【ゆっくり解説】夷陵の戦い(前編)
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- Опубліковано 8 лют 2025
- 歴史的事件を独自の視点で考察するシリーズ。
今回から夷陵の戦い本編開始です。
今回は登場人物多いので、配役一覧表です。
解説:パチュリー
曹丕:藍(兼解説)
劉備:霊夢
張飛:早苗
馮習:きめぇ丸
黄権:魔理沙
陸遜:布都
張達:穣子
范彊:静葉
■次回(中編)
• 【ゆっくり解説】夷陵の戦い(中編)
■前回(漢帝国滅亡後編)
• 【ゆっくり解説】漢帝国滅亡に関する一考察(後編)
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最初に読んだ時は劉備頭ひやせよって思ってました。
新しい考察で新鮮です。
凄く面白いです。子供の頃は単に人物伝としてしか三國志を見れてませんでしたが、政治的、軍事的観点から見直してみるとより一層面白く感じますね!
いやー面白いですねー。考察が鋭くて。
張飛が存命だった時点で馮習が呉討伐軍総司令官だったのであれば馮習に関する謎はさらに深まるね。漢中王推戴の上奏文や皇帝即位の告文にも馮習の名前は一切出て来ないので、兵権を握るほどの人物ではなかったはずなのにこの扱いは謎。蜀陣営No.3の黄権すら指揮下に置いていたのであればなおさら。真実は劉備の責任を回避するために創り出された架空の人物という印象すらある。
非常に面白かったです
三国無双で火計阻止して陸遜大困惑させてたなあ。
朱然を全速力で追っかけてって
ヴン殴ってました(`・ω・´)
真・三國無双2で好きなBGMが流れるです💕🎧🎶
いつも楽しく視聴しています。『資治通鑑』の胡三省の注には「表は張飛(将軍)から奉られるものであって、しかしてそれが張飛を飛び越えて都督から奉られたので、故に張飛の死を知った」とありますね。
実務派で人物起用に定評のある劉備が総大将に抜擢したくらいだから、馮習はかなり有能な武将だったんじゃないかと推測。
多分、魏延か法正クラス、或いはそれ以上の大物だったんじゃなかろうか。
すごい考察ですね!
面白いので劉備の呉攻めの理由は主様の考察通りだと考えることにします!
歴史って楽しい!
仁の人劉備、古い儒の価値観を掲げて看板にしてる蜀だからあそこで敵討ちというお題目を掲げないという選択肢はなかったという側面もあると思います。イデオロギーですね。
強力な軍閥政権を作り上げようとする魏に対する正当性を失ってしまう。
あと、漢中から攻め上がっても長安で止められちゃうんですよね。穀倉地帯は遥か東なので補給線が伸びすぎる。当然この頃も西涼の調略合戦が繰り広げられていてイマイチ打開できていませんでしたし後の北伐はこの補給線の構築合戦ですし。
荊州奪還が必要だった理由はほんといっぱいありますね。
夷陵の戦いの戦略目標は、対孫権ではなく、対魏であったが、曹魏に出兵の口実を与えない為に、いわば偽装として、孫権討伐を名目とした、という説は、目からウロコです。
新しい解釈で、的を射ているような気がします。
思わず、なるほど、と膝を打ちました。
しかし、関羽死亡の引責で劉邦を殺しちゃいましたが、これが地味に効いていますよね。
蜀漢は、諸葛亮を始めとする荊州派の家臣と、元劉璋に仕えていた益州派の家臣による乗り合い所帯でした。
劉備の天下統一なんか割とどうでも良くて対外戦争には消極的で日和見主義の益州派に対して、故郷を離れて劉備と一連托生な荊州派は、それまでは劉備の軍事戦略に忠実で協力的でした。
それが、劉邦処刑で潮目が変わります。
劉邦は、長沙羅県の名族ですから、新野以来、劉備に従っている荊州派の家臣たちも、諸葛亮と並んで、自派閥のリーダー的な人物と見做していました。
そもそも、劉備も、荊州派諸官に配慮して血縁でもない劉邦を、わざわざ養子に迎えた訳ですから……。
これで、荊州派の有力な諸官たちは、劉備に不信感を持ったのだと思います。
なので、劉備は夷陵攻めに、馮習や傅彤を主将クラスとして、連れて行かざるを得なかったのではないでしょうか?
