いくら気合を出しても無理な数値に見えるのですが、現地の住民を徴発するなり、敵兵を使うなり、食糧兼用にするなりせんときついと思うのですが、劉邦もお弁当兼用の住民を使っていたという話がありますがどうでしょうかね。一人つぶせば30人は一日食えますけど
そういえば,孔子も人肉食ってたって言いますし。麻婆豆腐作ってて思うんですけど本当に上手に作ると牛豚鳥どれを使っても肉の違いが判らないように調理できますから、意外と普通に食ってたんじゃないかなって思たことあります
ほ、ほら日がたつほど荷物は軽くなるから
(視線そらし)
死んだ人の手持ちの食料で
まだ持つから
(震え声)
兵士全員がベアグリルスなら問題なく行軍できる!
実際、山に荷揚げする歩荷の人は100kgを担いで登る。生まれながらに高山で暮らしている蜀の人なら出来るのかも?
聞けば聞くほどに
陳倉に到着しただけでも
凄いですね(°_°)
わかりやすい向こう正面の人
山道を整備してたんかな?と思ったけど魏も警戒はしてる筈だよね
今回の話も含めて行軍の話を突き詰めると、どう考えても物理的に無理だろとは思う。
正史の記述に誤りがあるのか、或いは漏れがあるのか…蜀兵が超人揃いでも作戦自体が無謀なイメージが。
武都・陰平の推察はブラウ作戦に失敗してスターリングラードに固執したヒトラーの発想に通じるね。
農民にとっては魏蜀呉のどれがまだマシだったんだろう
呉?
横山三國志でも、「あれ?3回目の北伐っていつあったの」状態だったな。
憶測の域しか出ませんが、もし、漢中から陳倉を攻めに行った数万の蜀軍の行軍が早い理由の一つは兵卒の甲冑が皮+骨+鉄(=鐵)を組み合わせた鎧、もしくは皮革製の鎧(要するに皮の鎧)を装着して将軍級の武将は小さな金属片の板を組み合わせた青銅製の鎧を着てから攻城部隊、背後にはその攻城戦で必要な衝車や雲梯などを運ぶ運搬部隊などに分けて行軍したのではないでしょうか?
確かに兵一人当たり最低1キロの食料と水は必要です、然し乍らその食料と水を担いでから行軍したら主戦場に着いた途端疲弊するのは明白です、故に先だって言った通りに分けて行軍したとしたらどうでしょうか?
もう一つは・・・普段から鍛錬に何十里も歩かせているとか( ´艸`)
蜀軍見てたらインパール作戦がなぜ失敗したかわからなくなる不思議
インパールではロジを机上で考えただけで、作戦行動中の全期間全行程できちんと遂行するだけの人材も資機材も用意せず、必要最低限の事前調練もしなかったから。
@@深海魚-o1i 司令官の人望とかもあるのではなかろうか。
同じ敗北でも、司令官が責任を取る姿勢、普段からの姿勢が異なっていたら評価は違ったかもしれない。
牟田口は精神論的なとこが強かったみたいだし。
インパール作戦の不思議なところは、当初インド方面侵攻に現地部隊の補給が困難としていた牟田口が、なぜ強烈な賛成側に回ったこと、あれだけ多くの参謀、関係者が懸念していたのに実行されたかやね。まあ、なあなあになってたんやろなって気はする。
@@msh7149 インパール作戦に関しては攻撃に成功為うる可能性があったからとしか…そもそもインパール作戦自体は大陸打通作戦の陽動としての一面がありましたし、道自体はインパールにもありましたから。
牟田口氏が無能と言うより現地のイギリス軍の対応力の高さと日本の現地指揮官の意見と作戦計画が割れていたから絶望的な撤退戦になったのではと愚考します。
そもそもインパール作戦の行軍時はほぼ攻撃を受けなかったので…
別動画でもコメントしたけど蜀軍はおそらく物資運搬用の人間を兵士とは別に用意していて、その運搬要員を生きて祖国に帰さず持たせた物資を消費し終えたら殺し続けて補給を維持していたんだと思う。だから終盤で水を運ぶことができなかったんじゃないかなだって運ぶ人間は殺したんだし
う~ん、張コウの行動は何なんだろうね。
陳倉攻撃中に張コウが漢中に向かっていることを知り撤退→張コウが漢中に着陣するも陳式がいた&諸葛亮が戻ってくるので敵中孤立を恐れ撤退→第三次北伐
って流れなのかな???