本来なら、向朗、鄧芝、伊籍、蒋琬、費禕、董允、李厳、楊儀……など、能力が高く、荊州出身で地元にコネクションがあり、在地土豪を調略出来る人材が夷陵に従軍していない様子は、いかにも不自然に思います。
因みに、馮習も傅彤も張南も、劉備が新野駐屯時代に現地で募集して掻き集めた人材です。
この時に劉備陣営に加わったメンバーに諸葛亮、龐統、劉邦もいますが……夷陵の戦いには、参加していません。
諸葛亮は、劉備が皇帝親征を行う以上、丞相の自分は、成都の留守を守らなくてはいけない立場ですし、龐統、劉邦は死んじゃってます。
唯一、荊州派の士大夫から従軍した馬良は、能力は高く評価されていましたが、どちらかといえば軍政官で、生粋の作戦参謀ではなく、実戦指揮の経験もありませんでした。
馮習、傅彤、張南は、諸葛亮や龐統のような軍師ではありませんし、劉邦のように家柄が良い訳でもありませんし、霍峻のように私兵を率いていた軍閥の頭領だった訳でもありません。
つまり、元は一兵卒で、どこにも仕官の口もなかった、ただの失業者や無頼の徒だった連中です。
このクラスを主将として、使わなくてはいけない劉備は、さぞや頭が痛かった事でしょうね。
それでも、孫権の統治に不満を持っていた、沙摩柯率いる五渓蛮を調略して、味方に引き入れ、孫権軍を追い詰めたのは、劉備の面目躍如と言えるのかもしれません。
結果的には、陸遜の巧みな縦深防御戦術に、まんまと乗せられていた訳ですが……。
荊州派の士大夫達は、劉邦の処刑で劉備に不信感を持ち、孫権との対魏共闘を戦略目標にしていた為に、夷陵の戦いに反対し、非協力的だったのではないか、と考えます。
諸葛亮は、おそらく劉備の思いを理解していたが、立場上、劉備の行動に全面的には同意出来なかったのかもしれません。
いずれにしても、関羽の死と江陵陥落で荊州での影響力を失った劉備には、夷陵の戦いを含む、その後の展望は、かなり無理ゲーになりつつあったと思います。
劉封の死に原因があるかはわからないが、益州勢は当然として荊州勢の諸将はほとんどが呉攻めに反対か消極的で、積極的だったのがそういう新参の根無し草だけだったんでしょうね
@@chiyatuv7628 もし黄忠や劉封といった荊州にゆかりのある人物が生きていたらもう少し蜀の士気が上がっていただろうし張飛を失うようなこともなかったでしょう。ただそれも蜀全体としては微々たる効果だったのでしょうが。本来は漢中方面の守備に回したかった張飛をわざわざ連れて行かなければならなかったのも一つは蜀軍の決定的な人材不足が影響してるでしょう。
先の樊城の戦いで救援を送らなかったのも、一大決戦の際に劉備自ら出なくとも安心できる将軍の不在&張飛などのエース級を国内から出せないほどギリギリの状態でやっていたことが大きいと思います。
諸葛亮の北伐と同じ人材不足の問題は既に劉備存命の頃から起こってたのでしょう。
劉封の死は俺個人の見解ですが、漢中の戦いと同じ時間軸に上庸地区(益州よりの荊州北部にある土地だったかな?)を後に北伐で活躍する魏から蜀の武将となった王平らと共に同地区を占拠したが、樊城の戦いでから呂蒙、陸遜率いる呉軍に関羽が背後から挟撃されて麦城に逃れて援軍を求めるも
"薪の火を盃で消すが如く"だったかな?、その様な事を言って援軍を出さず、結果関羽は援軍を得る事が出来ず呉軍に捕まり死に至る訳ですけど、一部劉封が下した判断はあながち間違ってはいないけど、やはり目先の事しか考えてない以上劉封の死は良かったと思う
(諸葛亮すら処刑すべきだと進言してるし)
「ガンダム」「北斗の拳」「はじめの一歩」を見てて良かった。
成都と鎌倉は海に面しているという違いはあれど周りを囲われているという点では同じですね。
かつて曹操が徐州を攻めたときと被りますね曹操も親の敵討ちという名目で徐州を攻めた際諸侯たちは援軍を出しませんでしたし、敵討ちは今とは違い正当な大義名分だったのかもしれませんね。曹操は劉備を自分より遅いだけで必ず同じ考えに行き着くと評価してますし関羽の敵討ちはただの題目だという可能性のほうが高い気がします
そして、「関羽の仇討ち」という名目が劉備の伝説を引き立てる
ただの権力闘争であるならばこの時代の抗争もよくある歴史の一幕でしかなかったはず
面白すぎる、毎日見てます
これじゃまるで桃園の三兄弟がヤクザチンピラみたいじゃないですか!
益州はロンダルキアみたいなところは言い得て妙w
癇癪起こした耄碌じじいを装って戦略的に曹丕を出し抜き、孫権を脅かしたまでは良かったけど
戦術で負けて耄碌じじいのまま終わっちゃったって感じだったのかもね
レミリアの孫権役は当たりだなァと思った
面白い考察ですね
荊州奪還が目的なら呉が荊州返すを条件に和睦を持ちかけた時に何故応じ無かったのでしょうか?
落とし所としては最適なはずなのに
関羽の敵討ちを名目に攻めて(隠れ蓑にする位劉備軍は魏と戦うには時期尚早と判断したと推測を付け加えます)尚且つ魏に対抗する勢力が欲しいと考えたなら呉の全土欲しくて頑なに攻めたとも思えますね
こうなると呉討伐に反対した臣下も、本心を悟らせないための演技かもしれないな。
張飛が士大夫に敬意を示すようになったのは徐州の一件で曹豹(州レベルでの前政権の大幹部)とうまくやれなかった反省(というかトラウマ。本人の中ではそんな殊勝な意味ではなく単純に自分の不手際で国を失ったという面子の話だったかもしれない)じゃないかと思うんですよね
張飛がその辺(涿県)のヤンキー出身だったことを考えればこちらは褒めるべきかもしれません
関羽を打つた呂蒙が凄すぎる。
劉邦軍がぼろ負けした時の魏豹を彷彿とさせるな。
個人的には蜀内の派閥的な争いもあったんではと思ってます。
派閥として
①劉備についてきた古参勢(張飛、趙雲)
②荊州の清流派(諸葛亮、馬良)
③旧劉章臣下(黄権、厳顔)
④涼州軍閥(馬超、馬岱)
基本的に張飛と荊州派閥以外は夷陵攻めに反対してます。ですが諸葛亮を筆頭に荊州派は反対してないです。
おそらく内部的に
1.呉を攻める報復戦(張飛等古参)
2.荊州の基盤を取り戻したい(荊州清流派)
3.どちらもしたくない(旧劉章派、涼州軍閥)
で思惑が皆違うが結果的に荊州方面を攻めるのが多数になり劉備が攻め込んだんでは
結局夷陵で負けて旧劉章派の黄権なんかは愛想尽かして魏に行きますが、これは負けたからではなく軍内で自分の発言力があまりに弱くて嫌気が差したんではと思います。実際劉備はこの件に悪態はつかず逆に黄権に詫びているので降りる理由が劉備側にあったのが想像つきます。
曹丕は禅譲直後でとにかく悪評を避けたい
その辺も考えた劉備の動きだろう
今更気づいたんですがよこやん三国志とかでよく大都督って人出てくるんですけど
モノホンの大都督って陸遜だけなんですよね周瑜だって前部大督
法正が生きていれば...