王平
「馬謖!生きていたのか?」
馬謖
「残念だったな!トリックだよ」
漢中という同じ地名の場所がちんそうの近くにあったというのが答えでしょう歴史ではよくある
陳倉に敵襲ありの報が洛陽に届いてから荊州の張コウを洛陽に召喚、救援の指示を出している訳で、
張コウが荊州に戻って動員掛けて物資を集めて船や人を手配しはじめた頃にはもう蜀軍は陳倉から撤退してる。
そこで漢中に行くのは中止になったけど、皇帝が指示してそれを遂行中だったんだし功無しとするのも無駄足踏ませたとするのもアレだしってことで一応、
みたいな感じではないかな。
また予想以上に蜀軍が陳倉で粘ったり、陳倉が陥とされた場合には漢中を攻撃することで蜀軍本体が漢中へ急行することになり、陳倉救援や奪還のための強力な支援になる。
上手くすれば漢中奪取もあるうえに、そこまで行かずとも以降蜀は攻勢に出る間も漢中防衛に今まで以上に兵を置くことになる。
地図上では襄陽から漢水を遡れば漢中に行けるが、実際にそのルートを進軍した話もあまり聞かないので、秦嶺山脈越え以上に困難なルートなのかもしれないが、
魏に余力があるなら試してみたい一手ではあると思う。
横綱最後の土俵入り漢中攻略作戦と張コウの話がかぶっているとか?
王双の想像図に吹いたwww
ゲームでは武力が高くて魏のエースなんですけどね(´・ω・)
街道だったら一時間で5km移動できるが、山道だったら二時間かかったね
岩や倒木、土砂崩れなどを超えたり、砂利だらけで滑りやすかったり、沢から尾根へ登ったり、とにかく人の作った道と違って障害が多い
進行ルートに雑草が生い茂って進めないので、脇の公共施設の柵をよじ登り迂回して通過することもあった
食糧問題に対して山中の猟のコメントが多いが,獲るのも大変だし,その後食料化するのにもものすごく手間がかかる
血抜きと解体(最低でも内臓摘出)を清潔な環境で行わないとあっという間に傷んで食べれたものでは無くなる
しかも清潔な水を大量に使う
狩猟自体も,最近イノシシやシカが異常発生している関西地方の山でも,車・猟犬・銃を使用して1日掛かりで何とか収穫があるかというレベル(猟友会の方曰く)
こんな事を行軍と並行して出来たんだろうか?(独立した部隊がいたなら可能かもしれんが,それは軍の一部ではなく只の猟師だ)
「ちょっとびっくりさせたかった」で笑いました。いい動画です。字幕の文字がもう少し大きいと見やすいと思います。
食料などの消費物は消費しただけ減るので、
荷物は徐々に軽くなる点を考慮すると計算がかなり変わってくるような
はじめからこうやって地道に陣地を広げていけばいいのでは?と思ってしまう。祁山にも近いからそれなりに攻めるのに役立つだろうし。
キナバル登山の(ボルネオの4000M)ポーターで20Kは苦も無く担いで 中間点のラバンラタまで全力で行けば3時間で往復可能
今日はラバンラタ泊ってくのと聞いたら、わざわざ家に帰るとかかなりおかしなことやっとった。
秦嶺山脈のどの辺りまでが両国の勢力であるかも問題かも
上方谷みたいな補給拠点がどこにどう作られてるかによるね
相当数の賦役を使って全力で行軍路を確保した蜀軍と違って張郃は普通に山越えを失敗してたのを蜀軍撤退の功労者にしてミスを隠した説!・・・ほら、漢中への逆ルートって呪われてるみたいに失敗するイメージあるじゃないですか(震え声)
蜀が秦嶺山脈を超えられるなら魏もやろうと思えばできるんやなって
"普通は"やらないし、考えもしない事なのでは…
この直後にやる15年後にもやる32年後についに成功する