仇討ちの方が魏はともかく呉にまで宣戦布告してしまうから明らかに自ら連衡という墓穴掘って二度と同盟組めなくなるし以降蜀は速攻で滅びる可能性が高くなる
だから感情論の方がのちのちの戦後処理がやりやすいと踏んだのでは無いかと考える事もできますね
あの時は1時の感情で攻めたが関さんの墓が建てれるしうちも持っていた事あるしここで手打ちにして同盟を戻すって事もできるだろうし
想像図怖くて笑いました
おもしろーい。秦の戦場分析も頼んます ( 漫画キングダム・古代中国
シナの歴史なら、(日本の)戦後に展開した国共内戦は?資料は多いし、国際情勢も絡んで割と面白いと思います。
理屈付けするのが史を学ぶ意義でありここのチャンネルの趣旨でもあるが
荊州は大事だし漢王朝復興の足掛かりでもある生命線だが
利益重視の選択で理屈で動いたとするならそもそも蜀自体が大ピンチの時にする行動じゃないのでは
馮習への熱い風評被害が
呉班と廖化は蜀漢で最初から最後の方までいた忠臣なのに無名って・・・
おもしろいんじゃー。
実際は劉備はこうした意図で攻めていたでしょうね、大義名分と本音が違うのは戦争の常で昔からのことです。
曹操は天子の詔を使いまくってたしね
10:28しかもここで無能な人と思われ相手を油断させる三十六計のひとつが使われてた可能性が微レ存
5:30 孔明が反対したのはコンプライアンスや法を重視してたって言うだけなんですかね...
3:34 プロシュート戦のブチャラティかよ
魏に明確に敵対せずに重要ルートを攻める。
なるほど目から鱗。
と同時に、この時代の人って他所の地形とかルートどの程度知ってたんだろう?って疑問が。
後世の我々がグーグルアースとか見ながら「軍隊がこんなとこ通ってしかも補給物資持ってくとか考えられない」って言うのは簡単だけど、当時の人たち(中原の知識人)は基本、
蜀?高祖様の第二の本拠地の奥の方ね。なんか山ばっからしいよ。補給大変?言うて相国様は滞りなく果たしたんだろ。知らんけど。
呉?なんか未開の広い沼地。楚ですらろくに開拓しなかったような僻地オブ僻地。船ないと移動もろくにできないらしい。知らんけど。
くらいの認識よね。地方への赴任経験のある人から話聴いていてもうちょいマシなのかな?それでも写真もなく話に聞くだけでは限界があるよね。
とにかく、現代の人間との知識格差による感覚の違いって実はかなりでかいんじゃないか、と。
劉備は稀なレベルで全国あちこち実地で知ってる人間ではあるけど。
地元民が通れるって言ってたから進軍してみたけど軍隊が馬武器糧秣抱えて通るの無理だった、みたいなことも多々あったのかな。
劉備、ギレンて子とは親コロシテルのかサイテーだな
総大将、エミール君に見えた
その親分だった劉備もかなり曲者だったはず
火を使うから陸遜役は布都なのか
想像図がUMAで草
演技 75万
ウィキ 4〜5万
オイ!
常識的に考えて、ある戦役に動員可能な兵士の数は人口に対して5%が上限と言われているわけで、当時の蜀漢の人口(一説では90万人)から考えると75万とか絶対に有り得んからねぇ。
まあそれは戦記物のお約束というか。
日本も南北朝とか異次元の数字が飛び交ってて面白いですよw
まあ実際に何十万て軍勢なんていたら指揮をするどころか
端から端まで命令を伝達するだけでも大変なことになってたでしょうけどね。
uro san 仮にその90万と75万がホントだったとしてそれが壊滅したらもう蜀は終わり💦
盛るにしても75万は珍しいな。普通は50万か100万だ。
そう考えれば、蜀が絞り出した4万という兵力はほぼ上限に近い訳か…
まぁ、正当化されていたら諸葛亮や趙雲も本体に組み込まれていたはずだから良将を漢中に残せなかったかもしれん。正史では馬超は既に亡くなっているし、魏延、黄忠は最初からいたし。
まあ馮習って典型的なスケープゴート役なんだろうな。皇帝自ら総司令官になると敗戦責任も全部負うことになる一方、劉備としては自分に意見するレベルの将軍が司令官になっても面倒くさい、と。
テルモピュライ
劉備は声東撃西をしたってこと