燐隊長「極地法など登山家の恥だ❗」。
ハンニバルが16年間も敵地イタリアで、本国からの補給もほとんどなく戦い続けれた謎程ではありませんが、この時の蜀軍の補給も謎の宝庫ですね。木牛流馬も、この時にはまだ使用されてませんし・・。陳倉の戦いの蜀軍の兵力は数万とありますが、この数字自体が「大本営発表」の可能性が高い気がします。この北伐が、石亭の戦いでの魏軍の惨敗を知った孔明が急遽決断したもので、食糧の準備も不十分でしたし、純粋な戦闘員だけで数万というわけではなく、戦闘員が1万位で、あとは補給人員と漢中の防備の兵力で、それを「戦闘員数万」と思わせるように称したのではないか?流石に100キロ近い荷を戦闘員に背負わせて行軍(それも秦嶺山脈を)は無理がありすぎますし・・。張郃が漢中の南鄭に向かったという記述も、孔明が漢中に防備と陳倉の戦闘員への補給のための兵力を残していたので、漢中へ攻め込むのは実行せず、蜀軍への牽制に留めたのでは?
人は流れにさからい そして力尽きて流される 蜀漢もしかり
尾瀬ッターランドの歩荷は120キロの荷物を運ぶらしいが
なんで蜀軍は矢倉以外の攻城兵器を失った時点で火矢を使わなかったんだろう?
それに、攻めきれないと判断したのなら食料に余力のある状況で撤退の振りをして、追撃してきた魏軍を撤退する振りで隠した軍で攻撃するとかやり方はいろいろあった気がするのだが……数十倍の敵相手に降伏勧告をいきなり蹴ってきた敵将なら、引けば追撃してくる可能性も高いと予測もできそうなもんだけどなぁ。
城壁は無機質なもので作られているでしょうし、城壁のすぐに燃えて困るようなものを設置しないかと。そのため火矢に戦術的な利点が少ないように思います。
23:55
???「極地法など登山家の恥だ!!」
お、ゴルゴ
考察部分でいうと、推定重量が甘いと思います。
食糧に関しては、当時の食事制度を考えればもっと粗食だと思います。
せいぜい、2000㎉でしょう。であれば、ざっくり600g。
行軍速度が16キロの三割減ということで10キロということですが、これも甘いと思います。
中世ヨーロッパは傭兵進軍が基本なため、行軍速度は極めて遅いです。
蜀の異常な常備軍体制(に近くなっているもの)を考えれば普通に20キロは出ると思われます(重量減衰を入れても)
であれば、計算式はこうなります。
0.6×(300/20)×2+0.6×20+武器などで、30キロ+武器などになります。
また、現地での狩りも並行していたと思われ、食糧は更にもう少し少ないかもしれません。
さらに帰りの15キロ分に関しては、漢中方面から絶えず食料を運搬する専門部隊を出していれば、本当はもっと少なくてもいいかもしれません。(最悪、漢中が見える範囲まで来れれば、1食なしとかは十分あります。曹操とかもやってた)
(追記:蜀軍が数万の規模でというのは、いつも思うが、輸送に従事する輸送兵がカウントされてるんじゃないかとは、個人的感想)
また、武器装備に関しては輸送専門部隊がいたと想定されますが、いちおう普通に20キロ足したとします。
これで50キロ。全然ありだと思います。
(追記:そもそも、進むごとに食べていけば軽くなりますしね)
友人の競艇選手で、本栖訓練所があったころ、富士山の周りの山岳路を40~50キロ担いで走る訓練があったそうです。友人を貶めるわけではないですが、現代の平時民間人でもこれを2~3日やっています。
であれば、古代の戦争中であれば、あってしかるべきかと。
悲しい話だけど、全員が帰路につけるわけじゃないからって、帰路は0、8掛けて計算、、、、、