とても面白い
そして蜀の人材不足‥
ちゃんまー 位置がね...まあ防衛は強かったみたいだけど
最初読んだときは頭おかしくなっちゃったなって哀れみの目で見てました…
<ネタバレ注意>
”敵討ち”という大義名分は魏陣営(曹丕)に対する戦略的な欺瞞工作だった
実際に敵討ちしたいという感情があったにせよ…”魏に対する侵攻ルート確保”という目的を隠蔽する価値は非常に大きなものだったでしょうね…
今は憐れみの目を自分に向けてます
まぁ、両軍遇い戦わせて確実に疲弊したところを叩いて一気に攻略するってのもある。
途中で手を出して戻られては疲弊とまでいかないから。
と思ってたなぁ。
この動画の様な見方があるとは…勉強なった♪(*´-`)
面白い話だけど、流石にないんじゃないかなぁ
もちろん劉備は荊州が喉から手が出るほど欲しかっただろうが、孫権から荊州を武力で奪ったとしてその後の呉との関係をどうするつもりだったんだろう?という疑問が残る
単純な国力差から蜀が単独で魏を倒すのはほぼ不可能、魏を倒すことが劉備の目的なのだとしたら呉とこれ以上揉めるのは得策じゃない
ぷよぷよだったら右側消えてる。
張飛はパワハラの報復で殺されてしまったんだよな
ジャイアン張飛😄
どのみち劉備が皇帝名乗った時点で曹丕は蜀を攻める口実になるんじゃ?
夷陵の戦いの将官って陳到とかいたんだけどやっぱり名前がでてこない・・
大体、関羽が攻めた時に、全軍上げて攻めたら良かったのに。
荊州は、守りの得意な奴に任せてね。
孔明とか、バリバリの関羽以外張飛、趙雲、馬超とかが居る時に攻めないやからね。
仇を打てるなら、関羽だけに攻めさせるのって、おかしいやろ?
孔明って、自分に逆らえる奴が死ぬまで、待ってたんやないの?
関羽のことも、初めからそうなると読んでたんやない?
荊州が手薄になるのは分かってたんやからね。
コバヤシタカセブン殿に同感ですね。結果論ですが、劉備陣営が天下を取るためには、関羽が北進している時に、多少無理をしてでも漢中から軍を推し進めて、三輔を攻略しておくべきでしたね。それが、劉備にとっては最後のチャンスだったかなあ、と考えます。ただし、私たちは、歴史を知っていますから、当時の情勢分析では、ギリギリの判断だったのかもしれませんね。
諸葛亮が意図的に関羽を見殺しにしたという可能性は、どうでしょうか……。
関羽が諸葛亮にとって、無碍に扱えない存在だったのは間違いないと思いますが、どちらかといえば、慎重策が裏目に出たのではないか、と思います。
諸葛亮って、石橋を叩いて渡るタイプで、後に魏延が長安奇襲を具申した時も、それを却下していますが、敵将の司馬懿は、自分なら、魏延と同様の策で長安を攻めただろう……と述懐していますから。
劉備は漢中から引き揚げて成都に戻ったけど、それは長江下って江陵に出る事を考えてたんだと思う。
漢中からそのまま北上しろよって思うかもしれないけど、補給路と退路に致命的な欠陥を抱える蜀の桟道経由して曹操本隊が待ち構える(この頃曹操は敗戦で動揺した長安以西を抑える為に留まってた)関中に攻め込むのは無謀。
しかも漢中は取ったばかりで安定しないどころか、魏に住民ごっそり移住させられて補給拠点としては機能して無かっただろうし。
なので大軍を運用しやすい荊州方面に関羽の後詰と孫権に対しての牽制を兼ねて出るつもりだったんだと思う。
まあ一手及ばず呉に先制されちゃったと。
白帝城から夷陵城まで複数回戦闘はあったらしいがうp主の言うように守備してた武将2名は生還している、何故か?陸遜が蜀軍に対して連戦させて勝利を与えることでの慢心を誘ったわけですな。まぁ正しいかは知らんがドラマ三国志の方ではそういうふうに説明されてる
ええと、早苗が張飛ですか…。
これなんて、アムリッツァ会戦❓
12:40
2フレーム以内
三國無双2で実感したであろう蜀軍の勝ち目の薄さ。劉備は私憤で戦を起こさず、趙雲や諸葛亮の諫めを聞くべきだった
三國無双2がめっちゃ難しかったなぁ
敵兵強いし弓兵も強かった
想像図どうなってるの笑
「死ぬときは一緒」という桃園の誓いは無視?
なんか緑の子 キャラ崩壊してね?
昔書いた通勤経路図を思い出した
三国電鉄😆
でも、この理由だと天下3分のグランドデザインが崩壊しちゃうんだよな…それで孔明は漢中ルート信者だし。それに国力の差がえぐいから2方面攻勢は難しいと思う。
その場合でもやっぱり呉との共同作戦で魏のみ3方面防御にしなきゃまともに戦えない
劉備の戦術眼が優れているなら何度も負けないと思うが。むしろ指揮官としては慎重すぎて臆病であまりにも後方にいたのではないかと。なので負け戦でいち早く逃げ切れたのではないかと。
夷陵の戦いとこれまでの劉備が直接参陣した戦ではメンツと周囲状況が違いすぎる。
夷陵の戦いに参陣した蜀の将軍はほとんどが劉備陣営においては生え抜きで成都漢中に残してある将軍と比べたらどう考えたって二流以下、劉備と完全に息ピッタリに行動するのは難しかっただろうな。
そして皇帝となった以上今までのようにホイホイ前線に出て囚われるなんてことになっては一大事。ゆえに劉備個人は序盤の勝利に驕ることなく慎重な態度に出ていたんだろう。そう考えたらむしろ戦術的にはまあまあ優れている。馬良の動きも考えたら劉備は総攻撃に出るタイミングを計っていたような気がする。しかしそれ以上のイデオロギーや大局的な戦略において呉軍を侮っていたのは否めない。
結果として陸遜はそういう劉備の戦法を見切って勝利をつかんだゆえに、名将と呼ばれた。
黄権が「自分が先に行き、陛下は後から来てください(今回の戦は多分負けるだろうけど、それなら陛下は逃げられるやろ)」って提案したのを一蹴して、黄権を北の魏に対する守りに充ててる(左遷した)。
その時点で劉備は自分が戦う気満々なのはお察し。
ただ劉備は防衛では三国時代でトップクラスの指揮官だろうけど、攻勢ではパッとしない人なんで、自身の危険云々抜きに考えても出張らない方がよかったんじゃないかとも思うが
毎回想像図が適当過ぎて笑う
ja.m.wikipedia.org/wiki/馮習
肖像画というか、像はありましたん
ガルマ=ザビなつい^^
成都から江陵までの行軍距離が400キロで東京から名古屋と言うのは間違い
実際は東京から山口県みたいです…
しかし、考えてみると樊城攻めで魏に味方したのって呉的には悪手だったんだよな。ここで千日手が確定した。
孫権は、荊州が欲しかった。中華を統一する気があったかは謎。関羽が許昌まで行ったら、今度は孫権も危なくなる。ぶっちゃけ隆中策は孫権がお人好しでない限り達成しない。
そもそも呉は、豪族(地域有力者)の寄合という面が強いですからね。
「自分達が、長江や外海の水運を生かした交易で商売出来るなら、中原や天下とかぶっちゃけどうでも良い、長江を荒らして商売の邪魔さえしないなら、曹氏も劉氏も勝手にしてたらええやろ。」
というのが、呉(大半の豪族)の本心のように思う。
散々な目にあってようやく魏に帰還した于禁に
低レベルな嫌がらせした曹否が張飛をサイコパスとか呼べるかねw
うp主の考察通りの流れだと
劉備軍はだれ一人、呉の軍船が川の流れに逆らって高速で走ることを知らなかったということだろ
呉の一番の強みである船の性能さえ把握してないのは、準備不足が過ぎる
つまり結局、劉備は非常に感情的になって準備不足のまま出兵したとしか思えない
劉備が致命傷を負わなかったのはのは孔明のおかげじゃろ?
劉備は過大評価され過ぎなんじゃない?